反古のうらがき 卷之一 富士山
○富士山
[やぶちゃん注:長いので、適宜、改行を行い、そこに注を挟んだ。]
榎町同心内藤濱次郞、國學に通じ、尾州にて大内裏のひな形を作るに、やとわれて、古實を專(もつぱら)とせし人なり。
[やぶちゃん注:「榎町同心」前の条々に徴せば、やはり御先手組同心である。
「内藤濱次郞」国学者で御先手同心内藤広前(寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)。名は広庭、後に広前に改めた。通称、浜次郎。号は賢木園。国史・律令に通じ、江戸の和学講談所出役となった。歴史や古典和歌の編著を多くものしたが、文化年間(一八〇四年~一八一八年)に尾張藩主の命を受けて校訂した「大内裏図考証」は、最もよく知られている。これは前に公家裏松光世が蟄居中に著した考証を補正したものである。また、紀州新宮城主水野忠央の下で編纂された「丹鶴叢書」では、黒川真頼ら幕末期の江戸を代表する国学者とともに寄与した(以上は個人的に敬愛するロバート・キャンベル氏の「朝日日本歴史人物事典」の解説に拠った)。]
駿州神職の子のよしにて、富士登山、幾度といふをしらず、委敷(くはしく)硏究せしに、孝靈五年出顯(しゆつけん)といふ説、古記に見へず、是れ程の山出顯なれば、數十里内、大變なるべきに、其説一言も見へざれば、幾千年以前出顯といふことしるべからず。孝靈五年の頃、見出したるなるべし。
[やぶちゃん注:「光靈五年」底本では「孝靈」となっているが、誤り。国立国会図書館蔵版で補正した。第七代天皇とされる存在の怪しい孝霊天皇(在位は孝霊天皇元年から孝霊天皇七十六年とする)の治世となり、機械的西暦換算では治世は紀元前二九〇年から二一五年となり、「孝靈五年」はそれに従うなら、紀元前二八六年となる。中国では秦朝末期に当たり、本邦は古墳時代初期に相当する。さて、古富士山は地質学上では八万年前頃から一万五千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高三千メートル弱まで成長したとウィキの「富士山」にあり、また、富士山についての最も古い記録は「常陸国風土記」(養老五(七二一)年成立)の中の「福慈岳」という語であるとされるとある。さらに、山頂部からの最後の爆発的な本格的噴火は二千三百年前を最後とし、これ以降は山頂部からの噴火は発生していないとあり、以下、延暦十九年から二十一年(八〇〇年~八〇二年)に「延暦噴火」が、貞観六(八六四)年に青木が原溶岩を噴出した「貞観大噴火」が発生しており、現在のところ、最後の富士山噴火は宝永四(一七〇七)年の「宝永大噴火」で、『噴煙は成層圏まで到達し、江戸では』約四センチメートルの『火山灰が降り積もっ』ているとある。因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。]
固より燒山(やけやま)にて絶頂は十三町の穴なり。其端、今に鐡をとかしかけたる如く、其𢌞りに三つの峯ありて各(おのおの)名あり。行者、白衣を着て穴の向ふを行(ゆく)を見るに、音羽九丁目橋より觀音前の人を見るより遠く覺へ、唯、白衣の人と斗(ばか)り見ゆるなり。定(さだめ)て十三町斗りなるべし。其穴、見下ろすこと、甚(はなはだ)危し。地(はらばひ)に據(よつ)て見る。常に霧立込(たちこめ)て、深さ量り難く、四時、雪あり。六月の頃、雪の消(きゆ)る事ありても、斑(まだら)に消るなり。風の起る聲とて、やゝもすれば、穴の内、「ごうごう」と鳴響(なりひび)きて、すさまじ。
[やぶちゃん注:「燒山」活火山。
「音羽九丁目橋より觀音前の人を見る」現在の文京区音羽の南端にある神田川に架かる江戸川橋か? 「觀音前」はよく判らぬが、ここから見えたであろう観音を祀った寺となると、徳川将軍家菩提寺として知られた文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)か? 本尊は阿弥陀如来であるが、無量聖観世音菩薩も祀り、江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所でもある。ここだと、江戸川橋から直線で千四百メートルほどであり、以下の数値と合致する。
「十三町」千四百十八メートル。現在の頂上火口は国土地理院のデータによれば、最深部の標高が三千五百三十八・七メートル、火口の深さが約二百三十七メートル、火口底直径が百三十メートル、山頂火口直径が七百八十メートルとする。六百三十八メートルも長いが、これは辺縁部の安全な位置の距離を含めたものとすれば、腑に落ちる。]
