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2018/09/30

反古のうらがき 卷之四 才子美人

 

    ○才子美人

 所はいづこにや、才子と美人とありけり。男は才の秀たるのみならず、容(すがた)さへ人にすぐれてみやびやかなりければ、其父母はいふもさらなり、凡(おほよそ)しれたる程の人、皆、めでずといふことなし。同じ友とまじわりても[やぶちゃん注:ママ。]、何事も藝能のすぐれたれば、友とはいへど、師のくらい[やぶちゃん注:ママ。]にぞありける。女はかたちのうつくしきがうへに心ざまやさしく、いとたけ[やぶちゃん注:「糸竹」。琴や横笛の演奏。]はいふに及ばず、諸々(もろもろ)の藝に精しく、物ごとまめやかに、人にまじろふ[やぶちゃん注:交際する。]ことさへ、すぐれてよかりけり。かゝる人々の同じ所に住(すみ)て、相しれる中なれば、「果(はて)は夫婦となりて、天の才子美人を生(しやう)じ玉ひし御(み)こゝろにかなふべきは、人間の力を用ゆるに及ぶべからず」と、人々、見許(みゆる)して[やぶちゃん注:(二人が親密にするのを本来はやや節操を欠くとして咎めるべきところを)見ながらも、とがめないでおき。見逃してやり。]、言名付(いひなづけ)などのよふに婚姻の時をぞ待(まち)にけり。男女のたがひのこゝろのうちにも、『かくあるべし』と思ふにぞ、敢て戀(こひ)わぶる事もなく、世の人のいふ事を言ひ約束のごとく思ひて、時、經にけり。かく定まりたることのよふに思ふものから、佗(ほか)より言(いひ)よる人もなく、のけものゝよふにぞ有(あり)けり。男女(ふたり[やぶちゃん注:私の勝手な読みである。])もこゝろにかくは許せども、誰(たれ)もていひよらんたよりもなけれど、よのつねの人の戀するさまも珍らしからず、かく天より結びし緣なれば、自然に任(まか)すとも、今、はた、われを捨て佗人(たにん)に許さんよふ[やぶちゃん注:ママ。]はあるまじと、こゝろにおちゐて、月日をぞ得ける。扨も、男廿一、女十八といふ年のはる、男女ともに、他(ほか)より、婚姻の事、いひ入(いる)る人ありて、其方(そのはう)にぞ許しける。互の父母のこゝろには、克(かつ)て貴き人に緣結ぶならん、此方(こなた)より言出(いひい)で、ことならずば、恥なるべし、若(も)し、貴き人を求るこゝろなくば、必(かならず)吾方に言入ることあるべしと思ふにぞ、一言もいひ出さず、又、わざわざにまじわりもうとくして、親しみよる方を負(まけ)なりと思ひ、いたづらに、にらみあひて過(すぎ)ける。佗(ほか)の人、これを見て、もどかしさに媒(なこうど)となりて言入(いひいれ)たるに、思ふよふにおり合はで、遂には、互に、腹あしくなりて、事、やみにけり。古(いに)しへより、才子美人の緣はなきものなりといふ人ありしが、理(ことわり)に通達(つうたつ)したる人なりけり。かかれば、緣ありて人に妬(ねた)まれんよりは、緣なくて人におしまるゝも[やぶちゃん注:ママ。]、却て、才子美人の甲斐あるよふに覺ゆるなり。とかくに事は十分ならぬ方(かた)ぞ、なさけありて、よし。世に「痴人の福」といふこと、おふし[やぶちゃん注:ママ。]。薄命は才子美人のつねぞかし。惜しむも又、理(ことわり)に達(たつ)せざる人なるべし。

[やぶちゃん注:くどい叙述で、両「才子美人」の映像も一向に浮かばず、言っている理窟もつまらない。「反古のうらがき」の中では最も面白くない一条と私は思う。しかし、或いは、ここには作者鈴木桃野自身の隠された人生が裏打ちされているのかも知れない。]

反古のうらがき 卷之四 やもめを立し人の事

 

    ○やもめを立し人の事

 もろこし溪(けいけい)といへる所に、何がしとなんいへる人ありける。其むすめ、某氏、とし十七にして、同じ家がらよき人にゆきけるが、程もなくて、おつと[やぶちゃん注:ママ。]、身まかりてけり。かゝるなげきの中にも、幸にわすれがたみをやどしければ、これをちからとして、月のみつるを待(まち)けるが、當る月に男の子をぞ、もふけける[やぶちゃん注:ママ。「儲(まう)ける」。]。

 氏はこれをもりそだてゝ、よくやもめを守りしによりて、此事、上に聞へて、節婦の名を賜り、物おゝく[やぶちゃん注:ママ。]たびけり。

 とし八十餘に及ぶ迄、家富(とみ)さかへ、子孫繁昌してける。

 後(のち)、おわりにのぞみて、媳(よめ)・孫婦(そんふ)[やぶちゃん注:男性の孫の妻のこと。]等(ら)を枕のもとに呼び迎けて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「人々、我家によめりて、偕老(かいらう)のちぎり百年(もゝとせ)もかわらでおへなん事は、さいわい[やぶちゃん注:ママ。]の中にも殊に目出度(めでたき)ことになん[やぶちゃん注:結びの省略。]。もし、不幸にして年若くてやもめならん人あらば、よくよく事のよふ[やぶちゃん注:ママ。「樣(やう)」。]を考へ、やもめを立(たつ)べきか、別に人にゆくべきかとを定めて、のち、いづれともなすべきぞ、一概にやもめを立ると定(さだめ)るは、あしかるべし。なまじいに仕出(しいだ)して、事仕果(ことしは)てぬは、人の笑ひものぞ。此斗(はか)らひも、亦、大なる方便ぞ。」

といひければ、媳(よめ)等は目を見合せて、

「年老(としおひ)て病(やまひ)もおもらせ[やぶちゃん注:「重らせ」。]玉ひたれば、かゝるすぢなき言(いひ)いひ出で玉ひけり。」

とて、よくも聞かで居(ゐ)にけり。

 氏、重ねていゝけるは、

「やもめを立るといふこと、實(まこと)にいひがたき事なり。おのれは其中を經(へ)て來(き)にたれば、其味をよくしりたり。いざ、かたりきこへん。」

といひけるにぞ、みな、しづまりて、きゝけり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではも改行がなされてある。]

「扨、いふ、おのれ、やもめを立(たて)し時は年十八なりけり。家がらの娘は、下下(しもじも)の如く、二夫(にふ)にまみゆるといふことはなきことなれば、中々に改めて他(ほか)にゆくべきこゝろ、なし。ましてや、わすれがたみをいだきたれば、絶(たえ)てこころの動くこともなくて、すぎけり。

 されども、若き女のひとりねは、いとどさへさびしきに、秋風の萩の葉ずへをわたる夜半に、入る月のさやかに窓のうちにさし入(いる)など、心うきこといわん方なし[やぶちゃん注:ママ。]。

 又は、ともし火のくらく、深(ふけ)て行く夜に、蟲の音(ね)、雨の聲(おと)、木の葉のとぶ聲(こえ)などきくときは、ねやのふすま、ひへ[やぶちゃん注:ママ。]わたり、獨り其中に打(うち)ふして永き夜を待明(まちあか)すぞ、又なく、心ぐるし。

 かくすること、度々なる中に、

『さりにし夫がいとこなり。』

とて、年頃、夫に似合(にあひ)たる人、しうと[やぶちゃん注:「舅」。]がり、訪ひ來て、吾家(わがや)を宿として日久しく居(ゐ)にけり。

 其人、年の頃の似たるのみならず、おもざし・物いふさま迄、吾(わが)夫によく似て、殊にうるわしく生れ付(つき)たる人なりければ、これを一目見しより、心、われならず動き出で、とゞめんとすれども、其かひなし、日每々々に思ひ積りて、果(はて)は、吾をわすれて立(たつ)よふにぞ有ける[やぶちゃん注:「よふ」はママ。(恐らくは夜寝ていても)無意識のうちに起き上がって立ち歩くような感じになってしまったのであろう。男にあくがれて体が動くのである。]。

 一と日、宵の間(ま)より雨ふりて、いとゞ心うき夜、人の寐(ね)しづまりし時、ひそかにねやを忍び出で、幾重(いくへ)かのへだてを越(こえ)けるが、よくよく思ひめぐらすに、

『父母のおしへもなく、いやしくおひ立(たち)ぬる女こそ、かゝる時に、たへかねて恥なきことも、なしつらめ、[やぶちゃん注:「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。]われもこれと同じわざし侍らば、後に悔(くい)たりとも、かひあらじ。』

とて、立歸りけるが、

『さりとて、又も、かゝるおりもあるべからず、一夜(ひとよ)ぎりのことならば、など、くるしからん。』

とおもふにぞ、引(ひき)とゞむべきよふなく、又、貮足、三足、忍ぶ程に、俄(にはか)に人ありて、

「あれはいかに。」

といふにぞ、大におどろき、逃げかへりて、きぬ、引(ひき)かづきていきもせず、よくよく聞(きく)に、先に寢たるはしたの女(め)が、寢(ね)ぼけて、たはごといふにてぞありける。

『よしなきことにさまたげられけり。』

と思ひけれど、再び忍び出(いづ)ることも、なにとなくさまたげがちにて、其夜はおもひ止(とどま)りしが、とかくにおもひ止(や)まで、幾重の隔(へだて)を打越(うちこえ)て、其人の伏しける處に行(ゆき)て、思ひのたけを語るにぞ、同じ心に打(うち)とけて、伏(ふしど)[やぶちゃん注:「臥所」。]に入らんとせし時に、こはいかに。

 床の上に、おもても手足も血にまみれたる人、ありけり。

 よくよく見るに、さりにし夫にてありければ、

『淺まし。』

と思ひて、聲を上げて泣(なき)ける、と見て、獨り寐(ね)の夢は醒(さめ)にける。

 しばしありて思ひみるに、

『吾ながら、はづかしき仇(あだ)ごころかな。先の夫が靈魂(みたま)は、まさに夢中のありさまのごとくなるべし。』

と思ふにぞ、おそろしく、かなしくて、此よりのち、かゝる仇(あだ)しき[やぶちゃん注:危ない。]こゝろを起さず、我にもあらで、六十餘年を經(へ)にたれば、「節婦」の名をもよばるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]になりしも、はじめより、かく、やもめを守るべきこゝろにては、あらざりけり。

 彼(かの)閨を忍び出(いで)たる時、はしためが、たわ言(ごと)[やぶちゃん注:ママ。]なかりせば、仇なる心をとげはつべし。さらずとも、おそろしき夢なかりせば、再び、三たび、此心おこりてやまざるべし。

 かくて、寡婦(やもめ)を守るとも、よく守り果(はつ)べしとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。

 さあらんよりは、舅・姑に告(つげ)て、改(あらため)て他に行くこと、大なる方便なりとはいふなり。」

とぞかたりける。

 

 此事、「諧鐸(かいたく)」といへる小説に載(のり)たり。おもしろく思ひ侍れば、こゝに譯(やまとよみ)して、からぶみ[やぶちゃん注:「唐文」。漢文。]讀まぬ人に、しらせつ。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。最後の桃野の言葉は一行空けた。「反古のうらがき」の中に出る初めての本格中国物である。モノクロームでイタリアのネオ・リアリスモ風に撮ってみたい、いい訳文である

」現在の江蘇省常州市金壇市荊渓村であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蟲の音(ね)、雨の聲(おと)、木の葉のとぶ聲(こえ)」読みは私の趣味で変化を持たせて附した。

「諧鐸」清の沈起鳳(しんきほう)の書いた文言小説集。同じ清の先行する蒲松齢の志怪小説集「聊斎志異」の影響を受けて書かれた志怪回帰的作品群の一。全十二巻百二十二篇。原刻版は一七九一年成立。本話は第九巻の「節母死時箴」。中文ウィキソースにある原文を少し漢字と記号を変更・追加して示す。

   *

  節母死時箴

 荊溪某氏、年十七適仕族某、半載而寡、遺腹一子。氏撫孤守節、年八十餘、孫曾林立。

 臨終、召孫曾輩媳婦、環侍牀下、曰、「吾有一言、爾等敬聽。」。衆曰、「諾。」。氏曰、「爾等作我家婦、盡得偕老百年、固屬家門之福。倘不幸靑年居寡、自量可守則守之、否則上告尊長、竟行改醮、亦是大方便事。」。衆愕然、以爲惛髦之亂命。氏笑曰、「爾等以我言為非耶。守寡兩字、難言之矣。我是此中過來人、請爲爾等述往事。」。衆肅然共聽。曰、「我居寡時、年甫十八。因生在名門、嫁於宦族、而又一塊累腹中、不敢復萌他想。然晨風夜雨、冷壁孤燈、頗難禁受。翁有表甥某、自姑蘇來訪、下榻外館。於屛後覷其貌美、不覺心動。夜伺翁姑熟睡、欲往奔之、移燈出、俯首自慚、囘身復入、而心猿難制、又移燈而出、終以此事可恥、長歎而囘。如是者數次、後決然竟去。聞灶下婢喃喃私語、屛氣囘房、置燈桌上、倦而假寐、夢入外館、某正讀書燈下、相見各道衷曲。已面攜手入幃、一人趺生帳中、首蓬面血、拍枕大哭。視之、亡夫也、大喊而醒。時桌上燈熒熒作靑碧色、譙樓正交三鼓、兒索乳啼絮被中。始而駭、中而悲、繼而大悔。一種兒女子情、不知銷歸何處。自此洗心滌慮、始爲良家節婦。向使灶下不遇人省、帳中無噩夢、能保一生潔白、不貽地下人羞哉。因此知守寡之難、勿勉強而行之也。」。命其子書此、垂爲家法、含笑而逝。

 後宗支繁衍、代有節婦、間亦有改適者。而百餘年來、閨門淸白、從無中冓之事。

 鐸曰、「文君私奔司馬、至今猶有遺臭、或亦卓王孫勒令守寡所致。得此可補閨箴之闕。昔范文正隨母適朱、後長子純祜卒、其媳亦再嫁王陶爲婦。宋儒最講禮法、何當時無一人議其後者。蓋不能於昭昭伸節、猶愈於冥冥墮行也。董相車邊、宋王白畔、益歎爲千秋之僅事矣。」

   *

悪夢から醒めた直後のシークエンス(桃野の訳ではカットされている)が非常に優れている。]

反古のうらがき 卷之四 刀を見る人の事

 

   ○刀を見る人の事

 大名に松平何の守、町人に伊勢屋何右衞門、俳優に市川何十郞、繪師に狩野何信などいふは、世に其類ひ多くて、かぞふるにいとまなければなり。かりにも名の聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たらん人ならば、一字だも、やすくよぶこと、なし。關の兼定を之定・疋定などいひて、同じ文字も分ちていふにて、しるべし。予がしれる人に、刀の目きゝする人ありけり。さる方(かた)に行(ゆき)たれば、主(あるじ)がいふ、「子(し)は刀を見る事にたけ玉ふよし、此刀は家重代なり。いかゞあるべき、見てたべ」といふにぞ、「易き程のこと」とて見てけるが、さまでの物にてもあらざりければ、よくも見はてで、「これは『關の兼何(かねなに)』とかいふものなるべし」といひてさし出(いで)ければ、主(あるじ)、大(おほい)にあきれたるおもゝちして、「扨も。子が目きゝ、かく迄(まで)妙ならんとはおもはざりけり。いかにも、『兼何』とかいふ者なり。これ、見玉へ」とて、中心(なかご)引拔(ひきぬき)てみせけるに、上り物にて、『兼』の字斗(ばかり)ぞ殘りて有ける。あるじは、物に精(くは)しからぬ人なれば、かくいひてこたへたるなれども、めきゝしたる人は、『あざけるにや』とおもひて、しばし打まもりて居てけるが、さにはあらざりければ、おのれ獨(ひとり)がこゝろのうちにはづかしくて、其座をさりしと、後に人にかたりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「關の兼定」日本刀刀工である和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)のこと。室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活動したことからかく呼ぶ。初代を「親兼定」、以下、ここに出る二代目「之定(のさだ)」(和泉守兼定)、三代目「疋定(ひきさだ)」がいる。ウィキの「和泉守兼定」によれば、『美濃国の刀工に著名工が輩出するのは南北朝時代以降である。室町時代には備前国と美濃国が刀剣の二大生産地とされるが、新刀期(慶長以降を指す)には備前伝が衰退していったのに対し、美濃伝系統の鍛冶は各地で活動しており、新刀期の刀剣の作風に大きな影響を与えている。美濃の関鍛冶は南北朝時代の金重に始まると伝える。関を含め、美濃の刀工には、兼氏、兼元など「兼」の字を冠する名を持つ刀工が多い』。『兼定は同銘の刀工が複数存在するが、初代(通称「親兼定」)』、二『代(和泉守を受領し和泉守兼定と銘する通称「之定」)』、三『代(通称「疋定」(ひきさだ))の評価が高い』。『特に』二『代の通称「之定」は』、『この時代の美濃国では随一の刀匠といわれ』、『有名である』。『初代兼定については、かつてはその作刀が明確でなく、「之定」が事実上の初代とみなされていたが、享徳二二年』(享徳四(一四五五)年の意味)『二月日の年紀を有し、「濃州関住人兼定」と銘する太刀が発見され、これが初代に該当するものとされている』とある。

「關の兼定を之定・疋定などいひて、同じ文字も分ちていふにてしるべし」桃野の謂いは「定」の字の変体字の構成要素の一部を取り出して、継承者を指す通称の一部としていることを指す(この場合は、後代、彼らを呼ぶ際の通称であって、当時の本人がそう名乗っていたわけではないようである(前の例示は、皆、自称だが)ので注意が必要である)サイト「名刀幻想辞典」の「兼定(刀工)」に、二代『兼定は「定」の字を「」』と、『独特の書体で切ることが多いことから、「之定」(のさだ)と通称される。文亀二』(一五〇二)『年以降のもの(二代目)からノサダとなる』とあり、三『代兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから』、『「疋定」(ひきさだ)と通称される』とある。ウィキの「和泉守兼定」によれば、二代兼定の銘字は明応八(一四九九)年から翌年の『間に銘字を変えている。「定」字を初期は「定」に作るが、後には』「」を『記したため、通称「之定」(のさだ)と言われる。「兼」字のタガネ使いにも特色があ』り、「兼」も現行の「兼」とは『字体が異なる』とあることから判るように、茎(なかご)の銘として二代目は「兼」(かねさだ)と、三代目は「兼之」(かねさだ)と名を彫ったことが判る。則ち、伝わる刀としての「関の兼定」には、刀工者「かねさだ」の名銘として、「兼定」「兼」「兼之」の三種が存在するということになる。これを認識してかからないと、本条の「關の兼何」の面白さが判らない。

「上り物」底本は「上け物」(「け」はママ)。国立国会図書館版を採った。これは「神仏への供え物」の謂いであろう。則ち、銘の上部にその旨の刻文があったのであろう。【2018年10月1日取消・追記】何時も情報を戴くT氏より、こ『の「上り物」は刀の定寸』(二尺三寸『前後)に寸法を切り詰めた「磨上」』(すりあげ)『を行い』、『茎を切り詰め』た結果、『銘の一部がなくなったのではないでしょうか』というメールを先ほど頂戴した。それが本シークエンスには美事にしっくりくる。とすれば、この読みは底本に従い(底本は濁音落ちが有意に見られる)、磨り「あげもの」でいい気がしてきた。

反古のうらがき 卷之四 狂人の勇

 

  ○狂人の勇

 武内富藏[やぶちゃん注:ママ。後では「竹内」と表記。正しくは「竹内」。後注参照。]といへる狂人あり。人の害をもせざれば、其まゝにおきける。其子は淸太郞【この淸太郎、のちに下野守になり、函館奉行より御勘定奉行となれり。】とて御勘定組頭なり。富藏は山本庄右衞門が弟にて竹内家を繼(つぎ)たれども、其頃より狂氣して、終にいゆることなく、剃髮して朋友故人を訪(おとな)ひあるくを樂(たのしみ)として、日をくらすにてぞ有けり。小野澤勘介が弟子にて、柔術を取りたりとてほこることありしが、其餘は無能の人なりけり。其家近きあたりに御たん笥(す)町(まち)といふ所ありて、こゝに福田某(なに)がし【今は福田作太郎といふ。其子か孫か。】といふ、いとこあり。其家は町家の裏にて、其入口十間斗(ばかり)の小路なり。一日(あるひ)、酒狂人ありて、犬を逐(おふ)とて刀を引拔(ひきぬき)、此小路に入(いり)たり。あたりの町人、「狼籍もの」とて取卷(とりまき)たれども、さすがに一こしにおそれて、近よる者なく、「表に出(いで)たらんには打倒(うちたふ)さん、地主(ぢぬし)の門に入(いり)たらば、からめとらん」など、ひしめけども、せんかたなし。狂人は此さまを見て、彌々(いよいよ)くるひ𢌞(まは)り、小路を、あちこち、かけ𢌞りけり。かゝる所竹内狂人、いとこがり行(ゆく)とて、人立(ひとだち)の中、おし分て入(いる)にぞ、人々、「あなや」といふ内に、小路の半分(なかば)斗り入けりと見れば、白刄を振(ふる)ふ人あるにぞ、行違(ゆきちが)ひ樣(ざま)に其手をとらへて白刄をば奪ひ取(とり)てけり。これを見るとひとしく、表に立(たち)つどひたる町人共、手々(てんで)に持(も)てきにける鳶口(とびぐち)手棒(てぼう)の類(たぐひ)、打(うち)ふり打ふり、口々に「あの人にあやまちなさせそ。醉狂人を打倒せ」とて、ひしひしと押寄(おしよせ)て、目鼻の分ちもなく打(うつ)程に、小路の眞中に打倒してけり。竹内狂人は「からから」と笑ひてかへりみもせず、いとこが家に入ければ、町人どもは、其勇氣におそれ、かんじていふようは[やぶちゃん注:ママ。]、「今地主がり入玉ふ御人は、武家の隱居とは見侍れども、手に物も持たで白刄を振ふ人を手取(てどり)にして、色もかへでゆうゆうと去り玉ひしは、いかなる武勇の人にかあらん」。一人がいふ、「これは地主旦那が御いとことか、きゝたり。おりおり、こゝにきますことあり。今、かく、すがたをかへ玉ひてさへ如ㇾ此(かくのごとく)なれば、さかりにいませし時は、さこそ、つよく、たけく、おはしけん」などたたへて、醉狂人をば繩にて引くゝり、處の番屋に連行(つれゆき)て、よくよく問ひたゞしければ、尾州侯の御家人何某が家の子なりければ、引渡して事濟(ことすみ)けり。後に、とらへしも狂人のよし聞知(ききし)りて、「扨は。狂人が狂人をとらへたるなり。さこそあらめ、餘りにおそれげもなきしわざと思ひけるが」とて笑ひしとなん。

[やぶちゃん注:「武内富藏」「其子は淸太郞」この子の方は幕末の幕臣竹内保徳(たけのうちやすのり 文化四(一八〇七)年(東京都新宿区の養国寺にある墓碑に拠る)~慶応三(一八六七)年)で、この人物、なかなか凄い経歴の持ち主である。ウィキの「竹内保徳によれば、官位は下野守。通称、清太郎父は二百俵の旗本竹内富蔵とある。『勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て』、嘉永五(一八五二)年に『勘定吟味役・海防掛に就任』(以上から本篇執筆がこの就任前であることが判り、本書の執筆推定である嘉永元年から嘉永三年頃とも合致する)、翌年の『黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任』した。嘉永七(一八五四)年六月に箱館奉行に、文久元(一八六一)年には勘定奉行兼外国奉行に就任、同年十二月には遣欧使節(文久遣欧使節)として三十余名を伴って、横浜から出港、イギリスへ向かった。『攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功』、文久二(一八六二)年五月、『イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始め』、プロシア・ロシア・フランス・『ポルトガルとの間』で『同じ協定を結んだ』。文久三(一八六三)年、『フランス船で帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため』、『登用されず、翌年』、『勘定奉行を辞任』した。元治元(一八六四)年五月には『大坂町奉行に推薦されたが』、『着任せず』に『退隠し』、八月、『閑職の西ノ丸留守居とな』った。慶応元(一八六五)年十二月には『横浜製鉄御用引受取扱となっ』ている。さて、ここで大変な事実が判明した。本「反古のうらがき」の作者鈴木桃野は嘉永五(一八五二)年の没である。私は今まで無批判に割注は桃野のものと考えてきた(桃野のものと読める内容も確かにあった)のであるが、以上の記載に誤りがないとするなら、竹内清太郎保徳が箱館奉行になったのは嘉永七(一八五四)年、勘定奉行に就いたのは、その後の文久元(一八六一)年であるから、桃野にはこんな割注を書くことは不可能なのである。実は他の割注も幾つかは後代の別人が後書きしたものである可能性がここに出てきた。

「御たん笥(す)町」「御簞笥町(おたんすまち)」。ウィキの「箪笥町によれば、『江戸幕府において武具を掌った箪笥奉行』(箪笥は家具のそれではなく、武器の意。幕府の武器を掌る役職には具足奉行・弓矢鑓奉行・鉄砲簞笥奉行があり、それらを総称して簞笥奉行と称していたらしい)『に由来する町名。江戸時代は御箪笥町と呼ばれた』。但し、江戸には当時、複数存在し、下谷箪笥町(現在の東京都台東区根岸三丁目の一部)・麻布箪笥町(港区六本木の一部)・四谷箪笥町(新宿区四谷三栄町の一部)・牛込箪笥町(新宿区箪笥町)があった。この記載のそれがそこであるかどうかは不明だが、上記ウィキでは最後の牛込箪笥町についての記載のみが載り、他のネット記載をみてもそこが一番知られており、現存する「御箪笥町」(正しくは現行も「御簞笥町」)らしいので、一応、それを引いておく。但し、今までの本「反古のうらがき」の多くのロケーションはここに近い位置である。『新宿区の北東部に位置する。西部・北西部は、横寺町に接する。北部は、岩戸町に接する。南東部は、北町・細工町にそれぞれ接する。南西部は、北山伏町に接する(地名はいずれも新宿区)』。『江戸時代、箪笥町の辺りには、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があった。幕府の武器を総称して、「箪笥」と呼んだことから』、正徳三(一七一三)年、『町奉行支配となった際、町が起立し、牛込御箪笥町となった。明治維新後、「御」が取れ牛込箪笥町となり、その後、冠称の「牛込」がとれ、現在の箪笥町という名前に至った』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「入口十間斗(ばかり)の小路」「十間」十八メートル十八センチで、道の幅員としか思われないが、これでは「小路」ではなく大路並みであるので不審。これは小路の長さではあるまいか。

「手棒」手に持った棒。

「今地主がり入玉ふ」これによって竹内富蔵の従兄弟「福田某(なに)がし」が、この御簞笥町の、この小路に面して屋敷を持つ「地主」であることが判る。]

2018/09/29

反古のうらがき 卷之四 雲湖居士

 

 反古のうらがき 卷之四

 

 ○雲湖居士

[やぶちゃん注:本篇は特異的に異様に長い。禁欲的に改行を施し、途中に注を挿入した。なお、長い割りに期待するほどの展開を示さない(私にとってはそうであった)ので覚悟して読まれたい。]

 

 一場藤兵衞は、近授(きんじゆ)流馬術の師範なり。高貮百俵、小十人の家なりけり。文政未年[やぶちゃん注:文政六年。一八二三年。]、御納より大坂御破損奉行となりしが、町人より賄賂を受たるよし、聞へければ、俄に御召下しありて、御吟味の上、遂に遠島と、罪、きわまりけり。舟出の前の日、病(やみ)て死)(しに)ければ、家は絶(たえ)はてにけり。

[やぶちゃん注:「一場藤兵衞」【2018年9月30日追記】昨日、「不詳」として公開したが、何時も御教授を戴くT氏より、寛政重脩諸家譜第八輯」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「一場」氏の系譜中に以下の記載があることをお教え下さったので、謝意を表して以下に掲げる。なお、それによれば「一場」氏は元「大島」氏を名乗っていたという記載がリンク先の前の頁にある。一場政許(まさもと)の嗣子(養子。政許の実子も「政成」であるが、父に先だって没したとする記載がある)である。

政成(まさなり)

藤兵衞 實は石黑平次太敬之が三男、母は設樂喜兵衞正篤が女、政許が養子となり、その女を妻とする。

寬政六年[やぶちゃん注:一七九四年。]十一月十四日小十人に列す。【時に三十歲】 妻は政許が女。[やぶちゃん注:次の項に「女子」(政許の長女格)とあって「政成が妻」と記す。]

また、政成の嗣子として、

政修(まさなが) 直五郎 母は政許が女。

とあり、そこで「一場」氏の系譜は終わっている。本篇の後の方に「
藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す」「藤兵衞妻、家付なり」と合致する。

「大坂御破損奉行」ウィキの「破損奉行」より引く。『大坂定番の支配下で、大坂城と蔵の造営修理、またそのための木材の管理を役目とした。持高勤めで、在職中は役料として合力米』八十『石を支給された。定員』三『名で、配下にそれぞれ手代』五『人、同心』二十『人ずつがつけられた。大坂具足奉行・大坂弓矢奉行(弓奉行)・大坂鉄砲奉行・大坂蔵奉行・大坂金奉行とともに大坂城六役』『または六役奉行と呼ばれていた』。『当初は大坂材木奉行と呼ばれていたが』、元禄一一(一六九八)年十一月十八日に、それまで二名だった『材木奉行を』三『名に増員し、破損奉行と名称が変更された』。寛永元(一六二四)年に『南条隆政(なんじょう たかまさ)がこの職に任じられたのが始まりで、配下には地付の手代と大坂城の淀川対岸にある川崎材木蔵を管理する蔵番』六『名がいた』。『修復の際には、まず大工頭の山村与助が見積もりをし、吟味の上で江戸に伺いをたて、大坂町奉行所で御用掛代官とともに入札に立ち会った後、摂津・河内・和泉・播磨の』四『箇所の天領に賦課された大坂城・蔵修復役の代銀を支払いに』当て、『修復を行った』とある。]

 此人、養子にて、實家は石黑彦太郞とて御右筆なり。屋敷、本所割下水なりき。一場、屋敷は、はじめは牛込山伏町、予が東隣なりしが、後、土手四番町富永靱負(ゆきえ)【千石。】、御番士の隣家へ引越けり。

[やぶちゃん注:「本所割下水」底本の朝倉治彦氏の補註に、『北割下水と南割下水とがあった。万治二』(一六五九)年に、『堅川、橫川と同時に作られた掘割。現在』は『埋められて、ない』とある。位置確認はサイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の「割下水跡(北斎通り)」がよい。

「牛込山伏町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『新宿区。二十騎町の北隣。昔』『山伏が大勢住んでいたが、享保八』(一七二三)年『十二月十八日の火事で類焼し、山伏町は下谷に移った。林大学頭の下屋敷もここにあった』とある。現在の新宿南山伏町・北山伏町・市谷北山伏町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土手四番町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千代田区。市ヶ谷御門内から牛込御門内への堀端』とある。現在の神田川右岸に添った外濠公園の南東に接触する附近(グーグル・マップ・データ)。]

 此所にて馬術師範せしが、弟子も多くありけり。予も其一人なりけり。

 近授流といへるは、牧師[やぶちゃん注:「まきし」と読んでおく。]の流にて目錄免許といふ事もなく、其師の心によりて、其わざある者に傳授をゆるすことなり。故に免許受けたりといふもの、至(いたつ)て少し。靑山下野守・松平能登守・大澤主馬・一場藤兵衞、此四人のみ也。皆、大澤主馬の父何某より傳へたると聞へし。其後、靑山家士山室又藏となんいゝ[やぶちゃん注:ママ。]ける者免許し、又、其後、目錄も作り、免許も傳へし人も、よりより、あるよしなりしが、兎角に御番方部屋住(へやずみ)藝術書上げ等によろしからぬとて、改流する人も多かりしに、此度一場家斷絕より、此流を學ぶ人、絶てなくなりけり。

[やぶちゃん注:「大澤主馬」以下、本話には多数の人物が登場するが、底本に注がある人物以外は原則、注を附さない。但し、この「大澤主馬」は、たまたま別の理由で検索を掛けていたところ、個人ブログ「寛政譜書継御用出役相勤申候」の「大澤 高八百五十六石八斗四升」の中に、当該人物の記事を見出したので(本条文部分が引用されてあれてある)、リンクさせておく。]

 天保の季年[やぶちゃん注:ここは天保末年では不都合が生ずるので(後注参照)末年(天保は十五年まで)の意ではなく、「天保年間の終り頃」の意。]、水野越前守[やぶちゃん注:る老中水野忠邦。彼は天保一〇(一八三九)年十二月に老中首座となって「天保の改革」を主導したが、天保一四(一八四三)年閏九月に失脚、老中御役御免となっている。]、諸流武藝を問正(とひたゞ)せしに、

「近授流と書出す者、近來、絕て無ㇾ之(これなき)は何故(なにゆゑ)。」

と問ひて、其譯を聞き、其流末のものを呼びて見分(けんぶん)し、八丈端物を賞しけり。

[やぶちゃん注:「八丈端物(たんもの)を賞しけり」「八丈」絹の「反物」(たんもの)ではなかろうか。所謂、幕府から向後も近授流の手技の勉励と伝承を致せ、との褒美として下されたものであろう。]

 有馬吞空(どんくう)【御番士。隱居。】・富永孫六【今、御使番。】は免許受たるよし。其外、目錄を受(うけ)たる人、六、七人なりけり。

「一流の斷(た)ゆることは大事の事なれば、よくよく申合せ、斷絶これなきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]すべし。」

とて、申聞(まうしきか)せしよし、越前守、盛擧[やぶちゃん注:力を入れた盛大なる計画・事業。]にてぞありける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行が成されてある。]

 一場が家に、一寸八分の黃金佛觀音あり。淺草觀音同體と言傳ふ。

 如何なる譯にて得たるか、數代前より持傳ふ、甚(はなはだ)あらたなる佛也といへり。

[やぶちゃん注:浅草寺(当時は天台宗)の本尊は聖観音菩薩像で秘仏(高さ一寸八分(約五・五センチメートル)の金色の像とされるが、公開されたことがないため、実体は不明)で、伝承では推古天皇三六(六二八)年に宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた兄弟の網に掛かったとされ、平安初期の天安元(八五七)年(或いは天長五(八二八)年とも)に、延暦寺の慈覚大師円仁が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像造立したとされる(以上はウィキの「浅草寺」に拠る)。秘仏も前立ちもかくも古物であるのに「甚(はなはだ)あらたなる佛」というのは、これ、如何?]

 藤兵衞、祖父の代か、貧窮にて、柳町伊勢やとかいふ質屋へ質入(しちいれ)せしに、

「黃金の眞僞見分けがたし。」

とて、御足の裏をけづりて見たるよし。

 其夜、其家の番頭、發熱狂氣して、

「一場へ行(ゆこ)ふ行ふ[やぶちゃん注:ルビともにママ。]。」

といひて、狂ひしかば、人々、大に恐れ、金子も取らで一場へ歸へしければ、病(やまひ)もいへたる、と言侍ふ。

 扨、右の質屋は後家持(ごけもち)にて、番頭と二人、申合せてのことなるに、

『後家にはたゝりなし。』

と思ひけるに、程もなく、二人、密通のことありて、又、

「外に、男、通ふ。」

といふ爭ひより、番頭、怒りて、後家を切害(せつがい)し、主殺(しゆごろし)の御科(おんとが)になりたるよしは、予が祖母、聞傳へて、予に語り玉へり。

 隣家に居たる時も、三月十八日、緣日にて、處々より聞傳へ、參詣あり。番町へ行(ゆき)ても緣日に參詣を許しけり。

 其日、赤飯・煮染物(にしめもの)をこしらへ、親類・弟子等を會し、開帳拜禮の後、一杯を飮むことも有りけり。此日の賽錢共、入用にあつるに足る程ある、といへり。

 藤兵衞といへるは、至て手堅き人にてありしが、太甚(はなはだ)[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。]尊大にして、靑山・松平等行ても、近習の者に草履をなほさせ、挨拶なし、

「主人同樣の見識なり。」

とて、惡(にく)みを受(うく)ると聞(きき)しが、馬はよく乘たり。

 他人の見るを許さぬ流とて、内馬場(うちばば)也。野馬取(やばとり)御用の節は、門人を連れて小金(こがね)に至て、遠馬をむねとして所謂「ダク」を乘る流也けり。

[やぶちゃん注:「小金」は現在の千葉県北西部、松戸市北部の地区の旧町名。嘗ては水戸街道に沿った宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地で「小金五牧」があった。その後、畑作地帯となり、現在は宅地化している。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ダク」「だくあし」で「跑足・諾足」。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。「並足(なみあし)」と「駆け足」との中間の速度及びその足なみを指す。「鹿足(ししあし)」とも言った。]

 常の稽古にも、拍子(ひやうし)[やぶちゃん注:馬の走るリズム。]・上足(あげあし)[やぶちゃん注:馬の足の上げ方か。]、面白からぬ馬は「早ダク」を追ふに、おもひの外よき足並み出で、上足(じやうそく)[やぶちゃん注:ここは前と差別化して読んで「駿馬」の意で採る。]の如く、馬、つかれをしらず、鞍上、平らかにして、一種の妙處ある流にてぞありける。

「軍馬はかくせざれば、馬、つかれ、用に立(たち)かぬること。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す。孫女(まごむすめ)あり。次男孫助、惣領となる。藤兵衞妻、家付なり。

 其頃より、亂心にて、大坂行(ゆく)を嫌ひて行かず、孫助、行(ゆき)たり。

 一年斗りにて歸る。母の養育の爲なりけり。

 其後、藤兵衞、大坂にて妾を置(おき)たりといふこと聞ゆ。程なく同役と申合(まうしあはせ)、町人より御用達(ごようたし)の願(ねがひ)を取持(とりもち)、無盡を取立(とりたて)たりといふこと、聞ゆ。

[やぶちゃん注:「無盡」原義の「尽きるところがないこと・限りがないこと」から、莫大な金銭を斡旋料として継続的に搾り取ったことを指すか。「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口毎に抽籤や入札によって金品を給付する「無尽講」の意もあるから、それを半強制的にそうした業者に課したとも取れるが、「取立」としっくりこない気がするので、私は前者で採っておく。]

 此事より、賄賂のこと顯れ、同役は重き御仕置となり、藤兵衞は遠嶋(ゑんたう)と定(さだま)る。

 孫助、

「父介抱として同船の願ひを出(いだ)し度(たし)。」

とて、予が方に來りて、門人靑木龜之助問(と)ひ合(あはせ)、手繼(てつづ)きをなしけり。此龜之助が父鄕助、其父遠嶋となりしが、鄕助介抱の願ひを出し、父嶋中にて死去の後、孝心のむねにて、其身、御構い[やぶちゃん注:ママ。]御免、其後、無ㇾ程(ほどな)御召し出しに預り、高百俵被ㇾ下(くだされ)けり。其例を以て、同船を願ふにてぞありける。

 扨も、同船の願ひ共(ども)叶ひて、出船の日も定(さだま)りたれども、「風並み惡し」とて、二、三日、船を出(いだ)さでありける中(うち)に、如何なる運命のつたなきにや、藤兵衞、病(やみ)て死(しに)けり。もし船中にて死たれば、介保(かいはう)[やぶちゃん注:「介抱」。]のことなくとも、孝道も立(たつ)べかりしを、出船の延びたるにて其事いたづらとなり、孫助父科(とが)にて、御構ひの御免もなく止みにけるは、不運の中にも又不運にてぞ有けり。

[やぶちゃん注:父介抱のためにともに島流しとなる予定が、このような事態になったため、父介抱は未遂無効として処理され、御家断絶は勿論、孫助も恐らくは江戸への立ち入りを禁じる「お構い」(追放)の処分となってしまったのであろう。後で「孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る」とあるが、これは後を読めば分かる通り、違法に江戸に入っているのである。「江戸所払い」でも容易に秘かに江戸に入ることは出来た。]

 家付藤兵衞妻は引取(ひきとる)者なく、夫と實家石黑にて孫助妻及び娘も引取りけり。

[やぶちゃん注:「夫と」指示語「それと」か。]

 孫助は野村篁園社中にて詩人にてぞ有ける。日下部梅堂・岡田昌碩と社を結び、詩を作る、貮人のもの、皆、及ばざるなり。篁園(こうえん)・霞舟(かしう)、每(つね)にこれを賞し、各(おのおの)和詩ありけり。其詩、篁園に彷彿して大に異氣あり、人物も甚敦厚にて且(かつ)滑稽あり。予は馬術の弟子のみならず、鎗術・弓術、皆、同師なり。且、孫助が幼なる時、予が乳を分ちて與へしかば、同胞兄弟(はらから)の如く思ひけり。又、學問も同じ程の年頃なれば、「史記」の會讀詩會等にて、月に四、五度、出合(であは)せしにより、孫助も大に賴みとせし也。孫助御構ひの後、

「甲府に知る人あり。」

とて行(ゆき)けり。其程は俳諧師となりき。其(それ)以前、和歌を學び、詩を廢す。手跡の見事成る事、妙也。楷書は篁園に似たり。大坂に一年ある内、公家の文字を學びたるが、さながらに古代樣なり。哥(うた)も其時より學びたり。

[やぶちゃん注:「野村篁園」底本の朝倉治彦氏の補註に、『名は直温』(「なおはる」か)『字君玉、篁園は号、兵蔵と称す。大坂七手組』(しちてぐみ:豊臣秀吉の馬廻組の武功ある者を選抜した精鋭から成る組頭衆「御馬廻七頭」の異称)『の一人野村肥後守直元の後裔。父は書物奉行比留勘右衛門正武の次男。天保十三年十二月十日』(一八四三年一月十日)『儒者となる。十四年六月二十九日歿、六九歳』とある。但し、試みに調べて見たが、大坂七手組に野村肥後守直元なる人物は見当たらない。不審。なお、この人物は既に注した通り、桃野が所属した文政五(一八二二)年十二月結成された詩会氷雪社の評者の一人で、評者には他に以下に出る友野霞舟と植木玉厓が当たっている。

「霞舟」底本の朝倉治彦氏の補註に、『友野霞舟、儒者。名は瑍』(「かん」と音読みしておく)『字子玉、称雄助。別に崑岡』(「こんこう」と音読みしておく)『と号す。天保十四年』(一八四三年)『甲府徽典館』(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)『の学頭』(桃野が死の時に任命されることになっていた職と同じ)『に任じられ、嘉永元年』(一八四八年)『まで在任し、二年六月二十四日歿、五九歳』。『白藤・桃野父子と親しかった』とある。]

 予、靑木龜之助と斗(はか)りて、同門中を𢌞り、金子合力(きんすかふりよく)を賴む。

 古參の弟子といへども、心よく受引(うけひく)者、少し。

 予、怒りに堪へず、梅堂・昌碩行(ゆき)て計(はか)るに、皆、同意なり。

 因て門人方は、ゆかで、やみけり。【最初、一尾小平太行(ゆき)しに、少々ならば出さんといゝし[やぶちゃん注:ママ。なお、前の「江」は恣意的に小文字とした。]。其口振り、甚だまづし。折節、一尾、玄關にて昌碩に逢へり。よりて右のことを談ず。卽刻にて承引せしかば、彌(いよいよ)同門をば疎みて遂に行かず、止むこととなれり。】富永といへるは、門人のみならず、隣家にて殊に懇意なりけれは、如何にせしやしらず、予が合力にて金壹分づゝを取集めけり。靑木龜之助一分、日下部梅堂一分、岡田昌碩一分、鎗の師篠山吉之助貮朱【此人なさけぶかき人にて、いろいろの奇行あり。予も恩になりたり。墓銘、予が書(かき)たるなり。】、野村篁園貮朱、友野霞舟貮朱、予も壹分、合(あはせ)て壹商壹分出來たり。門人どもは如何せしや、其後、問わず[やぶちゃん注:ママ。]置たれば、予はしらざりけり。かゝる時にして人心は見ゆるものぞかし。其中に篠山・野村・友野が、人の究(きはまる)を見て貮朱づゝ給はりしは、金の多少によらず難ㇾ有(ありがたき)ことにあらず哉(や)。

「此壹兩壹分を路用として甲府に行(ゆき)、雪駄中買(せつたなかが)ひをする。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]。

[やぶちゃん注:「篠山吉之助」底本の朝倉治彦氏の補註に、『旗本。御書院番士。資明。実は坂本養安資直の二男。はじめ熊三郎。文政八年』(一八二六年)『五月十八日歿、年六〇歳』。『鎗は養父光官』(「こうかん」と音読みしておく)『の伝授であろう』とある。]

 高橋平八郞【後、平馬。】、いとことか、いゝけり。此方(こなた)に孫助妻來り居(をり)しが、又、本所石黑方へ行(ゆき)たり。娘、十二、三に成(なり)けり。孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る。予、來る每に一盃を酌(く)み、且、銀壹朱づつ贈る。

「是は馳走の料なり。若(もし)入用のことあらば、用立(ようだてす)べし。」

と云置(いひおき)たり。

 一日(あるひ)、來りていふよふ、

「甲府は雪駄高直(かうじき)にて足袋下直(げじき)なれば、江戶より雪駄を買ひ入(いれ)、足袋を持來りて賣(うる)べし。しからんには妻も連れ行(ゆき)て足袋縫(ぬは)せんと思ふ。」

と語りけり。其日も例の如く一酌して、銀壹朱を贈れり。夕方、予が家を辭して、則ち、妻がかたへ往(ゆき)て一宿し、直(ぢき)に甲府に伴ふよし、なりけり。

 其明る日、再び予が家に來り、入口に立(たち)たる儘にて、予に面談致し度(たき)由(よし)申入(まうしいる)る。

「内入(いり)給へ。」

といへども、入らず。

「何用。」

と問ふに、

「昨日申せし雪駄問屋に行かんと思ふに、金子少々不足なり。昨日の御言葉に甘へ借用に來りし。」

といふ、兼て申(まうす)如くなれば、

「いと易き程のことなり。」

とて、其數を問ふに、

「金貮分。」

と答ふ。則ち、立ながら、貮分金、壹つ與へたれば、

「重(かさね)て出府には返すべし。」

とて、直に去りけり。

[やぶちゃん注:台詞は「必ず江戸出立までにはお返しせんと存ずる。」の意。]

 其夜、如何なることにかありけん、妻と娘とを殺害し、窓より劍を投込(なげこ)んで行衞しらずなりにけり。

 其所は本所石黑が宅の長屋にて、其夜は雨降りて、天黑き夜にてぞありける。

 扨、石黑は當番、留守とて、誰(たれ)ありて何の子細といふことをしらず[やぶちゃん注:誰一人としてこの殺人事件の仔細を知る者はなかった。]。

 これより先に妻娘、高橋[やぶちゃん注:先に出た、孫助の「いとこ」とか言う高橋平八郞。]が宅に逗留せしを見し人あり。穠妝艷抹[やぶちゃん注:「じょうしょうえんまつ」(現代仮名遣)と音読みしておく。「豊かに・豪華に」(穠)「粧(よそお)い」(妝)「色っぽく」(艷)「化粧を塗っている」(抹)の謂いのようである。]、御構ひ者の妻娘には似ざるといふ評判ありし由。

 思ふに甲府へ連行(つれゆか)んといゝし時、外に奸夫[やぶちゃん注:「かんぷ」。間男。]にても有りて、行(ゆく)ことをうけがわざりしことにてもありしや、かく落ぶれし身にて、妻子に迄見離されたらんには、かゝることも出來(しゆつたい)やせんかと思わる[やぶちゃん注:ママ。]。娘を殺せしは如何なる故か知(しり)がたし。血迷ひしにや、かくて御檢使下りて、彼(かの)兇刀を見るに、ふしぎなることこそありけり【石黑のとゞけは、「夜中、何者ともしらず、殺害」ととゞけたる也。御構ひものなれば、其夫となりとも、御當地にて事あれば重罪なるによりて、盗賊と言(いは)ざること能はず、さもあるべきことなり。】。御徒目付何某、來りていふよふ、

「此刀は銘『長曾根興里入道虎徹(ながそねおきもとにゆだうこてつ)』なるべし。世に聞ゆる大業物(おほわざもの)なり。拵(こしら)へより寸尺燒刄、見覺へあり【此御徒目付誰なりけるか、日頃腰の物、好(このみ)にてありけるが、かゝることを見覺へて詳らかに辨ぜし故、忽ち、其人の仕業と極(きはま)りたり。】。

[やぶちゃん注:「虎徹」(慶長元(一五九六)年~慶長一〇(一六〇五)年?/延宝六(一六七八年?)は江戸時代の刀工であり、同人が作った刀剣の名。正確には甲冑師となった長曽禰興里の刀工時代の入道名の一つ。]

「先年、一場孫助、追放の節、吾(われ)立合(たちあひ)にて投與(なげあた)へし刀也【予も見覺へたり。茶づかに南蛮つば、無ぞりにて、銘虎徹なるよしは兼て聞たる事なり。】。されば下手人は其夫(をつ)とに疑ひなし。」

といゝたれども、行衞もしらず、又、何故、吾妻子を殺せしといふこともしらず。殊に他人を殺せしにもあらねば、差(さし)たる御科(おんとが)ならず[やぶちゃん注:この「御」はそれを犯罪として規定した幕府方への尊敬の接頭語。]。但し、御構ひ者故、事のよし惡(あし)を問はず、御當地入込(いりこむ)こと大罪なれば、氣の毒にや思ひけん、強く吟味もなくて、事、やみにけり。其頃、飯尾一谷君、加役を勤む。其話に、

「右下手人は其夫に極(きはまり)たれば、加役方にては、隨分、捉(と)らんとするもの多し。足下(そつか)[やぶちゃん注:貴殿。話相手であり、孫助の親友である桃野を指す。]、行衞をしりたらば、隨分と身を隱し可ㇾ申(まうすべし)よふに申送るべし。」

と深切の意を通じたり。是は予が交り深きのみ、孫助には逢(あひ)たることもなき人なり。かく迄到る處、人の憐みを得ること、日頃、篤實なる人にして、且、予が輩、每(つね)に其不幸を歎ずる故也けり。

 かゝりけれども、終に捕へ得ずして、事止みぬ。

 予、よくよく按ずるに、始め、予が家に來りし時、每(つね)に馬に乘るとき斗(ばかり)り用ゆる革柄(かはづか)の短刀を帶したり【此刀は中身なににてありしや。其樣、粗物(あらもの)[やぶちゃん注:「そぶつ」でもよい。粗末なもの。雑なもの。]にして用に當るべきものとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。但し、短刀にて、御構ひものなどがひそかに腰にするに、目立たずして好(よ)き故、帶來(おびきた)りたる物なるべし。】。彼(かの)事ありし時、怒りに堪へず殺害の心ありても、彼短刀にては、便り、よろしからず、虎徹の刀をほしく思へども、定めて質入(しちいれ)にてもいたせしことなるべし。拵(こしらへ)は餘り立派にも非らざりしが、名にしおふ大業物のことなれば、餘程の質入なるべし。右の質物、受出(うけいだ)すに、雪駄の仕入金を用ひ【最早人殺しなれば、雪駄仕入無用也。】、其不足を予が家に來り借りたるならん。後におもふに、合力は受(うけ)たり、來る每に少々づゝの銀子をもらひて、假令(たとひ)入用の節は用立(ようだて)んといふとも、直に引(ひき)かへし、立ながら、預け物の如く借用とはいゝにくきことなるを、かく斗(はから)ひしは、最早、夢中になりたる樣(やう)にてもありしならん、予は、一向、心もつかでありしが、家人[やぶちゃん注:桃野の屋敷の者。]は、

「却て其動作の匇忙(そうばう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「そうぼう」但し、「怱忙」が正しい。忙しくて落ち着かないこと。]なる樣(さま)を怪しみし。」

と後に語りき。

 是より先に甲府行(ゆく)時に、予が家に本箱一つ預け置たり。其餘、張文庫(はりぶんこ)[やぶちゃん注:蓋付きの手文庫で、全体を漆塗り等で総張りにしてある豪華なものであろう。]一つ。皆、手書の寫物(うつしもの)なり。詩集もあり、詠草もありけり。多くは哥書(うたがき)にて、手跡、いづれも見事爲(な)ること、皆人(みなひと)、感じあへり。これは、予に與ふべし、といゝおくりしが、予は不用の物なれば、高橋がり送りて、

「金にかへて、行衞しれたらば、送り玉へ。」[やぶちゃん注:孫助の行方。]

