甲子夜話卷之五 4 吉原町の魂祭幷松飾の觸の事
5-4 吉原町の魂祭幷松飾の觸の事
今の吉原町は、昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在しと云。其時、孟蘭盆すめば魂祭の供物器具等を御堀に棄るゆゑ、年々これを禁止するふれを、其所の名主より出したるが、後、今の大門通の邊に移り、遂に淺草の末に成りたり。然れども名主のふれは年々昔の如しと聞く。是も中古までのこと歟。今は此ふれ有らずと云ふ。今吉原町の風俗は、娼家茶屋の分、每年魂祭の日畢れば、其供物器具等を悉く薦に包み、其家々の前に出し、道にすゑ置き、其あとはかまはず。夫よりしては掃除の人何れにか取去ること也となり。娼婦の年老て此處に棲るが話りしと聞けり。昔數寄屋門の堀に棄しは、掃除人の爲る所なりしにや。又聞、今吉原町にて、正月には松飾の品々御堀に棄まじくと云ふれを、年々其名主より家主に申渡すとなれば、前のふれは中古斷たるならん。
■やぶちゃんの呟き
「昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在し」不審。吉原遊廓は日本橋葺屋町続きの二町(約二百十八メートル)四方の区画に公許されたもので(現在の日本橋人形町二丁目と三丁目及び日本橋富沢町に跨がる附近)、海岸に近く、葦(よし)が茂った草原であったことが名の由来である。この附近(グーグル・マップ・データ)であり、「数寄屋河岸」(現在の数寄屋橋附近)とは有意に位置が異なる。静山は「葺屋町」の「葺屋」を「数寄屋」と誤認したのではなかろうか? しかし、そうすると、後の「數寄屋門の堀に棄し」も都合が悪くなる。正位置からすれば、日本橋川に投げ捨てたことになろうか。
「棄る」「すつる」。
「大門通」「おほもんどほり」。吉原大門。
「中古」静山の現在時制の前の江戸中頃の謂い。
「棲る」「すめる」。
「話りし」「かたりし」。
「斷たる」「たえたる」。
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