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2018/09/30

反古のうらがき 卷之四 才子美人

 

    ○才子美人

 所はいづこにや、才子と美人とありけり。男は才の秀たるのみならず、容(すがた)さへ人にすぐれてみやびやかなりければ、其父母はいふもさらなり、凡(おほよそ)しれたる程の人、皆、めでずといふことなし。同じ友とまじわりても[やぶちゃん注:ママ。]、何事も藝能のすぐれたれば、友とはいへど、師のくらい[やぶちゃん注:ママ。]にぞありける。女はかたちのうつくしきがうへに心ざまやさしく、いとたけ[やぶちゃん注:「糸竹」。琴や横笛の演奏。]はいふに及ばず、諸々(もろもろ)の藝に精しく、物ごとまめやかに、人にまじろふ[やぶちゃん注:交際する。]ことさへ、すぐれてよかりけり。かゝる人々の同じ所に住(すみ)て、相しれる中なれば、「果(はて)は夫婦となりて、天の才子美人を生(しやう)じ玉ひし御(み)こゝろにかなふべきは、人間の力を用ゆるに及ぶべからず」と、人々、見許(みゆる)して[やぶちゃん注:(二人が親密にするのを本来はやや節操を欠くとして咎めるべきところを)見ながらも、とがめないでおき。見逃してやり。]、言名付(いひなづけ)などのよふに婚姻の時をぞ待(まち)にけり。男女のたがひのこゝろのうちにも、『かくあるべし』と思ふにぞ、敢て戀(こひ)わぶる事もなく、世の人のいふ事を言ひ約束のごとく思ひて、時、經にけり。かく定まりたることのよふに思ふものから、佗(ほか)より言(いひ)よる人もなく、のけものゝよふにぞ有(あり)けり。男女(ふたり[やぶちゃん注:私の勝手な読みである。])もこゝろにかくは許せども、誰(たれ)もていひよらんたよりもなけれど、よのつねの人の戀するさまも珍らしからず、かく天より結びし緣なれば、自然に任(まか)すとも、今、はた、われを捨て佗人(たにん)に許さんよふ[やぶちゃん注:ママ。]はあるまじと、こゝろにおちゐて、月日をぞ得ける。扨も、男廿一、女十八といふ年のはる、男女ともに、他(ほか)より、婚姻の事、いひ入(いる)る人ありて、其方(そのはう)にぞ許しける。互の父母のこゝろには、克(かつ)て貴き人に緣結ぶならん、此方(こなた)より言出(いひい)で、ことならずば、恥なるべし、若(も)し、貴き人を求るこゝろなくば、必(かならず)吾方に言入ることあるべしと思ふにぞ、一言もいひ出さず、又、わざわざにまじわりもうとくして、親しみよる方を負(まけ)なりと思ひ、いたづらに、にらみあひて過(すぎ)ける。佗(ほか)の人、これを見て、もどかしさに媒(なこうど)となりて言入(いひいれ)たるに、思ふよふにおり合はで、遂には、互に、腹あしくなりて、事、やみにけり。古(いに)しへより、才子美人の緣はなきものなりといふ人ありしが、理(ことわり)に通達(つうたつ)したる人なりけり。かかれば、緣ありて人に妬(ねた)まれんよりは、緣なくて人におしまるゝも[やぶちゃん注:ママ。]、却て、才子美人の甲斐あるよふに覺ゆるなり。とかくに事は十分ならぬ方(かた)ぞ、なさけありて、よし。世に「痴人の福」といふこと、おふし[やぶちゃん注:ママ。]。薄命は才子美人のつねぞかし。惜しむも又、理(ことわり)に達(たつ)せざる人なるべし。

[やぶちゃん注:くどい叙述で、両「才子美人」の映像も一向に浮かばず、言っている理窟もつまらない。「反古のうらがき」の中では最も面白くない一条と私は思う。しかし、或いは、ここには作者鈴木桃野自身の隠された人生が裏打ちされているのかも知れない。]

反古のうらがき 卷之四 やもめを立し人の事

 

    ○やもめを立し人の事

 もろこし溪(けいけい)といへる所に、何がしとなんいへる人ありける。其むすめ、某氏、とし十七にして、同じ家がらよき人にゆきけるが、程もなくて、おつと[やぶちゃん注:ママ。]、身まかりてけり。かゝるなげきの中にも、幸にわすれがたみをやどしければ、これをちからとして、月のみつるを待(まち)けるが、當る月に男の子をぞ、もふけける[やぶちゃん注:ママ。「儲(まう)ける」。]。

 氏はこれをもりそだてゝ、よくやもめを守りしによりて、此事、上に聞へて、節婦の名を賜り、物おゝく[やぶちゃん注:ママ。]たびけり。

 とし八十餘に及ぶ迄、家富(とみ)さかへ、子孫繁昌してける。

 後(のち)、おわりにのぞみて、媳(よめ)・孫婦(そんふ)[やぶちゃん注:男性の孫の妻のこと。]等(ら)を枕のもとに呼び迎けて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「人々、我家によめりて、偕老(かいらう)のちぎり百年(もゝとせ)もかわらでおへなん事は、さいわい[やぶちゃん注:ママ。]の中にも殊に目出度(めでたき)ことになん[やぶちゃん注:結びの省略。]。もし、不幸にして年若くてやもめならん人あらば、よくよく事のよふ[やぶちゃん注:ママ。「樣(やう)」。]を考へ、やもめを立(たつ)べきか、別に人にゆくべきかとを定めて、のち、いづれともなすべきぞ、一概にやもめを立ると定(さだめ)るは、あしかるべし。なまじいに仕出(しいだ)して、事仕果(ことしは)てぬは、人の笑ひものぞ。此斗(はか)らひも、亦、大なる方便ぞ。」

といひければ、媳(よめ)等は目を見合せて、

「年老(としおひ)て病(やまひ)もおもらせ[やぶちゃん注:「重らせ」。]玉ひたれば、かゝるすぢなき言(いひ)いひ出で玉ひけり。」

とて、よくも聞かで居(ゐ)にけり。

 氏、重ねていゝけるは、

「やもめを立るといふこと、實(まこと)にいひがたき事なり。おのれは其中を經(へ)て來(き)にたれば、其味をよくしりたり。いざ、かたりきこへん。」

といひけるにぞ、みな、しづまりて、きゝけり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではも改行がなされてある。]

「扨、いふ、おのれ、やもめを立(たて)し時は年十八なりけり。家がらの娘は、下下(しもじも)の如く、二夫(にふ)にまみゆるといふことはなきことなれば、中々に改めて他(ほか)にゆくべきこゝろ、なし。ましてや、わすれがたみをいだきたれば、絶(たえ)てこころの動くこともなくて、すぎけり。

 されども、若き女のひとりねは、いとどさへさびしきに、秋風の萩の葉ずへをわたる夜半に、入る月のさやかに窓のうちにさし入(いる)など、心うきこといわん方なし[やぶちゃん注:ママ。]。

 又は、ともし火のくらく、深(ふけ)て行く夜に、蟲の音(ね)、雨の聲(おと)、木の葉のとぶ聲(こえ)などきくときは、ねやのふすま、ひへ[やぶちゃん注:ママ。]わたり、獨り其中に打(うち)ふして永き夜を待明(まちあか)すぞ、又なく、心ぐるし。

 かくすること、度々なる中に、

『さりにし夫がいとこなり。』

とて、年頃、夫に似合(にあひ)たる人、しうと[やぶちゃん注:「舅」。]がり、訪ひ來て、吾家(わがや)を宿として日久しく居(ゐ)にけり。

 其人、年の頃の似たるのみならず、おもざし・物いふさま迄、吾(わが)夫によく似て、殊にうるわしく生れ付(つき)たる人なりければ、これを一目見しより、心、われならず動き出で、とゞめんとすれども、其かひなし、日每々々に思ひ積りて、果(はて)は、吾をわすれて立(たつ)よふにぞ有ける[やぶちゃん注:「よふ」はママ。(恐らくは夜寝ていても)無意識のうちに起き上がって立ち歩くような感じになってしまったのであろう。男にあくがれて体が動くのである。]。

 一と日、宵の間(ま)より雨ふりて、いとゞ心うき夜、人の寐(ね)しづまりし時、ひそかにねやを忍び出で、幾重(いくへ)かのへだてを越(こえ)けるが、よくよく思ひめぐらすに、

『父母のおしへもなく、いやしくおひ立(たち)ぬる女こそ、かゝる時に、たへかねて恥なきことも、なしつらめ、[やぶちゃん注:「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。]われもこれと同じわざし侍らば、後に悔(くい)たりとも、かひあらじ。』

とて、立歸りけるが、

『さりとて、又も、かゝるおりもあるべからず、一夜(ひとよ)ぎりのことならば、など、くるしからん。』

とおもふにぞ、引(ひき)とゞむべきよふなく、又、貮足、三足、忍ぶ程に、俄(にはか)に人ありて、

「あれはいかに。」

といふにぞ、大におどろき、逃げかへりて、きぬ、引(ひき)かづきていきもせず、よくよく聞(きく)に、先に寢たるはしたの女(め)が、寢(ね)ぼけて、たはごといふにてぞありける。

『よしなきことにさまたげられけり。』

と思ひけれど、再び忍び出(いづ)ることも、なにとなくさまたげがちにて、其夜はおもひ止(とどま)りしが、とかくにおもひ止(や)まで、幾重の隔(へだて)を打越(うちこえ)て、其人の伏しける處に行(ゆき)て、思ひのたけを語るにぞ、同じ心に打(うち)とけて、伏(ふしど)[やぶちゃん注:「臥所」。]に入らんとせし時に、こはいかに。

 床の上に、おもても手足も血にまみれたる人、ありけり。

 よくよく見るに、さりにし夫にてありければ、

『淺まし。』

と思ひて、聲を上げて泣(なき)ける、と見て、獨り寐(ね)の夢は醒(さめ)にける。

 しばしありて思ひみるに、

『吾ながら、はづかしき仇(あだ)ごころかな。先の夫が靈魂(みたま)は、まさに夢中のありさまのごとくなるべし。』

と思ふにぞ、おそろしく、かなしくて、此よりのち、かゝる仇(あだ)しき[やぶちゃん注:危ない。]こゝろを起さず、我にもあらで、六十餘年を經(へ)にたれば、「節婦」の名をもよばるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]になりしも、はじめより、かく、やもめを守るべきこゝろにては、あらざりけり。

 彼(かの)閨を忍び出(いで)たる時、はしためが、たわ言(ごと)[やぶちゃん注:ママ。]なかりせば、仇なる心をとげはつべし。さらずとも、おそろしき夢なかりせば、再び、三たび、此心おこりてやまざるべし。

 かくて、寡婦(やもめ)を守るとも、よく守り果(はつ)べしとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。

 さあらんよりは、舅・姑に告(つげ)て、改(あらため)て他に行くこと、大なる方便なりとはいふなり。」

とぞかたりける。

 

 此事、「諧鐸(かいたく)」といへる小説に載(のり)たり。おもしろく思ひ侍れば、こゝに譯(やまとよみ)して、からぶみ[やぶちゃん注:「唐文」。漢文。]讀まぬ人に、しらせつ。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。最後の桃野の言葉は一行空けた。「反古のうらがき」の中に出る初めての本格中国物である。モノクロームでイタリアのネオ・リアリスモ風に撮ってみたい、いい訳文である

」現在の江蘇省常州市金壇市荊渓村であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蟲の音(ね)、雨の聲(おと)、木の葉のとぶ聲(こえ)」読みは私の趣味で変化を持たせて附した。

「諧鐸」清の沈起鳳(しんきほう)の書いた文言小説集。同じ清の先行する蒲松齢の志怪小説集「聊斎志異」の影響を受けて書かれた志怪回帰的作品群の一。全十二巻百二十二篇。原刻版は一七九一年成立。本話は第九巻の「節母死時箴」。中文ウィキソースにある原文を少し漢字と記号を変更・追加して示す。

   *

  節母死時箴

 荊溪某氏、年十七適仕族某、半載而寡、遺腹一子。氏撫孤守節、年八十餘、孫曾林立。

 臨終、召孫曾輩媳婦、環侍牀下、曰、「吾有一言、爾等敬聽。」。衆曰、「諾。」。氏曰、「爾等作我家婦、盡得偕老百年、固屬家門之福。倘不幸靑年居寡、自量可守則守之、否則上告尊長、竟行改醮、亦是大方便事。」。衆愕然、以爲惛髦之亂命。氏笑曰、「爾等以我言為非耶。守寡兩字、難言之矣。我是此中過來人、請爲爾等述往事。」。衆肅然共聽。曰、「我居寡時、年甫十八。因生在名門、嫁於宦族、而又一塊累腹中、不敢復萌他想。然晨風夜雨、冷壁孤燈、頗難禁受。翁有表甥某、自姑蘇來訪、下榻外館。於屛後覷其貌美、不覺心動。夜伺翁姑熟睡、欲往奔之、移燈出、俯首自慚、囘身復入、而心猿難制、又移燈而出、終以此事可恥、長歎而囘。如是者數次、後決然竟去。聞灶下婢喃喃私語、屛氣囘房、置燈桌上、倦而假寐、夢入外館、某正讀書燈下、相見各道衷曲。已面攜手入幃、一人趺生帳中、首蓬面血、拍枕大哭。視之、亡夫也、大喊而醒。時桌上燈熒熒作靑碧色、譙樓正交三鼓、兒索乳啼絮被中。始而駭、中而悲、繼而大悔。一種兒女子情、不知銷歸何處。自此洗心滌慮、始爲良家節婦。向使灶下不遇人省、帳中無噩夢、能保一生潔白、不貽地下人羞哉。因此知守寡之難、勿勉強而行之也。」。命其子書此、垂爲家法、含笑而逝。

 後宗支繁衍、代有節婦、間亦有改適者。而百餘年來、閨門淸白、從無中冓之事。

 鐸曰、「文君私奔司馬、至今猶有遺臭、或亦卓王孫勒令守寡所致。得此可補閨箴之闕。昔范文正隨母適朱、後長子純祜卒、其媳亦再嫁王陶爲婦。宋儒最講禮法、何當時無一人議其後者。蓋不能於昭昭伸節、猶愈於冥冥墮行也。董相車邊、宋王白畔、益歎爲千秋之僅事矣。」

   *

悪夢から醒めた直後のシークエンス(桃野の訳ではカットされている)が非常に優れている。]

反古のうらがき 卷之四 刀を見る人の事

 

   ○刀を見る人の事

 大名に松平何の守、町人に伊勢屋何右衞門、俳優に市川何十郞、繪師に狩野何信などいふは、世に其類ひ多くて、かぞふるにいとまなければなり。かりにも名の聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たらん人ならば、一字だも、やすくよぶこと、なし。關の兼定を之定・疋定などいひて、同じ文字も分ちていふにて、しるべし。予がしれる人に、刀の目きゝする人ありけり。さる方(かた)に行(ゆき)たれば、主(あるじ)がいふ、「子(し)は刀を見る事にたけ玉ふよし、此刀は家重代なり。いかゞあるべき、見てたべ」といふにぞ、「易き程のこと」とて見てけるが、さまでの物にてもあらざりければ、よくも見はてで、「これは『關の兼何(かねなに)』とかいふものなるべし」といひてさし出(いで)ければ、主(あるじ)、大(おほい)にあきれたるおもゝちして、「扨も。子が目きゝ、かく迄(まで)妙ならんとはおもはざりけり。いかにも、『兼何』とかいふ者なり。これ、見玉へ」とて、中心(なかご)引拔(ひきぬき)てみせけるに、上り物にて、『兼』の字斗(ばかり)ぞ殘りて有ける。あるじは、物に精(くは)しからぬ人なれば、かくいひてこたへたるなれども、めきゝしたる人は、『あざけるにや』とおもひて、しばし打まもりて居てけるが、さにはあらざりければ、おのれ獨(ひとり)がこゝろのうちにはづかしくて、其座をさりしと、後に人にかたりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「關の兼定」日本刀刀工である和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)のこと。室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活動したことからかく呼ぶ。初代を「親兼定」、以下、ここに出る二代目「之定(のさだ)」(和泉守兼定)、三代目「疋定(ひきさだ)」がいる。ウィキの「和泉守兼定」によれば、『美濃国の刀工に著名工が輩出するのは南北朝時代以降である。室町時代には備前国と美濃国が刀剣の二大生産地とされるが、新刀期(慶長以降を指す)には備前伝が衰退していったのに対し、美濃伝系統の鍛冶は各地で活動しており、新刀期の刀剣の作風に大きな影響を与えている。美濃の関鍛冶は南北朝時代の金重に始まると伝える。関を含め、美濃の刀工には、兼氏、兼元など「兼」の字を冠する名を持つ刀工が多い』。『兼定は同銘の刀工が複数存在するが、初代(通称「親兼定」)』、二『代(和泉守を受領し和泉守兼定と銘する通称「之定」)』、三『代(通称「疋定」(ひきさだ))の評価が高い』。『特に』二『代の通称「之定」は』、『この時代の美濃国では随一の刀匠といわれ』、『有名である』。『初代兼定については、かつてはその作刀が明確でなく、「之定」が事実上の初代とみなされていたが、享徳二二年』(享徳四(一四五五)年の意味)『二月日の年紀を有し、「濃州関住人兼定」と銘する太刀が発見され、これが初代に該当するものとされている』とある。

