反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異
○廿騎町の恠異
余が祖母、常に話(はなし)しは、
「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり。久貝(くがひ)・久志本・服部・巨勢(こせ)・三枝(さへぐさ)・長谷川、是れ程の野原にて、組屋敷うち、常に恠異あり。或時は鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり。誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし。
山崎といへる家にては、夜な夜な、猫、おどり、椽頰(えんづら)にて足音す。明日(あくるひ)見るに、矢をふく手拭をかぶりたる樣子なり。
又、或時は、誰ともなく、障子を、
『さらさら。』
とすりて、橡頰を行かよふ。明(あけ)て見るに、人、なし。
又、深夜に、
『しほ。しほ。』
と呼賣(よびう)る聲ありて、誰(たれ)見當りしこと、なし。
或時、余が曾祖父内海彥右衞門、對門【むかふやしき】なる山崎に行(ゆき)て、夜更(よふけ)て歸らんとて立出(たちいづ)るに、門の扉に大の眼、三つあり。光輝(ひかりかがやき)、人を射る樣(さま)、明星の如し。大膽なる人なれば、
『こは、珍らし。獨りみんも本意(ほい)なし。」
とて、家に歸り、余が大叔父内海五郞左衞門を呼びて、
『面白き者あり。行(ゆき)てみるべし。』
とて誘ひて行けるに、最早、一つ消て、二つ、殘れり。
『扨は。消ゆる者とみへたり。皆、消ゆる迄、見果(みはて)ん。』
とて、父子、まばたきもせず、にらみ居(ゐ)たりしに、漸(やうやう)光薄くなりて、又一つ、消たり。程もなく、今一つも薄くなりて消けり。父子、笑ひて、
『初(はじめ)より、かくあらんと思ひし。』
とて歸りし。」
と、祖母善種院、語らる。
「今の人よりは、皆、心(こころ)剛(かう)にありける。」
といましめられし也。
[やぶちゃん注:祖母の怪談語りの雰囲気を出すために細かな改行を施した。
「廿騎町」底本の朝倉氏の注に『新宿区廿騎町』(にじっきまち)。『御先手与力十騎二組があったので、この俗称があった』とある。現在のここ(グーグル・マップ・データ)の内(以下参照)。サイト「すむいえ情報館」の『地名の由来「新宿区編」』の「【ニジッキマチ】二十騎町の由来」によれば、御先手一組は寄騎馬(与力)十騎なので二組で二十騎、実際二十区画に与力の二十の家があったことに依る。『「騎」とは馬に人が乗った状態の数詞で、与力には乗馬が義務付けられた。「旗本八万騎」というように』、『戦闘状態での騎馬武者の数え方。「寄騎」は、「騎を寄せる」で、「従う」の意、「与力」は江戸時代に入ってからの言い方だが、「力を与』(あず)『ける」で、やはり「従う」意。「同心」は「心を同じうす」で、「協力する」の意。したがって同心は与力より格が上』。『牛込村。天龍寺境内』天和三 (一六八三)年に『天龍寺が焼けて新宿』四『丁目の現在地に移転していった跡地の一部に』、『西丸御先手与力』二『組に』対して『与えられた大繩地』(おおなわち:下級武士の宅地は職務上、同じ組に属する者に纏まって屋敷地が与えられたが、これは土地を一括することから、「大縄地」「大縄屋敷」と呼ばれた。別な言い方をすれば、大番以下の旗本の組屋敷。家だけではなく、拝領地も含めて、かく呼ぶ)『の俗称。明治』四(一八七一)年に『正式に町名となり』、明治四四(一九一〇)年に『牛込の冠称を外し』、その後、昭和二二(一九四七)年に『新宿区二十騎町』となった。平成二(一九九〇)年、『新住居表示を実施、市谷甲良町・納戸町・市谷加賀町』一~二『丁目の各一部をあわせた町域を現行の「二十騎町」とした』とある。
「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり」底本は「加賀屋敷・御旗本屋敷」となっているが(国立国会図書館蔵版も同じ)、私はこれは読点でないとおかしいと思う。「加賀屋敷」とは、随分、離れた現在の東京大学のある加賀前田家上屋敷のそれを指すではなく、このまさに二十騎町の南の旧地名だからである(現在も市谷加賀町である)。則ち、ここは
――「加賀屋敷」と通称する今は「御旗本屋敷」が林立する「二十騎町」辺りは「御旗本屋敷」がなかった以前は、「皆」、野っ原であった。
と言っているのだと思うのである。所持する「尾張屋(金鱗堂)江戸切絵図」(嘉永四(一八五一)年刻・安政四(一八五七)年改版)には、現在の二十騎町の通りに「二十キクミ」と記し、その北の端の通りには「此邊加賀屋敷ト云」と記してある。なお、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。
「久貝」上記切絵図を見ると、二十騎町の西直近で「加賀屋敷」通りの端に「久貝因幡守」の屋敷がある。これは旗本久貝正典(くがいまさのり 文化三(一八〇六)年~慶応元(一八六五)年))のことである。天保一二(一八四一)年、大番頭。安政五(一八五八)年、大目付。「安政の大獄」の処断に関与し、安政七年には御側御用取次に転じ、同年に起こった「桜田門外の変」では吟味役を務めている。しかし、後、吟味不手際によって文久二(一八六二)年に免職・隠居となった。
