「甲子夜話卷之五十二」巻頭「日蓮村曼荼羅、淸正帆の曼荼羅幷京妙滿寺靈寶又道成寺鐘の事」の内、「道成寺の鐘の事」
[やぶちゃん注:肥前国平戸藩第九代藩主松浦(まつら)静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年:本名は清。静山は号)の膨大な随筆。彼が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの、実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。
私は当該随筆の電子化注をこのブログ・カテゴリ「甲子夜話」でしているが、未だ巻之五に入ったばかりであり、以下の部分に辿り着くのには、何年もかかってしまう。しかし、私はサイトに独立した「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji Chronicl」というページも作っている関係上、それを無為に待っているのは如何にも辛い。されば今回、ここで急遽、フライングして電子化することとした。
但し、冒頭に示した標題通り、これは現在の京都市左京区岩倉幡枝町にある、顕本法華宗(南北朝時代の日蓮宗の僧日什を開祖とする)総本山である妙塔山(みょうとうさん)妙満寺(建立も日什で康応元(一三八九)年であるが、建立地は京都市中であったが、現在の場所ではなく、その後も転々としている。詳しくはウィキの「妙満寺」を見られたい)の江戸浅草での出開帳の記事がメインである。しかも、静山は行きたいと思っていたものの、機械を逸しているうちに、当地での出開帳は終ると聴き、人に命じて行かせ、その報告を纏めたに過ぎない記事である。出開帳の目玉の一つであった、日蓮直筆の曼荼羅(「南無妙法華経」の文字を中心に種々の書き添えのある日蓮が好んで記した文字曼荼羅。標題の「村」とは文字が「群」れていることを意味しているように思われる)の図も写してある。また、その曼荼羅は、かの加藤清正が朝鮮侵攻の際に船の帆に掲げて、勝利の奇瑞があったとか言い、それに関わる清正の文書が記され(それが標題の二つ目)、その後に、この妙満寺出開帳では、「靈寶目錄」という小冊子が配られており(有料であろう)、膨大な立項のそれらが総てそっくり転記されているのである。
そうして実は、その「靈寶目錄」の最初から三項目に、
一、紀州日高郡道成寺 緣起幷銘 別紙あり
とあるのである。但し、これは『銘』とあることから判るように、これは静山或いは目録製作者の、
一、紀州日高郡道成寺鐘 緣起幷銘 別紙あり
の脱字と考えてよい。而して、その終りの箇所で、この一条に就いて着目した静山が、この「別紙」により、道成寺の鐘がこの妙満寺に蔵されてある由縁を記した、その「緣起」を章の最後に記したのが、以下の文であり、銘を記した鐘の略図なのである。
則ち、私は
――前のだらだらした妙満寺の目録羅列には、正直、興味はない。しかし、そこは、何年後かには、やろう――だが――道成寺の鐘とその縁起の下りだけは、今、どうしてもここでやっておきたい――
ということなのである。
底本は一九七八年平凡社東洋文庫刊「甲子夜話」(正篇全六巻)第四巻を用いたが、底本は漢字が新字なので、恣意的に正字化して示した。また、「甲子夜話」の原本の当該部にはルビが全くなく、底本には編者による読みが十数ヶ所にあるのみであるが、私の判断でオリジナルに歴史的仮名遣で読みを大幅に補った。読点も一部で追加した(なお、これはブログ・カテゴリ「甲子夜話」で私が縛りをかけているポリシー(注は「■やぶちゃんの呟き」という軽めの設定。しかし、結局、注と変わらぬのだが)からは完全に外れて、注もマニアックにちゃんと附してあるので特異点である)。
鐘の図も底本にあるものをトリミングしたが、モノクロームで画素が粗い上、裏のページの文字も透けて見えて、非常に見づらいので、かなり強い補正をかけて示してある。鐘銘その他もオリジナルに判読して添えた。
