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2018/08/18

反古のうらがき 卷之一 狐 / 鈴木桃野「反古のうらがき」オリジナル電子化注~始動 

 

 次のブログ・カテゴリ「怪奇談集」は鈴木桃野著「反古のうらがき」の電子化注とする。

 鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は江戸後期の幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、名は成虁(「せいき」か)、字(あざな)は一足、通称は孫兵衛、号は詩瀑山人・酔桃子・桃華外史など。天保一〇(一八三九)年、部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。嘉永五(一八五二)年、前年と父の死を受けて家督を相続、射術を好み、随筆・画に優れた。甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)学頭の任命を受ける直前に死去した。著作に本書の他、随筆「無可有郷」「酔桃庵雑筆」「桃野随筆」等がある。

 本「反古のうらがき(裏書)」は謙辞の通り、事実、勤務していた学問所で出る反故紙等の裏を利用して書かれたものと推定され、完成は諸書き入れ等から考えると、嘉永元年から嘉永三年頃か。全四巻で怪奇談八十五話を収録し、底本(以下)の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の親戚友人、或いは居住地を中心とする近辺に起った異聞を興味のまま筆録した』ものである。

 底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の朝倉治彦氏校訂の「反古のうらがき」を用いたが、読み易さを考えて句読点や記号を追加(一部は変更)、読みは底本に振られたものの他、訓読にやや難のあると私の判断したものにも読みを歴史的仮名遣で振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した(一部は位置をずらした)。注は禁欲的に附した。また、疑義を感じた部分については、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものと校合し、その旨、注記した。【2018年8月18日始動 藪野直史】

 

 反古のうらがき

         醉 桃 子 著

         天 曉 翁 評 閲

 

[やぶちゃん注:「天曉翁」【2018年9月24日改稿】当初、不詳としていたが、いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、メールを戴き、情けなくも、校合に使用している国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種の解題に『卷中に批語を加へしは、幕末の名士淺野梅堂なり」とあるという御指摘を戴いた。これは、幕末から明治初期に生きた幕臣旗本で、蔵書家・芸術鑑定家でもあった浅野長祚(あさのながよし 文化一三(一八一六)年~明治一三(一八八〇)年)で、「梅堂」は号。ウィキの「浅野長祚によれば、『江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野氏の支族(家原浅野家)で家禄』三千五百『石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の』三『女直子と結婚』、『天保一〇(一八三九)年に使番、同一二(一八四一)年七月に目付に就任、翌年十月には『甲府勤番支配。甲府にあった幕府の学問所徽典館に教授として友野霞舟・乙骨耐軒を招くなど』、『規模を拡大した』(前に注した通り。桃野はここの学頭に決まった直後(赴任前)に病死している)。弘化二(一八四五)年三月には先手鉄砲頭、同四年五月に『浦賀奉行に転じ、以後』、五年間、在職した。この間、嘉永二(一八四九)年に『相模湾にイギリス船マリナー号が停泊する事件が発生。奉行として処理に当たるが、浦賀を初めとする江戸近海の防備状況の貧弱さを痛感し、江戸にたびたび防備の強化を上申した。大砲の弾薬、兵糧ともに在庫がほとんど無く、外国艦接近のたびに近隣の商人から借財して軍備を整えるという惨状』『に業を煮やし、辞表を提出』している。嘉永五年には『京都西町奉行に転任となった』。『京都在任中は町奉行所与力平塚瓢斎の助力も得て』、『洛中洛外の山陵調査にあたり、「歴代廟陵考補遺」を著す』。安政元(一八五四)年四月に『皇居炎上後は川路聖謨らと共に禁裏造営掛となった』。安政五年(一八五八)年の「日米修好通商条約」締結に際して、『老中堀田正睦』(まさよし)『(下総佐倉藩主)が上京して条約勅許を得るための交渉を行った際には、同行した川路や岩瀬忠震と共に対公家工作を行った。しかし』、『条約勅許は得られず、かえって将軍継嗣問題で一橋派と目されたため、失脚した堀田に代わって政権についた大老井伊直弼(近江彦根藩主)に疎まれ、同年』六月、『小普請奉行に左遷され』、『翌年』八『月には免職となった』。『桜田門外の変で井伊が暗殺された後』、文久二(一八六二)年七月には『寄合から寄合肝煎に挙げられ、同』十『月に江戸北町奉行に任ぜられた。しかし翌年』四『月には作事奉行、同年末には西丸留守居に転じて第一線から退き』、慶応三(一八六七)年に『致仕。向島に隠居し、後に入谷に転じ、詩文・書画に没頭した』。『書は杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵・椿椿山に師事し、多くの作品を残すいっぽう、書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された。また』、『蔵書家でもあり、所有書籍は』五『万巻に及んだとい』う。『著書に「歴代廟陵考補遺」「漱芳閣書画記」「安政御造営誌」「寒檠璅綴」「朝野纂聞」「浅野梅堂雑記」など』がある。『書は杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵・椿椿山に師事し、多くの作品を残す』一方、『書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された』とある。卷之三 大雅堂」末尾の評語で『◎大雅堂・文晃(ぶんてう)・應舉ナドノ畫ハ僞(ぎ)シ易シ。椿山(ちんざん)ノ畫ニ至テハ、天眞爛漫、實(まこと)ニ企及(ききふ)スベカラズ。夫(それ)サへ、近時、僞物、オビタヾシクアリテ、庸凡(ようぼん)ハ、ミナ、アザムカルヽ也。余、鑿裁(せんさい)ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ畫ニ至ツテハ、闇中摸索スルモ、失ハジ』(下線太字は私が振った)と述べているが、T氏曰く、この『自信は「そーですよね。」で引き下がるよりありません』とは、これによって、目から鱗となった。T氏は『号「天曉」は見つけられませんでしたが』と言い添えておられ、私もネット検索を繰り返してやってみたが、やはり見出せなかった。T氏に改めて謝意を表するものである。]