といゝおくりしが、

「實(まこと)に親類といへども、行衞をしらず。」

といいて、予が家に置けり。

 高橋は俗人にて、「口寄せ」をせしと語りき。

 其言葉に、「存命にて居ると雖へども、一大事を仕出し、諸親類・諸朋友とも、面を向けがたし。」といゝしよしを語りき。

 其時に、

「『圓機活(ぜつ)法』といへる書は、あたへ、いかほどなるべし。」

と問ひけり[やぶちゃん注:高橋が桃野に問うたのである。「ぜつ」のルビは底本のもの。「圓機活法」(えんきかっぽう)は明代に作られた漢詩を作るための辞書でかなり知られたものである(芥川龍之介なども使用している)。二十四巻。天文・地理等の四十四部門で構成され、故事成語等を分類編集してある。明の楊淙著とも、別に王世貞編とも伝えられている。正式には「圓機詩學活法全書」。ここはこの書名を紙に書いたもの見た孫助の従兄弟である高橋平八郎が俗人で知識もないため、「活」の字を「舌」と誤読したのであろう。]。

「それは『圓機活(かつ)法』なるべし。詩を作る本なり。何の用に仕玉(つかひたま)ふ。」

と問ひければ、

「さる方より、賴まれたる。」

よし、答(こたへ)たり。

『扨は孫助が方より、賴みたるなるべし。行衞しらずといふは、いつはりぞ。』

と思ひけり。されども御赦(おゆるし)に逢ひても告(つげ)しらさでありしを見れば、實(まこと)にしらざるにも似たり。人を疑ふときは、いろいろの當りある事を見きゝするものなれば、みだりに人を疑ふまじきは、古人もいゝおけり。又、再びおもへば、其頃は、しりて後には、しらずなりしやも、しるべからず。

 十數年を經て、生(いき)たりとも死(しし)たりとも、しる人もなかりしが、文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌御法事に付、御赦に逢ひ、行衞相しれ候はゞ申達(まうしたつ)すべき旨、諸親類へ御沙汰ありしかども、實(まこと)に行衞のしれざるか、其儘にて打過(うちすぎ)てけり。

[やぶちゃん注:「文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌」「文恭公」は第十一代将軍徳川家斉(安永二(一七七三)年~天保十二年閏一月七日(一八四一年二月二十七日))のこと。一周忌であるから、翌天保一三(一八四二)年ということになる。]

 二、三年を過(すぎ)て、

「初めて御赦の趣を聞(きき)しりたり。」

とて江戸出來り、石黑が方へ行く。

 予が家に訪ひ來りて、口上書をもて、いゝ入る樣(さま)は、

「今生(こんじやう)にて御見通りは相成難(あひなりがた)き義理に侍れども、餘りにおなつかしさに參り侍る。」

と申入(まうしいれ)けり。

 予、歡びて出迎(いでむかへ)、座に付(つき)て其樣を見るに、實(げ)に以前の孫助とも見えず、かしらはそりたれば、容(かたち)迄、かわり[やぶちゃん注:ママ。]、それが幾日もそらで、白髮まじりにのびたれば、きたなげなるに、前の方は少(すこし)はげ上りて、前齒さへ落たれば、齡(よはい)は予に一つおとなれども[やぶちゃん注:「弟なれども」か。一つ下。]、老僧めける人とわなりぬ[やぶちゃん注:ママ。]。太織(ふとおり)の黑染(くろぞめ)なる「ヒフ」といへるものゝ、垢づきて、少しやれたる所あるを、荒布の衣の上に着てけり。

[やぶちゃん注:「ヒフ」「被風・被布・披風」等と書く。長着の上に羽織る防寒用の外衣。襟あきは四角く、前を深く重ね,総(ふさ)付きの組紐で留めて着る。江戸末期に茶人や俳人が好んで着た。

「少しやれたる所あるを」底本はこの部分、「垢づきてかやれたる所あるを」であるが、「かやれる」という動詞は知らないので、国立国会図書館版で訂した。これなら「破(や)れたるる」で意味が判るからである。]

 予も、覺へず、淚のこぼるゝよふなれども、無事にて再び相見るがうれしくて、

「いかにあり玉ひけるや、扨も、生あれば再び相見ることもありけり、何より問ひ侍らでや、又、何より語り給はんや、とても一座に盡すべきならねば、こよひは吾家に宿し玉へ。」

とて、先(まづ)、茶菓もて、なぐさめたり。

 一口ひらく每に、あわれに[やぶちゃん注:ママ。]かなしきことのみにて、殊に餘が家は、孫助、幼なる時の隣家なれば、さらぬ身になりてさへ、ふるき住家(すみか)のかわり[やぶちゃん注:ママ。]果(はて)たる樣は、かなしきこと多きに、此人が座しながら、籬(まがき)一重(ひとへ)隔てゝ、今の隣の方見やりたる樣、いかにかありけん。

   みちみちつゞけたりとて

  夢にのみ見し古鄕は夢ならでかへりても猶夢かとぞ思ふ

  古鄕へ立かへりても沖津波よるべきかたもなさけなの身は

[やぶちゃん注:前書の意味、不詳。]

 扨、語るよふは、

「當地を立退きて甲府にも少し斗りありて、東海道の内に、さる寺あるに入(いり)て剃髮し、此所に世話になりてありしが、又、其所にも久しく居らで處々遍歷し、遂に遠州大井河のほとりにて、人の世話になりて寺子やを出し、弟子も多くなりてこゝに居付(ゐつき)けり。固(もと)より何の願ひもなき身なれば、無慾の人となり、其日々々を送るのみ。されども豪家なる百姓ども、『御師匠樣』と稱(とな)へて不自由なく養ひたり。三度飯は、大體、弟子の方(かた)にて食ふなり。衣類もよき程に作りておくるに[やぶちゃん注:弟子の家が、であろう。]、もし手拭・鼻紙の類を買ふ時は、何方(いづかた)にても、行先にて、入用程、買取りて、吾れ、身に一錢ももたざれば、

『其しろ[やぶちゃん注:「代」。代金。]は弟子の内にて、誰が方にても取(とり)てくれよ。』

といへば、商人も其こゝろを得て、敢て銭を求めず。常の日は稽古場におきふして、晝後は圍碁の會席となして、賭碁(かけご)を打(うつ)人を會し、おのれも打(うち)まじりて圍碁の相手などするに、席料として錢を返る上に、大(おほい)に勝(かち)たる人よりは不時(ふじ)[やぶちゃん注:思いがけなく。]に送る事もあり。これを小遣(こづかひ)とするに不足なし。又は村中、或は、近村にて、公事・訴訟あれば、書物(かきもの)[やぶちゃん注:訴状等の文書であろう。]を賴むことあり。事によりては數里の外までもやとわれ[やぶちゃん注:ママ。]、同道して公事に出るなど、皆、錢金、想應に取(とり)たり。今は、門人、甚(はなはだ)多く、且、所の者、大におしみて、御赦に逢ひ古鄕に歸ることをうけひかず[やぶちゃん注:受け入れて引き下がることをせず。]。但し、

「しらざる昔(むか)しは、是非なし。難ㇾ有(ありがたき)ことなれば、其儀、打捨(うちすつ)べきにあらず、是非々々。」[やぶちゃん注:村の総代の言葉であろう。]

とて、出でたり。門人ども、

「必(かならず)、又、再び來り給へ。一生、安樂に養ふべし。」

といゝけり。

 扨、いまの身は如何にしてよからんや、思ひ迷ふことなり。」

と、いゝき。

「扨も。ふるきしる人は如何に。」

ととふにぞ、予も、世の中、あらましを語りき。

「鎗師篠山君は、先(せん)に死して、恩師なれば墓銘を予に託し、近きあたりに墳墓あり。野村篁園も、死してけり。」

など語るに、聞(きく)每に、皆、感傷のことのみにてぞ、ありける。

[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の補註によれば篠山吉之助の墓所は『牛込横町円福寺』とある。現在の東京都新宿区横寺町にある日蓮宗圓福寺(えんぷくじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の孫助の語りや後の桃野の応答は、孫助自身が自分を指すのに「孫助」と言っており、孫助の台詞の中の桃野を指すべき二人称を「予」と書き換えており、厳密には直接話法でない箇所が認められるが、読み易さを考えて、直接話法として扱ったので注意されたい。

 孫助、又、語るよふ、

「石黑彦太郞【伯父也。】隱居して、其子何某、新御番なり。伯父彦太郞も孫助が行衞のしれたるを歡び、何卒して再び世に出し度(たく)思ひて、色々、工夫する、といへり。是はさもあらん、吾家より出(いで)し弟が他家を繼ぎて、其家を潰したることなれば、其子存生(ぞんしやう)の中(うち)に、一場家再興の工夫は肝要なることなりけり。

 此人、御祐筆を勤めたれば、かゝることは克(かつ)て巧者ならんと思ふにも似ず、太甚(はなはだ)おろかなることを言ゝたり。

『此程、天文方高橋作左衞門【牢死なり。存生に候はゞ死罪。】、其子御赦にて歸嶋(きたう)せしが、直(ぢき)に天文方手傳(てつだいひ)とて、十人扶持被ㇾ下(くだされ)、御用、相勤(あひつとめ)、程なく、十人扶持本高に被下置(くだされおき)、以(もつて)上席へ御召出しに成(なり)たる例あれば、孫助をも還俗させて、出役(しゆつやく)ある場所[やぶちゃん注:臨時役職。]へ差出し申度(まうしたき)旨(むね)、いゝたる。』

とぞ。

[やぶちゃん注:「高橋作左衞門」底本の朝倉治彦氏の補註に、『所謂シイボルト事件の犯人として入牢獄死した景保』とある。高橋景保(たかはしかげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)は天文暦学者。天文方高橋至時(よしとき)の長男として大坂に生まれた。「Globius」という号もある。幼時より才気に富み、暦学を父に学んで通暁し、オランダ語にも通じた。二十歳で父の後を継いで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助力を受けて浅草の天文台を統率し、優れた才能と学識で、その地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局との交渉及び事務方につき、力を尽くし、その事業遂行に専心させた。文化四(一八〇七)年に万国地図製作の幕命を受け、三年後に「新訂万国全図」を刊行した。翌年には暦局内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についての学識をも有し、「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」ほか、満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、寧ろ優れた政治的手腕の持ち主で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と、大槻玄幹(おおつきげんかん)は評している。この政治的手腕がかえって災いしたものか、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」の主犯者として逮捕され、翌年、四十五歳の若さで牢死した。存命ならば死罪となるところであった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「本高」「表高」とも称する。幕府が検地によって公表した標記上の石高を指す。別に「内高」があり、これは幕府に公認されていない、所有領内で実質的に産出される現実の石高を指す。本高よりも内高が高くても、その分は、国役など幕府に対する役儀を賦課されることがなく、しかも領主はその土地を耕作する百姓から余剰分の年貢を徴収することが出来る。この〈内高と本高との差額〉が大きいほど、領主の財政は豊かになる。]

 天文方は浪人・百姓・町人にても其道に長じたる者は、御用に相立(あひたつ)所なれども、其外は左樣の場所はなきことなり【高橋が親類は、皆、權家なれば、かゝることもありたるなれども、左もなき人は能はず。】。孫助、又、申立(まうしたつ)る藝能も無きにはあらねども、拔群にあらざれば申立(まうしたて)がたし【近授流馬術は家のものなれども、久しく乘らざれば、用をなし難し。たとひ、申立たりとて、馬術を以て御召出しといふは聞かず。】。」

 予にも、

「何とぞ、能き工夫は有(ある)まじきや、予は學間所出役のよしなれば、定(さだめ)てかゝることの場所もしりたらん。」

といふにぞ、予がいふよふは、

「そは、めで度(たき)思ひ立(たち)にて侍れども、かゝる例(ためし)はなきことなれば。」

前のくだり、申聞(まうしき)けて[やぶちゃん注:ママ。]、しばし案じ、いふよふ、

「予に一説あり。先に家斷絶の砌(みぎり)、貴兄直五郞君は女子二人あり【實は内々にて親類中島淸次郎へ嫁す。御番士宅。三間屋(さんげんや)[やぶちゃん注:不詳。地名か? 底本は「三問屋」であるが、国立国会図書館版を採った。]。】。これに御捨扶持あり[やぶちゃん注:由緒ある家の老人・幼児・婦女・廃疾者の生活を援助するために幕府から施された禄米をいう。通常の扶持米は一人一日玄米五合であったが、一人捨扶持は一日玄米四合四勺八才であった。]【母妻娘とも御捨ぶち有りしが、今、皆、死果(しにはて)て纔(わづか)女壹人なり。】。此御扶持を孫助君へ願ひかへ、兩三年、いたゞきたる上にて、扨、申出(まうしいづ)る樣(やう)は、『久々、御捨扶持、いたづらに饗(たへる[やぶちゃん注:底本のルビであるが、意味不明。「饗」はこの場合、「享(う)ける・もてなしを受ける」の意であるから、意味は分かるが、読みはしっくりくるものがない。])いたし候條、恐多(おそれおほ)く侍るなれば、御捨扶持を本高に被下置(くだしおかられ)、如何なる輕き御役なりとも、相勤度(あひつとめたき)』旨、願出(んがひいで)たらんには、其上に青山邊の水野何某【植木師に名高し。小高故なるべし。[やぶちゃん注:後半、意味不明。「石高が小さいからであろう」であるとしても、それが前の理由になるというのは解せない。]】が如く、以(もつて)上席御召出(おめしださ))んも難ㇾ斗(はからひがた)し。さあらんには御役中は、場所高(ばしよだか)程の御足高(おんたしだか)[やぶちゃん注:幕府が役人に対して与えた一種の俸禄。享保八(一七二三)年制定。役職に就任する者の世禄(せいろく:当該家の継承者が受ける俸禄。世襲の家禄。「せろく」とも読む)が役高に達しない場合、その不足分を在職中に限って加給した。若年寄を除く殆んどの要職に行われ、微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つとともに、役料の世襲による財政の膨張を押える効果があった。]あれば、勤め繼ぐこと、難(かた)かるまじ。此等の工夫こそ家再興の捷徑(ちかみち[やぶちゃん注:底本のルビ。])なるべし。其餘、妙策、更らになし。」

といゝき【再び、おもふに、女子の捨扶持、男子へ願ひ替(かへ)たる例あるやの處、安心ならず。】。折節、予が緣者遠山霞堂來りし故、例を尋ねしに【西丸番組頭なり。】、

「近來、其ためしあり。」

とて書拔(かきぬき)て、おくりたり。

 取扱(とりあつかひ)たる御目付は大澤主馬なり。

 予、此時、大に呼びていふ、

「事の奇なること、人のしること能はざることあり。扨も、かゝる珍ら敷(しき)斗(はか)らひは、不案内の者にては時の明(あか)ぬ物なり。石黑彦太郞が子新御番、其頭(かしら)は乃ち大澤圭馬なり。御目付の時、取扱ひて程も經ざる事なれば、進達(しんたつ)[やぶちゃん注:上申書などの下からの書類を取り次いで上級官庁に届けること。]等に、手間入(いる)まじ、又、大澤主馬は兼て近授流の馬術同流の免許の人なり。旁(かたはら)以(もつて)ちなみ、よし。一日も早く思ひ立(たつ)べし。」

 予、獨りが、大によろこびたり。

 扨、孫助は予が家に一宿して、石黑行(ゆく)とて立出(たちいで)ければ、先に預り置(おき)たる本箱・張文庫一物を動かさず[やぶちゃん注:「そのままそっくり」の意か。]返しけり。

 其後、再び訪わんとて來らず、御赦(おゆるし)の申渡(まうしわた)しは、

「髮をのべてより後(のち)出(いづ)る。」

といゝけり。かゝれば、前に予が斗(はか)りし事も、俄かになし難(がた)けれども、

『先(まづ)、其例書(ためしがき)等は、石黑方申送るべし。』

と思ひて、廿騎町【與力地なり。】鈴木源八郞【三藩人也[やぶちゃん注:意味不明。]。】孫助いとこの方へ申入(まうしいれ)て、

「面談にて早く石黑通じ、願ひを出すべし。」

と敎へたり。

 然れども、

「法體(ほつたい)にては御赦の御答さへ出來ず。先(まづ)髮を長ずる迄、遠州へ立歸る。」

よしにて、其後、今以(もつて)來らず。

「如何せしや。」

と、いゝき。

 其後、幾年もあらで、大澤主馬、御役替(おやくがへ)せしかば、先(まづ)一つの機會を失へり。

 されども、靑山下野守・松平能登守等、よりより申込(まうしこみ)たらば、少しのことには有付(ありつく)べし、林(はやし)大學頭【檉宇(ていう)。】・鳥居甲斐守・林式部少輔、みな、松平能登守の緣にて一場門人にて有しが、今は、みな、死失(しにうせ)て【大學頭病死。甲斐守御預(おんあづかり)。】、式部少輔のみ殘れり。予が方の總教(そうきよう)[やぶちゃん注:後の記述から昌平坂学問所塾頭のこと。]なれば、何ぞよき工夫もあらば、賴みてみんと思へども、浪人を用ゆる御用といふことなし、孫助、學問も心得たれども、申立(まうしたつ)る程のことにもあらず。此後、如何に成行(なりゆき)けん、しらず【其後、二、三年を經て、源八郞に聞しは、孫助、遠州にて妻子もありて、江戸へ出る意なきよし也。かゝれば、家再興のことも思ふべからず、御赦の御請(おんうけ)もせしや、如何(いか)に有(あり)しや、こゝろと言葉とは相違せしことどもなり。かゝれば、其事も包みて、予にも語らず。元より、永く江に居(を)る心なく、但、御赦に逢(あひ)しうれしさと、古鄕の戀しさに出で來りしのみのことにてぞありける。】。

[やぶちゃん注:「林(はやし)大學頭」「檉宇(ていう)」林檉宇(寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は、かの林家当主林述斎の三男。天保九(一八三八)年)には父祖同様に幕府儒官として大学頭を称し、侍講に進んだ。ここは注してしまったので、並列している人名の注することとする。

「鳥居甲斐守」林述斎の四男で「蝮(まむし)の耀蔵(ようぞう)」「妖怪」(官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀(蔵)・甲斐(守)」と反転させて略して当て字したもの)の蔑名で知られた南町奉行(天保一二(一八四一)年就任)鳥居耀蔵(寛政八(一七九六)年~明治六(一八七三)年)のこと。ウィキの「鳥居耀蔵」によれば、後、彼を重用した水野忠邦が老中辞任(天保一四(一八四三)年閏九月十三日、老中御役御免)に追い込まれるも、その半年後の弘化元(一八四四)年六月に水野が再び老中に再任されると、『水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、元仲間の』連中の『裏切りもあって、同年』九『月に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任され』、翌弘化二(一八四五)年二月二十二日、『鳥居は有罪とされ』、四月二十六日に『出羽岩崎藩主佐竹義純に預け』られ、その後、十月三日には『讃岐丸亀藩主京極高朗に』御預けとなった(なお、返り咲いた水野自身も、結局、その全く同じ弘化二年二月二十二日に、再び、『老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居』『その後水野家は出羽国山形藩に転封されている』)。『これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間』、二十『年以上』、『お預けの身として軟禁状態に置かれた』。『丸亀での耀蔵には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切』、『無視されたりすることもあった』。嘉永五(一八五二)年の日記には「一年中話をしなかった」という記述さえあるという。『そんな無聊を慰めるため、また健康維持のため、若年からの漢方の心得を活かし』、『幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また自らの健康維持のみならず、領民への治療も行い』、『慕われた。林家の出身であったため』、『学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し』、そうした連中からは『崇敬を受けていた。このように、軟禁されていた時代の耀蔵は』「妖怪」と『渾名され』、『嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され』、『感謝されていたようである』。『江戸幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、耀蔵は病』い『と戦いながら』、『様々な変化を見聞している。明治政府による恩赦で』、明治元(一八六八)年十月に『幽閉を解かれた。しかし』、『耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから』、『上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた』という。『東京と改名された江戸に戻って』、『しばらく居住していたが』、明治三(一八七〇)年、『郷里の駿府(現在の静岡市)に移住(この際、実家である林家を頼ったが、林家では彼を見知っているものが一人もいなかったという』)、明治五(一八七二)年に『東京に戻る。江戸時代とは様変わりした状態を慨嘆し』、『「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたという。晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り』最期は『多くの子や孫に看取られながら亡くなった』。享年七十八であった。

「林式部少輔」林述斎の六男林復斎(寛政一二(一八〇一)年~安政六(一八五九)年)。檉宇の弟で文化四(一八〇七)年に親族である第二林家の林琴山の養子となって三年後に家督を継いだが、嘉永六(一八五三)年、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去したため、急遽、大学頭家を継ぐことになり、小姓組番頭次席となって大学頭(「式部少輔」はそれ以前の彼の官名)と改名し、五十四歳で林大学頭家第十一代当主となった。折しも、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀に来航、復斎は幕府に命ぜられ、永禄九(一五六六)年から文政八(一八二五)年頃までの対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集「通航一覧」を編纂した。翌安政元(千八百五十四)年正月にペリー艦隊が再来すると、町奉行井戸覚弘とともに「応接掛」に任命され、横浜村での交渉に当たった(実際の交渉は漢文の応酬で行われたことから、復斎はその漢文力を買われて、主な交渉の総てを任されることとなった)。同年三月三日(一八五四年三月三十一日)、横浜村に於いて「日米和親条約」が締結される。条文は日本文・漢文・英文の三種で交換されているが、日本文での署名者は復斎が筆頭である。しかし、日本側が英文版への署名を拒否したため、下田で再交渉となり、締結が終了した(以上はウィキの「林復斎に拠った)。]

 彼(かの)觀音は中島へ預け置たるよし。定めて質やにても入有(いりある)べし。

 兎角、觀音、一場一家を守り給はず、かへりて不幸のことのみあるは、佛の御罰なるかもしるべからず。

 在家(ざいけ)は、神佛をもてるは、いらぬことにぞありける。

 予が預りの本箱、大に邪魔物ゆへに、賣拂ひて、法事にても行(おこな)はんと思ひし事も幾度かありしが、おもひきや、十數(す)年後、孫助、來(きた)る。

 早速、引渡したるに、紙一枚だに失はず【手跡見事に付(つき)、折本一帖、霞舟懇望なりしが、予、兎角いゝて、おくらざりしこと、有り。】大に心よく覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍る【弘化五戊申(つちのえさる)年[やぶちゃん注:一八四八年。]二月十二日、釋奠(せきでん)[やぶちゃん注:孔子及び儒教に於ける先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。江戸時代は二月に昌平黌で幕府行事として行われた。]の前日、誌(しる)す。】

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 御新政[やぶちゃん注:徳川家定が第十三代征夷大将軍なったことを指す。就任は嘉永六年六月二十二日(一八五三年七月二十七日)で黒船来航の十九日後。]の初め、御役人乘馬上覽有ㇾ之(これある)節、林式部少輔、御先手にて學問所總教を兼たりしが、馬術、元より上手とも覺へず。其頃は、人々、技藝に誇る中なれば、此人も客氣(まけぬき[やぶちゃん注:底本のルビ。「かつき」への「負けん気」の当て読み。])ありて、かの昔(むか)し學びたる近授流にて、「早ダク」を乘りたらんには、

「廏拙(へたかくし[やぶちゃん注:底本のルビ。「廏」は「厩」に同じいから、馬術の下手なことを意味するようである。])の計(はかり)ごとなるべし。」

と、

「御前にて軍馬を御覽に入申(いれまうす)べし。」

とて、公厩(こうきゆう)の御馬(おんうま)を我馬の心得にて、「大ダク」を乘出(のりいだ)す。

 いとゞさへ、向ふののびたる馬[やぶちゃん注:首の長い馬の意か?]は自由ならぬものなるを、肥太(こえふと)りたる、龍の如く、虎の如くなる御馬を、思ふさまに手綱を延べ、「大ダク」になしたるなれば、いかで手にのるべき[やぶちゃん注:反語。乗り手である林復斎の言う通りになることがあろうか、いや、ない。]。

 縱橫に走り𢌞り、遂に牡丹の御花畠の圍ひの内に入る。尤(もつとも)御前に近き所なり。最早、一大事となりぬ。御馬なりけるも打忘れ、力の極(かぎ)り、引(ひけ)ども、折(を)れども、少しも聞かず。果ては、我をも打忘れ、御前の遠慮もなく、

「此畜生(こんちくしやう)々々々、」

と大聲連呼してもみ合(あひ)しが、からくして、元の馬場迄、乘戾(のりもど)す。

 御花畠は落花狼籍たり。

「定(さだめ)て、御沙汰もあらん。」

と、皆人、爲(ため)におそれ合(あへ)りしが、却(かへつ)て、

「御一興。」

とて、御沙汰もなかりしと。

 其頃、予が門人御小納川口乙三郞君、語られたり【此川口氏、死して、予、墓銘をかきたり。】。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が一場へ弟子入(でしいり)せしは、十六のとし也。孫助十五歳、林又三郞【後大學頭。檉宇(ていう)。】、二十五、六斗り、林ケン藏[やぶちゃん注:カタカナはママ。]・林耀藏【鳥居甲斐守なり。】・林韑之助(あきらのすけ)【式部少輔。】前髮あり、十五、六歳、皆、揃ひて、一度、稽古に出(いで)たるを見たり。

 藤兵衞師、予を檉宇君に引合(ひきあは)せられたり。

「武技は、いづれも精は出さぬ人なるべし。」

といへり。

[やぶちゃん注:師の評言は、桃野と檉宇両者ともに、の謂いであろう。]

 孫助、名は養、字(あざな)は直、雲湖(うんこ)と號す【滑稽の人にて種々の號あるといへども、皆、響き他物に通ふよふに付く。小兒の大便をウンコといふ。大人の語にも偶(たまに)用ゆる事あり。是に響く故に付たる也。】。詩集あり。曾て見たることあり。予が家に預けたる本箱には、纔(わづか)零星(れいせい)[やぶちゃん注:細々として断片的で僅かなこと。]のみにて、他見を憚りしや。五・七・律、唐詩を學ぶ。警句、多し。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が家に宿(やどり)し時、夜、ともに語り明(あか)せしが、夜深(よふかく)、人、靜まりて、

「扨も。彼(かの)殺害の一事は、人も吾も其譯をしらず。如何なる故にや。」

と問ひしかども、

「されば。これは深き子細あること。」

とて、語るさまにして、其すへは外(ほか)のはなしに移して、語らず。

 大體は予が案の如くなるべし。

 虎徹入道の刀は上り物[やぶちゃん注:献上品か。]に成(なり)たらん。名作惜むべし。定(さだめ)て、よく切(きれ)たるならん。予、一谷[やぶちゃん注:既出既注の桃野の師内山一谷。]所持の「亂れ刄虎徹(みだればこてつ)」の刀にて、藁だめしをせしが、虎徹程、よく落(おつ)る物、なし。「貮代目虎徹」興正[やぶちゃん注:長曽祢興正(ながそねおきまさ)は先に出た長曽祢虎徹興里の技術を継いだ刀工。興里の実子とも、門人で後に養子となったともされる。作刀期間は主に師興里の没後、延宝六(一六七八)年以降で、年紀を有するものは寛文一三(一六七三)年の作に始まり、元禄三(一六九〇)年の年紀がある作が最も遅い。但し、銘に虎徹を冠した作が少ないためか、一般に「二代目虎徹」と呼ばれることはあまりない(以上はウィキの「長曽祢興正」に拠った)。]の脇指(わきざし)も、其節、ためしたるに、おとらずよく落る。此節、値(あた)ひ至て貴(とほと)しと、きゝけり。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 鈴木源八郞といふは、御三卿(ごさんきやうの)人なり。

[やぶちゃん注:田安・一橋・清水三家のどこかの家士であったということであろう。]

 多田九助が弟にて、孫助母の姉の子なり。多田九助大御番、至て堅き男のよし、弓は上手なり。其愚は、たとふるに、物なし。

 家にめしたき女ありしに、深く言(いひ)かわせしが[やぶちゃん注:ママ。]、忽然としていとまを乞ひ、四ツ谷左門町、予が從弟多賀谷緩助(たがやかんすけ)が又の隣家へ奉公に住(すみ)けり。九助、此事を聞出(ききだ)し、緩助は武藝の相手弟子なるによりて、此家に來りて、

「内談ある。」

よし、申入(まうしいれ)けり。

 折節、緩助は番留守也。

 予、其處に居合せしが、其名を聞(きく)より孫助が事も尋(たづね)たく、

「先(まづ)、こなたへ。」

とて、通しけり。

 久久の事なれば、物語、はてしもなく、孫助がことなど云出(いひい)で、聞(きき)もし聞かれもせんと思ふに、此人、兎角に厭(いと)ふよふにて、よくもいらへず、聞ゆることも、耳にもいらぬよふにて、ひたすら、

「緩助に賴むことある。」

よし也。

「折惡く、當番にて居合(ゐあは)さねども、くるしからずば、おのれへ告玉(つげたま)はゞ、返りの節、中繼(なかつ)ぐべし。」

と、いへば、

「緩助ぬしも其許(そこもと)も、同じ相弟子のよしみあれば、つゝむべきことにもあらず。其子細といふは、家に兼々(かねがね)言(いひ)かわせし[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]女ありしが、家父の不興のよしを聞(きき)しりて、急にいとまを乞ひて出でけり。かく迄深く言かわせし中(なか)を、かく情(なさけ)なく引(ひき)はなるゝといふは、定めてよぎ[やぶちゃん注:「余儀」。]なき義理にてもあるならんか、吾に一言(ひとこと)も告(つげ)ざることこそ心得ね、さりとて今更、心がわりせんいわれなし[やぶちゃん注:孰れもママ。]、此程、此あたりなる家にあるよし、聞(きき)つるによりて、緩助ぬしに賴みて、其心を問ひ正してほしく、此事、賴み申(まうし)たさに訪來(たづねきた)るなれば、緩助ぬしに、此事、申通(まうしつう)じて玉われ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と。いゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。

 次の間にて聞(きく)程(ほど)の人、ふしまろびて笑ふといへども、少しも耳に入(いる)氣色(けしき)もなく、

「吾(わが)用は是迄なり。」

とて、去りてけり。

 二た時斗り過(すぎ)て、予、家に歸らんとて、立出(たちい)で、又の隣家の門を過(すぐ)るに、人あり。

 打裂羽織(ぶつさきばおり)・馬乘袴(うまのりばかま)、大小、いかめしく橫たへたり[やぶちゃん注:身体に対して有意に横様に差すこと。かぶいた刀の差し方である。]。よくみるに、九助なり。

 いかにして呼出(よびだ)しけん、差向(さしむか)ひて語る女は、言(いひ)かわせし女なるべし。

 廿三、四、なみなみのめしたき也。

[やぶちゃん注:「なみなみの」はごく普通の意か。]

 九助、予を見て、

「先に煩わし[やぶちゃん注:ママ。]奉ることも、見玉ふごとく、相見て侍れば、最早、たがひのむね明(あか)し合(あひ)て、事すみて侍る。」

と、いゝけり。

 かゝるふるまひを見て後に、よくよく、人の言葉をきくの難(かた)きことをしれり。先にもいふ如く、九助、かたき人たり、と、きく。但し、四谷大木、住宅なり。

[やぶちゃん注:「四谷大木」(よつやおおきど)は甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)ウィキの「四谷大木戸」によれば、現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点に相当するとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。元和二(一六一六)年に『江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが』、寛政四(一七九二)年『以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)』文政一二(一八二九)年『成立の「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている』とある。]

「一度も内藤宿はたごやに行(ゆき)たることなし。」

[やぶちゃん注:内藤新宿の飯盛り女(売春婦)の歴史的経緯については、ウィキの「内藤新宿」に非常に詳しいので、そちらを参照されたい。]

とて、部屋住(へやずみ)・番入(ばんいり)の時も、「人物第一」といふことなり。輕く人言(ひとのいひ)をきく時は、

「隣家にひとしきはたごやあるに、足ぶみもせず。」

といへば、其人の正しきをしるにたれり。再び其人を見れば、正しきに似たるは、其智、人なみならず[やぶちゃん注:一般人のレベルより優位に低い。]。はたごやに行(ゆき)たりとて、取(とり)はやしもなくて[やぶちゃん注:人並みの知性がないから、飯盛り女たちからも持て囃されることがなくて。]、面白からず。且(かつ)家もまづしかりければ、自然(おのづと[やぶちゃん注:私の推定読み。])其事もなくありしを、「人物第一」とて御番入(ごばんいり)せしも、倖(さいはひ)なることにてぞ有(あり)けり。此人も在番より歸りて死したり、と渡八郞、語る。

 天、かゝる人を生じ、又、永く、壽をあたへもせず、何の爲なるか、しるべからず。

 孫助が歸る春の頃、橫寺町圓福寺[やぶちゃん注:本篇の注で既注。]といふ法家(ほつけ)でら[やぶちゃん注:日蓮宗。]にて、一寸八分黃金彿觀音開帳とて、三日斗(ばかり)參詣あり。予、一場家の物にてはなきかと思へり。其後、源八郞に語るに、これも同じく疑ひありて、圓福寺に行(ゆき)て出處(でどころ)を尋ねしに、「さる御殿の女中より、開帳して衆人に拜せしめんとの賴み」のよし也。中島にあるといふはいつはりにて、最早他人の手へ渡り、かゝる事になりしも、しるべからず。黃金佛は潰しのきく佛(ほとけ)なれば、靈驗もあらたなることあるべし。努々(ゆめゆめ)、在家(ざいけ)の佛、ゐぢりはせぬことにてぞありける【嘉永庚戌(かのえいぬ)六月晦日(みそか)、しるす。】

[やぶちゃん注:「嘉永庚戌六月晦日」は嘉永三年で、グレゴリオ暦では一八五〇年七月九日。]

2018/09/28

柳田國男 炭燒小五郞が事 一二 / 炭燒小五郞が事~了

 

      一二

 果しも無い穿鑿は、もうこの位で一旦中止せねばならぬ。他日若し幸ひに機會があつたら、宇佐の根原が男性の日の神であり、其最初の王子神が、賀茂大神同系の別雷であり、次の代の若宮が火の御子であり炭の神であつて、所謂鍛冶の翁は其神德の顯露であつたと云ふことの、果して證明し得べきや否やを究めて見たいと思ふ。現在の祠官たちの承認を得ることは難いが、八幡には今尚闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]せられざる若干の神祕があるらしく、是は只その一端だけである。自分の試みは單に文字記錄以外の材料から、どの程度まで大昔の世の生活が、わかるであらうかと云ふ點にあつて、殊に奈良の京以後突如として大に盛になつた宇佐の信仰が、本來は南日本の海の隈[やぶちゃん注:「くま」或いは「すみ」。]島の蔭に、散亂して住んで居た我々の祖先の、無數の孤立團體に共通した、至つて單純なる自然宗教から出たもので無いかどうかを知りたかつたのである。託宣集や愚童訓別本を見ると、宇佐の山上には最も神靈視せられた巨大なる三石(みついし)があつた。火の神とは傳へて居らぬが、寒雪の中にも暖味[やぶちゃん注:「あたたかみ」。]ありといひ、又は金色の光を放つて王城の方をさすとも謂つて居る。而うして三箇の石は竃の最初の形であり、從つて火神の象徵であることは既に認められて居る。之に由つて所謂三寶荒神の思想も起つた。沖繩諸島に於ても御三物と稱して三石を火の神に祀つて居る。只未だ其起源に關しての説を聽かぬが、三箇の略同じ大きさと形の石が、引續いて海からゆり揚がる時は之を奇瑞として拜したやうである。この二つの信仰には恐らくは脈絡があるであらう。卽ち南島の從兄弟たちは、未だ石凝姥(いしこりどめ)天日一箇(あめのまひとつ)の恩澤に浴せざる以前から我々とよく似た方式を以て、根所[やぶちゃん注:「ねどころ」。]の火に仕えて居たのである。炭燒長者の話がいと容易に受け入れられた所以である。

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[八重山石垣島藏元の火の神

 三つ石の一つが今折れて居る]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遺老説傳には與那覇親雲上(よなはのをやくもい)鄭玖[やぶちゃん注:「ていきゆう」。中国から帰化した三十姓の子孫。沖縄方言では「よなは・ぺーちん」と読む。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらの「黄金の俵」を参照。]、或日未明に久米村から、首里の御所に朝せんとして、浮繩美御嶽(うきなはみおたけ)の前を過ぎ、一老人の馬に炭二俵を積んで來るに逢うた。老人はいて玖をして家に引返さしめ且つ其炭俵を與へて去る。後に侍僮をして之を焚かしめやうとするに、どうしても燒けず、よく見れば炭は悉く黃金であつたと謂ふ。信州園原の伏屋長者(ふせやのちやうじや)が半燒けの炭を神棚に上げて置くと、それが忽ちに金に化したと云ふのと、全く同日の談であつたが、黃金を産せぬ島では、殊に此不思議は大きかつたことゝ思ふ。卽ち干瀨(ひぜ)[やぶちゃん注:沖縄・奄美地方で島の周辺に広がる珊瑚礁を指すが、現地では「ひし・びし・ぴー・ぴし」が一般的な読み方である。]の練絹を以て取圍んだ蓬萊山に在つても、父が炭燒藤太で無ければ、其子は金賣吉次であり得ないと云ふ理窟が、はつきりと其世の人の頭にはあつた。但し我々は今が今まで、もう之を忘れてしまつて居たのである。

 

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 一一

 

      一一

 歌の豐後の炭燒小五郞が妻は、容みにくしと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]都方の上﨟であつた。弘い世間に夫(をつと)と賴む人が無いので、日頃信仰の觀世音の靈示に從ひ、遙々と都の山賤[やぶちゃん注:「やまがつ」。]を尋ねて來たと云ふのが、物語の最も濃厚な色彩を爲して居るが、是は所謂佛法の影響であつて、又中代[やぶちゃん注:中世。]の趣味であらう。信心深い男女の間の前世の約束と云ふ單簡な語で、省略してしまつた身の運[やぶちゃん注:「うん」。]家の幸福の説明は、話に此ほどの共通がある以上は、後に來たつて附け加はつたものとは考へられぬ。況や其背後にはどこ迄も火の神の思想と古い慣習が、殆ど無意識に保存せられて居たのである。阿波の糠の丸長者の娘の嫁入には、觀音の代りを守の神の白鼠がつとめた。陸中の話では旅の六部に教へられて、月の十五日の朝日の押開(おつぴら)き[やぶちゃん注:限定された「日の出」の時刻のことであろう。]に、九十九前の眞ん中の土藏の屋の棟を見ると、紫の直埀[やぶちゃん注:「ひたたれ」。]を着た小人の翁が三人で、旭[やぶちゃん注:「あさひ」。]の舞を舞うて居た。うつぎ[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]の弓に蓬の箭[やぶちゃん注:「や」。]をはいで之を射ると、小人は眼又は膝を射られて忽然として消え去り、それから家の運は傾いた。或は又路に三人の座敷ワラシ[やぶちゃん注:底本は「ワラジ」。青森県南部地方には「座敷わらし」の異形として、草鞋作りの爺婆の家にその草鞋を一足取って履いた「わらし」、「わらじわらし」が棲むという伝承はあるが(サイト「古里の民具 雪靴ミニぞうり編むの「わらじわらしの昔話を参照)、そこでも「草鞋(わらぢ)」と「童子(わらし)」は厳然と区別された語として用いられているのであるから、ここは「ワラシ」の誤植と採って訂した。ちくま文庫版も『座敷ワラシ』である。]かと思ふ美しい娘に逢ひ行く先をきくと、この山越えあの山越えて、雉子の一聲の里へ行きますと、幸運の住家を教へてくれる。それが宮古の島ではユリと稱する穀物の精と現れて、女性を炭燒の小屋に導くのである。沖繩本島に於ては又變じて雀(クラー)になつて居る。折目の祭の日に下男の言ふまゝに、新米で飯を炊いだのが惡いと謂つて、夫に追出された女房が、こゝに隱れかしこに遁げて去りかねて居ると、斯う謂つて雀は彼女を導いた。

  クル、クル

  クマネスダカラン(ここには住まはれぬ)

  ヤンバルヤマカイ(山原山へ)

  タンヤチグラカイ(炭燒のクラヘ)

さうして炭燒の妻に爲つて、忽ち金持になつたのであるが、この古い古い公冶長系統の一節もまた袋中上人所傳の外であつた。

[やぶちゃん注:「公冶長」「論語」の「公冶長」で知られる公冶長、公冶長(こうやちょう 生没年未詳)は春秋時代の儒者(「公冶」が姓)。ウィキの「公冶長」によれば、『公冶長は鳥と会話が出来るという特殊能力が備わっており、その力によって死体の場所を知ることができたが、かえって犯人と疑われて獄中入りとなった。が、雀の言葉を理解できることを実証してみせたために釈放され』、その人格をかっていた孔子は『本人の罪ではないと』して彼に『自分の娘を嫁がせた、という話が見える』とあり、この宮古のそれとの強い親和性が窺える。]

 第二に注意することは、炭燒を尋ねて來た女性に、別に一人の同行者があつた點である。宮古島の舊史には鄰婦を伴ひとあり、佐々木君の話の一つには下女を連れて行くとあるが、今一つの方では三つになる男の子を附けて離別したことになつて居る。或は又前の男が貧乏をしてから、其子をつれて薪を賣りに來たともある。何か仔細のあつたのが、もう忘れられたものと思はれる。佐喜眞君のおばあさんの話では、沖繩では女は妊娠の間に追出され、炭燒にとついでから男の子が生れたことになつて居る。零落の夫がもとの妻であることを知らずに笊を賣りに來ると長者の子供が彼に向つて惡戲をした。女房に向つて御宅の坊ちやまが、惡さをなされて困りますと謂ふと、今まで知らぬ顏をして居たのがもうたまらなくなつて、自分の子供まで見知らぬとは、何と云ふ馬鹿な人だと歎息したので、始めて昔の妻子かと心付き、其まゝひつくりかへつて死んでしまつたとある。此樣な何でも無いこと迄が、手近の琉球神道記とは似ないで、遠い雪國の村の話と、一致しようとして居るのは何故であらうか。

 不思議はまだ是ばかりで無い。沖繩では斯うして恥じて死んだ男を、其まゝそこに埋めて、上に庭の飛石を置き、それから茶を飮む度に一杯づゝ、その石に灌いで手向にしたとある。其點が亦附いてまはつて居るのである。不運な前夫が知らずに來て、元の妻の世話になることは、何れの話も一樣であるが、奧州では單に勸められて下男に爲り、炭竃長者の家で一生を終つたとある。之に反して江州由良の里では、箕作[やぶちゃん注:「みつくり」。]の翁は長者の臺所に來て食を乞ひ、別れた女の姿を見て耻と悔とに堪へず、忽ち竃の傍に倒れて死んだのを、後の夫に見せまい爲に、下人に命じて其まゝ竃の後に埋めさせた。それが此家の守り神となつたと謂ひ、それを竈神の由來と傳へて居る。淸淨を重んずる家の火の信仰に、死を説き埋葬を説くのは奇恠であるが、越後奧羽の廣い地方に亙つて、醜い人の面を竃の側に置くことが、現在までの風習であるから、是には尚さう傳へらるべかりし、深い理由があつたのであらう。廣益俗説辨の地名には何に由つたか知らぬが、三寶荒神の始めは、近江甲賀[やぶちゃん注:「こうか」。]郡由良の里、百姓の夫婦と其婢女と、三人を祀つて竃の神にしたと云ふ、別の傳承を載せて居る。由良は通例海邊の地名であるから、近江は誤で無いかとも思ふ[やぶちゃん注:私も読んだ際、そう思った。]が、何か尚此方面に、人の靈を火の靈として崇拜する、昔の理由が隱れて居るやうにも思ふ。

 若し此推測にして誤無くば、宮古の炭燒の話の發端に、二人生れた赤子の中で、女の

方は額に鍋のヒスコを附けてあるから、一日に糧米七升の福分を與へ男の兒は其事が無かつたから乞食の運ときめたと、神々の談合が有つたと謂ひそれ故にこそ今に至る迄、生れ子の額には必ず鍋のヒスコを附ける也と、北の島々で宮參りの日に、紅で犬の字を描き、又は作り眉をするのと、よく似た風習を説明しようとして居るのは、是も同じく竃の神の信仰に基づくもので、竈と炭との關係を考へ合せると、假令京都近くの書物に傳はつた話には見えなくとも、長者を炭燒とした話の方が、一段古い樣式であつたと考へてよろしい。

 謠の蘆苅の元の型は、今昔と大和と二つの物語に見え、その贈答の歌は既に拾遺集にも採擇せられて居る。それが純然たる作爲の文學で無かつたことは、大和物語に於ては前の夫が、上﨟の姿を見知つて我身の淺ましさを耻ぢ、人の家に遁げ入つて竃の後にかゞまり匿れたとあるのを見てもわかる。芦[やぶちゃん注:ママ。]を苅つて露命を繫いだと謂ふのも、必ずしも「あしからじ」又「あしかりけり」の二つの歌が先づ成つて、これを能困法師の流義で難波の浦に持つて行つたと解することが出來ぬかと思ふのは、全然同種の近江の話に箕作の翁と謂ひ、沖繩に於ては笊を賣りに、奧州に於ては草履を賣りに、或はマダ木[やぶちゃん注:「まだぎ」。マダノキ。被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目シナノキ科シナノキ属オオバボダイジュ Tilia maximowicziana の異名。本邦固有種と思われ、北海道・本州の東北地方・北陸地方・関東地方北部に分布し、山地の落葉樹林内に植生する。古くは樹皮の繊維を縄・布・和紙の原料とした、材は建築材・器具材として利用される。ウィキの「オオバボダイジュ他を参考にした。]の皮を剝ぎ又は薪を苅つて、これを背負うて賣りに來たと謂ふのが、同じやうな詫びしい姿を思はせ、事によると肥後の薦編みや蓆織り長者、羽前の藁打ち長者の因緣を引くかとも思はれる上に、更に偶合としては餘りに奇なることとは[やぶちゃん注:「と」はママ。衍字の可能性が大きいが、ママとする。]、豐後の内山附近にも蘆苅と云ふ部落があり、同じく臼杵の深田村では、小五郞の子孫と稱して蘆苅俊藏氏あり、さらに同じ苗字が弘く宇佐地方に迄も及んで居ることである。曾て後藤喜間太君が寫して示された、豐後海部郡の花炭の由緖書には、小五郞七十八代の後裔草苅左衞門尉氏次の名を錄し、豐鐘善鳴錄には長門國にも、草苅氏と云ふ一門が分れて居たと記してある。所謂山路(さんろ)の草苅笛の故事を辿れば、蘆苅は寧ろ誤では無いかと思つたが、現に之を名乘る舊家がある以上は、爭ふべき餘地がない。更に進んで其舊傳を、究めて見たいものである。

[やぶちゃん注:「蘆刈」私の好きな叙事伝説の一つである。小学館「日本大百科全書」より引く。一部の読みを除去し、不審な箇所は訂した。『摂津国(大阪府)難波に住む夫婦が貧困のため別れて、女は上洛後に主人に仕え、北の方の死後に後妻となる。しかし』、『昔の夫が忘れられず、難波へ祓(はらい)の口実で赴くが、すでに行方不明であった。たまたまもとの家の近くで芦を担う乞食が通ったので呼び止めると、前夫であった。哀れを催し』、『芦を高く買い、食物を与える。前夫は下簾の間からかいまみて、その貴人がかつての妻とわかり、恥じて竈の後ろに隠れる。捜させると、男は「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞ住みうき」と詠んだので、女は「あしからじとてこそ人の別れけめなにか難波の浦の住みうき」と返して、着物を与えさせた。有名な和歌説話でもあり、もっとも古い文献では』「大和物語」百四十八段に載る。その他にも、「古今和歌六帖」・「拾遺和歌集」・「今昔物語集」(巻第三十の「身貧男去妻成攝津守妻語第五」(身貧しき男の去りたる妻(め)、攝津守の妻と成れる語(こと)第五)、「宝物集」(巻二)、「源平盛衰記」(巻三十六)にも見え、謡曲「芦刈」(零落して葦売りをしている難波浦の住人日下(くさか)左衛門が都へ上って立身した妻と再会)にもなり、御伽草子の「ちくさ」にもある。「神道集」巻七の四十二の『「芦刈明神事(あしかりみょうじんのこと)」は』、『その本地譚(ほんちたん)で』、同巻八の四十六の「釜神事」と『ともに竈神(かまどがみ)の由来を語る話としてあったものであろう。その本地譚は、男が恥じて海に投身すると』、『女も後を追う結末から、その後』、二『人が海神の力で顕現したのが芦刈明神で、本地は男が文殊菩薩、女は如意輪観音としてある。炭焼長者の再婚型で、福分のある女と別れた夫が死して、女に竈の後ろに埋められる話もこの類型で、夫を荒神様として祀る昔話が多い』。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 一〇

 

      一〇

 南の島々の金屬の始めは、鑛物に豐かでなかつたばかりに、非常に我々の島よりはおくれて居た。それにも拘らずいつの間にか、炭燒長者は早ちやんと渡つて住んで居る。自分が本文の炭燒太良の話を書いて後、佐吉眞(さきま)興英君は其祖母から聽いたと云ふ、山原(やんばる)地方の炭燒の話を、南島説話に於て發表せられた。大體に於て宮古島の例とよく似て居て、此も亦女房の福分が、二度目の夫(をつと)を助けたことを説くらしいが、濱の寄木(よりき)の神樣から、赤兒の運勢を洩れ聽くことゝ、鍋のヒスコ[やぶちゃん注:不詳。文脈からは鍋底の煤(すす)とは思われる。]を額に塗る風習を、説明しようとした部分は落ちてしまつて、其代りとして前の夫が、死んで竃の神と爲つた點を詳しく傳へて居る。沖繩と宮古と二處の話を重ね合はすれば、ちやうど琉球神道記の江州由良里(ゆらのさと)の物語に近くなるから、或は之を以て慶長の初め頃に、袋中上人一類の内地人から、聽いて記憶して居たものとみる者が有るか知らぬが、其では合點が行かぬ節々が少なく無い。殊に長老となるべかりし貧困なる第二の夫(をつと)が、炭燒であつたと云ふ一條が、沖繩と宮古とにはあつて、中世京都附近に行はれた物語には見えず、而も千里の海山を隔てた奧州の田舍で、現に口から耳へ傳承する話には、炭燒が又出て來るのは、如何にしても不思議である。

[やぶちゃん注:「琉球神道記」江戸前期の倭国の浄土僧袋中良定(たいちゅうりょうじょう 天文二一(一五五二)年~寛永一六(一六三九)年)の琉球滞在体験を元に書かれた仏書。序文によれば慶長一〇(一六〇五)年の完成で、慶安元(一六四八)年には版本の初版が開板されている。ウィキの「琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)より引く。これは『琉球王国に渡った』、『倭僧の袋中良定』(陸奥国磐城郡出身。仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在し、その滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからずに帰国した後は、京都三条の檀王法林寺を始め、多くの浄土寺院の創建や中興を行った。ここはウィキの「袋中に拠った)『が著した書物である。神道記と題しているが』寧ろ、『本地垂迹を基とした仏教的性格が強い書物となっている。また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料でもある』。『本書は後述のような構成を持って書かれているが』「古代文学講座十一 霊異記・氏文・縁起」では、『この構成について、仏教をインド・中国から説明し、さらに琉球伽藍の本尊仏を説明、最終巻で琉球の神祇に顕れた本地垂迹を説明することにより、琉球の神祇が真言密教と深く関係していると説くことを意図し、書かれたものだと述べている。以上の様な内容のため、神道記とは題しながらも、琉球の神祇について書かれているのは最終の巻第』五『のみとなっている』。『本書は大きく』二『種類に分類することができる。第』一『は袋中良定の自筆した京都五条の袋中庵に所蔵されている稿本、第』二『はその後作られた版本で』、両者には有意な違いが認められる(リンク先では具体な違いが検証されてある)。前掲書によれば、『本書に袋中良定の直接見聞したと思われる記事が散見されることから、本書の記事が袋中良定の聞書的な性格を持つものだと考察している。このため、後の時代の書物と本書の記事を比較することで』、『琉球における風俗の変遷を知ることができる貴重な史料となっている』。著者である袋中良定は浄土宗の僧侶で、その伝記』「袋中上人絵詞伝」に『よれば、明への渡航を望んで琉球まで来たが』、『琉球より先への乗船を許す船が見つからず』、三『年間この地に留まった』後、『日本へ帰国したのだと言う。また』、「中山世譜 巻七」には万暦三一(一六〇三)年。和暦で慶長八年)に扶桑の人である僧袋中なる者が三年の間琉球に留まり、「神道記」一部を著して還った、と『あり、袋中良定が琉球に滞在していた』三『年の間に本書が著されたことが分かり、序文の記述を裏付けている』。『しかし、稿本の奥書のみに見える部分には「この』一『冊、草案あり。南蛮より平戸に帰朝、中国に至る、石州湯津薬師堂において之を初め、上洛の途中、しかして船中これを書く、山崎大念寺において之を終える。集者、袋中良定』慶長十三年十二月初六 云爾」『とあり、序文とは成立年が相違している』。昭和五三(一九七八)年角川書店刊の横山重「書物捜索 上」では序文が万暦三十三年(一六〇五年/慶長十年)、奥書が慶長十三年(一六〇八年)『となっていることから』、『本書の製作年代は簡単には決定できないと述べた上で、序文が明の元号である万暦となっているのは、袋中良定が琉球に滞在していた時に書かれたからであろうと推測している』。『また、稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が大きく異なっている』。『稿本の序文には「帰国の不忘に備える」とあり、本書が備忘録的な意味で書かれたことを窺わせるが、版本の序文では国士黄冠位階三位の馬幸明に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と懇願され、本書を作成したと記している。袋中が入滅した西方寺の』「飯岡西方寺開山記」にも、『馬幸明に懇願された袋中が、旅行中の身であることを理由にこれを』一旦は『断ったが、頻りに懇願された』ことから、本書五巻と「琉球往来」一巻を『著したと記されている』。『この馬幸明と言う人物は琉球王国の士族と考えられているが』、よく判らない。或る説では、『馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、しかも黄冠の中では最上位となる位階三位であることから、中山王府の高官ではないかと推測』されている。『さらに袋中自筆の』「寤寐集(ごびしゅう)」には、『馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず』、『乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと』、『翌朝』、『この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話が』載ることから』、『馬幸明』は『在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと』もされる(以下、本書の成立年代と執筆動機の現行での定説が記されるが、略す)。「琉球神道記」の構成は『巻第』一『は三界、巻第』二『は竺土、巻第』『三は震旦、巻第』四『は琉球の諸伽藍本尊、巻第』五『は琉球の神祇』となっている。最終巻の内容は、波上権現事・洋ノ権現事・尸棄那権現事・普天間権現事・末吉権現事・天久権現事・八幡大菩薩事・天満大政威徳大自在天神事・天照大神事・天妃事・天巽・道祖神事・火神事・権者実者事・疫神事・神楽事・鳥居事・駒犬事・鹿嶋明神事・諏訪明神事・住吉明神事・キンマモン事となっているが、調べて見たところ、柳田國男の言う「由良の里」の物語は「火神事」の内容かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から読める。

