諸國里人談卷之五 須磨寺鐘
○須磨寺鐘(すまでらのかね)
一年〔あるとし〕、攝州須广寺へまかりけるに、什宝「敦盛の鎧」・「青葉の笛」、若木の櫻の禁制は辯慶の筆を殘せり。當寺鐘樓の鐘、すぐれて、ちいさし。銘に「安養寺」とあり。「須广寺の本の寺号なるや」と尋〔たづね〕しに、「これは三里ばかり山奧の寺也。壽永の乱に、武藏坊、かの寺の鐘をとりて、陣鐘(ぢんがね)にしける」よしにて、今當寺にとゞまると云〔いふ〕。
すまにて
手ころなるつりかね草やつはものゝ 沾涼
「須广の磯馴松(そなれまつ)」と云ふは、此浦の松の惣名(そうみやう)也。むかし、行平(ゆきひら)、都へ歸り玉ふ時、此所の松、名殘(なごり)をおしみ、枝葉(しよう[やぶちゃん注:ママ。])、都のかたへ埀(たる)ると云〔いふ〕。【按、此地、常に西風つよき所なれば、砂地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ひがしへ吹きかたむくるもの也。】
[やぶちゃん注:沾涼の句は敢えて掲げるほどには上手くない。諧謔の巧みがしみじみした質感を減衰させてしまっている。最後の科学的考証も言わずもがなで、興を削ぐ。個人サイト「趣味のぱそこん」の「神戸:須磨寺・義経腰掛の松と弁慶の鐘」に『同寺の宝物館に展示されている弁慶の鐘』の写真が載り、『一の谷の合戦の際、弁慶が山田庄の安養寺からこの鐘を長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという伝説がある』とある。同サイトのこちらの別ページには、この鐘の銘は、
攝津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺之鐘
とあるとある。
「安養寺」は神戸市北区山田原野(ここ(グーグル・マップ・データ))にあったが、明治八(一八七五)年に廃寺となっている、と個人サイト「摂津名所図会」の「安養寺」のページにあった。同地区の南端は須磨寺の北北東約十キロメートルに当たる。
「磯馴松(そなれまつ)」匍匐性の松である、裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ変種ハイビャクシン(這柏槇)Juniperus
chinensis var. procumbens の別名に「ソナレマツ(磯馴松)があるが、ここはただの磯辺で優位にある方向に靡いて見える通常の松のことであろう。現在も之に由来した磯馴町(いそなれちょう)が現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「行平」平城天皇の第一皇子阿保親王の子、在原行平(弘仁九(八一八)年~寛平五(八九三)年)。在原業平の異母兄。ウィキの「在原行平」によれば、「古今和歌集」によると、『理由は明らかでないが』、『文徳天皇のとき』(在位:嘉祥(八五〇)年~天安二(八五八)年)、『須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲』「松風」は「百人一首」の『行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている』とある。「源氏物語」の「須磨」は彼の流謫を光にだぶらせてある。「磯馴松」も含め、花橘亭氏のサイト「花橘亭~源氏物語を楽しむ~」の「松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)」がよい。そこに『在原行平は帰京の際』、
立ちわかれいなばの山の峯におふるまつとし聞かば今かへりこむ
『の和歌を添え』、彼の愛した『村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」』(『それぞれ』に在平は別に『「松風」・「村雨」と名づけ』た)『姉妹への形見として』『烏帽子と狩衣を』その『松の木に掛けて旅立ったのだと』も伝えるとある。]