諸國里人談卷之五 ㊉器用部 大峰鐘
㊉器用部(きようのぶ)
○大峰鐘(おほみねのかね)
一日(あるひ)、遠江國長福寺に一人の山伏來〔きたつ〕て、齋料(ときりやう)を乞(こふ)。
「愚僧、此度、大峰に入ルに路用つきたり。合力(かうりよく)を得ん。」
と云〔いふ〕に、住僧、嘲哢(ちやうらう)して云〔いはく〕、
「當寺に『かね』といふは鐘樓(しゆろう)より外に、なし。あの鐘にても路用に足らば、參らすべし。」
客僧、よろこび、
「さらば、得ん。」
とて、金剛杖を以て龍頭(りうづ)を突けば、鐘は、則ち、地に落たり。かろげに提(さげ)て、走り行〔ゆく〕。
人々、おどろき、その跡を追ふに、飛ぶがごとくにして走りぬ。
此鐘、大峰釋迦嶽(しやかだけ)の松にかゝりて、今に存す。
是を「鐘掛(かねかけ)」と云〔いふ〕。
此所、嶮岨(けんそ)にして、一身(いつしん)だも、登りがたき所也。
其鐘銘ニ曰、「遠江國佐野郡原田庄長福寺天曆六年六月二日」。
[やぶちゃん注:劇的なので、特異的に段落を施した。「大峰鐘」とキャプションする本条の挿絵がある(①)。これは『柴田宵曲 妖異博物館 「持ち去られた鐘」』(私の電子化注)にも紹介されてあるので参照されたい。また、松浦静山の「甲子夜話續篇卷之十」の「駿州長泉院【或云、遠州長福寺】の古鐘」にはロケーション違いの二ヴァージョンの話が併置されてあり、そこでは孰れも奇僧を「役の行者の神變」或いはその「眷屬」としており、本伝承を考える上で貴重な資料となっている。
「遠江國長福寺」現在の静岡県掛川市本郷にある曹洞宗安里山(あんりさん)長福寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「掛川市のお寺」の同寺の解説によれば、神亀三(七二六)年、行基菩薩の開創と伝えられる。当時は真言宗の寺として栄え、元慶八(八八四)年に延暦寺座主智証大師が再興し、天台宗に改宗され、その後、曹洞宗に改められたと伝えられる。そこには伝承として、『当寺には昔竜宮より伝わる寺宝の梵鐘があった。長暦』(ちょうりゃく:一〇三七年から一〇四〇年まで。平安中期)『のころ、ある日山伏が来て』、『修験の功験について住職と論じ』、『勝った。帰りに寺の鐘を所望したため、住職はやむなく承諾すると、山伏は鐘を引っさげ』、『空中を飛行し』、『消え去った。後日』、『この鐘は大和国の金峰山の頂上にかかっていた。その銘に「遠江国佐野郡原田郷長福寺鐘、天慶七年六月二日」と刻んである。今なお』、『奈良県吉野郡の大峰山山頂の大峰山寺』(ここ(グーグル・マップ・データ))『に国の重要文化財として現存している』とある。
「齋料」僧侶に施す食事や金品。「齋(とき)」は「食すべき時の食事」の意で、仏教で食事のこと。インド以来の戒律により、本来は午前中に食べるのを正時とした。それでは実際にはもたないので、午後のそれは「食すべき時ではない時刻の食」の意から「非時 (ひじ)」 と称した 。
「合力」金銭や物品など(労力も含む)を与えて助けること。
「大峰釈迦嶽」奈良県吉野郡十津川村旭にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。大峰山寺の南南西十六キロメートルの位置で、長福寺からは直線で二百三キロメートル以上ある。よく飛びました。
「鐘掛(かねかけ)」大峰山寺の南西直近の山上ケ岳に「鐘掛岩」が現存する。東京都台東区竜泉にある「飛不動尊 正宝院」公式サイト内のこちらで恐るべき険阻さが判る。
「一身(いつしん)だも」「如何なる剛勇の人も」のニュアンスか。前のリンク先の写真を見ると、修行者は登るようだ。
「遠江國佐野郡原田庄長福寺天曆六年六月二日」前に見た通り、「天曆」(てんりゃく:九四七年~九五七年)は「天慶」(九三八年~九四七年)までの誤り。大峰山寺の本堂内に現存。ウィキの「大峰山寺」によれば、天慶七(九四四)年の『銘は追刻で、鐘自体は』遙かに古い『奈良時代』(和銅三(七一〇)年から延暦一三(七九四)年)『の作』とある。伝承に合わせた捏造刻印であろう。]