 奧州方面の炭燒長者は、佐々木喜善君がその幾つもの例を採集して居る。今に書物になつて出るであろうが、さし當りの必要のために、二つだけ話の大筋を揭げておく。一つは和賀郡に行はれているもの、他の一つは佐々木君の居村、上閉伊郡六角牛(ろつこうし)山の山口で、物知りの老女が記憶して居た話である。

㈠ 木樵が二人山に泊つて同じ夢を見る。二人の家には男と女の兒が生れたが女の兒は鹽一升に盃一つ、男は米一升の家福だと、山の神の御告げがあつたと思うて目がさめた。翌日還つて見ると果して子が生れて居る。成長の後夫婦となつて家が繁昌した。女房は一日に鹽を一升使ひ、盃にほ酒を絶さず[やぶちゃん注:「たやさず」。]、大氣[やぶちゃん注:「たいき」。気が大きいこと。]で出入の人々に振舞をするので、小心の夫は之を見かね、離緣をしてしまふ。女房は出て行つたが、腹がへつたので大根畠に入つて大根を拔くと、其穴から酒が涌き出たので、

    ふる酒の香がする

    泉の酒が涌くやら

と歌いつゝ、女房は其酒を飮んで、元氣になつて行くうちに日が暮れる。山に迷つて一つ家の鍛冶屋に無理にとめてもらふ。翌朝見ると鍛冶場の何もかもが皆金である。それを主人に教へて町へ持出し、賣つて長者になつたら、其あたりが町になつた。後に薪を背負うて賣りに來た父と子の木こりがあつた。それは女房の先の夫であつたと謂ふ。

㈡或鍛冶屋の女房、物使ひが荒くて弟子たちに迄惜しげ無く錢金を與へる。夫の鍛冶屋はこの女房を置いては、とても富貴にはなれぬと思うて、三つになる男の子をそへて離別する。女房は道に迷うて山に入込み、炭竃の煙を見つけて炭燒小屋に辿りつく。小屋のヒホド(爐)に小鍋が掛つて居る。主人が還つて來たから泊めてくれと謂ふと、今夜此飯を二人で食へばあすはもう食ふ物が無いと當惑するので、明日は又何とかしますと、それを二人でたべて寢る。翌日女房は懷から金を出して、これで米を買うて來て下され。そんな小石で何の米が買はれべ。インニェこれは小石で無い。小判と謂ふ寶物だ。こんな物が寶なら、をれが炭燒く竃のはたは、みんな小判だと謂つて笑ひながら、それでも買物に町へ出た。其あとで女房が往つて見ると、誠に炭竃のまはりには黃金が山のやうだ。之を運ぶ

と小屋が一杯になつて、入口から外へ溢れる。そこへ町から爺が還つて來る。一俵の米が殘り少なくなつて居るから、わけを聞くと途中で腹がへつたので、俵から米をつかんで食ひ食ひ來た。後からも人が附いて來るから、其人にも一つかみづゝ投げてやりながら來たと謂ふ。その人といふのは自分の影法師のことであつた。さういふ風の人なれども女房はきらはず、次の日から其金で米を買ひ木こりや職人を呼んで、家倉小屋を數多く建てさせ、そこで炭燒長者と呼ばれるやうになると、其邊も村屋になつた。ところが先夫の鍛冶屋は女房を出してから、鎌を打とうとすれば鉈になり、鍬と思えば斧になる。けちが附いてろくな仕事もできないので、乞食になつてしまひに炭燒長者の門に來る。女房がそつと見ると元の夫であつたから、米三升をやつて無くなれば又來よと謂つて返す。それから長者の夫にも話して、共々にすゝめて下男にする。何も知らぬから悦んで、一生この炭燒長者の所で暮してしまふ。

[やぶちゃん注:この二話は柳田の言う通り、民俗学者佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年三元社刊)にカップリングされた「炭焼長者」一話となって収録されている。末尾には『和賀郡黒沢尻町辺にある話、家内の知っていた分』(所持する一九九三年ちくま文庫版に拠る)という但し書きが附されてあり、ジョイントは悪くなく、躓かずに読める。]

 同じ老女の話したうちには、右の二つの物語が一つに續いて居るのもある。挿話があつてあまり長いから抄錄しなかつたが、それにも大根を拔いた穴から甘露のやうな酒が出て、之を賣つて自ら長老の女主となつたとあり、卽ち一方には田山小豆澤のダンブリ長者の話とつゞき、他の一方には三郡の蕪燒笹四郞の蕪を食べた話とも緣をひく。殊に面白いのは先夫に福分が無くて、藁に黃金を匿して、草履を作つて來いと謂つて渡すと、夜中に寒いので其藁を金と共に、ヒホド(爐)に燃してしまふ。握り飯の中に小判を入れて遣ると、歸りに沼に下(お)りて居る鴨を見かけて、其むすび[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を投げつけてしまふ。女房はさてさて運の無い人だと歎息して、すゝめて我家の下男とする。さうして酒屋長者の家で一生を終るといふのである。但し此方では長者は獨身の女主で、黃金は發見せずに酒の泉を發見した。第一の話は後の夫が鍛冶屋、第二の話だけは炭燒であるが、やはり亦前の亭主を鍛冶屋にして居る。他の類例を集まる限り集めてみたら、必ず變化の中から一定の法則が、見出されることゝ信ずる。要するに話を愛した昔の人の心持は、一種精巧なる黃金の鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の如きものであつた。

 

2018/09/27

柳田國男 炭燒小五郞が事 九

 

      九

 宮古群島の金屬の由來に關しては、現に二通りの古傳を存してゐる。其一つは首邑[やぶちゃん注:「しゆいふ(しゅゆう)」。その地方の中心の村。]平良(ぴさら)[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『ひらら』とルビ。サイト「癒しの島 宮古島」のこちらによると、『沖縄では「平良」と書けば普通は「たいら」と読みます。平良市は町だった時は「たいらちょう」でしたが、市制施行するときに他の市町村の「平良」(たとえば那覇市首里平良町、東村字平良、具志川市平良川など)と区別するために、「平良」の宮古方言である「ピサラ」を日本語に直訳したのです。つまり、「ピサ」(平たい)=「ひら(平)」、「ラ(土地)」=「ら(良)」です。この市名』「ひらら」『は、市制施行と同時に定められ』、『今日に至ってますが、今でも平良のことを「たいら」という人が多いのです』とあることから、底本通りとした。但し、底本は実は拡大してみても「ぴ」か「び」かは実は判然としない。]の船立御嶽[やぶちゃん注:現行現地音「ふなた(或いは「ふなだ」)てぃうたき」。「御嶽」は沖縄で神を祀る聖所のこと。]に屬するもので、昔久米島の某按司[やぶちゃん注:「あじ」又は「あんじ」。ちくま文庫版は『あんじ』とする。琉球諸島に嘗て存在した称号及び位階の一つ。王族の内で王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家に当たり、日本の宮家に相当する。他に按司は王妃・未婚王女・王子妃等の称号としても用いられた。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた(ここはウィキの「按司」に拠った)。]の娘、兄嫁の讒[やぶちゃん注:「ざん」。]によつて父に疎まれ、海上に追放されて兄と共にこの地に漂着したが、かねこ世の主[やぶちゃん注:太字「かねこ」は底本では傍点「ヽ」。「かねこよのぬし」で王の固有名+尊称と採る。]に嫁して九人の男子を産み、後に其子どもに扶けられて老いたる父を故鄕の島に訪れた。父は先非を悔いて親子の愛を盡し、還るに臨みて鐵と其技藝の傳書を以て、引出物として娘に取らせた。其兄は之に由つて初めて鍛冶の工み[やぶちゃん注:「たくみ」。]を仕出し、ヘラカマ[やぶちゃん注:農具の「へら」(現地音では「ひーら」「ふぃーら」等)と「鎌」(現地では「いらな」「いらら」等と呼ばれているらしい)。「へら」は甘藷の苗の植え付け・草取り・収穫等に使用し(Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「イララ・ヒーラ・プフィザス 沖縄諸島のミニチュア農具遺物」に拠る)、ブログ『万鐘ももと庵「沖縄・アジアの食と音楽」』の「沖縄の農作業に欠かせないヘラ」で現在使用されている「へら」及び古いそれが画像で見られる。底本の後の方に出るその画像を段落末に示した。そこでは「ウズミビラ」と出る。]等を作つて島人の耕作を助けた故に、永く其恩澤を仰いで、兄妹の遺骨を此御嶽に納めたと謂ふのである。今は主として船路の安泰を禱るやうになつたが、男神をカネドノ、女神をシラコニヤスツカサと唱へて、其功績を記念して居る。第二には伊良部(いらぶ)の島の長山御嶽此はもう祭は絶えたらしいが、やはり神の名はカネドノであつた。鐵を持渡り侯[やぶちゃん注:「さふらふ」。]故にカネドノと唱え申候とある。大和からの漂流人で、久しく此地に住んで農具を打調えて村人に與へた。仍て作物の神として其大和人を祭るのだと傳へて居る。鐵渡來前の島の農業は、牛馬の骨などをもつて土地を掘り、功程[やぶちゃん注:「こうてい」。仕事の量。作業の程度。]はかどらず不作の年が多かつた。それが新たなる農具の助によつて、五穀豐かに生産し、渡世安樂になつたとあるのは、多分は現實の歷史であらう。荒れたる草の菴の炭燒太良[やぶちゃん注:「すみやきだる」。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらに拠った。]が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋(かまにや)[やぶちゃん注:「嘉播親」「嘉播の親」とも書くようであり、「かはにや」「かばにゃ」とも読むようである。有力者の尊称と思われる。]となつたのを、ユリと稱する穀靈の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴[やぶちゃん注:「たたら」。]の魅力が、殊に偉大であつたことを認めねばならぬが、しかも鐵無き此島に鐵を持込んだ人々は、謙遜にも自分の功勞は之を説立てず、炭燒奇瑞の古物語を、そつと殘して置いて又次の或島へ、いつの間にか渡つて往つてしまつたのである。

[ウズミビラ、木製の農具

 マミクと云ふ硬い木で作る]

Uzumibira

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションを前に[ ]で示した(以下、同じ)。「マミク」はムクロジ目ムクロジ科カエデ属クスノハカエデ(楠葉槭)Acer oblongum var. itoanum。琉球(奄美以南)・台湾に分布し、方言名で「ブクブクギー」(葉を水中で揉むと泡が立つことに由来)とも呼ぶ。絶滅危惧類(VU)。]

 宮古の炭燒長者は、島最初の歷史上の人物、仲宗根豐見親(なかそねとよみをや)[やぶちゃん注:生没年不詳。宮古島の首長。「豊見親」は首長の尊称。空広(そらびー)ともよばれ、後世、「玄雅(げんが)」の字(あざな)が贈られた。十五世紀中頃に生まれ、十六世紀中頃に没したと伝わるが、経歴は殆んど不明。十五世紀末期頃に宮古島の覇者となり、やがて首里の王権に臣従して地位を安堵されたという。八重山に「アカハチ・ホンガワラの乱」(一五〇〇年)が起こると、国王軍に加勢して勲功を挙げ、宮古の初代の頭(かしら)に任ぜられた。その子孫は後世、忠導(ちゅうどう)氏と呼ばれ、代々頭職に就任して宮古島きっての勢家となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]が六代の祖と傳へられる。之を事實としても西曆十四世紀の人である。沖繩本島に於てもちやうど其の少し前に、鐵器輸入のあつたことが、半ば物語化して語り傳へられて居る。察度王[やぶちゃん注:「さつとわう(さっとおう)」は琉球王(察度王統初代)。一三二一年生まれで一三九五年没。在位は一三五〇年~一三九五年。奥間大親(うふや)の子。母は羽衣伝説の天女とされる。浦添按司(うらそえあじ)となり、後、英祖王統に代わって中山(ちゅうざん)王となった。明の太祖洪武帝の要請により、明と外交関係を結び、進貢貿易を始め、東南アジア・朝鮮との貿易にも尽力した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]が未だ其志を得ずして、浦添城西の村に詫しく住んで居た時、勝連(かつれん)按司(あんじ)の姫、夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]英風[やぶちゃん注:「えいふう」優れた教化とその風姿。]に傾倒して、往いて[やぶちゃん注:「ゆいて」。「ゆきて」の音便形。]之にかしずくこと、政子の賴朝に於けるが如くであつた。王の假屋形は庭にも垣根にも、無數の黃金白銀が恰も瓦石の如く、雨ざらしになつて轉がつて居た。それを新奧方が注意しても、笑うて顧みなかつたと傳へられる。其後鐵を滿載した日本の船が、牧港(まきみなと)[やぶちゃん注:沖縄県浦添市北部の地名。「まちなと」とも読む。ウィキの「牧港」によれば、『源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった事が地名の由来とされて』おり、牧港の「テラブのガマ」(以下の地図で確認出来る)と『呼ばれる洞窟にも同様の伝説が残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、現在は「牧港」という港は存在しない。]に入つて繫つた[やぶちゃん注:「かかつた」。停泊した。]時に、察度は乃ち右の金銀をもつて、殘らず其鐵を買取り、農具を製作して島人に頒ち與へ、一朝にして人心を收攬したと謂ふのは、興味ある傳説では無いか。琉球の史家が此記事に由つて、然らば我島にも昔は金銀を産したかと、有りさうにも無いことを想像して居るのは、寧ろ孤島の生活の淋しさを同情せしめる。島の文化史の時代區劃としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋(たういも)よりも重大であつた。所謂金宮(こがねみや)の夢がたりを傭ひ來るに非ざれば、説明することも六かしい程の、何かの方便を盡して、兎に角に農具は改良せられた。單に鐵を載せた大和船の漂着だけでは、文明の進化は見ることを得なかつた筈である。然らば此島現在の金屬工藝には、何人が先づ參與したのか。言ひ換へれば久米島按司が、宮古の娘に與へた卷物は、最初如何なる船に由つて、南の島へは運ばれたのであるか。それはもう終古[やぶちゃん注:「しゆうこ」。永遠。]の謎である。今はたゞ僅かに殘つて居る釜細工(かまざいく)の舞の曲と、其行裝(いでたち)と歌の文句に由つて、彼等が旅人であり、物珍しい國から來たことを、窺ひ知るの他は無いやうになつた。江戸で女の兒が手毬の唄に、

    遠から御出でたおいも屋さん

    おいもは一升いくらです

    三十五文でござります

    もちつとまからかちやからかぽん

と謂ふのがあるが、之に附けても思ひ出される。斯う云ふ輕い道化は鑄物師(いもじ)たちの身上(しんしやう)であつて、後に口拍子に眞似られたのではあるまいか。眞の芋賣りならば遠くからは來ない。所謂「取替(とりか)へべえにしよ」の飴屋なども、潰れた雁首や剃刀の折れを、集めて持つて行くだけは古金買ひと聯絡があつた。併しもう忘れられようとして居る。此等に比べると沖繩の舞は[やぶちゃん注:底本は「舞舞」。衍字と見て除去した。ちくま文庫版は以上が『これらに比べると釜細工という沖縄の舞は』となっている。]、まだ明瞭なる由緖を保ち、道具箱などは内地の鑄懸屋の通りであつた。或は流れ流れて金賣吉次の、是も淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶれ)ること。零落。]の一つの姿であることを、推測しても差支へがないのかも知らぬ。

 水に乏しい南の島々では、黃金を鳥に擲つ話は既に聞くことが出來ぬ。しかも大なる[やぶちゃん注:「おほいなる」]淸水に接近して、所謂カンジャーの石小屋を見ることは多い。カンジャーは固より鍛冶から出た語であらうが、沖繩では鍋釜其他一切の鑄物を扱ふ者を總括して斯う呼んで居る。自分は南山古城[やぶちゃん注:南山城(なんざんぐすく)跡。沖縄県糸満市大里にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に近い屋古[やぶちゃん注:「やこ」。「大里」の異古名。「糸満市大里自治会」公式サイト内のこちらに、元来は『大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来』、『人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称したという記述がある』とある。以下の嘉手志川という地名からもここ(前の南山城跡の東北直近)である。沖縄県国頭郡大宜味村に屋古の地名があるが、そこではないので注意されたい。]の嘉手志川(かてしがは)、或は石垣島の白保(しらほ)などで、幾度か好事の情を以て其小屋を覗いて見たが、曾て工人の働いて居る者に出逢はなかつた。恐らくは村から村へ、今も僅かな人數が移りあるいて、淡い親しみを續けて居るのであらう。彼等が炭の由來と黃金發見の信仰に付て、現に如何なる記憶を有するかは、自分の之を知らんとすること、恰も渴する者の泉を想ふ如くである。琉球國舊記等の書に依れば、炭には木炭と輕炭の二種があつて、輕炭を俗に鍛冶炭とも曰ふ。大工𢌞(だいくざこ)村[やぶちゃん注:サイト「村影弥太郎の集落紀行」の「大工廻」では「だくじゃく」と読んでいる。『現在は大字の全域が米軍の軍用地』であるとある。]に炭燒勢頭地(せとぢ)と謂ふ田地あつて、勢頭親部(をやぶ)始めて之を製すと云ふ傳へあり。後世鄰邑の宇久田(うくだ)[やぶちゃん注:同じくサイト「村影弥太郎の集落紀行」の「宇久田」によれば、現在の『嘉手納飛行場の滑走路付近』とある。]と共に、每年二種各二百俵の炭を王廷に貢した。其年代は不幸にして既に明白で無いが、三山併合よりも古いことでは無さそうだ。

[やぶちゃん注:「三山併合」一四二九年に第一尚氏王統の尚巴志王(しょうはしおう)が三山統一を行い、現在、これを以って「琉球王国」は成立したと見做されている。]

Yakonokatesi

[屋古嘉手志井[やぶちゃん注:ママ。]の下段

 瓦葺の小屋はカンジヤヤー]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションの「井」は「川」の誤植であろう。]

 但し鍛冶以外の炭の用途も、勿論無かつたとは言はれぬ。島の神道[やぶちゃん注:広義の神信仰。琉球は独立国であり、そのニライカナイ信仰も独自で魅力的なものである。日本の大和朝廷と結びついた国家の「神道」という政治的単語に成り下がった語で表現するのには私は強い不満がある。]に於ては火の神は卽ち家の神で、所謂御三物(おみつもの)の地位は、内地の近世の竈神[やぶちゃん注:「かまどがみ」。]卽ち三寶荒神よりも、遙かに高く且つ重かつた。今は僅かに神壇の中央に、三塊の石の痕を留むるのみであるが[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『今はわずかに、火床の中央に、三塊の石の痕(あと)を留むるのみであるが』となっている。]、以前は祖先の火を此中に活けて[やぶちゃん注:「いけて」。]、根所(ねどっころ)の神聖を保存したものと思はれる。火鉢の御せぢ(筋)は恐らくは之を意味し、火靈の相續は亦炭に由つて、爲し遂げられたかと想像する。此想像にして誤無くんば、冶鑄技術の輸入は、則ち火神信仰の第二次の興隆であつて、民に鋼鐵の器を頒ち賜ふが故に、其威德は愈旺盛となり、終に王家をして之に據つて、能く民族統一の偉業を完成せしめたのである。之に反して内地の軻遇都智神(かぐつちのかみ)は、恩澤未だ洽(あまね)からず、又雄族[やぶちゃん注:有力氏族。]の之を支持するもの無く、天朝の傳承は寧ろ宣傳に不利なりし爲に、次第に其聲望を降して、終には炊屋(かしきや)[やぶちゃん注:厨。台所。]の一隅に殘壘を保つに至つたが、是が果して東國九州の偏卑に住む民の信仰であり、殊には筑紫の竈門山(かまどやま)の神などの、教へ導きたまふ所のものと、一致して居つたか否かは問題である。而も此くの如き地方的の大變化が、薪を一旦炭にしてから、再び之を利用する技術の有無に原因して居るとしたら、渺たる一個の小五郞の物語も、其の暗示する所は亦頗る重大である。

Syurigotenhigamisanza

[首里御殿の火神の三座

 各三つの石、前に置くは香爐]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遠野物語の中には、深山無人の地に入つて、黃金の樋(ひ)を見たと云ふ話があるが、其が火と關係あるか否はまだ確實で無い。併し少なくとも火神の本原が太陽であつたことだけは、日と火の聲の同じい點からでも之を推測し得るかと思ふ。日本には火山は多いが、我民族の火の始は、之に發したのでは無かつたらしい。天の大神の御子が別電(わけいかづち)であつて、後再び空に還りたまふと云ふ山城の賀茂、又は播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、此國のプロメトイスが霹靂神(はたゝがみ)であつたことを示して居る。宇佐の舊傳が同じく玉依姫を説き、頻に又若宮の相續を重ずるは、本來天火の保存が信仰の中心を爲して居た結果では無かつたか。岩窟に火の御子を養育すれば、第一の御惠は必ず炭と爲つて現はれる。炭はまどろむ火であるが故に、之を奉じて各地に神裔を分つ風が先づ起り、金屬陶冶の術は則ち此に導かれたものでは無からうか。南太平洋の或民族、例へばタヒチの島人などの火渡りは、燃ゆる薪の中に石を燒いて、之を大きな竪坑に充たし、神系の貴族たちは列を作つて、其上を步むのであつた。日本に於いても大穴牟遲神(おほあなむち)の、手間(てま)の山の故事のように、赤くなる迄石を燒く習[やぶちゃん注:「ならひ」。]があつたとすれば、或種の重く堅い石が、猛火の中に滴り落ること、其石が凝つて再び色々の形を成すことは、所謂奧津彦(おきつひこ)奧津媛(おきつひめ)、卽ち炭火の管理に任じた者には、殊に遭遇しやすき實驗であつて、之を神威の不可思議と仰ぐは勿論、更に進んで其便益の大なることを諒解した場合には、必ずや新たに無限の歌を賦して、火の神の恩德をたゝえんとしたことであらう。之を要するに炭燒小五郞の物語の起原が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であつたとすれば、爰に始めて小倉の峰の菱形池(ひしがたのいけ)の畔に、鍛冶の翁が神と顯れた理由もわかり、西に鄰した筑前竃門(かまど)山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ傳へられた事情が、稍明らかになつて來るのである。所謂父無くして生れたまふ別雷の神の古傳は、至つて僅少の變化を以て、最も弘く國内に分布して居る。神話は本來各地方の信仰に根ざしたもので、其の互に相容れざる所あるは寧ろ自然であるにも拘らず、日を最高の女神とする神代の記錄の、此れほど大なる統一の力を以てするも、尚覆ひ盡すことを得なかつた一群の古い傳承が、特に火の精の相續に關して、今尚著しい一致を示して居ることは、果して何事を意味するのであらうか。播磨の古風土記の一例に於て、父の御神を天日一箇命(あまのまひとつのみこと)と傳へて、乃ち鍛冶の祖神の名と同じであつたことは、恐らくは此神話を大切に保存して居た階級が、昔の金屋であつたと認むべき一つの根據であらう。火の靈異に通じたる彼等は、日を以て火の根原とする思想と、いかづち[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]と稱する若い勇ましい神が、最初の火を天より携へて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたと云ふ信仰を、持傳へ且つ流布せしむるに適して居たに相違ない。宇佐は決して此種の神話の獨占者では無かつたけれども、彼宮の神の火は何か隱れたる事情あつて、特に宏大なる恩澤を金屬工藝の徒に施した爲に、彼等をして永く其傳説を愛護せしむるに至つたので、炭燒長者が豐後で生れ、後に全國の旅をして多くの田舍に假の遺跡を留めて置いてくれなかつたなら、獨り八幡神社の今日の盛況の、板木の理由が説明し難くなるのみで無く、我々の高祖の火の哲學は、永遠に不明に歸してしまつたかも知れない。然るに文字の記錄を唯一の史料として、上古の文明を究めんとする學者が、誤り欺き獨斷するに非ざれば、則ち絶望しなければならなかつた問題の眼目を、斯く安々と語つて聽かせ得る者が、隱れて草莽の間に住んで居た。さうして滿山の黃金が天下の至寶なることに心付かず、之を空しき礫に擲ちつゝ、孤獨貧窮の生を營んで居た。新しい學問の玉依姫は、今や訪ひ來たつて彼が柴のを叩いて居るのである。

[やぶちゃん注:このエンディングは柳田國男にしては文学的で悪くない。]

2018/09/26

鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)

 
 

死んだ男   鮎川信夫

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

 

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつまでも残っているね。

だがぼくは、何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かかった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 

埋葬の日は、言葉もなく

立会う者もなかった。

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。

空にむかって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 

   *

「鮎川信夫詩集」(昭和三〇(一九五五)年荒地出版社刊)より。

鮎川信夫(大正九(一九二〇)年~昭和六一(一九八六)年)本名は上村隆一。東京生まれ。早稲田大学英文科中退。昭和一二(一九三七)年、中桐雅夫編集の詩誌『LUNA』、翌年には村野四郎らの『新領土』に参加、昭和一四(一九三九)年森川義信らと詩誌『荒地』を創刊した。諸和一七(一九四二)年十月に青山の近衛歩兵第四連隊に入隊、翌年、スマトラに出征したが、マラリアや結核を発症、昭和十九年五月、傷病兵となって送還され、福井県の傷痍軍人療養所に入所、昭和二〇(一九四五)年四月、外泊先の岐阜県から退所願いを出し、福井県大野郡石徹白村で終戦を迎えている。翌年、詩誌『新詩派』『純粋詩』に参加、昭和二二(一九四七)年、第二次『荒地』を創刊した。同年に発表された本詩「死んだ男」は戦後詩の出発点と称されている。昭和二六(一九五一)年には田村隆一・黒田三郎らを同人とし、年間アンソロジー『荒地詩集』を創刊、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする地位を決定的なものとした。詩作品の他にも多くの翻訳・詩論・評論・随筆がある。平凡社「マイペディア」及びウィキの「鮎川信夫を参考にした)。

 

【鮎川信夫「死んだ男」 藪野直史 授業ノート】

 

●第一連

◆「遺言執行人」=作者=死んだ友人M(に代表される戦死(第三連)していった人々)の代わりに生きる《役目》を与えられてしまった「ぼく」

◎《戦後》という時代を《遺言執行人》として生きることを自らに課した詩人の登場

★何故「遺言執行人」なのか?

*「遺言執行人」は「遺言配達人」でも「遺言告知人」でもないことに気づかせる。果敢に「執行」するのである。

《モノクロームのサスペンス映画のオープニングのように「遺言執行人」のシルエットが見え始める印象的な映像的処理》

 

●第二連

・回想~戦前

◆「遠い昨日」=(第三連)つい「昨日」であったにも拘わらず「遠い昨日」である「短かかった黄金時代」=(第四連)しかし、同時にある意味では戦後の「今日」に、飴のように延びきって続いてしまっている「昨日」でもある

・「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」

┃ 並列(等価)

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」

◎ニヒリズム(虚無主義)を気取った文学青年の知的で、アンニュイ(倦怠)に満ちたデカダン(退廃的)な雰囲気の醸成

《心内の映像もカメラをやや傾かせて撮るのがよい》

☆「手紙の封筒を裏返すようなこと」とは何か?

*実際の封筒(横開きの開口部が大きいものを使用)を何人かの生徒に渡し、自由にやらせてみる。《実演させる》

*ただ封筒の裏(裏書き部)返す生徒には、その意味を聴き、それが「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」と同属性を持つ意味を聴く(経験的には「住所・名前を見るため」「その手紙の内容が恋人からの最後の手紙であるから」「知人の訃報」等。但し、私が正答と考えるそれを躊躇なく行う生徒もいる)。

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」の「ようなこと」とは、それが、普通でないことであり、尋常でない「ような」ヘンな「こと」なのではないか?

   ↓ とすれば

・ただ封筒を表から裏に「裏返す」ことではないのではないか?

   ↓ とすれば答えは一つ

袋状の封筒の内側を外側にひっくり返す、反転させること

   ↓ さればこその

「実際は、影も、形もない?」(Mの台詞)

=現実や人間社会なんて、内も外もない「空っぽ」なもの

=存在自体の空虚さ

=アンニュイでデカダンなニヒリスティクな〈当時の〉雰囲気

   ↓ しかしそれは、「今」に響き合う

・「――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった」~現在への意識転換

   ↓

『「死にそこなっ」た〈戦後〉の自分のこの空虚感の予言だったのだ』という認識

 

●第三連

◆「昨日のひややかな青空」~Mと共にあった作者の思い出の象徴的イメージ

 クールな(存在の空虚さを孕んだ)詩的な感覚世界

 (その頃からぼくらの心情はいつだって感傷的な)「秋だった」(第四連)

*「剃刀の刃」から連想する語句を生徒に挙げさせ、その属性を記す。例えば、

「自殺」~デカダンな議論にしばしば登場

「鋭い」~詩人の持ちがちな「反」社会性・「非」社会性。人生そのものへの批判的な「抉るような」「鋭敏な」感覚

「傷つける・切り裂く」~自己の或いは人の心を

「危険」~無謀な感性

    ↓

 《青春の属性》

◎「活字の置き換え」

 ~戦前のモダニズム・ダダイズム風の詩的実験や制作上の試み

*西脇順三郎・北園克衛・高橋新吉・萩原恭次郎等の作例を示す。

◎「神様ごっこ」

 ~詩人としてミューズから霊感を受けたような天才気取りの競い合い

《詩的絶対者然とした者たちの果てしない議論のシークエンス》

    ↓ それが

★「僕たちの古い処方箋だった」

『一時の気休めとして用意(処方)された、前時代的な効き目のない古くさい慰戯に過ぎなかったんだよ。』(これはMの亡霊の台詞か?)

☆「ぼく」が「M」を「見失ってしまった」のはなぜか?

①(彼らの過去時制で考えると)時代(ファシズム・戦争への傾斜)の渦へと巻き込まれて行き、その中で自分さえも見失ってしまったからか?

②(詩作時の現時制で考えると)現在(戦後)の作者の意識の中で、Mの存在が同一化してしまっているからか?

*私は②でとる。そうすることで、この詩は真に〈話者の重層化〉(話し手が、Mでもあり、作者でもある)が行われ、「遺言執行人」としての「ぼく」の存在も同時に明確となるからである。

 

●第四連

◆「いつも季節は秋だった」

 Mや「ぼく」の青春期を覆う時代の色調

   ↓

 決定的にうそ寒く、淋しく、暗い。

   ↓ しかも

 戦前・戦中(「黒い鉛の道」)の「昨日も」、戦後の「今日も」(変わりはしない)

*この詩句は直ちにヴェルレーヌの「秋の歌」の詩を想起させ、当該詩篇の冒頭にはランボーの詩篇の一部が引かれており、彼らの悲劇的な同性愛関係とその決裂を考え合わせると、Mと「ぼく」との間に同性愛的な意識関係があったと仮定することは無理がないと考えている。

・「淋しさの中を落葉がふる」(Mの詩篇か? 作者のそれか? はたまた彼らの意識の中の共通したヴェルレーヌでありランボーでもあるような寂しいミューズか?)

   ↓ 衰滅を比喩する「秋」

◆戦争と絶望と死、そして戦後という荒れ果てた地(現実+精神)への道は永久に「淋しさの中を落葉がふる」「道」であった

《この連は一見すると最もリアリスティクな二人の町を行く映像が相応しい》

 

●第五連

◆戦没死したMの埋葬=「ぼく」の想像の中の心象風景《イメージ・フィルム》

・「憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった」=全否定で表現された絶対の沈黙・絶対の孤独=感情という中途半端なものが、一切、かき消えた無感動・無表情~虚無感

・「空に向かって」あげられたMの視線

 ~ここでは『戦争において死にそこなったもののすべては、はっきりとみつめかえされて』いる(長田弘評)

★「さよなら、太陽も海も信ずるにたりない」

「太陽」~人間の儚い「希望」?

「海」~生命の根源としての無限の包容力をもった広大無辺とされる「愛」のようなもの?

   ↓

  全否定

  ↓

 現実への深い懐疑・絶対の強烈な絶望

*この言葉はMのみのものか?

 「遺言執行人」としての「ぼく」の言葉でもあることは言を俟たぬ

★「Mの傷口」が作者の「胸の」傷口でもあるとすれば?(Mと作者との一体化からそう考えるのが自然)

 過去(主に第二連以降)~死者「M」に代表される者の思い(胸の傷=心傷(トラウマ))

    ↓ が直ちに

 現在(主に第一連)~生き残った自分に代表される者の思い

    ↓ であるとすれば、それはやはり直ちに

 未来へと投げかけられる

    ↓ 命題であり、だからこそ「ぼく」=「M」は言う

「これがすべての始まりである。」

 

*本詩篇全体を包んでいる徹底した陰鬱な気分は、戦争体験者の、回復し難い「生の意識」の喪失感と、戦後の虚構に満ちた〈平和〉社会への違和感・拒絶感の表明でもあろう。

 

【二〇一八年九月二十六日附記】

 授業(私が最初にこれを授業したのは一九八〇年の柏陽高校の三年生に対してで、その後、最低でも二回はやったと記憶する。暗く難解だという理由で、教科書の載っていても、やらない国語教師は多かった。国語教師は現代詩の授業を苦手とする者が実は非常に多い。現代詩好きの国語教師であればあるほど、逆にやらない傾向さえある。感性重視派のそうした現代詩を偏愛する人々ほど、普遍的な解釈や分析を生理的に甚だ嫌うからである)では意識的に「M」が誰であるかを語らなかった。それは本詩篇を生徒が個人的な感傷に還元して処理してしまうことを避けたいと思ったからである。

 この「M」は鮎川信夫の親友で詩人の森川義信である。大正七(一九一八)年十月十一日に香川県三豊郡栗井村本庄で生まれ、香川県立三豊中学時代に「鈴しのぶ」のペン・ネームで文芸投稿誌『若草』(宝文館発行)や西條八十主宰の詩誌『臘人形』(両誌は後に詩誌『詩研究』に統合された)に投稿、早稲田第二高等学院英文科に入学(十四年十二月中退)した昭和一二(一九三七)年に中桐雅夫の編集していた『LUNA』に参加して筆名を「山川章」と改名、中桐・鮎川信夫を知り、昭和十四年には鮎川の主宰した第一次『荒地』に参加したが、昭和一六(一九四一)年四月に丸亀歩兵連隊に入隊、翌昭和一七(一九四二)年八月十三日、ビルマのミートキーナで戦病死した。享年二十五、未だ満二十三歳であった。

 私の古い電子化に森川義信詩集 ちゃ版」(二〇〇五年一月七日公開。底本は昭和五二(一九七七)年国文社刊の鮎川信夫編「森川義信詩集」)があり、青空文庫」現在二十四詩篇公開てい

 鮎川の本詩篇「死んだ男」は、実はそれら、森川の詩篇を読むことで、森川の詩想を確信犯で裏打ちした作品であることが判る。例えば、彼の(引用は私の上記詩集から。但し、今回、森川が敗戦前に亡くなっていることから、現在の私のポリシーに従い、恣意的に漢字を概ね正字化して示した)「衢路」(「くろ」。「岐(わか)れ道」の意)、

   *

 

 衢路

 

友よ覺えてゐるだらうか

靑いネクタイを輕く卷いた船乘りのやうに

さんざめく街をさまよふた夜の事を――

鳩羽色のペンキの香りがかつたね

二人は オレンジの波に搖られたね

お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?

友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ

窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを

昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ

それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが

ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も

友よ お前は知らないだろ?

ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて

今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて

猶太人のやうにほつつき步いてゐる事を

だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて

ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ

そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは

かぐはしい昨日の唄聲ではなかつたのだ

ああ それは――昨日の窓から溢れるものは

踏みにじられた花束の惡臭だつたのだ

やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ

ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま

小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする

いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする

ボードレエルよ ボードレエルよ と

ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが

――又仕方なく昏迷の中を一人步かうとする

 

   *

のシチュエーションや全体のダルな雰囲気(十六行目の「かげ」及び十七行目の太字「はつ」は底本では「丶」点)、或いは、「衢にて」(「ちまたにて」と訓じておく。意味は先の「衢路」に同じい。全体の雰囲気からはより広義の「街路」「街中」でもよいと思う)、

   *

 

 衢にて

 

翳に埋れ

翳に支へられ

その階段はどこへ果ててゐるのか

はかなさに立ちあがり

いくたび踏んでみたことだらう

ものいはず濡れた肩や

失はれたいのちの群をこえ

けんめいに

あふれる時間をたどりたかつた

あてもない步みの

遲速のままに

どぶどろの秩序をすぎ

もはや

美しいままに欺かれ

うつくしいままに奪はれてゐた

しかし最後の

膝に耐え

こみあげる背をふせ

はげしく若さをうちくだいて

未完の忘却のなかから

なほ

何かを信じようとしてゐた

 

   *

の冒頭部、或いは、森川の代表作の一篇である「勾配」、

   *

 

 勾配

 

非望のきはみ

非望のいのち

はげしく一つのものに向つて

誰がこの階段をおりていつたか

時空をこえて屹立する地平をのぞんで

そこに立てば

かきむしるやうに悲風はつんざき

季節はすでに終りであつた

たかだかと欲望の精神に

はたして時は

噴水や花を象眼し

光彩の地平をもちあげたか

淸純なものばかりを打ちくだいて

なにゆえにここまで來たのか

だがきみよ

きびしく勾配に根をささへ

ふとした流れの凹みから雜草のかげから

いくつもの道ははじまつてゐるのだ

 

   *

は、既にして詩篇全体が、本「死んだ男」との激しい親和性を持っていることが判る(「ゆえ」はママ)。

 但し、これはインスパイアなどという、なまっちょろいものでは決して、ない。

 元に戻り給え、本「死んだ男」は既にして詩人鮎川信夫と詩人にして盟友の森川義信のハイブリッドな産物なのであるから――
 
 

2018/09/25

柳田國男 炭燒小五郞が事 八

 

      八

 金屋が神と其舊傳とを奉じて、久しく漂泊して居た種族であるとしても、彼等と宇佐の大神との因緣は、此だけではまだ見出されないのである。又眞野長者を中心とした連環の物語が、其の不文の記錄から出たと云ふことも單に一箇の推測であつて、炭燒の一條が果して最初より是と不可分のものであつたか否かには疑がある。自分はたゞ此ほど奇拔にして且つ複雜な話が此ほどの類似を以て各地に偶發することは無いと信じ、何人かゞ運搬してあるいたとすれば、それは炭燒の業と最も親しかつた者が、古く信仰と共に或地方から持つて出たので、之を豐後とすれば比較的鍔目[やぶちゃん注:「つばめ」。]が合ふように思ふだけである。但しまだまだ解きにくい難題がいくらもある。

 例へば芋掘藤五郞の、イモは鑄物師と見てもよいが、奧州三戸(のへ)郡の是川(これかは)村には、蕪燒笹四郞(かぶやきさゝしらう)と爲つて同じ奇談が、路の行く手のヤチ[やぶちゃん注:「谷地」等と漢字表記し、草などの生えた湿地の意。普通に使用するが、青森の方言としてもある。]の鴨に、花嫁の二分金(ぶきん)を打ち付けることから、後に發見した大判小判を洗ふこと迄、あとは大抵其まゝで傳はつて居る。親の讓りのたつた一枚の畠地から、朝夕蕪ばかりを掘つて來て、燒いて來て食つて居たと云ふ點だけが違つて居る。遠くかけ離れて肥後の菊池の米原(よなばるの)長者、是も名前が薦編(こもあ)みの孫三郞であつたのと、鳥が白鷺であつた點を除けば、長谷の觀世音の夢の告げと云ふことまで、符節を合したる小五郞であつた。黃金發見者の職業は、只何と無く少し替へて見たのかも知らぬが、肝要な點である爲に看過することが出來ぬ。尤も肥後の方では程遠からぬ玉名郡の立願寺(りふぐわんじ)村に、匹石野(ひきしの)長者の舊記があつて、恰も中間の飛石を爲しては居る。此長者は貧しい炭燒別當であつた。花嫁は内裏の姫君、同じく觀世音の御夢想に由つて、女房十二人侍四人を從へて堂々として押掛けたまふ。但し此には水鳥の飛立つことは無く、靑年は只一つの石塊をツチロ[やぶちゃん注:辞書類では見当たらぬ語であるが、恐らくは薦編みの際に用いる糸巻のような中央に窪みのある錘、「ツチノコ」「ツツロ」のことではなかろうか? 「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」の「椎木の薦上の薦編み」のページに木製のそれが使用されていることが確認出来る(写真有り)。また、神野善治氏の「手工用具」PDF)に『俵や菰、背負い袋を編むときに俵編み』(工具名。俵や菰を作製する編み台。リンク先に有り。)『と共に用いる。ツチノコ・ツツロなどという』とある。但し、「只一つの石塊を」用いてとあるところは、或いは、素材である藁や薦を加工し易くするために叩く「藁打ち槌(つち)」ことのようにも当初は思えた。しかも前記の神野氏の解説では、その「藁打槌」のことを鹿児島では「ワラウツゴロ」「ワラウチゴロ」と呼ぶとあるのである。]として、其炭薦を編んで居たとある。そのツチロはどこから持つて來たかと問うと、斯樣なる石塊は此山中に何程もあり、炭燒が家では水石[やぶちゃん注:「すいせき」。ここは泉水を作っている用材石と庭石の意であろう。]踏石まで皆此なりと答へ、乃ちそれが黃金であつたと謂ふ。此長者は早く退轉して、長者屋敷には瓦や礎が殘り、又例の糠(ぬか)の峰、小豆塚等の遺迹の他に、金糞塚と稱して鐵滓[やぶちゃん注:既出。「かなくそ」。]多く出る塚もあつた。鐵の滓が出ただけでは、之を以て黃金發見者の實在を證することが出來ぬ次第であるが、よく似た話は羽前の寶澤(はうざは)村にも有つて、藤太の相續人が建てたと云ふ石寶山藤太寺[やぶちゃん注:山形県山形市上宝沢(かみほうざわ)にある住吉神社(ここ(グーグル・マップ・データ))はブログ「蟻行記」の「住吉神社と炭焼藤太」に、同神社は『神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった』とある。同ブログは記事も必読。]は、是も炭燒男の語として、こんな石が三國の寶であるなら、私が山屋敷では藁打つ石まで、みんなこの石だと謂つたのに基くと傳へて居る。偶然の一致では無かつたやうである。而も炭燒が薦を編んだ、藁を打つたと云ふことも、よく考へてみると仔細があるらしい。卽ち單に炭を包む爲だけに斯んな物を作つたのでは無く、金屋は一般に其製品の輸送に付て[やぶちゃん注:「ついて」]、特に薦を大切にしたかと思ふ。江州長村(をさむら)の鑄物師の神は、豐滿明神(ほうまんみやうじん)と稱へて其音は宇佐の御伯母神[やぶちゃん注:「おほんはくのははのかみ」か(しかし、どう読んでみても、ちっとも音通ではないが)。ウィキの「八幡神」によれば、『アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられて』おり、『宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされて』、『比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある』とある。]に近いが、もと高野(かうや)より移りたまふと傳へて居る。其時此地の米を獻上し、十符(とふ)の菅薦(すがごも)を二つに切つて下された。今に至る迄其由緖を以て、鑄物師は五符の薦を以て包むと云ふ。其意味はまだよく分らぬが、荷造りにも作法のあつたことを謂ふのであらう。江戸深川の釜屋堀[やぶちゃん注:底本は「金屋堀」であるが、調べてみると、地名としては「釜屋堀」が正しい。ちくま文庫版もそうなっているので、ここは本文を訂した。]の鑄物師は、上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた。當日の神事のツク舞の柱に、高く結附けられる徑[やぶちゃん注:「わたり」。]八尺の麻布の球は、必ず鍋釜を包裝する藁の殘りを納めて、其心(しん)につめたと云うふ話がある。此ばかりの材料から推測をするのは大膽であるが、宇佐神宮の以前の御正體(みしやうたい)が、黃金であつたと謂ひ、薦を以て之を包んだと謂ふ神祕なる古傳は、卽ち亦薦編みの孫三郞が、後終に米原長者と耀くべき宿緣を、豫め説明して居たものかとも考へられるのである。

[やぶちゃん注:今回、調べものをするうちに、すわさき氏のサイト内に「炭焼き小五郎/芋掘り藤五郎/運命の結婚/いざり長者」炭焼長者(再婚型)/丁香と海棠」「炭焼長者(父娘葛藤型)轆角荘の由来/薯童伝説/月の中の天丹樹の話」という本「炭焼き長者譚」の世界的でしかも膨大な資料集成を見出した。是非、ご覧あれ。

「上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた」「當日の神事のツク舞」現在、当該の大宮神社の兼務神社の一つに、市原市五井中央西にある上宿・宿大神社(しゅくだいじんじゃ)というのがあるが、「大宮神社公式サイト内の同神社の解説によれば、この神社は万治二(一六五九)年に『現在の鎮座地に移った』もので、『万治二年、五井の宿割りをした際に用いられた縄と、幣束を社殿に納め』、『五井宿の守り神として祭られた。また、塩焼き業に欠かせない竈を守る神として崇敬を集め』、『宿割荒神とも呼ばれる』とあり、現在の『宿大神社の例祭日は、十二月一日で』、『例祭日には、つくめまい(筑摩舞とも)と呼ばれる舞が演じられ、鍋釜市が開催されたと伝えられる(現在の五井大市』(ごいおおいち:三百五十余年の歴史があるという)『の起源)。つくめ舞は、現在行われていないため』、『詳細は不明であるが、文書には以下のように記されている』。『市街の中央に高さ二丈余りの大柱二本を組』み『建て、柱の頂上には麻布にて周囲八尺余経二尺許の球形を』『造り、太き麻縄二本を結び』、『以て階梯とし』、『多人数をしてそれを左右に引かしめ、舞人は獅子の仮面を冠り』、『白衣の装束を着し、頂上に昇りて舞を奉すを以て例とす。世俗に之を五井のツクメ舞と称せり』。『ツクメ舞が盛大に行われていた頃、万治年間より、五井は大きく発展し始めた。万治元年八月一日、深川の釜六・釜七という金物屋が鍋釜市を開いたのが、徐々に盛大に行われ、五井宿の守護神として尊崇を集めていた当社の祭礼と重なり、現在の五井大市へと発展していったと言われている』。『当社は、江戸時代の五井宿の地頭神尾家の崇敬も厚く、神尾家の紋入りの祭器具や調度品の寄進もあったと伝えられている。明治』一七(一八八四)『年の火災により焼失し』、『今に残されていない。その後』同年内に再建され、昭和七(一九三二)年の『修繕を経て』、『今に至っている』とある(ごくこじんまりとした小社である。リンク先に写真有り)。]

 孫三郞も小五郞も、畢竟するに常人下賤の俗稱である。此物語の盛に行はれた時代には、家々にそんな名の下人が多く使はれて居た。それ程の者でも長者になつたと云ふ變轉の面白味もあつたか知らぬが、尚大人彌五郞(おおひとやごらう)などの旁例を考へ合せると、特に八幡神の眷屬として、其名が似つかはしい事情があつたやうに感ずる。併し其點までは今は深入りせぬことにしよう。炭燒男の名としては既に列擧した藤次藤太の外に、尚阿波の糠の丸長者の傳説に伴うて、攝津大阪には炭燒友藏が住んで居た。長者の一人娘は父に死別れて後、家の守護神なる白鼠に教へられ、遙々海を越えて尋ねて來て嫁となる。奇妙に光る石塊を井戸の傍に出て洗つて見て、是が黃金ですかと謂つた若者が、曾てあの大阪に住んで居たと謂ふのは、今更の滑稽である。

[やぶちゃん注:「大人彌五郞」柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎までを参照されたい。そこでも書いたが、鹿児島県曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」というのがある。私は大の祭り嫌いであるが、この岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私は若き日の母が見た「弥五郎どん」の祭りを、死ぬ前に一度、必ず、見たいと思っている。]

 大隅鹿屋(かのや)鄕大窪村の山で、からかねを[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を發見したと云ふ觀音信者の炭燒は、初の名が五郞藏であつた。炭は暖い國に來るほど、段々と不用になる。故にもう是が日本の炭燒長者の、南の端であつても不思議は無いのだが、佐多の島泊(しまどまり)の山に新たなる意外が起らんとしつゝある如く、更に又波濤の千海里を隔てゝ、世にも知られぬ寂寞たる長者が住んで居た。宮古の島の炭燒太良(すみやきだら)は卽ち是であつて、事は本文に既に詳かに述べてあるが、自分が爰に問題として見たい唯一つの點は、冬も單衣ですむやうな常綠の島に在つて、尚且つ炭を燒きつゝ終に長者となることが、信じ得べき物語であつた根本の理由である。

 

柳田國男炭燒小五郞が事 七

 

      七

 例へば江戸周圍の平原の如きは、村が少ない爲か採鑛地が遠い故か、いつ迄も金屋の移動が止まなかつたやうである。尤も鍛冶屋の方だけは國境の山近くに、領主の保護を受けて二戸三戸づゝ、さびしく土着した者が農村の中にまじり、由緖は記憶し技藝は忘れてしまつて、後は普通の耕作者になつて居るが、鑄物師の部落は佐野の天明(てんみやう)武藏の川口等、取續いて土着して居た者は至つて稀であつて、他の大部分の工人等の、地方の需要に應じて居た者は、空しく遺跡のみを殘留して、皆どこへか立ち去つてしまつた。現在武藏相模の中間の樹林地に、カナクソ塚などゝ云ふ名のある小さい塚の、附近から多量の鐵の滓を發掘するものが多いのは、何れも鐵の生産地とは關係無く、他に想像の下しやうも無い彼等の仕事場である。又カネ塚又はカナイ塚と稱して、小さな封土の無數にあるのも、或は之を庚申の祭場に托する人もあるが、他の府縣に在るカネイ場と云ふ地名と共に、是も金を鑄る者の假住の地であつたらしい。彼等は單に在來の塚に據つて、露宿の便宜を求めたのか。仕事の必要から時として自ら之を構へたか。はた又別に信仰上の動機でもあつたものか。之を決定することはまだ六かしいが、兎に角に是が塚の名になつて殘るのには、單に稍長い滯留のみで無く、或期間を隔てゝ繰返し、同じ場處に訪ひ寄ること、富山の藥屋や奧州のテンバ[やぶちゃん注:嘗て山間や水辺を漂泊して川漁や竹細工などを生業とした民「サンカ」「山窩(さんか)」の別称。恐らくはその放浪形態に基づく「転場」である。]のやうな、習性があつたことを想像せしめる。殊に金吹きの勞作には、人の手を多く要した。今のイカケ屋のやうな小ぢんまりとした道具では旅は出來なかつた。猿蓑集[やぶちゃん注:蕉門の最高峰の句集とされる俳諧七部集の一つ「猿蓑」(松尾芭蕉監修/向井去来・野沢凡兆編/宝井其角序/内藤丈草跋)。元禄四(一六九一)年刊。]の附合の中に、

     押合うて寢ては又立つかり枕

     たゝらの雲のまだ赤き空

 とあるのは、おそらくは貞享[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]頃までの、武藏野あたりの普通の光景であつて、或は妻子老幼をも伴のうた物々しいカラバン姿が、相應にい印象を村の人に與へた結果ではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:「猿蓑」の引用は正確な表記では、

