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« 諸國里人談卷之五 宗語狐 | トップページ | 諸國里人談卷之五 鯉社仕者 »

2018/08/01

諸國里人談卷之五 稻荷仕者

 

 ○稻荷仕者(いなりのししや)

宗語老僧、路通に談(かたりて)曰〔いはく〕、

「弘法大師入唐の時、一人の老翁、船中にあり。海路(かいぢ)の内、中華の地理、或〔あるいは〕諸侯の掟(おきて)、出家の分際、委(くは)くかたり、唐に入〔いり〕ても益(ますます)隨身(ずいじん)して、明日(あす)の業(わざ)を今日より告(つげ)しらしめ、たゞ、影の副(そふ)がごとし。空海は德宗皇帝に謁し、且、惠果(ゑくは)和尚に覿(まみへ)へて、兩部の祕奧(ひおう)を附(ふ)し、三年にして、歸朝の砌(みぎり)、舩中にて、かの老翁を敬(け)し曰〔いはく〕、

『翁、尤も、凡人にあらじ、定〔さだめ〕て佛法雍護(おうご)の神(しん)にぞおはしますらめ。』

時に、翁、申〔まうす〕は、

『我は飯生(いなり)の神の仕者、芝守(しばもり)長者の地に住む狐也。玆(こゝ)にひとつの願ひあり。大德(だいとこ)、歸朝あらば、當(まさ)に鴻臚館(こうろくわん)を持〔もち〕給はん、よつて、伽藍道立あらば、飯生(いなり)の神(しん)を鎭守になさしめ給へ。』

と云〔いふ〕。

『子細あらじ。』

と領掌(りやうじやう)ありける。

はたして、東寺(とうじ)、建立す。

寺成(なつ)て、秋の夕暮、空海、羅生門に彳(たゝずみ)、四方を詠(なが)め給ふ所に、稻を荷(にな)へる翁、來〔きた〕れり。

近づき見れば、入唐隨身の翁也。

于時(このとき)、老翁、約の事を、ねがふ。

さるによつて、飯生神(いなりのしん)を東寺の鎭守とし、それより「稻荷」の二字にあらためられけるなり。

かの老翁を「貴狐(きこ)明神」とし、今、攝社白狐社(あこめのやしろ)、是なり。又、芝守長者の旧地、今、「古御旅(ふるおたび)」と稱する所なり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字(①)或いは二字(③)下げ。]

一書(あるふみに)曰〔いはく〕、大師をして今の伊奈利山に鎮座し給ふと云〔いふ〕は、非なり。元明天皇和同四年に、はじめて垂跡也。空海は宝亀五年に誕(たん)ず。凡〔およそ〕六十余年、後なり。

○又、飯生山(いなりやま)といふは、器(うつは)に飯(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])を生(もり)たるやうの山、三あり、よつて「飯生三山(いなりさんざん)」と称すと也。

[やぶちゃん注:前の「宗語狐」の続篇的なもの。宗語の語った驚くべき昔の、物語りを記す。前に準じて改行を施した。

「弘法大師入唐」延暦二三(八〇四)年(ウィキの「弘法大師」によれば、前年、『医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度し』ていたが、学僧としてではなく。『遣唐使の医薬を学ぶ薬生として』前年に出発した。しかしその時は『悪天候で断念し』て戻り、この翌年、『長期留学僧の学問僧として唐に渡』った。因みに『中国語の能力の高さが有利との指摘はあるが』、『この間の学問僧への変更の経緯は不明である』とある。『途中で嵐に』遭遇して『大きく航路を逸れ』、八月十日、『福州長渓県赤岸鎮に漂着』するも、『海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約』五十『日間待機させられ』ている。因みに、この際、『遣唐大使に代わ』って、『空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している』。同年十一月三日になって漸く『長安入りを許され』、十二月二十三日に長安城に入った。帰朝は大同元(八〇六)年十月(博多現着))である。本書の刊行が寛保三(一七四三)年、齋部(いんべ)路通の生没年が慶安二(一六四九)年頃から元文三(一七三八)年頃(沾涼は延宝八(一六八〇)年生まれで三十一年上)であるから、沾涼が前条の「宗語狐」の話やこれを聴いたのを、取り敢えず路通晩年(一六三〇~一六四〇年頃)とするなら、実に、八百三十年以上も前の出来事を現に見たように(帰朝の船中のシーン等)語っていることになる。前の「宗語狐」では、彼は『五百年來の事は今見るがごとくにすゞしく、六、七百年の事は少(すこし)明かならぬ事もありとかや』と記していたが、どうして、なかなか!