因みに、「妙満寺」公式サイト内のこちらに写真があり、そこからリンクした『「安珍・清姫」の鐘由来』によれば、『紀州道成寺が文武天皇妃・宮子姫の奏上により、大宝元年(七〇一年)に建立されてから二百三十年余りが経ったときのこと』、『醍醐天皇の延長六年(九二八年)八月、奥州白河(福島県白河市)の「安珍」という修験者が熊野へ参詣する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思いをよせて言い寄りました。安珍は「熊野参詣を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立寄らずに帰途に就いてしまいました』。『そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、もの凄い形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三刻(約四〇分)あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました』。『この後、正平十四年(一三五九年)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと』、『一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため』、『山林に捨て去られました』。『この話が後年脚色され、長唄、舞踊、能楽など、芸能界最高の舞曲である「娘道成寺」となりました』。『その後、二百年余りを経た』天正十三(一五八五)年、『秀吉の根来攻め』『の時、家来の仙石権兵衛が』、『この鐘を拾って陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました』とあり、最後に、『この鐘は何度か出開帳されています』ともある。
なお、この現存する鐘は、かなり小振りのもので(歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人」の上村吉弥氏の舞踊「京鹿子娘道成寺」上演のための鐘供養の写真を参照されたい。スケールが判る)、入手した妙満寺製作になると思われる記載(PDF)によれば、現在の同鐘のサイズは、
高さ 約一メートル五センチメートル
直径 約六十三センチメートル
厚さ 五・三センチメートル
重さ 推定約二百五十キログラム
とあった。白拍子に化けた「怨霊」(鬼)が「パッっと」「飛び入る」のであってみれば、小ささを問題視するには及ぶまい。というより、かの伝承譚のアクロバティックな展開が、鐘の大きさを必要以上に大きくしてしまったのであり、「道成寺」公式サイトの「道成寺緣起」に描かれた初代の釣鐘の図を見られるがよい――鐘は――もともと安珍一人が屈んでやっと入れるほどのこれほどの大きさでしかなかったのである。
では、以上で述べた通り、道成寺の鐘の記載の個所から始める。【2018年8月14日:藪野直史】]
……又、册中に見へし道成寺の鐘と云(いへ)る者は、別に其圖と、その記事を刻行(こくぎやう)せるあり。又、左に載(のす)。これも一奇聞にして、要するに談柄(だんぺい)のみ。
[やぶちゃん注:「談柄のみ」「談柄」とは僧が談話の際、手に持つ払子(ほっす)のことである。「話の種として掲げるだけのこと」というである。静山は内容の真偽を留保と言うより、眉に唾しているのである。]
[やぶちゃん注:以下、龍頭(りゅうず)の右のキャプション。]
高サ二尺八寸五分[やぶちゃん注:八十四センチ九・九ミリ。私はこれを龍頭下部までの鐘本体部の数値と採る。]
厚サ一寸八分[やぶちゃん注:六センチ四ミリ。現行は一センチばかり瘦せた。]
指渡シ二尺一寸[やぶちゃん注:六十三センチ六ミリ。現行とほぼ一致。]
五寸五分[やぶちゃん注:私はこれを竜頭の高さと採る。十五センチメートル三ミリメートル。先の高さにこれを加えると、約一メートルである。現行の約一メートル五センチメートルとは誤差範囲内である。]
[やぶちゃん注:以下、鐘銘。画像の右から左へ。実は判読途中(画素が粗く、困難を極めていた)で、白慧(坂内直頼)撰になる山城国の地誌「山州名跡志」(正徳元(一七一一)年刊・全二十二巻)にもに掲載があるのを発見したので、国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像及び早稲田大学図書館古典総合データベースのここを視認して、字を完全確定出来た。実は私は既に「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji Chronicl」の『鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」』の中で電子化しているのであるが、今回は、「甲子夜話」の画像や上記「山州名跡志」にのみ従って、また零(ゼロ)から始めて、より厳格に翻刻し、新たに注を施した。]
聞鐘聲 智慧長 菩提生
煩惱輕 離地獄 出火坑
