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2018/08/28

反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第二

 

   ○尾崎狐 第二

 

 靑梅海道に阿佐ヶ谷といふ村あり、堀之内より二十町程あり、其名主を喜兵衞といふ。叔氏醉雪翁の婦(つま)の姻家(さとつゞき)なり。

 別家あり、同村にあり、虎甲といふ。其家に妖恠出で、四月下旬より八月に至る迄止まず、七月下旬、醉雪翁が末子(ばつし)弟次、行(ゆき)て見しに、

「此日はさしたることなし。梁上より錢一文を抛(なげう)つ。暫くして椽(えん)の下より竹竿を出(いだ)し、振𢌞(ふりまは)す。此外、恠しきこともなかりし。」

よし。

 其後、八月に至(いたり)て消息を問ふに、猶、怪しきこと言盡(いひつく)すべからず、或人、寶劍のよしにて、一刀を持來(もちきた)るに、寶劍、自(おのづ)から拔出(ぬけい)で、飛(とび)あるく。人々、驚(おどろき)、箒を以て打落(うちおと)し、からくして、室に收め、面目なく逃歸(にげかへ)る。

 又、或人、「蟇目(ひきめ)の法」を修したるよしにて來りしが、是も、弓を引(ひき)たるまゝ、棒しばりの如く、作り付(つけ)たる人形の如く、放つ事、能はず、稍々(やや)暫くして、力盡きてゆるまりければ、亦、赤面して逃去(にげさ)るよし。

 其外、單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし。

 又、飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ、茶釜の茶は水となり、又、沸湯となり、見る間(ま)に、かはる。茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付くなどの類、說盡(ときつく)し難し、といふ。

 予、小野竹崖を訪ひて、談(ものがたり)、これに及び、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「子は射術の師範なれば、定(さだめ)て蟇目を行ふこともあるべし。右の說、虛說ならばよし、もし實(まこと)に是等のことあらば、如何(いかに)か處(しよ)し玉ふ哉(や)。予、寶劍をば持たずといへども、兩刀を帶(おび)たれば、これが飛出(とびいで)たらんには面目なし。狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや。若(も)しさあらんには、是迄、あなどりて、ことともせざりしは不覺也。吾(われ)、道にては邪は正に勝(かつ)能はずなどいへれど、かゝる術あらば、鬼神と同じく、敬するにしかず。武力施す所なく、正道、邪に勝つこと、能はず。吾(われ)事を好むにはあらねども、窮理の爲(ため)なれば、彼(かの)地に行向(ゆきむか)ひて實否を正し、其上にて工夫を用ひんと欲す。子(し)、ともに去り玉ふまじや。」

といへば、

「尤(もつとも)。」

とて同(どふ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])じけり。

 一日、朝まだきに出で、彼家に趣く。途中に四谷傳馬町「ドウミヤウ」といふ藥店の人に逢ふ。此人も右の恠異の不思議さに、是迄、訪(おとな)ひ來りしよしにて、同道せり。

 阿佐ケ谷の入口なる水茶やにて辨當を遣ひ、亦、其風聞を聞くに、猶、大(おほい)に恠敷(あやしき)ことども有り。

「八朔の日は、江戶の人々、來り、大言して恠異の物語すると、其儘、土砂を頭より蒙りたり。或(あるい)は、恠を罵(ののし)る者は、必ず、其祟りに遇ふ。みぞ・堀などに入者(いるもの)もあり、糞坑(くそあな)に入物(いるもの)もあり。」

となり。

 これにて藥種や、恐ること甚(はなはだ)し。予が輩も、隨分、小心にして、敢てみだりなる言を出さず。

 先(まづ)、名主に至りて案内を賴み、扨、凶宅に至り、暫く休息を乞ひけり。其間、六、七町也。

 扨、寒溫を舒(の)べ、次に歲の豐凶など語り、敢(あへ)て「怪」の字、半句も說かざりけり。小半時にして、何ごともなし。予、默禱(くちのうちにいのり)【もくとう。】して曰(いはく)云々。呪文の大意は、

「これ迄來(きた)ること、事を好むにあらず。實(まこと)に吾輩、狐狸の恠を信ぜず。大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし。これ、吾道に於て其說なく、且は、未だ目に見たることなき故のこと也。彌(いよいよ)其術あらば、吾等の惑ひ、とくる程に技能をあらわし[やぶちゃん注:ママ。]、以後を警(いま)しめ玉へ。」

と如ㇾ此(かくのごとく)呪(じゆ)して、しばしあれども、ことなし。

 又、默禱して、いふ。

「かく迄、其技を見んことを望むに、おしみて、肯(うべなひ)て示さざるは如何に。さればこそ、吾道にて常に慢(あなど)ることあるは、かゝるいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なき業(わざ)をなし玉ふ故也。吾去りて後、如何樣に技能を逞(たくまし)ふし玉ふとも、吾、決(けつし)て其術を信ぜず。されば、慢(あなど)る心、やまず。以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ。」