 

 反古のうらがき 卷之一

 

  ○狐

 谷町といふ所の名主を、片山五郞左衞門といひて、片山永孚といへる書家の八代の孫也けり。予に語りしは、十六、七歳の頃、父が方にありて【わら店(だな)也。】、市ケ谷御門外、「ことぶき」といへる水茶屋へ、より合に行けり。夜五つ時頃に、神樂坂より「牡丹屋敷」といふ所を通る時、そゞろにおそろしく覺えて、逢坂下にてふと見るに、土手の向ふを行かふ挑燈あり、行合て、一つとなり、行違ひて、二つとなりする樣、尋常(よのつね)の挑燈にあらずと見る中に、五つとなり、六つとなり、又、寄合て一つとなる。『これ、狐火なるべし』と思ひて、早足に行過て前後を顧るに、宵ながら、人通もなし、漸(やうやく)抹香屋の前あたりと覺しくて、再び土手の方を見やりしに、此度は、挑燈、いくつともなく行違ふを見るに、みな、此方へ向ひて來(きた)る、水の上を行にてぞありける。其(それ)、近くよるを見るに、挑燈、みな、足ありて步む也。此方より彼方に行も同じ。此時、おそろしきこと極りて、一足も行(ゆき)能はず、立留りて其近きほとり迄來るを見しに、挑燈も足も、みな、狐火にてはあらず。人也。「いかゞして水を渡り來りしや」と、其足元を見れば、水上にはあらで、市ケ谷見付の橋を渡り來るにてぞありける。但し、抹香屋の邊りと思ひしより、水上と思ひしのみにて、別に恠(あや)しき事にてはあらざりけると也。

[やぶちゃん注:のっけから残念だが、実際の「怪奇狐火」ではなく、夜間の遠近感喪失に基づく錯覚に因る擬似怪奇体験談の直話である。しかし、語り(或いは桃野の書き方)の絶妙さから、読者は、「狐火」が「提灯」に化け、しかもその「提灯に人間の足が生え」、遂に「人に化けた」か、と思わせる仕掛けとなっていて、極めて上質の怪談となっている点にこそ着目すべきである。

「谷町」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、現在の市ヶ谷地区の新宿区住吉町(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「片山永孚」不詳。名は音なら「えいふ」、訓では「ながざね」か。

「わら店(だな)」「藁店」固有地名。現在の東京都新宿区袋町の光照寺の東北(ここ(グーグル・マップ・データ))の地蔵坂の脇。個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「藁店(わらだな)は1軒それとも10軒」を参照した。

「市ケ谷御門外」底本の朝倉治彦氏の補註に、『麹町から市ヶ谷への出口。門外には、八幡町、市ヶ谷田町一丁目があるが、市ヶ谷八幡の門前町八幡町には水茶屋』(寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し、休息させた茶店の称。葉茶を売る葉茶屋と区別して、水茶屋といった。室町時代から見られた一服一銭の茶売りが、葭簀張りの掛小屋に床几を設えるなどするようになってからの江戸時代の名称で、これらが、やがて酒食を供するようになって煮売茶屋・料理茶屋となり、店の奥に座敷を設けるところが現れると,それが男女の密会や売春の場となっていった。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『があった。寛政五』(一七九三)『年』、『水茶屋の許可が出ている』とある。

「夜五つ時」定時法では午後八時頃。

「牡丹屋敷」現在の神楽坂一丁目附近(ここ(グーグル・マップ・データ))。先に出した個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』」に、「新宿区町名誌」(昭和五一(一九七六)年新宿区教育委員会発行)から引用して、

   *

神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保十四年(一七二九)十一月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。

 宝暦十一年(一七六一)九月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌十二月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥あすか井、花園等の受領地となって町屋ができた。

   *

とある。同サイトには「牡丹屋敷」の記載が他にも複数ある。

「逢坂下」「逢坂」は「大阪」「美男坂」とも称し、現在の東京都新宿区市谷砂土原町三丁目に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。先に挙げた個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に非常に詳しい。

「抹香屋」線香を商う店という一般名詞と採った。実は現在の神楽坂の一部は元は「通寺町」(とおりてらまち)と呼ばれ、寺が多かった。「東京理科大学理窓会埼玉支部」公式サイト内の「肴町は家光ゆかりの地」に以下の記載がある(一部の不審な字空けを除去させて貰った)。

   《引用開始》

 昔、神楽坂と言えば坂上(肴町)から坂下(牛込見付)までを指した。

 大久保道を横切り矢来に抜ける道は、左右に門前町が開け、神楽坂に比べ道幅も狭く雨が降ると傘をさす通行人が行き違い出来ない程、家の軒が迫っていた。通寺町、横寺町と呼ばれるように寺が多かった。明治のはじめ排仏毀釈により多数の寺が廃寺にされたがそれでもまだ狭い道の両側には向かい合うように寺が並び、朝夕どこともなく念仏や読経の声が左右から流れてきた。いまでも横寺町に入るとその雰囲気を残している。

   《引用終了》

以上の引用部の後の方に、『戦後、通寺町は住民から何の異論が出ずに神楽坂6丁目になったが、抹香臭い町名より神楽坂の方が格好良かったからであろう』とある。記者が、この『抹香臭い』と表現して呉れたお蔭で、このページを発見出来、「通寺町」の旧名も知り得た。御礼申し上げる。

「市ケ谷見付の橋」市ヶ谷見附から神楽坂へ架橋された現在の牛込橋。(グーグル・マップ・データ)。]

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