 押合て寢ては又立つかりまくら   蕉

  たゝらの雲のまだ赤き空     來

で、謂わずもがなであるが、前句が芭蕉の、付句が去来の作である。

「カラバン」砂漠を隊を組んで行く隊商の意の英語“caravan”(キャラヴァン。ペルシャ語の「旅行者の一団」の意が語源)、ある目的のために隊を組んで各地を回るその様態。]

 タヽラと云ふ地名も亦無數に殘つて居る。此徒は燃料の豐富なる供給を要とした他に、尚水邊に就てその臨時の工場を開設せねばならぬ事情が有つたと見えて、沼地の岸、淵川の上などに、タヽラと呼ばるゝ地があつて、前代の金屋の事業を語り、さうで無くても鐵の澤を掘り出すものが多く、しかも其主はもう行方を知らぬのである。水の神が鐵を怖れると云ふ話、或はそれと反對に、釣鐘其他の金屬の器を、極度に愛惜すると云ふ物語は、踏鞴師(たたらし)のことに重きを置くべき言傳へであるが、今は一般の俗間に弘く分布して居るのも、何ぞの因緣らしく考へられる。炭燒藤太が將に運勢の絶頂に辿り付かんとするとき、必ず水鳥の遊ぶ水の邊を過ぎて、天下の至寶を無益の礫[やぶちゃん注:「つぶて」。]に打たずんば止まなかつたのは、所謂隴畝[やぶちゃん注:「ろうほ」。「壟畝」とも書く。「畝(うね)と畦(あぜ)・田畑」転じて「田舎・民間」。]に生き送つた單純な人々には、寧ろ聊か皮肉に失したる一空想であつた。或は此話が金を好むこと彼等に越えた者の、草枕の宵曉[やぶちゃん注:「よひあかつき」。]に靜かな水の面を眺めつゝ、屢想ひ起し語り傳へた昔の奇談であつたとしても、尚今一段と丁寧なる説明、例へば其鳥は神佛の化する所にして、夫婦を導いて新たなる發見の端緖を得せしめたと云ふ類の、信心の奇特などを附け加へる必要があつたかと思ふが、旅の金屋は亦之を爲すにも適して居たやうである。關東地方に於けるカナイ塚の築造、殊に其保存と尊敬は、或はまだ宗教的の起原を證するに足らぬかも知れぬが、次第に北に進んで下野の山村に入れば、金井神若くは家内(かない)神社などゝ書く神が著しく多くなり、福島宮城山形の三縣に於ては、其數が更に加はつて、その或ものは鍛冶鑄物師の筋を引く家に、由緖を以て祭られ、他の大部分は普通の村に、只の祠(ほこら)となつて祭られて居る。卽ち此徒の第二の業體、若くは少くとも旅行の補助手段が、斯う云ふ特殊の信仰の宣傳であつたことは、これでもう疑が無いのである。中部日本の金屋の神は、今は唯霜月八日の吹革(ふいご)祭に、近所の小兒たちが蜜柑を拾ひに參加するだけであるが、海南屋久島(やくのしま)などに行けば、鍛冶屋神は村中から信ぜられて居た。白齒[やぶちゃん注:「しらは」。嘗て女性は結婚すると鉄漿(かね=お歯黒)をつけたことから、「未婚女性」の意。]のうちに身持ちになる女があれば、此神に賽錢を納めて鐵滓(かなくそ)を申請け來り、此に唐竹(たうちく)[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科トウチク属トウチク Sinobambusa tootsik。]と柳との葉を加へ、煎じてその婦人に飮ましめる。魔性蛇體などの種ならば忽ちに下りてしまひ、人の子であれば何の障[やぶちゃん注:「さはり」。]もないと謂つたさうである。屋久では此神を槖籥神(とうやくしん)、又は金山大明神と呼ぶと謂ふが、他の島々ではどうであらうか。中國地方の鐵産地に於ては、多くの村に金鑄護(かないご)又は金屋子といふ祠あり。金屋既に去つて後も、神のみは留まり、此も學問ある神官に由つて、金山彦命などと屆けられて居るが、人は依然として之をカナイゴサンと稱へるのである。備後の双三郡[やぶちゃん注:「ふたみぐん」。現在の三次(みよし)市の大部分に相当する。]に行はるゝバンコ節は俚謠集にも出て居る。曾てタヽラの作業の折に歌つたものが、遺つて昔を語るのである。

    たゝら打ちたや、此ふろやぶへ

    鹽と御幣で、淨めておいて

    いはひこめたや、かないごじんを

山脈を隔てゝ出雲の大原郡にも、又別種のタヽラ歌がある。

    ヤーむらげ樣がナーよければナー

    炭燒さまもよけれ

    イヤコノ世なるでナ

    その金が金性がよいわ

ムラゲは鎔爐[やぶちゃん注:「ようろ」溶鉱炉。]のことであるらしい。炭燒樣も爰ではもう祭られる神であつた。

[やぶちゃん注:「バンコ節」これは踏鞴(たたら)を踏んで風を起こし続けるのを担当した「番子(ばんこ)」の労働唄と思われる。数日に及ぶ絶え間ない連続作業で、交代で踏鞴番を代わったことから、現在の「かわりばんこ」の語が生まれたとされている。

「俚謠集」文部省文芸委員会編の大正三(一九一四)年国定教科書共同販売所刊。当時の文部省が全国の府県提出を命じて蒐集した俗謡集成(但し、東京・大阪を始めとして十五府県は提出されなかったのでそれを欠き、歌詞に特徴のあるものを採用し、一般的なものと猥褻なものは省き、手毬歌・子守歌等の童謡に類するものは一二の例外を除いて採用しなかった、と緒言にあって、なんとなく面白い)国立国会図書館デジタルコレクションの画像縣」で視認出来る。最後に『是は昔たゝらに唄ひしもの』『(雙三郡)』とある。

「此ふろやぶへ」「このふろやぶへ」であるが、「ふろやぶ」というのが判らぬ。「風呂」は「炉」の意があるが、だとすると「藪」は複数の炉が集合している箇所を指すか。或は「ふろ」は「ふうろ」の短縮形であるから、「風露」で「風と露」、「この風が冷たく、露がおりるこの山間(やまひ)の藪の辺りへ」の意とも採れなくはない。識者の御教授を乞う。

柳田國男 炭燒小五郞が事 六

 

     六

 津輕最上其他の炭燒藤太が、遠く西海の濱から巡歷して來たことは、最初より之を疑ふことを得なかつたが、然らば何人が何樣の意趣に基いて、此話を運搬してあるいたかに就ついては、解答は今以て容易で無い。自分が試に揭げた一箇の推定は、所謂金賣吉次を以て祖師と爲し、理想的人物と仰いで居た一派の團體、卽ち金屬の賣買を渡世とした旅行者の群に、特に歌詞に巧なりと云ふ長處があつて、之に由つて若干生計の便宜を、計つて居たのでは無いかと云うふに在つたが、現存の資料は必ずしも之を助けるのみで無い上に、全體に亙つて世上の忘却が甚だしく、年代の雲霧は頗る我々の回顧を遮るものがある。尚辛抱い後の人の硏究に、委付するの他は無いのであ

 この自分の想像の第一の手掛りは、加賀の芋掘(いもほり)藤五郞の傳説であつた。野田の大乘寺の西田圃にある二子塚(ふたこづか)を、藤五郞夫婦の墓と稱して、寬政九年[やぶちゃん注:一七九七年。]には記念の石塔を建て、近年は又之を市中の伏見寺に移したのみならず、金澤市史には之を富樫(とがしの)次郞忠賴[やぶちゃん注:永延元(九八七)年に加賀国司となり、善政を敷いたとされる人物。]の事だと迄謂つて居る。卽ち津輕と同じやうに、大半はもう歷史化して居るので、最早口碑とも謂はれぬか知れぬが、而もその黃金發見の顚末に至つては、全然豐後の小五郞と異なる所が無いので、之を土地の人かぎりの賞翫に委ねて置くわけには行かぬのである。藤五郞芋を掘つて、細々の煙を立つる賤が伏屋[やぶちゃん注:「しづがふせや」。]に、大和初瀨の長者の娘、觀世音の御示しによると稱して押掛け嫁にやつて來る。長者の名を生玉右近萬信(いくたまうこんまんのぶ)と謂ふのは、或は又滿能では無いだらうか。姫の名は和五[やぶちゃん注:「わご」。]と謂ふとある。和五は和子[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]であつて單にお孃さまも同じことだ。藤五郞は芋を掘る處の土が皆黃金であるのに、それが寶であることをちつとも知らなかつた。或時父の右近が贈つた一包の砂金を以て、田に居る雁に打付けて還つて來た。妻女の注意を受けて始めて山に入り、莫大の黃金を持ち還つて、それを近くの金洗澤で洗つた。金澤の名もこれより起り、兼六公園の泉の水は卽ち其故迹である。遠州濱松の近くにも、藤五郞とは謂はぬが、やはり一人の芋掘長者が居た。奈良の某長者の信心深い娘が、遙々と嫁に來てから一朝にして長者になつた。鴨江寺[やぶちゃん注:「かもえじ」。]の觀世音は芋掘長者の一建立(いつこんりふ)で、附近には尚黃金千杯朱千杯の噂もある。鴨江と謂ふからには、鴨の話も有つたのであらうが、書いたものには遺つて居らぬ。紀州の湯淺に近い小鶴谷(こつるや)の芋掘長者、是は正しく廣川に遊ぶ鷗に、小判を打ち付けて居るところを、多くの人に見られた。何で其樣な勿体ないことをするかと戒められると、うちの芋畑にこんな物なら、鍬で搔寄せる位あると謂つたので、其自慢から芋掘長者の字(あざな)が出來たとは、少し六つかし過ぎた説明である。此家の嫁は京から來た。隅櫓(すみぐら)長者と謂ふのは角倉(すみのくら)の聞き誤りか、信州園原の炭燒吉次も、京の角倉與一の遠祖であると傳へ、やはり炭から富を得た話の筋を引いて居る。但し此婦人の内助の功は傳はらず只大さうな衣裳持ちで、山の屋形で土用干しをすると、淡路の海まで照りかゞやき、魚が捕れぬと云ふ苦情が來たなどゝ、花やかな語り草を殘して居るだけである。

 芋掘りも一人で山中に入り、土に親しむ生活をして居るから、幸運ならば黃金を得たかも知れぬが、自分だけは此イモを鑄物師(いもじ)のイモであらうと考へて居た。卽ち炭を燒く者ともと同じ目的で、必ずしも世に疎く慾を知らぬ爲では無く、寧ろ現實の生活には滿足せぬ連中が、我境涯で夢想し得る最大限の福分、乃至は文字通りの過去黃金時代を、記憶し且つ語らざるを得なかつた結果が、自然に印象深く歌と爲り昔話と變じて、歳月の力に抵抗して來たのでは無いかと思つた。金賣吉次の黃金專門も、既に亦一つの空想であつた。あの頃に假に金賣りと云ふ職業があつたにしても、それは後世の金屋(かなや)と同樣に、タヽラの助けに由つて有利に古金類(ふるかねるゐ)を買集め得る者を除く外、さういふ旅行者は想像することが出來ぬ。吉次の遺迹と云ふ地が京都平泉、奧州路の宿驛附近の他に、最上苅田の山奧の鑛山にも、庄内會津越後などの山村にも、下野の國府の近くにも、下總印旛沼の畔にも、武藏の片田舍にもあれば、京から西の安藝の豐田郡に迄分散して、兩立せざる色々の記念を留めて居ることは、卽ち彼自身が運搬自在なる假想の人物であつた一つの證據で、更に推測を進めて見れば、中古實在の鑄物師に、吉を名乘に用ゐた人の多かつたことゝ、何ぞの關係があるやうにも思はれる。

 金屋の旅行生活は、一方諸國に刀鍛冶の名工が輩出し、鏡や色々の佛具の技藝が著しく進んだ後まで、尚持續して居たやうである。地方の需要に應じて製品の輸送の煩しさを省くの利はあつたが、原料の蒐集が甚だしく不定な爲に、生産を擴張することは六かしかつたので、便宜を得る每に土著を心掛けたらしく、近畿の諸國を始として、中部日本には金屋と稱する小部落が多く、其住民が以前漂泊者であつたことは、彼等が忘れた場合にも尚證據がある。源三位賴政禁中に恠鳥[やぶちゃん注:「けてう」。]を退治した時、仰を蒙つて百八箇の金燈爐(かなとうろ)[やぶちゃん注:底本は「爐」は「鑢」(工具の「やすり」)であるが、誤植と断じて訂した。]を鑄て奉り、功を以て諸役免許の官符を賜はつたと謂ふ類の由緖書は、些少の變化を以て殆ど之を持傳へざる家も無く、何れも只の百姓から轉業したものとは考へられて居らぬ上に、尚鎌倉時代の東寺文書にも、金屋等が此大寺の保護の下に、五畿七道に往反して鍋釜以下、打鐵鋤鍬の類より、更にその序を以て布米などをも賣買し、利潤の一部を寺へ年貢に備進して居たことが、明瞭に見えて居る。甑(こしき)[やぶちゃん注:昔、強飯(こわいい)などを蒸すのに使った器。底に湯気を通す数個の小さい穴を開けた鉢形の素焼きの土器で、湯釜の上に載せて使用した。後の蒸籠(せいろう)に相当する。]が廢れて鍋釜の弘く行はるゝに至つて、彼等の大半は鐵の鑄物師と爲り、鑄懸(いかけ)と稱する一派の小民は、亦其中から次第に分れて、鑄工[やぶちゃん注:底本は「銅工」。ちくま文庫版を採った。]が地方の需要に據つて、諸國の空閑[やぶちゃん注:「くうかん」。空いていること。]に定住の地を求めて後も、依然として遷移の生活を續けて居た。所謂イカケ屋の天秤棒(てんびんぼう)の、無暗に細長く突出して居たことは、卽ち近江美濃等の多くの金屋村の文書に、「兼て又海道鞭打(むちうち)三尺二寸は、馬の吻料(くちれう)たるべし云々」とあるのと、必ずその根原を一にするものであつて、是亦此種の鑄物師の、久しく自由なる旅人であつた一つの證據である。

 鋤鍬其他の打物類も、もとは兼て鑄物師の受扱ふ所であつた。鑄物師も鍛冶も等しく金屋と呼ばれ、金屋神はその共同の守護神であつた。東海道の金谷驛は古くからの地名で、金谷の長者一人娘を水神に取られ、金(かね)を湯にして池に注いだと云ふ口碑なども殘つて居て、卽ち亦一箇の金賣吉次かと思はれるが、後世此地の名産は矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]だけであつた。釘鍛冶庖刀鍛冶などの手輕なる作業は、各自踏鞴(たゝら)を獨立し原料を別にする迄も無く、土地の工人の不自由勝ちな設備を以て、田舍の入用だけを充して居た痕跡は、今日の金物店にも殘つて居る。旅をしてあるけばまだ其以上に、臨時のホド[やぶちゃん注:「火床(ほど)」。鍛冶用の簡単な炉。]も選定せねばならず、又燃料用の炭から燒いてかゝる必要もあつた。斯ういふ生活が遠國偏土に於ては、かなり久しく尚續いて居たのである。

けもの

森川義信は鮎川信夫に、加藤健という詩人の次の詩を示し、
   *
公園の熊の子は寂しい
二匹で相撲をとるのだ
そして
二匹ともころぶのだ
   *     
この詩をはじめて読んだ時、涙が出そうになった。わかるわからないは問題ではない、「どれだけ感じているかだ」と言い、「それは人の眼には見えない」と。(鮎川信夫「失われた街」(一九八二年美成社刊)より要約)
 
   *   *   *
 
東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。(夏目漱石「心」より)
 
   *   *   *
 
 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐるぐる廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。(夏目漱石「心」より)

2018/09/24

醜奴兒 書博山道中壁   辛棄疾

 
 醜奴兒 書博山道中壁   辛棄疾
 
少年不識愁滋味
愛上層樓
愛上層樓
爲賦新詞强説愁
 
而今識盡愁滋味
欲説還休
欲説還休
却道天涼好個秋

  
  醜奴兒(しうぬじ)
 
    博山道中の壁に書(しよ)す   辛棄疾(しんきしつ)
 
 少年は識らず 愁ひの滋味を
 愛(この)みて層樓に上る
 愛みて層樓に上り
 新詞を賦するに强(しひ)て愁ひを説(い)ふ
 
 而今(じこん) 識り盡くす 愁ひの滋味を
 説(い)はむと欲して還(ま)た休(や)む
 説はむと欲して還た休め
 却つて道(い)ふ 天涼しくして好き秋なり と
 
 
   醜奴兒

     博山への道中の壁に書(しる)す   辛棄疾
 
  少年の頃は知らなかった 本当の悲しみの味なんてもんは
  好んで高いところに登ったもんさ
  好きで高いところに登ったもんさ
  そうして 新しい唄を詠もうと わざわざ「哀しみ」を詠じたもんさ
 
  でも もう今は 哀しみはいやになるほど知っちまった
  何か語りたいとも思うけど 止める
  訴えたいと思うけど いや 止める
  そうして 寧ろ 言おう 「天は涼やかで、なんと、いい秋なんだろう」って……

   *
 
・辛棄疾(一一四〇年~一二〇七年)は金・南宋の政治家で詩人。
 

柳田國男 炭燒小五郞が事 五

 

      五

 天皇潛幸の畏れ多い古傳は、かの炭燒藤太の出世譚と同じく、亦弘く東北に向つて分布して居る。富士淺間(せんげん)の御社に於ては、竹取物語の一異説として、かくや姫は聖德太子の御祖母なりと傳ふること、廣益俗説辨に擧げられ[やぶちゃん注:「卷三 神祇」の「富士淺間神(あさまのかみ)は赫夜姫(かくやひめ)を祀ると云(いふ)説、附富士山、孝靈帝御宇に現ずる説」。(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分の画像)の右頁の終りから三行目を見よ。]、有馬皇子が五萬長者の姫を慕ひ、下野に下つて暫く奴僕に身をやつしたまふといふことは、慈元抄[やぶちゃん注:室町時代に書かれた教訓譚。]にこれを錄して居るが、其よりも更に類似の著しいのは、岩代苅田宮(かりたのみや)の口碑である。是は物語と謂ふよりも寧ろ現存の信仰であつた。用明天皇或年此國に幸したまひ、玉世姫を娶りて一人の皇子を儲けたまふ。妃薨じて白き鳥と化したまふ。祠を建てゝ祀り奉り白鳥大明神と謂ふ。水旱疾疫に祈りて必ず驗あり、土人は今も白鳥を尊崇して、敢て之に近づく者も無いとある。後世の學者には此説の正史と一致せざるを感じ、白鳥の靈に由つて日本武尊の御事ならんと論ずる者があつた。社傳も亦漸く之に從はうとして居るが、鄕人古來の傳承は、尚容易に動かすことを得ないやうである。此地方には一帶に、鵠(くゞひ)[やぶちゃん注:白鳥の古名。]を崇敬する白鳥明神の例が多い。柴田郡[やぶちゃん注:底本は「柴田村」。ちくま文庫版で訂した。]では平(たひら)村の大高山神社、之に隣する村田足立(あしたて)二處の白鳥社は、相連繫してよく似た傳説を奉じている。但し緣起は何れも三百年來の京都製であつて、殊に別當寺と神主側と互に相容れざる言立をして居るのは怪しいが、双方の偶然に一致して居る箇條は、却つて最も荒唐信ずべからざる部分、卽ち乳母が稺き[やぶちゃん注:「をさない」。]皇子を川の水に投じたるに忽ち白鳥と化して飛び揚り去りたまふと云ふ點に在る。此の如き一見無用なる悲劇は、固より後人の巧み設くべき物語で無い上に、苅田宮の方にも同じく兒宮(ちごのみか)子捨川(こすてがは)投袋(なげぶくろ)などの舊跡があつて、此と共通なるきれぎれの口碑の今も有るを見れば、何か尚背後に深く隱れたる神祕が有るのであらう。それは又別の折に考へるとして、兎に角に御父を用明天皇、御母の名を玉倚媛(たまよりひめ)とする尊い御子(みこ)が、此地に祭られたまふ神なりと弘く久しく信ぜられて居たことだけは偶然の一致では無かつたらうと思ふ。以前平の隣村、金瀨宿(かながせじゆく)の總兵衞と云ふ者の家には、古風なる一管の笛を藏して居た。其先祖某、或時林に入りて大木を伐り、其空洞の中より之を見出したと傳へ、笛頭には菊の紋が彫つてある。是れ卽ち山路(さんろ)用ゐる所の牧笛なるべしと、土地の人たちは謂つたとあるから、あの物語の爰でも歌はれて居たことは疑が無いのである。

[やぶちゃん注:以上の伝承については、福田晃氏の論文「白鳥・鷹と鍛冶―二荒山縁起の「朝日の里」を尋ねる―」がたいへん参考になる。]

 長者の娘、容顏花のごとくにして、終に内裡[やぶちゃん注:「だいり」。内裏。]に召され、妃嬪[やぶちゃん注:「きひん」。妃と嬪。天子の第二・第三夫人、或いは、天子に仕える女官のこと。]の列に加はつたと云ふ話は、備後の靹津[やぶちゃん注:「とものつ」。]の新庄太郞、常陸の鹿島の鹽賣長者等其例少からず、古くは又實際の歷史であつたかも知れぬが、特に之を用明天皇に係け[やぶちゃん注:「かけ」。]まつるに至つては、乃ち亦豐後の影響なることを感ずるのである。炭燒藤太の舊住地の一つ、陸前の栗原郡に於ては、姉齒(あねは)の松の古事に托して、美女の途[やぶちゃん注:「みち」。]に死したる哀話を傳へて居る。氣仙(けせん)高田の武日(たけひの)長者が姉娘であつたと謂ふ。妹は後に代りて京に上らんとして、姉が墓の松に對して涕泣したと稱して、紙折坂[やぶちゃん注:「しをりざか」。]の地名もある。用明帝の御代の事と謂ひ、側に神通山用明寺があつた。陸中鹿角(かづの)郡小豆澤のダンブリ長老は、蜻蜓[やぶちゃん注:「だんぶり」。蜻蛉(とんぼ)類の古い総称。]に教えられて酒の泉を發見し、之に由つて富を積んだと謂ふ有名な長者である。唯一人ある愛女[やぶちゃん注:「愛娘」同様に「まなむすめ」と訓じておく。]を皇后に召されて、寂寞の餘りに財寶を佛に捧げたと云ふことが、是亦眞野長者の生涯に似通うて居るが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]地に於ては之を繼體天皇の御時と傳へて居る。嶺を隔てゝ二戸(のへ)郡の田山に於ても、田山長者の事蹟は全く是と同じく、是は唯大昔の世の事とばかりで、何れも既に至尊巡狩の傳へは存せず、いよいよ本[やぶちゃん注:「もと」。]の緣は薄れて居るが、尚此物語の獨立して起つたので無いことは、之を推測せしむる餘地があるのである。

 其理由の一つとして算へてよいのは、所謂滿能長者[やぶちゃん注:「まんのうちやうじや」。]の名が、遠く本州の北邊まで知れ渡つて居たことである。蜻蜓長者(だんぶりちやうじや)の例を見てもわかるやうに、大凡長者の名前ほど、變化自在なものは無い筈であるのに、説話中の長老の極度の富貴に住する者は、往々にして其名が滿能であつた。自分が始めて炭燒藤太の話を書いた後、八戸(のへ)の中道等(なかみちひとし)君が同處のイタコから、正月十六日のオシラ神遊びの詞曲を聽いて、手錄した所の一篇にも、やはり「まんのう」長者とあつた。イタコは奧州の村々に於て、桑の木で刻んだ男女の神に仕へ、神託を宣る[やぶちゃん注:「のる」。]を業とする盲目の女性である。世を累ねて曾て文字無く、授受を苟くもせぬ[やぶちゃん注:「いやしくもせぬ」。いい加減には決してしない。]彼らの經典に、尚この名稱を存して居るのは、尋常流行の章句と同一視することが出來ぬのである。但し此曲に説く所は、炭とは何のゆかりも無い養蠶の起原であつた。長者の厩第一の駿馬せんだん栗毛、たゞ一人ある姫君に戀慕して命を失ひ、其靈は姫を誘ひて上天し、後に白黑二種の毛蟲となつて現れたのを、十二人の女房と八人の舍人(とねり)、こかひ母、桑取り王子と爲つて之を養ふと謂ふのが其大要で、之に續いて春駒によく似た文段がある。干寶[やぶちゃん注:底本は「于」であるが、誤植なので訂した。]が搜神記は中央の學者等に取つても、手に入り易い平凡の書では無かつたのに、如何なる徑路を經𢌞つていつの時から、それと同じい話が北奧の地にばかり、斯うして姫見嶽の長者の名と結合しつゝ、巫女の祕曲には編入せらるるに至つたか。誠に過去生活の不可思議は、窺ふに隨つて益々其渺茫を加ふるが如き感がある。

[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、中国の伝説の一つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとする「蚕馬(さんば)」「蚕女」「馬頭娘」伝説と、奥州の「おしらさま」伝承との係わりを言っている(但し、私は「おしらさま」は本邦で独自に平行進化したもののように思われてならない)。その最も古形とされるのが、東晋の文人政治家干宝(?~三三六年)が記した私の偏愛する「捜神記」の巻十四にある話で、私は既に柳田國男 うつぼ舟の話 三の注で原文を電子化してある。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 四

 

 

 溯れば源は尚遙かである。神が人間の少女を訪らひ[やぶちゃん注:「とぶらひ」。]たもふということは、豐後においては嫗嶽(うばだけ)の麓に、花の本の[やぶちゃん注:「はなのもと」。段落末注参照。]神話として夙く之を傳へて居る。神裔は永く世に留まり、卽ち緖形氏(をがたうぢ)の一族と繁衍[やぶちゃん注:「はんえん」。「繁栄」に同じい。]したと謂ふ。緖形はまた大神田(おがた)とも書くものあり、大和の大三輪(おほみわ)の古傳と、本は一つであらうと謂ふ説も、尚其據り所無しとせぬのであるが、更に之を隣國宇佐神宮の信仰に思ひ合せるときは、先づ其脈絡關係の殊に緊切なるものあるを認めざるを得ぬ。八幡は最も託宣を重んじたまふ大神であつた。歷史の錄する所に從へば、其巫女の言[やぶちゃん注:「げん」。]は時代を逐うて進展し、現に朝家に在つては年久しく宗廟の禮を以て之を齋ひ[やぶちゃん注:「いはひ」。]祀られてあるが、當初は單にある尊き御母子の神と信ぜられ、必ずしも記紀に傳ふる所の應神天皇の事蹟とは一致せず、恰も山城の賀茂に於て別雷神(わけいかづちのかみ)とその御母とを祀るが如く、玆にも亦玉依姫は、其姫大神の御名であつた。大隅正八幡宮の如きは、後に宇佐より分れたまふ御社かと思ふのに、其社傳に於ては別に神祕なる童貞受胎の説があつて、頗る高麗百濟の王朝の出自と相類し、直接に日神をもつて御父とすと迄信じられて居た。是れ日本の國家の未だ公けに認めざりし所ではあるが、少なくとも以前の信徒の多數に、此の如く語り傳へる者はあつたのである。眞野の長者が放生會の頭(とう)に選ばれて、門前に榊を樹てられた[やぶちゃん注:「たてられた」。]時、流鏑馬(やぶさめ)の古式を知る者無くして、誰にてもあれ此神事を勤め得たらん者を、一人ある娘の聟に取らうと謂ふと、乃ち山路が進み出でゝ、始めて射藝を試みるといふ一段は、後に百合若大臣(ゆりわかだいじん)の物語にも、取り用ゐられたる花やかな場面で、此曲に聽き入つた豐後人の胸の轟きは想像にも餘りがあるが、其よりも更に驚くべかりしは、愈第三の矢を引きつがへて、第三の的にかゝらんとしたまふ時しも、天地震動して八幡神は神殿を搖ぎ出でたまひ、君の御前に畏まつて、自ら敬を十善の天子に致したまふと云ふ條である。卽ち神よりも尊い御身が、斯んな草苅童の姿を假りて、暫く長者の家に止まりたまふと云ふことが、果して尋常文藝の遊戲として、古人の口の端に上るべきものであつたか否かは、詳しく説明するまでも無いのである。宇佐が古來の傳統に基いて、次々に四所八所の若宮(わかみや)王子神(わうじがみ)を顯し祀り、遠い東方の郡縣に、絶えず活き活きとした信仰を運んで居たことを考へると、其力が山坂を越えつゝ、南鄰の國々へも早くから、斯うして進んで居たことは疑が無い。要するにもと山路が笛の曲なるものは、神が人間界に往來したまふ折の警蹕[やぶちゃん注:「けいひつ」。天皇や貴人の通行などに際し、声を立てて、人々を畏まらせて「先払い」をすること。]の音であつたのを、佛法が干涉して神子を聖德太子と解せしめんとしたゝめに、是を何のつきも無く[やぶちゃん注:何らの曰く所縁もなく。]、用明天皇には托するに至つたのである。

[やぶちゃん注:「花の本の神話」三輪山直系の大蛇の化身伝承「嫗嶽大明神伝説」で、これは「平家物語」巻第八の「緒環」の章でも語られている、緒方惟栄(これよし 生没年不詳:豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し、源範頼の平家追討軍に船を提供し、「葦屋浦の戦い」で平家軍を打ち破った武将)をその神裔とする。個人サイト戦国 戸次年表」の「嫗嶽大明神伝説を参照されたい。]

 此推定を更に確めるものは、姫の名の玉世であつた。宇佐の姫神の御名を玉依姫と傳へた理由は、久しい間の學者の問題であつて、或は之に由つて山に祀つた御神を、海神(わたつみ)の御筋かと解する者さへあつたが、神武天皇の御母君が、同じく玉依と云ふ御名であつたことは、唯多くの例の一つと謂ふばかりで、前にも云ふ如く賀茂でも大和でも、凡そ神と婚して神子をまうけたまふ御母は、皆此名を以て呼ばれたまふのである。玉依は卽ち靈託であつた。人間の少女の最も淸く且つ最もさかしい者を選んで、神が其力を現したまふことは、日本神道の一番大切なる信條であつた。神の御力を最も深く感じた者が、御子を生み奉ることも亦宗教上の自然である。今日の心意を以て之を訝るの餘地は無いのである。眞野長者が愛娘も、玉世であつた故に現人神(あらひとがみ)は乃ち訪ひ寄られた。それが亦八幡の古くからの信仰であつた。

 或は又別の傳へに、姫の名を般若姫と謂ふものがある。周防大畠に般若寺があつて、姫の廟所なりと謂ふ説と關係があらうと思ふが、尚さうしなければならぬ第二の必要は、姫の母長者の妻を亦玉世姫と謂ふ故に、之を避けんとしたものであつて、爰にも此物語の古い變化が認められる。烏帽子の插話に於ては、長者の妻は其夫に向つて、「御身十八自ら十四の秋よりも、長老の院號蒙つて、四方に四萬の藏を立て」と謂ひ、山中に炭を燒いた以前の生活は、もう之を忘れしめられて居るやうであるが、此點は恐らく豐後人の承認し能はざる改訂であつたらう。長者の物語は其性質上、斯うして際限も無く成長し、後には繪卷の如く幾つかに切り放して、纏めて見れば一致せぬ箇條が、現れて來るのを普通とはするが、今若し母と子と二人の玉世の、何れが先づ知られたかを決すべしとすれば、自分は躊躇無く話の發端であり、發生の動畿の不明であり、且つ類型の少ない炭燒の婚姻を以て、神を聟とした玉世の姫の奇緣よりも、一つ前から存在した場面なりと認める。然らば宇佐の玉依姫の故事も、此には適用が無かつたかと謂ふと、それは唯記錄に現れてからの八幡の信仰が、第二の玉世の物語に近かつたと云ふのみで、神を尋ねて神に逢ふと云ふ更に古い炭燒口碑が尚古く存し、時の力で十分に人間化して、斯うして久しく殘つて居たとも、考へられぬことは無いのである。炭燒はなるほど今日の眼から、卑賤な職業とも見えるか知らぬが、昔は其目的が全然別であつた。石よりも硬い金屬を制御して、自在に其形狀を指定する力は、普通の百姓の企て及ばぬ所であつて、第一にはタヽラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知つた者だけが、其技藝には與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]居たので、之を神技と稱し且つ其祖を神とする者が、曾てあつたとしても少しも不思議は無い。扶桑略記の卷三、或は宇佐の託宣集に、この郡厩(うまや)の蜂(みね)菱潟(ひしかた)の池の邊に、鍛冶(かぬち[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『かじ』。])の翁あつて奇瑞を現ず。大神(おほみわ)の比義[やぶちゃん注:「ひぎ」。]なる者、三年の祈請を以て之を顯し奉る。乃ち三歳の小兒の形を現じ、我は是れ譽田(ほんだ)天皇なりとのりたまふとある。若し自分などが推測する如く、比義は最初の巫女の名であつたとしたら、貴き炭燒小五郞が玉世姫の力に由つて顯れたと謂ふのは、極めて之に近い神話から、成長して來た物語と見ることができるのである。

「反古のうらがき」に就いてT氏より貴重な資料情報の提供を受けて注を追記・改稿した

「反古のうらがき」について、いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、膨大にして貴重な資料情報の提供を受け、本未明より、各話で注の追記・改稿を行った。T氏に心から御礼申し上げるものである。

2018/09/23

反古のうらがき 卷之三 火事場のぬす人 ~ 反古のうらがき 卷之三~了

 

   ○火事場のぬす人

[やぶちゃん注:やはり、改行を多用した。]

 淺草川の東なるあたりに住(すみ)ける人、其名は忘れ侍る。

 其人が家は、百年(もゝとせ)に足らず、火の事にあひて燒(やけ)たることはなかりしが、一とせ、冬のはじめより、雨ふることなくて、冬の末迄つゞきたれば、常に賴み切(きつ)たる庭の池水も遠淺になりて、やゝ深きところのみ、水少し斗り殘りにけり。

 かゝる處に、あたり近き所より、火、出で、風につれて、家並に燒來(やけきた)るにぞ、こたびは、とてものがるべきよふもなくぞみへける[やぶちゃん注:「よふ」「みへ」孰れもママ。]。

 されども、其主(そのあるじ)は家をば立(たち)さらで、火の付(つく)處に、水をそゝぎそゝぎする程に、左右(さう)なく燒(やけ)もやらず。

 かくして、しばしさゝへたれども、元より、水の手も思ふに任せず、折節、風さへ吹(ふき)まさりたれば、終(つひ)にさゝへ兼て、おもての座敷は、はや、燒(やけ)にけり。

「せめては、おもやをば助けん。」

と、池に入(いり)ては、水を取り、かけ上りては、打(うち)そゝぐ。

 かくする程に、となりの家は、みな、燒(やけ)たり。うら手の家も、みな、燒たり。此家一つ助けざらんには、火をさけて出(いづ)べき方もなくなりぬ。

 されども火の手は彌(いよいよ)、きほひ[やぶちゃん注:「氣負ひ」。]まさりて、屋根も燒け、屋のうらより吹出(ふきいづ)る火は、目も鼻も、分ちなく、引(ひつ)つゝむよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]になりにたれば、

「今は是迄。」

とて、池の水の、少しのこれる所に入(いり)て、濕薦(しめれるこも[やぶちゃん注:私の勝手な読み。])、引(ひつ)かむりて、火のしづまるをぞ待ける。

『扨も、吾ながら、危きことしてけり。かく一人として火消(ひけし)だにみえざる迄、立(たち)もさらでこらへぬるは、あまりにかたくなにてぞありける。今、おもやの燒(やく)るさま、いかなる火消なりとて、面(つら)をむくべきよふもなし。』

など思ひつゝ、少しへだたりし池の中より見てあるに、もみかへすよふなるほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の中に、人、二人迄、入來(いりきた)る。

 其樣(そのさま)、何の衣(ころも)か着けん、水にうるほしたりと見へて、湯氣の烟り立(たち)のぼること、物をむすがごとく、何をか足にはきけん、火の上を平地の如く、

「ゆるゆる」

と步みて、あちこち、あさり求(もとむ)る樣(さま)、盜人とはしられけり。

『かゝる危き中を物ともせで入來(いりきた)りて、心靜(こころしづか)に物奪ふは、なみなかの盜人にてはあらじ。かゝる肝太き人にしあらずば、など、盜みをばなし得ん。』

と見てけるまに、此家にては奪ふ物も多くあらざりしか、又、隣の家の、火にうづみたる中を、おしひらきて、入(いり)けり。

 すべて、火の内を行く樣(さま)、常の家に入(いり)たるよふにて、目をめはり、いきをつかふに、苦しむ樣(よう)、見へず。

 おりおり求得(もとめえ)たる物は、すべて、鐡器・陶器の類ひなれども、手に持ち、背に負ふ樣(さま)も、あつしとも覺へぬ樣(やう)なりけり。

 しばしありて、家も燒(やけ)おちにければ、主(あるじ)も池より出で、かの盜人が入來(いりきた)りしあたりに行(ゆき)て、其(その)火氣(ひのけ)を試むるに、いかに水にひたりて居(をり)たる肌にても、いまだ、より付(つく)ことのならざる程にてぞありける。

 むかし、もろこしにて、めしつかふわらはが、玉(ぎよく)の杯(さかづき)打(うち)わりしとて、罪をおそれて立(たち)かくれしが、いづち行(ゆき)けん、一間内(ひとまうち)にて、影をかくしぬ。二た日(ひ)斗(ばか)り過(すぎ)て、大床(おほゆか)の下に、紅の紐の下(さが)りてありしを見て、床(ゆか)を打(うち)かへしければ、床の下に、手足もて、はり付(つき)てぞありける。

「二た日が間、ものもたふべで、力もたゆまずありけるは、ゆゝしき大盜にもなるべし。玉の杯、打わりしは輕き罪なれども、生(い)けて置(おく)べきものならず。」

とて、ころしてける、となん。

 かゝれば、

『人にすぐれたることする人が、心直(こころなほ)くならねば、大盜人となり、人にすぐれたること、仕(し)いだすにてぞあらん。』

と、此(この)とき、思ひ當り侍る、と、人に語り侍るとなん。

反古のうらがき 卷之三 はかせのぬす人

 

   ○はかせのぬす人

 

[やぶちゃん注:やはり改行を施した。]

 何がしといふ人、いとけなきより、物よむことを學びて、詩つくり、文作ることさへ、くらからず。

 其性も、もの靜(しづか)に、かたち、けだかくおひ立(たち)ぬれば、

「末々は、ゆゝしきはかせにもなるべし。」

と、人々、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]あへりける。

 此人、家のまづしきにもあらず、ことのたらわぬ[やぶちゃん注:ママ。「足らはぬ」。物に不自由している状態。]にもあらねど、いかなる故にや、人のものを奪ふことをこのみて、いくたびとなく、人にあやしめらるゝことありけるが、それにても、なを[やぶちゃん注:ママ。]やまで、折々に此事、ありけり。

 果(はて)には、人人(ひとびと)、皆、しり侍りて、交りをする人もすくなくなり行(ゆく)にぞ、後には、しらぬ人の家に行(ゆき)て、もの奪ふことをぞなしける。

 いかなる道ありて奪ふやといふに、何方(いづかた)にても、ふみよむ聲の聞ゆる家には、必(かならず)、心覺へ[やぶちゃん注:ママ。]をして、其あたりの人々に其姓名を問ひ置き、其後(そののち)、玄關(おもてむき[やぶちゃん注:底本のルビ。])より、あないをこひて、おとなふなり。

 それも聲をひきく[やぶちゃん注:低く。]して、よくも聞へぬよふ[やぶちゃん注:孰れもママ。]に、一聲(ひとこゑ)二聲にして、こたへもなく、出來る人もなければ、

「そろそろ」

と障子おしひらきて内にいりて、しばし待合(まちあは)せて、人、出(いで)くるさまもなければ、又、座敷に入(いり)て待合(まちあは)す。

 かくしても人の出くるさまなければ、其あたりにある物、何となく奪ひ、出(いづ)るなり。

 もし、人の出來(いでく)ることあれば、

「先程より、あなひを乞ひ侍れども、取次(とりつぐ)人のなければ、きも太くも、これまで入來(いりき)にけり。ゆるし玉へ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、

「扨。其(その)訪ひ來(こ)しゆへは、吾、文(ふみ)よむ事をこのみて、同じ友のほしさに訪(おとな)ひこしたれば、おしへ玉ふことも聞(きか)まほしく、又、これよりも、きこへたきことども、多し。」

など、いひて、かたらふに、もとより、其道にはくらからねば、いつはりともみへず、たゞ、

「文よむ人のくせとして、ものごとにおろそかにして、人の家に入るにも、おとない[やぶちゃん注:ママ。]もなく入來(いりきた)ることなどあるは、常のことよ。」

などいひて、ことすむなり。

 かくある後(のち)は、名をもきこへて、しる人になりて、怪しまれざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にして、又、他(よそ)の家に行(ゆく)なりけり。

[やぶちゃん注:こうなった場合は、相手にそれを信じ込ませて、怪しまれぬようにするのである。計算高く、巧妙である。]

 或る日、さるはかせがり行(ゆき)て見しに、折節、文學(ふみまな)ぶ童子どもがみなさりて、玄關におとなへども、こたへもなし、立入(たちいり)て見しに、人もなし。あたりに、文ばこ、つみかさねたるがありければ、ふたおしあけて、手にあたる文ども、引出(ひきいだ)して、ものにおしつゝみて、直(ただち)に持(もち)て出(いで)けり。

 あるじのはかせは、おくまりたる所にて、ひる飯給(た)ふべて有(あり)けるが、たうべ果(はて)たれば、又、座敷にいでゝ見れば、文箱の蓋、取(とり)ちらして有けるに、怪しくて、

「誰(だれ)ぞ來(き)てけるか。」

ととへども、しるもの、なし。

 おさなきものゝおもてに遊びゐたるにとへば、

「今、しらぬまろう人[やぶちゃん注:ママ。]【客ど。】[やぶちゃん注:「客ど」は「まろう人」の右傍注。]の來(き)玉ひて、何にかあらん、持(もち)て、去り玉ひぬ。」

といふに、文箱の内を見れば、品々の文ども、見へずなりぬ。

「何人なるか。遠くは行(ゆく)まじ。おひかけてみるべし。」

とて、其衣服・かたちをとひしりて、おもての方へおひ行(ゆき)けり。

 其日は、雨のはれたる後(あと)なりければ、ちまたのみちの、どろ、ふかくて、とくも[やぶちゃん注:速やかには。]おひ得で、走りなやみけるが、さる城主が門の前にて、あやしき人をぞ見付ける、と見れば、おさなきものがいふに違(たが)はず、雨のころもの、身だけ[やぶちゃん注:後の表記から「身丈(みたけ)」で、成人男子が直立した際、首の首の中央部の骨の突起(頸椎点)から踵の中央部分までの高さを言う。]なるに、高きあしだをはきて、手に文(ふみ)めける物の、大づゝみにしたるをもてり。

「しばし待ち玉へ。」

と聲かけたれば、高き下駄をば、ぬぎすてゝ、泥の中をひた走りに走るにぞ、

「扨は、まごふ方なし。」

と、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に走りて、やがておひ付(つき)て、

「手にもてる包み、見せ玉へ。」

とて、手をかくるに、少し爭ふよふなりしが、ゆきゝの人の、多く立(たち)よりて見る間(あいだ)に、かきゆひ𢌞(めぐら)したるよふ[やぶちゃん注:「垣結ひ𢌞らしたる樣(やう)。]なれば、

『かなわじ[やぶちゃん注:ママ。]。』

 

とや思ひけん、其儘に、わたしてけり。

 其中は、みな、見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]の文なれば、打(うち)も、くゝり[やぶちゃん注:「括(くく)り」。引っ括る。捕縛する。]もすべかりけれども、餘りに盜人めかぬ人が仕業(しわざ)なれば、

『よふこそあらめ。』[やぶちゃん注:何かわけがあるのであろう。]

とて、まづ、其名をとふに、少し爭ひて、とみにはいわざりけれども[やぶちゃん注:ママ。]、はては、

『何某が家の子。』[やぶちゃん注:「家の子」は家臣。]

と答ふ。

「しからんには、幸ひに其主(あるじ)と相(あひ)しる人、あり。よびて來(き)て、いかにもすべし。」

とて、人して、よびて來てければ、一目見るとひとしく、

「あな、いたまし、家の子にては、あらずかし。其(その)主が第二のわか[やぶちゃん注:「若」。次男の若様。]にて侍るは。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、身をかくして、にげて去りけり[やぶちゃん注:その呼ばれて来た人物が、である。主人の子息であり、その人物はとても引き取って対応出来るような身分の者ではなかったのであろう。]。

「扨は。とらへて、せん、なし。もの取返へしたれば、此儘、はなちやるぞ。」

とて、はかせは、さりてけり。

 さらぬだに、身丈(みだ)けの雨衣着たる人は、手に物持つだに似合(にあは)しからぬが、今は、高足駄は、はるかのみちのべにぬぎ捨(すて)ぬ。

 手にもてる物は幸(さいはひ)に取(とり)かへされたれば、かへりてよけれども、多くの人が追々立(たち)まさりて、

「いかなる人なるや。」

「二腰の刀さして、見ぐるしからぬ人がらなるが。かかる淺ましき樣(さま)は如何に。」

といふもあれば、

「いや、みしりたる人なり。怪しきわざする人と常々きくなるが、果して、人のいふに違(たが)はで、かゝる恥辱をとるなりけり。」

などいふが、みな、其人の耳にいりて、其くるしさ、如何(いかが)なりけん。

 扨も、かくてあるべきにもあらねば、人立(ひとだち)の内(うち)をおし分(わけ)て、泥道、ふみ分(わけ)て去りける、ときゝしが、程もなくて、家の内にとぢこめられけり。

 今は如何になりしや。

[やぶちゃん注:所謂、今も多い、「病的窃盗」「窃盗症」(Kleptomania:クレプトマニア)である。経済的利得を得るなどの目的性が全く認められない(窃盗理由が一般の他者には理解不能である)、窃盗自体の衝動のままに反復的に窃盗行為を実行してしまう衝動制御障害に包括される精神障害の一種である。才能が有意にあること・次男であること・座敷牢処理されたところ等から見ると、父か母、或いは両方の愛情欠損を、本疾患発症の一つの大きな起因の一つと考えることは可能であろう。桃野は描写力が半端ない。イタリアン・ネオリアリズモの映画を見るような感じが実に凄い。]

反古のうらがき 卷之三 河豚魚

 

    ○河豚魚

 

 河豚魚(ふぐ)の毒ありて人を殺すことは、昔しより、人のしれることなるに、今は毒にあたる人もなくなりて、冬の頃なれば、うる人、市(いち)にみちて、あたひも昔のいやしきが如くにてはあらずなりにたり。

[やぶちゃん注:条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。古くからの食用種としてはトラフグ属トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes・トラフグ属マフグ Takifugu porphyreus が知られる。孰れも猛毒で解毒剤のないテトロドトキシン tetrodotoxinTTXC11H17N3O8:ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌由来のアルカロイド)を持つ(卵巣・肝臓は猛毒で皮膚と腸も強毒性を持つ)。]

 こゝに何某といふ人ありける。常に物おし[やぶちゃん注:不詳。何かにつけて出しゃばって、口を挟んでは文句をつけることか。]をして、人のきらふことを好み、益なき腕立(うでだて)[やぶちゃん注:腕力の強さを誇示すること。腕力の強さを頼んで人と争うこと。]をして、人に勝(かつ)事をよろこぶが、其さがにてぞ有ける。酒は、あく迄に、くらひ、大食をこのめども、獨り、河豚の魚(うを)をば、食(くは)ざりけり。此頃(このごろ)の風(ふう)にて「河豚を食ざる人は臆病ものよ」と人の笑ふが口惜しさに、常に食ふさまにして、實(じつ)は其味をだに、しらざりけり。一と年(とせ)、雪のいたく降りつゞきて、寒さ、よのつねならぬに、風さヘつよく吹きて、たへがたきこと、いはん方なかりければ、夜になれば、河豚汁(ふぐじる)にて、酒、打(うち)のみて、寒さをしのぐ人、おゝかりけり[やぶちゃん注:ママ。]。此年は、河豚の魚、いたりて少なく、あたひも常にまして、思ふよふには[やぶちゃん注:ママ。]、食ふによしなくて、コチ[やぶちゃん注:カサゴ目 Scorpaeniformes コチ亜目Platycephaloidei の魚類の総称である(この場合は私はスズキ目Perciformes ネズッポ亜目Callionymoidei の「コチ」呼称群を考慮する必要はないと思う)。特にここではフグに化けさせるわけだから、本邦の典型的な大型種であり、寿司種にする「鯒」、コチ亜目Platycephaloidei のマゴチや近縁種のヨシノゴチ(どちらも Platycephalus sp.(以前は Platycephalus indicus と同一種とされていたが、研究の進展により現在は別種とされる。学名は未認定である)を想定してよかろう。]といへる魚を「河豚もどき」といふにして、食ひけり。何某がしれる人の家にて、貮人三人(ふたりみたり)寄合(よりあひ)て、酒、打飮(うちのみ)つゝ、かの「河豚もどき」をして食ひけるに、折節、何某も入來(いりき)にければ、主(ある)じが思ふは、『常に大酒・大食にこふじ[やぶちゃん注:ママ。「困(こうじ)」。]果(はて)たる人の來てけるは、折惡(をりあし)しとこそいふべけれ。いかにせまし』と思ふに、よにいみじき謀りごとこそ思ひ出(いで)けれ。『かれは常に河豚をば食はずといふことを、ひそかに聞(きき)けり。しらざるを幸(さいはひ)に、コチの魚を「河豚なり」といゝて、あざむきたらば、食ふことあたわで[やぶちゃん注:ママ。]、酒を飮むも、興(きやう)なく、日頃の大醉(だいすい)にも至るまじ』と、客どもにも計り合せて、「今宵は河豚の魚を得たれば、二人三人よりて食ふなり。折よくも來(き)ましたれども、君には常にきらひて食(しよく)し玉はぬよしなれば、氣の毒に侍(はべり)」ときこへければ、何某は例のさがなれば、「いや、さにあらず、常に大(おほい)に好むところに侍る」といふに、「さあらば、幸ひなり」とすゝめけるに、「こは珍らし」といひて、ふたとりのけ、筋[やぶちゃん注:「すぢ」。一切れの意か。]、とり上(あげ)たれども、口にいるべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]も覺へず、『南無』と心に念じて、一口に、一切二切、のみこむよふにして、やがて、みな、食ひ盡しけり。人々、「是はいかに」と、案に相違の思ひをなせども、せん方なく、しばし、ためらひてありけり。酒ふた𢌞(まは)し斗(ばか)りなる頃に、何某が、ふと、思ひ出(いで)たるよふに座を立ちて、「口惜しや、今宵の寒さに、あるじのうじ[やぶちゃん注:敬称の接尾語「氏」か。しかしならば、「うぢ」が正しい。]が思ひ付(つき)のもてなしにて、一醉(いつすい)よひて歸らんと思ひしに、一大事の事、申置(まうしおく)べかりしを、はたと、打忘れて來にければ、今より立歸らではかなはず侍るなり。もしも妨(さまたぐ)ることなくば、またも來りて、かたり侍らん」とて、立(たち)て去りけり。其家は近きあたりなりけるが、やがて小者が走り來りていふよふ、「主人は家に歸ると其まゝに、つよく、腹、いたみ、大熱(だいねつ)、をこりて[やぶちゃん注:ママ。「起(お)こりて」。]、もだへ苦しみ侍るにぞ、醫を迎へてとひしに、『食當(しよくあた)りなるべし』といふに、主人にとへば、『覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なし』といひて、こなたにての、たべ物を語り侍らず。『もし、食合(くひあはせ)もやあしかりけん、とひてこよ』と、醫がいふにまかせて、此旨(このむね)、きこへ侍る」といふにぞ、みなみな、一同におどろきて、「扨は、コチを河豚と思ひて食ひしによりて、食當りとなりたるならん。益なきこと、いゝつるものかな[やぶちゃん注:ママ。]」とて、何某がり、立越(たちこえ)て、其あらまし、說き示しければ、醫も是を聞(きき)て、「扨は。さりけり」とて、藥をあたへければ、俄(にはか)に大吐下(だいとげ[やぶちゃん注:底本のルビ。])して、くるしみは、やみけりとなん。

 又、しる人の語りしは、「近頃、シビ[やぶちゃん注:「鮪」。マグロ。]の魚を鹽漬(しほづけ)にしたるを『すき身』といひて、下人の食ふものなり。遠き國より、もて來ることなれば、いときたなげにみゆるによりて、馬の死したる肉を取(とり)まじへて漬(つけ)おきて江におくる、といふ。或人、是を食ひたるに、折節、客の來りて、「是は馬の肉なり。めし玉ふな」といゝければ、其人、よくよくみて、「扨も、おもわざりけり[やぶちゃん注:ママ。]。馬の肉がかくうまからんとは」とて、いよいよ食ひてやまざりけりとぞ。前の人にくらべば、其剛臆(がうおく)【つよき、よはき。】、いかにぞや。

