譚海 卷之三 (難波飛鳥井兩家の事)
(難波飛鳥井兩家の事)
○公方樣御上洛あれば、卽日從一位太政大臣拜任あり、難波(なんば)・飛鳥井(あすかゐ)兩家の中(うち)沓(くつ)とりの役を勤(つとめ)らるゝ事也。是は室町鹿苑院殿より起れり。退出の時沓取居(ゐ)あはさざりしに、相國(しやうこく)けしきあしかりければ、飛鳥井殿沓とりてまかでられしより、此勞(らう)に報(むくひ)て蹴鞠の相傳は專ら彼(かの)家に委(ゆだね)られしと也。此例によりて沓の役は今も勤らるゝことなり。此兩家の外も歌鞠の家と號して、和歌蹴鞠に名ある家はあまたあり。又關東へ參仕の公家衆十餘人あり、いつも關東傳奏の役は此家の衆中仰(おほせ)を蒙り勤めらるゝ事也。
[やぶちゃん注:目次に標題がないので、取り敢えずかく示した。
「難波・飛鳥井兩家」難波家は羽林家(うりんけ:鎌倉時代以降の公家の家格の一つ。摂家・清華家(せいがけ:摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた)・大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位に於いては、各大名家に与えられる家格に相当する)の家格を有する堂上家の一つを成す公家。分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派の一つで、元は藤原北家花山院流の系統である。南北朝時代に一度、断絶したが、戦国時代に入り、飛鳥井雅庸』(まさつね)『の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は三百石であった(ウィキの「難波家」に拠る)。一方の難波家分家の飛鳥井家は、ウィキの「飛鳥井家」によれば、鎌倉前期の難波頼経の子雅経に始まり、代々、和歌・蹴鞠の師範を家業とした。『頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。
応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった。幕末の飛鳥井雅典』(まさのり)『は武家伝奏をつとめている』とある。
「室町鹿苑院殿」室町幕府第三代将軍足利義満のこと。後の「相國」(太政大臣・左大臣・右大臣の唐名。言わずもがなであるが、義満は隠居後、太政大臣まで極めている)も彼のこと。
「關東傳奏」「てんそう」と清音でも読む。江戸時代の朝廷の職名。諸事に亙って江戸幕府との連絡に当たった。定員二名で関白に次ぐ要職であった。納言・参議から選出された。]