譚海 卷之三 公家束帶取𢌞 所司代束帶の事
公家束帶取𢌞 所司代束帶の事
○公家衆束帶の取まはしは、はだかにて稽古有(ある)事とぞ。着座は足うらを合して趺座(ふざ)す。幼稚より習(ならひ)て性(しやう)と成(なり)たるが如し。總て盛服の時は二便(にべん)とも失する事あたはず、夫(それ)故御會始又は公宴などは終日の事故(ゆゑ)、老人或は二便に堪(たへ)ざる人は大かた所勞を申立て缺席有(ある)也。公家衆參内の途中は裾をば卷(まき)て腰にはさまるる、大抵步行にて參内也。草履取斗(ばか)り具せられ、又は若黨を加へ具せらるゝも有(あり)、上﨟は駕籠にて唐門(からもん)の下までゆかるゝもあり。每日京都見物に諸國より上りたるものは、唐門の向ひに居て拜見する事也。いづれも門の下にて草履を沓(くつ)にはきかへ、笏を端(ただ)し裾を曳(ひき)て甃道(いしきみち)をねり入らるゝ。一進一止、步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて刻(とき)を移す事也。足取(あしどり)に家々の式(しき)ありて、足ぶみの拍子もかわれり[やぶちゃん注:ママ。]。遙(はるか)に進み入らるゝ迄、沓(くつ)の聲遠く門外へ徹して聞ゆる也。
[やぶちゃん注:標題の関係上、二条をセットで続ける。「公家稼業も楽じゃない」話。
「趺坐」足を組み合わせて座ること。
「二便」大便と小便。
「所勞」病気。
「唐門」宜秋門(ぎしゅうもん)か。位置や出入りの格式等については、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の「京都御所(京都史跡めぐり 大江戸散歩)」を参照されたい。京都御所の六つの総ての門について書かれてあり、地図もある。
「端(ただ)し」礼式通りに持ち。
「甃道(いしきみち)」「いしだたみみち」とも読むが、どうも間延びして厭だ。
「步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて」一足出す歩き方についてさえ儀礼の式(約束事)があって。
「刻(とき)を移す」時間が有意にかかる。]
○所司代禁裏付(きんりづき)の武家など上洛のはじめは、第一束帶難儀せらるゝ故、極(きめ)て裝束付(そくたいづき)とて非藏人(くらうど)か北面衆の中をたのむ事也。參内の度每に此人を請(しやう)じて裝束してもらふなり。その度ごとに謝禮の目錄を遣はす事ゆへ、後々は自身に裝束をつけて出仕する事あれども、禁中簾内出入の俯仰(ふぎやう)に、多(おほく)は帶ゆるみ、はさみたる衣ぬけ落(おち)て狼籍に曳(ひき)ちらし、ひろごりありき、赤面に及ぶ事有(あり)。夫(それ)ゆゑうは帶(おび)を隨分かたく結びてぬけ落ぬやうにすれば、一日の進退みぐるしくもあらねど、背をかたく結びつむるゆへ、腹腰くびられてはなはだ息づかひくるしきもの也。たのみたる人に裝束つけてもらひ參内する日は、帶もゆるやかにさのみかたくむすびたる樣にも覺えねど、終日出入俯仰にも衣ぬけおちる事なしとぞ。裝束平生(へいぜい)の事に成(なり)たるゆゑ、着用の覺悟ある事成(なる)べし。延享年中關東にて法華八講御法事ありし時、御家門の近臣大名衆初めみな束帶にて詰られし折節、別事にて下向の公家衆拜見を許され、同樣に出仕ありしに、兩三輩いづれも下﨟の仁(じん)なりしかども、束帶の儀貌(ぎばう)雲泥にわかれて、優美成(なる)事ども成(なり)しとぞ。
[やぶちゃん注:「武家の束帯男はつらいよ」話。
「所司代」京都所司代。京都の市政を管轄するため、安土桃山時代から置かれた。元は室町期の「侍所所司代」に由来する。職務は京都の防衛と治安維持、朝廷及び公家の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行の管理、近畿八ヶ国の天領に於ける訴訟処理、西国大名の監察等であった。定員一名で譜代大名から任ぜられた。
「極(きめ)て」訓は推定。決まって。
「自身に」配下の者に命じて自分で。
「俯仰」原義は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」であるが、ここは「立ち居振る舞い・起居(挙止)動作」の意。
「狼籍に」ばたばたになって見苦しい状態になるさま。副詞的用法であろう。
「たのみたる人」「賴みたる人」は依頼した人の意ではなく、束帯を着たり、着せることにごく馴れた、信頼出来る公家方或いはその礼式に精通した人物の意であろう。
「延享」一七四四年から一七四八年まで。
「延享二(一七四五)年三月十三日から十七日まで紅葉山御宮に於いて「御染筆法華八講」が執行されている。将軍は徳川吉宗(彼はこの半年後の九月二十五日に将軍職を長男家重に譲った)。]