譚海 卷之三 堂上潛行の事
堂上潛行の事
○諸搢紳(しんしん)洛中往來は禁止也。齒を黑め粉(こ)を傅(つく)る事も、凡(およそ)人に分ちやすき爲(ため)なりとぞ。皆近世の事也。微行(びかう)せらるゝ時は、深編笠大小刀、裏付上下(うらつきかみしも)を着する也。上下(かみしも)は純子(どんす)・もうるのたぐひを用ひらるゝ也。遊山に出られて途中にて支度せらるゝには、其所の寺へ使(つかひ)をよせて、某(それがし)三位(さんみ)にて候、懸合支度(かけあひじたく)仰付(おほせつけ)られ被ㇾ下(くだされ)とて、其まゝ座敷へ通らるれば、何にてもありあふものにて食事まかなひ出(いだ)す、是(これ)京都の寺々の課役と同事になりてある事也といへり。
[やぶちゃん注:「潛行」身分の高い人が身を窶(やつ)して密かに忍び歩きすること。文中の「微行」も同義。
「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。
「粉」白粉(おしろい)。
「純子」「緞子」に同じ。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。
「もうる」莫臥爾。糸に金や銀を巻きつけた撚糸(モール糸)を織り込んで文様を出した織物のこと。経に絹糸、緯に金糸を用いたものを「金モール」、銀糸を用いたものを「銀モール」と称し、後には金糸または銀糸だけを寄り合わせたものもこう呼称するようなった。名前はポルトガル語「mogol」が由来らしく、もともとはインドのモグール(ムガル)帝国で好んで用いられたことからとされる。漢字では「莫臥児」「回々織」「毛宇留」「毛織
などの字が当てられる。
「三位」公家は朝廷に仕える貴族・上級官人の総称で、天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家を指したことから、公家の別称となった。
「懸合支度」と一語と捉えた。以下の文から「交渉による着替え及びそれに付随する準備や合間の休憩・食事」の意と採る。]