フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事 | トップページ | 譚海 卷之三 禁裡附初て上着 »

2018/08/31

甲子夜話卷之五 12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立幷西國衆寄進帳

 

5-12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立西國衆寄進帳

鍋島氏、關原の役に敗れて、やうやうに歸國し、色々に御詫をせしが、本領安堵なを覺束無き樣子により、足利學校を憑み、手を盡して陳謝し、久して後始めて御憤り解たりと也。此忝さに、圓光寺を【寺は京にあり。乃足利學校の本寺なり】、別に佐嘉の城下に新刱し、弟子を請て住職せしめ、今に其侯の壇緣第一の寺院たり。當年新創の時の寄進帳を、寺に祕藏するに、加藤、黑田の面々を始め、名高き輩は不ㇾ殘寄進に入りて、材木何千本、銅何百斤、銕何萬貫目などゝの寄附なりと云。足利學校の御眷顧を蒙るによりて、皆其爲めにしたることと聞ゆ。鍋嶋は敗軍の將なる故、止事を得ざるとも云べし。其餘御家に力を戮せたる輩まで、恐怖の餘りやはりかゝる事迄もせしは、當年御勢の雄偉なること、誠に推し知るべく、猛將と聞へし輩にても、諂諛風靡の有樣は、想ひの外なるものにて、人情はいつもかはらぬものなるべし。同上。

■やぶちゃんの呟き

最後の「同上」とは、前の「5-11 神君御花押の事」の末尾の「林氏」(林述斎)「話」の「同上」。

「鍋嶋勝茂」(天正八(一五八〇)年~明暦三(一六五七)年)は肥前国佐賀藩初代藩主。ウィキの「鍋島勝茂によれば、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男。天正一七(一五八九)年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜され、慶長二(一五九七)年からの「慶長の役」では『父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では当初、『西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし、父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に』、『黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた』。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では『幕府方に属した』。寛永一四(一六三七)年から「島原の乱」にも『出陣するが、家臣が軍律違反を犯したため』、『幕府に処罰され』てもいる、とある。

「足利學校を憑み」「憑(たの)み」。これは、鍋島勝茂の旧家臣の中に、足利学校第九世庠主(しょうしゅ:学頭。校長)で、徳川家康のブレーンともなった臨済僧三要元佶(さんようげんきつ 天文一七(一五四八)年~慶長一七(一六一二)年)がいたことによるものと思われる。ウィキの「三要元佶によれば、『現在、一般的には閑室元佶とよばれている』。『肥前国(現在の佐賀県)において』、『小城郡晴気城主・千葉氏の家臣・野辺田善兵衛の子として生まれる。父・善兵衛はもともと千葉胤連の家臣であったが、後の佐賀藩祖・鍋島直茂が、養家の千葉氏から実家の鍋島氏に復籍する際、胤連から直茂に与えられた』十二『人の家臣のうちの』一『人であった。なお、実弟・善兵衛も直茂の家臣となった』。『幼少時に都に上り、岩倉の円通寺で得度する。足利学校第』九『世の庠主となるが』、「関ヶ原の戦い」の『折には徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてた』。『江戸幕府開府後、以心崇伝とともに徳川家康のブレーンとして寺社奉行の任にあたり、西笑承兌』(さいしょう(せいしょう)じょうたい)『の後を引き継いで』、『朱印状の事務取扱の役目に就くなど、朱印船のことにも関わった。また、家康によって伏見の修学院に招かれ、円光寺の開山ともなり、伏見版の出版に尽力した』。『晩年は、鍋島直茂より』、『故郷に三岳寺を寄進され、家臣(寺侍)の谷口杢太夫(三岳寺の僧石井浄玄の実父)らを随えて、三岳寺に赴いた』とある人物である。

「久して」「ひさしくして」。

「解たり」「とけたり」。

「此忝さに」「このかたじけなさに」。

「圓光寺」現在の京都市左京区一乗寺にある臨済宗瑞巌山(ずいがんさん)圓光寺。南禅寺派の寺院。開山は閑室元佶、開基は徳川家康。ウィキの「円光寺京都市左京区)によれば、『当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた』。『家康の命により』慶長六(一六〇一)年に足利学校第九代庠主であった『閑室元佶を招き』、『伏見城下に円光寺を建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移』り、さらに寛文七(一六六七)年に『現在地に移された』。『円光寺は学校の役割も果たし、家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』(こうしけご)『貞観政要』(じょうがんせいよう、貞観参照)、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約』五『万個にのぼり』、これはまさに『日本最古の活字であり』、『重要文化財となっている』。『他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などがある』とある。公式サイト歴史も読まれたい。

「乃」「すなはち」。

「足利學校の本寺なり」こういう言い方は少なくとも現在の記載には認められない。上記圓光寺公式サイトによれば、『徳川家康は内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し』、『学校とし』、『圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず』、『入学を許した』とあるから、足利学校が本校で、こちらが分校というのなら、判る。一方、足利学校は寺ではなく、あくまで僧俗の学ぶ学校・文庫であり、歴代の庠主が概ね臨済僧であったことを考えれば、その庠主三要元佶が開山となった圓光寺は足利学校の「本寺」的存在であったとも言えるようには思う。

「佐嘉」「佐賀」。

「新刱」「しんさう(しんそう)」「刱」は「始める」の意。

「今に其侯の壇緣第一の寺院たり」先の引用に出た、現在の佐賀県小城市小城町池上にある三岳寺のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。

「加藤」加藤清正。

「黑田」黒田長政。

「銕」「てつ」。「鐡」に同じい。

「眷顧」「けんこ」。特別に目をかけること。贔屓(ひいき)。

「戮せたる」「あはせたる」。「戮」には「殺す」以外に「力を合わせる」の意がある。

「當年御勢の雄偉なること」当時の三要元佶の背後にあった家康のそれを指していよう。

「諂諛」「てんゆ」。諂(へつら)うこと。

« 反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事 | トップページ | 譚海 卷之三 禁裡附初て上着 »