「關の兼定を之定・疋定などいひて、同じ文字も分ちていふにてしるべし」桃野の謂いは「定」の字の変体字の構成要素の一部を取り出して、継承者を指す通称の一部としていることを指す(この場合は、後代、彼らを呼ぶ際の通称であって、当時の本人がそう名乗っていたわけではないようである(前の例示は、皆、自称だが)ので注意が必要である)サイト「名刀幻想辞典」の「兼定(刀工)」に、二代『兼定は「定」の字を「」』と、『独特の書体で切ることが多いことから、「之定」(のさだ)と通称される。文亀二』(一五〇二)『年以降のもの(二代目)からノサダとなる』とあり、三『代兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから』、『「疋定」(ひきさだ)と通称される』とある。ウィキの「和泉守兼定」によれば、二代兼定の銘字は明応八(一四九九)年から翌年の『間に銘字を変えている。「定」字を初期は「定」に作るが、後には』「」を『記したため、通称「之定」(のさだ)と言われる。「兼」字のタガネ使いにも特色があ』り、「兼」も現行の「兼」とは『字体が異なる』とあることから判るように、茎(なかご)の銘として二代目は「兼」(かねさだ)と、三代目は「兼之」(かねさだ)と名を彫ったことが判る。則ち、伝わる刀としての「関の兼定」には、刀工者「かねさだ」の名銘として、「兼定」「兼」「兼之」の三種が存在するということになる。これを認識してかからないと、本条の「關の兼何」の面白さが判らない。

「上り物」底本は「上け物」(「け」はママ)。国立国会図書館版を採った。これは「神仏への供え物」の謂いであろう。則ち、銘の上部にその旨の刻文があったのであろう。【2018年10月1日取消・追記】何時も情報を戴くT氏より、こ『の「上り物」は刀の定寸』(二尺三寸『前後)に寸法を切り詰めた「磨上」』(すりあげ)『を行い』、『茎を切り詰め』た結果、『銘の一部がなくなったのではないでしょうか』というメールを先ほど頂戴した。それが本シークエンスには美事にしっくりくる。とすれば、この読みは底本に従い(底本は濁音落ちが有意に見られる)、磨り「あげもの」でいい気がしてきた。

反古のうらがき 卷之四 狂人の勇

 

  ○狂人の勇

 武内富藏[やぶちゃん注:ママ。後では「竹内」と表記。正しくは「竹内」。後注参照。]といへる狂人あり。人の害をもせざれば、其まゝにおきける。其子は淸太郞【この淸太郎、のちに下野守になり、函館奉行より御勘定奉行となれり。】とて御勘定組頭なり。富藏は山本庄右衞門が弟にて竹内家を繼(つぎ)たれども、其頃より狂氣して、終にいゆることなく、剃髮して朋友故人を訪(おとな)ひあるくを樂(たのしみ)として、日をくらすにてぞ有けり。小野澤勘介が弟子にて、柔術を取りたりとてほこることありしが、其餘は無能の人なりけり。其家近きあたりに御たん笥(す)町(まち)といふ所ありて、こゝに福田某(なに)がし【今は福田作太郎といふ。其子か孫か。】といふ、いとこあり。其家は町家の裏にて、其入口十間斗(ばかり)の小路なり。一日(あるひ)、酒狂人ありて、犬を逐(おふ)とて刀を引拔(ひきぬき)、此小路に入(いり)たり。あたりの町人、「狼籍もの」とて取卷(とりまき)たれども、さすがに一こしにおそれて、近よる者なく、「表に出(いで)たらんには打倒(うちたふ)さん、地主(ぢぬし)の門に入(いり)たらば、からめとらん」など、ひしめけども、せんかたなし。狂人は此さまを見て、彌々(いよいよ)くるひ𢌞(まは)り、小路を、あちこち、かけ𢌞りけり。かゝる所竹内狂人、いとこがり行(ゆく)とて、人立(ひとだち)の中、おし分て入(いる)にぞ、人々、「あなや」といふ内に、小路の半分(なかば)斗り入けりと見れば、白刄を振(ふる)ふ人あるにぞ、行違(ゆきちが)ひ樣(ざま)に其手をとらへて白刄をば奪ひ取(とり)てけり。これを見るとひとしく、表に立(たち)つどひたる町人共、手々(てんで)に持(も)てきにける鳶口(とびぐち)手棒(てぼう)の類(たぐひ)、打(うち)ふり打ふり、口々に「あの人にあやまちなさせそ。醉狂人を打倒せ」とて、ひしひしと押寄(おしよせ)て、目鼻の分ちもなく打(うつ)程に、小路の眞中に打倒してけり。竹内狂人は「からから」と笑ひてかへりみもせず、いとこが家に入ければ、町人どもは、其勇氣におそれ、かんじていふようは[やぶちゃん注:ママ。]、「今地主がり入玉ふ御人は、武家の隱居とは見侍れども、手に物も持たで白刄を振ふ人を手取(てどり)にして、色もかへでゆうゆうと去り玉ひしは、いかなる武勇の人にかあらん」。一人がいふ、「これは地主旦那が御いとことか、きゝたり。おりおり、こゝにきますことあり。今、かく、すがたをかへ玉ひてさへ如ㇾ此(かくのごとく)なれば、さかりにいませし時は、さこそ、つよく、たけく、おはしけん」などたたへて、醉狂人をば繩にて引くゝり、處の番屋に連行(つれゆき)て、よくよく問ひたゞしければ、尾州侯の御家人何某が家の子なりければ、引渡して事濟(ことすみ)けり。後に、とらへしも狂人のよし聞知(ききし)りて、「扨は。狂人が狂人をとらへたるなり。さこそあらめ、餘りにおそれげもなきしわざと思ひけるが」とて笑ひしとなん。

[やぶちゃん注:「武内富藏」「其子は淸太郞」この子の方は幕末の幕臣竹内保徳(たけのうちやすのり 文化四(一八〇七)年(東京都新宿区の養国寺にある墓碑に拠る)~慶応三(一八六七)年)で、この人物、なかなか凄い経歴の持ち主である。ウィキの「竹内保徳によれば、官位は下野守。通称、清太郎父は二百俵の旗本竹内富蔵とある。『勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て』、嘉永五(一八五二)年に『勘定吟味役・海防掛に就任』(以上から本篇執筆がこの就任前であることが判り、本書の執筆推定である嘉永元年から嘉永三年頃とも合致する)、翌年の『黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任』した。嘉永七(一八五四)年六月に箱館奉行に、文久元(一八六一)年には勘定奉行兼外国奉行に就任、同年十二月には遣欧使節(文久遣欧使節)として三十余名を伴って、横浜から出港、イギリスへ向かった。『攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功』、文久二(一八六二)年五月、『イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始め』、プロシア・ロシア・フランス・『ポルトガルとの間』で『同じ協定を結んだ』。文久三(一八六三)年、『フランス船で帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため』、『登用されず、翌年』、『勘定奉行を辞任』した。元治元(一八六四)年五月には『大坂町奉行に推薦されたが』、『着任せず』に『退隠し』、八月、『閑職の西ノ丸留守居とな』った。慶応元(一八六五)年十二月には『横浜製鉄御用引受取扱となっ』ている。さて、ここで大変な事実が判明した。本「反古のうらがき」の作者鈴木桃野は嘉永五(一八五二)年の没である。私は今まで無批判に割注は桃野のものと考えてきた(桃野のものと読める内容も確かにあった)のであるが、以上の記載に誤りがないとするなら、竹内清太郎保徳が箱館奉行になったのは嘉永七(一八五四)年、勘定奉行に就いたのは、その後の文久元(一八六一)年であるから、桃野にはこんな割注を書くことは不可能なのである。実は他の割注も幾つかは後代の別人が後書きしたものである可能性がここに出てきた。

「御たん笥(す)町」「御簞笥町(おたんすまち)」。ウィキの「箪笥町によれば、『江戸幕府において武具を掌った箪笥奉行』(箪笥は家具のそれではなく、武器の意。幕府の武器を掌る役職には具足奉行・弓矢鑓奉行・鉄砲簞笥奉行があり、それらを総称して簞笥奉行と称していたらしい)『に由来する町名。江戸時代は御箪笥町と呼ばれた』。但し、江戸には当時、複数存在し、下谷箪笥町(現在の東京都台東区根岸三丁目の一部)・麻布箪笥町(港区六本木の一部)・四谷箪笥町(新宿区四谷三栄町の一部)・牛込箪笥町(新宿区箪笥町)があった。この記載のそれがそこであるかどうかは不明だが、上記ウィキでは最後の牛込箪笥町についての記載のみが載り、他のネット記載をみてもそこが一番知られており、現存する「御箪笥町」(正しくは現行も「御簞笥町」)らしいので、一応、それを引いておく。但し、今までの本「反古のうらがき」の多くのロケーションはここに近い位置である。『新宿区の北東部に位置する。西部・北西部は、横寺町に接する。北部は、岩戸町に接する。南東部は、北町・細工町にそれぞれ接する。南西部は、北山伏町に接する(地名はいずれも新宿区)』。『江戸時代、箪笥町の辺りには、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があった。幕府の武器を総称して、「箪笥」と呼んだことから』、正徳三(一七一三)年、『町奉行支配となった際、町が起立し、牛込御箪笥町となった。明治維新後、「御」が取れ牛込箪笥町となり、その後、冠称の「牛込」がとれ、現在の箪笥町という名前に至った』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「入口十間斗(ばかり)の小路」「十間」十八メートル十八センチで、道の幅員としか思われないが、これでは「小路」ではなく大路並みであるので不審。これは小路の長さではあるまいか。

「手棒」手に持った棒。

「今地主がり入玉ふ」これによって竹内富蔵の従兄弟「福田某(なに)がし」が、この御簞笥町の、この小路に面して屋敷を持つ「地主」であることが判る。]

2018/09/29

反古のうらがき 卷之四 雲湖居士

 

 反古のうらがき 卷之四

 

 ○雲湖居士

[やぶちゃん注:本篇は特異的に異様に長い。禁欲的に改行を施し、途中に注を挿入した。なお、長い割りに期待するほどの展開を示さない(私にとってはそうであった)ので覚悟して読まれたい。]

 

 一場藤兵衞は、近授(きんじゆ)流馬術の師範なり。高貮百俵、小十人の家なりけり。文政未年[やぶちゃん注:文政六年。一八二三年。]、御納より大坂御破損奉行となりしが、町人より賄賂を受たるよし、聞へければ、俄に御召下しありて、御吟味の上、遂に遠島と、罪、きわまりけり。舟出の前の日、病(やみ)て死)(しに)ければ、家は絶(たえ)はてにけり。

[やぶちゃん注:「一場藤兵衞」【2018年9月30日追記】昨日、「不詳」として公開したが、何時も御教授を戴くT氏より、寛政重脩諸家譜第八輯」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「一場」氏の系譜中に以下の記載があることをお教え下さったので、謝意を表して以下に掲げる。なお、それによれば「一場」氏は元「大島」氏を名乗っていたという記載がリンク先の前の頁にある。一場政許(まさもと)の嗣子(養子。政許の実子も「政成」であるが、父に先だって没したとする記載がある)である。

政成(まさなり)

藤兵衞 實は石黑平次太敬之が三男、母は設樂喜兵衞正篤が女、政許が養子となり、その女を妻とする。

寬政六年[やぶちゃん注:一七九四年。]十一月十四日小十人に列す。【時に三十歲】 妻は政許が女。[やぶちゃん注:次の項に「女子」(政許の長女格)とあって「政成が妻」と記す。]

また、政成の嗣子として、

政修(まさなが) 直五郎 母は政許が女。

とあり、そこで「一場」氏の系譜は終わっている。本篇の後の方に「
藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す」「藤兵衞妻、家付なり」と合致する。

「大坂御破損奉行」ウィキの「破損奉行」より引く。『大坂定番の支配下で、大坂城と蔵の造営修理、またそのための木材の管理を役目とした。持高勤めで、在職中は役料として合力米』八十『石を支給された。定員』三『名で、配下にそれぞれ手代』五『人、同心』二十『人ずつがつけられた。大坂具足奉行・大坂弓矢奉行(弓奉行)・大坂鉄砲奉行・大坂蔵奉行・大坂金奉行とともに大坂城六役』『または六役奉行と呼ばれていた』。『当初は大坂材木奉行と呼ばれていたが』、元禄一一(一六九八)年十一月十八日に、それまで二名だった『材木奉行を』三『名に増員し、破損奉行と名称が変更された』。寛永元(一六二四)年に『南条隆政(なんじょう たかまさ)がこの職に任じられたのが始まりで、配下には地付の手代と大坂城の淀川対岸にある川崎材木蔵を管理する蔵番』六『名がいた』。『修復の際には、まず大工頭の山村与助が見積もりをし、吟味の上で江戸に伺いをたて、大坂町奉行所で御用掛代官とともに入札に立ち会った後、摂津・河内・和泉・播磨の』四『箇所の天領に賦課された大坂城・蔵修復役の代銀を支払いに』当て、『修復を行った』とある。]

 此人、養子にて、實家は石黑彦太郞とて御右筆なり。屋敷、本所割下水なりき。一場、屋敷は、はじめは牛込山伏町、予が東隣なりしが、後、土手四番町富永靱負(ゆきえ)【千石。】、御番士の隣家へ引越けり。

[やぶちゃん注:「本所割下水」底本の朝倉治彦氏の補註に、『北割下水と南割下水とがあった。万治二』(一六五九)年に、『堅川、橫川と同時に作られた掘割。現在』は『埋められて、ない』とある。位置確認はサイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の「割下水跡(北斎通り)」がよい。

「牛込山伏町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『新宿区。二十騎町の北隣。昔』『山伏が大勢住んでいたが、享保八』(一七二三)年『十二月十八日の火事で類焼し、山伏町は下谷に移った。林大学頭の下屋敷もここにあった』とある。現在の新宿南山伏町・北山伏町・市谷北山伏町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土手四番町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千代田区。市ヶ谷御門内から牛込御門内への堀端』とある。現在の神田川右岸に添った外濠公園の南東に接触する附近(グーグル・マップ・データ)。]

 此所にて馬術師範せしが、弟子も多くありけり。予も其一人なりけり。

 近授流といへるは、牧師[やぶちゃん注:「まきし」と読んでおく。]の流にて目錄免許といふ事もなく、其師の心によりて、其わざある者に傳授をゆるすことなり。故に免許受けたりといふもの、至(いたつ)て少し。靑山下野守・松平能登守・大澤主馬・一場藤兵衞、此四人のみ也。皆、大澤主馬の父何某より傳へたると聞へし。其後、靑山家士山室又藏となんいゝ[やぶちゃん注:ママ。]ける者免許し、又、其後、目錄も作り、免許も傳へし人も、よりより、あるよしなりしが、兎角に御番方部屋住(へやずみ)藝術書上げ等によろしからぬとて、改流する人も多かりしに、此度一場家斷絕より、此流を學ぶ人、絶てなくなりけり。