「出家の分際」当時の唐に於ける、仏教僧の地位・権利・義務と言った、身分・待遇と遵守すべき規律。

「明日(あす)の業(わざ)を今日より告(つげ)しらしめ」予知能力があったのである。「德宗皇帝」第十二代皇帝。在位期間は七七九年から八〇五年。

「惠果(ゑくは)和尚」(七四六年~八〇六年一月十二日)密教第七祖で唐長安の青龍寺の住持。ウィキの「恵果」によれば、『不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系の密教を学んだ。『金剛頂経』・『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と』三『代にわたり皇帝に師と仰がれた』とあり、また、ウィキの「弘法大師」には、空海は入唐した翌年の五月、青龍寺にこの『恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際』、直ちに『見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し』、空海は六月十三日に『大悲胎蔵の学法灌頂』、七月には『金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても』、『彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている』。八月十日には『伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する』御『宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から』五百『人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している』。八『月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは』、金剛智から不空金剛そして恵果へ『と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など』八『点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など』五『点の計』十三『点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している』。同年十二月十五日、恵果和尚は六十歳で入寂、翌年一月十七日、『空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草し』ている、とある。

に覿(まみへ)へて、兩部の祕奧(ひおう)を附(ふ)し、三年にして、歸朝の砌(みぎり)、舩中にて、かの老翁を敬(け)し曰〔いはく〕、

「雍護(おうご)」「擁護」に同じい。

「芝守(しばもり)長者」個人サイト「都名所図会」の「古御旅所」で、同記載の存在を知ったので、「日文研」の「都名所図会」の高精密表示で視認して示す。

   *

古御旅所

八條坊門、金替(かねかへ)町の南にあり。むかし、此所は二階堂觀世音ましまして、地主を福子稻豐(ふくしいなとみ)といふ。今此觀音は泉涌寺(せんゆうじ)の内、善能寺にあり。此社の鳥居通を戒光寺町といふ。此寺も、今、泉涌寺の内にあり。丈六の釋迦佛を安置す。

柴守長者(しばもりちやうじや)

弘法大師緣起に曰、空海、筑紫(つくし)にましますとき、稻を荷へる翁(おきな)に逢(あひ)て、「これ、只人ならず」と思ひ、「君は、いかなる人ぞ」と尋(たづね)給へば、「われは都八條に住ける柴守長者といふもの也」と答ふ。空海、「われも都に登り、佛法を弘侍る也。我(わが)法を守り給へ」と約し、その後、弘仁十四年に東寺を賜(たまは)り、住職したまふとき、「二階堂の柴守長老、まいり[やぶちゃん注:ママ。]たり」と申されければ、空海、いろいろもてなし、「扨、都の巽(たつみ)にすぐれたる山あり。あれに住給ひて我が佛法を守護し給へ」と、社をいとなみ、自(みづから)、額を書てまいらせ[やぶちゃん注:ママ。]給ひける。今の稻荷山、これ也。二階堂を、則、御旅所(たびしよ)とし給ふなり。

   *

先の個人サイト・ページの解説に、『伏見稲荷大社斎場所の旧地』で『京都市下京区猪熊通梅小路下ル』『中古南区西九条に遷座し、近世まで芝守社があったが、明治』六(一八七三)『年に廃社す』とあり、写真もあるので見られたい。

「大德(だいとこ)」「だいとく」とも読む。元来はインドで「高徳の人」のことを指し、釈尊に対する呼びかけにも用いられた。「律」には、「年長の比丘」の称、とある。日本では「徳の高い清僧」を「大徳」と呼んだ。