[やぶちゃん注:「すき身」は「剝(す)き身」で、薄く削(そ)いだ魚肉の切り身や、そうしたものを軽く塩漬けにしたもの及びその乾燥品(干物)を広く指す。専ら、筋肉の「鮪のすき身」のように「骨に付いた魚肉をこそげ落とした片々やその半ペースト状の塊り」の意だとばかりと思っている人も多いが、そればかりではなく、鱈を開いて干したようなものもかく呼ぶ。

「剛臆」古くは「こうおく」とも読んだ。剛勇と臆病。]

反古のうらがき 卷之三 くわを盜みし人の事

 

    ○くわを盜みし人の事

[やぶちゃん注:例によって改行を施し、注を中に入れ込んだ。]

 しる人のかたりしは、高田といへる所の西に諏訪明神の古社ありて、其あたりを「すわ村」[やぶちゃん注:ママ。]となんいゝける[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「高田」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『今の高田馬場駅附近から早稲田にかけての地』とある。(グーグル・マップ・データ)。以下の「諏訪明神の古社」、現在の新宿諏訪神社をポイントして示した。高田馬場駅周辺(馬場がこの辺りにあった)は切絵図を見ても畑地である。

「すわ村」「諏訪村」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、この表記は正しくなく、『諏訪谷村』であるとある。【2018年9月24日追記】経になって、いつも情報や誤認を指摘して下さるT氏よりメールが来たり、この 朝倉氏の「諏訪村」補註には違和感を感ずるとされ、「新編武藏風土記稿」の「卷之十一」の「豊島郡之三」にある以下(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)を見るに、『幕府の行政的には諏訪村』であって、『「土俗私ニ諏訪谷村ト唱フルハ谷々多キ故ナリト云」と記載されてい』るので、ここは『「市中では『諏訪谷村』と呼ぶ」とするのが』註として『親切では?』とあった。私も昨日、ここが引っ掛かって旧の正式地名が諏訪谷村であるとする記載を探してみたものの、見当たらず、旧行政名でも「諏訪」であったから、違和感を持っていた。T氏の調査でもやもやが晴れた。T氏に感謝申し上げるものである。]

 秋のころになれば、おぎ・はぎ、いろいろの草花ある中に、きりぎりす、くつわ蟲などすだきて、鳴く音(ね)おもしろし。

 ある日、

「くさびら、ひらわん。」

とて、此あたりに行けるに、茄子の花、豆の花のある畑の内を、ひたばしりに走る人あり。

[やぶちゃん注:「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)。]

 北より南に走る、十たん斗りおくれて、所のものども、聲々に、

「盜人々々。」

とよばはるにぞ、あなたこなたの畑を作るものども、かけ集り、

「あますまじ。」

とおふ程に、其人は、又、西より東へ走る。行先(ゆくさき)ごとに、人ありて、のがるべきよふも見えずなりければ、二(ふ)たつべ斗りの畑のほりきりを、あなたへ飛越(とびこえ)んとして、

「どう。」

と、おちけり。

[やぶちゃん注:「十たん」「十反」。距離の単位で一反は六間(約十一メートル)であるから、百十メートルほど。

「二たつべ」国立国会図書館版では『二つべ』とある。「つべ」は不詳。「ほりきり」は「堀切」であるからそれを仮に「二坪(ふたつぼ)」の訛りとするなら、一坪は一辺が六尺(一間)の正方形が単位であるから、幅三メートル六十四センチメートル弱か。]

 こし骨をや打けん、しばしおきもやらずある内に、人々、走りよりて、からめてけり。

 やがて、きる物は、はぎとりて、六尺斗りの竹に、左右の手を引のばして、繩もて結(ゆ)ひ付(つけ)、きる物は、帶もてからげて、首にかけ、打倒しては、おき上らせ、仰のけに引倒しては、おき上らせ、しばしありて、

「所のおきて、すみたり。」

とて、おのおの、おのが畑にぞ退(しりぞ)きける。

[やぶちゃん注:後に出るように「所のおきて」(掟)、村の私刑(リンチ)である。]

 けしからぬ事なれば、殘り留(とどま)りし人に問ふに、

「これは、此所(ここ)にて畑作る人のくわ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「鍬(くは)」。]を盜みてさらんとせしが、主(あるじ)に見付られたれば、以後の見せしめに、かくするが、所の法なり。凡(およそ)畑の物を盜むものは、茄子・瓜の差別なく、皆、此法に行ふ。」

とぞ語りける。

[やぶちゃん注:「けしからぬ事」桃野は理由が判らなかったから(彼は恐らくは鍬の窃盗に失敗しており、何も持っていないのである)、村人が寄って集(たか)って、一人の無辜の者に不当に暴行を加えているようにしか見えなかったのである。]

 扨、盜人が樣(さま)を見るに、乞食・非人などの樣にもあらず、いたく打(うち)たゝかれたれば、今は起きも上(あが)らで、臥居(ふしゐ)たり。

「さても、此後(このあと)はいかにするぞ。」

ととへば、

「最早、ことすみたれども、此所を離るゝまでは、人のときゆるすことをゆるさず、所を離れて、恥をさらすよふ[やぶちゃん注:ママ。]にするが法なり。」

といふにぞ、此所にて、繩ときゆるべんも、いかゞなれば、

「そは、さることなりけるか。」

とて、其儘に其所を去りければ、其後、いづち行(ゆき)て助かりしか、しらざりけり。

 一年餘りありて、さる方(かた)に行(ゆく)とて、刀のつばを作る家の前へを過(よぎ)りしが、珍らしきわざなれば、立(たち)よりて見けるに、いろいろの形ちしたるあら鐡(がね)に、好みの繪もよふ[やぶちゃん注:ママ。「繪模樣(ゑもやう)」。]を彫る樣(さま)、おもしろかりけり。

 ふと、其人を見るに、見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]あるよふ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]にて、それとも、思ひ出(いで)ず打過(うちす)ぎける。

 それが心にかゝりて、家にかへりても幾度か、思ひかへし、思ひかへしするに、とかくに覺(おも)ひ出でで、やみけり。

 或日、家にありて、下部(しもべ)におゝせて[やぶちゃん注:ママ。]、山の芋をほらせしに、思ふよふにも、ほり得で、ほりなやみけり。

『これは、くわのよからぬによるならん。』

と思ふに、

『野山の人が用ひてつかふすき[やぶちゃん注:「鋤」。]・くわは、白銀の如く光りかゞやきて、いとほりよげに見ゆるなり。先にみし「つば師」が、いろいろの形(かた)ちに作りたるあら鐡(がね)の鐡(かね)の地のまゝに、錐(きり)にて打(うち)ひらめたるが、よく似たり。』

と思ふにぞ、さても、日頃、思ひかへし、思ひかへしして、思ひ出(いで)ざりし「つば師」の面(おもて)を思ひ出(い)で、

『正しく、諏訪村にて取らへられしくわ盜人は、其人なり。さるにても、何故に盜みはなしつる。』

と思ふに、

『かの細鍬(ほそくは)の鐡(てつ)の、鍔(つば)につくりよげに見ゆるより、盜みとりて鍔につくらんと思ひしなるべし。』

と、思ひあたりてける、となん、語りける。

[やぶちゃん注:「錐」小さな鍔の細かな細工なので「きり」なのであろう。平たく削るための彫刻刀のような形状をした「壺錐」のようなものか(サイト「初心者のためのDIY工具〜大工道具、電動道具、園芸道具の紹介」のこちらを参照されたい)。]

反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事

[やぶちゃん注:本条は既に『柴田宵曲 妖異博物館「狸囃子」』「諸國里人談卷之二 森囃」の注で電子化しており、本「反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異」との強い親和性も既にそこの注で述べておいた。先行する上記二本と差別化するために、改めて改行その他の読みの大幅な追加を行い、注も零から附した。]

 

    ○化物太鼓の事

 「番町の化物(ばけもの)太鼓」といふことありて、予があたりにて、よく聞ゆることなり。

 これは、人々、聞(きき)なれて、別に怪しきことともせぬことなり。

 霞舟翁(かしうわう)がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜、其聲の聞ゆる方(かた)をこゝろざして尋行(たづねゆき)けるに、人のいふに違(たが)はず、こゝかとおもへば、かしこ也(なり)。又、其方(そのはう)に行(ゆき)てきくに、又、こなた也。

 市ケ谷御門内より、三番町通り・麹町・飯田町上(うへ)あたり、一夜の内、尋(たづね)ありきしが、さだかに聞留(ききとむ)る事なくて、夜明(よあけ)近くなりて、おのづからやみぬ。

「果して、化物の所爲(しよゐ)なり。」

とて、人々にかたりて、おそれあへり。

[やぶちゃん注:「番町」現在の番町は東京都千代田区一番町から六番町まであり、その周辺の広域旧地名である。(グーグル・マップ・データ)。江戸城西方に当り、当時は旗本を中心とした武家屋敷地区であった。

「霞舟翁」桃野が属した詩会氷雪社の評者の一人であった友野霞舟。同会に属した木村裕堂は友野霞舟の女婿で、学問所吟味に及第して勤番組頭でもあったから、或いはこの木村とも桃野は親しかったかも知れない。

「市ケ谷御門内」現在の千代田区内の神田川の右岸、「市ヶ谷駅」の南東部。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三番町通り」現在の千代田区三番町附近はここ(グーグル・マップ・データ)だが、切絵図を見ると、現在のここを通る道は「新道二番丁」となっているので、その南東の御厩谷坂のある通り辺りがそこか。

「麹町」現在の東京都千代田区麹町附近。旧番町の南部分。(グーグル・マップ・データ)。

「飯田町上」現在の千代田区九段北の中央附近かと思われる。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 予が中年の頃、番町の武術の師がり行(ゆき)て、其あたりの人々が語りあふをきくに、

「凡(およそ)太鼓・笛の道は、馬場下(ばばした)に越(こえ)たる所なし。稻荷の祭り・鎭守の祭りとう[やぶちゃん注:「等」。]にて、はやしものする人をめして、すり鉦(がね)・太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは、稀なり。まして他處(よそ)の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと、打(うち)いでゝ、其所(そのところ)々々の風(ふう)あり。馬場下の人は、それにことなり、其一(そのひ)とむれはいふに及ばず、他處(よそ)の人なれば、其所々々の風に合(あは)せて打(うつ)こと、一手も、たがひなし。吾輩、かく迄、はやしものに心を入(いれ)て學ぶといへども、かゝる態(わざ)は得がたし。」

といゝけり。予、これをきゝて、

「扨は、おのおの方には、はやしものを好み玉ふにや。されども、稻荷の祭りの頃などこそ打(うち)玉ふらめ、其間(そのあひだ)には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことの、かたきなるべし。」

といゝければ、

「いや、さにあらず、吾輩(わがはい)がはやしは、每夜なり。凡(およそ)番町程、はやしを好む人多きところも稀なり。けふは誰氏(たれうぢ)の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時は、すくなし。」

といへり。

 予、これにて思ひ合(あは)するに、

「かの化物太鼓は、まさに、これなり。たゞし、あたりのきこへ[やぶちゃん注:ママ。]を憚るによりて、土藏・穴藏に入りて、深くとぢこめて、はやすなれば、其あたりにては、かへりて[やぶちゃん注:却って。]聞ヘずして、風につれて遠き方(かた)にて、きこゆるにきわまれり[やぶちゃん注:ママ。]。さればこそ、其はやしの樣(さま)、拍子よく、面白く、はやすなりけり。これを『化物太鼓』といふも、むべなる哉(かな)。」

とて、笑ひあへり。

 先の卷に、物のうめく聲の、遠く聞へしくだりをのせたり。これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みな、ケ樣(かやう)のことのあやまりなりけり。

[やぶちゃん注:「予が中年の頃」鈴木桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれで、嘉永五(一八五二)年に没(病死と推定される)しているから、満で五十二ほどであった。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、江戸時代、自称で「中年」は、四十代前後をそのトバ口と考えてよいか。とすれば、天保一一年(一八四〇)年前後の話となる。

「武術の師がり」武術の師匠のところへ。複数回既出で既注であるが、特異的に再掲する。「がり」は接尾語で、通常は、人を表わす名詞・代名詞に付いて、「~のもとに・~の所へ」を添える。漢字表記では「許(がり)」。以下ではもう注さない。誰もが、高校の古文で習ったはずだからである。

「馬場下」東京都新宿区馬場下町、早稲田大学の山キャンパス辺りとなる。(グーグル・マップ・データ)。

「其一(そのひ)とむれはいふに及ばず」その馬場下町内で集まって、町内の祭りで打つ場合は、言うに及ばず、びしっと合う。

「他處(よそ)の人なれば」やや言葉が足りないように思われる。余所の祭り等に出向いて「他處(よそ)の人」と一緒に打つというシチュエーションであれば。その時は、美事に「其所々々の風に合」は「せて打」って「一手も」違(たが)うことがなく、合わせることが出来る、というのであろう。

「されども、稻荷の祭りの頃などこそ打(うち)玉ふらめ、其間(そのあひだ)には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことの、かたきなるべし」『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。「しかし、秋の稲荷の祭りの頃などならば、練習を含めて、前からお打ちになられるであろうが、終わって、翌年の祭りまでの凡そ一年の間はお打ちになることはないから、失礼乍ら(そのように短い間の練習では)、とてものことに、そうした妙技にまで至らるるは、これ、なかなか難しいことでは御座らるまいか?」。

「さればこそ」日々精進してよりよい演奏をと考え、また、同時に何時も楽しんで練習しているからこそ、「其はやしの樣(さま)、拍子よく、面白く、はやすなりけり」の「さればこそ」であろう。

「むべなる哉(かな)」「宜(むべ)なるかな」。

「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」卷之一 物のうめく聲。私はそこでは大気の逆転層の可能性を持ち出した。ここでもそれが言えると思う。]

反古のうらがき 卷之三 二人のくすし

 

    〇二人のくすし

[やぶちゃん注:如何にも物語風なれば、改行を施し、注を入れ込んだ。]

 たとき御方につかへまつるくすしなんありけり。おひたるとわかきと、二人、むつみ深かりけり。たがひにざえ【才】[やぶちゃん注:「才」は「ざえ」の右傍注。]の世にすぐれたるをほこりて、はては

「智慧くらべして、かけ物せん。」

といひけり。

「扨、いかにせん。」

といふに、

「北の御方にもの奉りて、其御こたへとて、物たびてんとき、よき物得たらんものこそ、智慧まさりたりとは定むべし。」

といへば、

「いみじく計りけり。」

とて、其事には定めける。

 家にかへりて、

「何をか奉らん。」

と案じわづらふに、わかき藥師がおもふに、

「先に、北の御方御なやみありしとき、つきづきの女づかさが、ひそかに、とひし事あり。『琉球芋[やぶちゃん注:薩摩芋のことであろう。]の能毒(のうどく)はいかに。北の御方の御なやみにさわりはあらじ』などいへり。思ふに常にこのみ玉ひてめすにてあらん。これは女のこのむ物なれば、貴きいやしきの隔てはあらじ。さらずともつきづきの女づかさどもは、これをこのむ人もおほかるべし。さあれば、奉り物は、これにしかじ。」

と、琉球芋のよくこへふとりたるをゑらびて、米だわらに入(いれ)て貮つ迄ぞ奉りける。

 取つぎの女づかさにいゝ入るよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、

「北の御方にきこへ上(あげ)んよふは、琉球國より、さつの國に渡りて、いま、吾朝にもてはやす、味よき芋にて侍れば、御藥にかへ玉ひても、くるしからず。御つきづきの女郞にあたへ玉へば、色を白くし、みめをよくし、膚につやをせうず。」

など、口がるにのべければ、みな人、

「にくきゑせくすしがいひてふ哉(かな)。」

[やぶちゃん注:「憎き似非藥師が言ひてふかな」で、「いひてふ」は恐らく「言ひ言ひて」(「繰り返し言って・あれこれ言って」の意)の後半が「といふ」の約「てふ」に変じたものであろう。]

とて、よくも聞果(ききは)てゞ、三人四人(みたりよたり)づゝ立出(たちいで)ては、さしになひ、いとおもげに、もて入(いり)にけり。

「よくもしつるものかな。」

と、吾ながらにたゝへてかへりぬ。

 扨、老たるくすしも、

「何をがな。」

と思ひつゞくるに、これも、同じことをぞ案じいでけり。

「先に北の御方の御くすりめすとき、御忌みものを聞へ上げしに、女づかさがおどろきていふよふは、『餘(よ)の品々はさわりなし、「わりな」は常にめす物なり。穴賢(あなかしこ)、あやまりて、ぐこに、なそなへそ』と、其つかさつかさへふれたるを思へば、常に好みて、「わりな」をめすとこそ覺へ侍る。さあらんには、よふこそあれ。」

[やぶちゃん注:「わりな」割菜。乾燥させた里芋(八頭)や蓮芋などの葉柄。「随喜(ずいき)」「芋茎(いもがら)」(皮を剝いて干したもの)とも称する。戦国時代から保存食として食されてきた伝統的な保存食。水やぬるま湯などで戻し、酢を入れたお湯で茹でてあく抜きをした後、酢の物・和え物・味噌汁・煮物・きんぴらなどに用いられる。

「ぐこ」「供御」。女房詞で「御飯」のこと。「くご」とも。]

とて、唐のいも[やぶちゃん注:「とうのいも」で、ここはサトイモを指すと考えてよかろう。]の莖立(くきだち)て葉をさへひらきたるが、たけ、六尺斗りもあらんと思ふを、瓦の鉢に植(うゑ)て、一もと奉りける。きこへ奉るよふは、

「これは常に『ぐこ』にもそなへ侍る『わりな』の、いけるまゝをとり得て侍れば、餘りに珍らかなるによりて奉り上る也。『ぐこ』に備へ侍るは、きたなげにほしからして侍れば、いくたびかせんじてものにつくるにてさむらへ[やぶちゃん注:ママ。]ば、味ひ、さりはてゝ、ものにも似ず侍る也。これは其まゝにて、見そなわす如く、いみじく淸らに侍れば、葉まれ、莖まれ、そがまゝにせんじてめすとも、おのづからなる味ひありて、殊に人の身にますこと、多く侍るかし。女郞のうへには、更にめでたきことありて、いかなる『うまづめ』【石女】[やぶちゃん注:「石女」は「うまづめ」の右傍注。]なりとも、これをふくせんには、必(かならず)、近きに、はらめること、あるべし。これ、いものこの多きにても、しらるゝ道理にて侍る。」

など、聞へ上げたり。

「さても、にくきくすしどもが計ひや。」

と、女づかさ共がのゝしるをばしらで、

『計(はか)りおゝせぬ。』

とおもいて[やぶちゃん注:ママ。]歸りてけり。

 かゝるくせ者どもが奉り物も、そがまゝに捨置(すておく)べきにあらぬならひにて、聞へ上げしよふも[やぶちゃん注:献上した際の各薬師が述べ上げた能書きも。]、のこりなく取次(とりつぎ)て、みまへにぞ出(いだ)しけり。

 日をへて、

「御こたへの賜物あり。」

とて召すにぞ、うれしくみまへに出(いで)にけり。

 黑漆のからひつ[やぶちゃん注:「唐櫃」。]に、山なす斗り、もの取入(とりいれ)てみまへにすへたり。

 北の御方、御手づから、ゑりとらせ玉ひてたぶ、といふが、ふるきためしなれば、其日も、さるかまへしつるにてぞありける。

「此くせ者どもが、何れか智慧まさりて、案じ出(いだ)しことの、其(その)づに當りたるや。」

といふに、老たる方は、殊に久しく見もし、聞もしたること多ければ、これが勝(かち)たるにて、北の御方は常に「わりな」をすかせ玉ひけるにてぞありける。琉球芋はさまでにすかせもし玉はず。

 みまへにすへ侍る時も、きたなげにみへ[やぶちゃん注:ママ。]侍れば、さまでにめでもし玉はず、ひたすら唐の芋を、

『めづらし。』

とぞ思(おぼ)し玉ひけり。

 よりて、これにこたへ給はんとき、

「よき物とらせん。」

とて、から櫃のうち、ゑり[やぶちゃん注:「選り」。]求め玉ひて、

『これぞ、よきもの。』

とや思しけん、油紙の烟草入(たばこいれ)に、金の箔、おきつめたる[やぶちゃん注:「置き詰めたる」であろう。]を、取出(とりいで)て、たぶ。

 今一人には手に當る物を取りて、たびけり。

 これは和蘭陀(おらんだ)の羅紗(らしや)にて作りたる紙入に、白銀(しろがね)の金物(かなもの)打(うち)たるにてぞありけり。

 みなみな、みまへをしぞきて、いふよふ、

「芋の莖を奉りしは、北の御方の御心にかなひしに疑ひなけれども、餘りに『よき物たばん』とて求め玉へば、元より物のよしあしもしろしめさぬものから、金の光りのめでたく見へしを、『上(うへ)なきよきもの』とおぼし誤りて、たびけるなり。然れば、智慧は、右[やぶちゃん注:対になる一方。ここは我(われ:話者である老薬師)の意。]、勝(まさ)りたるなれども、手に當る物をたびたる方(かた)、かへりて、よきもの得てければ、物は、そこ、勝(まさ)りたり。『奉りし物がかろければ、たまものもかろき』ぞことはり[やぶちゃん注:ママ。]にあたりて侍るなれば、『みな、大ぞらよりさづけ玉ふものぞ』と思ひて、かまへて智慧をば、たのむまじきもの。」

とて、互に笑ひ侍るとなん。

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 三

 

      三

 前代の地方人が傳承に忠實にして、はなはだ創作に拙であつたことは、四箇所の炭燒長者の名が悉く藤太であつたと云ふやうな、些細な點からも窺ふことが出來る。是が心あつての剽窃であつたならば、寧ろ名前ぐらゐは變へたであらう。然るに幾つかの山川を隔てゝ信州園原の伏屋長者(ふせやちやうじや)なども、先祖は金賣吉次で其父は亦炭燒藤次[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『炭燒藤太』。]であつた。阿智川(あちがは)の鶴卷淵は亦例の通り、鶴は飛び立ち小判は沈むという故迹であつて、是も物語の要點はすべて皆、豐後の長者譚の第一節と異なる所が無い。豐後の眞野長者は小五郞であるが、それは炭燒の子に養はれてから後の名で、童名はやはり藤治と呼ばれて居たとある。數多の國所を經𢌞つて、此だけの月日を重ねて後迄、話の興味とはさして關係も無ささうな、名前すらも變化をしなかつたと謂ふのは、恐らくは歌の口拍子の力であらう。

 此序に尚少しばかり、名前の點に付て考へてみたいのは、同じ盆踊りの歌でも筑前朝倉郡に現存するのは、藝州に於て臼杵の小五郞を説くに反して、別に「豐後峰内炭燒又吾」と謂ひ、「又吾さんとも謂はれる人が、こんな寶を知らいですむか」ともうたうて居た。峰内は卽ち三重の内山觀世音の地をさしたものらしく、今も彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]に傳はつて居る長者の記錄では、又吾は小五郞を養育した親の炭燒の名であつて、爰に亦一代の延長を見るのである。大野郡の三重と海部[やぶちゃん注:「あま」。]郡の深田とは、山嶺を隔てゝ若干の距離がある。長者が船著きの便宜の爲に、海に臨んだ眞名原(まなばる)の地に、居館を移したと云ふのは説明であるが、然らば兩處で炭を燒いて居たと云ふ言ひ傳へは成立せぬ。兎に角に蓮城寺と滿月寺と、二箇の佛地の緣起には矛盾があり、之を流布した者の間にも、近世東西本願寺の如き爭奪のあつたことが、稍推測し得られるやうである。其上に更に一つの錯綜は、周防大畠浦の般若寺の方からも加はつて居るらしいが、是はまだ目が屆かず、且つ直接に炭燒の話とは緣が無いから殘して置く。之を要するに豐後の本國に於ては、却つて後代の紛亂があつて、昔の物語の單純なる樣式は、別に四方に散亂した首尾整然たらざる斷片の中から、次第に之を辿り尋ねるの他は無いやうになつたものと考へられる。

 舞の本の「烏帽子折」[やぶちゃん注:「えぼしをり(えぼしおり)」。]の中に、美濃の靑墓(あをばか)の遊女の長[やぶちゃん注:「をさ(おさ)」。]をして語らしめた一挿話、卽ち山路(さんろ)が牛飼ひの一段は、文字の文學として傳はつた最も古い眞野長者であらう。用明夫皇職人鑑[やぶちゃん注:「ようめいてんわうしよくにんかがみ(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」近松門左衛門作の時代物浄瑠璃で全五段。宝永二(一七〇五)年大坂竹本座初演。出語りで出遣い方式及びからくりを用いた舞台機構が、当時、評判となった。]を始めとし、近世の劇部は概ね範を此に採り、現に豐後に行はるゝ長者の一代記の如きも、或は飜つて其説に據つたかと思ふ節があるが、固より必ずしも之を以て、久しい傳承を改めざりしものと信ずるには足らぬのである。長者の愛娘が觀世音の申し兒であつて、容色海内に隱れ無く、天朝百方に之を召したまへども、終に御仰せに從はなかつたと謂ふのは竹取以來の有りふるしたる語り草ながら、之を假り來たつて後に萬乘の大君が、草苅る童に御姿をやつして、慕ひ寄りたもふと云ふ異常なる出來事を、稍實際化しようとした所に文人らしい結構がある。然るに其皇帝を用明天皇とした唯一つの理由は、生れたまふ御子が佛法最初の保護者、聖德太子であつたと謂はんが爲であつたらうに、其點に付ては何の述ぶる所も無い。しかも牛若御曹司の東下(あづまくだ)りの一條に、突如としてこの長物語を傭ひ[やぶちゃん注:「やとひ(やとい)」。]入れたには、何らかの動機があつた筈である。今は章句の蔭に隱れて居る笛の曲に、山路童(さんろわらは)[やぶちゃん注:真野長者伝承に於いて花人(はなひと)親王(後の用明天皇)が真野長者の草刈り童となって名乗ったとされる名。「山路が笛」という成句もあり、恋心を寄せさせる道具とされる。]の神祕なる戀を、想ひ起さしむる節があつたか。或は海道の妓女たちが、眞野長者の榮華の物語を、歌にうたつて居た昔の習慣が、斯うして半ば無意識に殘つて居るのか、はた又金賣吉次三兄弟の父が、かの幸運なる炭燒であつたと云ふことが、將に漸く信ぜられんとする時代に、最後の烏帽子折の詞章は出來たのであらうか。何れにしても此中に保存せらるゝ、山路と玉世姫の世にも珍しい婚姻は、卽ち長者[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「長者」の前に『豐後の』という限定が入る。]の大なる[やぶちゃん注:「おほいなる(おおいなる)」。]物語の一節であつて、而も或時に語部(かたりべの)[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「語部」の前に『中世の』という限定が入る。]の興味から、早既に著しい改作を加へて居たことを知るのである。

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 二

 

      二

 

 炭燒長者の話は、既に新聞にも出したのだから、出來るだけ簡單に、その諸國に共通の點のみを列擧すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を燒いて居たことである。豐後に於ては男の名を小五郞と謂ひ、安藝の賀茂郡の盆踊に於ても、其通りに歌つて居る。卽ち

   筑紫豐後は臼杵の城下

   藁で髮ゆた炭燒小ごろ

なる者である。第二には都から貴族の娘が、兼て信仰する觀世音の御告げによつて、遙々と押掛け嫁にやつて來る。姫の名が若し傳はつて居れば、玉世か玉屋か必ず玉の字が附いて居る。容貌醜くゝして良緣が無かつたからと謂ひ、或は痣[やぶちゃん注:「あざ」。]が有つたのが結婚をしてから無くなつたなどゝ謂ふのは、何れも後の説明かと思はれる。第三には炭燒は花嫁から、小判又は砂金を貰つて、市(いち)へ買物に行く途すがら、水鳥を見つけてそれに黃金を投げ付ける。それが此物語の一つの山である。

   をしは舞ひ立つ小判は沈む

とあつて、鳥は鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」。]であり或は鴨であり鷺鶴[やぶちゃん注:「さぎ」・「つる」。]であることもあつて一定せぬが、兎に角必ず水鳥で、其場所の池又は淵が、故跡と爲つて屢永く遺つて居る。第四の點は卽ち愉快なる發見である。何故に大切な黃金を投げ棄てたかと戒められると、あれが其樣な寶であるのか、

   あんな小石が寶になれば

   わしが炭燒く谷々に

   およそ小笊で山ほど御座る

と謂つて、それを拾つて來てすぐにするすると長者になつてしまふ。

[やぶちゃん注:「炭燒長者の話は、既に新聞にも出した」この新聞掲載の論考はちくま文庫版全集には未収録と思われる。調べて見たところ、『大阪朝日新聞』に掲載されたものと思われ、国立国会図書館のリサーチ・ナビの「新聞集成大正編年史」の大正十年度版上巻(一九八二年十一月「明治大正昭和新聞研究会」発行)の「一月」の目次に『炭焼長者譚⑵柳田国男 二五』とあるのを見出せた。試みに同書の大正九年度版下巻を調べたが、「炭焼長者譚」の記載はない。また、「青空文庫」の歴史学者喜田貞吉(きださだきち)の論文「炭焼長者譚 系図の仮托と民族の改良」(『民族と歴史』(第五巻第二号・大正一〇(一九二一)年二月号初出)の冒頭で、『東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた』とあることから考えると、これは少なくとも、『東京朝日新聞』では大正十年一月に第一回が発表されているものと私は推測する。なお、これは筑摩書房の柳田國男の新全集の第二十五巻に収録されている(二〇〇〇年刊・未見)。]

 右の四つの要點のうち、少なくとも三つ迄を具備した話が、北は津輕の岩木山の麓か

南は大隅半島の、佐多からさして遠く無い鹿屋の大窪村に亘つて、自分の知る限でも既に十幾つかの例を算へ、更に南に進んでは沖繩の諸島、殊には宮古島の一隅に迄、若干の變化を以て、疑も無き類話を留めて居るのである。事小なりと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]看過すべからざる奇事であつて、自分が日本のフォクロア興隆の爲に、何とぞして其由來を究めたいと云ふ誓願を立てたのも、亦のがれ難き因緣であつた。

 炭燒小五郞は莫大の黃金を獲得して後に、其名を眞野長者(まのゝちやうじや)と呼ばれ、或は又萬之長者とも謳われて居る。眞野長者の榮華の物語は、中世民間文學の眞只中であつて、豐後と謂へば忽ちに此長者を想ひ浮べるほど、都鄙を通じてよく知られて居たのであるが、不思議なることには其出世の始を語つた、炭燒婚姻の一條のみは、之を豐後の出來事として、認めざる者が甚だ多い。現に津輕に於ては之を伯爵家の系圖の中に編入し、第四代左衞門尉賴秀、幼名は藤太、元仁元年[やぶちゃん注:一二二四年。]九月生る。六歳の年父秀直、安東勢と津輕野に戰ひて討死す。仍て乳母に扶けられて姉の夫橘次信次(きつじのぶつぐ)[やぶちゃん注:ちくま文庫版ではここを『橘次(きつじ)信高』とし、名前にルビを振らない。ちくま文庫版の方が一般的知見としては正しいが、底本がわざわざルビまで振っているのであるから、ここはそのままとすることとした。私の段落末注参照。]の許に匿れたり。橘次は新城の豪族にして、黃金を採掘して之を賣りて富を致す。藤太を常人とともに使役して敵を欺かんと、戸建澤(とたてざは)の山中に遣りて炭を燒かしむ。故に人呼びて炭燒藤太と謂ふとある。民間に於ては近衞殿の女福姫、もと甚だしい醜婦であつたが、津輕にさすらへ來たりて或川の水に浴し、忽然として美女となり、後炭燒藤太殿に嫁したまふなどゝ謂ふ。鳥に小判を投げたといふことも、有るといふ話である。此等の古傳の少くとも一部分が、外部からの混入であることは、愛鄕心の強い學者たちも之を認めている。津輕と近衞家との關係の其樣に古くは無いこと、或は藤太の母が唐絲御前(からいとごぜん)で、卽ち最明寺時賴の落胤であつたと云ふ説の無稽なことなどは、今や誰も之を爭ふ者が無い。而も自分などが最も明瞭なる輸入の證とする點は、此の如き[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]消極の材料では無くて、炭燒藤太と云ふ名前であり、又橘次と謂ふ金賣のあつたことである。豐後の方では此事は更に説かぬが、東日本へ進むほどづゝ、金賣吉次が突進して、炭燒の藤太と接近せんとする。就中[やぶちゃん注:「なかんづく」。]羽前村山郡の寶澤(はうざは)と、岩代信夫郡の平澤とには、共に炭燒の藤太が住んで居た遺跡があつて、水鳥に向つて小判を打付けたと云ふ池も、双方ともにちやんとあり、而も緣あつて遠國から來た花嫁の忠言に由り、後に無量の黃金を得たときには、何れも此水を以て之を洗つたやうに傳へて居る。吉次吉内吉六三兄弟の金賣は、卽ち藤太の子どもであつて、彼等は單に父の幸運を以て授かつたものを、都へ運んで居たに過ぎぬことも、二處同樣の口碑である上に、記念として今日に殘るものに、福島に在つては鄰村石那坂(いしなざか)の吉次宮あり、山形の吉事の宮は、後に兩所宮と改稱して、鳥海月山の二靈山を奉祀すと謂うふも、尚且つ義經が願を受けて、吉次信高之を再建すと語り傳へるのである。兄弟の金賣が家の跡と稱する地は、勿論京都にもあれば、平泉の衣川の岸にもある。然るに陸前栗原郡の金成村[やぶちゃん注:「かんなりむら」。底本では『金田村』となっているが、ちくま文庫版ではかくなっており、調べたところ、「炭焼藤太夫婦の墓」が現存する宮城県栗原市金成(旧栗原郡金成村。ここ(グーグル・マップ・データ))であることが確認出来たので、訂した。]には長老屋敷と名づけて又一つ彼等の故鄕があり、近世に入つてから殊に色々の珍しい財寶を掘出したと云ふ噂を聞くが、此地に於ても父は炭燒であつたと謂ひ、其炭燒の名は藤太である。淸水(きよみづ)の觀音の御告げを受けて、京から媛に來た姫が徒涉(かちわた)りをしたと云ふ小褄川(こつまかは)、藤太が姉齒(あねは)の市(いち)へ米を買ひに行く路で、雁に小判を投げたと云ふ金沼[やぶちゃん注:「かなぬま」。]などもやはり有るので、理由は知らずずつと古い時分の、互に比較をする折も無い頃から、斯うして話は方々の土に、何れも立派な根をおろして居たのである。

 それを移植若くは接木[やぶちゃん注:「つぎき」。]と見ることは、我々にはどうしても出來ぬ。第一には模倣をせねばならぬ理由も無く、又さうする機會も有りさうに無い。既に他鄕でもてはやされて居ることを知れば、寧ろ語り傳へる張合ひが無くなるべきことは、近頃漸く同種の珍談が、他府縣にも有ることを知つた人々の、驚く顏失望する顏を見てもよくわかる。但し少くとも古い淸水、濠の跡とか無名の塚とか、所謂由[やぶちゃん注:「よし」。]有りげなる處には、其邊を浮遊する昔物語の破片が、いつの間にか來て取附くことは、恰も米を寢させると麹と爲り、木を伐倒しておけば椎蕈[やぶちゃん注:「しひたけ(しいたけ)」。]が成長するのと、ほゞ同じやうな作用である。口から耳へ傳承する文學の、書籍以上に保存が六かしく、何かの原因で保存を業とする者が無くなれば、忽ち散亂して原の形を留めず、只其中の印象き部分のみが、斯うして我々の記憶に殘ることは、今の世中でも普通の現象であつて、之を考へると此種の偶合[やぶちゃん注:「ぐうがふ(ぐうごう)」。偶然の一致。]は必ずしも奇異では無く、單に斯くばかり弘い地域に亙つて、如何なる事情が同じ話の種を、播いてあるいたかを尋ねてみる必要があるのみである。

[やぶちゃん注:「橘次信次」(ちくま版全集「信高」)や「藤太の子ども」の「吉次」等は、既にお判りの通り、例の「金売吉次(かねうりきちじ)」伝承の時系列混乱の別伝と採るべきものである。ウィキの「金売吉次」によれば、『平安時代末期の商人。吉次信高、橘次末春とも称され』、「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに『登場する伝説的人物。奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。それぞれ、「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三条の橘次と云し金商人」、「源平盛衰記」では「五条の橘次末春と云金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」とし、「平治物語」に『よると、義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある。』。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では、『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では、『吉次から話を持ちかけている。吉次は義経と共に奥州へ向かう。下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず、まったくもって不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている。吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない。したがって現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い。また、岩手県宮古市田老地区の乙部には、彼の弟とされる吉内(きつない)の子孫である吉内家(よしうちけ)がある』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲になり』、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。]

2018/09/22

反古のうらがき 卷之三 うなぎ

 

    ○うなぎ

[やぶちゃん注:私が「反古のうらがき」を読み進めて、初めて本気で最後に噴き出して笑ってしまった話である。シークエンスの臨場感と滑稽さを狙って、盛んに改行を施し、掟破りのダッシュも用いた。]

 予が師内山先生は、きわめて心すぐなる人なりけり。

 又、ものごとに極(きはめ)てつたなきこと、おゝかり[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 何某より、いと大きなるうなぎの魚を二つ迄おくりけるを、

「自(みづ)からさきて、蒲燒てふものにしてたふべん。」

とて、桶より、一つ、取いでて、爼(まないた)の上に置き、

「魚(さかな)やがうなぎさくは、手にて撫でさすれば、いとしづかにありて、心易くさかるゝもの。」

とて、少し手をつけたれば、

「ぬらぬら。」

とはひ出(い)で、あたりをはひ𢌞(まは)るにぞ、こたびは、つよくとらへて爼板の上におし付(つけ)、三ツ目ぎり[やぶちゃん注:最も一般的な先端部を持った錐。サイト「初心者のためのDIY工具〜大工道具、電動道具、園芸道具の紹介」のこちらを参照されたい。]もて、のどのあたりをつらぬき、

「扨、爼板にさし通さん。」

とするに、かねて穴を明け置(おき)たるにあらねば、俄(にはか)に通しなやみて、

「誰(たれ)ぞ、こよ。」

とよぶにぞ、今の皡齊(こうさい)先生が、十七、八の頃なりけるが、來りて、魚をつらぬきたるまゝに、きりをもむ程に、やがて、爼板をば、さし通しぬ。

 うなぎは、くるしさのかぎりもがけども、のどのあたり、板につらぬかれたれば、のがるべきよふなく、しきりにうねり𢌞りて、さくべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]も見へず。

 されども、二人がゝりなれば、庖丁にて、骨のあたり、少しきりさきたるに、勝手のちがひたるよふなれば、よくよく見るに、

「こはいかに。」

初め、あまりにあわてたれば、むきをちがへて、さしたり。

「向ふより、さけ。」

といへば、

「こちらよりも、向きちがひて、さきがたし。」

といふにぞ、

「さらば、さしなをさん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、きりをぬきたれば、うなぎは

『こゝぞ。』

とおもひて、ちからの限り、ぬめり出で、かまどの下にはひ入(いり)ぬ。

 薪(まき)ども、取りのけて尋出(たづねいだ)して見てければ、それとも見へぬ程にちりにまみれて、ぬめりもなく、とらへよくぞ、なりにける。

 其まゝにとらへて、きりを、再び、さすべかりしを、

「餘りによごれたり。」

とて、桶の水にて洗ひたれば、こたびは、とらゆることもならぬよふに、はひ𢌞りて、板の間のすきより、椽の下へ落けり。

「いかにせん。」

といふに、

「此板一枚、はなせ。」

とて、こぢはなちたれば、又、ちりにまみれて、とらへよくぞ覺へ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 前のことにこりたれば、其まゝ爼板におし當て、

「早く、きりさせよ、させよ。」

といふに、其間(そのあひだ)に、きりは、いづち行(ゆき)けん、みへず。

 からくして、椽の下より求め出(いだ)したり。

「早くさしね、もはや、自然にぬめり出(い)で、手の内を拔け出(いづ)る。」

といふに、またもあわてゝさしたれば、こたびは、少し、わきの方を、さしたり。

 うなぎは、

『今を限り。』

と尾を卷付(まきつけ)て、力にまかせて、おのが首ぎわの内、少し斗(ばか)りつらぬかれたるを引(ひき)ちぎりて、又も、くるひ出(いで)けり。

 今は、はや、せんすべもなく、

「椽の下に入らざる内に。」

と、先(まづ)桶の内にかひ[やぶちゃん注:「搔(か)き」の転訛。]入(いれ)て、ともに思案にくれけるが、

「おもひ出(いだし)たることこそ、あれ。」

とて、

「鍋蓋をおし板にして、石にて作りたる七輪をおもしに置(おき)て、二つともにおしひしぎて、半ば、死入(しにいり)たる時、さかばや。」

とぞ、かまへたり。

[やぶちゃん注:台詞内の「おもし」は名詞の錘(おもり)としての「重(おも)し」。以下も同じ。]

 二つの大うなぎが力なれば、ものともせず、折々はおしかへすよふにて、さらによはりたる氣色(けしき)なし。

「いまだ、おもし、たらざりけり。」

とて、其上に又、大鉄甁(おほてつびん)に水をあふるゝ斗(ばか)りに入(いれ)たるをおきたれば、是(これ)にて、うごきはやみけり。

 しばしありて、

「もはや、よからん。」

とて、おもしども、取(とり)のけしに、うなぎは、少しもよはりたる色なく、かの孫行者(そんぎやうじや)が兩界山(りやうがいさん)にてやくをのがれたる心地して、又も、くるひ出(いづ)るにぞ、からくして、鍋蓋におしすくめ、七輪をば、元の如くに、おしすへたり。

[やぶちゃん注:「孫行者」かの「西遊記」の孫悟空の別名。

「兩界山」悟空が天界で暴走して手をつけられなくなってしまい、天帝は釈迦如来に助けを求め、釋迦は賭けを仕掛けて、結局、彼の掌から飛び出すことが出来なかった増長慢の悟空を取り押さえ、「五行山」に封印してしまう。この「五行山」の別名が「両界山」である。伝承上では、現実世界と異界との国境の山とされ、ここから先は妖仙が住む別な世界と信じられた山である。

「やくをのがれたる心地」「やく」は「厄」としか読めないが(「役」と採って有名無実の閑職たる官職「斉天大聖」から逃れたとする解釈も考えたがやっぱりおかしい)、これでは比喩した「西遊記」の話(悟空は身動き出来ないように封じられてしまうのであって、大厄(大罰)を受けるのである)とは齟齬するからおかしい。

「扨も、手にあまるうなぎかな。」

と詠(なが)め居(をり)しに、いみじき智惠こそ思ひ出(いで)けり。

 其七輪に、炭、多く入れて火をおこし、かの大鉄甁に入(いれ)たる水を其まゝかけおきて、團扇(うちは)もてあほぐ[やぶちゃん注:ママ。]程に、程もなくて「たぎり湯」とはなりにけり。

 これを鍋蓋のすきより、つぎ入(いれ)たれば、なにかたまるべき、なかば、うでたるよふになりて、二つともに、死入(しにいり)たり。

「今は心安し。」

とて、取出(とりいで)て、さきたれば、庖丁の刀にもさわらで、よく、さけけり。

 扨、くしにさして燒(やき)て食ひければ、

――思ふにも似ず

――まづかりける

となん。

[やぶちゃん注:「内山先生」既注の通り、底本の朝倉治彦氏の注に『内山椿軒の子、通称壺太郎。名』は『明時。天保四』(一八三三)『年八月二十六日歿、法号常徳霊明信士』とある人物。

「皡齊(こうさい)先生」既注の通り、先のに出た「一谷先生」。底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『内山壺太郎の子』である『一谷か。名』は『謙、字』(あざな)は『徳柄』とある。]

反古のうらがき 卷之三 砲術

 

    ○砲術

 余がしれる佐々竹氏[やぶちゃん注:不詳。]は、少年より砲術をよくし玉へり。おしへ子も多く侍りて、人をおしゆる事も他に越(こえ)て、くわし[やぶちゃん注:ママ。]かりけり。予に語り玉ひけるは、「『弓の當るは不思議なり、鐡砲のはづるゝは不思議なり』といふこと、常に人の言(いひ)ならわす[やぶちゃん注:ママ。]ことなり。かく迄當るべき器(き)をもて、おめおめと打(うち)はづすこと、言(いひ)がひなきよふ[やぶちゃん注:ママ。]なれども、人は萬物の靈にて、不思議の術をもなすといへども、又、不思議の病(やまひ)あり。是れ、七情[やぶちゃん注:人の持つ七つの感情。儒家では「喜・怒・哀・懼(く:恐れ)・愛・悪(お:憎むこと)・欲」。仏教では「喜・怒・憂・懼・愛・憎・欲」を挙げる。]の動くにつれ、一たび、『おそろし』と思ひしことは、吾にもあらで[やぶちゃん注:無意識のうちに。]、忘れがたきことあるによりてなり。凡(およそ)此術を學ぶ程の人が、其聲[やぶちゃん注:発砲音。]のおそろしといふにあらず、あやまりて、吾身を害せんと思ふにあらず、都(すべ)ておそろしきことはあらずと思へども、心の底におそろしと思ふこと、いかになりしても、忘られざることありて、其器を取れば、必(かならず)其(その)心、おこりて、術(じゆつ[やぶちゃん注:「すべ」でもよい。冷静適切な射撃術の意。])も消失(きえう)せ、思ふよふに[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]打當(うちあ)つることもならずなり行(ゆく)なりけり。かゝる心のつよくおこりし人には、から筒(づつ)に口藥(くちぐす)り計(ばか)りをこめて[やぶちゃん注:火薬だけの空砲。]打(う)たすに、何のかわり[やぶちゃん注:ママ。]たることもなく、よく打(うつ)也。其時、腰と腹とに手をあて、つよくおさへて、はらをはらする[やぶちゃん注:「張らする」。臍の下のツボである丹田(たんでん)に力と安定の意識を集中することか。]よふに教ゆ。はらもよくはり覺へたるときは、ひそかに玉藥(たまぐすり)をこめて[やぶちゃん注:実弾を装填し。]、其人にしらさぬよふに手に持たしめ、常のよふに打たすに、必ず、的の星に當る。これ、器(き)は當るべき道理なるに、おしえを守ればなり。其次に、又、から筒を打たすに、こたびも『玉ありや』と思ふにぞ、腹の下の方より、ゑもいわれ[やぶちゃん注:ママ。]ざる一筋の惡物(あくもつ)、うねくり上(のぼ)りて、胸中(きようちゆう)に入る。癪(しやく)[やぶちゃん注:腹部や胸部の非常に生ずる強い「さしこみ」、特に腹部を襲う強い突発性の激痛を指す。]の病(やまひ)のさし込(こむ)がごとし。此時、玉ある筒なれば、必ず、打(うち)はづすにぞありける。其次も、又、から筒なれば、四、五度にして、『扨は、皆、から筒なりける』と思ふにぞ、かの惡物の上るも休(や)みて、常の如し。しばしありて、又、玉藥を用ゆるに、腹も常の如く、放てば、星に當る。其次は、惡物、また、上りて、玉ありても當らず、偶(たまたま)當るといへども、ほしにはいらで、上下左右、さまざまと當りをなせば、さだかに打得(うちえ)たりとはいゝ[やぶちゃん注:ママ。]がたし。此事、傍(かたはら)より見たりとて、しらるべきにあらず、又、其人は、もとより、しることなく、唯、腹に手を當(あて)たる人のみ、しることなり。吾も人も、みなみな、かくあるべけれども、久しく學びてい[やぶちゃん注:ママ。]たる人は、此事、甚(はなはだ)しからぬのみにして、絶(たえ)てなきこととは、いひがたし。偶(たまたま)、『百發百中の人、世にこれあり』と、きく。其人、定めて、此事、なきなるべし」と語り玉ひき。予、これをおもふに、かの『おそろし』と思ふ心、火器の故(ゆゑ)のみならず、唯、『打(うち)はづさじ』と思ふ欲心(よくしん)、惡物となりて害をなすなれば、凡(およそ)藝事(げいごと)、何によらず、皆、此事、あるなり。物かくこと、物よむことなどにおそろしきことはあらねど、みな、此惡物に害せられて、其場に臨めば、常の習らひも打忘れ、藝事、常よりおとりて見ゆること、おゝし[やぶちゃん注:ママ。]。七情の發すること、其(その)正しきを得ざる故ぞかし。予が物かくことを學びて年久しけれども、其場に臨めば、手(て)振(ふる)ひて、思ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]にも書き得でやみぬるを、雲樓[やぶちゃん注:既出既注。不詳。因みに、江戸後期の山水画家三宅西浦(みやけせいほ 天明六(一七八六)年~安政四(一八五七)年:本名・三宅高哲(たかてつ))は「看雲楼」の別名を持っていた。彼かどうかは判らぬが、ウィキの「三宅西浦」をリンクさせておく。]が每(つね)にいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けるは、「子が書を學ぶは、無益なり。學び至らざるにはあらず、肝氣(かんき)高ぶりて、學びの如くなること能はざるなれば、是より、學びを休(や)めて、藥(くすり)を服し玉へ」といゝき[やぶちゃん注:ママ。]。此事、思ひ合せて、同じ道理なること、しらるゝなりけり。

[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の冒頭解説によれば、桃野の著作「無何有鄕」の下巻所収の自身の叙述によれば、『幼年より多病、八歳より』母方の親族『多賀谷向陵に従って楷法を学んだが覚えず、同じ頃、父』白藤(はくとう)『に読書を受けたが、これまた』、『勉強嫌いのため、母から』「家嚴(かげん[やぶちゃん注:(通常は自分の)父の異称。]、學問をもつて、家より作つて、名、四方に、しく。爾(なんぢ)讀(よむ)を厭(いと)はば、家を出でて、他に行け。敢へて其の嫌ふ所を(し)いざるなり」『と叱責されてより、勉学に努めるようになったとし、それでも『九歳より寺子屋に行ったが』、諸知識を覚えることが出来ず、『深く恥とした』とある。しかし、そこから刻苦勉励して満三十九歳の天保一〇(一八三九)年に部屋住みから、昌平坂学問所教授方出役となったのだから、独特の知的才能があったのである。にしても、「雲樓」なる人物、「肝氣(かんき)高ぶりて、學びの如くなること能はざるなれば、是より、學びを休(や)めて、藥(くすり)を服し玉へ」とは、「お前は一種の精神病(今でいうなら、癲癇的疾患或いは強迫神経症等)だから、学問するのは止めて、それに効く薬(今で言うなら、抗癲癇剤や精神安定剤のようなもの)を服用して生涯を送られ給え」とはトンデモないひどい謂いだな。

反古のうらがき 卷之三 賊をとらへし話

 

    ○賊をとらへし話

 いづれの國主にかつかへたる人の、いまはつかへをやめて、余が叔父醉雪翁[やぶちゃん注:複数回既出既注。「魂東天に歸る」参照。]がり來りて、常に物語りする人ありけり。其名はわすれ侍る。

