甲子夜話卷之五 11 神君御花押の事
5-11 神君御花押の事
昔の花押は、人々異體にして、いかにも五雲體の起本を失はざりしが、偃武の御世となりしより、下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり。因て世に其形を德川判と稱す。後水尾帝の御押二樣あり。内一つも正しく德川判なり。當時の主上まで御家の和風に傚ひ玉へば、その以下はさあるべきこと勿論。この一つにても風靡の大なるを見るべしと、林氏話。
■やぶちゃんの呟き
「五雲體」不詳。ウィキの「花押」にある、『江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を』五『種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの』五『分類を踏襲している』、その『分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』とするものを指すか。そのリンク先の説明によれば、「草名体(そうみょうたい)」は草書体に崩したもの、「二合体」は実名二字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化したもの、「一字体」は実名の一字のみを図案化したもの、「別用体」は文字ではない絵などを図案化したものを指し、最後の「明朝体」がまさにここに出た家康のそれで、上下に並行した横線を二本書き、その中間に図案を入れたものを指す。「明朝体」という呼称は明の太祖が、この形式の花押を用いたことに由来するとされ、家康が採用したことから、徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、「徳川判」とも呼ばれたとある。
「起本」基本。
「偃武」「えんぶ」とは、武器を伏せて使わないこと。戦争が熄(や)み、世の中が治まること。「書経」の「周書」の「武成篇」の中の語「王來自商、至于豐。乃偃武修文。」(王、商より來たり、豐に至る。乃(すなは)ち、武を偃(ふ)せて文を修(おさ)む。)に由来し、特に、慶長二十・元和(げんな)元(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」によって、江戸幕府が大坂城主羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、「応仁の乱」(東国にあってはそれ以前の「享徳の乱」)以来、実に百五十年近くに亙って断続的に続いてきた大規模な軍事衝突が終了し、江戸幕府は同年七月に元号を元和と改め、天下の平定が完了した事を内外に宣したことから、特に「元和偃武」と呼ばれた(以上はウィキの「元和偃武」に拠った)。
「下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり」「昉れり」は「はじまれり」(「昉」は「夜が明ける」から「始める」の意)。サイト「歴人マガジン」の「【個性あふれるデザイン】花押の歴史と武将たちが込めた意味」が非常に良い。ぐだぐだ説明する必要がなく、一見にして開明!!!
「後水尾帝」在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年。彼の代を以って朝廷は江戸幕府の管理下に置かれた。
「林氏」林述斎。複数回既出既注。最初の「甲子夜話」初回へのリンクをし、もうこの注は示さない。