[やぶちゃん注:「大澤主馬」以下、本話には多数の人物が登場するが、底本に注がある人物以外は原則、注を附さない。但し、この「大澤主馬」は、たまたま別の理由で検索を掛けていたところ、個人ブログ「寛政譜書継御用出役相勤申候」の「大澤 高八百五十六石八斗四升」の中に、当該人物の記事を見出したので(本条文部分が引用されてあれてある)、リンクさせておく。]

 天保の季年[やぶちゃん注:ここは天保末年では不都合が生ずるので(後注参照)末年(天保は十五年まで)の意ではなく、「天保年間の終り頃」の意。]、水野越前守[やぶちゃん注:る老中水野忠邦。彼は天保一〇(一八三九)年十二月に老中首座となって「天保の改革」を主導したが、天保一四(一八四三)年閏九月に失脚、老中御役御免となっている。]、諸流武藝を問正(とひたゞ)せしに、

「近授流と書出す者、近來、絕て無ㇾ之(これなき)は何故(なにゆゑ)。」

と問ひて、其譯を聞き、其流末のものを呼びて見分(けんぶん)し、八丈端物を賞しけり。

[やぶちゃん注:「八丈端物(たんもの)を賞しけり」「八丈」絹の「反物」(たんもの)ではなかろうか。所謂、幕府から向後も近授流の手技の勉励と伝承を致せ、との褒美として下されたものであろう。]

 有馬吞空(どんくう)【御番士。隱居。】・富永孫六【今、御使番。】は免許受たるよし。其外、目錄を受(うけ)たる人、六、七人なりけり。

「一流の斷(た)ゆることは大事の事なれば、よくよく申合せ、斷絶これなきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]すべし。」

とて、申聞(まうしきか)せしよし、越前守、盛擧[やぶちゃん注:力を入れた盛大なる計画・事業。]にてぞありける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行が成されてある。]

 一場が家に、一寸八分の黃金佛觀音あり。淺草觀音同體と言傳ふ。

 如何なる譯にて得たるか、數代前より持傳ふ、甚(はなはだ)あらたなる佛也といへり。

[やぶちゃん注:浅草寺(当時は天台宗)の本尊は聖観音菩薩像で秘仏(高さ一寸八分(約五・五センチメートル)の金色の像とされるが、公開されたことがないため、実体は不明)で、伝承では推古天皇三六(六二八)年に宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた兄弟の網に掛かったとされ、平安初期の天安元(八五七)年(或いは天長五(八二八)年とも)に、延暦寺の慈覚大師円仁が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像造立したとされる(以上はウィキの「浅草寺」に拠る)。秘仏も前立ちもかくも古物であるのに「甚(はなはだ)あらたなる佛」というのは、これ、如何?]

 藤兵衞、祖父の代か、貧窮にて、柳町伊勢やとかいふ質屋へ質入(しちいれ)せしに、

「黃金の眞僞見分けがたし。」

とて、御足の裏をけづりて見たるよし。

 其夜、其家の番頭、發熱狂氣して、

「一場へ行(ゆこ)ふ行ふ[やぶちゃん注:ルビともにママ。]。」

といひて、狂ひしかば、人々、大に恐れ、金子も取らで一場へ歸へしければ、病(やまひ)もいへたる、と言侍ふ。

 扨、右の質屋は後家持(ごけもち)にて、番頭と二人、申合せてのことなるに、

『後家にはたゝりなし。』

と思ひけるに、程もなく、二人、密通のことありて、又、

「外に、男、通ふ。」

といふ爭ひより、番頭、怒りて、後家を切害(せつがい)し、主殺(しゆごろし)の御科(おんとが)になりたるよしは、予が祖母、聞傳へて、予に語り玉へり。

 隣家に居たる時も、三月十八日、緣日にて、處々より聞傳へ、參詣あり。番町へ行(ゆき)ても緣日に參詣を許しけり。

 其日、赤飯・煮染物(にしめもの)をこしらへ、親類・弟子等を會し、開帳拜禮の後、一杯を飮むことも有りけり。此日の賽錢共、入用にあつるに足る程ある、といへり。

 藤兵衞といへるは、至て手堅き人にてありしが、太甚(はなはだ)[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。]尊大にして、靑山・松平等行ても、近習の者に草履をなほさせ、挨拶なし、

「主人同樣の見識なり。」

とて、惡(にく)みを受(うく)ると聞(きき)しが、馬はよく乘たり。

 他人の見るを許さぬ流とて、内馬場(うちばば)也。野馬取(やばとり)御用の節は、門人を連れて小金(こがね)に至て、遠馬をむねとして所謂「ダク」を乘る流也けり。

[やぶちゃん注:「小金」は現在の千葉県北西部、松戸市北部の地区の旧町名。嘗ては水戸街道に沿った宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地で「小金五牧」があった。その後、畑作地帯となり、現在は宅地化している。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ダク」「だくあし」で「跑足・諾足」。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。「並足(なみあし)」と「駆け足」との中間の速度及びその足なみを指す。「鹿足(ししあし)」とも言った。]

 常の稽古にも、拍子(ひやうし)[やぶちゃん注:馬の走るリズム。]・上足(あげあし)[やぶちゃん注:馬の足の上げ方か。]、面白からぬ馬は「早ダク」を追ふに、おもひの外よき足並み出で、上足(じやうそく)[やぶちゃん注:ここは前と差別化して読んで「駿馬」の意で採る。]の如く、馬、つかれをしらず、鞍上、平らかにして、一種の妙處ある流にてぞありける。

「軍馬はかくせざれば、馬、つかれ、用に立(たち)かぬること。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す。孫女(まごむすめ)あり。次男孫助、惣領となる。藤兵衞妻、家付なり。

 其頃より、亂心にて、大坂行(ゆく)を嫌ひて行かず、孫助、行(ゆき)たり。

 一年斗りにて歸る。母の養育の爲なりけり。

 其後、藤兵衞、大坂にて妾を置(おき)たりといふこと聞ゆ。程なく同役と申合(まうしあはせ)、町人より御用達(ごようたし)の願(ねがひ)を取持(とりもち)、無盡を取立(とりたて)たりといふこと、聞ゆ。

[やぶちゃん注:「無盡」原義の「尽きるところがないこと・限りがないこと」から、莫大な金銭を斡旋料として継続的に搾り取ったことを指すか。「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口毎に抽籤や入札によって金品を給付する「無尽講」の意もあるから、それを半強制的にそうした業者に課したとも取れるが、「取立」としっくりこない気がするので、私は前者で採っておく。]

 此事より、賄賂のこと顯れ、同役は重き御仕置となり、藤兵衞は遠嶋(ゑんたう)と定(さだま)る。

 孫助、

「父介抱として同船の願ひを出(いだ)し度(たし)。」

とて、予が方に來りて、門人靑木龜之助問(と)ひ合(あはせ)、手繼(てつづ)きをなしけり。此龜之助が父鄕助、其父遠嶋となりしが、鄕助介抱の願ひを出し、父嶋中にて死去の後、孝心のむねにて、其身、御構い[やぶちゃん注:ママ。]御免、其後、無ㇾ程(ほどな)御召し出しに預り、高百俵被ㇾ下(くだされ)けり。其例を以て、同船を願ふにてぞありける。

 扨も、同船の願ひ共(ども)叶ひて、出船の日も定(さだま)りたれども、「風並み惡し」とて、二、三日、船を出(いだ)さでありける中(うち)に、如何なる運命のつたなきにや、藤兵衞、病(やみ)て死(しに)けり。もし船中にて死たれば、介保(かいはう)[やぶちゃん注:「介抱」。]のことなくとも、孝道も立(たつ)べかりしを、出船の延びたるにて其事いたづらとなり、孫助父科(とが)にて、御構ひの御免もなく止みにけるは、不運の中にも又不運にてぞ有けり。

[やぶちゃん注:父介抱のためにともに島流しとなる予定が、このような事態になったため、父介抱は未遂無効として処理され、御家断絶は勿論、孫助も恐らくは江戸への立ち入りを禁じる「お構い」(追放)の処分となってしまったのであろう。後で「孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る」とあるが、これは後を読めば分かる通り、違法に江戸に入っているのである。「江戸所払い」でも容易に秘かに江戸に入ることは出来た。]

 家付藤兵衞妻は引取(ひきとる)者なく、夫と實家石黑にて孫助妻及び娘も引取りけり。

[やぶちゃん注:「夫と」指示語「それと」か。]

 孫助は野村篁園社中にて詩人にてぞ有ける。日下部梅堂・岡田昌碩と社を結び、詩を作る、貮人のもの、皆、及ばざるなり。篁園(こうえん)・霞舟(かしう)、每(つね)にこれを賞し、各(おのおの)和詩ありけり。其詩、篁園に彷彿して大に異氣あり、人物も甚敦厚にて且(かつ)滑稽あり。予は馬術の弟子のみならず、鎗術・弓術、皆、同師なり。且、孫助が幼なる時、予が乳を分ちて與へしかば、同胞兄弟(はらから)の如く思ひけり。又、學問も同じ程の年頃なれば、「史記」の會讀詩會等にて、月に四、五度、出合(であは)せしにより、孫助も大に賴みとせし也。孫助御構ひの後、

「甲府に知る人あり。」

とて行(ゆき)けり。其程は俳諧師となりき。其(それ)以前、和歌を學び、詩を廢す。手跡の見事成る事、妙也。楷書は篁園に似たり。大坂に一年ある内、公家の文字を學びたるが、さながらに古代樣なり。哥(うた)も其時より學びたり。

[やぶちゃん注:「野村篁園」底本の朝倉治彦氏の補註に、『名は直温』(「なおはる」か)『字君玉、篁園は号、兵蔵と称す。大坂七手組』(しちてぐみ:豊臣秀吉の馬廻組の武功ある者を選抜した精鋭から成る組頭衆「御馬廻七頭」の異称)『の一人野村肥後守直元の後裔。父は書物奉行比留勘右衛門正武の次男。天保十三年十二月十日』(一八四三年一月十日)『儒者となる。十四年六月二十九日歿、六九歳』とある。但し、試みに調べて見たが、大坂七手組に野村肥後守直元なる人物は見当たらない。不審。なお、この人物は既に注した通り、桃野が所属した文政五(一八二二)年十二月結成された詩会氷雪社の評者の一人で、評者には他に以下に出る友野霞舟と植木玉厓が当たっている。

「霞舟」底本の朝倉治彦氏の補註に、『友野霞舟、儒者。名は瑍』(「かん」と音読みしておく)『字子玉、称雄助。別に崑岡』(「こんこう」と音読みしておく)『と号す。天保十四年』(一八四三年)『甲府徽典館』(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)『の学頭』(桃野が死の時に任命されることになっていた職と同じ)『に任じられ、嘉永元年』(一八四八年)『まで在任し、二年六月二十四日歿、五九歳』。『白藤・桃野父子と親しかった』とある。]

 予、靑木龜之助と斗(はか)りて、同門中を𢌞り、金子合力(きんすかふりよく)を賴む。

 古參の弟子といへども、心よく受引(うけひく)者、少し。

 予、怒りに堪へず、梅堂・昌碩行(ゆき)て計(はか)るに、皆、同意なり。

 因て門人方は、ゆかで、やみけり。【最初、一尾小平太行(ゆき)しに、少々ならば出さんといゝし[やぶちゃん注:ママ。なお、前の「江」は恣意的に小文字とした。]。其口振り、甚だまづし。折節、一尾、玄關にて昌碩に逢へり。よりて右のことを談ず。卽刻にて承引せしかば、彌(いよいよ)同門をば疎みて遂に行かず、止むこととなれり。】富永といへるは、門人のみならず、隣家にて殊に懇意なりけれは、如何にせしやしらず、予が合力にて金壹分づゝを取集めけり。靑木龜之助一分、日下部梅堂一分、岡田昌碩一分、鎗の師篠山吉之助貮朱【此人なさけぶかき人にて、いろいろの奇行あり。予も恩になりたり。墓銘、予が書(かき)たるなり。】、野村篁園貮朱、友野霞舟貮朱、予も壹分、合(あはせ)て壹商壹分出來たり。門人どもは如何せしや、其後、問わず[やぶちゃん注:ママ。]置たれば、予はしらざりけり。かゝる時にして人心は見ゆるものぞかし。其中に篠山・野村・友野が、人の究(きはまる)を見て貮朱づゝ給はりしは、金の多少によらず難ㇾ有(ありがたき)ことにあらず哉(や)。

「此壹兩壹分を路用として甲府に行(ゆき)、雪駄中買(せつたなかが)ひをする。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]。

[やぶちゃん注:「篠山吉之助」底本の朝倉治彦氏の補註に、『旗本。御書院番士。資明。実は坂本養安資直の二男。はじめ熊三郎。文政八年』(一八二六年)『五月十八日歿、年六〇歳』。『鎗は養父光官』(「こうかん」と音読みしておく)『の伝授であろう』とある。]

 高橋平八郞【後、平馬。】、いとことか、いゝけり。此方(こなた)に孫助妻來り居(をり)しが、又、本所石黑方へ行(ゆき)たり。娘、十二、三に成(なり)けり。孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る。予、來る每に一盃を酌(く)み、且、銀壹朱づつ贈る。

「是は馳走の料なり。若(もし)入用のことあらば、用立(ようだてす)べし。」

と云置(いひおき)たり。

 一日(あるひ)、來りていふよふ、

「甲府は雪駄高直(かうじき)にて足袋下直(げじき)なれば、江戶より雪駄を買ひ入(いれ)、足袋を持來りて賣(うる)べし。しからんには妻も連れ行(ゆき)て足袋縫(ぬは)せんと思ふ。」

と語りけり。其日も例の如く一酌して、銀壹朱を贈れり。夕方、予が家を辭して、則ち、妻がかたへ往(ゆき)て一宿し、直(ぢき)に甲府に伴ふよし、なりけり。

 其明る日、再び予が家に來り、入口に立(たち)たる儘にて、予に面談致し度(たき)由(よし)申入(まうしいる)る。

「内入(いり)給へ。」

といへども、入らず。

「何用。」

と問ふに、

「昨日申せし雪駄問屋に行かんと思ふに、金子少々不足なり。昨日の御言葉に甘へ借用に來りし。」

といふ、兼て申(まうす)如くなれば、

「いと易き程のことなり。」

とて、其數を問ふに、

「金貮分。」

と答ふ。則ち、立ながら、貮分金、壹つ與へたれば、

「重(かさね)て出府には返すべし。」

とて、直に去りけり。

[やぶちゃん注:台詞は「必ず江戸出立までにはお返しせんと存ずる。」の意。]

 其夜、如何なることにかありけん、妻と娘とを殺害し、窓より劍を投込(なげこ)んで行衞しらずなりにけり。

 其所は本所石黑が宅の長屋にて、其夜は雨降りて、天黑き夜にてぞありける。

 扨、石黑は當番、留守とて、誰(たれ)ありて何の子細といふことをしらず[やぶちゃん注:誰一人としてこの殺人事件の仔細を知る者はなかった。]。

 これより先に妻娘、高橋[やぶちゃん注:先に出た、孫助の「いとこ」とか言う高橋平八郞。]が宅に逗留せしを見し人あり。穠妝艷抹[やぶちゃん注:「じょうしょうえんまつ」(現代仮名遣)と音読みしておく。「豊かに・豪華に」(穠)「粧(よそお)い」(妝)「色っぽく」(艷)「化粧を塗っている」(抹)の謂いのようである。]、御構ひ者の妻娘には似ざるといふ評判ありし由。

 思ふに甲府へ連行(つれゆか)んといゝし時、外に奸夫[やぶちゃん注:「かんぷ」。間男。]にても有りて、行(ゆく)ことをうけがわざりしことにてもありしや、かく落ぶれし身にて、妻子に迄見離されたらんには、かゝることも出來(しゆつたい)やせんかと思わる[やぶちゃん注:ママ。]。娘を殺せしは如何なる故か知(しり)がたし。血迷ひしにや、かくて御檢使下りて、彼(かの)兇刀を見るに、ふしぎなることこそありけり【石黑のとゞけは、「夜中、何者ともしらず、殺害」ととゞけたる也。御構ひものなれば、其夫となりとも、御當地にて事あれば重罪なるによりて、盗賊と言(いは)ざること能はず、さもあるべきことなり。】。御徒目付何某、來りていふよふ、