 此人、弓手(ゆんで)[やぶちゃん注:左手。]の指より手の甲へかけて、いくつとなく舊(ふる)きずの痕あり、常に問ひたくおもひけるが、其人、事の次手(ついで)に語りけるは、若かりし頃、「袖がらみ」といふ物を使ふことを學びて、いかなる打物(うちもの)を持(もつ)たる人にても、からみ伏せることを心懸けけるが、或時、「時𢌞(じまは)り」といふを命ぜられて、得物なれば袖がらみを持(もち)て、屋敷の隈々殘りなく𢌞りけり。夜の九つ[やぶちゃん注:午前零時。]を𢌞る時、長屋より遙に隔りたる所に、いろいろのぬりこめの藏[やぶちゃん注:「塗籠(ぬりごめ)の藏(くら)」。入口以外を防火用・盗難防止用に厚い壁で堅牢に塗り固めた蔵。]あり。そが中に幕[やぶちゃん注:幔幕。]ども、多く入(いれ)たる藏ありしが、殊に奧まりたる所なり。其あたりを𢌞る時、ふと見れば、藏の、半ば開(ひ)らきてあり。挑燈のともし火もて、てらし見るに、内に、人ありけり。『盜人よ』と思ふにぞ、おし開(ひ)らきて、つと、入(いり)たり。『見付られけり』と思ひて、刀、引拔(ひきぬき)て、飛出(とびいで)るを、袖をからみて、はたらかせず、逐に左右の手を一つにからみ、刀を持(もつ)たるまゝに、胸のあたりにからみ付(つけ)、力を入(いれ)て突(つく)程に、仰のけに突倒し、長持の有(あり)ける上に突付(つつぷし)たり。賊は足もて、蹴(け)んとするに、及ばず、刀もて、切らんとするに、からみ付(つけ)られたれば、是も叶はず、胸のあたり、つよく突付られたれば、今は、はたらくこと、能はで、しばし息を休めて、透間(すきま)を伺ひけり。こなたは、日頃の手鍊(てれん)にて、一旦は突伏(つきふせ)たれども、『少しにても力のゆるみたらんには、はねかへされん』と思ふにぞ、金剛力を出して推付居(おしつけを)るに、跡よりつゞかん人もなく、挑灯の火さへ滅(き)へ失(うせ)ぬ。『又も夜𢌞りの來らんは、半時がわり[やぶちゃん注:ママ。]なれば、はるかのことなり。聲を上(あげ)たりとて、藏の内なれば、何方(いづかた)へか聞へん。さりとて、今さらに手を放ちて刀を拔(ぬか)ん間(あひだ)には、一打(ひとうち)に切らるべ。如何にせん』と思ふものから、こうじて果(はて)てぞ見えける[やぶちゃん注:我乍ら、成すすべなく、すっかり困り果ててしまった感じになってしまった。]。さる程に、賊も今はのがるべき術(すべ)もなく、刀持(もつ)たる手の首斗(ばかり)りはたらくにまかせて、こなたの袖がらみ持(もつ)たる先手(さきて)[やぶちゃん注:生身の手先。]のあたりをかひ拂ふ。『こは、かなわじ[やぶちゃん注:ママ。「敵(かな)はじ」。]』と思ひて、手を遠くなしてこれをさくる[やぶちゃん注:「避くる」。]に、又、刀のつかの先を持ち、かひ拂ふ[やぶちゃん注:「搔き拂ふ」の謂いであろう。]。其度每(そのたびごと)に、手の甲・指の先、少しづつ[やぶちゃん注:底本も国立国会図書館版も『つづ』であるが、特異的に訂した。]の疵を受たれども、賊が刀を振るも、手の首斗りの力なれば、よくもはたらかず、いく度となく切拂ふに、彌(いよいよ)手元近く覺えて、最早、袖がらみの柄、纔(わづか)に二尺斗(ばかり)を持(もつ)てこらへぬれば、力は彌(いよいよ)つかれて、こらへ果(はつ)べくも見えずなりぬ。かくて、夜はいよいよ靜(しづか)になるに、『もはや半時斗りも經ぬらん』と思へば、さにはあらで、遲九つの鐘のつきもはてぬ鐘の音など耳に聞へて、眞くらなる藏の内に、二人、ともに、『氣根(きこん)[やぶちゃん注:根気。気力。]の限り』と、おしあひてぞ、ありける。しばしありて、はるかに人の聲の聞へて、こなたへ來るにぞ、『あな、うれし』とおもひて、聲を放ちて呼(よび)けるに、相士(あひし)の者が二人迄、來にける也。「いかにありける。餘りに歸りの遲きが心元(こころもと)なくて、いひ合せて來にける」といゝて、藏の内に入れば、賊は、初めより、長持の上に仰のけにおし倒されて、腰をかけたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]に壁の隅によりかゝりたれば、刀を用ゆること、能はず、おめおめと、とらへられけり。扨、手先の疵を見れば、幾處(いくところ)となく切付(きりつけ)たれども、みな少しばかりなれば、さわりなし。みなみな、「よくしつる哉(かな)」とて、たゝヘけり。此事、國主、聞(きき)玉ひて、大(おほい)によろごひ[やぶちゃん注:ママ。]玉ひ、もの、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]たびけり。今より、二十年斗り前のこと、とて語りける。

[やぶちゃん注:「袖がらみ」「袖搦・袖絡(そでがらみ)」或いは「もじり」とも呼んだ、一般には長柄の先に特殊な金属器が装着された捕り物道具。ウィキの「袖搦によれば、『袖搦は、先端にかえしのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。容疑者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取る事で相手の行動を封じる。鞘の刺は相手に』摑『まれて奪われない様にするための工夫である。棍棒や槍としても使用可能である』。『刺又』(さすまた)・『突棒などとともに捕り物の三つ道具とよばれ、抵抗する人を取り押さえる際に使用された武具である。どれも』七尺(二・一メートル)の『長さがあり、相手が振るう打刀、長脇差の有効範囲外から攻撃が可能である』とある。(ウィキの挿図)。但し、以下の賊を押さえつけたシークエンスを見るに、この主人公の持っていた「袖搦み」は、使い勝手のいいように、この柄の部分をやや短く加工したものではないかと私には思われる。

「打物」武器。

「時𢌞り」「じまはり(じまわり)」と読んでおいたが、所謂、「地𢌞(ぢまは)り」(隠語を含め、 (「Weblio辞書」の縦覧検索結果)を参照)の意味ではなく、夜間の定「時」巡「廻」(じゅんかい)の意である。

「得物なれば」やや言い方が雑。賊等に対抗するための武具を持ってのこと(巡回)に当たることになっているので。

「今より、二十年斗り前のこと、とて語りける」この話の冒頭は「余が叔父醉雪翁がり來りて、常に物語りする人」の話としており、桃野叔父醉雪は天保一〇(一八三九)年三月に亡くなっているのであるから、それよりも前(因みに桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれ)の「二十年斗り前」となるから、文政二(一八一九)年以前の話ということになる。]

反古のうらがき 卷之三 きつね (二篇目)

 

   ○きつね

 近き代の事なりけん、河内の國也(なり)。ある時、御代官の巡見在(あり)とて、村々より人賦(にんぷ)を出し、村繼(むらつぎ)に繼立(つぎたて)ける。凡(およそ)拾八村をぞ巡りける。最後の村にて、夜のしらめる頃、ふと心付(こころづき)て見れば、御代官と思ひしは、古き山駕籠の内に壹人(ひとり)のいざりのおしなるを入(いれ)たる也。銘々(めいめい)持(もち)しものを見れば、長柄(ながえ)は古き竹帚(たけぼうき)となり、合羽籠(かつぱかご)[やぶちゃん注:大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。]は番ども樽となり、どれも異形のもの成りしかば、「扨は狐狸にやたぶらかされしぞ」とて、繼立(つぎたて)し村々を聞合(ききあは)せしに、いづれも、「人賦をばいたしけるが、夜のほどにて心付かず、誠の巡見とのみ心得し」とぞ。「夜明ぬれば、狐の離れし故、心付けるにぞ、猶、夜の明(あけ)ざらましかばと、幾ケの村々をも化しけん。かく橫行(わうぎやう)に化したるは世に珍らしき事にて、おそろしきもの也」とて、上方より下りて、天文方(てんもんかた)を勤めし足立左内といひし人、語りける。

[やぶちゃん注:「近き代」本項最後のクレジットは嘉永三(一八五〇)年。しかしそれから最低でも五年を引いた弘化二(一八四五)年よりも前となる(後注参照)。

「人賦」夫役(ぶやく)。百姓が負担する雑税である「小物成(こものなり)」の一つで、労役を課せられる人足役(にんそくやく)。

「村繼(むらつぎ)」幕府や領主の御触(おふれ)などを村から村へと引継いで順達させること。

「いざり」「躄」。下肢の不自由な歩行困難者。

「おし」「啞」。

「合羽籠(かつぱかご)」大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。

「番ども樽」不詳。識者の御教授を乞う。

「橫行(わうぎやう)」読みは「わうかう(おうこう)」でもよい。自由気儘に歩きまわること、或いは、恣(ほしいまま)に振る舞って悪事が盛んに行われること。

「天文方」幕府によって設置された天体運行及び暦の研究機関。主に編暦を担当した。詳しくはウィキの「天文方」を参照されたい。

「足立左内」江戸後期の幕臣で天文学者足立信頭(あだちのぶあきら/しんとう 明和六(一七六九)年~弘化二(一八四五)年)の通称。で生家の姓は北谷。ウィキの「足立信頭」によれば、大阪生まれで、『大坂鉄砲方足立正長の養子となる。暦学を麻田剛立に学ぶ』寛政八(一七九六)年に『幕府天文方、高橋至時の下役となった』文化一〇(一八一三)年に『松前藩に出張し、馬場貞由らとゴローニン事件で幽閉されていたヴァーシリー・ゴローニンからロシア語を学び、文政年間には通詞を務めた』。天保六(一八三五)年に『天文方を拝命する。渋川景佑らとともに』、天保一五(一八四四)年の『改暦に功績があった』。とある。鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)より三十一も年上である。最後のクレジット(嘉永三(一八五〇)年)から考えると、五年以上前に彼から桃野が直に聞き取った話ということになり、そこから「近き代」(近い過去)とするのが正しいと考える。

 以下は底本では全体が二字下げ。桃野自身の附記。]

 此ふたくだりは、吾師一谷(いつこく)先生(うし[やぶちゃん注:底本のルビ。「氏」のつもりか。但し、その場合は「うぢ」が正しい。])の聞傳(ききづた)へ玉へることを、みづからかひ付置(つきおき)[やぶちゃん注:「書き付けおき」。]玉ひて、余が「反古のうら書」の内へ入れてよ、とて、おくり玉へるなり。今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ。此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける。嘉永三年暮春

[やぶちゃん注:「此ふたくだり」以上の二条。ね」と、錯簡の問題(注で後述)はあるが、この「きつね」を指すと考えてよいであろう。実は、国立国会図書館版ではこの二つの条には底本のような(「きつね」)の標題が附されていないことから見ても、そう考えてよいのである。

「一谷先生」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『内山壺太郎の子』である『一谷か。名』は『謙、字』(あざな)は『徳柄。「うなぎ」』(この後三つ目)『の項の皡斉先生』とある。「今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ」とあり、最後のクレジットが「嘉永三」(一八五〇)「年暮春」であるから、この「一谷先生」は嘉永二年晩春前後に没していることになろうか。なお、「うなぎ」の項の冒頭で桃野は「予が師内山先生」と起筆しており、補註には『内山椿軒の子、通称壺太郎。名』は『明時。天保四』(一八三三)『年八月二十六日歿、法号常徳霊明信士』とあるから、桃野は内山壺太郎及びその子である一谷の父子二代に亙って弟子であったということなる。

「此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける」不審。或いは、先の「幽靈のはなし」の末尾に唐突に中に挟まった附記やそこに書かれた「すでに五つ卷をなせり」という謂いから見て、現行の「反古のうらがき」は原本の総てではなく、原「反古のうらがき」は実は六巻以上、存在し、しかもその幾つかが散佚・断片化してしまい、それを不用意に繋げた結果、錯簡が生じているのではないかと考える。そう措定してこそ、これらの奇妙な表現や附記配置の不思議が解明されるからであり、全四巻の分量のバランスの不均衡もそれで腑に落ちるからである。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴したが、そこで紹介された、国立国会図書館デジタルコレクションの森潤三郎氏の「鈴木桃野とその親戚及び師友(上)」(大正一四(一九二五)年刊)には「十、成虁の事蹟とその著書」の一章が存在し、(ここから)そこには、

   *

 予は本年二月永井荷風氏より書簡を以て、同氏も鈴木成恭の事蹟を知らんと欲し、光照寺[やぶちゃん注:鈴木家の菩提寺。神楽坂藁店上。但し、現在は孫の鈴木成虎の墓だけしかない。「新宿法人会」公式サイト内のこちらの記事に拠る。なお、それによれば、白藤は『書物奉行を十年間勤め』たが、『江戸城内の紅葉山文庫を管理する仕事の中で密かに多くの秘蔵の書物を筆写、友人達にも与えたことが露顕して文政四(一八二一)年に免職になった』ともある。]を訪問せられ、住職が桃野の「反古の裏書」の稿本を保管せることを聞き、予に通知せられたるを以て、一日同寺を詣でゝ之を見ることを得たり。稿本は半紙版にして七冊に分たれ、箱の表に

   桃野先生遺稿

     反古廼裏書

浄書幷に原稿【浄本四冊、稿本七冊】

とあるも、淨書本は今傳はらず。第一册に口繪四枚あり、第二册の綴目の邊に「嘉永元戌戊申九月望後一日書」第五册の同所に「嘉永三年庚戌雛祭る頃日永く月淸らかなる日北に向へる窓の下に筆を執る」、[やぶちゃん注:中略。ここには本底本の巻末にある「詩瀑山人の漢文の最終詩が載る。で見られたい。]

とあり。用紙はその名に背かず、すべて反古を裏返へしとして認めらる。學、庸、論、孟、易、書、詩禮[やぶちゃん注:間に読点なし。改行部なので印刷時に省略された者と思う。]と橫に印刷し、「湯淺猪之助十七」等の文字あるを見れば、昌平黌學問所若しくは自宅にて諸生に講義の出席簿ならん歟。[やぶちゃん注:下略。続きはで見られたい。]

   *

とある。T氏は、現行の四『巻本は、浄本四冊の系統のようで』、『稿本七冊から浄本四冊へどのように編集されたかは不明』であると述べておられる。

反古のうらがき 卷之三 きつね

 

    ○きつね

[やぶちゃん注:読み易さを狙って改行を施し、注も中に入れ込んだ。]

 むかし【文政の初年[やぶちゃん注:一八一八年。]。】、ある人【小普請手代何某[やぶちゃん注:「小普請」組は禄高三千石未満の旗本・御家人の内で非役の者の称。「手代」は小普請組の雑務を担当した下役人。]。】、王子の金輪寺(きんりんじ)[やぶちゃん注:現在の東京都北区岸町(きしまち)にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。近隣の王子権現(現在の王子神社)及び王子稲荷神社の別当寺で、徳川将軍家の御膳所(おぜんしょ:鷹狩りの際の休息や食事をする場所)であったが、明治の廃仏毀釈で廃絶、現在ある金輪寺は明治三六(一九〇三)年に嘗ての同寺の支坊の一つであった藤本坊が「金輪寺」の名を継いで再興したものである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に御用の事ありて行(ゆき)し歸るさに[やぶちゃん注:行って仕事を終えた、その帰る折りに。]、飛鳥山[やぶちゃん注:王子稲荷神社の南東直近にある、現在の飛鳥山公園(グーグル・マップ・データ)。享保年間に行楽地として整備された桜の名所。]の麓へかゝりけるに、ふと、琴・三味線などの聲の耳に入(いり)しかば、

「どこなるや。」

といぶかり、遠近(をちこち)尋ぬるに、とある出格子ある家の、いと淸々(せいせい)なる内になん、ありける。

 はや、誰(たそ)かれ時の頃なりしかば、

「人もあやしめじ[やぶちゃん注:ママ。人気もなく、暗いから、誰かが怪しむことはあるまい。]。」

とて、格子のすきまより見いれしに、いとあてやかなる女ども、三人四人(みたりよたり)、いづれもおもひおもひに琴・三味線・胡弓・笛などかまへ、打解(うちとけ)たる樣(さま)にて、外(ほか)に、あるじめきたる男なども見えず、客らしき人もなし。

『女なだちなどの、つれづれなるまゝにつどひ、興ずるならめ。』

など思ひて、かひまみし程に、やがてそばなる木くゞりの明(あき)たる音のしければ、

『あなや。』

と思ひしに、ひとりの女子いでゝいふ樣、

「君には鳴(なり)ものゝおと、好み給ふや。今宵はつれづれなるまゝに、友達、打(うち)つどひて興ずるにぞ、外に心置(こころおき)給ふ人もなければ、いざ、此方(こなた)へ入給ひてよ。」

とて、切(せち)にすゝめければ、初(はじめ)のほどはいなみしが、また、窓の内よりも、ひとりの女子(をなご)、顏さしだして、

「とく、とく。」

といひければ、もとより好みし道なれば、

「さらば、椽の片はし、しばし、かし給(たまは)れ。」

とて、入りしに、ありあふ酒肴とりでゝなにくれともてなしするまゝに、三人(みたり)の女子は隣りわたりのものにや、

「つい、行(ゆき)てくるまゝ、かならず待(まち)給へ。」

とて、いにけり。

 殘りし女、いと打とけたる樣(さま)にて、ふすまよふ[やぶちゃん注:ママ。]のもの、とふでて[やぶちゃん注:不詳。「給(たう)び出(い)でて」「給び出(いだ)して」か? 衾(ふすま:夜具)を持ち出して下さっての意か?]、

「頓(やが)て歸り侍らん。しばしがほど、やすらへ給へ。わらはも、ねむたくなりぬ。」

などいひて、しめやかに打かたらひ居(をり)けるに、頓て一人の女、歸りきぬ。

「いとわりなく契り給ふものかな。あな、うらめし。」

などいふて、つい入りぬ[やぶちゃん注:さっさと入ってしまった。本来は不快不満の動作であるが、ここでは『憎らしい!』と思いつつもその時にはちらりと微苦笑したと採る。]。

「何條(なんでふ)させる事やあるべき、さいひ給ふ君こそは。」

[やぶちゃん注:前で微苦笑したと採ったのは、「さいひ」があるからである。私はこれを「咲(さき/さい)ふ」→「咲(わら)ふ」と採ったのである。或いは直後の「いと恨めしげなる有樣」と齟齬する(私は後の展開からそうは全く思わぬ)とされる方もあるかも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。]

とて、さきの女子、又、いぞこへか行(ゆき)ける。

 歸り來し女子は、いと恨めしげなる有樣にて、

「今迄何して居給ひしや。たばかられぬる事の口惜しや。」

などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]つゝ、頓(やが)て又、淺からぬ契りをぞ結びける。

 おなじよふにて、先にいで行(ゆき)し女子ども、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。]に歸りきたりて、つひには夜もふけぬ。

「今宵は、こゝに泊り給ひてよ。」

とて、打ふしぬ。

 夜、明ければ、

「麥畑の内に、人の打(うち)ふしたるは醉(ゑひ)だれ[やぶちゃん注:酔っ払いの輩。]にやあらん。」

とて、あたりの人々おどろかせしに、やうやうに目の覺(さめ)たるおもゝちして、あたりを見れば、元の家居(いへゐ)などもなく、麥畑の中なれば、

『扨は、狐のしわざにや。』

と心付(こころづき)しが、よふよふ[やぶちゃん注:ママ。]ものいふ斗(ばか)りにて、起(おき)ふしも得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」の当て字。]かなはざりしかば、あたりの人々、駕籠、やとひて、家に、ゐて行(ゆき)ぬ。

 漸(やうやう)、氣は慥(たしか)になれど、いかにも樣子のあしければ、

「藥や、あたへん、醫師や、招きてん。」

とて打さわぐにぞ、ありし事どもつぶさにもの語りければ、

「狐のしわざにやあらん、いといぶかし。」

などいひはやすほどに、遂に其夕方に、はかなく成(なり)にける。

[やぶちゃん注:化かされただけでなく、命も落している。これは結局、何人もの狐の化けた女と交合した結果、完全に精気を奪われ、結果して生気も失ったからである。妖狐譚は中国にも本邦にも数え切れぬほどあり、狐の化けた女と交合するものも甚だ多いけれど、実はかく命を奪われる結末はそれほど多くない。本条の一番最後の附評の終りの部分は、そうした事実を踏まえてのことを言っているように私には読める

 以下は底本でも改行が成されてある。]

 是れは近き世の事なれば、さだかに見聞(みきき)し人もありて、つばらに語りけるを聞ける。此人、見目・形、きよらにて、年も漸(やうやう)三十斗(ばかり)にもや成りけん、常に姿容(すがたかたち)を自負せしが、凡(すべ)て、狐狸のみならず、人のたのむ心あれば、其たのむところに乘じて、たぶらかさるゝこと、常なり。つゝしむべき事にや。

[やぶちゃん注:「たのむ」「恃(たの)む」。自負する。自信過剰になり、自己肥大を起こす。

 以下は底本では一行空けが入り、ポイント落ちで全体が二字下げである。如何にもネタ晴らしの現実的な解釈は先例もあった、例の天暁翁浅野長祚らしい評言である。]

これに似たる事あり、麻布のあたりに、さる大きやかなる屋形のうちへ引入(ひきれ)られて、あまたの美人に交(まぢは)り、つかれはてゝいねたるに、廣尾のはらにあすの朝は打ふして居たりしものあり。諸人、みな、「きつねのわざならん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]のゝしりける。さて、人あまり不思議におもひて、ふたゝび、「こゝぞ」と思ふあたりをたづねけるに、ゆひまはせし垣のあや、松の木立、杉のかわにてふきたる小さき門など顯然として、夢うつゝには、なかりけり。これはおもき方の女の君(きみ)の孀(やもめ)ずみしたるに、あたりにかゝるたわたれありて、「跡をおゝわん」[やぶちゃん注:ママ。]とて、廣尾のはらへすてゝ、狐と思わせたるなりける。すてらるゝさへ、うつゝにも覺へぬほどなれば、いかにつよくつとめたりけんか。人と交りては死せず、狐狸と交るものは死するは、賦禀(ふひん)の殊なるゆへにや。

[やぶちゃん注:「たわたれ」「色好みの戯(たわ)けた誰彼(たれかれ)」の意か。好色漢。

「跡をおゝわん」「跡(あと)を覆(おほ)はん」で、「やんごとない家柄の女君(おんなぎみ)の未亡人が乱交パーティを開いたという事実の痕跡を覆い隠さんがために」の意であろう。

「賦禀」生得的性質。生まれつき持っている素質。]

反古のうらがき 卷之三 幽靈のはなし

 

    ○幽靈のはなし

[やぶちゃん注:前半部はシークエンスをとり易くするために改行を施し、読解の便を考えて注をその段落末に添えた。]

 予がしれる方にて、いと有德なる家より妻をめとりけるが、半年斗りもあるに、兎角にものゝたらわぬよふにいふがにくさに、去りてけり。

[やぶちゃん注:「ものゝたらわぬよふにいふ」「物の足らはぬ樣(やう)に言ふ」が正しい表記。裕福な家の出であるから、つい、いろいろな家内のことで、あれが足りない、これが不十分といった感じのことを何気に言うのである。]

 有德人のことなれば、程もなく、又、さる方に、よめらせけり。此家も予がしれる人なりけり。

 こゝをも、半年斗りにて去られてけり。

 それより幾月もあらで、病(やみ)て死にけり。

 余(われ)、後(あと)の夫(をつ)とがり、行(ゆき)て、酒のみたる時に、打戲(うちたはぶ)れて、

「獨り寐の凄(さび)しからん。」

などいふにぞ、

「いや。此程、暑氣のたへがたくて、『竹夫人(すゞしめ)』てふ物を抱(いだ)きて眠れば、さまでに凄(さび)しからず。先(さ)きの夫(をつ)とが、交(まぢは)りの道さへいまだ得(え)しらざる女を、半年餘り抱きて寐たるは、竹夫人(すずしめ)を抱きて眠ると、おゝくも、たがい、あらじ。」

といふに、

「こは、ふしぎのことをきく物かな。それは、いかに。」

ととふに、

「去りし妻がわれによめりしは、十七のとしなり。先(さき)の夫(をつ)とによめりしは、十五、六の時なり。半年の契りあれど、いまだ交りの道をしらず。われによめりてより、月をへて初て其道をしれり。左(さ)すれば、二度のよめりするといへども、われによめりたるが初ての如くおもふらめ。さるをもて、先の夫は竹夫人(すずしめ)に近きものを抱きて、半年餘り、眠れりとはいふぞ。」

と、かたりけり。

[やぶちゃん注:「竹夫人(すゞしめ)」ルビは底本のもので、「涼し女(め)」の当て読みであろう。通常は「ちくふじん」と読む。竹や籐で編んだ円筒状の抱き枕で、英語では“Dutch wife”(「オランダ人の妻」の意。ウィキの「ダッチワイフ」の「語源」(このリンクのクリックは自己責任で)によれば、語の起源は一八七五年から一八八〇年頃とされ、『本国に妻を残してオランダ領インドネシアで取引していたオランダ人商人の境遇に由来すると想像される』。『英米では、日本でいう』性欲処理の性具としての人形(ひとがた)の「ダッチワイフ」は『sex doll と呼び、これを Dutch wife と呼ぶことはまずない』とある)と呼ぶ。ウィキの「竹夫人」によれば、『暑い日に、片腕や片足をこれに乗せて寝ることで、涼をとれる。アジアに広く見られるもので、かつては日本でも使われていた。竹だけではなく、籐や綿製のものや、近年では人工樹脂でできたものも売られている』。『俳句では夏の季語』である。

「おゝくも、たがい」孰れもママ。「多(おほ)くも、違(たが)ひ」。

「よめり」「嫁-入(よめ)る」(ラ行四段動詞)。「嫁入(よめい)る」の転訛。方言としてもあるが、一般表現としても諸本に認められる。]

 其後に、又、先の夫が家に行(ゆき)て酒のみたることありけるに、これは、今は後妻をむかへて、はなしの折々には、先の去りし妻が事を、あしざまにのゝしりけり。

『皆、後妻へのへつらひなり。』

と思へば、心にくく覺へける[やぶちゃん注:ママ。]。

 因りて、一つの計りごとを思ひ出(いで)て、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「今日、態々(わざわざ)訪ひ來ぬること、よの事(こと)に侍らず。君に聞(きこ)へたきことの侍りて來ぬる也。しばし、左右の人を遠ざけ玉へ。」

といへば、

「さらば。」

とて。しりぞけけり。さて、いふやふ、

「ふしぎのことあり。けふより四、五日以前の夜、夢ともなくうつゝともなく、一人の女、枕のかみに座せり。

『何もの。』

ととへば、これは君にも見しり玉へる、二人の夫(をつ)とに去られ侍る女なり。

『一度も子を産まで死に侍れば、いとど罪業の深くて、今に浮(うか)びもやらず侍るなり。二世のゑにし[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]といへるは、いとふかきことにて、此世にて去らるゝとも、又、先の世にて再び結ぶことなり。さあるからに、もし二人の夫(つま)が一度に來(きた)らんとき、何れへか從ふべき。前の夫とは始めてのゑにしなれば、これになん隨ふべけれども、われは其時は、としのいとけなかりければ、男・おふな[やぶちゃん注:ママ。]の交りの道さへわきまへず、うつゝなくふしをともにするのみなれば、夫婦の契りありといへども、よそごとのよふに覺へて、情(なさけ)深からず。後の夫は、これにことなり、としとりてのちのことなれば、交りの道もよくしり侍れば、夜ごと夜ごとにふしにいれば、ひるのうさをも打忘るゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]に、情け深く覺へて侍りしにぞ。此方(こなた)にか隨ふべき、いづれをいづれともわきかねたれば、いづれにまれ、これよりのち、香花(かうげ)の一つだも、そなへ玉へる方(かた)こそ、あの世にての夫となれ。其時に「『見限りたり』とて、うらみ玉ひそよ」と、二人の夫とに告(つげ)てたべ。』

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、消失せぬるよふにて[やぶちゃん注:ママ。]、夢のさめたるなりけり。

 あまりにふしぎなることなれば、君に告げ侍りて、跡なき夢なるか、又は正夢(まさゆめ)なりけるか、君が心に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]もあなることなるべし。これを問ひ侍る。」

と、まことしやかに聞へければ、しばしことばもなくてありけるが、さめざめと泣きていふ。

[やぶちゃん注:「跡なき夢」後(ここは後世(ごせ)という迂遠な未来)になっても意味を持たない(何ものをも予兆するものでもない)ただの馬鹿げた夢。]

「これ、正夢なるべし。跡なきことにはあらざりけり。われ、こゝろに思ひ當ること、あり。香花のことは安き程のことなり。佛事供養も當りの年月は忘るまじ。此事、後の夫(をつ)とに、ゆめゆめ、語り玉ひそ。」

とて、其後は、あしぎまにいふことも、なかりけり。

[やぶちゃん注:「佛事供養も當りの年月は忘るまじ」「まじ」は打消意志。一般の仏事としての回忌供養の規定の年忌は忘れることなく、万事、必ず執り行おう。]

 ねやのうちの事などは、他人(よそびと)にしらるゝことはなきことはり[やぶちゃん注:ママ。]なれども、かく、もるゝこともあることなれば、唐の玄宗皇帝が、

 七月七日長生殿

 夜半無ㇾ人私語時

 天に在りては比翼の鳥

 地に在りては連理の枝

と誓ひし言葉を言送(いひおく)りたれば、

「楊貴妃がなきたまに疑ひあらじ。」

と、道師にあざむかれしも、これとおなじ道より、思ひ迷ひしなるべし。

 

[やぶちゃん注:引用は言わずもがな、私の大好きな、中唐の名詩人白居易の「長恨歌」のコーダの一節。但し、御存じの通り、正確には、

七月七日長生殿

夜半無人私語時

在天願作比翼鳥

在地願爲連理枝

天長地久有時盡

此恨綿綿無絶期

 七月七日 長生殿(ちやうせいでん)

 夜半 人(ひと)無く 私語の時

 「天に在りては 願はくは 比翼の鳥と作(な)り

  地に在りては 願はくは 連理の枝と爲(な)らん」と

 天 長く 地 久しきも 時 有りてか盡(つ)く

 此の恨みは 綿綿として 盡くる期(とき)無からん

と終わる。全詩は信頼漢詩サイト「碇豊長の詩詞「長恨歌」をリンクさせておく。

 以下、底本では最後のクレジットの一行前まで、全体が二字下げとなっている。ここは前のようには改行を施さなかった。二箇所の改行は底本のママ。]

予がいつはりの出で所(どころ)は、もろこしの何某が作れる小説に、地獄にて先の夫と後の夫と、一人の女を爭ひたることをのせたるより、思ひ付たるなりけり。男女の交りは、相感ずる所あるをもてこそ情も深かり、かく半年に餘る迄、交りの道をもしらぬ女とそひたらんには、みどりのとばり、くれないのねやに在りても、おのれ獨り、ものにくるふよふ[やぶちゃん注:ママ。]なるさまして、海に誓ひ、山に誓ひて、睦言(むつごと)などするに、かなたは幼子(おさなご)に乳など含まするこゝ地して、燈火の影のうつばりにうつりて丸く明らかなるに、はらひのこれる塵のひらめくをながめやりて、たる木の數(かず)いくつありけん、よべかぞへしより、一つおおくおぼゆるとて、幾度もかぞへかへしなどするぞ、又なく、わびしかりつらん。扨も、後の妻をむかへて其わびしさは免(まぬ)がれつらんが、後の夫と睦(むつま)じくありしを聞くときは、又、ねたく、くやしかりつるにや、先の世にては、かれにはあたへじと思ふこそ、おろかにも、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なりけれ。かゝれば、かく、おめおめと、あざむかれけるなり。

[やぶちゃん注:以上の話は標題の「幽靈のはなし」で惹かれて読んだ読者を、美事に裏切って余りある。しかも怪奇現象を信じない現実主義者の桃野が、自分自身が見たとする幽霊話を中国の志怪小説を元にデッチアゲて、友人をまんまと騙す、という意外な展開に吃驚する。この友人は確かに人格的に問題があるようだから、同情はしないけれど、にしても、この一話は実は、桃野が当時としてはかなり先進的な科学的現実主義者であったにも拘わらず、周囲は勿論、親しい友人に対しても、用心に用心を重ねて、そうした思考の持ち主であることを知られぬようにしていたという意外な事実が明らかとなっているのである。

「もろこしの何某が作れる小説に、地獄にて先の夫と後の夫と、一人の女を爭ひたることをのせたる」思い出せそうで、思い出せない。思い出したら、示す。悪しからず。

 以下は、本章の内容とは関係がない、桃野のインターミッションである。]

反古紙のうらにかひしるすこと、すでに五つ卷をなせり[やぶちゃん注:ママ。]。先の卷のすへ[やぶちゃん注:ママ。]にもいへるごとく[やぶちゃん注:。]、夏の日の永く、雨さへそぼふりて、友がき[やぶちゃん注:「友垣」。友人。]もとひこぬとき、うさのやる方なく、机に向ひては、しるすなりけり。もとより、後の世に傳ふべきと思へるにもあらず、ただ、ふみかくことのならはせ[やぶちゃん注:ルーティンの習慣。]に、思ひ出(いづ)ることども、つゞくりて、隔てなき友の來ませる時とり出(いで)て、ふみぶりのよしあしなど、語り合(あひ)て、聞(きき)もし聞(きこ)へもして、筆とる業(わざ)の助けにもせんとのかまへなれば、正しきことのみをば、しるさで、まこと、そらごと、取(とり)まぜて、人のよみて、うみ果(はて)ざらんをのみ、ねがふものから、かりにも心に樂しくあらんよふ[やぶちゃん注:ママ。]にこそは、ものしつるなりけり。こと葉(ば)のあとさきになりしと、おなじことをくりかへし、くだくしくしるせしことなどは、文(ふみ)ぶりに、いとよからぬといふは、筆とりながらも、自(おのづ)からしり侍れども、あまりにかひあらためたらんには、いとゞさへ反古紙(ほごがみ)なるに、又も、かひ添へ、かひへらして、文字(もじ)讀分(よみわく)るに、いぶせき迄になるべければ、先づ、こたびは此儘にさし置(おき)て、後にぞ、かいあらたむべきと思ふになん。

[やぶちゃん注:「かひしるす」の「かひ」は「書き」「書きて」、現代の「書い(て)」の「い」の転訛の縮約の誤表記ようである。]

「夜讀隨錄」・「聊齋志異」なんどは、近淸の小説の董狐(とうこ)にてはありし。されど此二書、多く狐怪に託して、空に架するのこと、多し。此書は、事は多くは實踪(じつさう)にして、只、文華を騁(はせ)ること、妙なると□とす。「虞初新志(ぐしよしんし)」を一筆にて書(かき)たるものなり。

 嘉永三年庚戌(かのえいぬ)三月の六日といふに此卷を終る。

[やぶちゃん注:「夜讀隨錄」清の乾隆帝の時に刊行された、和邦額(か ほうがく)の小説集。

「聊齋志異」既出既注。私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。

「董狐」春秋時代の晋の史官。生没年未詳。霊公が趙穿(ちょうせん)に攻め殺された時、正卿である趙盾(ちょうとん)が穿を討たなかったことから、董狐は「盾、その君を弑(しい)す」と、趙盾に罪があることを記録した(「春秋左氏伝」の宣公二年に記載されてある)。後世、理非を明らかにしたこの態度が、孔子に大いに讃えられたことから、「権勢を恐れることなく、現実の真実を毅然として記すこと」を「董狐の筆(ふで)」と言うから、ここはそれ。

 

「空に架する」事実に基づかない「架空」の勝手な想像をする。

 

「實踪」事実実在の実記録。

 

「騁(はせ)る」思いのまま、恣(ほしいまま)に筆を滑らせてしまうの意か。「文華」は「詩文の華麗なこと・その作品」の意であるから以下で意味がとれない。脱字と思われる「□」(国立国会図書館版も同じ)がそうしたこと、即ち、調子に乗って文飾の妙に走るあまり、事実に則さないことを書くような誤りは厳に謹んで書いたことを意味するのでなくてはなるまい。

 

「虞初新志」明末清初の張潮撰になる文語小説集。但し(次注参照)、志怪短編も多い。

 

「一筆にて書(かき)たるものなり」『この私の「反古のうらがき」は、かの「虞初新志」のような(それには無論及ばないが)ものを、ちょいと僅かばかり書き散らしたようなものである』の意か? よく判らぬ。

 

「嘉永三年庚戌三月の六日といふに此卷を終る」とあるのだが、実は「反古のうらがき」の「卷之三」はここで終わっておらず、まだ十一章も続くので注意されたい。ここで終わらせるつもりが、新しい巻を起こす前に、興が乗ってしまって結局書き継いだか、或いは単なる後に装本する際の錯文となっただけかも知れない。「嘉永三年」は一八五〇年。]

2018/09/20

大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)

 

杜父魚 本草綱目ニアリ伏見ニテ川ヲコゼト云京ニテ

 石モチト云近江ニテチンコト云嵯峨ニテ子マルト云筑紫ニ

 テドンホト云杜父ヲ云ナルヘシ西近江ニテ道滿ト云江州

 ノ湖ニ多シ形河魨ニ似テ色黑ク長サ五六寸アリ鯊魚

 ニモ似タリ此魚ヲ河鹿ト云說アリ夜ナク故ニ名ツク古

 哥ニモヨメリ一說ゴリノ大ナルヲ河鹿ト云ゴリ杜父魚同

 類ナリ○京都ノ方言ニダンギボフズト云魚アリ杜父魚

 ニ似テ其形背高シ是亦杜父魚ノ類也

○やぶちゃんの書き下し文

杜父魚〔(トホギヨ)〕 「本草綱目」にあり。伏見にて「川ヲコゼ」と云ひ、京にて「石モチ」と云ひ、近江にて「チンコ」と云ひ、嵯峨にて「子〔(ネ)〕マル」と云ひ、筑紫にて「ドンホ」と云ふ。「杜父(トホ)」を云ふなるべし。西近江にて「道滿〔(ダウマン)〕」と云ひ、江州の湖〔(うみ)〕に多し。形、「河魨(フグ)」に似て、色、黑く、長さ、五、六寸あり。「鯊-魚(ハゼ)」にも似たり。此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕說あり。夜、なく。故に名づく。古哥にもよめり。一說、「ゴリ」の大なるを、「河鹿」と云ふ。「ゴリ」・「杜父魚」、同類なり。○京都の方言に「ダンギボフズ」と云ふ魚あり。「杜父魚」に似て、其の形、背、高し。是れ亦、「杜父魚」の類なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus polluxウィキの「カジカ」によれば、漢字表記では「鰍・杜父魚」鮖」等と書き、『地方によっては、他のハゼ科の魚とともにゴリ』(既に独立項「ゴリ」として既出既注)や『ドンコと呼ばれることもある。 体色は淡褐色から暗褐色まで、地域変異に富んでいる。日本固有種で、北海道南部以南の日本各地に分布する。ただし、北海道に生息するのは小卵型のみである』。『分類については定説がまだなく』、「大卵型(河川陸封型)」・「中卵型(両側回遊型)」・「小卵型(両側回遊型)」(三類の別はリンク先を参照されたい)を、それぞれ別種に、或いは「湖沼陸封型」は「小卵型」と亜種に分ける説なども存在する。『生活型によって、一生を淡水で過ごす河川型を大卵型、孵化後に川を下り稚魚の時期を海で過ごして成魚になると再び遡上する小卵型、琵琶湖固有のものをウツセミカジカ Cottus reinii と分けることが多かったが、近年の研究により』、小卵型にウツセミカジカを含めて、大卵型と小卵型に分けるようになった。しかし、これらには別種レベルでの違いがあると考えられているという。『大卵型は、山地の渓流などの上流域を中心に、小卵型は中流域から下流域にかけて生息する。石礫中心の川底を好み、水生昆虫や小魚、底生生物などを食べる』。ここでは、以前の種分類に従うなら、現在の「河川型(湖沼陸封型)」の、上記、

カジカ Cottus pollux(宮崎県・大分県・東海・近畿・本州の日本海側・四国の太平洋側に分布)

の他、「両側回遊型」の上記、

ウツセミカジカCottus reinii(北海道南部の日本海側・本州・四国・九州西部・琵琶湖に分布)

及び、

カンキョウカジカ Cottus hangiongensis(北海道南部から本州・四国・九州・朝鮮半島東部と沿海州に分布し、特に河川の下流から上流に棲息する)

また、「降河回遊型」の、

カマキリ Cottus kazika(一般名は「アユカケ」。太平洋側は神奈川県相模川以南、日本海側は青森県岩崎村津梅川以南に棲息)

さらに、

カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus (有明海と流入河川に棲息)

を挙げておく必要があろう。「利用」の項。『見た目は悪いが、とても美味な魚とされる。汁物、鍋料理では、大変美味な出汁が良くでる』ことから、突き過ぎるとして『「なべこわし」とも称される』。『日本各地で食用にされ、汁物、味噌汁・鍋料理や佃煮、甘露煮などにして食される。代表的なものに石川県金沢市の郷土料理「ゴリ料理」』があるが、殆ど正式なそれは原材料の入手困難から幻しに近い。「名称」の項。『日本語で「鰍」は「カジカ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「カジカ」は、「杜父魚」と書かれる』。『カジカ(鰍、杜父魚、Cottus pollux)は、「鈍頭杜父魚」』である。『なお、カジカは、石伏(いしぶし)、石斑魚(いしぶし)、霰魚(あられうお)、川鰍(かわかじか)、ぐず、川虎魚(かわおこぜ)などの別名を持つ』とある。最後に本条で益軒が挙げている異名を一遍に並べてみると、

「川(カハ)ヲコゼ」・「石(イシ)モチ」・「チンコ」・「子(ネ)マル」・「ドンホ」・「杜父(トホ)」・「道滿(ダウマン)」・「河鹿(カジカ)」・「ゴリ」・「ダンギボフズ」

の十を数える。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カジカ」のページの「地方名・市場名」の欄には実に五十五もの異名が載るが、以上は「ゴリ」以外は、完全同一のものはないというバラエティーさを誇る(この異様な多さは全くの他種(或いは他種名の援用)が含まれていることにも由来はする)。

「本草綱目」のそれは「巻四十四 鱗之三」の以下。

   *

杜父魚【「拾遺」。】

釋名渡父魚【「綱目」。】、黄䱂魚【音「么」。】。舩矴魚【「綱目」。】。伏念魚【「臨海志」】

時珍曰、「杜父、當作渡父。溪澗小魚、渡父所食也。見人則以喙挿入泥中、如舩矴也。」。

集解藏器曰、「杜父魚、生溪澗中。長二三寸、狀如吹沙而短。其尾岐、大頭闊口、其色黃黑有斑。脊背上有鬐刺、螫人。」。

氣味甘、溫。無毒。

主治小兒差頽。用此魚擘開、口咬之、下即消【藏器、大差頽、陰核小也。】。

   *

「道滿〔(ダウマン)〕」安倍晴明のライバルの憎っくき陰陽師蘆屋道満の不敵な面構えというところからの命名であろう。腑に落ちる。

「江州の湖」琵琶湖。

「河魨(フグ)」海産の河豚(フグ)のこと。「カジカ」の異名に「フグ」がある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カジカ」のページにもある。

『此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕説あり。夜、なく。故に名づく』男鹿が女鹿を呼んで夜啼くことに由来するというのである。

「ダンギボフズ」不詳。「坊主」ではあろう。小学館「日本国語大辞典」にはメダカの異名とするが、この流れでは、それには同定出来ない。]

反古のうらがき 卷之三 大雅堂

 

    ○大雅堂

 大雅堂の畫のほまれは、「畸人傳」及び和泉やのとら吉が「書畫談」につまびらかなれば、こゝに略しぬ。此人の畫、東都にあるはことごとくいつはりなるよしは、みな人のしる事なれども、其門人どもが工みに似せたるは、いかにしても、しるよしなし、とぞ。京攝の間は其(その)もてはやしも又、甚しく、其門人といへども、あざむかれて僞物を賞翫するもあり。大雅堂、歿して後、其年忌に當れる日、門人共がいゝ[やぶちゃん注:ママ。]語らふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、「こたび打よりて追福の會を催し、おのおの師の手筆の畫持寄りて、大きなる寺院の廣座敷にかけ置て、互に見もし見せもして、終日供養なしたらんは、師もよろこばしく思(おぼ)し玉はん」とて、其日の酒飯の料出し合(あひ)て、貮、三十人寄り合けり。

[やぶちゃん注:「大雅堂」日本の文人画(南画)の大成者とされる、画家・書家の池大雅(いけのたいが 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の雅号の一つ。京都銀座役人の下役の子であった。

「畸人傳」江戸後期の歌人で文章家の伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:名は資芳(すけよし))著になる「近世畸人傳正編」(三熊花顚(みくまかてん)画・寛政二(一七九〇)年刊)の巻之四に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読め、「日文研データベース」のこちらでも横書挿絵入りで読める。

「和泉やのとら吉が書畫談」江戸後期の書画鑑定家で書画商であった和泉屋虎吉(通称)こと安西雲煙(うんえん 文化四(一八〇七)年~嘉永五(一八五二)年)の天保一五(一八四四)年刊の「近世名家書畫談」の巻之三巻頭の「本朝名山大雅畫に眞の幽趣を得る事」。「早稲田大学図書館」の「古典総合データベース」のこちらPDF)で読める(こちらから各ページの画像でも読める)。

「其年忌に當れる日」彼が没したのは安永五年四月十三日(一七七六年五月三十日)。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、記載時からだと、既に七十年以上が経過している。]

 こゝに何某といへる人あり。これは大雅堂の門人なれども、師の世にいませる頃より、師の僞筆をかきて、錢金(ぜにかね)にかゆる[やぶちゃん注:ママ。]をもてなりはひとしてありければ、同門の人々、賤しみ忌みて、常にも同門の數にもいれねば、此度の催しの事も告(つげ)しらせざりけり。すでに其日も時うつりて、皆、酒くみかはし、書道の物語りなどして、いと興ありける頃に、彼(か)の何某が麻の上下(かみしも)に黑小袖着て、手に壹幅の畫を携へ、其席に入來れり。人々、「あれは。如何に」といふに、「いや、吾も師が門人なれば、今日の列にくわへ玉へ。各(おのおの)が約(やく)の如く、師の畫幅も持(も)て來りぬ。寄合(よりあひ)の酒飯料も持て來(き)ぬ」とて、さし出(いだ)すに、皆々、かほ見合せて、「如何に計(はか)らはん」といふを、とし老(おい)たる門人がいふ、「此人、常に賤しみ、にくまれたりとて、師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の爲に催せし會に、數を加へじといふ理(ことわ)りなし。また、かれが持て來りし師の畫幅もあれば、もて歸れといふべき理りなし。許して列にいるゝこそ、よからめ」といふにぞ、皆人々も、「さらば」とて、通しけり。何某も大によろこびて、おのが持て來(きたり)し幅もかけ並べ、「各(おのおの)がたの持て來(き)玉ふ幅ども、見ん」とて、廣座敷、一と𢌞(まは)り見てけり。歸り來て、元の座に付(つき)けるが、「扨も。よく多く集まりて、めでたし。各(おのおの)が、師の道、慕ひ玉ふ心の深さも推計(おしはか)られて、よろこばしく侍るなり。しかし、今、見たりし中(うち)に、おのれがかきたる幅、三幅迄、見ゆるぞ」といふにぞ、皆人々、おどろきて、「にくきかれが廣言(こうげん)かな。師の門人が、まさしく師に授(さづか)りし畫なるに、彼(か)れが筆ならんいわれなし。いづれをか、自(みづ)からの筆といふや。ことによりては其まゝに拾置(すておき)がたし」など、口々にのゝしるにぞ、「いや。爭ひは無益なり。第幾番目の幅より、又、二つ置(おい)ての幅、末(すゑ)より幾番目の幅、此三幅は、みな、おのれが筆なり。但し、其持主はしらねども、親しく師の筆とりて書きしをみて授(さづか)りたるには、おそらくは、これ、あるまじ。市にて求め給ひつるならん。さあらんには正しき師の筆とは、いゝがたし。いかにぞや」と問ひたるにぞ、みな、目を見合ひて辭(ことば)なし。但し、市にて求(もとむ)るにも、一人の眼(め)に極(きは)め兼たれば、同師の友どち、助け合(あひ)て見極めたることどもなれば、今更に、師、自(みづか)ら授け玉へるなりとも、いつはり棄(かね)て、惡(あ)しとは思へども、爭ひにもならで、休(や)みけり。かゝればこの何某が僞筆は、おさおさ、師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、他人の見て眞僞を言ひ爭ふは益なきことぞと、京師より歸りたる人、語りける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体がポイント落ちで二字下げ。]

◎大雅堂・文晃(ぶんてう)・應舉ナドノ畫ハ僞(ぎ)シ易シ。椿山(ちんざん)ノ畫ニ至テハ、天眞爛漫、實(まこと)ニ企及(ききふ)スベカラズ。夫(それ)サへ、近時、僞物、オビタヾシクアリテ、庸凡(ようぼん)ハ、ミナ、アザムカルヽ也。余、鑿裁(せんさい)ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ畫ニ至ツテハ、闇中摸索スルモ、失ハジ。

[やぶちゃん注:「文晃」江戸後期の南画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)。田安家の家臣で漢詩人の谷麓谷(ろっこく)の子。

「應舉」江戸中・後期の画家で円山派の創始者円山応挙(享保一八(一七三三)年~寛政七(一七九五)年)。生家は丹波桑田郡の農家。

「椿山」江戸後期の南画家椿椿山(つばきちんざん 享和元(一八〇一)年~安政元(一八五四)年)幕府槍組同心で刀・槍・乗馬に優れた。

「企及」「跂及」とも書く。比肩・匹敵すること。

「庸凡」凡庸に同じい。

★「鍳裁(かんさい)ニ暗シ」は

☓底本は『鑿裁ニ倍シ』で意味が全く通らぬ。

☓国立国会図書館版では『鍳裁(かんさい)ニ愔シ』であるが、

○「鍳裁」は「鑑裁」で鑑定のことだからいいとして、

☓「愔」(和らぐ・静かに安らう・奥深く静か・沈黙する)では意味がとれない。

☓「倍」(背く・もとる・離れる・賤しい)でもなんともピンとこない。

万事休すという訳にもいかないので考えてみた。

○この「□シ」は、或いは、底本も国立国会図書館版も草書で書かれた文字の判読を誤ったのではないか?

そこである字を調べて見た。ああ! これなら「愔」や「倍」に誤りそうだ!

◎「暗」である!

さすればここは評者(例の天暁翁浅野長祚であろう)は謙遜して「私は鑑定眼=目利きには暗いが」と言っているのではないか?

