諸國里人談卷之五 石蛤
○石蛤(いしはまぐり)
土佐國田野浦(たのうら)の西に十濱(とうのはま)といふ所あり。此所の蛤は、常のごとくにして、中は砂なり。むかし、弘法大師、此磯にて、蛤を見給ひ、「何といふ貝なり」と尋(たづね)給ふに、「是は喰(くは)ぬ蛤」と答へしより、此所の蛤は、身なくして砂也と云【所にては「喰〔くは〕ずはまぐり」といふ。】。
○備後國帝釈山の梺(ふもと)、庄原村の山々に「石貝(いしがひ)」あり。其品(しな)、あまた有。此所、海を去ル事、十七里餘也。
○阿波國海符(かいふ)に「符貝(ふがひ)」といふあり。弘法大師、此所に來り給ふに、浦に疫疠(えきれい)はやりて、人民、多く死せり。大師、これを憐(あはれみ)て、符(ふ)を書(かき)て海邊に立〔たて〕給へば、疫病(やくびやう)、忽(たちまちに)、治(ぢ)して、其符は海に入〔いり〕て、貝と成〔なる〕。これを「符貝」といふて、今にあり。天行病(はやりやまひ)の守(まもり)とすと云。
[やぶちゃん注:最初の有り勝ちな「何だかな~」の弘法大師の呪術応報譚(これは採った蛤を乞われるのを恐れた漁民がこう応じたのである)は酷似した大師物が、例えば宮崎にある。サイト「福娘童話集」の「お金ヶ浜とお倉ヶ浜」を読まれたい。私はこうした偉い上人のブラック・マジック的な応酬呪術譚が、殊の外、大嫌いなのである。思うに、次で化石貝類を挙げているところをみれば、沾涼はこれも海岸に露頭した崖から浸食によって零れ出る二枚貝化石(「蛤」は元来、広汎な二枚貝を指す)が正体であろうと考証していたものかも知れない。海流の関係でここに多量の二枚貝の死貝が漂着したとするよりも、遙かにその方が私にはリアルに見える。
「土佐國田野浦」現在の高知県幡多郡黒潮町田野浦か。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし「西」の「十濱(とうのはま)」は見当たらない。
「帝釈山の梺(ふもと)、庄原村」広島県神石郡神石高原町永野の帝釈峡(ここ(グーグル・マップ・データ)。「帝釈山」という山は現行では周辺には見当たらない)の周辺の山塊を指すか。現在の庄原市街地は帝釈峡の東二十キロメートルほどに位置するから、麓と言えば、麓ではある。国立国会図書館の全国の「レファレンス協同データベース」の広島県立図書館の管理番号(広県図20140190)の事例の中に「日本歴史地名大系 35 広島県の地名」(一九八二年平凡社刊)の「庄原市宮内村」(現在の庄原市宮内町。ここ(グーグル・マップ・データ))の中に『庄原村と当村の境付近には新生代第三紀の備北層群下部層があり、化石の多いことで有名である』とある。新生代第三紀は六千四百三十万年前から二百六十万年前までで、現生生物に近い生物の化石が出る時代である。
「阿波國海符(かいふ)」現在の徳島県には、県南端の西部海辺域に海部(かいふ)郡が現存する。現在はここ(グーグル・マップ・データ)。旧郡域はウィキの「海部郡(徳島県)」を確認されたい。
「符貝(ふがひ)」これは、一目見て、南西諸島の古代遺跡から発掘される「貝符」を想起させる。「貝符」とは南西諸島文化特有の極めて特徴的な遺物で、切り出した貝片の表面に特異な文様を人為的に彫り込んだ装飾品・副葬品或いは祭祀具である。形状や紋様はグーグル画像検索「貝符」を見られたいが、中村直子氏の論文「貝塚時代後期土器と貝符」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、南西諸島では『貝塚時代後期の中ごろ、弥生時代後期~古墳時代並行期の「貝符」と呼ばれるイモ貝に彫刻を施す、装飾性豊かな遺物が北部圏から中部圏に広がっている。貝符は、アクセサリーや埋葬などに使用される儀礼用の道具として用いられている』とある。海部郡や四国で貝符が出土した例を探し得なかったが、しかし、この「海部」という地名は海人(あま)族に由来するものとも考えられ、黒潮に乗って北上してきた南西諸島の古代人がこれをここに齎した(祭儀具としてよりも交易品として)可能性は十分にあり得るようには思われる。
「疫疠(えきれい)」「疫癘(えきれい)」で、以下の「疫病(やくびやう)」「天行病(はやりやまひ)」と同じく、流行性急性伝染病のことである。]