反古のうらがき 卷之一 八歳の女子を産む
〇八歳の女子を産む
松平冠山老公の采地(さいち)は常州とか聞(きき)し。百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戶にての評判、甚し。板本(はんぽん)となして、市(いち)に賣るものも有けり。老公、家臣を召して尋給(たづねたま)ひしに、「さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなし」といひけり。老公、獨り信じ給はず、或日、駿足を命じ、一騎乘りにて家を出(いで)、三十里計(ばかり)の路程を一日に馳付(はせつけ)、名所(などころ)の如く尋行て、其家を求めしに、絶(たえ)て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣なるものなるべし幸に、三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり。若(もし)數百里の外の事ならば、疑(うたがひ)を解くに緣(よし)なく、終生、疑ひおもふべし。人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」といはれしよし。老公は予が翁と同甲子生(かつしうまれ)にて、同庚會(どうこうくわい)に會(くわい)せし人也、其後も、予が祖母八十の賀詩を惠まれし也。
[やぶちゃん注:標題は「八歳の女(むすめ)、子を産む」である。さても、この奇談の元ネタは既に私の「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」にも載り(「下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿」と場所が異なる。恐らくは茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町で、現在の茨城県取手市藤代周辺、ここ(グーグル・マップ・データ)であると思われる。取手市は嘗ての常陸国と下総国に属した地域である)、ここにある通り、当時、いわば、「都市伝説」として爆発的にヒットしたもので(その結果として変形譚が数多くある)、かの滝沢馬琴編になる奇譚蒐集会「兎園会」の報告集「兎園小説 第二集」にも、海棠庵(常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮の号)の報告として「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」として載った。それらは総て「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」の注で電子化して注も附してあるので、是非、見られたい。また、このトンデモ噂は柳田國男も着目している(『「一目小僧その他」附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』を参照)。
「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。
「采地」この場合、若桜藩の現地の藩領とは別に、飛び地として拝領している領地を指す。
「常州」常陸国。概ね、現在の茨城県に相当。前に示した「耳囊」
「三十里」約百十八キロメートル。江戸から直線だと、ひたちなか市辺りに当たる。但し、先に示した茨城県取手市藤代だと直線で四十一キロメートルで、実測距離としても、そんなにはないし、そもそもが藩主が供も連れずに行く距離ではない。一人で数値の誇張が疑われる。柳田も流石にあり得ないと思ったものか、上記リンク先の中で、『其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』と本文と違ったことを書いている。まあ、判らぬでもない。そうしないと、この池田定常が確認したという事実が無化されてしまい、折角のトンデモ話の否定が上手くゆかなくなっちゃうからね。
「人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」やや言葉が足らず、意味が採り難い。「世の中には、このように多くの人々が疑っていながら、確認出来ないために無批判に信じ込んでしまっていることが多くあるのであって、後に、それが本当にあったまことの怪奇談として認識されてしまうことが、これ、あるものなのである」という意味で採っておく。
「予が翁」鈴木桃野の実父である幕府書物奉行を勤めた鈴木白藤。
「甲子生」ここは単に同じ「干支(えと)」の生まれの意であるので注意。次注参照。
「同庚會」は底本の朝倉治彦氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載があり、そこに松平冠山の名もあり、『白藤は明和四』(一七六七年)『九月十六日生』まれとある(没年は朝倉氏の冒頭の解説によれば、嘉永四(一八五一)年)。或いは、明和四年の干支は丁亥(ひのとい)なに何故、同「庚」(コウ/かのえ)なのだろう? と疑問に思われる方がいるだろう。紛らわしいのであるが、この場合の「庚」は狭義の十干の七番目それを指すのではなく、「年齢」の意で、「同庚」で「おないどし」の意味なのである。「同甲」とも称する。
「予が祖母」底本の朝倉氏の注に『多賀谷氏』とあるから、これは桃野の母方を指す。多賀谷(たがや)氏は武蔵七党の一つである野与(のよ)党を祖とする一族である。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴したので追記する。白藤の舅は底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『先手与力多賀谷氏の』娘とするが、T氏の紹介になる国立国会図書館デジタルコレクションの森潤三郎氏の「鈴木桃野とその親戚及び師友(上)」(大正一四(一九二五)年刊)のこちらによれば、白藤の妻の父は(【 】は「樂山」への右傍注)、
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一、舅 御先手曲淵隼人組與力之節 多賀谷樂山【俗名源藏】死
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とあり、これは「多賀谷安貞」なる人物である(T氏に拠る)。講談社「日本人名大辞典」によれば、多賀谷安貞(享保一九(一七三四)年~文化元(一八〇四)年)は、『父にまなんで腹診法に精通したが』、『医業を』好まず、『親戚』・『友人や貧困者のみに治療をほどこす。のち』『砲術で幕府につかえ』、『銃隊与力となった』。『通称は源蔵。号は楽山』とある。また、T氏の紹介してくれた、「国文学研究資料館」の「古事類苑データベース」の「方技部十三」「醫術・四」「診候」「診腹」の条には、「皇國名醫傳後編
下」から引用して(一部の表記に手を加えた。【 】は割注。当該サイトでは原典画像も見られる)、
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多賀谷安貞、字源藏【號二樂山一。】、上野人、父安命善レ醫、安貞傳二其術一、尤精二腹診一、然不レ喜レ業レ醫、逢三親朋有レ疾與二貧困不一レ能レ請レ醫、則爲療レ之、他有二求レ治者一皆辭、仕二幕府一爲二銃隊與力一、安貞晩得レ疾、自知レ不レ起、力レ疾著二腹診秘訣一卷一以遺二後人一、腹候之法其起久矣、天正慶長間竹田定加始唱レ之、松岡意齋、北山道長【著二診腹法一。】、堀井直茂【通稱。】。
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とある。]