諸國里人談卷之五 大鼠
○大鼠(おほねづみ)
信濃國上田の邊の或(ある)寺に猫あり。近隣の猫おどかし、喰殺(くひころ)しなどして、
「世にいふ『ねこまた』なり。」
といへども、流石(さすが)、寺なれば、追放(おひはなち)もせで、飼(かひ)けり。
一日(あるひ)、田舍より野菜を商(あきなふ)土民來り、此猫を見て、
「世には、かゝる逸物(いちもつ)も、あるものかな。」
と、こよなふ、ほうびしけり。
住僧の云〔いはく〕、
「所望ならば、得さすべし。」
此男、大きに悦び、厚く礼して、もて行〔ゆき〕けり。
二、三日過〔すぎ〕て、彼(かの)男、菜・大根やうのものを以て謝し、
「御影(〔お〕かげ)によりて、年月の難を遁(のが)れたり。」
といふ。
其(その)謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。①③とも。])れを問ふに、
「我家、惡鼠(あくそ)ひとつありて、米穀をあらし、器物を損ふ事、年〔とし〕あり。これは、さる事なれども、八旬にあまる老母あり。夜每に此髮をむしるを、夜すがら、追ふ事、切(せつ)なり。晝も、他行〔たぎやう〕の時は、近隣へ預置(あづけおく)也。此鼠をさまざまに謀(はか)れども、取得〔とりえ〕ず。あまた、猫を求め合〔あは〕するに、飛〔とび〕かゝつて、猫を喰殺(くひころす)事、數あり。きのふ、當院の猫にあはせければ、互にしばらくためらひけるが、如ㇾ例(れいのごとく)、鼠、飛付〔とびつ〕くを、猫、則〔すなはち〕、鼠を喰ふ。ねずみ、また、猫をくらひて、兩獸、共に死(しゝ)ける。」
と也。
その所を「鼠宿」といふ。その猫・鼠の塚あり。上田と屋代(やしろ)の間なり。
[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。これは私の『柴田宵曲 妖異博物館「猫と鼠」』で宵曲が現代語訳で紹介し、私も本条を吉川弘文館随筆大成版で電子化している。それと比べて戴きたいが、今回の電子化で、例えば、吉川弘文館版が「御影」を「御陰」、「預置也」を「頼み置くなり」と誤判読していることが判った。後者は意味が異なるひどいものである。
「八旬にあまる」八十歳を越えた。
「むしる」「毟(むし)る」。鬢付け油の匂いに引かれたものか。
「謀(はか)れども」試みて退治しようとしましたが。
「數あり」「かずあり」で「何度もあった」なのであるが、私は「あまた」(「數多」)と読みたくなる。
『その所を「鼠宿」といふ。その猫・鼠の塚あり。上田と屋代の間なり』今回、改めて探してみたところが、「鼠」という地名を発見した!
長野県埴科(はにしな)郡坂城町(さかきまち)南条(みなみじょう)鼠(めずみ)!(ここ。グーグル・マップ・データ)
しかも直近の国道十六号線の信号機の名称も「ねずみ」!(グーグル・ストリートビューを見よ!)
さらに「鼠宿」で調べてみたところが、もっともっと豊かな意外な話が見えてきたのだ!!!
そもそもさ、考えてみりゃ、完全な悪鼠(あくそ)なら、塚は猫だけでよく、「鼠塚」は造らんし、地名にするなら「猫」で「猫宿」だよね!?
それは、個人ブログ「信州小諸通信」の「鼠(ねずみ)宿」を読んで、「なるほど!!!」と膝を叩いたもんだ!!!
それによれば、まず、大方の人が想像されていると思われるが、ここは正式な江戸時代の宿場ではない。『北国街道で上田宿の次は坂木(坂城)宿ですが、その間に鼠宿と言われる間宿があります。国道を通ると信号機に「ねずみ」と掲げてあるのをいつも面白く見ていましたが、ここは正式な宿場ではなく、松代藩が私的に設けた間宿』(あいのじゅく)『とのことです。したがって本陣や旅籠などはなく、お茶屋があった程度のようです。宿場を思わせる史跡らしいものはありませんが、一部国道の脇に記念ストリートが手入れされています』とあって、以下にある、平成六(一九九四)年八月に坂城町が建てた「北国街道鼠宿跡」の電子化翻刻を引用させて戴くと(一部のアラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)、
《引用開始》
ここ鼠宿は、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿(あいのじゅく)であった。真田氏は元和八年(一六二二)上田から松代に移ると、当時南条村と称していた金井村以南の地を鼠宿村と改め、翌九年に鼠宿村の北部と金井村の南部を合わせて新たに新地村を作ると共に、鼠宿・新地両村の共同経営とする「鼠宿」の宿場造成に着手した。
上田・坂木の両宿は幕府公認の本宿で、鼠宿は、松代藩が設けた私宿であった。幕主の参勤交代・領内見分、藩士の日常出張等の際の宿泊・休憩の接待や、藩の荷物の継ぎ立てに当たらせ、口留番所を設けて人や物の出入りを取り締まった。
岩鼻は松代領と上田領の境界で、東・北信を結ぶ経済・政治上の要衝であり、鼠宿の口留番所における人と穀物・酒・漆等に対する取り締まりは関所なみの厳しさであった。
