諸國里人談卷之五 宮川年魚
○宮川年魚(みやかはのあゆ)
勢州山田、宮川の鮎を、年々、五月五日に二尾とりて、柏(かしは)の葉にこれをゝみて、心御柱(しんのみはしら)に備(その[やぶちゃん注:ママ。])ふる也。去年、供(けう[やぶちゃん注:ママ。])したるを、ことし、五月、禁裏へ献(たてまつ)ると也。まさに生(いけ)るがごとし、と云へり。世に端午に「かしは餅」をいはふは、此祭事の学びなりとぞ。六月朔日に氷室(ひむろ)の氷として氷餅〔しみもち〕をいはふに同じ。
[やぶちゃん注:「年魚」生まれて一年以内に死ぬ魚の意で鮎の別名。
「勢州山田宮川」清流で知られ、下流周辺に伊勢神宮がある三重県南部を流れる宮川(みやがわ。総延長九十一キロメートル(同県のみを流れる河川としては最も長い)。神宮式年遷宮の「お白石持行事」に使用する石は、この宮川の河原から採集される。ここに書かれた「五月五日」の鮎奉納神事は「伊勢神宮」公式サイトの年間行事を見ても現在は確認出来ない。なお、「三重県神社庁教化委員会」公式サイト内の『宮本神社「鮎の特殊神饌」』のページに、『伊勢市佐八町(そうちちょう)の宮本神社(宮司羽根宣之)は古くから伝わる特殊な神饌で知られている。御祭神の「天忍穂海人命」は元々漁を生業とされていたが、倭姫命が皇大神宮を伊勢に遷御された時、勅命を受けて宮川の年魚(鮎)を奉納したことから、後に土地の氏神として祀られた。このため宮本神社では、毎年一月上旬の日曜日に斎行される「新年祭」に鮎の「なれずし」をお供えしている』(以下、「なれずし」の古式に則った製法が記されるが、中略する)。『祭典当日、参列者約五十人が見守る中、精進潔斎した当番の六名と、総代二名が整列し、鮎のなれずしを始め』、『十三台の神饌を本殿にお供えした』。『この鮎のなれずし』は『明治維新までは暮れの二十八日に外宮内宮の両宮に奉納されていた。今ではこの宮本神社だけに残されているが、由緒ある貴重な神饌として、
地元の方々の手で、 いつまでも後世に伝えて頂きたい』とあるから、沾涼の記した本行事も江戸時代迄は行われてものと考えられる。
「心御柱(しんのみはしら)」伊勢両宮の神殿の床下中央に建てられた檜の掘立柱の呼称。正式には「正殿心柱」(「皇太神宮儀式帳」)と言い、社殿の中心に立つ故の名(「古事記伝」)であるとするものの、社殿の実用的な支柱でない。しかし、神宮祭祀上、極めて清浄神秘を重んじられる柱として特に「忌柱(いむはしら)」とも称されるという。二十年毎の式年遷宮に当たっては、特別にこの柱の用材を伐採するための木本祭と、これを建てる心御柱祭とが、孰れも夜間の秘儀として執行され、奉仕者も禰宜・大物忌など、特定の神職に限られている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
『世に端午に「かしは餅」をいはふは、此祭事の学びなりとぞ』怪しい。事実だったら、この祭事は現在も残されるべき重要なルーツ(プロトタイプ)であるべきである。
「六月朔日に氷室(ひむろ)の氷として氷餠〔しみもち〕をいはふ」旧暦六月一日、かつての宮中に於いては、冬に出来た氷を貯蔵している氷室から取り出して群臣に賜はる儀式が行われた。民間では正月の餅を凍(し)み餅(寒中に曝して低温乾燥させた餅)にしておいて、この日に炒って食した。そこから六月一日を「氷室の朔日(ついたち)」「氷の朔などとも呼称した。因みに、吉川弘文館随筆大成版は「氷餅」を『水餅』を誤判読している。風習さえも認識していない、話にならない誤りである。]