甲子夜話卷之五 8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首
5-8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首
白川侯當路のとき落書あり。
黑棒が泥坊どもを逐まわし
後(アト)に殘るがしわんぼうなり
此時執政の列なる本多忠忠籌【彈正大弼。剃髮して號水翁】の聞及て、同家肥後守に笑話せられしとぞ。戲謔と雖も至當の言なるべし。可ㇾ味。
■やぶちゃんの呟き
「白川侯」散々出て、既注の松平定信。
「御補佐」老中在任中であること。
「本多執政」忠以(ただもち)系本多家第五代の本多忠籌(ほんだただかず 元文四(一七四〇)年~文化九(一八一三)年)。天明八(一七八八)年二月に側用人に任じられ、五月には従四位下弾正大弼に昇叙、以降、松平定信・松平信明とともに「寛政の改革」を推進、寛政二(一七九〇)年四月には老中格に任ぜられ、侍従に任官した。しかし、寛政五(一七九三)年七月、徳川治済の賛同のもと、独裁傾向を強める定信の老中解任を実現した。後寛政十年に老中職を辞任し、翌年、隠居した。「執政」は老中の別称。なお、彼の妻は静山の曽祖父松浦篤信の娘である。
「當路」「要路に当たる」の意から「重要な地位についていること」を指す。
「黑棒が泥坊どもを逐まわし」「後(アト)に殘るがしわんぼうなり」(表記はママ。歴史的仮名遣では「おひまはし」「しわんばう」が正しい)「黑棒」は「くろぼう」で定信の「白」川侯に反転義で掛けたものか。「泥坊ども」は賄賂塗れの田沼(の「泥」)一派でよかろう。「逐まわし」(失脚させ)、俄然、「寛政の改革」を敷いて行くが、そこで役人から庶民にまで厳しい倹約を強要し、極端な思想統制令により経済・文化が著しく停滞した。それを「しわんぼう」=「吝(しわ)ん坊」、吝嗇(けち)と揶揄したものであろう。ただ、「黑棒」には別に意味が掛けられてあるようにも思える。識者の御教授を乞う。
「同家肥後守」播磨山崎藩藩主で政信系本多家第六代であった本多肥後守忠可(ただよし寛保元(一七四一)年~寛政六(一七九五)年)か。ウィキの「本多忠可」によれば、『松平定信とも親交があったため、この改革の成功の手腕を買われて、寛政の改革では大番頭として幕政に参与した』とあり、このシークエンスに登場して、自然だからである。また、忠籌とは同年代でありしかも、より大きな本多家の流れである同じ平八郎家(忠勝系)に属しているから、「同家」という謂いも腑に落ちる。
「可ㇾ味」「あぢはふべし」。
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