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2018/08/24

譚海 卷之三 中院通茂公關東逗留事

 

中院通茂公關東逗留事

○中院通茂(なかのゐんみちしげ)公、傳奏にて關東へ下向ありし此、臺德院公方樣(たいとくゐんくばうさま)通茂公へ古今傳授御所望ありしに、和歌堪能の人ならでは傳授成(なり)がたきよし言上に付(つき)、御氣色惡敷(あしく)、傳奏の御暇(おんいとま)出(いだ)されずして、龍の口傳奏屋敷に三年までをはせしに、種々京都よりも御詫ありて免ぜられ歸京ありしと也。彼公の集・後水尾院の御製集などにも此事見えたり。

[やぶちゃん注:「中院通茂」が武家伝奏に補任されたのは寛文一〇(一六七一)年九月で、延宝三(一六七五)年二月に伝奏の任を解かれている。この時代の将軍は第四代将軍徳川家綱である。ところが、次に出る「臺德院」とは第二代将軍徳川秀忠の法号であり、全くおかしいことになる。秀忠は寛永九(一六三二)年に没しているからである。また、通茂の事蹟にこのように江戸に半ば軟禁されたという記録はない。これは中院通村の誤りであり、その相手は第三代将軍徳川家光であるウィキの「中院通村によれば、『将軍徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である』とあり、中院通村は元和九(一六二三)年に武家伝奏に補任されたが、寛永七(一六三〇)年九月、前年の十一月に彼を信任していた後水尾天皇が勝手に興子内親王に譲位してしまい、この謀議を関知しながら、それを武家伝奏として幕府に報告しなかったという理由で武家伝奏を罷免された上、五年後の寛永一二(一六三五)年三月には、その正謀議参画の罪によって江戸へ召喚され、寛永寺に幽閉された。しかし、七ヶ月後の十月には天海の請願によって赦免されて帰京している。津村は、この通村の関係のない二つの事蹟を、ごちゃごちゃにした上、当事者たちの名もめちゃくちゃにして誤認していたのではなかろうか?

「龍の口傳奏屋敷」「龍の口」は現在の東京都千代田区丸の内1の「日本工業倶楽部ビル」が建つ附近の旧地名で、江戸城大手門外に当たり、伝奏屋敷があった。(グーグル・マップ・データ)。]

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