願成佛 度衆生
天長地久御願圓滿
聖明齊日月叡算等乾坤
八方歌有道之君四海樂無爲之化
紀伊洲日高郡矢田庄
文武天皇勅願道成寺冶鑄鐘
勸進比丘瑞光
別當法眼定秀
檀那源万壽丸
幷吉田源賴秀合力諸檀男女
大工山田道願小工大夫守長
正平十四己亥三月十一日
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館版の板本では訓点が振られてあるので、それを参考にして書き下してみる(一部の読みと送り仮名は私が附した。また、一部の不審な仮名遣いを訂した)。
*
鐘聲を聞けば 智慧 長(た)け 菩提 生ず
煩惱 輕く 地獄を離(さかり)て 火坑を出づ
願はくは成佛して 衆生を度(ど)せん
天 長く 地 久し 御願(ぎよぐわん) 圓滿
聖明(せいめい) 日月(じつげつ)に齊(ひとし)く 叡算(えいさん) 乾坤(けんこん)に等しく
八方 有道(うだう)の君を歌ひ 四海 無爲の化(くわ)を樂しまんことを
紀伊の洲(くに)日高の郡(こほり)矢田の庄
文武天皇の勅願 道成寺 鐘を冶鑄(やちう)す
勸進の比丘(びく) 瑞光
別當法眼(ほふげん) 定秀(ぢやうしふ)
檀那 源の万壽丸
幷びに 吉田源(みなもとの)賴秀
合力(こふりよく) 諸檀男女(なんによ)
大工 山田道願
小工(せうく) 大夫守長
正平十四己亥(つちのとゐ)三月十一日
*
銘文の後半は、ありがちなそれである。
・「聖明」天子が徳に優れて聡明なこと。
・「叡算」天子の年齢の尊称。
が「日月」や「乾坤」(天地)と同じく永遠であると長寿を呪(まじな)い、有徳(うとく)の聖帝の下で、
・「八方」「有道(うだう)の君を歌ひ」によって聖王堯(ぎょう)の鼓腹撃壌(こふくげきじょう)を踏まえ、
・「無爲の化」ここは老荘思想の「無為自然」に基づき、支配者が下らぬものである人為を用いなければ、何もせずとも、人民は自然に教化され、天下もよく治まるの意。
と畳み掛けることによって、悠久に続く天下泰平と万民祝祭を言祝いでいるである。
・「文武天皇」(天武天皇一二(六八三)年~慶雲四(七〇七)年)の在位は文武天皇元(六九七)年から慶雲四(七〇七)年である。ウィキの「道成寺」によれば、大宝元(七〇一)年、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより』、『文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されて』おり、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代に』溯る作品であるとある。
・「瑞光」不詳。
・「定秀」不詳。
・「源の万壽丸」逸見万寿丸源清重(元応三年・元亨元(一三二一)年~天授四/永和四(一三七八)年)南北朝期、後村上天皇に仕えて武勲を挙げ、日高郡矢田庄を賜わった領主(「百姓生活と素人の郷土史」の『講座「道成寺のすべて」(道成寺小野俊成院代)』の『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』①に考証が詳しく拠るので、そちらを参照されたい)。
・「吉田源賴秀」吉田金比羅丸源頼秀。源清重の娘婿で矢田庄吉田村の領主(八幡山城ヶ峰に城を構えていた)。道成寺本堂を完成させた人物とされる(『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』③に拠る)。
・「大工」
律令制で木工寮(もくりょう)・修理職(しゅりしき)・大宰府などに属し、諸種の造営に従った職。「おおたくみ」「おおきたくみ」とも呼んだ。
・「山田道願」不詳。
・「小工」律令制の職員。大工の下に属し、建物の修理等を掌った。
・「大夫守長」不詳。
・「正平十四己亥三月十一日」。「正平」は南朝の元号で、北朝では延文四年。ユリウス暦一三五九年四月十一日(グレゴリオ暦換算四月十九日)。
最後に言い添えておくと、調べてみたところ、頭の三行分は二百年以上後の永禄九(一五六六)年に成立した臨済宗の法式・偈文等の記録である天倫楓隠編の「諸囘向淸規」に「聞昏鐘偈」として出ているものに酷似しており、これは本邦で作られた偈と考えられるようだ。但し、文字列に異同がある。以下に示す。訓読は我流。
*
聞昏鐘偈
聞鐘聲煩惱輕
智慧長菩提生
離地獄出火坑
願成佛度衆生
昏(こん)の鐘を聞く偈(げ)
鐘聲を聞き 煩惱を輕かしめ
智慧 長じて 菩提 生まる
地獄を離(さか)り 火坑を出づ
願はくは 成佛し 衆生を度せん