「久志本」上記切絵図の「久貝因幡守」の屋敷の道を隔てた東側に「久志本左京」の屋敷がある。これは旗本久志本家で、元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療している。
「服部」上記切絵図の二十騎町の道を隔てた南の「加賀屋敷」地区の通りに面した馬場の北に「服部中」と記した屋敷がある。或いはこの「中」は「中奥番」か? だとすると、中奥番に旗本服部貞徳の名を見出せる。
「巨勢(こせ)」上記切絵図の「服部中」の屋敷の道を隔てた東側に「巨勢鐐之助」の屋敷がある。ネット上で五千石の旗本に巨勢鐐之助の名を見出せる。
「三枝(さへぐさ)」上記切絵図の「巨勢鐐之助」の東隣りが「三枝靭負」(さえぐさゆきえ)の屋敷。彼は寄合席(三千石以上の旗本で非役の者)である。
「長谷川」上記切絵図の「三枝靭負」の屋敷の道を隔てた東側に「長谷川能登守」の屋敷がある。駿河が本地の四千石の旗本である。
「鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり、誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし」これは本書の後の方の「反古のうらがき 卷之三」にある番町の「化物太鼓の事」と強い親和性がある。実は当該話は既に「諸國里人談卷之二 森囃」の私の注で電子化しているので見られたいが、そこで桃野はこれを真正怪談ではなく、擬似怪談現象として分析し、実は番町は囃子の好きな人の多い地区で殆んど毎晩囃子をやっており、喧しさを憚って土蔵や穴倉に籠って囃すために、近くでは却って聴こえず、風に乗って思いがけない遠方で聴こえることがあるのだと、怪異の解明をしている。
「山崎といへる家」上記切絵図の二十騎町内に「山嵜栄太郎」という名を見出せるが、ここか。
「夜な夜な、猫、おどり」手拭いを被って踊ったり、人語を操ったりという猫の怪は猫怪談の定番で、私の電子化したものの中にも、腐るほどある。代表して『柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ猫」』を引いておく(私の江戸怪奇談へのリンクがあるので使い勝手はいいであろう)。一つだけ例示しておくと、特に「耳囊 卷之四 猫物をいふ事」は、この二十騎町の北直近の「山伏町」の寺での出来事であり、甚だ親和性が高い。
「椽頰(えんづら)」既出既注であるが、再掲しておく。大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。
「矢をふく手拭」所謂、矢羽根を図案化した「矢羽手拭い」のことと思うが、「矢をふく」の意が不明。手拭全体にびっしりと「葺(ふ)く」か。国立国会図書館版も「ふく」なので、「かく」の誤植ではないと思われる。
「明(あけ)て」ここは障子を「開けて」である。
「しほ」「鹽」。塩。行商の塩売りの掛け声。
「誰(たれ)見當りしこと、なし」出てみると、塩売りの姿は影も形もない。
「余が曾祖父内海彥右衞門」【以下の注は2018年9月24日改稿】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴し、幾つかの私の誤認が判明したので注を改稿した。まず、国立国会図書館デジタルコレクションの森潤三郎氏の「鈴木桃野とその親戚及び師友(上)」(大正一四(一九二五)年刊)のこちらによれば、桃野の父白藤の母(以下に出る「祖母善種院」。「ぜんじゅいん」(現代仮名遣)と読んでおく)の父(桃野の曽祖父)は御先手与力内海五左衛門とある。さらにT氏は、同じ森潤三郎氏の著「紅葉山文庫書物奉行」(初版一九八八年臨川書店刊)には上記リンク先論文では(以下鍵括弧はT氏のメール本文より引用。下線太字は私が附したもの)『略された内海家関連の記載があり』、その『母方の項目に』、
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私伯父内海彦右衛門死娘
一 従弟女 御先手組雨宮権左衛門組与力之節 内海彦右衛門 死 後家
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とあり、『内海彦右衛門は桃野の大伯父』(曽祖父内海五左衛門の子で祖母の兄)『に当たるようで』ある、とお教え下さった。以上から推察するに、筆者桃野或いは父白藤を始めとする親族の伝聞者)は彼らの通称名や伯仲を混雑して誤認記憶していたものと考えられる。最後に私の誤りを気づかせてくれ、資料提供をして下さったT氏に改めて感謝申し上げるものである。
「對門【むかふやしき】」道を隔てた向かいの屋敷。因みに、先の上記切絵図の二十騎町内にある前に出した「山嵜栄太郎」の道を隔てた斜向かいの屋敷は「内海源五郎」である。偶然か? それともこれがまさにその内海家の後裔なのか?
「本意(ほい)なし」残念だ。面白くない。
「いましめられし也」「誡められしなり」。武士としての正真の剛勇を忘れてはなりませぬという含みである。]