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2018/08/04

諸國里人談卷之五 眇魚


   ○眇魚(すがめうを)

出羽國鳥海(とりのうみ)山の川の黃顙魚(かじか)は、皆、一眼眇(ひとめすがめ)也。相傳ふ、鎌倉権五郞、鳥海彌三郞とのたゝかひに、右の眼(まなこ)を射らる。答(たふ)の矢を放ちて、又、是を射る。その鏃(やじり)をぬき、此川に至りて、目を洗ふ。此緣によつて眇也と云り。○鳥海山の権現は鳥海弥三郞の霊を祠(まつ)ると也。高山にして、常に雪あり。六、七月のころ、山頂に登る。寺社なく、たゞ、あやしき岩窟也。社(やしろ)は麓(ふもと)にあり。

[やぶちゃん注:これはまず、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔及びその「目一つ五郎考」全体を参照されたい。次に柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(九)を見られれば、私は以下に余計な注を附す必要がなくなると考えている。

「出羽國鳥海(とりのうみ)山」山形県と秋田県に跨がる鳥海山(ちょうかいさん)。標高二千二百三十六メートル。(グーグル・マップ・データ)。中世後期以降、修験道の修行場として栄えた。

「黃顙魚(かじか)」条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 及びその同属種。ゴリ・ドンコとも呼ばれる。背鰭・胸鰭に毒棘(毒性は未確認で逢っても微量とされるが、刺されると激しい痛みや腫れを引き起こす)を持つ、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps の異名であるが、ギギの分布は新潟県阿賀野川より以南(九州東部まで)であり、採らない

「一眼眇(ひとめすがめ)」片目。一方が潰れていること。

「鎌倉権五郞」(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の私の好きな武将。『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社の本文並びに私の注を参照されたい。

「鳥海彌三郞」鳥海弥三郎(安倍宗任とする伝承があるが、時代が違う)は清原武衡の家人で阿武隈川河口鳥の海の住人とする(ウィキの「後三年の役に拠る)が、肥大した伝承上の人物である。それは先に掲げた、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔の注で考証しているので参照されたい。

「常に雪あり」ウィキの「鳥海山によれば、『山の南側には夏、「心」の字の形に雪が残る「心字雪渓」がある。山頂付近には夏場も溶けない万年雪(小氷河と表現されることがある)』『が存在することや、氷河の痕跡として特徴的なカール地形が存在することから、かつて氷河が形成されていたという説がある』とある。

「寺社なく、たゞ、あやしき岩窟也」由利本荘市矢島町総合支所振興課作成の「サイバー記念館」内の「鳥海山の山頂論争」には鳥海山頂の生臭い争奪戦が語られてあるが、そこに元禄一四(一七〇一)年の『山上の本社造り替え』の一件が語られてあるから(本「諸國里人談」刊行は寛保三(一七四三)年)、この「あやしき岩窟」しかないというのは、どうか? 沾涼が実際に踏破して見たものではなく、伝聞であろうから、或いは、修験道の聖地でもあり、それなりの小さなものでも社(やしろ)はあったのではなろうか? 岩窟は修験者がビバークするそれではなかろうか?

「社(やしろ)は麓(ふもと)にあり」「卷之一 飽海神軍」で注した山形県飽海郡遊佐町にある鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。本神社は鳥海山頂の本社及び麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二ヶ所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称しており、鳥海山を神体山とする鳥海山山岳信仰の中心を担う神社である。ここはその吹浦及び蕨岡の二ヶ所を指す。]

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