「鴻臚館(こうろくわん)」律令時代に外国の使節を接待した館。推古朝の「難波館」や持統朝の「筑紫館」に由来するとされる。京都(七条朱雀の東西)、難波、大宰府(現在の福岡市中央区の福岡城址)にあった。京都の鴻臚館は渤海国使の接待用で、十世紀半ば、同国の滅亡により廃絶。難波のものは西海道から入京する外国使臣用で、のち国衙に転用され、大宰府のものは蕃客・遣唐使らの宿舎にも当てられた。遣唐使の廃止後は、唐商人の接待・外国人の検問・外国との貿易などの用に当てられた。律令政治の衰退により、その特質を失い、十二世紀には廃絶した。但し、後に出る東寺は鴻臚館ではない

「東寺(とうじ)、建立す」ウィキの「東寺によれば、八『世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」』『という』二『つの寺院の建立が計画された。これら』二『つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった』。『南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない』、延暦一五(七九六)年、『藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの』『年を創建の年としている。それから二十数年後の』弘仁一四(八二三)年、『真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった』とある。東寺と稲荷神及び弘法大師の関係については、伏見稲荷大社」公式サイトの「稲荷のあの」も参照されたい。

「白狐社(あこめのやしろ)」現在の伏見稲荷大社境内にある。(グーグル・マップ・データ)。ぞえじいサイト「ぞえじいの福々巡りの「白狐社に詳しい(写真豊富)。それによれば、祭神は命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)で、『解説板によれば『往古の下社末社であった「阿古町(あこまち)」がその前身で白狐霊を祀る唯一の社殿である』とあり』『一説では朱雀大路・内裏の真北にある船岡山』『に棲む狐の老夫婦と五匹の子狐が稲荷山に出向き、稲荷神の前でお社(やしろ)の眷属(使者)になりたい旨を願い出たという。稲荷明神は大変喜んで申し出を聞き入れ、夫狐は上社(一ノ峯)、妻狐は下社(三ノ峯)に仕えるようになった。夫婦狐は「告狐(つげぎつね)」とよばれ、信者の前に直接あるいは夢の中などに間接的に姿を現して人々を導くようになったといい』、『これは弘仁年間』(八一〇年~八二四年)の話とある。『その後の明応年間』(一四九二年~一五〇一年)『に書かれた『遷宮記』によ』る『と、稲荷社の下社には「阿古町」、中社には「黒烏(くろを)」、上社には「小薄(をすすき)」という狐を祀った末社があったといい』、『そのうち下社の「阿古町」が元禄七年』(一六九四年)『に現在地に移され、白狐社として現在に至っている』とあって、『つまり』、『ここのお狐さまは船岡山の妻狐→阿古町→白狐という変遷を経ている』とする(但し、『中社と上社の末社は現存してい』ないとある)。『命婦(みょうぶ)とは律令制下で女官の地位または官人の妻のことで』あったが、『平安時代以降は宮中の中級の女房を指す総称になり、やがて稲荷社の巫女をよぶようになり、そこから中世には稲荷の狐を意味するようにな』った。『専女(とうめ)とは『土佐日記』では老女のこととされてい』るものの、『同時に老狐の異称でもあり』、『つまり』、『命婦専女とは年老いた雌狐といった意味にな』る。『ただ、これが白狐とされるには、真言密教の影響が大』であるとされた上で、ここに出るのと酷似した東寺建立の際の、『稲束を背負った老翁姿の稲荷神が現れて協力(仏教の守護神として)を申し出』、『東寺はもともと稲荷神の土地に建てられたので』あったとある。『ところが複雑なことに、仏教に於ける稲荷神は老翁姿ではなく、荼枳尼天(だきにてん)という白狐に乗った女神で』あったため、『この仏教の白狐と国産の命婦専女が合体することになり』、『そこから』、『稲荷神の姿は「狐を従えたり、狐にまたがる老翁タイプ」と「狐に乗る女神タイプ」が』あることになった、『さらに武士が台頭してくると、もっと強そうな「狐に乗った天狗」や「狐に乗った不動明王」なども登場』することとなった、と解説されておられる。

「一書(あるふみ)」不詳。

「伊奈利山」又は「稲荷山」。京都市東山連峰の南端、深草山の北、伏見稲荷大社の東にある。標高二百三十二メートル。(グーグル・マップ・データ)。

「元明天皇和同四年」七一一年。

「空海は宝亀五年に誕(たん)ず」空海は宝亀五(七七四)年に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で郡司の息子として生まれ、承和二年三月二十一日(八三五年四月二十二日に高野山で病没した。享年六十二。]

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