譚海 卷之三 堂上領所の百姓の事
堂上領所の百姓の事
○公家衆知行所は、多分(たぶん)五畿内・丹波・近江などにあり。その領所の百姓甚(はなはだ)橫平(わうへい)なるものにて、應對成(なり)がたきほどの事也。若(もし)公事(くじ)等出來(しゆつたい)の時は、所司代へ内證より賴まるゝゆゑ、甚さばき仕(し)にくき事とぞ。夫(それ)ゆへ公家領入組(いりくみ)たる土地は、殊に六箇敷(むつかしき)迷惑成(なる)もの也。又禁裏の御知行所は八瀨(やせ)領の内にあり、これらの百姓言語同斷なるものなりとぞ。
[やぶちゃん注:「多分」多くが。
「橫平」横柄。
「公事」訴訟。刑事民事ともであるが、ここは概ね民事のそれ。
「内證」表向きでなく、内々に意向が伝えられることを言う。無論、領主である公家から所司代に対してである。
「八瀨」京都市左京区の一地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。比叡山の西麓、高野川に臨む景勝地で、桜の名所。古くは山門青蓮(しょうれん)房が支配し、中世には青蓮院門跡領八瀬荘であった。八瀬荘民は山門へ奉仕する一方で「八瀬童子」と称し、朝廷の駕輿丁(かよちょう)を務め、課役免除の特権を得ていた。また、杣夫(そまふ)として洛中で薪商売を行った(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。天皇の柩を担ぐ民とされ、伝説では最澄が使役した鬼の子孫ともされる「八瀬童子」でも知られる地で(リンク先はウィキ。以下の引用もそこから。下線太字はやぶちゃん)、弘文天皇元(六七二)年の「壬申の乱」の『際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで』、『後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている』。『比叡山諸寺の雑役に従事したほか』、『天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座』(座(ざ):平安時代から戦国時代まで存在した、主に商工業者や芸能者による同業者組合。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに、営業や販売の独占権などの特権を認められた)『の最初の記録は』寛治六(一〇九二)年『であり、記録上確認できる最古の座と言われている』。延元元(一三三六)年、『京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷』十三『戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した』。『この功績により』、『地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し』、『天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした』。『比叡山の寺領に入会権を持ち』、『洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた』、永禄一二(一五六九)年、『織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え』、慶長八(一六〇三)年、『江戸幕府の成立に際しても』、『後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している』。『延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。これに対し』、『八瀬郷は再三に』亙って『復活を願い出るが』、『認められず』、宝永四(一七〇七)年になって、漸く『老中秋元喬知が裁定を下し、延暦寺の寺領を他に移し』、『旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し』、『徳をたたえる祭礼を行った。この祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている』(毎年十月の第二日曜日に行われる)とある。また、ウィキの「皇室財産」を見ると、国立歴史民俗博物館の「旧高旧領取調帳データベース」よる幕末期の皇室領データの中に、「御料」地として「八瀬村」が入っている。]