といふに、時ありて、又。事もなし。

 於ㇾ是(ここにおいて)、大(おほい)に罵りて、いふ。

「かく迄、理(ことわり)を盡し、辭(ことば)を盡しても感應なきは、靈に通ぜし者にあらず。口より出(いで)ざる言(ことば)は耳に入(いる)ことなきに似たり。然(しか)れば人と殊(こと)なることなく、技能も人に勝ること、覺束なし。果して、吾、常に思ふの外には出ざりけり。あたら、ひまを費して、窮理の爲に是迄來りたるは、大に無益なりけり。さらば、大言せしとて祟りあるべからず。此頃のはなしをきかんとて、主人と恠の談(ものがたり)に及び、委細を尋(たづぬ)るに、果して、十に八九は、虛說なりけり。其實、瓦礫(ぐはれき)を抛(なげう)ち、食を竊(ぬす)むの外は、恠といふ程の事はなし、といふ。予、其時、思ふ、此(この)行(おこなひ)や、究理に能はずといへども、別に一事を得たり。是より以後、世の風說、十の壹二と聞くべし。吾、今日、理(ことわり)を究(きはめ)たり。」

とて笑ひ罵りて、竹崖・藥種やを促して立歸る。

 此日、四つ半時より、八つ頃迄、凶宅に居しが、何事もなし。興、索然として、又、靑梅街道を淀橋通り來り、十二社にて休(やすら)ひ、内藤新宿、通り、歸家す。

 天保八年八月七日、大風雨の、一日降(ふり)て後なれば、殘暑も大(おほき)に退(しりぞ)き、遊行(いうかう)には甚(はなはだ)美(よき)日にてぞありける。

[やぶちゃん注:次は底本でも改行されてある。]

 門人興津生の父、幼少の頃、家に池袋の奉公人を置(おき)て、此祟りあり。其頃、人のいふをきくに、不思議なる事ども也。

 或日、昨夜より釜に米を仕掛置きて飯を燒きしに、櫃に移すとき、釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所より、さなだの紐、出(いづ)る。段々と飯を移して盡(つく)るに至れば、主人の越中犢鼻褌(ふんどし)、疊みたる儘に下にしきて有り。其紐のはし、先(まづ)、あらわれたるなり。

 或時は、人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし、などいへり。

 阿佐ヶ谷より歸りて後、興津生の父と、談(ものがたり)、恠の事に及びし故、古への話を聞(きき)しに、

「是も十の一二なり。畢竟、此種の狐、野狐(やこ)よりも、性(しやう)、愚(ぐ)にして、さしたる能(のう)なきに似たり。大體、猫のいたづらに異ならず、人事にも通ずることなし。一月餘(あまり)の間に、唯(ただ)、一事、やゝ人事に通じたる事ありけり。臺所の膳棚にありける下男が膳に、さらの有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり。此一事のみ。其餘は見るに足(たる)事なし。」

と語りき。

[やぶちゃん注:以下の頭の「《御徒目付となる。》」は当該箇所の頭書(かしらがき)と本文割注の下にあるものをここへ、かく配したものである。「興津彌八郞」に就いてのそれである。ここは底本では改行されていない。]

《御徒目付となる。

 興津彌八郞【其頃、廿騎町與力、今、御裏門與力。其(その)子鉉一郎、予、門人なり。】、其頃、興津が家僕、早朝、庭の掃除に出(いで)しに、異獸、孳尾【じひ】して居(をり)し故、一棒に打殺(うちころし)、其一つは佚(にが)せり。其さま、いたちより大にして、尋常狐より小なり。唯、羣集して害をなすを如何ともしがたき、よし。

 

[やぶちゃん注:長いので、改行を施して読み易くした。先の「尾崎狐 第一」の続編である。

「阿佐ヶ谷」東京都杉並区佐谷北附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀之内」東京都杉並区堀ノ内。ここ(グーグル・マップ・データ)。中心は上記の北の端の中央線阿佐ヶ谷駅から南東に二キロメートルほど。

「二十町」二千百八十二メートル。

「叔氏醉雪翁」二度、既出既注。筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「婦(つま)の姻家(さとつゞき)」妻の実家の親族。

「虎甲」「とらかつ」か。屋号であろうか。主人が甲寅(きのえとら/コウシン)年の生まれででもあったか。

「弟次」「おとつぐ」か。

「からくして」からくも。やっとのことで。

「蟇目(ひきめ)の法」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注を参照。これらを見ると、特に狐憑きに効験があったと考えられていたことが判る。精神病者に対する乱暴なショック療法である。

「單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし」判り難いが、しまっておいた単衣の衣が腰から下が切り取られて半纏状にされており、別にあったもともと半纏であったものの下に、その切り離した単衣の腰から下の部分が、知らぬうちに綴りつけられてあった、その裁断や綴り合せの仕儀は、普通に人間が成したものと全く変わりがなかった、というのである。

「飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ」蓋がちゃんとしてあって、誰も開けていない(はずな)のに、中の牡丹餅は全く消えうせており。

「茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付く」前の「狐狸字を知る」で私が注した、典型的「ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ霊)である。

「小野竹崖」不詳。

「狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや」この「や」は反語的疑問。

「ともに去り玉ふまじや」同道して行っては下さるまいか?

