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2018/08/15

明恵上人夢記 78

 

78

一、同十一月十三日の夜、夢に云はく、此の比(ころ)、一向に坐禪す。一頭の大きなる獮猴(みこう)有りて、予に馴(な)る。予、之に教へて禪觀を修せしむ。獮猴、教へに隨ひて禪法を學ぶ。定印(ぢやういん)を結びて結跏坐(けつかざ)す。然れども、坐法、少し直(なほ)からずと云々。又、予、洛陽の大路に出づ。然れども、一身にして從ふ所無し。道を知らざれば、推量して至らむと欲す。至る所は淸水寺(きよみづでら)等なり。見渡すに、終(つひ)に知るべき由、之を覺ゆと云々。又、一つの大きなる殿、有り。其の前に、池、有り。水、減少して穢(けが)れ濁る。小蟲等、之(これ)、有り。其の家、釣殿の如きを水に造り懸けたり。其(それ)もゆるぎて全(まつた)からずと云々。

  合せて曰はく、此(これ)、行法を修せず

  して、寶樓閣、あれたるなり。池は樓閣

  の前の池也。坐禪に鎭護無き也。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月十三日と採る。三パートに分かれるが、これが実際に同夜に見た三つの別な夢だったのか、或いは孰れか又は総てが連続した夢あったかは不明である。しかし、明恵はこれらの三つの内容を綜合して解釈し、最後に夢分析を添えているのである。特に最初の猿の坐禅の比喩は何か非常に面白いものであり、最後の明恵の短い夢分析から考えると、既存の平安旧仏教の堕落したさまが猿に換喩されているような感じを受けないでもない。ともかくも、最後の夢分析部分は、相当に自由に敷衍的な訳させて貰った。御不満の方は、御自由に御自身の訳をなさるるがよかろう。

「此の比(ころ)、一向に坐禪す」拘ることはないのかも知れぬが、これは既に夢の記述部分である。確かに既に見てきた通り、この最近の明恵は実に、早暁からその翌日早暁に至るまでの間に三度或いはそれ以上の坐禅による観想を実際に行っているのであるが、ここは現実のその実際の自分の事実の謂いなのではなく、〈夢の中の明恵〉もまた、夢の時空間の中で、一心不乱に坐禅行を行っている存在なのである。私はこうした、現実の明恵と夢の中の明恵の自己同一性(アイデンティティ)が完璧に保たれていることが、夢を有意味なものとして捉えることの明恵の正当性を保障し、明恵はまた、さればこそ、自身の見る夢を謎めいたものとせず、その解釈は難解な作業であるなどとも微塵も思っていない事実を伝えているものと思うのである。

「獮猴(みこう)」霊長目オナガザル科マカク属ニホンザル Macaca fuscata を指していると思われる。なお、現行ではこの漢語は種としてはオナガザル科マカク属タイワンザル(台灣獼猴)Macaca cyclopis を指すようである。

「禪觀」「止観」に同じい。仏教に於ける代表的な観想法。「止」は精神を集中して心が全き静寂となった状態を指し、「観」は対象を在るが儘に観察することを意味する。「止」は「観」の準備段階とされる。孰れも持戒とともに仏教徒の重要な実践法とされる。

「結跏坐」「結跏趺坐(けっかふざ)」に同じい。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、坐法の一つ。両足の甲をそれぞれ反対の腿の上にのせて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を乗せる降魔坐(ごうまざ)と、その逆の吉祥坐の二種がある。蓮華坐とも呼ぶ。

「淸水寺(きよみづでら)等」「等」としながら、清水寺だけを出して示したのには、非常に重大な意味があるわけだが、判らぬ。しかし、明恵には末尾の夢分析から見ると、判然としていると読める。なお、当時の清水寺は法相宗が本宗(現在もそう)で、真言宗との兼宗であった。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗中興の祖である。]

□やぶちゃん現代語訳

78

 承久二年十一月十三日の夜、こんな夢を見た――

   ○一

 夢の中の私は、最近、只管(ひたすら)一心に坐禅をしている、現実の私と同じなのであった。

 一頭の大きな猿がいて、私に馴れている。

 私は、この猿に禅観の何たるかを教え、而してそのやり方を教授した。

 猿は、私の教えに随って、禅の観想法をしっかりと学んだ。

 そうして、定印を結んで結跏趺坐した。

 しかし、その坐法を見るに、今少し、正しくないのであった……。

   ○二

 また、こんな夢を見た――

 私は、京の大路に出ている。

 しかし、私の心の中をどんなに隈なく調べてみても、

――何処(いずこ)へ

――何のために

行こうとしているのか、これが、

――全く以って判らない

のである。

 当然のことながら、向かうべき道をも知らぬのであるから、私は、

『ここは、ともかくも、観想の中で推量して、その「何処か」に至ることとしよう。』

と思うた。

 すると、至るべき所は、

――清水寺(きよみずでら)など

であることが直ちに感知された。

 その時! 大路に立っている私の意識の中に都の全景が、

――豁然と開いた!

 それを見渡した瞬間、

『遂に! 私は「それ」を知ることが出来た!』

という認識が生じ、それを確かに感得した……。

   ○三

 また、こんな夢も見た。

 一つの大きな寝殿造りの屋敷がある。その前庭に池がある。

 しかし、池の水はすっかり減ってしまっていて、ひどく穢(けが)れていて、完全に濁っている。小さな生き物どもが、その腐れ水の中で、しきりに蠢いているのも見える。

 池には、釣殿の如きものが、泥水の中に造り懸け渡してある。しかし、それも、半ば支柱がゆるんで、ちゃんと建っておらず、水のないごみ溜めのような中に傾(かし)いでいる……。

 

◎私明恵の以上の夢に就いての分析

 これらの夢の三つの内容を綜合して考えてみると、これは、現在の本邦の大寺院の仏教僧らが、あるべき正しい行法を執り行っていないが故に、古えより続く、三宝の一つたるべき荘厳(しょうごん)の仏寺の楼閣が、これ、精神的に致命的に荒廃している、ということを意味しているのである。最後の部分の屋敷に出てきたのは、仏閣の楼閣にあるべき荘厳(しょうごん)の池、広大無辺の仏智と慈悲心を湛えているはずの池、なのである。その池が汚れきって、毒虫に満ち満ちているとは、即ち、第一の猿の坐禅の姿勢が決定的に間違っているのと同様、現在の多くの僧侶らの行っている観想そのものが、致命的誤っているということ、今の世の大半の僧らの似非行法では、とてものこと、真の観想に至るべき心の鎮静と、正法(しょうぼう)のまことの御加護はないのだ、ということなのである。

 

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