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2018/08/17

譚海 卷之三 元和の比堂上之風儀惡敷事

 

元和の比堂上之風儀惡敷事

○元和の此迄は公家衆無狀にして、洛外放縱に步行(ほぎやう)有(あり)。猪隈大納言殿・鳥丸光廣卿など放蕩にて、禁中の女房など誘引して遊山にでられし事度々に及び、關東より嚴敷(きびしき)御誡(おんいましめ)ありて、猪隈殿は首領ゆへ斬罪に處せられ、家斷絶せり。光廣卿も御咎(おとがめ)によりて暫く配流せられたり。女房は中院通村公のおば君にて、禁中に伺候せられしが、伊豆國へ配流に處せられたり、その事通村公の集に見えたり。

[やぶちゃん注:「元和の比堂上之風儀惡敷事」「元和(げんな)の比(ころ)、堂上の風儀、惡敷(あし)き事」。「元和」は一六一五年から一六二四年までで、徳川秀忠及び徳川家光の治世であるが、以下に見る通り、ここで語られる朝廷公家衆が絡んだ醜聞事件で、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇退位の引き金ともなった「猪熊事件」は慶長一二(一六〇七)年の出来事であり、当時は家康は大御所として健在(家康の将軍職辞任は慶長一〇(一六〇五)年四月)で、時制がおかしい。

「無狀」無作法なこと。

「猪隈大納言殿」「猪熊事件」で知られる乱脈公家猪熊教利(のりとし 天正一一(一五八三)年~慶長一四(一六〇九)年)のことと思われるが、彼は大納言或いは権大納言ではなく、最終位階・官職は正五位下・左近衛少将である(彼の父を権大納言四辻公遠とする説があることからの誤認か、或いは同事件に連座した(但し、処罰はなされず、蟄居の後、二年後には赦免されている)烏丸光広(後注参照)が後(まさに元和二(一六一六)年に権大納言となったことを混同したものかも知れない)ウィキの「猪熊教利」より引く。初め、『高倉範国の養子として、中絶していた高倉家の跡を継ぎ』、天正一三(一五八五)年に叙爵、同二十年に『侍従に任じられ』、慶長二(一五九七)年には『従五位上に叙された』。『山科言経が勅勘を蒙って摂津国に下った後、教利は山科を称していたが』、同三年、『徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため』翌年、『勅命により山科を改めて猪熊を家名とした』。『家名は平安京の猪熊小路に由来するか』。同五年には左近衛少将、さらに『正五位下に叙任』され、同六(一六〇一)年には県召除目(あがためしのじもく)で『武蔵権介に任じられ』、家康より二百石を安堵された。『教利は天皇近臣である内々衆』と呼ばれた者の一『人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた』。『政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある』。一方で、彼は在原業平や「源氏物語」の『光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった』。『また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」』『と称されていたという』。慶長一二(一六〇七)年二月、突如、『勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた』。そして、慶長一四(一六〇九)年七月、女官五名と烏丸光広(後注参照)ら公家七名との『密通が露顕した(猪熊事件)』が、『詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていた事が明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任』し、八月四日、『幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕らえ次第』、『京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は』、『当時』、『かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡』した。『一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう』が、『同月中に潜伏先の日向国で延岡城主・高橋元種により』、『召し捕られた』。九月十六日、『京都に護送後は二条に収監され』、十月十七日、『常禅寺で斬刑に処された』。享年二十七。『猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟・嗣良が再興した』とある。別により詳しいウィキの「猪熊事件もあるので参照されたい。朝鮮に亡命していたら、今頃、ますます半島からの反日感情が昂まったに違いないと思わせるヒップである。

「鳥丸光廣卿」公卿で歌人・能書家でもあった烏丸光広(からすまるみつひろ 天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)。ィキの「烏丸光広より引く。『准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ』。『経済的に恵まれた環境のもと』、僅か三歳で『従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て』、慶長一一(一六〇六)年、『参議に任じられて公卿に列したが』、三年後の同十四年に『起きた猪熊事件』『に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた』。しかしその二年後の同十六年四月には『勅免されて還任し』ている。その後、元和二(一六一六)年には『権大納言に進み』、同六年、『正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られ』ない。『後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は』慶長八(一六〇三)年に『細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される』。『本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた』。歌集に「黄葉和歌集」があり、著書には「耳底記」・「あづまの道の記」・「日光山紀行」・「春のあけぼのの記」、他に仮名草子「目覚草」『などがある。また、俵屋宗達筆による』「細道屏風」に『画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに』「東行記」などがある。以下、「逸話」の項より抜粋すると、寛永三(一六二六)年のこと、『勅使として江戸にいた光広は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上』し、『これにより、将門は朝敵の汚名を返上した』という。『光広は「当世にうつけ者が』二『人いる」として、「沢庵は歌の名人であるのに、身の丈を知らず、我らに添削を頼まれる。これが』一『人のうつけである。我らも自分の丈を顧みずに、沢庵の歌を直す。これもまた大きなうつけである」と話したという』。『光広は屋敷の前を通る牛飼を事あるごとに止め、その牛を雇って遊郭に通っていた。しかも、車の上に毛氈を敷き、酒肴を設けて自若として通っていたという』。俊才であったのだろうが、懲りないエロ男という感じもジワジワと来る奴である。

「中院通村」村上源氏中院家当主で後水尾天皇の第一の側近であり、反幕府派の公卿中院通村(なかのいんみちむら 天正一六(一五八八)年~承応二(一六五三)年)。彼は権中納言中院通勝(みちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)の子であるが、ウィキの「猪熊事件を見ると、「猪熊事件」の処罰者の中に中院通勝の娘権典侍中院局(『伊豆新島配流』となり、元和九(一六二三)年九月勅免とある)がいる。しかしだとすると、通村の姉妹であり、「おば君」ではない。或いはただの誤りか、或いは、他に連座して流された女房(総て伊豆配流で赦免も同時)に、新大典侍広橋局(広橋兼勝の娘)・中内侍水無瀬(水無瀬氏成の娘)・菅内侍唐橋局(唐橋在通の娘)及び命婦讃岐(兼安頼継の妹)がいるから、通村の伯母(叔母)に当たる人間がこの中にいるのかも知れぬが、これ以上は調べる気にならない。悪しからず。

「通村公の集」ウィキの「中院通村を見ると、『古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった』。『また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対し』、しばしば「源氏物語」の『進講を行っている。世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった』とあり、「中院通村日記」があるとするから、この日記辺りを指すか。]

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