「四谷傳馬町」伝馬町は、江戸府内から五街道にかかる人足・伝馬の継ぎ立てを幕府の命により行なった「道中伝馬役」を請け負った「大伝馬町」及び「南伝馬町」と、江戸府内限定の公用の交通・通信に当たる「江戸廻り伝馬役」を請け持った「小伝馬町」があったが、ほかに「大伝馬町」と「南伝馬町」に付属する町として、寛永一五(一六三八)年に設けられた「四谷伝馬町」と「赤坂伝馬町」があった。前者は現在の新宿区四谷一~三丁目に相当する。の中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ドウミヤウ」漢字不詳。

「八朔の日」八月一日。

「藥種や」薬種屋。先の四谷伝馬町の「どうみょう」という店の主人である。

「予が輩」同行していた桃野の弟子(書生のような者)或いは従者であろう。薬種屋主事はいいとしても、弓術師範の小野竹崖を指したのでは、それこそ不遜であるからである。

「其間、六、七町」六百五十五~七百六十四メートルほど。先の弁当を食べた阿佐ヶ谷の入口にあった水茶屋から、その怪異の起こるとされた家までの距離である。当時の読者なら、「ああ、あの辺だ」と判るリアリズムがある。面白い明記ではないか。

「寒溫を舒(の)べ、次に歳の豐凶など語り」凶宅の主人に時候の挨拶を成し、当地の実りの良し悪しを訊ねたのである。訪問したのが「八朔の日」であったことを思い出されたい。丁度、この頃に早稲の穂が実り、農民の間では、その初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、当日は「田の実の節句」とも称したのであった。

「小半時」(こはんとき)は「半時」の半分。「一時」の四分の一。現在の三十分。

「大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし」怪異の主体たる「物の怪」或いは「鬼神」が実在するとならば、私のこの態度は尊大にして不遜であり、その威力や神力を侮り、穢すこととなるであろう。

「吾道に於て其說なく」私の認識の範疇に於いては、そうした超自然的存在について認める部分は、全く、なく。

「肯(うべなひ)て示さざるは如何に」私の要求を了解して、怪異を示さないというのは、どういことか!

「以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ」こちらがここまで譲って怪異出来を乞うておるにも拘わらず、そちらがひるんで怪異を示さぬ上は、以後、ますます拙者はそなたらに非礼を成すことが多くあるに相違ないことに、当然、なるのであるが、その時になって、遅きに失して、お怒りなさいますなよ!。

「四つ半時より、八つ頃迄」午前十一時頃から午後三時頃まで。

「興、索然として」すっかり興醒めしてしまって。桃野はどこかで、怪異に遭遇して、それを冷徹に分析することを楽しみにしていたことが判る。

「淀橋通り」淀橋(よどばし)は現在の東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋((グーグル・マップ・データ))の名であるが、現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。

「十二社」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『熊野の十二社権現のある地。池があり』、『幽邃の地で、茶屋が列んでいた。新宿区』とある。現在の新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守熊野神社のこと。(グーグル・マップ・データ)。

「天保八年八月七日」グレゴリオ暦一八三七年九月六日。

「釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所」釜の内側の底のことであろう。それを移しているのが「池袋の奉公人」なのである。

「人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし」その「池袋の奉公人」は、膳出しの役は一度もやったことがなかったのにも拘わらず、という前提があっての謂いである。

「臺所の膳棚にありける下男が膳に、さら」(皿)「の有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり」これは実は謎だ。この下女とこの下男との間には、何か、あったのではないか? 或いは、この下女は彼女に気が合ったとか? 最後の最後に、怪異とは別の謎が出されているようで、却って面白いではないか。

「興津彌八郞」息子とともに不詳。

「御徒目付」既出既注

「廿騎町」既出既注

「御裏門與力」江戸城の裏門は平川門の警備主任か。大奥に最も近く、日常的には大奥の女中達の出入りする通用門であり、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったらしい。この門は別名「不浄門」とも称され、罪人や遺体はここから出されたともいう。

「孳尾【じひ】」「じひ」この漢字の音で「ジビ」であろう。「孳尾(つる)ぶ」で「交尾(つる)む)」の意である。

「尋常狐」「尋常」の「狐」。

「羣集して害をなすを如何ともしがたき」これが尾崎狐の正体と言うわけか。またしても、最後の最後に狐でない狐という妖獣を示して、怪奇完全否定では終わらせない(まさに十の内の一の解明不能の超常現象の匂わせ)。なかなか桃野、やるじゃないか!

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