「此刀は銘『長曾根興里入道虎徹(ながそねおきもとにゆだうこてつ)』なるべし。世に聞ゆる大業物(おほわざもの)なり。拵(こしら)へより寸尺燒刄、見覺へあり【此御徒目付誰なりけるか、日頃腰の物、好(このみ)にてありけるが、かゝることを見覺へて詳らかに辨ぜし故、忽ち、其人の仕業と極(きはま)りたり。】。

[やぶちゃん注:「虎徹」(慶長元(一五九六)年~慶長一〇(一六〇五)年?/延宝六(一六七八年?)は江戸時代の刀工であり、同人が作った刀剣の名。正確には甲冑師となった長曽禰興里の刀工時代の入道名の一つ。]

「先年、一場孫助、追放の節、吾(われ)立合(たちあひ)にて投與(なげあた)へし刀也【予も見覺へたり。茶づかに南蛮つば、無ぞりにて、銘虎徹なるよしは兼て聞たる事なり。】。されば下手人は其夫(をつ)とに疑ひなし。」

といゝたれども、行衞もしらず、又、何故、吾妻子を殺せしといふこともしらず。殊に他人を殺せしにもあらねば、差(さし)たる御科(おんとが)ならず[やぶちゃん注:この「御」はそれを犯罪として規定した幕府方への尊敬の接頭語。]。但し、御構ひ者故、事のよし惡(あし)を問はず、御當地入込(いりこむ)こと大罪なれば、氣の毒にや思ひけん、強く吟味もなくて、事、やみにけり。其頃、飯尾一谷君、加役を勤む。其話に、

「右下手人は其夫に極(きはまり)たれば、加役方にては、隨分、捉(と)らんとするもの多し。足下(そつか)[やぶちゃん注:貴殿。話相手であり、孫助の親友である桃野を指す。]、行衞をしりたらば、隨分と身を隱し可ㇾ申(まうすべし)よふに申送るべし。」

と深切の意を通じたり。是は予が交り深きのみ、孫助には逢(あひ)たることもなき人なり。かく迄到る處、人の憐みを得ること、日頃、篤實なる人にして、且、予が輩、每(つね)に其不幸を歎ずる故也けり。

 かゝりけれども、終に捕へ得ずして、事止みぬ。

 予、よくよく按ずるに、始め、予が家に來りし時、每(つね)に馬に乘るとき斗(ばかり)り用ゆる革柄(かはづか)の短刀を帶したり【此刀は中身なににてありしや。其樣、粗物(あらもの)[やぶちゃん注:「そぶつ」でもよい。粗末なもの。雑なもの。]にして用に當るべきものとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。但し、短刀にて、御構ひものなどがひそかに腰にするに、目立たずして好(よ)き故、帶來(おびきた)りたる物なるべし。】。彼(かの)事ありし時、怒りに堪へず殺害の心ありても、彼短刀にては、便り、よろしからず、虎徹の刀をほしく思へども、定めて質入(しちいれ)にてもいたせしことなるべし。拵(こしらへ)は餘り立派にも非らざりしが、名にしおふ大業物のことなれば、餘程の質入なるべし。右の質物、受出(うけいだ)すに、雪駄の仕入金を用ひ【最早人殺しなれば、雪駄仕入無用也。】、其不足を予が家に來り借りたるならん。後におもふに、合力は受(うけ)たり、來る每に少々づゝの銀子をもらひて、假令(たとひ)入用の節は用立(ようだて)んといふとも、直に引(ひき)かへし、立ながら、預け物の如く借用とはいゝにくきことなるを、かく斗(はから)ひしは、最早、夢中になりたる樣(やう)にてもありしならん、予は、一向、心もつかでありしが、家人[やぶちゃん注:桃野の屋敷の者。]は、

「却て其動作の匇忙(そうばう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「そうぼう」但し、「怱忙」が正しい。忙しくて落ち着かないこと。]なる樣(さま)を怪しみし。」

と後に語りき。

 是より先に甲府行(ゆく)時に、予が家に本箱一つ預け置たり。其餘、張文庫(はりぶんこ)[やぶちゃん注:蓋付きの手文庫で、全体を漆塗り等で総張りにしてある豪華なものであろう。]一つ。皆、手書の寫物(うつしもの)なり。詩集もあり、詠草もありけり。多くは哥書(うたがき)にて、手跡、いづれも見事爲(な)ること、皆人(みなひと)、感じあへり。これは、予に與ふべし、といゝおくりしが、予は不用の物なれば、高橋がり送りて、

「金にかへて、行衞しれたらば、送り玉へ。」[やぶちゃん注:孫助の行方。]

といゝおくりしが、

「實(まこと)に親類といへども、行衞をしらず。」

といいて、予が家に置けり。

 高橋は俗人にて、「口寄せ」をせしと語りき。

 其言葉に、「存命にて居ると雖へども、一大事を仕出し、諸親類・諸朋友とも、面を向けがたし。」といゝしよしを語りき。

 其時に、

「『圓機活(ぜつ)法』といへる書は、あたへ、いかほどなるべし。」

と問ひけり[やぶちゃん注:高橋が桃野に問うたのである。「ぜつ」のルビは底本のもの。「圓機活法」(えんきかっぽう)は明代に作られた漢詩を作るための辞書でかなり知られたものである(芥川龍之介なども使用している)。二十四巻。天文・地理等の四十四部門で構成され、故事成語等を分類編集してある。明の楊淙著とも、別に王世貞編とも伝えられている。正式には「圓機詩學活法全書」。ここはこの書名を紙に書いたもの見た孫助の従兄弟である高橋平八郎が俗人で知識もないため、「活」の字を「舌」と誤読したのであろう。]。

「それは『圓機活(かつ)法』なるべし。詩を作る本なり。何の用に仕玉(つかひたま)ふ。」

と問ひければ、

「さる方より、賴まれたる。」

よし、答(こたへ)たり。

『扨は孫助が方より、賴みたるなるべし。行衞しらずといふは、いつはりぞ。』

と思ひけり。されども御赦(おゆるし)に逢ひても告(つげ)しらさでありしを見れば、實(まこと)にしらざるにも似たり。人を疑ふときは、いろいろの當りある事を見きゝするものなれば、みだりに人を疑ふまじきは、古人もいゝおけり。又、再びおもへば、其頃は、しりて後には、しらずなりしやも、しるべからず。

 十數年を經て、生(いき)たりとも死(しし)たりとも、しる人もなかりしが、文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌御法事に付、御赦に逢ひ、行衞相しれ候はゞ申達(まうしたつ)すべき旨、諸親類へ御沙汰ありしかども、實(まこと)に行衞のしれざるか、其儘にて打過(うちすぎ)てけり。

[やぶちゃん注:「文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌」「文恭公」は第十一代将軍徳川家斉(安永二(一七七三)年~天保十二年閏一月七日(一八四一年二月二十七日))のこと。一周忌であるから、翌天保一三(一八四二)年ということになる。]

 二、三年を過(すぎ)て、

「初めて御赦の趣を聞(きき)しりたり。」

とて江戸出來り、石黑が方へ行く。

 予が家に訪ひ來りて、口上書をもて、いゝ入る樣(さま)は、

「今生(こんじやう)にて御見通りは相成難(あひなりがた)き義理に侍れども、餘りにおなつかしさに參り侍る。」

と申入(まうしいれ)けり。

 予、歡びて出迎(いでむかへ)、座に付(つき)て其樣を見るに、實(げ)に以前の孫助とも見えず、かしらはそりたれば、容(かたち)迄、かわり[やぶちゃん注:ママ。]、それが幾日もそらで、白髮まじりにのびたれば、きたなげなるに、前の方は少(すこし)はげ上りて、前齒さへ落たれば、齡(よはい)は予に一つおとなれども[やぶちゃん注:「弟なれども」か。一つ下。]、老僧めける人とわなりぬ[やぶちゃん注:ママ。]。太織(ふとおり)の黑染(くろぞめ)なる「ヒフ」といへるものゝ、垢づきて、少しやれたる所あるを、荒布の衣の上に着てけり。

[やぶちゃん注:「ヒフ」「被風・被布・披風」等と書く。長着の上に羽織る防寒用の外衣。襟あきは四角く、前を深く重ね,総(ふさ)付きの組紐で留めて着る。江戸末期に茶人や俳人が好んで着た。

「少しやれたる所あるを」底本はこの部分、「垢づきてかやれたる所あるを」であるが、「かやれる」という動詞は知らないので、国立国会図書館版で訂した。これなら「破(や)れたるる」で意味が判るからである。]

 予も、覺へず、淚のこぼるゝよふなれども、無事にて再び相見るがうれしくて、

「いかにあり玉ひけるや、扨も、生あれば再び相見ることもありけり、何より問ひ侍らでや、又、何より語り給はんや、とても一座に盡すべきならねば、こよひは吾家に宿し玉へ。」

とて、先(まづ)、茶菓もて、なぐさめたり。

 一口ひらく每に、あわれに[やぶちゃん注:ママ。]かなしきことのみにて、殊に餘が家は、孫助、幼なる時の隣家なれば、さらぬ身になりてさへ、ふるき住家(すみか)のかわり[やぶちゃん注:ママ。]果(はて)たる樣は、かなしきこと多きに、此人が座しながら、籬(まがき)一重(ひとへ)隔てゝ、今の隣の方見やりたる樣、いかにかありけん。

   みちみちつゞけたりとて

  夢にのみ見し古鄕は夢ならでかへりても猶夢かとぞ思ふ

  古鄕へ立かへりても沖津波よるべきかたもなさけなの身は

[やぶちゃん注:前書の意味、不詳。]

 扨、語るよふは、

「當地を立退きて甲府にも少し斗りありて、東海道の内に、さる寺あるに入(いり)て剃髮し、此所に世話になりてありしが、又、其所にも久しく居らで處々遍歷し、遂に遠州大井河のほとりにて、人の世話になりて寺子やを出し、弟子も多くなりてこゝに居付(ゐつき)けり。固(もと)より何の願ひもなき身なれば、無慾の人となり、其日々々を送るのみ。されども豪家なる百姓ども、『御師匠樣』と稱(とな)へて不自由なく養ひたり。三度飯は、大體、弟子の方(かた)にて食ふなり。衣類もよき程に作りておくるに[やぶちゃん注:弟子の家が、であろう。]、もし手拭・鼻紙の類を買ふ時は、何方(いづかた)にても、行先にて、入用程、買取りて、吾れ、身に一錢ももたざれば、

『其しろ[やぶちゃん注:「代」。代金。]は弟子の内にて、誰が方にても取(とり)てくれよ。』

といへば、商人も其こゝろを得て、敢て銭を求めず。常の日は稽古場におきふして、晝後は圍碁の會席となして、賭碁(かけご)を打(うつ)人を會し、おのれも打(うち)まじりて圍碁の相手などするに、席料として錢を返る上に、大(おほい)に勝(かち)たる人よりは不時(ふじ)[やぶちゃん注:思いがけなく。]に送る事もあり。これを小遣(こづかひ)とするに不足なし。又は村中、或は、近村にて、公事・訴訟あれば、書物(かきもの)[やぶちゃん注:訴状等の文書であろう。]を賴むことあり。事によりては數里の外までもやとわれ[やぶちゃん注:ママ。]、同道して公事に出るなど、皆、錢金、想應に取(とり)たり。今は、門人、甚(はなはだ)多く、且、所の者、大におしみて、御赦に逢ひ古鄕に歸ることをうけひかず[やぶちゃん注:受け入れて引き下がることをせず。]。但し、

「しらざる昔(むか)しは、是非なし。難ㇾ有(ありがたき)ことなれば、其儀、打捨(うちすつ)べきにあらず、是非々々。」[やぶちゃん注:村の総代の言葉であろう。]

とて、出でたり。門人ども、

「必(かならず)、又、再び來り給へ。一生、安樂に養ふべし。」

といゝけり。

 扨、いまの身は如何にしてよからんや、思ひ迷ふことなり。」

と、いゝき。

「扨も。ふるきしる人は如何に。」

ととふにぞ、予も、世の中、あらましを語りき。

「鎗師篠山君は、先(せん)に死して、恩師なれば墓銘を予に託し、近きあたりに墳墓あり。野村篁園も、死してけり。」

など語るに、聞(きく)每に、皆、感傷のことのみにてぞ、ありける。

[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の補註によれば篠山吉之助の墓所は『牛込横町円福寺』とある。現在の東京都新宿区横寺町にある日蓮宗圓福寺(えんぷくじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の孫助の語りや後の桃野の応答は、孫助自身が自分を指すのに「孫助」と言っており、孫助の台詞の中の桃野を指すべき二人称を「予」と書き換えており、厳密には直接話法でない箇所が認められるが、読み易さを考えて、直接話法として扱ったので注意されたい。

 孫助、又、語るよふ、

「石黑彦太郞【伯父也。】隱居して、其子何某、新御番なり。伯父彦太郞も孫助が行衞のしれたるを歡び、何卒して再び世に出し度(たく)思ひて、色々、工夫する、といへり。是はさもあらん、吾家より出(いで)し弟が他家を繼ぎて、其家を潰したることなれば、其子存生(ぞんしやう)の中(うち)に、一場家再興の工夫は肝要なることなりけり。

 此人、御祐筆を勤めたれば、かゝることは克(かつ)て巧者ならんと思ふにも似ず、太甚(はなはだ)おろかなることを言ゝたり。

『此程、天文方高橋作左衞門【牢死なり。存生に候はゞ死罪。】、其子御赦にて歸嶋(きたう)せしが、直(ぢき)に天文方手傳(てつだいひ)とて、十人扶持被ㇾ下(くだされ)、御用、相勤(あひつとめ)、程なく、十人扶持本高に被下置(くだされおき)、以(もつて)上席へ御召出しに成(なり)たる例あれば、孫助をも還俗させて、出役(しゆつやく)ある場所[やぶちゃん注:臨時役職。]へ差出し申度(まうしたき)旨(むね)、いゝたる。』

とぞ。

[やぶちゃん注:「高橋作左衞門」底本の朝倉治彦氏の補註に、『所謂シイボルト事件の犯人として入牢獄死した景保』とある。高橋景保(たかはしかげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)は天文暦学者。天文方高橋至時(よしとき)の長男として大坂に生まれた。「Globius」という号もある。幼時より才気に富み、暦学を父に学んで通暁し、オランダ語にも通じた。二十歳で父の後を継いで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助力を受けて浅草の天文台を統率し、優れた才能と学識で、その地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局との交渉及び事務方につき、力を尽くし、その事業遂行に専心させた。文化四(一八〇七)年に万国地図製作の幕命を受け、三年後に「新訂万国全図」を刊行した。翌年には暦局内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についての学識をも有し、「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」ほか、満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、寧ろ優れた政治的手腕の持ち主で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と、大槻玄幹(おおつきげんかん)は評している。この政治的手腕がかえって災いしたものか、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」の主犯者として逮捕され、翌年、四十五歳の若さで牢死した。存命ならば死罪となるところであった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「本高」「表高」とも称する。幕府が検地によって公表した標記上の石高を指す。別に「内高」があり、これは幕府に公認されていない、所有領内で実質的に産出される現実の石高を指す。本高よりも内高が高くても、その分は、国役など幕府に対する役儀を賦課されることがなく、しかも領主はその土地を耕作する百姓から余剰分の年貢を徴収することが出来る。この〈内高と本高との差額〉が大きいほど、領主の財政は豊かになる。]

 天文方は浪人・百姓・町人にても其道に長じたる者は、御用に相立(あひたつ)所なれども、其外は左樣の場所はなきことなり【高橋が親類は、皆、權家なれば、かゝることもありたるなれども、左もなき人は能はず。】。孫助、又、申立(まうしたつ)る藝能も無きにはあらねども、拔群にあらざれば申立(まうしたて)がたし【近授流馬術は家のものなれども、久しく乘らざれば、用をなし難し。たとひ、申立たりとて、馬術を以て御召出しといふは聞かず。】。」