そう採ると、腑に落ちるのである。かくして本文を特異的に弄った。大方の御叱正を俟つものである。

「闇中摸索スルモ、失ハジ」評者は椿椿山の画ならば鑑定眼に自信があると言っているのである。]

柳田國男 炭燒小五郞がこと 一 / 始動

 

[やぶちゃん注:評論集「海南小記」(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成る単行本書き下ろし論文)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「海南小記」の当該の「炭燒小五郞がこと(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。本底本では「ゝ」の代わりに、「〻」が用いられ、この「〻」に濁点が附いた気持ちの悪い踊り字が使用されている。私はそもそもがこの「〻」が生理的に嫌いなので、この際、総て「ゝ」「ゞ」で統一することとした。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章(分割公開)及び「うつぼ舟の王女」(全)をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 なお、今回については、原則として私の目障りな注は、原則、施さないこととする(どうしても必要と私が判断した箇所や全集との有意な移動箇所の注記、及び、若い読者で読みに悩む箇所等は読みを振ることとした)。安心されよ。【2018年9月20日始動 藪野直史】]

 

  炭燒小五郞が事

 

      

 大正九年の九月一日であつたかと思ふ。私は奧州の海岸を傳うて、とうとう尻矢岬(しりやざき)[やぶちゃん注:全集版では『尻屋岬』と訂正されてあり、以下も総てそうなっている。これは思うところあってそのまま残す。ここまで書いたので、言っておくと、下北半島の北東端である青森県下北郡東通村にある岬で、(グーグル・マップ・データ)。]の突角[やぶちゃん注:「とつかく(とっかく)」。]に辿り着き、燈臺裏手の岩に腰をかけて、荒く寂しい北方の海を眺めた。三戸(のへ)郡の鮫港[やぶちゃん注:「さめみなと」或いは「さめこう」。]から、この附近に來て事業をして居る本間君と云ふ人が、最も親切に世話をしてくれたので、別れに臨んで今に南九州に遊びに行くから、南の端の大隅の佐多岬(さだのみさき)から、必ず通信をしようと云ふ約束をした。ちやうど丸四ケ月の旅行の後、豫定の如く佐多の田尻と云ふ村に宿して、元旦の鷄の聲を聽き、年始の狀を本間君へ出したときは、何か大きな仕事を終つたやうな、滿足を感じたのであつた。佐多の燈臺監守の三宅氏は、家は相州にあるが尻矢の事もよく知つて居た。尻矢や遠州の御前崎(おまへざき)、或は豐後水道の水之子[やぶちゃん注:「みづのこ(みずのこ)」。]などでは、渡り鳥の季節には燈臺の光に迷はされて、大小無數の鳥類が、突當つて落ちて死ぬと謂ふが、佐多では神の森がよく茂つて居る爲か、其樣なことが少ないと云ふ話もした。こんな細長い日本の島が、一つの國である爲に生活事情も亦一つで、坐して千里の天涯にある雪の荒濱を、あたかも鄰家の噂をする如く話し合ふことが、此日は特別に有難く思はれた。

 佐多の島泊(しまどまり[やぶちゃん注:底本は『しまとまり』であるが、先行するヶ所で(以下のリンク先)「しまどまり」と振っており、本篇の「八」でも「しまどまり」と振られてあるので、誤植と断じて濁音化した。])から伊座敷(いざしき)に越える山路を、豐後から來た炭燒が獨力で開いた話は、もう本文にも書いておいたが[やぶちゃん注:本「海南小記」の先行する七 佐多路」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示しておく。]、どう考えてみても自分には、奇緣とより他は感ぜられなかつた。豐後は今に於て尚炭燒の本國である。其一半は進化してナバ師卽ち椎茸作りとなり、各地に招かれて、盛にナバ木の林を經營して居るが、他の半分は昔ながらの炭を燒くべく、此頃は主として鄰國日向の東臼杵(ひがしうすき)の奧山に入つて居る。炭燒には人も知る如く、現在尚傳授を必要とする技術があつて、而も同じ楢なり櫪(くぬぎ)なりを伐つても、土地と竃[やぶちゃん注:「かま」。]とに由つて出來る炭には差等[やぶちゃん注:「など」。]がある。しかも普通の民家に火桶を用ゐるに至つたのは、煙草などよりも更に新しいことで、偏土の山に炭を燒いた始は、必ず別に尋常ならざる需要があつた爲と思はれる。さすれば何が故に豐後の炭燒のみが夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]人に知られ、殊には小五郞長者の物語が、遠く久しくもてはやされるに至つたか。

 大分縣方言類集に依れば、宇佐郡などで炭をイモジと謂ふとある。是が若し炭の最初の用途を語り、更に一步を進めて宇佐の信仰の極めて神祕なる部分、卽ち所謂薦(こも)の御驗(みしるし)、黃金の御正體(みしやうたい)の由來を解き明かす端緖ともなるならば、我々の學問は永く今日のしどけなさに棄てゝ置かれる患も無く、夢のやうな村々の歌が尚至つて大切なる昔を、忘却から救うて居たことを、追々に認める世の中が來るであらう。

 自分は尻矢外南部(そとなんぶ)の旅を終つてから、船で靑森灣を橫ぎつて津輕に入り、弘前の町に於て始めて此地方の炭燒長者の話を知つた。豐後に起つたことは疑が無い炭燒の出世譚が、ほんの僅かな變更を以て、本土の北の端までも流布するのは如何なる理由であるかを訝るの餘り、稍長い一篇の文を新聞に書いて置いて、九州の旅行には出て來たのであつた。豐後をあるいて見ると考へねばならぬことが愈多かつた。其から途上に幾度と無く斯んなことを空想しつつ、佐多の島泊までやつて來て、さうして又豐後の炭燒の小屋の前を過ぎたのである。自分の想像では、豐後の國人は今でも炭燒を以て、微賤にして恥づべき職業と思つては居らぬやうである。聞いて見る機會は無かつたが、此小屋の主人なども、或は炭燒だから斯う云ふ尊い事業をするのだと考へて居たのかも知れぬ。近年石佛を以て一層有名になつたが、臼杵の城下に近い深田の里には、小五郞が燒いたと云ふ炭竃の址あり。岩のくづれの間から炭の屑の化石と云ふ物が無數に出る。長者の後裔と稱する家には、俵のまゝ燒けた炭が二俵と鉈などを持ち傳へ、一年一度の先祖祭に之を陳列して人に見せる。或は又家傳の花炭と稱して、七十八代の間連綿として、之を製したと云ふ由緖書も傳はつて居る。卽ち或特定の家族に於ては、此物語は今も決して單純なる文學では無いのである。

 大昔小五郞の炭を燒いたのは、別に重要なる目的のあつたものと、推測する人は近年は既に多かつた。長者大に家富みて後に、召されて都に登つた愛娘(まなむすめ)の船を、遠く見送つて別れを惜んだと云ふ姫見嶽から、この深田の村近くまで、現に皆金銅鑛[やぶちゃん注:聴き慣れない語であるが、これは「愚か者の金」、黄銅鉱(CuFeS)のことであろう。]の試掘地に登錄せられている。前に臼杵の警察署長で、後に大分銀行の支配人となつた某という人が、傳説から思ひ付いて出願したのが、今は或大阪人が買取つて權利を持つて居る。爰から七八里離れた大野郡三重町の内山も、内山觀音の緣起に依れば、小五郞の初の在所であつて、炭を燒いて居た故迹は、はど近い神野(かうの)の山家であつたと傳へる。而も燒いた炭をどうしたかと云ふことには考へ及ばずに、例の朝日さし夕日かゞやく云々の歌などに由つて、長者の寶を埋めた地を見付けようと、そこら掘返した人が幾らもあつた。明治の少し前にもこの内山で、金の蒲鉾形の物を多數に發掘したことがあつたと謂ふ。それを買取つて外國人に賣り、後に發覺して獄に投ぜられ、維新の大赦で出牢を許された人のあることを、その實物を見たと云ふ人の子息から、匿名で知らせてくれたこともあつた。傳説と歷史とは、人がこれほど賢くなつてしまつた時代までも、まだ紛亂し混淆し、且つ身勝手に誤解せられて居るのである。况や鄕土を愛する人々は、多く一地方の古傳に割據して、目前の因緣關係をすらも否認するために、一層此問題が解きにくゝなつてしまふのは、誠に是非もない次第である。

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(59) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅳ)

 

 この文書の中に伴天連に對して爲された二つの明確な非難があるといふことが觀られる、――宗教に裝を藉りて、政府を橫領しようといふ考へをもつた政治的陰謀、それから神道と佛教といふ日本固有の禮拜の式に對する異説抑壓に就いての非難である。この異説抑壓はジエジユイト教派自身の書きものによつて充分に證明されて居る。陰謀の非難に至つては少しく證明し難い。併に社會が與へられたならば、ロオマ舊教の諸教團が、既に改宗した大名の領地に於て、地方政府を管理することが出來たやうに、正しくその通りに中央教府全體を管理せんと企てるであらうとは、道理を辨へやものにして誰れが疑ふことが出來たであらうか。その上この布告が發せられた時には、いろいろな事を耳にして居て、家康はロオマ舊教に就いて、恐らく最も惡るい意見をもつて居たに相違ない。これは確と言つて宜からう。――則ちアメリカに於けるスペインの征服、西印度人種絶滅の話、ネザアンド[やぶちゃん注:Netherlands。ネーデルラント。オランダ。直近のスペイン統治時代の異端審問体制やプロテスタントの焚書や発禁等の一連の宗教弾圧を指す。]に於ける迫害、竝に其他の各所に於ける宗教審問の事に就いての話、フイリツプ第二世のイギリス征服の計畫と、二囘に亙る大艦隊(アルマアダ)[やぶちゃん注:Armadas。スペイン語語源で「海軍・艦隊」の意。]の失敗の話などを聞いて居たに相違ない。この布告は一六一四年に發せられた。而して家康は夙に一六〇〇年[やぶちゃん注:既に示した通り、慶長十八年。]に、以上の事柄の二三を知る機會を得たのであつた。則ちその年にイギリス人の水先案内ヰリアム・アダムス[やぶちゃん注:既出既注。]がオランダの船を託されて日本に到著した。アダムスは一五九八年[やぶちゃん注:慶長三年相当。アダムスが豊後臼杵に漂着したのは慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)。]にこの多事な航海に上つたのであつた、――卽ちそれはスペインの最初の大艦隊敗北後十年、第二囘艦隊全滅後、一年の事であつた。彼は偉大なエリザベス女王――まだ存生中であつた――の赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。光り輝くが如く、華々しい功名を挙げるさま。]時代を見た人であつた――彼は多分ハワアド、セイマア、ドレイク、ホオキンズ、フロビシヤア、それから一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル等を見てゐたのである。何となればこのヰリアム・アダムスといふ男は、ケントの人であつて、『女王陛下の船の船長と水先案内を勤めた……』人であつたからである。今述べたこのオランダの商船は九州に到着すると同時に捕獲された。そしてアダムスとその乘組員は、豐後の大名によつて監禁され、その事實は家康に報告された。是等新教徒なる船乘り達の到來は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて重大事件と考へられた。蓋し、ジエジユイト教徒は、このやうな異端者達と、日本の統治者との會見の結果を恐れるべき、特別な理由をもつて居たのである。然るに家康も亦たまたまこの事件を重大視した。そして彼は大阪なる彼の許にアダムスを送るべきことを命じた。この事に就いてのジエジユイト教徒の惡意を藏した懸念は、家康の透徹力ある觀察を遁れなかつた。アダムス自身の筆述に從つて見ると――アダムスは決して虛僞を言ふのではなかつた――彼等は再三船乘り達を殺してしまはうと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]のであつた、そして彼等は豐後に於て該船の乘組員中の二人の無賴漢を脅して、【註一】僞證をさせ得たのであつた。アダムスは次のやうに誌した、『ジエジユイト教徒達とボルトガルの人達とは、私と餘の者を中傷する多くの證據を皇帝(家康のこと)に向つて呈し、吾々は諸國から來た竊盜であり、又盜賊であると言ひ、若し吾々を生かして置けば、殿下と國土の御爲めにならぬに相違あるまいと言つた』と。然るに家康は恐らく彼をなきものにしてしまはうといふジエジユイト教徒の熱心の爲めに、却つてアダムスの方に多くの好意を持つやうに傾いてゐたらしいのである――なきものにするとはアダムスの言ふところに從ふと、『十宇架につける〔傑刑に處する〕事』で――これは『我が國の絞刑のやうに、日本に於ける裁判の風習』なのである。アダムスは云つて居る、家康は彼等に答へた、卽ち『吾々(アダムス等)は彼や彼の國土の何人に對しても、未だ危害や損害を蒙らしたことはなかつた。それ故吾々を殺す事は道理と正義とに反した事である』と……。それからジエジユイト教徒が正に最も恐れていゐた事が起こるやうになつた――彼等が恐嚇、誹謗、竝びに出來る限りの陰謀を以て、防止せんと努めてしかもその効のなかつた事――則ち家康と異端者アダムスとの會見が起こることになつたのである。『そのやうなわけで私が彼(家康)の御前に出ると直ぐに』と彼は誌した『彼は吾々が何處の國の者であるかと尋ねた。それで私はあらゆる事を彼に答へた。それは、國々の間の戰爭と平和といふ事に關して、彼は餘す處なく總ての事を啓ねたからであるが、その委細の事を此處に記しては、あまりに冗長になる恐れがある。そしてその時に私は、良く待遇されたのではあるが、一時私に仕へる爲めに一緖に來た海員の一人と共に私は入牢を申しつけられた』アダムスの他の手紙に依つて、この會見がびきつづき夜にまで及び、且つ家康の質問は、特に政治と宗教とに關係してゐたらしく察しられるのである。アダムスは云つで居る、『彼は我が國が戰爭をしてゐるかと尋ねた。私はスペインとポルトガルとを相手にして戰つてゐると答ヘた――他の總ての諸國とは平和にしてゐるから、更に彼は私が何を信仰してゐるかと尋ねた。私は、天と地とを造つや神樣を信じてゐると言つた。彼は宗教關係の色々な他の質問と、その他の多くの事に就いて尋ねた、例へばどんな路を通つて日本に來たかといふやうな。私は全世界の海圖を持つてゐたので、マゼラン海峽の直路を彼に示した。彼はそれに驚いて私が嘘をいふと思つた。このやうに、次から次へと話がつづき、私は深更までも彼の許に居た』……この兩人は互に一見して雙方好きになつたのらしい。家康に就いてアダムスは特に恁う言つて居る。『彼は私を凝と見て、驚く程好意を持つたやうに思はれた』と、二日たつて家康は再びアダムスを招いて、特にジエジユイト教徒が隱さうとして居る事柄に就いて彼に微細に亙つて質問した。『彼は我が國とスペイン或はポルトガルとの戰爭と、その理由とに就いて又尋ねた。それを私はすつかり了解の出來るやうに説明したが、彼はそれを喜んで聞いた、とさう私には考へられた。最後に私は再ぴ監禁を受けることを命ぜられたが、然し私の宿所は前よりもよくなつた』……アダムスはその後殆ど六週間の間家康に再會しなかつたが、それからまた招きの使を受けて、三度事こまかに尋問を受けた。その結果は自由の身となつて恩顧を得た。爾後、時を置いて、家康は彼を招くを常とした。そして程なく吾々は彼が『幾何學の二三の點と、數學の理解とその他のいろいろの事とを合はせて』此の人經世家に教へてゐるといふことを聞くのである……。家康は彼に多くの贈物竝びに充分の祿を與へて、深海航行用[やぶちゃん注:確かに原文は“for deep-sea sailing”であり、平井呈一氏も『深海を走る船』と訳しておられるけれど、潜水艦じゃあるまいし、ここはやはり「遠洋航海用の」でいいと思うのだけれど。]の船を二三建造するやうに彼に委任した。かくして此の一水先案内は一人の侍に取り立てられ、そして所領を與へられた。彼は恁う書いた、『ご皇帝の御役に使はれたので、彼は私に對して、イングランドの貴族のやうに、丁度私の奴隷、若しくは召使たるべき八九十人の農夫をつけて祿を私に與へた。かくの如き事、或は同樣な先例は嘗てこの國では、如何なる外國人にも與へられた事のなかつた事である』と。……アダムスが家康に對して勢力のあつたといふ證明は、イギリス商館のキヤプテイン・コツクの通信によつて得られる、コツクは一六一四年[やぶちゃん注:慶長十九年。]に彼に關して次のやうに書いて故國へ送つた、『實を言へば皇帝は彼を甚だ尊重してゐる。そして彼はいつでも入殿して、諸王や諸公子が退座させられてゐる時でも、【註二】彼と話しする事を得た』と。イギリス人が平に商館を建設することを許されたのは、この勢力によつたのである。第十七世紀の物語の中で、この白面のイギリス人なる水先案内の話程不思議なのはない、――自分を扶ける者とては唯だ率直な正直と常識との外なにもなく――しかも日本のあらゆる統治者の中での、最も偉大な又最も機敏な人の、かくの如く格別の恩顧に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]まで登つたといふ。併しながら、アダムスは遂にイギリスヘ歸る事を許されなかつた――多分彼の奉仕が、それを失ふことの出來ない程貴重なものと考へられたからであらうか。彼は自らその手紙の中で、家康は、イギリスに再び歸るといふ一權のほかは、彼の願つたものは、何でも決して拒絶しなかつた。彼があまり屢〻それを求めた時【註三】、この『老皇帝』には默した儘何も云はなかつたと言つて居る。

註一 『日每にポルトガル人は吾々に對して裁判官と人民の怒を煽ることを盛んにした。そして吾々の仲間の中二人は裏切者となつて、自ら王(大名)に仕へた、それはポルトガル人によつてその生命を保證されたため、何事も彼等と一緖に共謀するやうになつたからである。その一人は名をギルバアト・ド・コンニングといつて、彼の母はミツドルボロに住まつてゐる、又彼は自らこの船に於ける貨物一切の商人であると稱して居た。今一人はジヨン・アベルスン・ヴアン・オウオタアと云つた。此等の裏切者達は貨物を彼等の手に入れるために、あらゆる種類の方法を講じ、吾々の航海中に起つた總てのことを彼等に知らした。吾々の到着後九日經つて、此國の大王(家康)は私に彼の許まで來るやうにと言つて來た』――ヰリアム・アダムスのその妻にあてた手紙。

註二 『神樣の思召で世間の人の眼には不思議に思はれるに相違ないやうな事が起こるやうになつた、何となればヱスパニヤとポルトガルとは私の不倶戴天の惡むべき敵であつたのである、然るに今彼等は此卑しい慘めな者なる私に求めなければならないのであるから、そしてポルトガルもエスパニヤも彼等の商議の一切を私の手を通してしなければならないからである』――一六一三年[やぶちゃん注:慶長十八年。]一月十二日附のアダムスの手紙。

註三 彼は彼を殺さうと求めた人々にまでも好意を持つてゐる。アダムスは恁う言つた『私は彼の氣に入り、私の言つた事に彼は何でも反對しなかつた。私の以前の敵達はそれを不思議がつてゐた、そして今となつて彼等は私がエスパニヤ人とポルトガル人に對してなしたやうな友誼を彼等に對してもつやうに私に懇願しなければならなかつた、惡に報ゆるに善を以てするといふやうにして。それで私の生活を得るために時を費やすには、私には最初非常な勞働と困難とを要した、併し神樣は私の勞働に報いを授け給うた』

[やぶちゃん注:「ハワアド」政治家で海軍軍人の初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(Charles Howard 一五三六年~一六二四年)か。一五八五年から一六一九年にかけて海軍卿を務め、「アルマダ海戦」(Armada Wars:スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻に於いて一五八八年に英仏海峡で行われた諸海戦の総称)を始めとするスペインとの戦争を指揮した人物。ウィリアム・アダムス(William Adams)は一五六四年生まれで、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)来日、元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日)没である。

「セイマア」初代ハートフォード伯エドワード・シーモア(Edward Seymour 一五三九年~一六二一年46日)か。ウィキの「エドワード・シーモア初代ハートフォード伯によれば、父はエドワード世の『下で護国卿を務めたサマセット公エドワード・シーモア、母はサー・エドワード・スタンホープの娘アン。一五五二年に『父がウォリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバランド公)らに捕らえられ処刑されるとサマセット公位を始め爵位は没収されたが』、一五五九年に『新設の形でハートフォード伯・ビーチャム男爵に叙せられた。しかし』、一五六〇年にヘンリー世の『曾孫に当たるキャサリン・グレイ(サフォーク公ヘンリー・グレイとメアリー・テューダーの娘フランセスの次女でジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したため、エリザベス』『世の怒りを買い』、『ロンドン塔へ投獄された。ただ、獄中にも関わらず』、『妻の下を訪れていて』、一五六一年には長男エドワードが、一五六三年には『次男トマスが生まれている』。一五六八年に『キャサリンが死亡すると釈放されたが、息子』二『人は庶子とされ』、『王位継承権は無いものと決められた』。一五八二年に『フランセス・ハワードと再婚した際、子供達を嫡子に格上げしようとして』、『再び捕らえられ』、一五九八年には『フランセスが亡くなり』、『失敗に終わった』。一六〇一年に『ハワード子爵トマス・ハワードの娘フランシスと』三『度目の結婚、フランセスとの間に子供が無いまま』、『死去した』とある。但し、「Seymour」姓の人物は複数おり、私は世界史に疎いので、彼以外の人物かも知れない。

「ドレイク」イングランドの航海者で私掠船(しりゃくせん:英語:Privateer:戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃し、その船や積み荷を奪う許可である私掠免許を得た個人の船を指す)船長であったが、海軍提督となったサー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ドレークによれば、『イングランド人として初めて世界一周を達成し』、「アルマダ海戦」では、『艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した』。『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「ホオキンズ」イングランドの私掠船船長・奴隷商人で、海軍提督ともなったジョン・ホーキンス(John Hawkins 一五三二年~一五九五年)であろう。ウィキの「ジョン・ホーキンスによれば、彼は『フランシス・ドレークの従兄弟であり』、彼も『アルマダの海戦で活躍した』とある。

「フロビシヤア」イギリスの航海者・私掠船船長で探検家のサー・マーティン・フロビッシャー(Sir Martin Frobisher 一五三五年又は一五三九年頃~一五九四年)であろう。ウィキの「マーティン・フロビッシャーによれば、『私掠船に乗ってフランス船などを襲い多くの富をイングランドにもたらした。北西航路の探検を始めた後は』、三『度にわたり』、『現在のカナダ・バフィン島(レゾリューション島およびフロビッシャー湾)を訪れ』、『航路よりも金の採取に熱中したが、結局』『、採取した鉱石は金ではなく』、『ただの黄鉄鉱だったことがわかった』。一五八八年の「アルマダ海戦」では、『スペイン艦隊の撃退に対する貢献から爵位を贈られている』とある。

「一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル」

「イギリス商館のキヤプテイン・コツク」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。]

大和本草卷之十三 魚之上 泥鰌(ドヂヤウ) (ドジョウ)

 

泥鰌 海鰌ハクジラ也極テ大ナリ泥鰌ハ極テ小也ナレ

 𪜈形ハ相似タリ性温補脾胃ヲ助ク但峻補乄塞氣

 然煮之有㳒○一種京シマドヂヤウ一名鷹ノ羽

 トチヤウト云アリ又ホトケトチヤウ共云筑紫ニテカタビ

 ラトチヤウト云泥中ニハヲラス沙溝淸水ニ生ス本草

 時珍曰生沙中者微有文采ト是也ドヂヤウノ白色

 ニテ有文采者也○泥鰌ノ羹先米泔ニテ能煮ア

 フラ浮ヒタルヲスクヒテスリミソヲ入一沸スレハ氣ヲ不塞乄

 ツカエス煮鰌法也

○やぶちゃんの書き下し文

泥鰌(ドヂヤウ) 海鰌は「クジラ」なり。極めて大なり。泥鰌は極めて小なり。なれども、形は相ひ似たり。性、温補して、脾胃を助く。但し、峻補〔(しゆんほ)〕して、氣を塞ぐ。然〔れども〕之れを煮〔るに〕、㳒〔(はふ)〕、有り。

○一種、京、「シマドヂヤウ」、一名「鷹ノ羽ドヂヤウ」と云ふあり。又、「ホトケドヂヤウ」とも云ふ。筑紫にて「カタビラドヂヤウ」と云ふ。泥中にはをらず。沙・溝・淸水に生ず。「本草」、時珍曰はく、『沙中に生ずる者、微かに文采〔(もんさい)〕有り。』と。是〔(これ)〕なり。「ドヂヤウ」の白色にて文采有る者なり。

○泥鰌の羹〔(あつもの)は〕、先〔(まづ)〕、米〔の〕泔〔(ゆする)〕にて、能く煮、あぶら浮びたるをすくひて、「すりみそ」を入れ、一沸〔(ひとわかし)〕すれば、氣を塞がずして、つかえず。鰌を煮る法なり。

[やぶちゃん注:脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus が本邦産の代表的一般種。属名「ミスグルヌス」はヨーロッパドジョウ(Misgurnus fossilis:英名European weatherfish or European weather loach)を指す古い英語名に基づき、種小名「アンギリカンダトウス」は「ウナギの尾のような」の意。但し、市販されているもの及び料理屋で供されるそれらは多くがドジョウ属カラドジョウ(唐泥鰌)Misgurnus dabryanus であることが多くなったという(ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカラドジョウのページによるが、泥鰌好きの私も強くそう感ずる)。同種はアムール川からベトナムまでの中国大陸東部・朝鮮半島・台湾が原産地であるが(ここはWEB図鑑「カラドジョウに拠る)、ぼうずコンニャク氏によれば、カラドジョウは『日本では関東地方、東海地方、近畿地方、愛媛県などで確認されている。日本では国外外来種で、要注意外来生物。群馬県、栃木県、埼玉県、神奈川県、長野県、愛知県、岐阜県、滋賀県、山口県、香川県、愛媛県などで定着』してしまっているとあり、WEB魚図鑑「カラドジョウ」には、『本種は食用として輸入されたドジョウに混ざって逃げ出した、あるいは遺棄され日本に定着したものとされている』。『しかし、日本列島ではふたつの異なる遺伝的集団があることが報告されており、そのうちの一つは中国のものと同じ集団とされる(移植され』て『定着したものと思われる)が、もう一つの集団は他の地域で見られない集団であると』され、『現在』、『研究が進められているところである』とある。なお、私も若い頃はよくやったが、恐るべき有棘顎口虫の中間宿主となることがあるから、「踊り食い」などの生食はやめたがいい。

「ドヂヤウ」ウィキの「ドジョウによれば、『多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、字音仮名遣に従った表記では「どぢやう」が正しいとされている。大槻文彦によれば、江戸後期の国学者高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから「どぢょう」としたという。「どぜう」の表記は越後屋初代・渡辺助七が「どぢやう」は』四『文字で縁起が悪いとして縁起を担ぎ』、三『文字の「どぜう」を用いたのが始まりといわれる』とあり、私の行きつけの「駒形どぜう」の主人もそう言っていた。

『海鰌は「クジラ」なり』例えば、かの曲亭(滝沢)馬琴の描いた鯨図譜の題名は「海鰌圖說」(かいしゅうずせつ:現代仮名遣)である。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで全図見られる。但し、現在、本邦には「海泥鰌」「海鰌」「うみどじょう」の名を標準和名に持つ。骨魚綱条鰭亜綱側棘鰭上目アシロ目アシロ亜目アシロ科ヨロイイタチウオ属ウミドジョウ Loach brotula がいるので注意されたい。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のウミドジョウのページをリンクさせておく。それによれば、無論、海水魚で水深三十~二百メートルのやや深い砂泥地に棲息し、分布は千葉県外房から九州南岸の太平洋沿岸、新潟県から九州西岸の日本海・東シナ海、及び東シナ海大陸棚斜面から上部で朝鮮半島東岸・済州島・山東省から海南島の中国沿岸、オーストラリア北岸・東岸・西岸とあり、『食用として認知されていない』とある。ちょっと漫画っぽい風体である。

「クジラ」脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla 鯨凹歯類 Cetancodonta、或いはその下位の鯨反芻亜目クジラ目Cetacea に属するクジラ類。

「形は相ひ似たり」おいおい! 似てませんって! 益軒先生! と叫ぼうと思ったら、後に示すように「本草綱目」の受け売りだったのね、先生。

「峻補して、氣を塞ぐ」狭義には、漢方医学に於いて補益力の強い薬物を用いて、気血の激しい虚なる状態や陰陽の気が孰れかに暴走している事態を急激に変化させる療法を指すが、ここはそうした薬効作用が甚だ強いため、精神面での副作用を起こし、気鬱になるという意味であろう。

「然〔れども〕之れを煮〔るに〕、㳒〔(はふ)〕、有り」「㳒」は「法」の異体字。後述されている。

「シマドヂヤウ」「鷹ノ羽ドヂヤウ」日本固有種である、ドジョウ科シマドジョウ(縞泥鰌)属シマドジョウ Cobitis biwae であるが、近年同種からCobitis sp. として「オオシマドジョウ」・「ニシシマドジョウ」・「ヒガシシマドジョウ」「トサシマドジョウ」(どれの異名かは不詳であるが、「スジシマドジョウ」の名もあるようである)の四亜種が分離されているらしく(ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のニシシマドジョウのページに拠る)、それらも当然、「タカノハドジョウ」の異名を引き摺って保有していると考えねばならぬし、ほかにもヤマトシマドジョウ Cobitis matsubarae もおり、それも含めた方が無難である(後で示すサイト川のさかな情報館シマドジョウ属も参照のこと)。また、ウィキの「シマドジョウ」によれば、他にも「カワドジョウ」「ササドジョウ」「スナサビ」「スナメ」などの異名や地方名が多いとあり、『山口県西部・四国南西部を除く』、『ほぼ日本各地の淡水域に生息している。河川の中流域の砂礫底に多く見られる』とある。

「ホトケドヂヤウ」記載ではシマドジョウの異名のようにしか見えないが、現行ではシマドジョウとは科レベルで異なる全くの別種である。コイ目タニノボリ科フクドジョウ(福泥鰌)亜科ホトケドジョウ(仏泥鰌)属ホトケドジョウ Lefua echigonia。日本固有種。シマドジョウのような有意な縦縞はなく、体色も全体に茶褐色から赤褐色を呈して(黒点散在)いて、全く似ていない。分布域は青森県を除く、東北地方から三重県・京都府・兵庫県。但し、フクドジョウ属フクドジョウ Noemacheilus barbatulus の方は、縦縞があり、ややシマドジョウに似てはいる。しかし、フクドジョウは国内での自然分布域は北海道のみで、近代以降に福島県・山形県米沢市に移入、他にはシベリアから中国東北部・朝鮮半島・サハリンに分布する北方種であり、益軒の頃の認識世界の外にいた種であるから、考える必要はない。

「カタビラドヂヤウ」「帷子泥鰌で、先の仏泥鰌の異名だろう」と思っていたが、ちゃんと調べようと思って検索してみて、驚いた! これは何と! この「大和本草」のこの部分の記載(!)によって、九州の有明海へ流入河川に固有の種として、アリアケスジシマドジョウ Cobitis kaibarai という学名(種小名に注目!)が与えられているものの、福岡県での他種とのヤマトシマドジョウ Cobitis matsubarae  などとの混称異名である。この事実を発見したのは、サイト川のさかな情報館シマドジョウ属で、そこには、『筑紫(現在の福岡県)で初めてシマドジョウ類(カタビラトチヤウ)を記録した本草学者「貝原益軒」にちなむ』とあるのである!

「泥中にはをらず。沙・溝・淸水に生ず」シマドジョウ類は『河川の中流域の砂礫底に多く見られ』(ウィキの「シマドジョウ」)、ホトケドジョウも『水温が低く流れの緩やかな河川や湿地、水田等に生息する。あまり底層には潜らず、単独で中層の水草の間を泳ぎ回ることが多い』(ウィキの「ホトケドジョウ」)とあるから、棲息域は孰れでも齟齬はない。

『「本草」、時珍曰はく、『沙中に生ずる者、微かに文采〔(もんさい)〕有り。』と』「本草綱目」巻四十四の「鱗之三」の「鰌魚(しゅうぎょ)」(下線太字はやぶちゃん)。

   *

鰌魚【音酋。「綱目」。】

釋名泥鰍【俗名。】。【「爾雅」。】。時珍曰、按、陸佃云、鰌、性酋健、好動善優、故名。小者名鰌魚。孫炎云、者尋習其泥也。

集解時珍曰、海鰌生海中、極大。江鰌生江中、長七八寸。泥鰌生湖池、最小長三四寸、沈於泥中。狀微似鱓而小、銳首肉身、靑黑色、無鱗。以涎自染、滑疾難握。與他魚牝牡、故「莊子」云、『鰌與魚游。』。生沙中者微有文采。閩廣人去瘠骨、作臛食甚美。「相感志」云、燈心煮鰌甚妙。

氣味甘、平。無毒。景曰、不可合白犬血食。一云凉。

主治暖中益氣、醒酒、解消渴【時珍。】。同米粉煮羮食調中、收痔吳球。

附方新五。消渴飮水、同泥鰌魚【十頭陰乾、去頭尾、燒炭。】乾荷葉等分。爲末。每服二錢、新汲水調下、日三。名沃焦散【「普濟方」。】。喉中物哽、用生鰍魚、線縳其頭、以尾先入喉中、牽拽出之。【「濟普方」。】。揩牙烏髭、泥鰍魚槐蕋狼把草各一兩、雄燕子一箇、酸石榴皮半兩、搗成團入瓦罐内、鹽泥固濟、先文後武、燒炭十觔取研、日用一月以來、白者皆黑普濟陽事不起、泥鰍煮食之【「集簡方」。】。牛狗羸瘦、取鰌魚一二枚、從口鼻送入、立肥也【陳藏器。】。

   *

『「ドヂヤウ」の白色にて文采有る者なり』それで通属性を言うというのは、ちょっと無理。

「泔〔(ゆする)〕」米のとぎ汁、或いは、強飯(こわめし)を蒸した後の湯を指す。かつてはこれで頭髪を洗い、また髪を梳(くしけず)る際に濡らす水として一般に用いられた。]

ブログ1140000アクセス突破記念 梅崎春生 三日間

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年一月号『新潮』初出。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。

 簡単な語注を最初に添えておく。

・「トンコ節」旧録旧版と新録新版の二種(歌詞が異なる)があり、昭和二四(一九四九)年一月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットで日本コロムビアから発売されたのが前者で、昭和二六(一九五一)年三月に、同じく久保幸江が新人歌手であった加藤雅夫とともに吹き込んだものが後者。作詞は西條八十、作曲は古賀政男である。ウィキの「トンコ節」によれば、一九五〇年『以降から売れ出した理由には朝鮮戦争の特需景気による「お座敷の繁盛」という社会状況の変化が大きかったともいわれ、歌詞に見られる「さんざ遊んでころがして」や「上もゆくゆく下もゆく、上も泣く泣く下でも泣くよ」といったアブナ絵的な文句が、特需景気で増えた新興成金層による宴会などで騒ぐためのお座敷ソングとして定着したことが大きな要因とされている』。『新版を発売するにあたりコロムビアは、引き続きの作詞者である西條八十に対して「宴会でトラになった連中向きの唄を」と依頼しており、それに応える形で八十は当時としてはエロ味たっぷりの文句に書き直した。評論家の大宅壮一はこれを「声のストリップ」として批判している』とある。本作の初出から見て、ここで若者に歌われるのは後者のヒットを受けてのもの、即ち、エロい歌詞のそれと考えてよい(読めば分かるが、この性的ニュアンスは梅崎春生の確信犯である)。後者の当該録音はこれである(You Tube 0klz39氏のアナログ七十八回転レコード再生版)。歌詞だけならばj-lyric.netのこちらで新版が、同じくこちらで恐らくは旧版と思われるものが読める

・「成意」は「せいい」で、「当然の権利として認識しているといった感じを表わした主張」といった意味で使っているようである。

・老人が唄う子守歌の一節は「五木の子守歌」のお座敷唄の最終節である。歌詞全篇はウィキの「五木の子守歌を参照されたい。

・「坊主枕」は「括(くく)り枕」。布帛で筒形に縫い合わせ、蕎麦殻や茶殻などを入れて、両端をくくって作った円筒形の中・大型の枕のことで、元来は箱枕・木枕などと区別して言う語であったが、ここはもう、現行の我々が使っている普通の枕の大き目の奴と思えばよろしい。

・「一仕切」「ひとしきり」で、「仕事が一段落ついた」「一区切りついた」の意。

・「五六間」九・一~十一メートル弱。

・「軽燥(けいそう)」落ち着きがなく騒がしいこと。思慮が浅く軽弾みなこと。ここは一種の擬人法的用法。

・「厚物咲」「あつものざき」で、分厚く、花弁の多い鑑賞用の菊を指す語。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1140000アクセス突破を記念として公開した。【2018年9月20日 藪野直史】]

 

  三日間 

 

「長いヘチマだね」

「ああ、なんてひょろ長えんだ」

 畳屋が二人、庭で仕事をしていた。

 縁側のすぐ前に、低い木台をならべ、畳が一枚ずつ乗っている。畳は、部屋にはめこまれている時よりも、厚ぼったく、またその面積もいくらか大き目に見えた。あたりには、剝(は)ぎとられた古畳のへりや、よれよれの糸屑、新しい畳表の裁(た)ち片などが、雑然とかさなり、ちらばっている。そこらに午後の陽は照り、空気は乾き、ときどき藺(い)のにおいがただよい動いた。

 畳屋の一人は、五十五六のあから顔の男で、体軀(たいく)もがっしりしていた。片方は、まだ三十歳にならぬ、どこかしなびたような、青白い若者だ。若者の方は左利きらしく、老畳屋とは逆の姿勢で、反対の動作で仕事をすすめていた。左手で畳針を刺す。はみ出た畳表の端を、ずんぐりした刃物で断ち落す。薬罐(やかん)の口をじかにくわえて、水を霧にしてふきつける。しかしその動作は、はなはだ鈍い。陽をななめに受けて、霧の中には小さな虹が立った。

 この家の主(あるじ)、人見莫邪(ばくや)は、縁側に大あぐらをかき、放心したような眼付きで、二人の動作を見くらべている。畳屋の仕事の手ぶりにつられて、そっとその手が動きそうになる。はっきりしないような声で言った。

「長いだろう」

「長えね。なんだってこんなに、伸びたんだろう」

「ほっといたら伸びたんだ」

 ヘチマは古びたヘチマ棚から、ただ一本、ひょろひょろとぶら下り、その尖端は、老畳屋の頭から一尺ほどのところに揺れている。直径は一寸ばかりなのに、長さは三尺もある。さっきからそれが気になっているらしく、仕事の手をやすめて、老人はまぶしそうにヘチマを見上げた。眼尻に飴色(あめいろ)の眼やにがたまっている。干(ひ)からびた油絵具のかけらを、莫邪はふと聯想(れんそう)した。

「初めはヒョウタンだとばかり、思ったんだがね」

「ヒョウタンとは違うよ」

 この春、駅前の苗木屋で、この苗を求めたのだ。たしかにヒョウタンと指定した筈なのに、実って見ると、まぎれもなくヘチマである。ヘチマでは、中をくりぬいて酒を入れるというわけには行かない。と言って半年前のことだから、苗木屋に文句つける気にもなれない。近頃このヘチマの恰好(かっこう)を見る度に、莫邪はしてやられたような、また莫迦莫迦(ばかばか)しい気分になる。

「ヘチマ、嫌いかね?」

「嫌いじゃないよ」と老人は答えた。「嫌いじゃないけれど、あんまり長過ぎる。長過ぎると、感じが良くないね。おれは長えもの、この頃なんだか厭だねえ」

「欲しけりや上げるよ。多分いいアカスリが出来るよ」

「うん。荷車なんかに竹竿を積んだりするのがあるだろう。竿が長過ぎて、うしろにはみ出てさ、地面に引きずっている。あんなのは大嫌いだね。見ていると、口の中がカラカラになって、おでこが痛くなってくるんだ」

 莫邪と老人の対話を、若者はちらちら横目を使うようにしながら、聞いていた。青白い頰に、愚鈍らしい笑いをうかべている。その掌や肱(ひじ)や肩は、相変らずのろのろと動いている。莫邪はその腕を見ていた。若者の腕はすべすべして、肱の畳ダコも、老人のそれにくらべると、型も小さく不確かであった。そのタコの形や色に、莫邪は突然するどい生理的な色情を感じた。莫邪は視線を浮かせた。畳を剝ぎ取られたはだかの部屋に、柱時計がかかっている。針は三時五分前を指している。 

 

 ガスに点火して、薬罐(やかん)をのせる。新しいのは、霧吹き用に畳屋に貸したから、つるのとれかかった古薬罐だ。そそくさと台所を出、渡り廊下をぬけて、画室に入る。画室と言っても、莫邪が自分でそうきめているだけで、離れの四畳半を改造した、へんてつもない板の間である。イーゼルは埃(ほこり)をかむって、部屋のすみに押しやられ、床には彩色しかけた小さな金具が、足の踏み場もなく散らばっている。(長いものが嫌いだとは妙な爺さんだな)莫邪はそう思いながら、床から煙草の袋をつまみ上げ、中味をしらべてポケットに入れる。台所に戻ってくると、ガス台の薬罐は、もうシュンシュンと白い湯気を立て始めていた。

 ラッキョウを盛った井と煮立った薬罐をぶら下げて、莫邪が縁側に戻ってきた時、畳屋は二人とも縁に腰をかけ、煙草をふかしていた。その二人に、彼は急須から茶を注いでやった。

「こいつは早くヘチマ水を取るといいね」

 ラッキョウを掌に受け、器用に口にほうりこみながら、老人が言った。

「そうかい。それはどうやって取るんだね?」

「茎を切って、それから――」

 水の取り方を、老人は熱心に説明し始めた。莫邪はいい加減に相槌(あいづち)を打ちながら、ろくに聞いていなかった。肥った頰の肉がややゆるんで、うす笑いをしているように見える。運動不足のせいか、近頃また一まわり肥ったようだ。老人は話し終った。すばやい手付きで、ラッキョウを五六粒口に投げこむ。

「ヘチマ水には、用はないんだ」

 少し経って莫邪は低い声で言った。

「そりや旦那には用はねえだろうさ。男だから――」

「女房はいないんだよ」

「へええ」

 老人はちらりと莫邪の顔を見た。べつだん驚いた表情でもなかった。

「旦那はいくつだね?」

「三十五だよ。爺さんは?」

「おれの女房か。いることはいるが、今病院に入っている。もう三年ごしだ」

「あれ、あんなにナメクジがいやがら」

 と若者が口をさしはさんだ。若さに似ずかすれたような声である。その指さした庭のすみっこに、ナメクジが七八匹白っぽくぐちゃぐちゃにかたまっていた。莫邪の指は無意識のうちに、肥った膝の上で、むずむずとなにかこすり落すような動き方をした。

「さっきは俺の膝にも、一匹這(は)いのぼって来たぜ」

 庭を仕切る長者門の扉がぎいと開いて、変な器械をぶら下げた男が、つかつかと入ってきた。平気な顔で庭を横切り、台所の方に歩いてゆく。莫邪も立ち上って、汚れた床板を爪先立って歩き、台所に入った。その男は案内も乞わず、職業的な無表情さで、がたがたと上ってくる。(こういう連中は、よく台所のありかを見当つけるもんだな。職業的習練というやつかな)そんなことを考えながら、莫邪はだまって男の動作を眺めている。

 男はヤッと小さなかけ声をかけて、ガス台の上によじのぼった。手にした変な器械を、ヒューズのところに近づけたり遠ざけたり、しきりになにかを調べている。三分ほどしてまた、ヤッというかけ声と共に、男の軀(からだ)は床に降り立った。揚げ板ががたんと弾(はじ)けた。

「ちいっとばかり、漏電の気味ですな」

 男は蒼(あお)黒い顔を、初めて莫邪にむけた。

「注意したがいいですよ」

「どこが漏電してるんだね」

 と莫邪は興味をおこして訊(たず)ねてみた。

「まあ漏電というほどじゃないが、天井裏の配線のどこかに、具合の悪いところがある」

「じゃ、その配線をとっかえればいいんだね」

「そうすりゃ、一番安全だ。はあ」

「君んとこの会社で、それをやって呉れるのかい?」

「いや、うちじゃやらんね」

「じゃどうすりやいいんだい」

「注意することですね」

 と男は憐れむような眼差しで、莫邪を見おろした。

「この家はもう古いからね、どうしても配線が傷んでるね。電熱器とか大きな電球は、使用しないことですね」

 男は三和土(たたき)に降りて、板裏草履をつっかけた。ガラス扉に手をかけた。

 その後姿に、莫邪は声をかけた。

「君はメートル調べじゃないんだね。漏電を調べる係りなんだね」

「そうですよ」

「漏電を調べるだけで、あとは何もしないのかね。つまり、漏電箇所の修繕とか修理だとか――」

「それはやらない。そりゃわたしの任務じゃない。ただ漏電の状況を調査するだけ」

「ふん」

 莫邪は割切れない気持でつけ足した。

「いい商売だね」

「あまり良くもないさ。ところであんたは画描きかね?」

「いや、なぜ?」

「絵具のにおいがしたから」

 莫邪は黙っていた。男は外に出て、も一度蒼黒い顔を彼にふりむけた。

「なにしろ古家だからね。建ってから三四十年は経つね。だから、あちこち破れたり湿ったりしている。出来りゃ電気をもう使わないことですね。はあ。そうすりや漏電したり、火事になったりすることは絶対にない」

 ガラス扉がしめられ、湿土を踏む草履(ぞうり)の音が遠ざかってゆく。莫邪は何となく手を伸ばして、ついでのようにガスの栓をひねってみた。シュウシュウと音が立った。においが鼻に来た。莫邪は栓をゆっくりしめた。昔は止んだ。

「さて」

 裸の床板を兎(うさぎ)飛びして、縁側に戻ってくると、二人はまだ縁に腰かけて、煙草のけむりをはいていた。茶碗も空だし、丼のラッキョウもすっかり空になっていた。老人は莫邪の顔を見ると、ゆるゆると腰を上げ、半纏(はんてん)の裾をはたはたと叩いた。

「さあ、仕事だ」

 若者も立った。ヘチマの胴を指でちょっとつつく。秋陽の中で、そのだらしなく細長い物体は、不承不承(ふしょうぶしょう)に揺れた。 

 

 流しのすみにも、小さな飴(あめ)色のナメクジが、一匹へばりついていた。空の丼を洗ったついでに、そいつもついでに流し落し、手をズボンで拭き、莫邪は台所を出た。そして画室に入った。(畳屋というやつは、ラッキョウを五六十粒も、よく食えるもんだ)床に散乱した金属片をかきわけて、莫邪は床に坐りこんだ。あたりを見廻した。

「さあ、こちらも仕事だ」

 さまざまの形のブリキ片は、パチンコ台に使用する金具である。比較的大きいのはケースと言って、玉のたまるところを飾る金具。小さいのはハッタリという名で、穴をかざるブリキ片のことだ。それらの彩色を、知合いの辰長パチンコ台製作所から依頼されて、明後日までに仕上げて届ける約束になっている。彩色代は、ケースは一枚につき二十円、ハッタリは五円だ。それほど悪い手間ではない。ハッタリなどはその気になれば、一日に四百や五百は彩色出来る。それぞれの形に応じて、七福神の顔を描いたり、猿や牛や梟(ふくろう)を描いたり、花や機関車や昆虫を描く。面白い仕事ではないが、引換えに金を呉れるので、収入としては確実だ。以前勤めていた雑誌社よりは割がいい。

 一年前その雑誌社をクビになって以来、莫邪はひどく苦労した。身寄りには、丸の内に事務所をもっている異母兄があるが、そうそう援助を仰ぐわけにも行かない。ある日偶然、莫邪は電車の中で、中学校時代の旧友辰野長五郎に出会った。莫邪の失業を知ると同情して、俺のところの仕事をやってみないかと言った。

「君はたしか絵ごころがあったな、あの頃から」

「仕事って何だね?」

 と莫邪は反問した。辰野は名刺を出した。辰長パチンコ台製作所長という肩書がついている。辰野は大きな掌を莫邪の肩に置き、慈善者特有の過剰な光を眼に宿しながら、なだめるように言った。

「なに、絵ごころがあれば、素人(しろうと)だってやれるさ。古なじみだから、特に割を良くしておくよ」

 それから四ヵ月、莫邪はもっぱらこの仕事で生計を立てている。画室にとじこもって、終日この仕事をしていると、何だか自分が囚人にでもなったような気がしてくる。雑誌記者時分に、彼はF刑務所を見学に行ったことがある。その時たくさんの囚人たちは、黙々と坐って、玩具をつくったり箱の紙貼りをしたりしていた。一日中ブリキ片と向い合っていると、自分の表情が囚人たちのそれと、全くそっくりになってくるのが判る。その自覚は重苦しかった。

「さあ、仕事だ」

 莫邪はも一度、ぼんやりと四辺(あたり)を見渡した。しかし手は画筆の方には伸びない。急に腹が減ったような感じで、マカロニみたいなものが突然食べたくなってくる。咽喉(のど)がぐうと鳴った。

「あいつら、仕事してるかな?」

 畳を換えようと思い立ったのは、半年ばかり前、春頃のことだ。金のやりくりの都合で今まで伸び伸びになったが、今だってやりくりがついたわけではない。畳はますます傷(いた)んでくる。雨が降ると部屋のすみに茸(きのこ)が生えたりする。なるたけ畳の上は踏まずに、縁や廊下や敷居を歩くようにしているが、それでもいよいよ傷んでくる。やむなく思い立って、月払畳表替株式会社というのに頼んで、畳替えをして貰うことになった。替代は、今月から四ヵ月、月割で会社に払い込めばいい。今来ている二人は、その会社がよこした畳職だ。だから金銭支払いについては、この二人は直接莫邪とは関係がない。彼等は会社から、きまった日当を貰うのだろう。二人の働き方がのろのろしているのは、どうもそのへんに関係があるらしい。

 莫邪としては、何日かかろうとも、とにかく畳が新しくなればいいのだから、その働きぶりに干渉する気もないが、今朝からなんということもなく、何度も縁側に足を運び、二人の仕事ぶりを仔細らしく眺めた。どうも連中の動作は、他のことに気をとられているような具合で、はっきりしないところがある。ラッキョウを食べる時ははっきりしているが、いざ仕事に向うと、労働していると言うより、単に止むを得ず動いているようなおもむきだ。

「へんなもんだな」

 彼は無意識に画筆をとり、左手で鈍色(にびいろ)のブリキの一片をつまみ上げていた。その表面に、芋虫みたいな模様をさっさっと描きつけると、画筆をそばに置いて、しばらくそれを眺めていた。笑いに似た翳を頰にはしらせながら、そのまま立ち上った。ブリキ片はカチャリと床に落ちた。猫足で渡り廊下を過ぎ、台所に入った。

 塩は食器戸棚の壺の中にあった。一握り、大づかみにつかむと、莫邪は下駄をつっかけ、勝手口から外に出た。庭に廻ると、畳屋はさっきと同じ姿勢で、のろのろと手や体を動かしていた。場所は老人と若者が入れ代っている。ヘチマのすぐ下で、若者は肱(ひじ)でぐりぐりと畳を押しながら、低い声で流行歌をうたっていた。その背を廻り、庭のすみに莫邪はしゃがみこんだ。根太の根元に、ナメクジ群はかすかにうごめきかたまっている。うしろで眠そうな老人の声がした。

「ナメクジかい?」

「うん。塩をかけてやるんだ」

「よしなよ。もったいない」

しかし莫邪は、塩をばらばらとふりおとし、最後に掌全部を使って、ぐしゃりとそこに塩を押しつけた。塩は白い土饅頭(まんじゅう)の形となり、その表面に掌や指の形を不明確に残した。声を含んで笑いながら、莫邪は立ち上った。若者はまだ低声でトンコ節を口吟(くちずさ)んでいる。

 すこし経って、莫邪は二人のどちらにともなく声をかけた。

「どうだね。今日中には済みそうにないね」

「ああ、済まないね」

 老人は気のない返事をして、空を見上げた。空には雲が出始めていた。

「明日にかかるね。まあのんびりやるんだね」

「明日もいい天気だといいけどね」 

 

 再び画室に戻って、二時間ほど、こんどは仕事が相当にはかどった。ケースを十枚に、ハッタリ五十枚ばかり。その代りにこれらは、注文通りの意味ある絵模様ではなく、色と形の単純な組合せばかりだ。さっきの芋虫模様で思いついて、こんな試みをやって見たのだが、大黒やお多福の図案より面白く出来上ったと思う。でも辰長パチンコの方で何と言うか判らない。

(シュールはいけませんや、シュールは)製作所主任の棚山がそう言いながら、両掌で莫邪の方に空気を押しもどす。そんな状況を、莫邪はちらと頭のすみで想像した。

 縁側の方から声がした。

 彩色を仕上げたブリキ片を、床にていねいに四列縦隊にならべて、目算する。柱時計が五時を打った。風が出ている。夏から窓にぶら下げ放しの小さな竹の虫籠が、ふらふらと揺れている。その中には、しなびた胡瓜(きゅうり)の残骸と、かなぶんぶんの死骸が二個人っている。かなぶんぶんは鳴かないし、ごそごそ這(は)い廻るだけだし、飼って見て面白味のある動物ではなかった。死骸になればなおのこと面白くない。生きていれば、ハッタリのモデルぐらいにはなるだろうけれども。

 声が呼んでいるらしい。

 縁側には、畳屋二人が腰をおろして、庭を眺めていた。道具や木台はすっかり片づいている。出てゆくと、座敷の方から新しい畳のにおいが、莫邪の嗅覚をうった。そのまま座敷に踏み入り、二三回ぐるぐると歩いて見る。新畳は陽を吸って、蹠(あしうら)になまあたたかかった。それは快よさというより、妙に不吉なものを、莫邪に感じさせた。かすかな身慄いを感じながら、彼は縁に出て来た。

「もう溶けたかな」

 塩饅頭のあたりを見ながら、莫邪はぼんやりと口を開いた。老人はその言葉を聞き違えたらしい。

「いや、今日はもう時間だよ。あとは明日だ。明日の昼までには済むよ」

「そりやご苦労さま。それで――」

 手間賃は会社から出るんだろうね、と言いかけて止しにした。言わなくても判っていることだし、無駄なことは言わないがいい。あやふやに言葉をついだ。

「お茶でも沸かすか」

「焼酎がのみたいな」

 若者がざらざらした声でそう言った。莫邪は若者を見た。若者は脣(くちびる)を曲げてへなへなと笑っている。別に成意のある表情でもない。老人はむっと黙っている。背をまっすぐに立てて、ヘチマの揺れを眺めている。莫邪は柱によりかかり、ゆっくりと口を利いた。

「焼酎はないよ。お茶ならあるが」

「買って来るよ」

「金は僕が出すのかね?」

 そんなしきたりなのかと思いながら、莫邪は反問した。

「俺もすこし、出すよ。爺さんも出すだろ。な、爺さん」

「え?」

 初めて気がついたように、老人はふりむいた。

「出せって、いくらだい?」

 柱に身をもたせたまま、莫邪はあいまいな微笑を浮べていた。彩色の仕事が予定以上にはかどったから、飲んでもいいという気持はあった。老人はどんぶりから、何枚かの皺(しわ)くちゃの紙幣をつかみ出した。節くれ立った指が、不器用にそろえて数え始める。やや意地悪い視線で、莫邪はそれを見ていた。

「いいよ」

 老人が数え終った時、莫邪は言った。

「僕がいっぱい買うよ」

「そうかい」

 彼はポケットに手を入れた。この二人をもりつぶしてやると面白いだろうな。そんな思い付きが、素早く頭を通りぬけた。

「一升も買えばいいな」

「おめえ、ひとっぱしりして、買ってこい」

 沓脱(くつぬ)ぎに立っている若者に、老人は声をかけた。莫邪は若者に金を渡した。台所に戻り、湯呑み三つに食パンを持ってきた時は、もう若者の姿は見えなかった。外はだんだん暗くなり、庭隅の塩のかたまりだけが、ほの白く残っている。