*
では、以下、「甲子夜話」の本文に移る。]
道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起
夫(それ)、紀州日高郡矢田莊道成寺は、人皇四十二代文武天皇の敕願所なり。此帝、御卽位より今申年まで一千百三十九年になる。○其後婦女、蛇と成(なり)て鐘を蟠圍(ばんゐ)、安珍を害せし其怪異の事蹟は、「元亨釋書」に詳(つまびらか)にして、諸人の知(しる)處なり。其外、謠曲等にも傳(つたへ)て、兒女奴婢に至(いたる)までも、大槪をしる故に略(りゃくす)。○然(しかる)に、謠曲等に、その鐘、湯(ゆ)と成(なり)しと書(かく)は文法の餘勢也。既(すでに)「元亨釋書」にも、蛇去(さり)て後、其鐘、尚、熱(あつし)といひ、寺衆、鐘を倒(たふし)て、死せる安珍を見(みる)ともいへり。これに因(より)て知(しる)べし。其鐘、融流(とけなが)て、湯のごとく成(なり)たるには、あらずと。○其後、彼(かの)寺の老僧、夢みらく。二蛇來て曰(いはく)。我は是(これ)、前に命を亡(なくせ)し安珍なり。一蛇は其時の婦人也。共に惡道に墮(おち)て、苦報、脱(ぬけ)がたし。願(ねがはく)は、「壽量品(じゆりやうぼん)」を書寫し、我等が苦慮をすくひたまへと乞(こふ)とみえて、夢覺(さめ)ぬ。老僧、大に憐(あはれみ)、望のごとく、「壽量品」を書寫し、追善をなしければ、其夜、又、夢に一僧一女、來(きたり)、合掌して曰。我等、妙法華(みやうはふげ)の功力(くりき)によつて深き惡業(あくごふ)を消滅し、僧は兜卒天に生(うまれ)、女は忉利天(たうりてん)にうまる。師の慈恩、法華の神力(しんりき)、有(あり)がたしともいふばかりなしと拜謝して、天に上ると。此事、「本朝法華傳」竝(ならび)に「元亨釋書」にみえたり。○世に傳ふ。其後、彼(かの)鐘、唖(あ)[やぶちゃん注:鳴らなくなること。]となり、鑄直(いなほ)すこと、十餘囘に及ぶといへども、種々の障礙(しやうげ)[やぶちゃん注:障害。妨げ。仏教では悟りの障害となるものを指す語ではある。]ありて、鐘、終に成就せず。衆人勞倦(つかれうみ)て、その事、止(やみ)ぬ。○それより後、人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひしより三代の間、吉野を指(さし)て南朝といひて、三種の神寶も、猶、此御方(このおんかた)にまします。人皇九十七代光明天皇より五代の間、京都をさして北朝といふ。此時、天下南北にわかれ、年號も亦別々にあり。然(しかる)に、南朝後村上天皇正平十四己亥年に至(いたり)て、復(また)彼(かの)鐘を鑄直(いなほす)に、此時、始(はじめ)て成就す。則(すなはち)、北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる。今、妙滿寺にある所の鐘、是なり。銘に、別當檀那冶工年月等、詳(つまびらか)に見ゆ。鐘の銘は別に板行(はんぎやう)あり。○其時、南北、混和せず。合戰、いまだ止(やむ)ことなく、此鐘を取(とり)て兵器となし、陣中に具(ぐし)たり。兵亂、治(をさま)るに及(および)て棄(す)て、鐘の在處(ありか)を失ふ。○人皇百八代後陽成天皇天正年中、洛陽の近鄕某氏の家の後に竹林あり。時々、鳴動す。その鳴動するに及(および)て、其家に疾病或(あるいは)災孼(さいげつ)あり。又、小兒を夜啼(よなき)せしむ。其邊の土を穿(うがつ)に、終(つひ)に此鐘の埋(うづめ)てありしを掘出(ほりいだ)す。村民、集會して曰(いはく)。これおそらくは梵宮の古鐘、世俗の塵埃に埋れしゆへ、此鐘、鳴動し、此家、怪異あるならん。はやく洛陽の鐘なき寺に寄附せんと、いそぎ都に出(いで)、大寺を尋(たづね)て先(まず)、妙滿寺に來り、其趣を告(つぐ)。その頃、此寺、いまだ、鐘あらず。故に鐘を送來(おきりきた)て寄附す。此時、天正十六年戊子五月なり。正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる。○夫(それ)より、此鐘を樓上に懸(かけ)て、日夜法筵の用となす處に、慶安年中に誤(あやまり)て破(やぶり)ぬ。その釁郤(きんげき)、一尺餘にして、聲、終に失(うせ)ぬ。故に一山相議し、冶工に屬(まかせ)て、此鐘を摧(くだき)、鑄(い)あらためんとす。時に、四方、俄(にはか)に鳴動し、黑雲、樓に覆(おほひ)て、鐘、雲中に飛(とぶ)べきけしきなり。衆僧、大(おほい)に驚(おどろき)、丹誠を抽(むき)て祈り、且、鑄直すことを止(やむ)。