譚海 卷之三 禁裏三卿幷京師風俗の事
譚海 卷の三
禁裏三卿幷京師風俗の事
○今上御位の間は、鍼灸等用させ給ふ事なし。玉髓に刄物をふるゝ事なりがたき故、御髭爪など長ずれば、女嬬(によじゆ)齒にてくひ切(きり)て奉る事也。供御(くご)に至るまで常例の品定(しなさだめ)ありて、その餘の物は奉る事なし。甚だ御窮屈なる御事也。中古以來皆如ㇾ此(かくのごとく)、是は御堂關白殿、至尊の御進退御不自由成(なる)事に構へられたる事とぞ。次に御讓位早ければ、入内も度々あるゆゑ、外戚の權(けん)を永く保たるべき故とぞ聞(きき)侍りし。御讓位後は此制省(はぶか)るゝ也。櫻町天皇新造仙洞にうつらせ玉ふ夜、やがて供御に蕎麥(そば)を召(めさ)れしと也。御灸治も度々に及びしとぞ承りし、御位の間は宮禁の外へ行幸と云(いふ)事は絶(たえ)てなかりしを、同帝の御時關東より餘り御窮屈なる事と思召(おぼしめし)、やがて修學寺の離宮御造進せられしとぞ。已後時々御幸の御所と成しを、今仙洞御所なき故、御幸も久敷(ひさしく)行(ゆか)れず、彼(かの)離宮は靈元法皇の御時のまゝにて、老夫婦の官人預り住(すむ)といへり。
[やぶちゃん注:「三卿」意味不明。当初、桂離宮・仙洞御所・修学院離宮のことを指しているとも思ったが、桂離宮は出てこないから違う。
「女嬬」宮中に仕える下級の女官。堂上の雑用を掌った。
「供御」天皇の食膳。
「御堂關白殿」藤原道長の通称。
「至尊」天皇。
「御進退」ありとあらゆる立ち居振る舞いに至るまでの自律的判断行動の意であろう。
「櫻町天皇」(享保五(一七二〇)年~寛延三(一七五〇)年)の在位は享保二〇(一七三五)年四月から延享四年五月二日(一七四七年六月九日)で、徳川吉宗・家重の治世。桃園天皇に譲位するも院政を開始したが、三年後に脚気衝心によって三十一歳の若さで崩御した。参照したウィキの「桜町天皇」によれば、政治・学問の振興策を積極的に進め、誕生日が元旦で、その時、火事があり、且つ、実績も立派という共通点から、「聖徳太子の再来」と称され、『歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ』、『書にも優れた』とある。因みに、本書「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る記録であるが、その同時制の天皇は後桃園天皇(在位:明和七(一七七〇)年~安永八(一七七九)年)で、その前は、現在の今上天皇まででは最後の女帝となった後桜町天皇(在位:宝暦一二(一七六二)年~明和七(一七七〇)年)である。彼女はこの桜町天皇の第二皇女であった。
「同帝の御時關東より餘り御窮屈なる事と思召(おぼしめし)、修學寺の離宮御造進せられしとぞ」誤認がある。修学院離宮は十七代も前の後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)の指示により、幕府(第二代将軍家綱の治世)が造立したもので、調べた限りでは桜町天皇の頃には相当に荒廃していたはずである。
「今」ここ以降は切り離して、津村の記載している現在時制となる。
「仙洞御所なき故」仙洞御所は寛永四(一六二七)年に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は「桜町殿」である。その後、複数回、火災と再建が行われたらしいが、津村の記載時制の状況は不明。以下の叙述からは、建物はあるものの、荒廃している感じである。
「靈元法皇の御時のまゝにて」霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年/在位:寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年)。こちらの修学院離宮の解説ページによれば、『霊元上皇』『は初めて離宮に行幸し』、『以後』、十『年にわたり』、『春秋に行幸』したが、『その後、荒廃し、窮邃亭以外の建物は消失した』とある。この以後というのが何年なのかが判らないのだが、仮に崩御の前年の前十年とするなら、享保一六(一七三一)年までは御幸(上皇なのでこちらを使う)に堪える状態ではあったということになる。ということは、そこから本書の記事の上限安永五(一七七七)年までの、四十六年ほどの間に急激に閑散化と荒廃が進んだということになる。]
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