 予にも、

「何とぞ、能き工夫は有(ある)まじきや、予は學間所出役のよしなれば、定(さだめ)てかゝることの場所もしりたらん。」

といふにぞ、予がいふよふは、

「そは、めで度(たき)思ひ立(たち)にて侍れども、かゝる例(ためし)はなきことなれば。」

前のくだり、申聞(まうしき)けて[やぶちゃん注:ママ。]、しばし案じ、いふよふ、

「予に一説あり。先に家斷絶の砌(みぎり)、貴兄直五郞君は女子二人あり【實は内々にて親類中島淸次郎へ嫁す。御番士宅。三間屋(さんげんや)[やぶちゃん注:不詳。地名か? 底本は「三問屋」であるが、国立国会図書館版を採った。]。】。これに御捨扶持あり[やぶちゃん注:由緒ある家の老人・幼児・婦女・廃疾者の生活を援助するために幕府から施された禄米をいう。通常の扶持米は一人一日玄米五合であったが、一人捨扶持は一日玄米四合四勺八才であった。]【母妻娘とも御捨ぶち有りしが、今、皆、死果(しにはて)て纔(わづか)女壹人なり。】。此御扶持を孫助君へ願ひかへ、兩三年、いたゞきたる上にて、扨、申出(まうしいづ)る樣(やう)は、『久々、御捨扶持、いたづらに饗(たへる[やぶちゃん注:底本のルビであるが、意味不明。「饗」はこの場合、「享(う)ける・もてなしを受ける」の意であるから、意味は分かるが、読みはしっくりくるものがない。])いたし候條、恐多(おそれおほ)く侍るなれば、御捨扶持を本高に被下置(くだしおかられ)、如何なる輕き御役なりとも、相勤度(あひつとめたき)』旨、願出(んがひいで)たらんには、其上に青山邊の水野何某【植木師に名高し。小高故なるべし。[やぶちゃん注:後半、意味不明。「石高が小さいからであろう」であるとしても、それが前の理由になるというのは解せない。]】が如く、以(もつて)上席御召出(おめしださ))んも難ㇾ斗(はからひがた)し。さあらんには御役中は、場所高(ばしよだか)程の御足高(おんたしだか)[やぶちゃん注:幕府が役人に対して与えた一種の俸禄。享保八(一七二三)年制定。役職に就任する者の世禄(せいろく:当該家の継承者が受ける俸禄。世襲の家禄。「せろく」とも読む)が役高に達しない場合、その不足分を在職中に限って加給した。若年寄を除く殆んどの要職に行われ、微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つとともに、役料の世襲による財政の膨張を押える効果があった。]あれば、勤め繼ぐこと、難(かた)かるまじ。此等の工夫こそ家再興の捷徑(ちかみち[やぶちゃん注:底本のルビ。])なるべし。其餘、妙策、更らになし。」

といゝき【再び、おもふに、女子の捨扶持、男子へ願ひ替(かへ)たる例あるやの處、安心ならず。】。折節、予が緣者遠山霞堂來りし故、例を尋ねしに【西丸番組頭なり。】、

「近來、其ためしあり。」

とて書拔(かきぬき)て、おくりたり。

 取扱(とりあつかひ)たる御目付は大澤主馬なり。

 予、此時、大に呼びていふ、

「事の奇なること、人のしること能はざることあり。扨も、かゝる珍ら敷(しき)斗(はか)らひは、不案内の者にては時の明(あか)ぬ物なり。石黑彦太郞が子新御番、其頭(かしら)は乃ち大澤圭馬なり。御目付の時、取扱ひて程も經ざる事なれば、進達(しんたつ)[やぶちゃん注:上申書などの下からの書類を取り次いで上級官庁に届けること。]等に、手間入(いる)まじ、又、大澤主馬は兼て近授流の馬術同流の免許の人なり。旁(かたはら)以(もつて)ちなみ、よし。一日も早く思ひ立(たつ)べし。」

 予、獨りが、大によろこびたり。

 扨、孫助は予が家に一宿して、石黑行(ゆく)とて立出(たちいで)ければ、先に預り置(おき)たる本箱・張文庫一物を動かさず[やぶちゃん注:「そのままそっくり」の意か。]返しけり。

 其後、再び訪わんとて來らず、御赦(おゆるし)の申渡(まうしわた)しは、

「髮をのべてより後(のち)出(いづ)る。」

といゝけり。かゝれば、前に予が斗(はか)りし事も、俄かになし難(がた)けれども、

『先(まづ)、其例書(ためしがき)等は、石黑方申送るべし。』

と思ひて、廿騎町【與力地なり。】鈴木源八郞【三藩人也[やぶちゃん注:意味不明。]。】孫助いとこの方へ申入(まうしいれ)て、

「面談にて早く石黑通じ、願ひを出すべし。」

と敎へたり。

 然れども、

「法體(ほつたい)にては御赦の御答さへ出來ず。先(まづ)髮を長ずる迄、遠州へ立歸る。」

よしにて、其後、今以(もつて)來らず。

「如何せしや。」

と、いゝき。

 其後、幾年もあらで、大澤主馬、御役替(おやくがへ)せしかば、先(まづ)一つの機會を失へり。

 されども、靑山下野守・松平能登守等、よりより申込(まうしこみ)たらば、少しのことには有付(ありつく)べし、林(はやし)大學頭【檉宇(ていう)。】・鳥居甲斐守・林式部少輔、みな、松平能登守の緣にて一場門人にて有しが、今は、みな、死失(しにうせ)て【大學頭病死。甲斐守御預(おんあづかり)。】、式部少輔のみ殘れり。予が方の總教(そうきよう)[やぶちゃん注:後の記述から昌平坂学問所塾頭のこと。]なれば、何ぞよき工夫もあらば、賴みてみんと思へども、浪人を用ゆる御用といふことなし、孫助、學問も心得たれども、申立(まうしたつ)る程のことにもあらず。此後、如何に成行(なりゆき)けん、しらず【其後、二、三年を經て、源八郞に聞しは、孫助、遠州にて妻子もありて、江戸へ出る意なきよし也。かゝれば、家再興のことも思ふべからず、御赦の御請(おんうけ)もせしや、如何(いか)に有(あり)しや、こゝろと言葉とは相違せしことどもなり。かゝれば、其事も包みて、予にも語らず。元より、永く江に居(を)る心なく、但、御赦に逢(あひ)しうれしさと、古鄕の戀しさに出で來りしのみのことにてぞありける。】。

[やぶちゃん注:「林(はやし)大學頭」「檉宇(ていう)」林檉宇(寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は、かの林家当主林述斎の三男。天保九(一八三八)年)には父祖同様に幕府儒官として大学頭を称し、侍講に進んだ。ここは注してしまったので、並列している人名の注することとする。

「鳥居甲斐守」林述斎の四男で「蝮(まむし)の耀蔵(ようぞう)」「妖怪」(官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀(蔵)・甲斐(守)」と反転させて略して当て字したもの)の蔑名で知られた南町奉行(天保一二(一八四一)年就任)鳥居耀蔵(寛政八(一七九六)年~明治六(一八七三)年)のこと。ウィキの「鳥居耀蔵」によれば、後、彼を重用した水野忠邦が老中辞任(天保一四(一八四三)年閏九月十三日、老中御役御免)に追い込まれるも、その半年後の弘化元(一八四四)年六月に水野が再び老中に再任されると、『水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、元仲間の』連中の『裏切りもあって、同年』九『月に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任され』、翌弘化二(一八四五)年二月二十二日、『鳥居は有罪とされ』、四月二十六日に『出羽岩崎藩主佐竹義純に預け』られ、その後、十月三日には『讃岐丸亀藩主京極高朗に』御預けとなった(なお、返り咲いた水野自身も、結局、その全く同じ弘化二年二月二十二日に、再び、『老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居』『その後水野家は出羽国山形藩に転封されている』)。『これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間』、二十『年以上』、『お預けの身として軟禁状態に置かれた』。『丸亀での耀蔵には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切』、『無視されたりすることもあった』。嘉永五(一八五二)年の日記には「一年中話をしなかった」という記述さえあるという。『そんな無聊を慰めるため、また健康維持のため、若年からの漢方の心得を活かし』、『幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また自らの健康維持のみならず、領民への治療も行い』、『慕われた。林家の出身であったため』、『学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し』、そうした連中からは『崇敬を受けていた。このように、軟禁されていた時代の耀蔵は』「妖怪」と『渾名され』、『嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され』、『感謝されていたようである』。『江戸幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、耀蔵は病』い『と戦いながら』、『様々な変化を見聞している。明治政府による恩赦で』、明治元(一八六八)年十月に『幽閉を解かれた。しかし』、『耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから』、『上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた』という。『東京と改名された江戸に戻って』、『しばらく居住していたが』、明治三(一八七〇)年、『郷里の駿府(現在の静岡市)に移住(この際、実家である林家を頼ったが、林家では彼を見知っているものが一人もいなかったという』)、明治五(一八七二)年に『東京に戻る。江戸時代とは様変わりした状態を慨嘆し』、『「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたという。晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り』最期は『多くの子や孫に看取られながら亡くなった』。享年七十八であった。

「林式部少輔」林述斎の六男林復斎(寛政一二(一八〇一)年~安政六(一八五九)年)。檉宇の弟で文化四(一八〇七)年に親族である第二林家の林琴山の養子となって三年後に家督を継いだが、嘉永六(一八五三)年、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去したため、急遽、大学頭家を継ぐことになり、小姓組番頭次席となって大学頭(「式部少輔」はそれ以前の彼の官名)と改名し、五十四歳で林大学頭家第十一代当主となった。折しも、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀に来航、復斎は幕府に命ぜられ、永禄九(一五六六)年から文政八(一八二五)年頃までの対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集「通航一覧」を編纂した。翌安政元(千八百五十四)年正月にペリー艦隊が再来すると、町奉行井戸覚弘とともに「応接掛」に任命され、横浜村での交渉に当たった(実際の交渉は漢文の応酬で行われたことから、復斎はその漢文力を買われて、主な交渉の総てを任されることとなった)。同年三月三日(一八五四年三月三十一日)、横浜村に於いて「日米和親条約」が締結される。条文は日本文・漢文・英文の三種で交換されているが、日本文での署名者は復斎が筆頭である。しかし、日本側が英文版への署名を拒否したため、下田で再交渉となり、締結が終了した(以上はウィキの「林復斎に拠った)。]

 彼(かの)觀音は中島へ預け置たるよし。定めて質やにても入有(いりある)べし。

 兎角、觀音、一場一家を守り給はず、かへりて不幸のことのみあるは、佛の御罰なるかもしるべからず。

 在家(ざいけ)は、神佛をもてるは、いらぬことにぞありける。

 予が預りの本箱、大に邪魔物ゆへに、賣拂ひて、法事にても行(おこな)はんと思ひし事も幾度かありしが、おもひきや、十數(す)年後、孫助、來(きた)る。

 早速、引渡したるに、紙一枚だに失はず【手跡見事に付(つき)、折本一帖、霞舟懇望なりしが、予、兎角いゝて、おくらざりしこと、有り。】大に心よく覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍る【弘化五戊申(つちのえさる)年[やぶちゃん注:一八四八年。]二月十二日、釋奠(せきでん)[やぶちゃん注:孔子及び儒教に於ける先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。江戸時代は二月に昌平黌で幕府行事として行われた。]の前日、誌(しる)す。】

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 御新政[やぶちゃん注:徳川家定が第十三代征夷大将軍なったことを指す。就任は嘉永六年六月二十二日(一八五三年七月二十七日)で黒船来航の十九日後。]の初め、御役人乘馬上覽有ㇾ之(これある)節、林式部少輔、御先手にて學問所總教を兼たりしが、馬術、元より上手とも覺へず。其頃は、人々、技藝に誇る中なれば、此人も客氣(まけぬき[やぶちゃん注:底本のルビ。「かつき」への「負けん気」の当て読み。])ありて、かの昔(むか)し學びたる近授流にて、「早ダク」を乘りたらんには、

「廏拙(へたかくし[やぶちゃん注:底本のルビ。「廏」は「厩」に同じいから、馬術の下手なことを意味するようである。])の計(はかり)ごとなるべし。」

と、

「御前にて軍馬を御覽に入申(いれまうす)べし。」

とて、公厩(こうきゆう)の御馬(おんうま)を我馬の心得にて、「大ダク」を乘出(のりいだ)す。

 いとゞさへ、向ふののびたる馬[やぶちゃん注:首の長い馬の意か?]は自由ならぬものなるを、肥太(こえふと)りたる、龍の如く、虎の如くなる御馬を、思ふさまに手綱を延べ、「大ダク」になしたるなれば、いかで手にのるべき[やぶちゃん注:反語。乗り手である林復斎の言う通りになることがあろうか、いや、ない。]。

 縱橫に走り𢌞り、遂に牡丹の御花畠の圍ひの内に入る。尤(もつとも)御前に近き所なり。最早、一大事となりぬ。御馬なりけるも打忘れ、力の極(かぎ)り、引(ひけ)ども、折(を)れども、少しも聞かず。果ては、我をも打忘れ、御前の遠慮もなく、

「此畜生(こんちくしやう)々々々、」

と大聲連呼してもみ合(あひ)しが、からくして、元の馬場迄、乘戾(のりもど)す。

 御花畠は落花狼籍たり。

「定(さだめ)て、御沙汰もあらん。」

と、皆人、爲(ため)におそれ合(あへ)りしが、却(かへつ)て、

「御一興。」

とて、御沙汰もなかりしと。

 其頃、予が門人御小納川口乙三郞君、語られたり【此川口氏、死して、予、墓銘をかきたり。】。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が一場へ弟子入(でしいり)せしは、十六のとし也。孫助十五歳、林又三郞【後大學頭。檉宇(ていう)。】、二十五、六斗り、林ケン藏[やぶちゃん注:カタカナはママ。]・林耀藏【鳥居甲斐守なり。】・林韑之助(あきらのすけ)【式部少輔。】前髮あり、十五、六歳、皆、揃ひて、一度、稽古に出(いで)たるを見たり。

 藤兵衞師、予を檉宇君に引合(ひきあは)せられたり。

「武技は、いづれも精は出さぬ人なるべし。」

といへり。

[やぶちゃん注:師の評言は、桃野と檉宇両者ともに、の謂いであろう。]

 孫助、名は養、字(あざな)は直、雲湖(うんこ)と號す【滑稽の人にて種々の號あるといへども、皆、響き他物に通ふよふに付く。小兒の大便をウンコといふ。大人の語にも偶(たまに)用ゆる事あり。是に響く故に付たる也。】。詩集あり。曾て見たることあり。予が家に預けたる本箱には、纔(わづか)零星(れいせい)[やぶちゃん注:細々として断片的で僅かなこと。]のみにて、他見を憚りしや。五・七・律、唐詩を學ぶ。警句、多し。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が家に宿(やどり)し時、夜、ともに語り明(あか)せしが、夜深(よふかく)、人、靜まりて、

「扨も。彼(かの)殺害の一事は、人も吾も其譯をしらず。如何なる故にや。」

と問ひしかども、

「されば。これは深き子細あること。」

とて、語るさまにして、其すへは外(ほか)のはなしに移して、語らず。

 大體は予が案の如くなるべし。

 虎徹入道の刀は上り物[やぶちゃん注:献上品か。]に成(なり)たらん。名作惜むべし。定(さだめ)て、よく切(きれ)たるならん。予、一谷[やぶちゃん注:既出既注の桃野の師内山一谷。]所持の「亂れ刄虎徹(みだればこてつ)」の刀にて、藁だめしをせしが、虎徹程、よく落(おつ)る物、なし。「貮代目虎徹」興正[やぶちゃん注:長曽祢興正(ながそねおきまさ)は先に出た長曽祢虎徹興里の技術を継いだ刀工。興里の実子とも、門人で後に養子となったともされる。作刀期間は主に師興里の没後、延宝六(一六七八)年以降で、年紀を有するものは寛文一三(一六七三)年の作に始まり、元禄三(一六九〇)年の年紀がある作が最も遅い。但し、銘に虎徹を冠した作が少ないためか、一般に「二代目虎徹」と呼ばれることはあまりない(以上はウィキの「長曽祢興正」に拠った)。]の脇指(わきざし)も、其節、ためしたるに、おとらずよく落る。此節、値(あた)ひ至て貴(とほと)しと、きゝけり。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 鈴木源八郞といふは、御三卿(ごさんきやうの)人なり。

[やぶちゃん注:田安・一橋・清水三家のどこかの家士であったということであろう。]