此時、益(ますます)奇異の古鐘なることを知れり。然後(しかるのち)は寶藏に納置(をさめおき)しに、其釁郤(きんげき)、年月を經(ふ)るにしたがひて、漸々に翕(あひ)ぬ。五、六十年以前までは、猶、紙をつらぬくの間(あひだ)有(あり)て、裏に通る。京師の老人、よく知(しる)處なり。それより年々に翕(あひ)て、今に至ては、其痕(あと)だにみえがたし。實(まこと)に、此鐘の神妙、恐(おそる)べし。○鳴呼(ああ)、昔をおもへば、「壽量品」の功德(くどく)によつて、二蛇、苦を離(はなれ)、天に生(しやう)ず。まことに一感人天受勝妙樂の化報にほこり、今、亦、妙滿寺に在(あり)ては大乘の寶器となり、年來(としごろ)、囘向(ゑかう)の功力(くりき)によつて、二感佛道自受法樂の果報に住(ぢゆう)せんこと、疑(うたがひ)なきものか。是、則(すなはち)、善惡不二邪正一如(ぜんあくふにじやしやういちによ)の因緣、平等大會一乘妙典(びやうどうだいゑいちじやうめうてん)の感應なり。
[やぶちゃん注:以下、最後のクレジットまで、底本では全体が一字下げ。]
此(この)「和解略緣記」は寶曆九己卯(つちのとう)年、先師老蠶冬映(らうさんとうえい)、童蒙(どうまう)の見易(みやす)からんがため、述記(じゆつき)して、妙塔山(めうたふさん)妙滿寺に納(をさむる)處なり。今年、當寺、祖師大菩薩尊像竝(ならびに)靈寶等、淺草慶印寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]開帳の刻(とき)、先年の如く、此靈鐘を諸人に的覽(てきらん)せしむ。然(しかる)に右緣起、數年を經て、印板、磨滅す。これによつて曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)、文章は其まゝに再版して、以(もつて)當寺に寄附し奉る。唯、先師の信心を空(むなしう)せざる微志のみ。
文政七甲申(きのえさる)年三月 勅願所 妙 滿 寺
[やぶちゃん注:標題「道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起」は総て「だうじやうじかねきんざいみやうまんじわかいりやくえんぎ」と音読みしているものと判断する。
「此帝、御卽位より今申年まで今申年まで一千百三十九年になる」文武天皇の即位は文武天皇元年八月一日(六九七年八月二二日)であるから、数えでいくと、天保八(一八三七)年となる。然し、同年は丁酉(きのととり)で合わないから、前年の天保七年丙申(ひのえさる)であり、文末のクレジットから文政七(一八二四)年甲申となる。但し、最後に「曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)」とあるから、これは静山の誤りではなく、改訂した妙満寺出開帳担当僧の誤りである。なお、この妙満寺の『殘草田畝(たんぼ)の慶印寺』(本「甲子夜話」原文の冒頭にある。「たんぼ」は私の添え読み。現在の浅草寺の北西直近の台東区西浅草に、同寺の塔頭寿仙院(日蓮宗)が現存する。ここ(グーグル・マップ・データ))での出開帳がその年にあった事実は調べ得なかった。
「蟠圍」蜷局(とぐろ)を巻いて蟠(わだかま)り囲むこと。
「元亨釋書」虎関師錬(こかんしれん)著になる鎌倉末期の仏教史書。三十巻。元亨二(一三二二)年成立。仏教の伝来から鎌倉末期までの七百年間の仏教史を記し、内容は「史記」及び中国の高僧伝に倣って、高僧四百余名の伝記と、周辺的史実とを漢文体で記したもの。特に禅僧の思想を知る上で貴重であるが、親鸞を除き、道元を軽視するなど、筆者の偏見があることが指摘されている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。同書に記された「」は既に私の「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji
Chronicl」の「元亨釋書 卷第十九 願雜十之四 靈怪六 安珎」で電子化訳注してあるので、参照されたい。
「湯と成し」溶解して真っ赤に燃え流れる溶岩のような液状になった。
「壽量品」「法華経」二十八品中の「第十六如来寿量品」のこと。釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれてある。
「兜卒天」三界の中の欲界に於ける六欲天の第四の天。内院と外院があり、内院は将来、仏となるべき菩薩が住む所とされ、現在、弥勒菩薩がここで説法をし、如来になるための修行説法をしているとする。