或年の夏、登山せしに、此日、晴天にて、穴の内、甚、明らかなり。かゝる事は幾年の内にも稀なること也。地(はらばひ)に據りて臨むに、風の起る聲は瀧の聲に似たり。よく見るに、川、二つ有り。大河なり。瀧と覺しき者は見へねども、川あるを見れば、瀧もあるべし。果して、水音なり。水の色は靑く、其わたりは、雪の斑消(むらぎえ)ありて、分明に見ゆる。其時、深さを量るに、穴の口十三町より少し遠く見ゆる樣(さま)、思ふに、廿町足らずもあらんか。此日、霧なしといへども、四方の壁、陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して薄暗(うすらぐ)らく、たとへ十三町斗りなるも、かけ離れたる處の如くならず。絶頂の茶屋に出(いづ)る老翁を呼びていふよう、
「穴の内に川有(あり)といふこと、此迄、人の見ることなし。今日、初(はじめ)て見ること如何(いかん)。」
といへば、老翁も、
「僕(やつがれ)、數十年、此處にあれども、如ㇾ此(かくのごとく)なる穴の内、明らかなることは見たることなし。いか樣(さま)、水有るよふに[やぶちゃん注:ママ。]みゆるは初てなり。」
といゝし[やぶちゃん注:ママ。]。此穴口は十三町なれども、底にては幾里にひろがりてあるやらん。これ、燒出(やけいだ)しの口なり。かゝる形の山は、みな、燒出し山なり。近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり。形、覆盆(ふぼん)【すりばちをふせたる】のごとし、其理(ことわり)、蟻封(ありのとう)を見てしるべき也。富士の煙り常に立上るといふ古歌によれば、近古【ちかきころ】迄、淺間などの如く、矢張、火氣、有(あり)けると見ゆ。此考へは古人も言へること也。
[やぶちゃん注:「其わたり」その辺り。
「廿町」約二千百八十二メートル。
「陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して」ここで桃野は変わった割注の使用をしており、前の漢語をまず音読みし、それに割注で和訓を附している。ただ、この「まりまし」という語の意味が判らぬ。識者の御教授を乞う。
「僕(やつがれ)」謙譲の一人称人代名詞。「奴吾(やつこあれ)」の音変化とも言う。古くは「やつかれ」と清音。上代・中古では男女を通じて用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。
「いか樣(さま)」感動詞。相手の言葉に同意を表わす語。「なるほど・いかにも」。
「よふに」「樣(やう)に」。
「近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり」三原山の近世の大噴火は天和四(一六八四)年から元禄三(一六九〇)年にかけての噴火と、安永六(一七七七)年の噴火が大きなものであるが、それ以降も散発的に噴火しているし、本「反古のうらがき」の成立が嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であることを考えると、安永六年以降の中規模噴火を指しているように思われる。
「蟻封(ありのとう)」蟻塚。ここは大きな蟻の巣の成層火山状に摘み上がった頂きにある、入口を富士の火口を想像して貰うために比喩したものである。
「富士の煙り常に立上るといふ古歌」「万葉集」には富士山自体は十一首で詠まれているが、確かに煙を詠み込んでいるものは、以下の類似性を持った二首であろう(二六九五番及び二六九七番)。
吾妹子(わぎもこ)に逢ふ緣(よし)を無(な)み駿河なる不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の燃えつつかあらむ
妹が名も我が名も立たば惜しみこそ布士(ふじ)の高嶺の燃えつつ渡れ
また、和歌ではないが、「竹取物語」のエンディング、
*
かの奉る不死の藥に、又、壺、具して、御使ひに賜はす。勅使には、「調石笠(つきのいはかさ)」といふ人を召して、駿河の國にあなる山の頂きに持(も)てつく[やぶちゃん注:そのように仕儀する。或いは、持って行って置く。]べき由、仰せ給ふ。嶺(みね)にてすべきやう、教へさせ給ふ。御文(おほんふみ)、不死の藥の壺、並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。
その由、承りて、兵(つはもの)ども、あまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。その煙(けぶり)、いまだ、雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ傳へたる。
*
