反古のうらがき 卷之一 訛言
○訛言
文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺(つりだい)にのせて持出(もちいだし)し事ありしに、何者か申出(まうしいだ)しけん、
「此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨(すつ)る者あり。人々、用心し給へ。」
といゝけること、市谷柳町へんより、初(はじま)りしよし。
江戶中、大體一面に行渡(ゆきわた)り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆、屋敷々々に番人を出(いだ)し、高張り挑燈にて守りしに、二、三日にして止(やみ)けるとなん。
其後(そののち)、一、二年過(すぎ)て、秋の末つかた、月、殊に明らかなりし夜、予、門外に出で、舍弟と倶に月を賞し居(をり)しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲(こうせい)に語りて來(きた)る人あり。「音羽」と書(かき)たる永挑燈(えいちやうちん)をともし、とびの者體(ものてい)なる人、二人也。其(それ)、語(かたる)に、
「世には殘忍なる人も有る者かな。あの女の首はいづこにて切(きり)たるか、前だれに包みたれば、賤(いや)しきものゝ妻にてもあるべし。切たるは、定(さだめ)て其夫なるべし。間男などの出入(でいり)と覺へたり。今、捨んとして咎められ、又、持去(もちさ)りしが、何(いづ)れへか捨つべし。其所は迷惑なる者なり。」
といふ話なり。
予、是を聞(きき)て呼留(よびと)め、
「何(いづ)こにての事。」
と問へば、
「扨(さて)は。未だ知り玉はずや。こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり。夜深(よふけ)て門外に立玉(たちたま)ふは、定(さだめ)て其(その)捨首(すてくび)の番人かと思ひしに、左(さ)にはあらざりけり。こゝより先は、皆、家々に門外に出で、番をするぞかし。」
といゝて、打連(うちつれ)てさりけり。
予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣(おもむき)申付(まうしつけ)、よく番をさせ置(おき)、入(いり)て眠りたりしが、兎角、心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが、耳に入(いり)て寢(いね)られず、立出(たちい)で見れば、最早、九つ今(ここのついま)の拍子木を打(うち)、番所の話を聞けば、
「組合より申付られたれば、眠る事、能はず。去ればとて、いつ、はつべき番とも覺へず、もし、油斷して捨首(すてくび)にてもある時は、申分に辭(ことば)なし、如何にせまし。」
といひあへり。
予も、餘りにはてし無き事なれば、
「最早、程も久し。捨首あらば、是非なし。先(まづ)休むべし。」
と申渡し、入て寢(いね)けり。
明(あく)る日、あたりを聞(きく)に、其事、絕(たえ)てなし。
「口惜哉(くちをしきかな)。あざむかれぬ。」
といゝて[やぶちゃん注:ママ]やみけり。
此訛言(くわげん)も小石川・巢鴨へん、本鄕より淺草・千住・王子在(ざい)などの方(かた)に廣がりて、北の方、いづこ迄かしらねども、大(おほい)におどろきさわぎたるよし、予、親しく聞(きき)たれども、誰(たれ)にも告(つげ)ざれば[やぶちゃん注:底本は「されば」。濁点を添えた。]、此あたりは却(かへつ)て、しる人なし。
「音羽」といへる挑燈なれば、是水へ、かへりかへり、申觸(まうしふれ)たるか、其先迄、申傳へたるなるべし。
[やぶちゃん注:「訛言」(くわげん(かげん))とは「誤って伝えられた評判」の意。この話は既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』の注で電子化注している。直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った。
「文政の中年」「中頃」ならよく目にするが、どうも「中年」というのはまず目にしない。まあ、文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となるが、しかし、これ、或いは「申年」の誤記ではなかろうか。とすれば、文政七(一八二四)年に特定出来ることになるのだが。但し、国立国会図書館デジタルコレクション版も「中年」ではある。
「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。
「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。
「四つ頃」午後十時頃。
「永挑燈」提灯のサイズを指すようだ。縦が長くなると、直径もそれなりに大きくなる。ある提灯会社のメニューでは現行で「尺永」というのは、直径二十九センチメートル・高さ六十四センチメートルである。この上が既に「二永」である(三十三☓六十三)。
「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「九つ今」だいたい午前一時丁度の意の一語と採る。
「組合より申付られたれば」それらしい町触れが少なくとも桃野のいる町内には廻っていたのである。
「あたりを聞(きく)に、其事、絕(たえ)てなし」では、先の町触れは何だったのか? 町触れを出した組合の大元の発信地を探れば、どのような形で生じた「都市伝説」であったかが判明するのに。実に惜しい。鳶風の二人がその場でデッチアゲただけの、ただの冗談であったとしたら、そう簡単に、町触れにはならない気もするのだが? 或いは、実は町廻り連中も実はコロリと騙されちゃったのかもね。「口裂け女」の時も小学校が登校指導したり、警察まで不審者として動いたぐらいだからねえ。
「巢鴨へん」「巢鴨邊」で巣鴨辺り。
「王子在(ざい)」現在の東京都北区王子附近の村落。但し、江戸の辺縁地ではあるが、当時の王子は田舎ではなく、人気の王子稲荷があり、しかも日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、十八世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことを契機に江戸市民が頻繁に足を運ぶ、江戸市中からごく近い遊覧地として賑わった。
「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「是水へ」不詳。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じ。識者の御教授を乞う。音羽から「市ケ谷燒餅坂」は真南であるから、この鳶職風体(ふうてい)の二人組は現在の「外苑東通り」を南下してきたと考えてよいのではないかと私は思う。とすれば、桃野と舎弟が涼んでいたのは現在の新宿御苑の東方、信濃町辺りではないかとも思われる。しかし、その先(南や東)には「是水」に似たような地名は見当たらない。「是方」(これがかた)の誤判読か。所持する所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の柴田宵曲の「奇談異聞辞典」の「流言」で本篇が採用されているが、単に『これへ』となっている。]