反古のうらがき 卷之一 物のうめく聲
○物のうめく聲
秋の末つかた、月のいと隈なくて、いと明(あきら)なる夜、内海氏と伴ひて、高田の馬場に遊び侍り。
野菊の薄紫なるが、夜は白々と見へて、ところどころに咲亂れたるに、いろいろの蟲の音(ね)、こゑごゑに呼(よび)かわして、あわれなり[やぶちゃん注:ママ。]。
すゝき尾花も風になびきて、さやさやと聲すなり。
宵の間は、ともに月をめづる人も有(あり)けるが、夜ふくるまゝに、みな、かへり果(は)て、馬場守(ばばも)りが家の燈火もかすかになりぬ。
「西の果(はて)の土手の上あたり、殊に勝れて見所多し。」
とて、ともにこし打(うち)かけて、歌よみ、詩作ることもなく、おのがまに、また思ひいづることども、かたり合(あひ)て、かへる心もなく、うかれ遊びけり。
予がほとり、五、七間が内とおぼしくて、物のうめくよふ[やぶちゃん注:ママ。]なる聲、聞へければ、
「あれはいかに。」
といふ。
内海氏も耳をそばだてゝ、
「されば、さきより、此聲、あり。いか樣(さま)、此(この)あたりと思ふが、土手下あたり、尋ねて見ん。」
とて、かしこ、ここと尋(たづぬ)るに、其聲、いづこともなく、遠くもなく、近くもあらず聞へて、さだかにはあらざりけり。
又、一時もふる内に、夜は、いよいよ更渡(ふけわた)りて、蟲の聲、いよいよ高く、其外、四方に聲なし。
されども、さきの聲は、いよいよ高く聞へけり。
「さるにても、恠(あや)しの聲や。歸り樣(ざま)、其所(そのところ)をしらん。」
とて、西の方、一町ばかり行(ゆき)ても、同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]にて、おりおり絕(たえ)るが如く、聞ゆ。
東の方は歸路に便りよければ、此方(こなた)に向ひて尋るに、同じよふにて、いづくとも定(さだまら)らず、東の果(はて)近く、馬場の中を橫に過(すぐ)る路も越(こえ)て、初(はじめ)て、少し近く聞ゆるまゝに、
「此方なりける。」
とて尋るに、はたして東のはてより、廿間斗(ばかり)こなたの北の方に家ありて、其所(そのところ)なり。
籬(まがき)の外に立(たち)よりて聞(きけ)ば、人の聲も聞へ、燈火もかすかに見ゆ。
よくよく聞(きか)ば、病人のうめくにて、看病の人の、傍(かたはら)にて語り合(あふ)も、ありけり。
こゝにて聞(きく)に、さまで高くはなきに、二町餘(あまり)も隔てて、同じよふに聞へしは、あたり、靜まりし故なるにや。
「扨は、恠しき物にてはあらざりけり。」
とて、打連(うちつれ)て家に歸りける頃は、丑の刻にも過(すぎ)たりける。
[やぶちゃん注:底本でもここは改行されてある。]
ケ樣(かやう)のことも、なれざることは「恠し」と思ふなれば、物におどろく癖ある人の言(げん)は、信じがたし。
又、舟にて大洋(おほうみ)をのるに、「舟幽靈」といふもの出(いで)る、といふ説、よく、人のいふこと也。『其(それ)、形(かたち)ありて、「ひさく」を乞ふ時、底なきひさくを與ふ。然らざれば、水をすくひて舟に入る』といふ。これは、逢ふもの、少(すくな)く、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]は、『沖の方にて、泣叫ぶ聲、哀しく、或は、近く、或は、遠く聞(きこ)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。又、物語する聲、間(ま)のあたりに聞へて、目に見えず』といふ。『遠州灘などにては、度々、有り』と聞(きけ)り。
予、釣するとて、沖中にて、四方の物音を聞くに、陸(くが)にて思ふより、十倍遠き所の音、間のあたりに聞へて、始めて聞(きき)たる時は、驚(おどろく)ばかり也(なり)しが、聞(きき)なるれば、常と思ふ。
東風(こち)の起(おこ)る頃は、總州・房州の網引(あみびき)の聲、やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり。
又、沖の方、目の界(かぎ)りは、舟もなくて、言語は甚(はなはだ)分明なる聲、聞ゆることもあり。
夜舟(よぶね)の恠(かい)も、多くは、是等も有るべし。
聞(きき)なれざる人の、『恠(あやし)』といふも理(ことわり)なる歟(か)。
兎角に、耳目(じもく)に慣(なれ)ざることは、あやしきこと、多き物なり。
[やぶちゃん注:至って〈科学の人〉である鈴木桃野の、現実主義・実証主義的立ち位置がよく判る、擬似怪談現象の、本人が体験した実録解明譚である。大気の逆転層などによって、驚くほど遠くの音が間近に聴こえる現象で、しばしば起こる。私は登山で何度も経験した。本条は既に柴田宵曲の『續妖異博物館「地中の聲」』の私の注で電子化しているが、今回は一から総てをやり直し、今まで通り、推定(ごく一部は底本にルビがある)で読みを附し、臨場感と読み易さを狙って、改行を施した。
「内海氏」不詳。但し、今までの条々で母方の姓が内海である(本来の姓は多賀谷であるが、曽祖父以降、内海を名乗っている)から、そうした母方親族の内の近しい人物にして、同世代ではないかという推測は、シチュエーション全体から逆に窺えるように思われる。
「高田の馬場」ウィキの「高田馬場」によれば、現在の東京都新宿区高田馬場ではなく、その東側の西早稲田三丁目にあったとあるので、注意が必要。この辺り(グーグル・マップ・データ)である。寛永一三(一六三六)年、『徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された』のが最初で、『一説に、この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって』、『高田馬場としたとする。だが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説』もあって、『その』二『つの由来が重なったためとの説もあるとある。ともかくも、当時は江戸市街地の東の辺縁部で、切絵図を見ても、畑地や寺院が目立つ。
「すゝき尾花」一語と採る。すらりと立ち延びるススキの茎を「すゝき」、馬の尾に似ているススキの花穂を「尾花」と呼んだ、としても構わぬ。
「馬場守(ばばも)り」「高田の馬場」の現地の管理人。
「西の果(はて)の土手の上あたり」「高田の馬場」は北直近を神田川が流れており、その流れに概ね平行して馬場が作られていた。現在の都電「面影橋」の南内側辺りが「馬場」の東の三分の一地点附近に当たる(前注の地図を参照)。
「五、七間」九メートル強から十二メートル七十三センチほど。
「物のうめくよふなる聲」「よふ」は「やう」で「樣」。人か動物か、なにものかが呻いているような声。
「一時」二時間。
「ふる」「經る」。
「一町」百九メートル。
「廿間」三十六・三六メートル。
「丑の刻」午前二時頃。
「形(かたち)」目に見える姿形を持っていること。舟幽霊(ふなゆうれい)は概ね、人形をした白っぽいものとして描かれることが多い。
「ひさく」柄杓(ひしゃく)。
「水をすくひて舟に入」れることを繰り返し、その舟を沈没させるのである。
「おゝく」「多(おほ)く」。
「予、釣するとて、沖中にて」後の「總州・房州の網引の聲」から、現在の品川沖あたりか。東京湾湾奥部の適当な位置を置いて見ると、千葉辺りで二十二キロメートル、富津辺りで二十四キロメートルほど離れる。
「やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり」漁師らが喋っているその言葉も、具体的に、部分的ながらその意味が判るほどまで聴こえることさえ、ある。]

