譚海 卷之三 御藏米之堂上方御裝束料
御藏米之堂上方御裝束料
○石山三位(いしやまさんみ)殿犖卓不羈(たくらくふき)の人にて、公家衆の給俸增(まさ)れたる事有(あり)。所司代泉涌寺へ拜禮に詣(まうで)らるゝ路次(ろし)に、靑侍やうの編笠かぶりたる男、路の眞中に先に立(たち)て行(ゆく)ゆゑ、所司代の前駈(まへがけ)叱咜(しつた)すれどもきかぬふりにて徐(ゆるや)かにあるく、間近く成(なり)てしきりに呵(か)する時、跡をふり返りて、誰(たれ)なれば加樣に乘打(のりうち)せらるゝ、身は石山三位也と云(いふ)を聞(きき)て、所司代驚き下乘して式禮せられしかば、泉涌寺へ參詣ならば自分も拜禮に參(まゐる)ゆゑ、同伴致(いたす)べしとて强(しひ)らるゝ間(あひだ)、所司代いなみがたく跡に立(たち)て步行し、物語しつゝゆかれしに、扨(さて)かしこに至りて、三位殿背負れたる風呂敷より裝束を取出(とりいだ)し、着かへて拜禮畢(をは)り、墓所の有方(あるかた)に退座し、三位殿火打(ひうち)取出し、たばこまいりながら、所司代と暫時閑談有(あり)、所司代申されけるは、かやうに官位の御身にて無僕(むぼく)にて御往來はあるまじき事と申されければ、石山殿、されば其事に候、御藏米少給にて中々進退力に及(およば)ざるよし申されける。加樣の事共(ことども)關東へ御聽に達し、御沙汰有(あり)て、以來御藏米の公家衆へは、裝束料として年々黃金一枚づつ賜る事になりしとぞ。
[やぶちゃん注:「石山三位」江戸時代前・中期の公卿石山師香(もろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)のことか。藤原氏持明院支流の壬生基起(みぶもとおき)の次男。元禄一六(一七〇三)年、従三位となり、壬生(当時は葉川)家から分かれて石山家を興した。享保七(一七七二)年に参議となり、同十九年、権中納言・従二位。狩野永納(かのうえいのう)に学んで、戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(ここは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「犖卓不羈」「犖」は「卓」と同じく「勝れる」の意。「不羈」は「才知が人並外れて優れており,常規では律しきれないこと」で、「他者より優位にすぐれており、しかも何ものにも束縛されないこと」の意。
「所司代」石山師香だとして、彼が三位になって以降の京都所司代は、松平信庸(のぶつね:在任は一六九七年から一七一四年。丹波篠山藩藩主)・水野忠之(在任は一七一四年から一七一七年。三河岡崎藩藩主。後に老中となり、享保の改革を支えた)・松平忠周(ただちか:在任は一七一七年~一七二四年)信濃上田藩藩主。後、老中)の孰れかとなる(牧野英成は没年の就任だから含めない)。ただ、見かけを「靑侍」と称しており、この場合、それは「若くて、ものなれていない官位の低い侍」と見間違えたのであるから、年老いてからでは、どうもシチュエーションにそぐわぬ。とするれば、前二者、松平信庸・水野忠之のどちらかであるが、水野の時は師香は既に数え四十六に達しており、無理がある気がするし、そもそも後に超有名な老中となる水野であったなら、名を記さぬはずがないと私は思うから、最終的に私はこの京都所司代は松平信庸ではなかったかと考えるものである。
「乘打」馬や駕籠に乗ったままの状態で、貴人や社寺仏閣等の前を通り過ぎることを言う。下乗(げじょう)の礼を欠いた非礼行為である。
「たばこまいりながら」(「まいり」はママ。歴史的仮名遣は「まゐり」が正しい。以下、それで表記する)の「まゐり」はこの場合、特異点の「たばこをのむ(吸う)」の尊敬語「お吸い遊ばれつつ」であるので注意。
「無僕」従者を誰も従えぬこと。
「進退力に及(およば)ざるよし」日常の行動が経済不如意のため思うようにならぬ旨。]
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