岩鼻はまた坂木の横吹坂と並ぶ街道の難所で、加賀の前田侯は参勤交代の際岩鼻を通過すると、飛脚をたてて無事を国許に伝えたという。
宿場の南北の入口に桝形があり、道路は鼠宿・新地両村境でカギ形に屈折し、道路の中央に用水を通し、川の東に沿って柳・榴・海棠等の並木があり、井戸がその間に点在した。
本陣(正式名は御茶屋)、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般人の休息する茶屋もあって、宿場はにぎわった。宿場南端の会地早雄(おうじはやお)神社は由緒深い社で、境内に江戸時代に建立の万葉歌碑と明治に建立の芭蕉句碑が並ぶ。
明治維新を迎えて宿場は廃され、明治九年(一八七六)に北国街道は国道となったが、後信越本線の開通により街道交通はさびれていった。
以来幾多の変遷を経、今岩鼻の国道は新たな車時代の難所となり、建設省によって急崖が削られ、国道の拡幅、歩道の新設、緑地帯の造成の画期的な工事が竣工した。これを記念し、昔日の面影をしのび、これを記して後世に伝えるものである。
《引用終了》
とある。さて、肝心なところはここからで、ブログ主の著作権を侵害はしたくないのであるが、これはこの方の分六記事を殆んど引用しなくては、私の驚愕と感動は伝わらぬのである(以下、太字で示したのは私である)。
《引用開始》
この番所の関所並みの取り締まりは厳しく、品物や人の出入りを見張ったといい、寝ずの見張りがいたので「寝ず見」が「ねずみ」になったという説もあるそうです。
また、「鼠」をめぐる民話も伝わっているとか。
昔、この地に風土病の原因の「ツツガムシ」が住み着き、住民が困っていると、大きな鼠が現われツツガムシを退治してくれたそうです。住民は大変感謝して「鼠」を神と崇めたのですが、ツツガムシがいなくなって、鼠は村の産業の「蚕」を食べるようになりはたはた困ってしまいました。そこへ今度は大きな唐猫が現われ、鼠を退治してくれたそうです。そんな関係で鼠という名が残ったそうな。
この民話には、似たような話がいくつかあるそうですが、唐猫に退治された鼠は、苦しさのために当時その千曲川畔にあった湖に逃げ、とうとう逃げる為にその湖の岩肌を噛み切った為に、大氾濫が起こり、鼠も唐猫もその強流に流されてしまったとのこと。そのために、ここの千曲川は東西に大崖が迫った地形になっています。今、岩鼻と言われる山並みが千曲川まで迫って断崖を造っているのに合う話で、楽しくなります。鼠の住民は、ツツガムシを退治してくれた鼠を崖の岩屋に祀り、唐猫は下流の篠ノ井塩崎まで流され、その地の人々に祀られ、[やぶちゃん注:「それが」。]現在もある「軻良根古(唐猫)神社」だそうです。なかなかスケールの大きなロマンある民話です。
《引用終了》
別なサイト「坂城町の民話」の「神ネズミと唐猫様」も参照されたい。これで「崖の岩屋」の場所も判った。まず、
この鼠を祀った「崖の岩屋」は現在の長野県上田市小泉にある「半過の岩鼻」だ! ここだ!(グーグル・マップ・データ。右コンテンツの写真の中に猫と鼠のキャラクターが仲良くいる看板もあるノダ!)
「唐猫」の「祀られ」ているという「軻良根古(唐猫)神社」は長野市篠ノ井塩崎のここ(グーグル・マップ・データ)だ!
なお、重症例では播種性血管内凝固症候群で死に至ることもある古典型「ツツガムシ病」の病原体である、プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目Rickettsiales リケッチア科オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ(・リケッチア)Orientia
tsutsugamushi を媒介する鋏角亜門クモ綱ダニ目ツツガムシ科アカツツガムシ属アカツツガムシ Leptotrombidium akamushi は(リケッチアも保有しないツツガムシもいる。〇・一%から二%のグループが経卵伝搬によってリケッチアを保有する)、幼虫期に主に野鼠(山林・農耕地・雑林などに棲息する相対的には中・小型の、哺乳綱ネズミ目ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus やアカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteusなど)等に吸着するから、そうした野鼠を食い殺したと考えれば一応は腑に落ちる(但し、野鼠でない家鼠にもツツガムシの幼虫は吸着すると思われ、また自然界で野鼠類などの動物は「ツツガムシ病」のヒトへの感染増幅動物なのではなく、ダニのライフ・サイクルを完結させる点に於いて重要な存在なのであるというところは押さえなくてはならない。但し、古典型ツツガムシ病の原因となったアカツツガムシは現在は消滅したと考えられていると、一部で参照した「国立感染症研究所」の「ツツガムシ病とは」にはある)。]
« 譚海 卷之三 (同御所作同御近侍)(その二) | トップページ | ブログ1120000アクセス突破記念 梅崎春生 犯人 »