「へんな男だろう」

 老人は表の方を指差した。若者のことを言っているらしかった。

「そうかい。それほどでもないよ」

「すこし頭がいかれているんだ。全くのハンチク野郎さ」

「でも、腕は割に確かなようだね」

 莫邪はお世辞のつもりで、反対のことを言った。

「あれ、あんたの息子さんかね?」

「とんでもない。あかの他人さ。あいつ、この間デモ行列で、巡公に頭なぐられてよ、それからしょっちゅう変てこなんだ」

「へえ、畳屋でもデモに出るんだね」

「出ちゃいけないのかね?」

「そりゃいいさ。出てもいいが――」

「頭を殴(なぐ)られると、鉢が歪(ゆが)むんだってな。ついでに脳味噌だって歪まあな」

 老人は考え深そうに、眼をしばしばさせた。

「それまでは酒一滴のまねえ、実直な男だったが、毎晩大酒を呑むようになった。やっぱり頭は殴られちゃいけねえな」

 沈黙が来た。風の音が強くなってくる。少し経って、老人が口を開いた。

「旦那はこの家に、ひとり住いかね?」

「今のところ、そうだよ」

「もったいねえ話だな」

「この家も売ってしまいたいんだけどな、買い手はないかねえ」

「売るのかい?」

 老人は頸(くび)を廻して、家内をじろじろと見廻し、天井を見上げたりした。莫邪も同じことをした。

「相当傷(いた)んでるね。がたがただ」

「昼間見ると、なおひどいよ」

「いくら位で手離すつもりだね?」

「まだ金額はきめてない。すこし手を入れなきゃ、買い手はつかないだろう」

「まあ心当りがないこともないね。話してやってもいいよ」

 少しして老人は押えたような声を出した。その件に乗気になっていることは、その眼の色でも判った。老人は膝を曲げて、縁にすこしずり上った。

「この家、火災保険つけてあるかい?」

「ある。なぜ?」

「知合いがその仕事やってるんでね。そうか。入ってるのか」

 それから老人は、莫邪の職業を訊ねた。どういうつもりなのかは判らなかった。失業していると答えるのは、気が進まなかった。画を描いて暮していると彼は答えた。

「へえ。画を描いて暮せるのかい。いい身分だね。どんな画だね」

「いろいろさ」

「見せて呉んねえか」

 莫邪は暗い庭を見た。画室に散乱しているブリキ片のことを思った。分厚いものに埋没してゆくような不快さがあった。

「見られるのは厭だよ」

「やはりそうかねえ。じゃ俺と同じだ」

「そうかね。見られるのは厭かね。でも畳屋さんだったら、どうしても眺められるだろう」

「眺められるね。縁側から見られるのが、ちょっと辛いね。白洲(しらす)に坐ってるみたいな気になる。どういうものか――」

 表から跫音(あしおと)が近づいた。会話を切って、二人はそちらを見た。薄暗がりの長者門から、酒瓶を下げた若者が、ぬっと姿をあらわした。呼吸をすこしはずませている。

「酒屋で瓶はあとで返して呉れってさ」 

 

 妻に病まれた老人と、頭がおかしい若者と、ひとり者の中年失業者は、それから一時間半ばかり、薄暗い縁側に車座をつくり、食パンをちぎって肴にして、一瓶の焼酎を飲み合った。会話はいっこうとりとめなく、ばらばらだったが、酔いは着々と進行した。老人は膝を打ち打ち、(花はなんの花、つんつんつばき、水は天からもらい水)という子守歌を、くり返しくり返し歌った。若者は湯呑みを、左手でいそがしげに口に運んだ。その揚句、畳屋は二人ともすっかり酔っぱらい、莫邪も不本意にも酩酊(めいてい)した。食パンは耳の端まで食べ尽し、瓶底には液体が潦(たまりみず)ほど残った。老人が先ず帰ると言い出した。縁側から地下足袋をはくのにも、二人は手付きがあやしく、なかなか暇どった。商売道具をめいめいの自転車の尻にゆわえつける。自転車の二つの前燈が、庭の部分を黄色くした。老人が声を出した。

「ヘチマ、貰ってくよ」

 老人はヘチマにすがりつき、ぶら下るようにした。ヘチマ棚はわさわさ揺れた。引きちぎったヘチマを、老人は警棒のように腰にむすびつけた。

「じゃ明日」

 明日また来るのなら、商売道具を置いておけばいいではないか。そう思っただけで、口には出さない。酔いが体の芯(しん)に沈みこんで、口をきくのも大儀だ。二つの自転車の燈の輪は、押し手の背を黒く浮き立たせながら、長者門をくぐり、四ッ目垣の向うに遠ざかってゆく。大声で話し合っているらしいのだが、内容は聞きとれない。(あれで自転車に乗れるかな。どこまで帰るのかな?)すっかり燈が見えなくなってから、莫邪は時間をかけて、あちこちの戸締りをした。泥棒に入られても盗られるものは何もないが、畳を新しくしたので、厳重に戸締りをする気になった。台所に入って丁寧に手を洗い、枕もとに置くための薬罐に水をみたす。この薬罐の口に畳屋が、じかに唇をつけていたことを、莫邪は思い出す。若者の腕は青白くほっそりとしていた。(あの連中、一休何を考えているんだろうな)莫邪は頰をゆるめ、笑っているような顔になり、薬罐をぶら下げて座敷に入った。時間はまだ八時頃だから、寝るには早いが、仕事する気にもなれなかった。ばたんばたんと寝床をしき、薬罐(やかん)を枕もとに置いた。ごうと地鳴りがして、軽い地震がきた。莫邪は口を半開きにしてあおむき、眼を光らせて、電燈の揺れを見詰めている。柱や敷居がみしみしと軋(きし)む。天井裏をかけ廻る鼠の跫(あし)音。配電線、と莫邪はちらと考えた。揺れはゆるやかに止んだ。電燈が動かなくなるのを確めて、莫邪はごろりと横になった。畳はあたたかいのに、布団はひやりと冷たかった。

「花はなんの花、つんつんつばき、か」

 老人の子守歌の抑揚が、皮膚の内側に、まだじんじんと沁み入っている。閉じた瞼の裏に、ヘチマの形や蒼黒い電気屋の顔や、ブリキ片の色などが入り乱れ、そして莫邪はいびきをかいて眠っていた。夢を見ていた。 

 

 朝は曇って、寒かった。黒い大きな犬が、四ッ目垣をくぐって、ひっそりと庭に入ってきた。地面をくんくん嗅ぎながら、庭の隅にあるいてくる。立ち止ると、首を垂れて、薄赤い長い舌を出し、いきなり白いものをべろべろと舐(な)めた。縁側で歯ブラシを使いながら、莫邪はそれを見た。大声を出した。犬はびくっとふりかえり、莫邪の姿を見て、構っ飛びに垣根をくぐって逃げた。莫邪は庭に降り、そこに近づいた。盛り塩の型はくずれ、不規則に散らばっている。ナメクジの姿は、どこにも見当らなかった。莫邪は下駄の歯で、湿った土とともに、塩を縁の下に蹴ちらした。歯みがき粉が昨日で切れ、今朝は塩を使っている。口の奥が突然にがくなってきた。こみ上げてくるものを押えようとして、莫邪の咽喉(のど)は苦しく痙攣(けいれん)した。表に自転車のベルが鳴り、畳屋の若者が入って来た。

「今日は」

 莫邪は顔を歪めて、若者を見た。その瞬間、今朝がたの夢にこの若者が出てきたことを、莫邪は憶(おも)い出した。ねばねばした肉質の夢の感じはすぐに来たが、どんな筋の夢だったか、それはよみがえって来なかった。血の糸の混った白い唾を地面におとしながら、莫邪は訊ねた。

「お早う。爺さんは?」

「死んだ」

 道具箱を自転車からおろしながら、若者はかんたんに答えた。

「死んだ?」

「うん」

 箱をかかえて、沓脱(くつぬ)ぎの上に置く。若者の顔には、別にきわだった表情はなかった。どんよりと動かない。

「今朝、会社から、電話がきた。爺さんは死んだから、一人で行けって」

「本当かい。嘘だろう」

「本当だ。嘘はついたことない」

「何で死んだんだね」

「それは聞かなかった。告別式は、明日の二時からだって。電話が途中で切れたんだ」

 のろのろした動作で、若者は木台を組み立てている。老人の死に無関心なのか、あるいは感情の起伏を押えているのか、よく判らない。しかし嘘を言っているのではないようであった。なにか膜をへだてて分明しないような、じりじりした感じが莫邪に来た。しかしその感じを、莫邪はうまく表白できなかった。

「変だな」

 と彼は言った。昨夜ヘチマを警棒みたいにぶら下げて、自転車を押していた老人の姿を考えた。あの時たしかに、危いなと思ったが、帰りに事故でも起きたのか。

「どこで別れたんだね、昨晩」

 若者は町の名を言った。その町がどこにあるのか、莫邪は知らなかった。若者は草履を脱いで、茶の間に上った。かけ声をかけて古畳をおこす。よろよろと、畳を引きずるようにして、庭に降りてくる。歯ブラシをくわえたまま、それを木台に乗せるのを、莫邪は手伝った。

「帰りに自動車にでも、ぶつかったんじゃないかな」

「そうかも知れない」

「ずいぶん酔ってたようだね」

「生酔いだろう」

 若者の身体は、スルメのようなにおいがした。その体臭と口調が、莫邪をやや不快にさせた。

「爺さんの家、知ってるかね?」

 若者は考え考えしながら、老人の名前と住所を答える。そして思い付いたように聞いた。

「昨晩の瓶、酒屋に戻したかい?」

「いいや、まだ」

「早く戻すがいいよ。親爺がそう言ってたよ。すぐ戻して呉れって」

 莫邪は返事しないで、若者に背を向けた。勝手口に廻り、口をゆすいだ。水がつめたく奥歯にしみた。台所のすみに、昨夜の一升瓶がころがっている。小量の液体が残っている。莫邪は台所に上り、栓をとってコップにあけた。それはコップを半分充たした。(瓶のことばかり心配してやがる!)莫邪はコップを口に持ってゆき、ぐっと一息にあおった。コップを流しの上に戻し、少しの間莫邪は神妙な顔で突立っていた。やがて腸のあちこちが熱くなり、すぐに消えた。「つまり」と彼は口の中で言った。「畳替えが昼までに済むかわりに、夕方までかかるということだな」しかし、老人の死を聞いた時のショックは、まだかすかに莫邪に残っていた。勝手口から、若者が首を出した。

「薬罐貸しとくれよ」

「そこにあるよ」

 薬罐を下げた若者に、莫邪は習慣的な口をきいた。

「今日中に済みそうかい?」

「済むだろう。済まなきゃ、残ってやるよ。明日は日曜だからよ」 

 

 電熱器に手を伸ばそうとした時、昨日の漏電係の言い草を、莫邪は思い出した。眉をひそめ、そのままかまわずスイッチをひねる。ニクロム線は見る見る赤熱してくる。古薬罐を乗せ、莫邪は心もとなげに天井を見上げた。天井は蜘蛛(くも)の巣だらけで、部分的には房になって垂れ下っている。天井板の向うにある煤(すす)だらけの配電線を、莫邪はある抵抗と共に想像した。この古家への、そしてここに棲息する自分へのぼんやりした憎悪が、莫邪の胸にじわじわとひろがってきた。しかしこの瞬間でも、莫邪の顔はあおむいている関係上紅潮し、頰の贅肉(ぜいにく)もたぶたぶとゆるんでいるので、いかにも楽しげに見える。彼は呟(つぶや)いた。

「玉置庄平、か」

 さっき聞いた老人の名だ。玉置老人の住んでいる町の名は、莫邪は聞き覚えがある。たしか辰長ハチンコと隣り合った町の名だ。その町の老いたる一住人が、昨夜なんらかの事故か病気によって死亡した。自分に納得させるように、莫邪はわざと筋道をつけて、そんなことを考えてみた。北向きの画室は寒かった。やがて薬罐がしゅんしゅんと沸(わ)き立ってきた。食慾はなかった。沸き立った湯にコーヒーをいれ、彼は二杯飲んだ。電熱器を切った。画筆をとり上げる。画筆もブリキ片も、指につめたかった。

 昼までにハッタリを百二十箇ばかり彩色した。昨日みたいな色調ではなく、今日はちゃんと顔や鳥や獣など。描いている間は、それに没頭する。玉置庄平の死も、ほとんど頭に上ってこなかった。

 十二時、莫邪は空腹をかんじた。

 庭では、剝ぎ取った古畳表をござの代りにして、若者が弁当を食べていた。びっくりするほど大きな弁当箱に、白い御飯がぎっしり詰めてある。縁側から莫邪はそれを見下した。若者は旨(うま)そうに舌を鳴らした。御飯に埋もれた紅生姜(べにしょうが)の色が、莫邪の眼にしみた。

「お茶、飲むかね?」

「うん。欲しいね」

 今日もこの男は酒を飲みたいと言い出すかな、と莫邪は考えた。空はまだ曇って、どんよりと暗い。ヘチマ棚からは、実を千切られた蔓(つる)が一本、ふらふらと揺れている。(あのヘチマはどうなっただろう) 背中にうそ寒さを感じながら、莫邪はのそのそと部屋に入った。仕事は予想外に進行していて、古畳をあと三枚残すのみになっている。

(畳だけ取っ換えても、あんまり意味がなかったな)今の索莫(さくばく)とした情緒が、老人の死の報知とも関連がある。それは確かだけれども、どういう筋道の関連があるのか、よく判らなかった。台所の方に歩きながら、明日は旨い鮨でも食べようかな、と彼は考えた。考えてみただけで、すぐそれは頭から消えた。この日一日、莫邪はもう鮨のことを全然思い浮べなかった。 

 

 翌朝眠が覚めた時、まっさきに意識にのぼってきたのは、鮨(すし)のことであった。莫邪は眼をぱちぱちさせながら、視線をあてどなく天井に這わせていた。鮨は夢の中にも出てきたらしい。坊主枕ほどもある巨大な鮪が、ずらずらと並んでいる。そういう場面をたしかに見たような気がする。そこから引きつがれた後味として、それは寝覚めの莫邪の頭に浮んできたらしかった。あたたかい寝床に手足を伸ばし、莫邪は五分間ばかり、その夢の前後の筋道を、ぼんやりと反芻(はんすう)している。雨戸がしまっているので、部屋の中はうすぐらい。畳のにおいがする。とりとめのない平安と幸福感がその匂いの中にある。熟眠した果ての目覚めの少時(しばらく)が、一日中で莫邪にはもっとも甘美な時間に感じられる。やがて彼は、大きなかけ声をかけて、むっくりと起きあがる。立ち上って着物を着る。今朝は昨日ほど寒くない。帯をぐるぐる捲きつけながら、もう鮨のことはすっかり忘れてしまっている。彼は呟く。

 「もう戻ってきてもいい時分だがなあ」

 この家付きの老女中のお君さんというのが、肉親の不幸で郷里に戻って、もう二週間も経つ。その間莫邪は、自ら雨戸をあけ立てし、自ら食事をつくり、自ら寝床の始末をし、毎日そうすることに、そろそろうんざりし始めてきた。たかが自分一人が生きて行くために、こんなに煩瑣な行事と手続きがあるとは、今まで想像だにしなかった。お君さんはしっかりした働き手では決してない。天井が蜘蛛(くも)の巣だらけでも放っておくような女で、むしろ怠け者に属するが、それでも彼女の一日中の仕事の量は相当なものだと、莫邪は体験を通じて始めて認知した。三度の料理だけでも並大抵ではない。お君さんがいなくなって三日目のこと、莫邪はカレーライスを作製する野心をおこし、大失敗をした。カレー粉の分量を誤ったらしく、辛くて辛くて口に入らない。捨てるのは勿体(もったい)なく、砂糖をまぜたり味噌を入れたり、水や粉を増量したり、いろいろ試みてみたが、ますます奇怪な味になってゆくばかりで、とうとう大鍋一杯のそれを全然無駄にした。それ以来莫邪は複雑な料理を断念して、かんたんなもので我慢している。食物の夢をよく見るのも、おそらくそんな関係からだろう。

(近頃塩分が不足しているんじゃないか?)

台所で歯ブラシを使いながら、莫邪はちらと考えた。歯ぐきから血が出るらしく、毎朝唾に赤いものがまじる。全身がぶわぶわとむくんだような感じで、ちょっと動くのも大儀な気分になる。莫邪は眉をひそめた。あのナメクジを溶かしこんだ塩のかたまりと黒い犬のことが、ふっと頭に浮んできたからだ。

 ブリキ片の仕事はまだ少し残っていた。

 そそくさと鬚(ひげ)をそり、顔を洗い終えると、彼は薬罐をぶら下げて画室に入って行った。どのみち今日は外出するから、朝食は省略しても差支えない。

 午前九時、残余のブリキ片を、全部彩色し終えた。莫邪は押入れから、小さな古トランクを出す。乾いたのはそのまま、絵具で濡れているのは一枚一枚紙片をあて、そっくりトランクの中に重ねて入れる。電熱器をつけて、薬罐を乗せる。仕事が一仕切済んだこと、久しぶりに外出できることが、莫邪の気持をやや浮き立たせていた。立ち上って、洋服を引っぱり出す。近頃肥って服が窮屈になってきたので、肥った分だけ下着を減らさねばならない。冬に向うというのに辛い話だが、それも仕方がない。ネクタイを結びながら、莫邪は鼻歌をうたっている。カラーが咽喉(のど)仏をしめつけて、すこし息苦しい。意味もない鼻歌の節が、ふっと一昨夜の子守歌の抑揚に似てくる。あやふやな表情で、莫邪は歌を止めた。

「告別式は午後二時と言ってたな」

 柱鏡の中の自分の顔と、莫邪は中腰のまましばらく向き合っている。鏡面をしめるその顔は血色よく、屈託なげに紅潮し、笑う気持は毛頭ないのに、膚や頰の筋肉はゆるんで、おのずから不断の微笑をたたえている。くたびれた服やネクタイを見なければ、つまり顔かたちだけならば、けっこう特別二等重役ぐらいには見えるだろう。莫邪は八割がた満足して、柱鏡から身体をはなす。

 薬罐が煮え立っていた。

 莫邪は用心しいしい床に坐り込む。膝から腿(もも)のあたりまで、ズボンがはち切れそうになっている。慣れた手付きでコーヒーをいれる。溝く熱いのを時間をかけて飲み干す。トランクの蓋をしめ、ゆっくりと立ち上る。背伸びをしたついでにハンチングをつかみ、頭に載せる。トランクをぶら下げて、あとも見ず部屋を出る。

 落陽(うすび)さす朝の小路を、莫邪は駅の方に歩いていた。辰長パチンコに品物を届ける時はいつも、彼はこのいでたちである。このいでたちは、その度ごとに、莫邪の気に入っていた。鼠色の背広に、やや斜めにかぶったハンチング。手に提げた小さなトランク。どこから眺めても旅行者と見えるだろう。旅人。家郷を失い、あてどなくさまよいの旅に出る。その贋(にせ)の情緒が、常に莫邪の胸をこころよく刺戟し、莫邪の歩調をさわやかにする。莫邪の歩調にしたがって、ぶら下げたトランクの中では、数百のブリキ片が互いに触れ合いこすれ合い、ガチャガチャガチャと鈍く乾いた音を止てる。このやくざなブリキ片と引換えに、どれほどの金が貰えるか、やがて莫邪は神妙な瀕になり、口の奥でぶつぶつと呟きながら暗算を始めている。薄ら日は照っているが、空には雲が多い。冬に入る前兆のように、雲はそれぞれ翳(かげ)を持っている。 

 

 すぐ背後で聞き覚えのある声がする。がらがらしてよく徹る声だ。(藤田の声に似ているな)一年前雑誌社で同僚だった男。ぎっしり詰った満員電車の中で、その会話を背にしながら、莫邪はいっそう体をすくめるようにする。その声は別の声と、胃の話をしている。(やはり藤田の声だ)振り返ろうと思えば出来ないことはないが、そうしたくない。なるべく自分と気付かれたくない。失業の引け目が莫邪をそうさせる。午前十時、電車は揺れながら奔(はし)っている。カーブにかかる毎に、トランクをはさんだ両脛(すね)がしなって痛い。

(満員電車に乗るのも久しぶりだな)

 そろそろ右手を頭に上げ、ハンチングの廂(ひさし)をそっと引きおろしながら、莫邪はそう思って見る。背中がうすうすと汗ばんでくる。背後の話題は、胃のことから寄生虫のことに移っている。Uという作家のこと。それが虫下しを呑んだら、回虫が二十四匹もぞろぞろと出てきたという話。おかげですっかり健康をとり戻したが、どういう訳か、とたんに小説が書けなくなったという話。相手側の低い笑声。

「つまりさ、今までのあいつの小説は、回虫が書いていたということさ。当人はただの仲介人さ。だから奴さん、近頃は後悔して、生野菜ばかり食ってるという噂だよ」

「そいつだけでなく、小説書くてえのは、大がい虫けらの部類じゃないのかい」

 声に笑いが混る。こんな会話の向うにある世界から、俺はもう一年も隔離している、と莫邪は思う。脛の間でトランクの中味がガチャリと揺れる。ある苦痛が莫邪の胸をはしり抜ける。それをごまかすために、すぐ前の男が窮屈そうにひろげた新聞の一部分に、莫邪は視線を固定する。丹念に一字一字をたどって読む。うなぎのどろ吐かせ。彼は意識を強引にそこに集中させた。どじょうやうなぎのドロを早く吐かせるには、料理をする前に唐辛子(とうがらし)を細かく刻んで少し振り込んだ水にしばらく放しておくと、きれいにドロを吐きます。これは唐辛子の辛味成分であるカプサイシンが、うなぎの胃を刺戟するためです。電車が速度をおとした。

「カプサイシン、か」

 電車はホームに、辷りこんだ。扉がはずみをつけて開く。莫邪は背をぐっと曲げ、大急ぎでトランクの把手をつかむと、その丸まった姿勢のまま扉へ突進し、ホームにころがり出る。カラーにしめつけられた首筋が汗ばみ、ワイシャツの釦がひとつ弾け飛んでいる。ずっしりと重いトランクを下に置き、莫邪は顔を前方に突出し、指をカラーと頸の間にはさんで風を入れた。鼻の両翼に汗が粒になってふき出ている。

「カプサイシン。こんな役に立たない言葉は、早く忘れなくちゃ」

 大切なことはすぐ忘れてしまう癖に、生活に関係のない不用のことは、いつまでもしつこく覚えている。記憶から排除しようとすればするほど、そいつらは爪を立ててしがみつく。近頃の莫邪の記憶の大部分は、そんなやくざなかけらばかりで満たされていて、本筋のものは忘却の後方に薄れかかっている。

「カプサイシン」

 電車が発車して、がらんとなった線路に、莫邪は忌々(いまいま)しく唾をはいた。唾は線路の鉄に当り、一部分は斜めにぐにゃりと枕木に、辷り落ちた。莫邪はハンチングの形を直し、トランクを持ち上げて、のろのろと改札の方に歩き出す。 

 

 午前十時半。パチンコ部品係主任の棚山幸吉は、製作所の二階の小さな窓から、しごく無感動な顔付きで、通りを見おろしていた。製作所と言っても、小さな町工場程度のがたぴしした建物で、塗りもペンキも剝げかかっているし、入口なども貧弱な構えだ。眼下の通りをななめに横切って、今その入口の方に、トランクを重そうにぶら提げた人見莫邪が、ゆっくりと近づいてくる。棚山はその姿を眺めながら、チッと歯を鳴らした。

「よく肥ってやがるな、あの先生は」

 棚山はせんから莫邪という男を好きではない。それは棚山自身が瘦せているせいもあるが、莫邪のあの頰ぺたのあたりの、能の無さそうな笑いが、何となく気に食わないのである。彩色技術も優れているとは全然思えない。それなのに、所長辰野長五郎の旧友だというわけで、塗り代も特別高く取る。所長の言い付けだから仕方がないけれども、普通の彩色下請(したうけ)はケースが十円、ハッタリが三円が相場なのに、あの男たけにはその二倍も払っている。ムダな浪費のような気がして、全く面白くない。階段をのぼってくる重々しい跫音(あしおと)を聞きながら、棚山はかるく舌打ちをして、煙草に火を点けた。

「所長の気紛れにも、ほんとにうんざりするな」

 そんな余分の金があるなら、この俺の月給を上げて呉れればいいのに。彼がそこまで考えた時、うすっぺらな木扉がぎいと鳴って、汗ばんだ莫邪の丸い顔がぬっとあらわれた。

「今日は」

「今日は」

 棚山も反射的に愛想笑いをうかべて、あいさつを返した。莫邪は扉をしめて、口を半開きにして部屋中を見廻した。

「辰野君は、今日は留守ですか?」

「所長は昨日、名古屋に発(た)ちましてねえ」

 と棚山は歯の奥をチイッと吸った。

「近頃うちの売行きもあんまり香ばしくないんで、新知識を仕入れに、製造本場の見学ですわ。ははは」

「そうですか。それはそれは」

 莫邪はハンカチを振出して、がっかりしたように額をごしごしと拭いた。やや不安な眼付きになっている。

「売行きが良くないんですか」

「もうそろそろこの商売も下火でしょうな」

 棚山は意地悪さをかくして、にこにこと笑って見せた。

「もう業界も飽和状態ですしねえ」

 莫邪は困惑したような表情で、視線をあやふやに宙に浮かしている。棚山は煙の輪をはき出しながら、その莫邪の顔をじっと見詰めていた。莫邪はふと我に帰ったように、足もとのトランクを卓の上に載せ、おもむろに蓋を開いた。ぎっしり重ねて詰めこまれたブリキ片を、棚山はじろじろとのぞきこんだ。形式的に口を開いた。

「御苦労さまですな。毎度毎度」

「いやいや、こちらこそ」

 女みたいにふくらんだ莫邪の掌が、一重ねずつブリキ片を摑(つか)んで、次々卓上に並べ始める。ブリキ片は触れ合って音を立てる。棚山の手がつと伸びて、その卓の上の一片をつまみ上げた。

「こ、こりゃ何ですか?」

 莫邪は手を休めて、棚山の方に顔を上げた。それは一昨日描いた、あの無意味な色と形である。その一片が指にぶら下げられているのを見た時、予期しないかすかな羞恥と狼狽がのぼって来て、莫邪はそれをごまかすように、曖昧(あいまい)な笑いを頰に走らせた。棚山はその一片を、掌の上で二三度ころがした。

「手をお抜きになっちゃ、困りますな」

「いや、そりゃ、手、手を抜いたわけじゃなくて――」

 とどもりながら莫邪はあわてて弁解した。

「いつもいつも月並な模様じゃ、お客も飽きると思ってね。それでこう、ちょっとシュールの――」

「シュールは困りますな。シュールは」

 棚山はつめたい声でさえぎって、不機嫌な動作でそのブリキ片をことりとトランクに投げ戻した。

「大衆は月並で結構ですよ。ええ、シュールはお断り。これは描き直していただかなくちゃあ。この手のやつは、一体何枚あるんです?」

「ええ、何枚だったかな」

 莫邪は急に興覚めた顔になり、一昨日の分をより分け始める。棚山の手ももどかしげにその作業に参加して、二十本の指がしばらくそこらで忙がしく動いた。

「じゃ、この分は別として――」

 すっかり整理し終えた時、棚山は卓上に整列したブリキ片の数を読みながら、低い声で言った。

「今日お支払する分は、ええと、合計と願いましては、ええ、四千六百円也か。そうですな」

 棚山の瘦せた身体が隣りの部屋に消えて、紙幣(さつ)束を持ってまた現われる迄に、莫邪は不合格品をトランクに収め、もう元の表情を取り戻していた。棚山は紙幣束を莫邪につきつけた。莫邪は受取った。

「ええと、次の仕事は――」

「所長がお戻りになってからのことですな」

 棚山はわざと退屈そうな声を出した。

「私どもではよく判りませんで」

「そうですか。それじゃまた」

 紙幣束を内ポケットにしまい、頭をかるく下げて、莫邪は扉の外に出た。棚山は急いで窓のところに行き、ふたたび通りを見おろした。トランクを下げた莫邪の姿が、やがて真下の入口から出てくる。左右を見ながら、小走りに車道を横切る。向う側の歩道を四五間歩いて、ふと立ち止る。小さな鮨(すし)屋の前だ。

「奴さん。金が入ったんで、鮨でも食べる気だな」

 あざけりを含んだ笑いが、棚山の瘦せた頰にのぼってきた。莫邪の鼠色の服が、今彼方で紺ののれんをくぐろうとしている。 

 

 マグロを六つ、あなごと烏賊(いか)を各四つずつ食べ、莫邪はちょっと頭をかしげ、服の上から胃のあたりを押えてみて、今度は鉄火巻を注文した。鮨屋がそれをつくっている間、莫邪はあがりを飲みながら、台の向う、大薬罐をのせた電熱器を、ぼんやりと眺めていた。薬罐はさかんに湯気をふいていた。

(告別式に行ってみるかな)

 どうせ今日は暇だし、家に戻っても仕方がない。それにあの老人の死は、こちらにも充分かかわりがある。

 鮨屋は鉄火巻をつくりかけて、うしろに手を伸ばし、電熱器のスイッチをパチンと切った。莫邪の眼はそれを見た。

(はてな?)

 彼の顔は急に緊張し、遠くを眺める空虚な眼付きになった。

(今朝、おれは、うちの電熱器を消してきたかな?)

 莫邪は大急ぎで記憶の中を探り廻した。右手がもぞもぞ動いて、スイッチをひねる手付きになる。切ったような気もするが、切らないような気もする。どうもはっきりしない。不安げな呟きが口から洩れ出た。

「さて、これは――」

「へい。おまちどお」

 六つに切った鉄火巻が、黒漆の台にずらずらと並ぶ。莫邪の手がそこへ行く。口ヘ運ぶ。海苔の香。ワサビ。莫邪の右手は、惰力で台と口を往復する。古家のこと、その屋根裏の配電線、火災保険のことなどを、莫邪はあれこれと考えている。最後の一つを口にほうりこみ、ろくに嚙みもせず、ぐつとのみこむ。(三十五にもなって、職もなければ、女房もない)莫邪は元の弛緩(しかん)した顔容にもどって、生ぬるいあがりを飲み乾しながら、うんざりしたような声を出した。もう家なんかどうでもいいような気分になっている。

「ああ、腹いっぱいになった。いかほど?」

「へい」

 千円札からおつりを貰いながら、莫邪はふたたび訊ねてみた。

「富田町三丁目というと、ここからどう行けばいいんだね?」

 昨日若者から聞いた玉置老人の住所である。この町と隣接しているから、ここからぶらぶら歩いて行ける筈であった。 

 

 玉置庄平は黒い喪服を着け、玄関にしつらえた壇の歪みを直したり、弔花の位置を動かしたりしていた。この老人の頑丈な体軀(たいく)には、紋服はあまり似合わない。袖口から太い武骨な手首がにゅっと出ている。告別式の時刻までには、まだすこし間がある。庄平は壇の正面に廻って、不備やそそうの点がないか、ずっとそこらを見廻した。

 壇の一番奥には、黒く縁取られた引伸し写真がかかげてある。一昨日Q精神病院で死亡した庄平の妻の写真である。発病前に撮った写真なので、ひどく若々しく見える。庄平は眼をしばしばさせながら、それを眺めた。亡妻の死因は盲腸炎である。腹膜炎を併発して、一昨日の午前に息を引きとった。しかし庄平は今それほど悲しみを感じていない。生きていても、重症の精神分裂病だから、彼女は生涯庄平の生活に再び戻って来ることはなかったのだ。庄平にとっては、三年前の妻の発病の時の方が、よっぽど悲しかった。

「これでよし、と」

 庄平は踵(きびす)を返し、紋服の裾をわさわさ鳴らしながら、門のところまで出て来た。

 小路を向うからゆっくりした歩調で歩いてくる人影が、その庄平の姿を見て、ぎょっとした風に立ち止った。庄平はその男を見た。門から五六間隔てた、電柱のすぐ横である。電柱には「玉置家」と書いて矢印をつけた紙が貼ってある。

 男は鼠色の服をつけ、片手にトランクをぶら下げている。食パンのように肥っている。庄平は、眼を細めて男の顔を見た。そして庄平はそのきょとんとした顔の男が、一昨日仕事をやりに行った家の主であることを、やっと思い出した。

「やあ」と庄平は言った。

 莫邪はようやく驚きから覚めたように、トランクを左手に持ち換えて、そろそろと庄平の方に近づいてきた。近づきながら口の中で何かもごもご言ったようだが、庄平には聞き取れなかった。庄平はかさねて言葉をかけた。

「そんな恰好して、どこへ行くんだい?」

「うん」と莫邪はもつれたような混乱した口を利(き)いた。

「ちょっと、そ、そこまで」

「そうかい。俺んちは今日は、ちょっと取り込みでさ」

 庄平は顎(あご)を玄関の方にしゃくって見せた。壇の横や向うに、手伝いの人の影が、ちらちらと動いている。香のにおいが流れてきた。

「女房が死んだんでね」

「おお。それはそれは――」

 莫邪はとってつけたように頭をぴょこんと下げた。

「御愁傷さまでした。して、何の病気で?」

庄平はかんたんに亡妻の病状を説明した。他の人々に何度も説明したあとだから、口下手な庄平にしては、なかなか要領を得た話しぶりであった。莫邪はうなずきながら耳をかたむけている。

「それで昨日は来なかったんだね」

「ああ、そうだ。あの若僧っ子、何か言ってなかったかい?」

「いや、何とも」

 莫邪はうそをついた。本当のことを言うのも具合が悪かった。

「あの青年、妙な青年だね」

「うん、全くハンチクな野郎さ」

「ヘチマ、どうしたね?」と莫邪は思いついて訊ねてみた。

「そこに漬けてあるよ」

 門のすぐ傍の防火用水槽に、ヘチマは頭をすこし出して漬けられていた。水は青黒くどろりと濁っているので、底の方は見えなかった。

「何月か経つと腐って筋ばかりになるね。そうすりゃもう立派なアカスリだ」

「こいつは細長いから、背中こするのに都合がいいね」

 黒くよどんだ水面に、空がうつっていた。庄平は空を見上げた。

「今日は日曜だろ。Q病院の運動会さ。女房が生きてりゃ、見舞いがてら、そいつを見に行こうと思ってたんだがな」

「ほう。運動会って、気違いのかい?」

「そうだよ」

「そりゃ僕も見たいもんだな。面白そうだな」

 莫邪は興味をそそられて口走った。

「今から行けばまだやってるよ」

「そうかい。ひとつ行って見ようかな」

「行って見るといい。若え時にゃ何でも見とくもんだ」

「どこにあるんだね、その病院」

 庄平は説明を始めた。手伝いの若い男が、木机をかかえて、奥から出てくる。受付台にするのらしい。ハンチングをかぶり古トランクを下げた自分の姿が、どうも場違いのような感じがして、莫邪は落着かず身体をもじもじ動かした。

「じゃあ――」

 莫邪はハンチングに手をかけて、頭をちょいとかたむけた。

「そうかい」庄平もうなずき返した。

「こういう取り込みで、まだ家のこたぁ話してないんだ。そのうち連絡にゆくよ」

「家のこと?」

「そら、家を売る話さ」

 莫邪はあいまいに合点合点して、そろそろとそこを離れた。五六間歩くと、ふいに急ぎ足になりながら、ポケットからハンカチを出して、顔の汗をごしごし拭いた。手に提げたトランクの中では、不合格のブリキ片が踊る。(てんで出鱈目(でたらめ)だな)莫邪は歩調に合わせてわざとトランクを乱暴に振ってみる。ブリキ片たちはトランクいっぱいに、チリチリチャランと軽燥(けいそう)な音を立てて鳴った。

「もう、こうなれば――」

 何がこうなればなのか、莫邪は自分でも割切れないまま、頰の肉を力ませて呟いた。

「気違い共の運動会を見に行くより他はない」

 さっき鱈腹(たらふく)つめこんだ鮨が、胃をむっと膨脹させている。息苦しい。何であんな沢山食べたのだろう。そのせいか、思考に筋道がつかず、一向にとりとめがない。さっき見た霊前の菊の花はきれいだったな。あんなのを厚物咲というのかな。路地を出て横に曲りながら、莫邪はそんなことを考えている。 

 

 病院の構内のやや広い空地に、気の確かな人々と不確かな人々が混然と群れ集い、旗ははためき、風船玉は揺れ、拡声器からはレコードの響きが、ひっきりなしに流れ出ていた。空地は高いポプラの樹々にかこまれ、空は厚い雲の層におおわれている。

 午後三時。呼物の仮装行列が終って、仮装の人々はアーチをくぐり、どよもす歓笑の中をしずしずと病棟の方に引き上げて行った。たくさんの子供たちが、放された風船を追って、乱れ走る。レコードが突然止んだ。男の声が拡声器に乗って、たかだかと響き渡る。

「ええ、次は、本日のプログラムの最後、プログラムの最後、綱引きでございます。東病棟対西病棟の、東西対抗綱引き。患者さんたちは全部出場して下さい。患者さんは全部」

 看護婦の白服がばらばらと、見物席の方に走ってゆく。空地の一隅から、屈強な男たちが七八人で、長い綱を引っぱり出してくる。看護婦たちが見物席の患者たちをうながして廻っている。見物席は不規則にぎわめき、乱れ立ち、列がくずれてくる。ばらばらと空地に出て来る。うながされても、しゃがんだまま動かないのもいる。男もいるし、女もいるし、年も服装も雑多な群衆は、かり立てられた家畜のようにのろのろと動く。空地の中央に長々と綱が横たえられる。呼び声や笑い声や叫び声。拡声器のアナウンス。やがてごちゃごちゃした雑沓は、すっかり一本の綱の両側に収まっている。黄色い砂塵が中空までうっすらと立騰(のぼ)っている。

 号笛一声。雑然たる懸け声と共に、砂塵をおこして綱引きが始まる。またたく間に終る。東病棟の圧倒的勝利。拡声器が鳴り渡る。

「本日は有難うございました。本日の運動会はこれで無事終了致しました。役員の方は至急本部まで集合して下さい。――」

 午後三時二十分。病棟にはさまれた石畳の道を、外部からやって来た見物人は、三々五々、正門の方に戻ってゆく。重症病棟の鉄格子の窓から、今日の運動会に参加出来なかった患者が、戻ってゆく人波を眺めている。黄色く色づいた銀杏(いしょう)の葉が、病棟の屋根にも石畳にもおびただしく散り、湿った風に吹かれている。Q精神病院の大きな石造の正門を、今トランクを提げた人見莫邪がのそのそと入ってくる。ぞろぞろと正門向けて動いてくる人々を見て、妙な顔をして立ち止る。黄色い銀杏の葉が一枚ひらひらと莫邪の肩にとまる。

「運動会はどこだね?」

 折柄傍に走ってきた子供らを呼びとめて、莫邪は訊ねる。子供らは立ち止って、小莫迦(こばか)にしたような顔を一斉に莫邪にむける。

「もうとっくに済んじゃったよ。なあ」

「今頃来たって遅いよ。デブ小父さん」

 そして子供たちは、口々に呼び交わしながら、てんでんばらばらに走って行く。莫邪は気の抜けたような鈍重な顔で、ぼんやりと佇(た)っている。それからのろのろと廻れ右をする。動いてゆく人波にまぎれこんで、今来た道を戻ってゆく。その肥った右肩には、さっきの銀杏の葉がまだとまっていて、莫邪の歩調と共にかすかに揺れている。 

 

反古のうらがき 卷之三 狼

 

    ○狼

 いつの頃にかありけん、「鬼面山(きめんざん)」といへりける、すまひのほて、なん、ありけり。身のたけ九尺斗り、身の重り四十貫にすぎて、力もすぐれて、つよかりけり。江のすまひ事、はてゝ、いづれの國にか趣くとて出けるが、おしえ子等、多く從ひて行けり。所用のことありて、道より、只、獨り行けり。此道は山にかゝりて、日暮よりは狼出て往來をなやますと聞(きき)けれども、少し酒に醉(ゑひ)たるまゝに、人のとゞむるをも聞かで行(ゆき)けり。元より大男なれば、ふつうの人の十人廿人よりは、つよからんとおもふにぞ、人々も、おしても、とゞめざりけり。明けの朝にいたる迄、歸り來(こ)ざりければ、人々、怪しみて、其道筋、尋ね行て見るに、山より、山に入る道筋に、小高き所ありて、其あたりに狼壹つ、切(きり)ころして有りけり。「扨こそ」とて尋行(たづねゆく)に、又、狼の打殺したるもあり、引さきたるもあり、五つ六つぞありける。其あたりに、草履・竹笠など取ちらしたれども、其人はあらざりけり。おちこち走り𢌞りて見れども、血のしたゞりなど、少づゝ見へて、其人の行衞はしれざるにぞ、「扨は、狼に取られ玉ひつらん」と、人々、言合(いひあ)へり。「かゝる猛者(もさ)のやみやみと食殺さるゝといふは、定めて、狼、いくつとなく集りたるならん、五つ六つは切(きり)もしつ、引さきもしつらんが、手に獲物のあらざれば、はては、つかれ果て、取られたるなるべし。其時の樣、さこそすさまじかりつらん」と思われて[やぶちゃん注:ママ。]、殘(なご)り惜しかり。予が見たる「鬼面山」は、身の重さ四十貫と聞へし。四ツ谷に住(すみ)けり。それが師にや、または、又の師にや。

[やぶちゃん注:「鬼面山」四股名。因みに、鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)の後半生と交わる時期に生きた、文政九(一八二六)年生まれの大相撲力士に第十三代横綱となった美濃国鷲巣村(現在の岐阜県養老町)出身の鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう 明治四(一八七一)年没:本名・田中新一)がいる。身長百八十八センチメートル、体重百四十キログラム。武隈部屋。嘉永五(一八五二)年二月場所で「濱碇(はまいかり)」の四股名で初土俵を踏み、安政四(一八五七)年一月場所で新入幕を果たし、「鬼面山 谷五郎」に改名、この頃には徳島藩抱え力士となっている(ウィキの「鬼面谷五郎に拠る)。しかし、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃で、この鬼面山谷五郎が初土俵を踏んだ年(未だ四股名は「濱碇」)に桃野は亡くなっているから、ここに出る四股名を有する複数の「鬼面山」は彼ではなく、彼の先輩格に当たる力士らと思われる。

「すまひのほて」「すまひ」は「相撲(すまひ)」で力士。「ほて」は「最手」「秀手」で、最上位に位置する強い相撲取りを指す語。

「九尺斗り」約二メートル七十三センチメートル。誇張があろうが、恐るべき身長である。

「四十貫にすぎて」百五十キログラム超。

「所用のことありて、道より」後に「明けの朝にいたる迄、歸り來ざりければ」とあることから、ある集落(①)を起点として、別な山を越えた集落(②)に私的な所用があり、①を出て、②に戻る予定であったことが判り、「道より」は、とある「道から」は弟子らと別行動で「寄り」「道」をしたのである。

「おしても、とゞめざりけり」「押しても、止めざりけり」。強いては止めなかったのであった。

「おちこち」「遠近」「彼方此方」。場所や時を示す指示代名詞。あちらこちら。ここかしこ。

「したゞり」「下垂り」。「滴(したた)り」に同じい。

「やみやみと」「闇闇と」。副詞。どうすることも出来ないさま。みすみす。やすやすと。

「獲物」「得物」。武器。

「取られたる」目的語は「命」。

「思われて」ママ。

「殘(なご)り惜しかり」誠に残念無念なことであった。

「それが師にや、または、又の師にや」この狼に襲われて行方不明になった「鬼面山」は、私の見た四谷の力士「鬼面山」の師匠だったのか、又は、師匠のそのまた師匠に当たる人だったのだろうか。]

2018/09/19

反古のうらがき 卷之三 風俗

 

   ○風俗

[やぶちゃん注:読めば分かるが、所謂、トンデモ薀蓄の饒舌体なので、より判り易くするため、特殊な改行法を多用し、途中に注を挿入した。読み難いと思うが、悪しからず。桃野以上に私は我慢して注を附したのである。お察しあれかし。]

 文政の季年にかありけん、散り殘る花に靑葉打交りて、日永く、風淸らなる日、友人の家に訪ひ侍りしに、其あたりなる友がき一人二人集りて、酒、打のみて居にけり。各(おのおの)心々(こころごころ)のこと、語り合たる中に、一人がいふ。

[やぶちゃん注:「季年」末年。文政は十三年十二月十日、グレゴリオ暦で一八三一年一月二十三日に天保に改元しているから、一八三〇年の初夏のロケーションである。

「友がき」「友垣」。友人。交わりを結ぶことを垣を結ぶのに喩えた語。]

「扨も、此頃の風俗、いろいろの好みある中に、願ひの如くにとゝのわぬ[やぶちゃん注:ママ。]ことのみ多くて、花の咲く山遊び、又は川風すゞしき舟遊びなども、心のくるしき事あれば、樂しからず。かく友どち、二人三人(ふたりみたり)、打(うち)よりてかたり合ふとても、時の風俗に出立(いでたち)て、同じ心の人とよりあふが、反(かへ)りて、樂し。」

などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

[やぶちゃん注:「時の風俗に出立(いでたち)て」今の風俗の出で立ちをして。]

「いかなることか、時の風俗ぞ。」

[やぶちゃん注:これは貴殿の申される「時の風俗」とは「いかなること」を「か」言ふ「ぞ」の意か。或いは単に「いかなることが」貴殿の言ふ「時の風俗ぞ」の濁点落ちか。]

ととへば、先づ、男は、

「廿(はたち)のうへ、一つ二つ越たるが、さかり也。

身の丈(たけ)はひくき方ぞ、よき。

色は餘りに白からぬを、よく洗ひて、つやあるをよしとす。

目(まな)ざし・口元・鼻のかゝり、女めけるも反(かへ)りて、よろしからず。たゞにくからぬぞ、よき。

[やぶちゃん注:「かかり」作り。様子。]

髮のかゝりは、髭(ひげ)薄らかに、月代(さかやき)のそりたる跡、靑々として、油の氣(け)、少くて、つやあるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にすき立(たち)、元結の糸、數少(かずすくな)く卷(まき)て、手輕く推曲(おしま)げ、『イチ』の大きさと『ハケ』の長さと、其人の顏かたちにかなひたるが、よし。

[やぶちゃん注:「イチ」「日本国語大辞典」に、髷(まげ)の元結で括ったところから後方に出た部分を指すとあり、浮世風呂から『(イチ)が上り過たじゃあないかね』という引用例が示されてある。

「ハケ」「日本国語大辞典」に、男の髷の先端・髻(もとどり)の先・はけさき、とあり、「刷毛先」である。]

先づは『小銀杏』といへる結び樣(やう)ぞ、時の流行に叶へり。

[やぶちゃん注:ウィキの「銀杏髷」(いちょうまげ)によれば、『江戸時代を通して最も一般的だった男性の髪形』が「銀杏髷」=「銀杏頭(いちょうがしら)」で『現在』、『一般に「ちょんまげ」と呼ばれるのは』それであるとあり、『月代(さかやき)を剃り、髻を作って』、『頭頂部に向けて折り返し』、『その先(刷毛先)を銀杏の葉のように広げたもの(広げない場合も多い)』を指すが、『身分や職業によって結い方に特徴があ』あったとし、『武士の多くには』今の相撲取りのする『大銀杏が好まれた。髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。なかでも野暮ったい田舎の藩主などは頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷をこれ見よがしに結うものもいた』。『武士ではあるが、町人の中に住まって犯罪捜査に従事する「不浄役人」の与力はもっと町方風の粋な銀杏髷を結っている。髷尻が短く髷自体も短くて細い。髷先を軽く広げ月代の広いサッパリとした「細刷毛小銀杏」がそれで、町人とも武士とも見分けがつきにくい(現代でいう、私服姿の捜査員である)。同じ街中で暮らすにしても浪人などは月代をきれいに剃らず節約のため』、『五分刈り状態で伸ばしていた』。町人の『いわゆる「江戸っ子」は髪形に気を使っていて、いつもきれいに剃りあげようと散髪屋に足しげく通ったために散髪屋が社交場になるほどだった。彼らの好みはやはり「小銀杏」だが、ここでも職業によって微妙に違いが見られ』たとある(太字下線やぶちゃん)。「コトバンク」の「大銀杏」の「大辞泉」のところにある画像で「大銀杏(武士)」・「小銀杏(町人)」・「浪人銀杏(浪人)」の図が見られる。]

扨、春着の小袖ならば、『羽二重(はぶたへ)』にかあらん、『七子(なゝこ)』にかあらん、何(なんに)まれ、『通し小紋』といふに染(そめ)て、『花色染(はないろぞめ)』の『秩父絹(ちちぶぎぬ)』を裏となし、『フキ』多く出して上に着るぞ、よき。

[やぶちゃん注:「羽二重」経(たて)糸・緯(よこ)糸に撚(より)をかけない生糸を用いて平織り又は綾織りにした後で精練と漂白をして(「後練り」と称する)白生地とし、用途によって染め等を施す。一つの筬羽(おさば)に経糸を二本、二重にして 通すところからこの名がついたとされる。柔らかく上品な光沢がある高級品である。

「七子」「七子織り」「斜子織り」は経糸・緯糸ともに二本以上を一単位として平織りにした絹織物。同じ本数の経糸と緯糸を打ち込んで織る。織り目が籠目のように見えることから、現在は「バスケット織」「ホップサック織」とも呼ばれ、 漢字では他に「魚子織」「並子織」などの表記がある。「魚子織」は外観が魚卵のように粒だって見えることからと言う。ふっくらとした厚地の織物で、帯地や羽織に用いられる、と創美苑の「きもの用語大全」の「斜子織」の解説にあった。生地画像は株式会社アルテモンドのこちらがよい。

「通し小紋」「小紋」はウィキの「小紋」によれば、『全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている』とある。中でも「江戸小紋」は別格の格式あるもので、『江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。また、各大名で使える模様が固定化していった。代表的な模様として』「鮫小紋」(紀州藩徳川氏)・「行儀小紋」及び本「(角)通し小紋」があり、これを特に「江戸小紋三役」と称する。他にも『「松葉」(徳川氏)「御召し十」(徳川氏)「万筋」、「菊菱」(加賀藩前田氏)、「大小あられ」(薩摩藩島津氏)「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)があ』り、『このような大名の裃の模様が発祥のものを「定め小紋」「留め柄」という』とある。「通し小紋」の生地様態は、表参道の江戸小紋の店「染一会(そめいちえ)」のこちらがよい。

「花色染」「花色(はないろ)」は青系統の代表的な伝統色で、強い青色を指すので、ここもその染め色のことであろう。サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「花色」によれば、奈良時代以前は「はなだ色」、平安の頃は「縹色(はなだいろ)」の『色名で、江戸の頃より「花色」「花田色(はなだいろ)」と呼ばれるようにな』ったもので、『現代でいうところの』「青色」に当たるとあり、『ちなみに、「花色」の名前は平安時代にも見られ、これはもともと鴨頭草(つきくさ)(露草(つゆくさ)の古名)の花の青い汁で摺染(すりぞめ)していたことに由来し』、『いつからか』、『藍染(あいぞ)めに黄蘗(きはだ)をかけた色を指すようにな』っ『たが、色名はそのまま残ったようで』ある、とある。

「秩父絹」現在の埼玉県秩父地方で生産される絹。着物の裏地として、当時はその丈夫さで知られていた。

「フキ」「袘(ふき)」。創美苑の「きもの用語大全」の「袘」の解説から引く。『袷の着物や綿入れの袖口や裾の部分で、裏地を表に折り返して、表から少し見えるように仕立てた部分。ふき返しとも』称する。『表地の端の傷みや汚れを防ぐため』及び錘(おもり)の『役割などを担ってい』るもので、『かつては、ふきに綿を入れる「ふき綿仕立て」があり』、『ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで、裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも、ふっくらと柔らかな美しいラインが出て、重厚な感じや着物の豪華さを引き立て』る役割をした。『このため、武家や富裕な商家の女性に好まれ』たという。『ふきの分量は流行で変化もあり、江戸時代中期には』一『寸以上の幅や厚みを持つものもあったといい』、『時代が下ると庶民にも広がり、明治~昭和初期にはふき綿入りの晴れ着も一般的にな』った『が、現在は花嫁衣裳や舞台衣装などに残るのみで』あるとある。但し、『綿を入れないふきは、今でも袷の着物や綿入れの袖口や裾に見られ』、『表布からちょっぴりのぞいて見えるふきは、配色などにおいてのデザイン性も兼ね備えてい』て、『今も昔も変わらぬ、実用と装飾の両面を併せ持つ工夫といえ』る、とある。]

かさねには『中形小紋』といへる染(そめ)の縮緬(ちりめん)に、おなじ【花色の事。】[やぶちゃん注:以上の【 】内は割注ではなく、「おなじ」の右添え書き。]こん染(ぞめ)の裏付(うらつけ)て、二つ三つ、打重(うちかさ)ね、黑染(くろぞめ)の『龍門』といへる絹に、白く紋(もん)付(つけ)たる上着も、よし。それも家の紋にかぎらず、紋の樣(さま)、心にくからぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に見つくろふて[やぶちゃん注:ママ。]、大きさ二寸計(ばか)りに、三所、付(つけ)たる、よし。

[やぶちゃん注:「中形小紋」本来は。型染(かたぞめ)の技術で、「小紋」よりも少し大きな型を用いて、中ぐらいの大きさ紋を染め出すものを「中形」と称したようである(後に今のような専ら浴衣地の呼称となった)。幾つかのページを見たが、まず、