を私は直ちに思い出す。私は「竹取物語」は、まっこと、全篇が好きだ。中古の古文教材の授業案(ダイジェスト・プリントを作って全編を取り敢えず通した)では、あれだけが私の完全オリジナルなものだったと言ってよい。]
扨、橫穴、いくつともなくあり。新田四郞、穴に入(いり)、大河におふて歸る。
「此處、別世界ありて天日の光りを見る。」
と、いひ傳ふ。是、正しく此水の所迄、行(ゆき)たるならん。燒拔けの穴なれば、穴每(ごと)に、これに達したるは其(それ)理(ことわり)なり。上の口、十三町もある穴の底なれば、別世界ともいふえべし。天日の光りも、黑暗(くらやみ)の橫穴より、此所に到れば、殊に分明に見へし事、疑(うたがふ)べくもなし。穴の底、幾里に廣がり、此水、いづくよりいづくへ流るゝといふこと、しるべからずといへども、山上の湖水、數里のもの、いくつともなく有るを見れば、又、恠(あや)しむに足らず。此穴、大鳥獸・妖恠(ようかい)、山精(やまひろ)抔(など)の住家(すみか)にはよろしき處なれば、いか樣(さま)のものありしも、しるべからず。
[やぶちゃん注:「新田四郞」仁田士朗忠常(にったしろうただつね 仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)の誤り。伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の住人で、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵に十三歳で加わった。頼朝の信任厚く、文治三(一一八七)年正月、忠常が病いのために危篤状態に陥った際には、頼朝自らが見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦、文治五(一一八九)年の奥州合戦においても戦功を挙げた。建久四(一一九三)年の「曾我兄弟の仇討ち」の際には、兄の曾我祐成を討ち取っている。頼朝死後は第二代将軍頼家に仕え、頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父(めのと)となったが、建仁三(一二〇三)年九月二日に頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変が起こると、忠常は掌を返して北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚比企能員を謀殺している。ところが三日後の五日に回復した頼家からは、逆に時政討伐の命令を受けてしまう。翌晩、忠常は能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かったが、彼の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由として、逆に謀反の疑いをかけられ(無論、これも時政の謀略である)、時政邸を出て御所へ戻る途中、加藤景廉に殺害されてしまった(以上はウィキの「仁田忠常」に拠った)。以上が事実の事蹟であるが、彼は中でも「富士の人穴」(現在の静岡県富士宮市にある古代の富士山噴火によって形成された溶岩洞穴)探検の逸話で頓に知られる。それについては、私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入る」に詳しいので、参照されたい。
「山上の湖水」ここは富士山の裾野辺縁を含めた広義の「山」塊で、所謂、富士五湖等を指しているのであろう。
「山精(やまひろ)」山の精。山の霊。或いは妖怪としての「山彦」。「やまひろ」は底本のルビであるが、不審。「やまわろ」(山童:主に西日本に伝わる童子程の背丈の毛むくじゃらの妖怪)なら判るが。]
山のうしろの下りは、石のごろごろする物を踏(ふみ)て下る。其れ石の内にて團炭程の丸き物を得たり。
「鐡丸(てつぐわん)也。」
といゝき[やぶちゃん注:ママ。]。これ、燒出しの時、丸(ま)るくかたまりし鐡氣(かなけ)也。されば東の國、未だ開(ひ)らけざる以前、此山、燒出(やけいで)て、其わたり、數里内(のうち)、人の種(たね)、盡(つく)る程の大變ありて、其後、駿河に行(ゆき)たるもの、雲霧にて、折ふし、此山を見ざりしが、光靈の頃、忽然、雲晴(はれ)て、如ㇾ此(かくのごとき)端正(ただしき)形(かた)ちを見たれば、一夜に出顯といゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳へしならんか。内藤、此説を詳記(つまびらかにしる)して圖を作り、一卷とせしよしなりしが、
「畫師雪庵が家に置(おき)て、火に燒(やけ)たり。」
と語りし。
[やぶちゃん注:「端正(ただしき)」底本のルビ。
「雪庵」ありがちな雅号で複数見かけるが、同定は不能。]