 多田九助が弟にて、孫助母の姉の子なり。多田九助大御番、至て堅き男のよし、弓は上手なり。其愚は、たとふるに、物なし。

 家にめしたき女ありしに、深く言(いひ)かわせしが[やぶちゃん注:ママ。]、忽然としていとまを乞ひ、四ツ谷左門町、予が從弟多賀谷緩助(たがやかんすけ)が又の隣家へ奉公に住(すみ)けり。九助、此事を聞出(ききだ)し、緩助は武藝の相手弟子なるによりて、此家に來りて、

「内談ある。」

よし、申入(まうしいれ)けり。

 折節、緩助は番留守也。

 予、其處に居合せしが、其名を聞(きく)より孫助が事も尋(たづね)たく、

「先(まづ)、こなたへ。」

とて、通しけり。

 久久の事なれば、物語、はてしもなく、孫助がことなど云出(いひい)で、聞(きき)もし聞かれもせんと思ふに、此人、兎角に厭(いと)ふよふにて、よくもいらへず、聞ゆることも、耳にもいらぬよふにて、ひたすら、

「緩助に賴むことある。」

よし也。

「折惡く、當番にて居合(ゐあは)さねども、くるしからずば、おのれへ告玉(つげたま)はゞ、返りの節、中繼(なかつ)ぐべし。」

と、いへば、

「緩助ぬしも其許(そこもと)も、同じ相弟子のよしみあれば、つゝむべきことにもあらず。其子細といふは、家に兼々(かねがね)言(いひ)かわせし[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]女ありしが、家父の不興のよしを聞(きき)しりて、急にいとまを乞ひて出でけり。かく迄深く言かわせし中(なか)を、かく情(なさけ)なく引(ひき)はなるゝといふは、定めてよぎ[やぶちゃん注:「余儀」。]なき義理にてもあるならんか、吾に一言(ひとこと)も告(つげ)ざることこそ心得ね、さりとて今更、心がわりせんいわれなし[やぶちゃん注:孰れもママ。]、此程、此あたりなる家にあるよし、聞(きき)つるによりて、緩助ぬしに賴みて、其心を問ひ正してほしく、此事、賴み申(まうし)たさに訪來(たづねきた)るなれば、緩助ぬしに、此事、申通(まうしつう)じて玉われ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と。いゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。

 次の間にて聞(きく)程(ほど)の人、ふしまろびて笑ふといへども、少しも耳に入(いる)氣色(けしき)もなく、

「吾(わが)用は是迄なり。」

とて、去りてけり。

 二た時斗り過(すぎ)て、予、家に歸らんとて、立出(たちい)で、又の隣家の門を過(すぐ)るに、人あり。

 打裂羽織(ぶつさきばおり)・馬乘袴(うまのりばかま)、大小、いかめしく橫たへたり[やぶちゃん注:身体に対して有意に横様に差すこと。かぶいた刀の差し方である。]。よくみるに、九助なり。

 いかにして呼出(よびだ)しけん、差向(さしむか)ひて語る女は、言(いひ)かわせし女なるべし。

 廿三、四、なみなみのめしたき也。

[やぶちゃん注:「なみなみの」はごく普通の意か。]

 九助、予を見て、

「先に煩わし[やぶちゃん注:ママ。]奉ることも、見玉ふごとく、相見て侍れば、最早、たがひのむね明(あか)し合(あひ)て、事すみて侍る。」

と、いゝけり。

 かゝるふるまひを見て後に、よくよく、人の言葉をきくの難(かた)きことをしれり。先にもいふ如く、九助、かたき人たり、と、きく。但し、四谷大木、住宅なり。

[やぶちゃん注:「四谷大木」(よつやおおきど)は甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)ウィキの「四谷大木戸」によれば、現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点に相当するとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。元和二(一六一六)年に『江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが』、寛政四(一七九二)年『以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)』文政一二(一八二九)年『成立の「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている』とある。]

「一度も内藤宿はたごやに行(ゆき)たることなし。」

[やぶちゃん注:内藤新宿の飯盛り女(売春婦)の歴史的経緯については、ウィキの「内藤新宿」に非常に詳しいので、そちらを参照されたい。]

とて、部屋住(へやずみ)・番入(ばんいり)の時も、「人物第一」といふことなり。輕く人言(ひとのいひ)をきく時は、

「隣家にひとしきはたごやあるに、足ぶみもせず。」

といへば、其人の正しきをしるにたれり。再び其人を見れば、正しきに似たるは、其智、人なみならず[やぶちゃん注:一般人のレベルより優位に低い。]。はたごやに行(ゆき)たりとて、取(とり)はやしもなくて[やぶちゃん注:人並みの知性がないから、飯盛り女たちからも持て囃されることがなくて。]、面白からず。且(かつ)家もまづしかりければ、自然(おのづと[やぶちゃん注:私の推定読み。])其事もなくありしを、「人物第一」とて御番入(ごばんいり)せしも、倖(さいはひ)なることにてぞ有(あり)けり。此人も在番より歸りて死したり、と渡八郞、語る。

 天、かゝる人を生じ、又、永く、壽をあたへもせず、何の爲なるか、しるべからず。

 孫助が歸る春の頃、橫寺町圓福寺[やぶちゃん注:本篇の注で既注。]といふ法家(ほつけ)でら[やぶちゃん注:日蓮宗。]にて、一寸八分黃金彿觀音開帳とて、三日斗(ばかり)參詣あり。予、一場家の物にてはなきかと思へり。其後、源八郞に語るに、これも同じく疑ひありて、圓福寺に行(ゆき)て出處(でどころ)を尋ねしに、「さる御殿の女中より、開帳して衆人に拜せしめんとの賴み」のよし也。中島にあるといふはいつはりにて、最早他人の手へ渡り、かゝる事になりしも、しるべからず。黃金佛は潰しのきく佛(ほとけ)なれば、靈驗もあらたなることあるべし。努々(ゆめゆめ)、在家(ざいけ)の佛、ゐぢりはせぬことにてぞありける【嘉永庚戌(かのえいぬ)六月晦日(みそか)、しるす。】

[やぶちゃん注:「嘉永庚戌六月晦日」は嘉永三年で、グレゴリオ暦では一八五〇年七月九日。]

2018/09/28

柳田國男 炭燒小五郞が事 一二 / 炭燒小五郞が事~了

 

      一二

 果しも無い穿鑿は、もうこの位で一旦中止せねばならぬ。他日若し幸ひに機會があつたら、宇佐の根原が男性の日の神であり、其最初の王子神が、賀茂大神同系の別雷であり、次の代の若宮が火の御子であり炭の神であつて、所謂鍛冶の翁は其神德の顯露であつたと云ふことの、果して證明し得べきや否やを究めて見たいと思ふ。現在の祠官たちの承認を得ることは難いが、八幡には今尚闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]せられざる若干の神祕があるらしく、是は只その一端だけである。自分の試みは單に文字記錄以外の材料から、どの程度まで大昔の世の生活が、わかるであらうかと云ふ點にあつて、殊に奈良の京以後突如として大に盛になつた宇佐の信仰が、本來は南日本の海の隈[やぶちゃん注:「くま」或いは「すみ」。]島の蔭に、散亂して住んで居た我々の祖先の、無數の孤立團體に共通した、至つて單純なる自然宗教から出たもので無いかどうかを知りたかつたのである。託宣集や愚童訓別本を見ると、宇佐の山上には最も神靈視せられた巨大なる三石(みついし)があつた。火の神とは傳へて居らぬが、寒雪の中にも暖味[やぶちゃん注:「あたたかみ」。]ありといひ、又は金色の光を放つて王城の方をさすとも謂つて居る。而うして三箇の石は竃の最初の形であり、從つて火神の象徵であることは既に認められて居る。之に由つて所謂三寶荒神の思想も起つた。沖繩諸島に於ても御三物と稱して三石を火の神に祀つて居る。只未だ其起源に關しての説を聽かぬが、三箇の略同じ大きさと形の石が、引續いて海からゆり揚がる時は之を奇瑞として拜したやうである。この二つの信仰には恐らくは脈絡があるであらう。卽ち南島の從兄弟たちは、未だ石凝姥(いしこりどめ)天日一箇(あめのまひとつ)の恩澤に浴せざる以前から我々とよく似た方式を以て、根所[やぶちゃん注:「ねどころ」。]の火に仕えて居たのである。炭燒長者の話がいと容易に受け入れられた所以である。

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[八重山石垣島藏元の火の神

 三つ石の一つが今折れて居る]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遺老説傳には與那覇親雲上(よなはのをやくもい)鄭玖[やぶちゃん注:「ていきゆう」。中国から帰化した三十姓の子孫。沖縄方言では「よなは・ぺーちん」と読む。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらの「黄金の俵」を参照。]、或日未明に久米村から、首里の御所に朝せんとして、浮繩美御嶽(うきなはみおたけ)の前を過ぎ、一老人の馬に炭二俵を積んで來るに逢うた。老人はいて玖をして家に引返さしめ且つ其炭俵を與へて去る。後に侍僮をして之を焚かしめやうとするに、どうしても燒けず、よく見れば炭は悉く黃金であつたと謂ふ。信州園原の伏屋長者(ふせやのちやうじや)が半燒けの炭を神棚に上げて置くと、それが忽ちに金に化したと云ふのと、全く同日の談であつたが、黃金を産せぬ島では、殊に此不思議は大きかつたことゝ思ふ。卽ち干瀨(ひぜ)[やぶちゃん注:沖縄・奄美地方で島の周辺に広がる珊瑚礁を指すが、現地では「ひし・びし・ぴー・ぴし」が一般的な読み方である。]の練絹を以て取圍んだ蓬萊山に在つても、父が炭燒藤太で無ければ、其子は金賣吉次であり得ないと云ふ理窟が、はつきりと其世の人の頭にはあつた。但し我々は今が今まで、もう之を忘れてしまつて居たのである。

 

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 一一

 

      一一

 歌の豐後の炭燒小五郞が妻は、容みにくしと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]都方の上﨟であつた。弘い世間に夫(をつと)と賴む人が無いので、日頃信仰の觀世音の靈示に從ひ、遙々と都の山賤[やぶちゃん注:「やまがつ」。]を尋ねて來たと云ふのが、物語の最も濃厚な色彩を爲して居るが、是は所謂佛法の影響であつて、又中代[やぶちゃん注:中世。]の趣味であらう。信心深い男女の間の前世の約束と云ふ單簡な語で、省略してしまつた身の運[やぶちゃん注:「うん」。]家の幸福の説明は、話に此ほどの共通がある以上は、後に來たつて附け加はつたものとは考へられぬ。況や其背後にはどこ迄も火の神の思想と古い慣習が、殆ど無意識に保存せられて居たのである。阿波の糠の丸長者の娘の嫁入には、觀音の代りを守の神の白鼠がつとめた。陸中の話では旅の六部に教へられて、月の十五日の朝日の押開(おつぴら)き[やぶちゃん注:限定された「日の出」の時刻のことであろう。]に、九十九前の眞ん中の土藏の屋の棟を見ると、紫の直埀[やぶちゃん注:「ひたたれ」。]を着た小人の翁が三人で、旭[やぶちゃん注:「あさひ」。]の舞を舞うて居た。うつぎ[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]の弓に蓬の箭[やぶちゃん注:「や」。]をはいで之を射ると、小人は眼又は膝を射られて忽然として消え去り、それから家の運は傾いた。或は又路に三人の座敷ワラシ[やぶちゃん注:底本は「ワラジ」。青森県南部地方には「座敷わらし」の異形として、草鞋作りの爺婆の家にその草鞋を一足取って履いた「わらし」、「わらじわらし」が棲むという伝承はあるが(サイト「古里の民具 雪靴ミニぞうり編むの「わらじわらしの昔話を参照)、そこでも「草鞋(わらぢ)」と「童子(わらし)」は厳然と区別された語として用いられているのであるから、ここは「ワラシ」の誤植と採って訂した。ちくま文庫版も『座敷ワラシ』である。]かと思ふ美しい娘に逢ひ行く先をきくと、この山越えあの山越えて、雉子の一聲の里へ行きますと、幸運の住家を教へてくれる。それが宮古の島ではユリと稱する穀物の精と現れて、女性を炭燒の小屋に導くのである。沖繩本島に於ては又變じて雀(クラー)になつて居る。折目の祭の日に下男の言ふまゝに、新米で飯を炊いだのが惡いと謂つて、夫に追出された女房が、こゝに隱れかしこに遁げて去りかねて居ると、斯う謂つて雀は彼女を導いた。

  クル、クル

  クマネスダカラン(ここには住まはれぬ)

  ヤンバルヤマカイ(山原山へ)

  タンヤチグラカイ(炭燒のクラヘ)

さうして炭燒の妻に爲つて、忽ち金持になつたのであるが、この古い古い公冶長系統の一節もまた袋中上人所傳の外であつた。

[やぶちゃん注:「公冶長」「論語」の「公冶長」で知られる公冶長、公冶長(こうやちょう 生没年未詳)は春秋時代の儒者(「公冶」が姓)。ウィキの「公冶長」によれば、『公冶長は鳥と会話が出来るという特殊能力が備わっており、その力によって死体の場所を知ることができたが、かえって犯人と疑われて獄中入りとなった。が、雀の言葉を理解できることを実証してみせたために釈放され』、その人格をかっていた孔子は『本人の罪ではないと』して彼に『自分の娘を嫁がせた、という話が見える』とあり、この宮古のそれとの強い親和性が窺える。]

 第二に注意することは、炭燒を尋ねて來た女性に、別に一人の同行者があつた點である。宮古島の舊史には鄰婦を伴ひとあり、佐々木君の話の一つには下女を連れて行くとあるが、今一つの方では三つになる男の子を附けて離別したことになつて居る。或は又前の男が貧乏をしてから、其子をつれて薪を賣りに來たともある。何か仔細のあつたのが、もう忘れられたものと思はれる。佐喜眞君のおばあさんの話では、沖繩では女は妊娠の間に追出され、炭燒にとついでから男の子が生れたことになつて居る。零落の夫がもとの妻であることを知らずに笊を賣りに來ると長者の子供が彼に向つて惡戲をした。女房に向つて御宅の坊ちやまが、惡さをなされて困りますと謂ふと、今まで知らぬ顏をして居たのがもうたまらなくなつて、自分の子供まで見知らぬとは、何と云ふ馬鹿な人だと歎息したので、始めて昔の妻子かと心付き、其まゝひつくりかへつて死んでしまつたとある。此樣な何でも無いこと迄が、手近の琉球神道記とは似ないで、遠い雪國の村の話と、一致しようとして居るのは何故であらうか。

 不思議はまだ是ばかりで無い。沖繩では斯うして恥じて死んだ男を、其まゝそこに埋めて、上に庭の飛石を置き、それから茶を飮む度に一杯づゝ、その石に灌いで手向にしたとある。其點が亦附いてまはつて居るのである。不運な前夫が知らずに來て、元の妻の世話になることは、何れの話も一樣であるが、奧州では單に勸められて下男に爲り、炭竃長者の家で一生を終つたとある。之に反して江州由良の里では、箕作[やぶちゃん注:「みつくり」。]の翁は長者の臺所に來て食を乞ひ、別れた女の姿を見て耻と悔とに堪へず、忽ち竃の傍に倒れて死んだのを、後の夫に見せまい爲に、下人に命じて其まゝ竃の後に埋めさせた。それが此家の守り神となつたと謂ひ、それを竈神の由來と傳へて居る。淸淨を重んずる家の火の信仰に、死を説き埋葬を説くのは奇恠であるが、越後奧羽の廣い地方に亙つて、醜い人の面を竃の側に置くことが、現在までの風習であるから、是には尚さう傳へらるべかりし、深い理由があつたのであらう。廣益俗説辨の地名には何に由つたか知らぬが、三寶荒神の始めは、近江甲賀[やぶちゃん注:「こうか」。]郡由良の里、百姓の夫婦と其婢女と、三人を祀つて竃の神にしたと云ふ、別の傳承を載せて居る。由良は通例海邊の地名であるから、近江は誤で無いかとも思ふ[やぶちゃん注:私も読んだ際、そう思った。]が、何か尚此方面に、人の靈を火の靈として崇拜する、昔の理由が隱れて居るやうにも思ふ。

