譚海 卷之三 五攝家五大夫
五攝家五大夫
〇五攝家と申(まうす)は、近・九・二・一・鷹司、此外に攝祿の家六人あり、淸華(せいぐわ)と云、攝關の職先(まづ)は五攝家の外に任ぜらるゝ事なし。若(もし)其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也。夫(それ)よりしては五攝家に其仁ありといへども、淸華にて交々(こもごも)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず、一度五攝家に復すれば、永く所職ありて他人にあたへず。夫故に五攝家みな幼弱なる時は、甚だ愁悶せらるゝ事也とぞ。
○近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有(あり)。そののちは庶子にて相續ありしを、又胤嗣(いんし)絶(たえ)たるゆゑ、その御連枝の門跡にておわせしを、還俗にて家督つがせ玉ふ。其後又男子なくして女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也。其餘二條・一條・鷹司家ともに皇孫の相續なり。九條家ばかり鎌足公血脈(けちみやく)斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ。藤氏の御系圖をみれば、不比等は御兄弟にて御相續ありし樣に見えたり、往昔は加樣なる事も風俗にや、思量に捗(はか)らざる事也。
○近衞殿に五關白日記と云(いふ)もの有(あり)。日次記(ひなみき)などいへるも此中の書にして、みな歷史に傳ふべき實錄也。台德院殿御所望にて書寫被二仰付一(おほせつけられ)關東祕府に一部有(あり)、其後近衞家囘祿にて、右の眞本燒却せしかば、又關東へ近衞殿御願有(あり)、祕府の本に就(つき)て書寫功終り、再び近衞家に此書有(あり)とぞ。
○攝簶(せつろく)の家諸太夫十人づつ有(あり)、世官(せいくわん)にして其家司(けいし)を任ぜらる。俸祿は大坂にて賜(たまは)る御藏米(おくらまい)と云(いひ)、例に依(より)て俸祿は玉はるといへども、當今不用の官なれば實(じつ)に其人を置(おく)事なし、每家三四人の諸太夫ありて、十餘人の位官號を兼帶する也。但(ただし)堂上の諸太夫は正六位上なり。伶人及諸神官宮方の家司皆しかり、京官の諸太夫は從五位下に任ずる也。それゆゑに京官の諸太夫江戸へまいり御目見へのときは守(かみ)を稱せず、國名ばかり呼(よび)すての披露也。
[やぶちゃん注:標題に合わせて四条を纏めた。
「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「五大夫」元は秦漢時代に行われていた二十等爵の第九位の官爵であったが、本邦では当初、五位以上の有位者を総じて「大夫」といったが、後に五位だけに用い、「たいふ」「たゆう」と呼んだ。最終条の「太夫」は同義として記している。
「淸華(せいぐわ)と云(いひ)」摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた。ここは「云」は「云ふあるも」でないと文が繋がらないように思う。
「若其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也」とあるが、ウィキの「清華家」によれば、『江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者(摂家)に限られ、清華家の極官は事実上左大臣であった』とし、しかも『その左大臣の任官も江戸期には』十『例と少なく、在任期間も短い』とあるので、本文の「淸華にて交々(かはるがはる)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず」というのは私には不審である。識者の御教授を乞う。
「其仁」その摂政・関白に就くべき人としての資格。
「近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有」後光厳天皇の在位は観応三(一三五二)年から応安四(一三七一)年。ウィキの「近衛家」に拠れば、『南北朝時代の一時期には』近衛家は『両朝に分裂していた』とはある。
「女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也」後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)の皇子を調べてみたが、不詳。
「九條家ばかり鎌足公血脈斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ」ウィキの「九条家」には『鎌倉時代は一条家が九条流の嫡流であったが、室町中期以降、九条家の地位が上昇し、一条家、九条家が九条流の嫡流とされた。江戸時代中期以降は松殿家の所領も併せて継承することとなり、最大の石高となった九条家が広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した』とはある。
「近衞殿に五關白日記と云もの有」鎌倉時代の関白近衛家実の「猪隈(いのくま)関白記」や近衛兼経の「岡屋関白記」、近衛基平の「深心院(じんしんいん)関白記」などか。
「日次記」日記。
「台德院殿」徳川秀忠の法号。
「關東祕府」江戸城の貴重書を保管する書庫のことであろう。
「功終り」労力を尽くして事を成し遂げ。
「攝簶」関白の別称。
「世官」官職を世襲すること。
「家司」親王・内親王家及び職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌った。本来は四位・五位の者が成った。
「伶人」楽人。
「それゆゑに」よく判らぬが、有名無実の官であるから、武家が持っていた「~守」と差別化するためか。]