譚海 卷之三 泉涌寺下乘の事
泉涌寺下乘の事
○洛東泉涌寺は、四條院の仙骨を收奉(をさめたてまつ)りしより、世々帝王の御墓有(あり)て、國忌御法事等の節は、公家衆初め諸寺院拜禮に參詣するゆへ、甚(はなはだ)騷劇(さはがしげ)なる事也。參詣の人々家々の舊格にまかせて、乘物等をよする所迄よせてをりらるゝ事なるに、とかく舊格よりは少しも近く乘入(のりいれ)てをりらるゝ樣にせらるゝゆゑ、其目付(めつけ)有て江戸の下座見(げざみ)の如く甚むづかしく吟味する事也。今度(このたび)舊格にたがひて少しも近く下乘あれば、重(かさね)て夫(それ)をかくになして諍(あらそひ)のはしを起す事故(ゆゑ)、乘(のり)こむ陸尺(ろくしやく)を叱りて退(しりぞか)するも有(あり)、舁入(かきい)る乘物をやらじとするも有、法會の場甚だやかましき事也とぞ。御法事は般舟院(はんじふゐん)にても行るれども、みな泉涌寺へ參詣ある事也。
[やぶちゃん注:「泉涌寺」「せんにゅうじ」が現行の一般的読み方。現在の京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある(ここ(グーグル・マップ・データ))真言宗東山(とうざん(又は泉山(せんざん))泉涌寺。本尊は釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来(未来なので先取りして菩薩から転じている)の三世仏。ウィキの「泉涌寺」によれば、『平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」』或いは単に「御寺(みてら)」『と呼ばれている』(月輪陵は歴代天皇らの二十五柱の陵及び五基の灰塚と九基の墓がある)。仁和寺・大覚寺などとともに皇室所縁の『寺院として知られるが、草創の時期や事情については』、『あまり明らかではない。伝承によれば』、斉衡三(八五六)年、『藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣』(おつぐ)『が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという』(「続日本後紀」によれば、藤原緒嗣は承和一〇(八四三)年に『没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる』)。また、『別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間』(八二四年~八三四年)に『この地に草創した法輪寺が起源であり』、斉衡二年に『藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を』大同二(八〇七)年とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあ』る『)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる』。建保六(一二一八)年、『宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿』(しゅんじょう)『に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得て』、『この地に大伽藍を造営した』。この時、境内に『霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿』『は肥後国(熊本県)出身の学僧で』、正治元(一一九九)年に宋に渡り、足かけ十三年も滞中して『天台と律を学び』、建暦元(一二一一)年に日本へ帰国した僧で、『彼は宋から多くの文物をもたらし』、『泉涌寺の伽藍』も『全て宋風に造られた』。『泉涌寺は律(北京律)を中心として天台、東密(真言宗)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた』とある。
「騷劇(さはがしげ)なる」読みは私の恣意的なもの。音読みは如何にも生硬で厭な感じがするから避けた。「サウゲキ(ソウゲキ)」と読みたい方は、どうぞ。
「目付」監視人。今なら駐車場管理人である。
「下座見」江戸の見附(みつけ:見張り番が置かれていた城門などの施設)に勤務した門番の下役。ウィキの「下座見」より引く。『通過する登城行列の鑑別を行った』。『見附を通行する行列に対し家格や役職に応じた答礼を門番側が行う決まりになっていた。この答礼準備のため』、『門番側はいち早く』、『行列の主を特定する必要に迫られた。このため』、『行列の鑑別を行う下座見という専門職が誕生した。熟練した下座見になると』、『遠方より一瞥しただけで瞬時に誰の行列か特定できたという』。私も電子化注している松浦静山の「甲子夜話」に『収録されている本人の体験談によると、緊急事態に』、『通常の行列とことなり』、『数騎のみで駆け抜けた時にも』、『下座見は彼を松浦藩藩主と認識し』、『適切な答礼を指示したという』。
「今度」これは「直近時制で一度でも」の意である。
「陸尺」「六尺」とも書き、「力者(りよくしや(りょくしゃ)」の転とも言われる。近世に於いて輿や駕籠を担いだ人足や駕籠舁きのことを指す。
「般舟院」(はんじゅういん)は京都市上京区般舟院前町にあった天台宗の寺院で「般舟三昧院」とも称した。ウィキの「般舟院」によれば、山号は指月山。本尊は阿弥陀如来。現在は西圓寺』『(さいえんじ)という単立の寺院となっている』(ここ(グーグル・マップ・データ))。「応仁の乱」の『後、後土御門天皇の発願により』、『恵徳上人善空を開山として伏見(京都市伏見区)指月山に建立、勅願寺とされた。しかし』、文禄三(一五九四)年から『本格的に始められた豊臣秀吉による伏見城の築城工事に伴って、西陣に移転した』。『江戸時代には、禁裏道場として御所直属の天台・真言・律・禅の四宗兼学の道場として栄え、東山の泉涌寺とともに皇室の香華院であった。二尊院・遣迎院・廬山寺とともに御黒戸四箇院のひとつでもあった』。『敷地は現在の嘉楽中学校の全域とその西隣にある般舟院陵をも含む広大な広さを誇っていたが、明治維新後の神仏分離令に伴い、皇室からの下付金がなくなったことなどにより衰微し、敷地の大部分は上京第七番組小学校(現在の嘉楽中学校)となった』。この般舟院は皇室歴代の尊牌を安置していたが、『その維持も存続も難しくな』って、明治四(一八七一)年にはそれらの尊牌は泉涌寺の霊明殿に移されて安置されることとなったという。近代まで、天明三(一七八三)年建立の正門と講堂が般舟院の遺跡として残っていたが、『関東大震災により大破した鎌倉の建長寺からの要請で、建長寺へ寄付するこことなり』、昭和一八(一九四三)年に移築され、現在、それぞれ、般舟院の「正門」は建長寺の「総門」に、「講堂」は建長寺の「方丈」となっている、とある。二〇一一年十一月の『新聞各紙の報道によると、般舟院の土地と建物は競売にかけられて他の法人に所有権が移っており、重要文化財指定の仏像』二『体も京都市内の他の寺院に保管されているとい』い、『さらに、この一連の競売問題に絡み、競売に絡んで解職された般舟院の元住職が、重要文化財の仏像』二『体を無断で持ち出し』て『隠匿していたとして』、二〇一二年七月九日に』『文化財保護法違反容疑で書類送検された』ともある。廃仏毀釈の亡霊が僧にまで乗り移っている。最早、京は魔都でおすなあ。]
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