 若し此推測にして誤無くば、宮古の炭燒の話の發端に、二人生れた赤子の中で、女の

方は額に鍋のヒスコを附けてあるから、一日に糧米七升の福分を與へ男の兒は其事が無かつたから乞食の運ときめたと、神々の談合が有つたと謂ひそれ故にこそ今に至る迄、生れ子の額には必ず鍋のヒスコを附ける也と、北の島々で宮參りの日に、紅で犬の字を描き、又は作り眉をするのと、よく似た風習を説明しようとして居るのは、是も同じく竃の神の信仰に基づくもので、竈と炭との關係を考へ合せると、假令京都近くの書物に傳はつた話には見えなくとも、長者を炭燒とした話の方が、一段古い樣式であつたと考へてよろしい。

 謠の蘆苅の元の型は、今昔と大和と二つの物語に見え、その贈答の歌は既に拾遺集にも採擇せられて居る。それが純然たる作爲の文學で無かつたことは、大和物語に於ては前の夫が、上﨟の姿を見知つて我身の淺ましさを耻ぢ、人の家に遁げ入つて竃の後にかゞまり匿れたとあるのを見てもわかる。芦[やぶちゃん注:ママ。]を苅つて露命を繫いだと謂ふのも、必ずしも「あしからじ」又「あしかりけり」の二つの歌が先づ成つて、これを能困法師の流義で難波の浦に持つて行つたと解することが出來ぬかと思ふのは、全然同種の近江の話に箕作の翁と謂ひ、沖繩に於ては笊を賣りに、奧州に於ては草履を賣りに、或はマダ木[やぶちゃん注:「まだぎ」。マダノキ。被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目シナノキ科シナノキ属オオバボダイジュ Tilia maximowicziana の異名。本邦固有種と思われ、北海道・本州の東北地方・北陸地方・関東地方北部に分布し、山地の落葉樹林内に植生する。古くは樹皮の繊維を縄・布・和紙の原料とした、材は建築材・器具材として利用される。ウィキの「オオバボダイジュ他を参考にした。]の皮を剝ぎ又は薪を苅つて、これを背負うて賣りに來たと謂ふのが、同じやうな詫びしい姿を思はせ、事によると肥後の薦編みや蓆織り長者、羽前の藁打ち長者の因緣を引くかとも思はれる上に、更に偶合としては餘りに奇なることとは[やぶちゃん注:「と」はママ。衍字の可能性が大きいが、ママとする。]、豐後の内山附近にも蘆苅と云ふ部落があり、同じく臼杵の深田村では、小五郞の子孫と稱して蘆苅俊藏氏あり、さらに同じ苗字が弘く宇佐地方に迄も及んで居ることである。曾て後藤喜間太君が寫して示された、豐後海部郡の花炭の由緖書には、小五郞七十八代の後裔草苅左衞門尉氏次の名を錄し、豐鐘善鳴錄には長門國にも、草苅氏と云ふ一門が分れて居たと記してある。所謂山路(さんろ)の草苅笛の故事を辿れば、蘆苅は寧ろ誤では無いかと思つたが、現に之を名乘る舊家がある以上は、爭ふべき餘地がない。更に進んで其舊傳を、究めて見たいものである。

[やぶちゃん注:「蘆刈」私の好きな叙事伝説の一つである。小学館「日本大百科全書」より引く。一部の読みを除去し、不審な箇所は訂した。『摂津国(大阪府)難波に住む夫婦が貧困のため別れて、女は上洛後に主人に仕え、北の方の死後に後妻となる。しかし』、『昔の夫が忘れられず、難波へ祓(はらい)の口実で赴くが、すでに行方不明であった。たまたまもとの家の近くで芦を担う乞食が通ったので呼び止めると、前夫であった。哀れを催し』、『芦を高く買い、食物を与える。前夫は下簾の間からかいまみて、その貴人がかつての妻とわかり、恥じて竈の後ろに隠れる。捜させると、男は「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞ住みうき」と詠んだので、女は「あしからじとてこそ人の別れけめなにか難波の浦の住みうき」と返して、着物を与えさせた。有名な和歌説話でもあり、もっとも古い文献では』「大和物語」百四十八段に載る。その他にも、「古今和歌六帖」・「拾遺和歌集」・「今昔物語集」(巻第三十の「身貧男去妻成攝津守妻語第五」(身貧しき男の去りたる妻(め)、攝津守の妻と成れる語(こと)第五)、「宝物集」(巻二)、「源平盛衰記」(巻三十六)にも見え、謡曲「芦刈」(零落して葦売りをしている難波浦の住人日下(くさか)左衛門が都へ上って立身した妻と再会)にもなり、御伽草子の「ちくさ」にもある。「神道集」巻七の四十二の『「芦刈明神事(あしかりみょうじんのこと)」は』、『その本地譚(ほんちたん)で』、同巻八の四十六の「釜神事」と『ともに竈神(かまどがみ)の由来を語る話としてあったものであろう。その本地譚は、男が恥じて海に投身すると』、『女も後を追う結末から、その後』、二『人が海神の力で顕現したのが芦刈明神で、本地は男が文殊菩薩、女は如意輪観音としてある。炭焼長者の再婚型で、福分のある女と別れた夫が死して、女に竈の後ろに埋められる話もこの類型で、夫を荒神様として祀る昔話が多い』。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 一〇

 

      一〇

 南の島々の金屬の始めは、鑛物に豐かでなかつたばかりに、非常に我々の島よりはおくれて居た。それにも拘らずいつの間にか、炭燒長者は早ちやんと渡つて住んで居る。自分が本文の炭燒太良の話を書いて後、佐吉眞(さきま)興英君は其祖母から聽いたと云ふ、山原(やんばる)地方の炭燒の話を、南島説話に於て發表せられた。大體に於て宮古島の例とよく似て居て、此も亦女房の福分が、二度目の夫(をつと)を助けたことを説くらしいが、濱の寄木(よりき)の神樣から、赤兒の運勢を洩れ聽くことゝ、鍋のヒスコ[やぶちゃん注:不詳。文脈からは鍋底の煤(すす)とは思われる。]を額に塗る風習を、説明しようとした部分は落ちてしまつて、其代りとして前の夫が、死んで竃の神と爲つた點を詳しく傳へて居る。沖繩と宮古と二處の話を重ね合はすれば、ちやうど琉球神道記の江州由良里(ゆらのさと)の物語に近くなるから、或は之を以て慶長の初め頃に、袋中上人一類の内地人から、聽いて記憶して居たものとみる者が有るか知らぬが、其では合點が行かぬ節々が少なく無い。殊に長老となるべかりし貧困なる第二の夫(をつと)が、炭燒であつたと云ふ一條が、沖繩と宮古とにはあつて、中世京都附近に行はれた物語には見えず、而も千里の海山を隔てた奧州の田舍で、現に口から耳へ傳承する話には、炭燒が又出て來るのは、如何にしても不思議である。

[やぶちゃん注:「琉球神道記」江戸前期の倭国の浄土僧袋中良定(たいちゅうりょうじょう 天文二一(一五五二)年~寛永一六(一六三九)年)の琉球滞在体験を元に書かれた仏書。序文によれば慶長一〇(一六〇五)年の完成で、慶安元(一六四八)年には版本の初版が開板されている。ウィキの「琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)より引く。これは『琉球王国に渡った』、『倭僧の袋中良定』(陸奥国磐城郡出身。仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在し、その滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからずに帰国した後は、京都三条の檀王法林寺を始め、多くの浄土寺院の創建や中興を行った。ここはウィキの「袋中に拠った)『が著した書物である。神道記と題しているが』寧ろ、『本地垂迹を基とした仏教的性格が強い書物となっている。また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料でもある』。『本書は後述のような構成を持って書かれているが』「古代文学講座十一 霊異記・氏文・縁起」では、『この構成について、仏教をインド・中国から説明し、さらに琉球伽藍の本尊仏を説明、最終巻で琉球の神祇に顕れた本地垂迹を説明することにより、琉球の神祇が真言密教と深く関係していると説くことを意図し、書かれたものだと述べている。以上の様な内容のため、神道記とは題しながらも、琉球の神祇について書かれているのは最終の巻第』五『のみとなっている』。『本書は大きく』二『種類に分類することができる。第』一『は袋中良定の自筆した京都五条の袋中庵に所蔵されている稿本、第』二『はその後作られた版本で』、両者には有意な違いが認められる(リンク先では具体な違いが検証されてある)。前掲書によれば、『本書に袋中良定の直接見聞したと思われる記事が散見されることから、本書の記事が袋中良定の聞書的な性格を持つものだと考察している。このため、後の時代の書物と本書の記事を比較することで』、『琉球における風俗の変遷を知ることができる貴重な史料となっている』。著者である袋中良定は浄土宗の僧侶で、その伝記』「袋中上人絵詞伝」に『よれば、明への渡航を望んで琉球まで来たが』、『琉球より先への乗船を許す船が見つからず』、三『年間この地に留まった』後、『日本へ帰国したのだと言う。また』、「中山世譜 巻七」には万暦三一(一六〇三)年。和暦で慶長八年)に扶桑の人である僧袋中なる者が三年の間琉球に留まり、「神道記」一部を著して還った、と『あり、袋中良定が琉球に滞在していた』三『年の間に本書が著されたことが分かり、序文の記述を裏付けている』。『しかし、稿本の奥書のみに見える部分には「この』一『冊、草案あり。南蛮より平戸に帰朝、中国に至る、石州湯津薬師堂において之を初め、上洛の途中、しかして船中これを書く、山崎大念寺において之を終える。集者、袋中良定』慶長十三年十二月初六 云爾」『とあり、序文とは成立年が相違している』。昭和五三(一九七八)年角川書店刊の横山重「書物捜索 上」では序文が万暦三十三年(一六〇五年/慶長十年)、奥書が慶長十三年(一六〇八年)『となっていることから』、『本書の製作年代は簡単には決定できないと述べた上で、序文が明の元号である万暦となっているのは、袋中良定が琉球に滞在していた時に書かれたからであろうと推測している』。『また、稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が大きく異なっている』。『稿本の序文には「帰国の不忘に備える」とあり、本書が備忘録的な意味で書かれたことを窺わせるが、版本の序文では国士黄冠位階三位の馬幸明に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と懇願され、本書を作成したと記している。袋中が入滅した西方寺の』「飯岡西方寺開山記」にも、『馬幸明に懇願された袋中が、旅行中の身であることを理由にこれを』一旦は『断ったが、頻りに懇願された』ことから、本書五巻と「琉球往来」一巻を『著したと記されている』。『この馬幸明と言う人物は琉球王国の士族と考えられているが』、よく判らない。或る説では、『馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、しかも黄冠の中では最上位となる位階三位であることから、中山王府の高官ではないかと推測』されている。『さらに袋中自筆の』「寤寐集(ごびしゅう)」には、『馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず』、『乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと』、『翌朝』、『この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話が』載ることから』、『馬幸明』は『在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと』もされる(以下、本書の成立年代と執筆動機の現行での定説が記されるが、略す)。「琉球神道記」の構成は『巻第』一『は三界、巻第』二『は竺土、巻第』『三は震旦、巻第』四『は琉球の諸伽藍本尊、巻第』五『は琉球の神祇』となっている。最終巻の内容は、波上権現事・洋ノ権現事・尸棄那権現事・普天間権現事・末吉権現事・天久権現事・八幡大菩薩事・天満大政威徳大自在天神事・天照大神事・天妃事・天巽・道祖神事・火神事・権者実者事・疫神事・神楽事・鳥居事・駒犬事・鹿嶋明神事・諏訪明神事・住吉明神事・キンマモン事となっているが、調べて見たところ、柳田國男の言う「由良の里」の物語は「火神事」の内容かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から読める。

 奧州方面の炭燒長者は、佐々木喜善君がその幾つもの例を採集して居る。今に書物になつて出るであろうが、さし當りの必要のために、二つだけ話の大筋を揭げておく。一つは和賀郡に行はれているもの、他の一つは佐々木君の居村、上閉伊郡六角牛(ろつこうし)山の山口で、物知りの老女が記憶して居た話である。

㈠ 木樵が二人山に泊つて同じ夢を見る。二人の家には男と女の兒が生れたが女の兒は鹽一升に盃一つ、男は米一升の家福だと、山の神の御告げがあつたと思うて目がさめた。翌日還つて見ると果して子が生れて居る。成長の後夫婦となつて家が繁昌した。女房は一日に鹽を一升使ひ、盃にほ酒を絶さず[やぶちゃん注:「たやさず」。]、大氣[やぶちゃん注:「たいき」。気が大きいこと。]で出入の人々に振舞をするので、小心の夫は之を見かね、離緣をしてしまふ。女房は出て行つたが、腹がへつたので大根畠に入つて大根を拔くと、其穴から酒が涌き出たので、

    ふる酒の香がする

    泉の酒が涌くやら

と歌いつゝ、女房は其酒を飮んで、元氣になつて行くうちに日が暮れる。山に迷つて一つ家の鍛冶屋に無理にとめてもらふ。翌朝見ると鍛冶場の何もかもが皆金である。それを主人に教へて町へ持出し、賣つて長者になつたら、其あたりが町になつた。後に薪を背負うて賣りに來た父と子の木こりがあつた。それは女房の先の夫であつたと謂ふ。

㈡或鍛冶屋の女房、物使ひが荒くて弟子たちに迄惜しげ無く錢金を與へる。夫の鍛冶屋はこの女房を置いては、とても富貴にはなれぬと思うて、三つになる男の子をそへて離別する。女房は道に迷うて山に入込み、炭竃の煙を見つけて炭燒小屋に辿りつく。小屋のヒホド(爐)に小鍋が掛つて居る。主人が還つて來たから泊めてくれと謂ふと、今夜此飯を二人で食へばあすはもう食ふ物が無いと當惑するので、明日は又何とかしますと、それを二人でたべて寢る。翌日女房は懷から金を出して、これで米を買うて來て下され。そんな小石で何の米が買はれべ。インニェこれは小石で無い。小判と謂ふ寶物だ。こんな物が寶なら、をれが炭燒く竃のはたは、みんな小判だと謂つて笑ひながら、それでも買物に町へ出た。其あとで女房が往つて見ると、誠に炭竃のまはりには黃金が山のやうだ。之を運ぶ

と小屋が一杯になつて、入口から外へ溢れる。そこへ町から爺が還つて來る。一俵の米が殘り少なくなつて居るから、わけを聞くと途中で腹がへつたので、俵から米をつかんで食ひ食ひ來た。後からも人が附いて來るから、其人にも一つかみづゝ投げてやりながら來たと謂ふ。その人といふのは自分の影法師のことであつた。さういふ風の人なれども女房はきらはず、次の日から其金で米を買ひ木こりや職人を呼んで、家倉小屋を數多く建てさせ、そこで炭燒長者と呼ばれるやうになると、其邊も村屋になつた。ところが先夫の鍛冶屋は女房を出してから、鎌を打とうとすれば鉈になり、鍬と思えば斧になる。けちが附いてろくな仕事もできないので、乞食になつてしまひに炭燒長者の門に來る。女房がそつと見ると元の夫であつたから、米三升をやつて無くなれば又來よと謂つて返す。それから長者の夫にも話して、共々にすゝめて下男にする。何も知らぬから悦んで、一生この炭燒長者の所で暮してしまふ。

[やぶちゃん注:この二話は柳田の言う通り、民俗学者佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年三元社刊)にカップリングされた「炭焼長者」一話となって収録されている。末尾には『和賀郡黒沢尻町辺にある話、家内の知っていた分』(所持する一九九三年ちくま文庫版に拠る)という但し書きが附されてあり、ジョイントは悪くなく、躓かずに読める。]

 同じ老女の話したうちには、右の二つの物語が一つに續いて居るのもある。挿話があつてあまり長いから抄錄しなかつたが、それにも大根を拔いた穴から甘露のやうな酒が出て、之を賣つて自ら長老の女主となつたとあり、卽ち一方には田山小豆澤のダンブリ長者の話とつゞき、他の一方には三郡の蕪燒笹四郞の蕪を食べた話とも緣をひく。殊に面白いのは先夫に福分が無くて、藁に黃金を匿して、草履を作つて來いと謂つて渡すと、夜中に寒いので其藁を金と共に、ヒホド(爐)に燃してしまふ。握り飯の中に小判を入れて遣ると、歸りに沼に下(お)りて居る鴨を見かけて、其むすび[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を投げつけてしまふ。女房はさてさて運の無い人だと歎息して、すゝめて我家の下男とする。さうして酒屋長者の家で一生を終るといふのである。但し此方では長者は獨身の女主で、黃金は發見せずに酒の泉を發見した。第一の話は後の夫が鍛冶屋、第二の話だけは炭燒であるが、やはり亦前の亭主を鍛冶屋にして居る。他の類例を集まる限り集めてみたら、必ず變化の中から一定の法則が、見出されることゝ信ずる。要するに話を愛した昔の人の心持は、一種精巧なる黃金の鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の如きものであつた。

