反古のうらがき 卷之一 高村源右衞門
○高村源右衞門
高村源右衞門は榎町(えのきちやう)同心にて、召取(めしとり)の名人也。數年相勤しに付、御天守番となる。文政季年の頃也。これよりさき、上毛(かみつけ)の國は大盜(ぬすびと)多く、熊が谷の土手に出(いで)て強盜をなすこと、古(いにしへ)より今に至りて止時(やむこと)なし。所謂、「長脇指(ながどす)」といへる惡徒(わるもの)也。其頃、十餘人、嘯集(しふしふ)して往來の害をなせしかば、源右衞門に命じて是をとらへしむ。彼(かの)徒も源右衞門と聞(きき)て、「面白し。出迎へて打取べし」とて、手ぐすね引(ひき)て待(まち)かくる。源右衞門、人數は召連れず、唯壹人、上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入(いり)たるといふかと思へば、いづち行けん、影をだに見たるものなくなりぬ。惡徒等、「それ。おし寄(よせ)て打取(うつと)れ」とて、所々尋ね求(もとむ)れども、影もなし。人家々々に亂入して搜索すること、每日なり。遂に行衞をしらず。止(やむ)ことを得ずして、吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず。追々(おひおひ)、一人、逃(にげ)、二人、逃して、盡(ことごと)く逃出(にげいで)る。其先々に天網(あみ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を張置(はりおき)て一人宛(づつ)召取(めしとり)、終に不ㇾ殘(のこらず)召取、熊ケ谷を引(ひけ)て歸る時分は十餘人なり。これにて盡(つき)たりとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく、江戶に入(いり)しよし。其間、源右衞門は何國(いづく)に隱れけん、誰(たれ)もしる物なし。但し、壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし、と自(みづ)から、いひしよし。
[やぶちゃん注:「高村源右衞門」この人物、種々の古文書類に見出すことが出来る。例えば、「慶應義塾大学所蔵古文書検索システム」のこちらの、文化一〇(一八一三)年一月附の上野(こうずけ)村・新田村・太田村に於ける『盗賊入紛失の品并びに怪火にて焼失の始末御尋に付下書』の一札に『火附盗賊御改 松浦大膳様御組 高村源右衛門様』と出る。この人物と見て間違いあるまい。
「榎町」底本の朝倉氏の注には『新宿区内。榎町御先手組屋敷があった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。則ち、高村源右衛門は「同心」とあるが、これによって彼は町同心ではなく、先手組同心であって、加役(火附盗賊御改方)同心(当時)であったことが判るのである。私の言っていることが判らない方は、先の「魂東天に歸る」の私の注を見られたい。
「御天守番」江戸城の天守を守衛する職名。ウィキの「天守番」によれば、『江戸城五重の天守は明暦の大火』(明暦三(一六五七)年一月発生)『で焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた。しかし』、『その職のみは存置され』、人員は四十名で、これを四組に分けた。百俵高五人扶持で躑躅間詰。天守下番二十一人とともに天守番頭四人が、それぞれ一組を支配した』とある。
「文政季年」「季年」は末年の意で採っておく。文政は一八一八年から一八三一年まで。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、二十年ほど前のこととなる。
「上毛(かみつけ)の國」上野国に同じい。現在の群馬県。
「熊が谷の土手」現在の熊谷は埼玉県であるが、北で利根川を挟んで群馬県と接しているから、この附近であろう(グーグル・マップ・データ)。
「長脇指(ながどす)」長脇指(長脇差)は本来は一尺八寸(約五十四・五センチ)以上の脇差を言う語であるが、これは幕令によって町人が差すことが禁止されていた。ここは、それを不法に差していた、不良浪人・博徒・渡世人或いは盗賊(団)を指す。小学館の「日本大百科全書」の「博徒」によれば、こうしたアウトローらは、賭け事が庶民階級に浸透していった平安初期には既に発生していたが、組織化して本格的武装をし始めたのは江戸時代で、幕府は文化二(一八〇五)年に関八州取締所を設置、彼らの取締りを強化した。それを避け、江戸及び近郊の博徒らは、このまさに上州付近に集まって、幕府に抵抗した。その後、幕府の取締りも効果がなく、二十年後の、まさに本話柄内時制に近い文政一〇(一八二七)年頃には鉄砲・槍などまで装備し、『ますます手のつけられない状態となった。博徒のことを長脇差(ながどす)というが、戦国時代に榛名(はるな)山の中腹にあった箕輪(みのわ)城の武士たちが好んで長い脇差(わきざし)を用いたところから、上州に集まった博徒たちが自然に長脇差で武装し、その別名となった』のであった。『博徒の集団は一家をなし、統率者を親分といい、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居という身分階級が定められていて堅い団結を信条としている。博徒の子分になるには、仲人(なこうど)をたて』た『厳粛な儀式』を経て、『「一家のため身命を捨てても尽くすことと、親分の顔に泥を塗るような行為はけっしてしないこと」を誓』ったとある。
「嘯集(しふしふ)」人々或いは同類の者どもを呼び集めること。また、呼び合って集まること。嘯聚(しょうしゅ)とも言う。
「上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入たるといふ」博徒のネットワークを通じてリアル・タイムで情報が伝わったことを指す。
「人家々々に亂入して搜索すること每日なり」言わずもがなであるが、主語は博徒である。
「吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず」博徒らが目に見えない高村源右衛門の影に怯え始め、不意打ちの捕縛を恐れて、逆に姿を隠してしまったのである。源右衛門の巧妙な神経戦の勝利である。
「熊ケ谷を引(ひけ)て」源右衛門は熊谷に密かに前線本部を置き、恐らくは隠密行動で配下の者もここにこっそりと集合させていたものであろう。でなくては、「十餘人」の罪人を徐々に捕縛して留置し、ここを引き払って江戸へ帰るに際して単独でその人数を連行することなどはとても出来ることではない。
「これにて盡(つき)たりとみへて、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく」当該の盗賊団の輩葉はこれで掃討し尽くしたものと見えて、残党は全くおらず、途中で捕縛された連中を奪還に来るというような事態にも遭遇しなかった、というのであろう。
「壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし」逮捕して熊谷で留置していた者の中には、牢の壁を突き破って逃げた者もいたということであろう。]