「忉利天」六欲天の第二の天。天部の衆徒や神々が住むとされる。釈尊を生んだ摩耶(まや)夫人は、出産後、七日目に死去したが、この天に転生したとされる。
「本朝法華傳」平安中期に書かれた比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した、上中下三巻からなる仏教説話集「大日本國法華經驗記(げんき)」、通称「法華經驗記」のこと。その下巻掉尾にある「第百廿九」、現存する道成寺伝説最古の記録とされる「紀伊國牟婁郡惡女」(「紀伊國牟婁郡の惡しき女」)を指す。これも私の「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji
Chronicl」のこちらで電子化注済みであるので、参照されたい。
「人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひし」延元元(一三三六)年。
「光明天皇」(元亨元(一三二二)年~天授六(一三八〇)年/在位:延元元(一三三六)年~正平三(一三四八)年)。
「北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる」前に見た通り、正平十四/延文四年は一三五九年であるから、「四百六十八年」後は数えで一八二八年で、これは文政十一年丁亥(ひのとい)となってしまい、またまた齟齬する。
「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。
「洛陽」京都。
「災孼(さいげつ)」災い。
「梵宮」寺院。
「天正十六年戊子」一五八八年。
「正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる」数えとしてこの数値は正しい。
「慶安」一六四八年~一六五二年。
「釁郤(きんげき)」割れ目。隙間。
「漸々に翕(あひ)ぬ」だんだん、自然に閉じてしまった。
「二蛇」偽りとは言え、清姫との契りを約束し、彼女を怨みの末に蛇と化させた安珍は女犯の破戒僧であり、それは邪であり、蛇と同類であるということか。
「一感人天受勝妙樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「一つは、人、感ずれば、天、勝妙樂を受(さず)く」か。
「化報にほこり」これはよい意味であろう。「正法(しょうぼう)に徹することの果報の誇るべき善き例となって」。
「大乘の寶器」大乗仏教の衆生済度のシンボル。
「二感佛道自受法樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「二つは、佛(ほとけ)、感ずれば、道、自づから、法樂を受(さづ)く」か。
「善惡不二邪正一如」善と悪は、別のものではなく、無差別の一理に於いて帰着するものであり、同様に、邪と正も、本は一つの心から出るものに過ぎず、結果、同一のものであるということ。
「平等大會一乘妙典」生きとし生けるものに対して絶対の平等を持ったところの如来の大慈悲に基づく至上の法会としての、一乗(大乗仏教に於いて仏と成ることの出来る唯一の教え)の理(ことわり)を明らかにする「法華経」のこと。
「寶曆九己卯年」一七五九年。
「老蠶冬映」江戸中期の俳人牧冬映(まき とうえい 享保六(一七二一)年~天明三(一七八三)年)のことか。江戸出身で、中川宗瑞(そうずい)・佐久間柳居(りゅうきょ)等に学び、江戸座の判者となり、後に独立して一派を成した。彼は別号で「老蚕」と称しており、出開帳の際、妙満寺の出開帳担当者から依頼されて、日蓮宗の信徒であった俳諧師がアルバイトで読み易いこれを新たに著わしたとするのは、大いにあり得ることであるように私には思われる。
「童蒙」幼くて道理がわからない者。
「的覽」鐘の持つ由緒が判るように的確に見せる、の意か。それにしても、この鐘、二百五十キロもあるから、寺宝であるから、これだけ運送業者に頼んで任せるというわけには行かないだろうから、運搬時の配慮はなかなか大変だったろうと私は気になった。というより、実は、道成寺絡みの、出開帳の客寄せの目玉でもあったことが、また、よく判るとも言えるのである。静山の最初の「談柄」という辛口の謂いもまさにその辺の臭いを鋭い彼は嗅ぎとっていたようにも思われるのである。]
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