反古のうらがき 卷之一 飛物
○飛物
四ツ谷裏町の與力某、打寄(うちより)て、棊(ご)を打けるが、夜深(よふけ)て、各(おのおの)家に歸るとて立出しに、一聲、
「がん。」
といひて、光り物、飛出で、連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたりと思ふ所江落たり。
直(ただち)に打連(うちつれ)て其所に至り、挑燈振り、てらして尋ねけるに、なにもなし。
明(あく)る朝、主人、立出(たちいで)て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付(つき)たる、しんちうの大鈴一つ、打込(うちこみ)て、あり。
神前などにかけたる物と覺へて[やぶちゃん注:ママ。]、ふるひも付たり。
「かゝる物の此所に打捨有(うちすてある)べき道理もなければ、定(さだめ)て夜前(やぜん)の光り物はこれなるべし。」
と云へり。
此大鈴、何故、光りを放して飛來(とびきたり)けるや、其譯、解しがたし。天保初年の事なり。
[やぶちゃん注:底本では、ここは実際に改行されてある。]
此二十年斗(ばか)り前、十月の頃、八つ時頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、余が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の聲、鳴渡(なりわたり)れけり。
時ならぬことと斗り思ひて止(やみ)ぬ。
一、二日ありて、聞くに、早稻田と榎町との間、「ととめき」といふ所に町醫師ありて、其玄關前に二尺に壹尺計りの玄蕃石(げんばいし)の如き切り石、落(おち)て二つにわれたり。
燒石(やけいし)と見えて、餘程あたゝかなり。
其所にては響(ひびき)も厲(はげ)しかりしよし、淺尾大嶽、其頃、其わたりに住居して、親しく見たり、とて余に語る。
これも何の故といふことをしる者、なかりし。
後に考(がんがふ)るに、南の遠國にて、山燒(やまやけ)ありて吹上(ふきあげ)たる者なるべし。切石といふも方正(はうせい)に切(きれ)たる石にてはなく、へげたる物なるべし。
[やぶちゃん注:読み易さと効果を考えて改行を施した。標題は「とぶもの」でよかろう。
「四ツ谷裏町」切絵図集を複数見ても「表町」「仲町」は見出せるのだが、「裏町」は遂に見出せなかった。識者の御教授を乞う。
「棊(ご)」底本は右に『(碁カ)』と編者注があるのだが、これで普通に「碁」のことである。
「連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたり」連れ立って帰っていた某の家の近くまで来ており、その「流し元」(台所の流しのあるところ。ここはその流しから外に排水する場所であろう)附近。
「うごもてる」「墳(うごも)つ」は「土などが盛り上がる」の意。盛り上げてある。
「しんちう」「真鍮」。
「打込(うちこみ)て、あり」突入していて一部が土に埋まってあった。
「ふるひ」「振るひ」で、鈴緒(すずお)のことであろう。
「天保初年」元年は一八三一年。
「此二十年斗(ばか)り前」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、そこを起算とすると、文政一一(一八二八)年から天保元・文政一三(一八三〇)年頃となる。
「十月の頃、八つ時頃」午前二時頃。昼間の午後二時の可能性もあるが、「時ならぬこと」と言い、後の石の落下発見などから見ても、夜間である。
「早稻田と榎町」この中央辺りであろう(グーグル・マップ・データ)。
「ととめき」底本の朝倉氏の注には『轟橋を、土地でかく呼んだ』とある。調べてみると、「轟橋」は「どどめきばし」と読むらしい。個人ブログ『神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!』の「轟橋」に拠ったが、現在は暗渠(多分)で存在しないが、その記載と旧地図を照応すると、現在の榎町の南西直近の弁天町交差点の近くにあったことが判る(グーグル・マップ・データ)。
「玄蕃石(げんばいし)」敷石や蓋石(ふたいし)に用いる長方形の板石。
「淺尾大嶽」画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の門人に、同姓同名(号)の名古屋藩藩士で、名は「英林」とするデータが、サイト「浮世絵文献資料館」のこちらにあった。
「山燒(やまやけ)」噴火。
「方正(はうせい)」方形にきっちりと綺麗に切り出されたような石。
「へげたる」「剝(へ)げる」は「剝(は)げ落ちる・剝がれる」の意。]