 

2018/09/27

柳田國男 炭燒小五郞が事 九

 

      九

 宮古群島の金屬の由來に關しては、現に二通りの古傳を存してゐる。其一つは首邑[やぶちゃん注:「しゆいふ(しゅゆう)」。その地方の中心の村。]平良(ぴさら)[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『ひらら』とルビ。サイト「癒しの島 宮古島」のこちらによると、『沖縄では「平良」と書けば普通は「たいら」と読みます。平良市は町だった時は「たいらちょう」でしたが、市制施行するときに他の市町村の「平良」(たとえば那覇市首里平良町、東村字平良、具志川市平良川など)と区別するために、「平良」の宮古方言である「ピサラ」を日本語に直訳したのです。つまり、「ピサ」(平たい)=「ひら(平)」、「ラ(土地)」=「ら(良)」です。この市名』「ひらら」『は、市制施行と同時に定められ』、『今日に至ってますが、今でも平良のことを「たいら」という人が多いのです』とあることから、底本通りとした。但し、底本は実は拡大してみても「ぴ」か「び」かは実は判然としない。]の船立御嶽[やぶちゃん注:現行現地音「ふなた(或いは「ふなだ」)てぃうたき」。「御嶽」は沖縄で神を祀る聖所のこと。]に屬するもので、昔久米島の某按司[やぶちゃん注:「あじ」又は「あんじ」。ちくま文庫版は『あんじ』とする。琉球諸島に嘗て存在した称号及び位階の一つ。王族の内で王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家に当たり、日本の宮家に相当する。他に按司は王妃・未婚王女・王子妃等の称号としても用いられた。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた(ここはウィキの「按司」に拠った)。]の娘、兄嫁の讒[やぶちゃん注:「ざん」。]によつて父に疎まれ、海上に追放されて兄と共にこの地に漂着したが、かねこ世の主[やぶちゃん注:太字「かねこ」は底本では傍点「ヽ」。「かねこよのぬし」で王の固有名+尊称と採る。]に嫁して九人の男子を産み、後に其子どもに扶けられて老いたる父を故鄕の島に訪れた。父は先非を悔いて親子の愛を盡し、還るに臨みて鐵と其技藝の傳書を以て、引出物として娘に取らせた。其兄は之に由つて初めて鍛冶の工み[やぶちゃん注:「たくみ」。]を仕出し、ヘラカマ[やぶちゃん注:農具の「へら」(現地音では「ひーら」「ふぃーら」等)と「鎌」(現地では「いらな」「いらら」等と呼ばれているらしい)。「へら」は甘藷の苗の植え付け・草取り・収穫等に使用し(Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「イララ・ヒーラ・プフィザス 沖縄諸島のミニチュア農具遺物」に拠る)、ブログ『万鐘ももと庵「沖縄・アジアの食と音楽」』の「沖縄の農作業に欠かせないヘラ」で現在使用されている「へら」及び古いそれが画像で見られる。底本の後の方に出るその画像を段落末に示した。そこでは「ウズミビラ」と出る。]等を作つて島人の耕作を助けた故に、永く其恩澤を仰いで、兄妹の遺骨を此御嶽に納めたと謂ふのである。今は主として船路の安泰を禱るやうになつたが、男神をカネドノ、女神をシラコニヤスツカサと唱へて、其功績を記念して居る。第二には伊良部(いらぶ)の島の長山御嶽此はもう祭は絶えたらしいが、やはり神の名はカネドノであつた。鐵を持渡り侯[やぶちゃん注:「さふらふ」。]故にカネドノと唱え申候とある。大和からの漂流人で、久しく此地に住んで農具を打調えて村人に與へた。仍て作物の神として其大和人を祭るのだと傳へて居る。鐵渡來前の島の農業は、牛馬の骨などをもつて土地を掘り、功程[やぶちゃん注:「こうてい」。仕事の量。作業の程度。]はかどらず不作の年が多かつた。それが新たなる農具の助によつて、五穀豐かに生産し、渡世安樂になつたとあるのは、多分は現實の歷史であらう。荒れたる草の菴の炭燒太良[やぶちゃん注:「すみやきだる」。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらに拠った。]が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋(かまにや)[やぶちゃん注:「嘉播親」「嘉播の親」とも書くようであり、「かはにや」「かばにゃ」とも読むようである。有力者の尊称と思われる。]となつたのを、ユリと稱する穀靈の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴[やぶちゃん注:「たたら」。]の魅力が、殊に偉大であつたことを認めねばならぬが、しかも鐵無き此島に鐵を持込んだ人々は、謙遜にも自分の功勞は之を説立てず、炭燒奇瑞の古物語を、そつと殘して置いて又次の或島へ、いつの間にか渡つて往つてしまつたのである。

[ウズミビラ、木製の農具

 マミクと云ふ硬い木で作る]

Uzumibira

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションを前に[ ]で示した(以下、同じ)。「マミク」はムクロジ目ムクロジ科カエデ属クスノハカエデ(楠葉槭)Acer oblongum var. itoanum。琉球(奄美以南)・台湾に分布し、方言名で「ブクブクギー」(葉を水中で揉むと泡が立つことに由来)とも呼ぶ。絶滅危惧類(VU)。]

 宮古の炭燒長者は、島最初の歷史上の人物、仲宗根豐見親(なかそねとよみをや)[やぶちゃん注:生没年不詳。宮古島の首長。「豊見親」は首長の尊称。空広(そらびー)ともよばれ、後世、「玄雅(げんが)」の字(あざな)が贈られた。十五世紀中頃に生まれ、十六世紀中頃に没したと伝わるが、経歴は殆んど不明。十五世紀末期頃に宮古島の覇者となり、やがて首里の王権に臣従して地位を安堵されたという。八重山に「アカハチ・ホンガワラの乱」(一五〇〇年)が起こると、国王軍に加勢して勲功を挙げ、宮古の初代の頭(かしら)に任ぜられた。その子孫は後世、忠導(ちゅうどう)氏と呼ばれ、代々頭職に就任して宮古島きっての勢家となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]が六代の祖と傳へられる。之を事實としても西曆十四世紀の人である。沖繩本島に於てもちやうど其の少し前に、鐵器輸入のあつたことが、半ば物語化して語り傳へられて居る。察度王[やぶちゃん注:「さつとわう(さっとおう)」は琉球王(察度王統初代)。一三二一年生まれで一三九五年没。在位は一三五〇年~一三九五年。奥間大親(うふや)の子。母は羽衣伝説の天女とされる。浦添按司(うらそえあじ)となり、後、英祖王統に代わって中山(ちゅうざん)王となった。明の太祖洪武帝の要請により、明と外交関係を結び、進貢貿易を始め、東南アジア・朝鮮との貿易にも尽力した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]が未だ其志を得ずして、浦添城西の村に詫しく住んで居た時、勝連(かつれん)按司(あんじ)の姫、夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]英風[やぶちゃん注:「えいふう」優れた教化とその風姿。]に傾倒して、往いて[やぶちゃん注:「ゆいて」。「ゆきて」の音便形。]之にかしずくこと、政子の賴朝に於けるが如くであつた。王の假屋形は庭にも垣根にも、無數の黃金白銀が恰も瓦石の如く、雨ざらしになつて轉がつて居た。それを新奧方が注意しても、笑うて顧みなかつたと傳へられる。其後鐵を滿載した日本の船が、牧港(まきみなと)[やぶちゃん注:沖縄県浦添市北部の地名。「まちなと」とも読む。ウィキの「牧港」によれば、『源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった事が地名の由来とされて』おり、牧港の「テラブのガマ」(以下の地図で確認出来る)と『呼ばれる洞窟にも同様の伝説が残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、現在は「牧港」という港は存在しない。]に入つて繫つた[やぶちゃん注:「かかつた」。停泊した。]時に、察度は乃ち右の金銀をもつて、殘らず其鐵を買取り、農具を製作して島人に頒ち與へ、一朝にして人心を收攬したと謂ふのは、興味ある傳説では無いか。琉球の史家が此記事に由つて、然らば我島にも昔は金銀を産したかと、有りさうにも無いことを想像して居るのは、寧ろ孤島の生活の淋しさを同情せしめる。島の文化史の時代區劃としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋(たういも)よりも重大であつた。所謂金宮(こがねみや)の夢がたりを傭ひ來るに非ざれば、説明することも六かしい程の、何かの方便を盡して、兎に角に農具は改良せられた。單に鐵を載せた大和船の漂着だけでは、文明の進化は見ることを得なかつた筈である。然らば此島現在の金屬工藝には、何人が先づ參與したのか。言ひ換へれば久米島按司が、宮古の娘に與へた卷物は、最初如何なる船に由つて、南の島へは運ばれたのであるか。それはもう終古[やぶちゃん注:「しゆうこ」。永遠。]の謎である。今はたゞ僅かに殘つて居る釜細工(かまざいく)の舞の曲と、其行裝(いでたち)と歌の文句に由つて、彼等が旅人であり、物珍しい國から來たことを、窺ひ知るの他は無いやうになつた。江戸で女の兒が手毬の唄に、

    遠から御出でたおいも屋さん

    おいもは一升いくらです

    三十五文でござります

    もちつとまからかちやからかぽん

と謂ふのがあるが、之に附けても思ひ出される。斯う云ふ輕い道化は鑄物師(いもじ)たちの身上(しんしやう)であつて、後に口拍子に眞似られたのではあるまいか。眞の芋賣りならば遠くからは來ない。所謂「取替(とりか)へべえにしよ」の飴屋なども、潰れた雁首や剃刀の折れを、集めて持つて行くだけは古金買ひと聯絡があつた。併しもう忘れられようとして居る。此等に比べると沖繩の舞は[やぶちゃん注:底本は「舞舞」。衍字と見て除去した。ちくま文庫版は以上が『これらに比べると釜細工という沖縄の舞は』となっている。]、まだ明瞭なる由緖を保ち、道具箱などは内地の鑄懸屋の通りであつた。或は流れ流れて金賣吉次の、是も淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶれ)ること。零落。]の一つの姿であることを、推測しても差支へがないのかも知らぬ。

 水に乏しい南の島々では、黃金を鳥に擲つ話は既に聞くことが出來ぬ。しかも大なる[やぶちゃん注:「おほいなる」]淸水に接近して、所謂カンジャーの石小屋を見ることは多い。カンジャーは固より鍛冶から出た語であらうが、沖繩では鍋釜其他一切の鑄物を扱ふ者を總括して斯う呼んで居る。自分は南山古城[やぶちゃん注:南山城(なんざんぐすく)跡。沖縄県糸満市大里にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に近い屋古[やぶちゃん注:「やこ」。「大里」の異古名。「糸満市大里自治会」公式サイト内のこちらに、元来は『大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来』、『人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称したという記述がある』とある。以下の嘉手志川という地名からもここ(前の南山城跡の東北直近)である。沖縄県国頭郡大宜味村に屋古の地名があるが、そこではないので注意されたい。]の嘉手志川(かてしがは)、或は石垣島の白保(しらほ)などで、幾度か好事の情を以て其小屋を覗いて見たが、曾て工人の働いて居る者に出逢はなかつた。恐らくは村から村へ、今も僅かな人數が移りあるいて、淡い親しみを續けて居るのであらう。彼等が炭の由來と黃金發見の信仰に付て、現に如何なる記憶を有するかは、自分の之を知らんとすること、恰も渴する者の泉を想ふ如くである。琉球國舊記等の書に依れば、炭には木炭と輕炭の二種があつて、輕炭を俗に鍛冶炭とも曰ふ。大工𢌞(だいくざこ)村[やぶちゃん注:サイト「村影弥太郎の集落紀行」の「大工廻」では「だくじゃく」と読んでいる。『現在は大字の全域が米軍の軍用地』であるとある。]に炭燒勢頭地(せとぢ)と謂ふ田地あつて、勢頭親部(をやぶ)始めて之を製すと云ふ傳へあり。後世鄰邑の宇久田(うくだ)[やぶちゃん注:同じくサイト「村影弥太郎の集落紀行」の「宇久田」によれば、現在の『嘉手納飛行場の滑走路付近』とある。]と共に、每年二種各二百俵の炭を王廷に貢した。其年代は不幸にして既に明白で無いが、三山併合よりも古いことでは無さそうだ。

[やぶちゃん注:「三山併合」一四二九年に第一尚氏王統の尚巴志王(しょうはしおう)が三山統一を行い、現在、これを以って「琉球王国」は成立したと見做されている。]

Yakonokatesi

[屋古嘉手志井[やぶちゃん注:ママ。]の下段

 瓦葺の小屋はカンジヤヤー]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションの「井」は「川」の誤植であろう。]

 但し鍛冶以外の炭の用途も、勿論無かつたとは言はれぬ。島の神道[やぶちゃん注:広義の神信仰。琉球は独立国であり、そのニライカナイ信仰も独自で魅力的なものである。日本の大和朝廷と結びついた国家の「神道」という政治的単語に成り下がった語で表現するのには私は強い不満がある。]に於ては火の神は卽ち家の神で、所謂御三物(おみつもの)の地位は、内地の近世の竈神[やぶちゃん注:「かまどがみ」。]卽ち三寶荒神よりも、遙かに高く且つ重かつた。今は僅かに神壇の中央に、三塊の石の痕を留むるのみであるが[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『今はわずかに、火床の中央に、三塊の石の痕(あと)を留むるのみであるが』となっている。]、以前は祖先の火を此中に活けて[やぶちゃん注:「いけて」。]、根所(ねどっころ)の神聖を保存したものと思はれる。火鉢の御せぢ(筋)は恐らくは之を意味し、火靈の相續は亦炭に由つて、爲し遂げられたかと想像する。此想像にして誤無くんば、冶鑄技術の輸入は、則ち火神信仰の第二次の興隆であつて、民に鋼鐵の器を頒ち賜ふが故に、其威德は愈旺盛となり、終に王家をして之に據つて、能く民族統一の偉業を完成せしめたのである。之に反して内地の軻遇都智神(かぐつちのかみ)は、恩澤未だ洽(あまね)からず、又雄族[やぶちゃん注:有力氏族。]の之を支持するもの無く、天朝の傳承は寧ろ宣傳に不利なりし爲に、次第に其聲望を降して、終には炊屋(かしきや)[やぶちゃん注:厨。台所。]の一隅に殘壘を保つに至つたが、是が果して東國九州の偏卑に住む民の信仰であり、殊には筑紫の竈門山(かまどやま)の神などの、教へ導きたまふ所のものと、一致して居つたか否かは問題である。而も此くの如き地方的の大變化が、薪を一旦炭にしてから、再び之を利用する技術の有無に原因して居るとしたら、渺たる一個の小五郞の物語も、其の暗示する所は亦頗る重大である。

Syurigotenhigamisanza

[首里御殿の火神の三座

 各三つの石、前に置くは香爐]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

 遠野物語の中には、深山無人の地に入つて、黃金の樋(ひ)を見たと云ふ話があるが、其が火と關係あるか否はまだ確實で無い。併し少なくとも火神の本原が太陽であつたことだけは、日と火の聲の同じい點からでも之を推測し得るかと思ふ。日本には火山は多いが、我民族の火の始は、之に發したのでは無かつたらしい。天の大神の御子が別電(わけいかづち)であつて、後再び空に還りたまふと云ふ山城の賀茂、又は播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、此國のプロメトイスが霹靂神(はたゝがみ)であつたことを示して居る。宇佐の舊傳が同じく玉依姫を説き、頻に又若宮の相續を重ずるは、本來天火の保存が信仰の中心を爲して居た結果では無かつたか。岩窟に火の御子を養育すれば、第一の御惠は必ず炭と爲つて現はれる。炭はまどろむ火であるが故に、之を奉じて各地に神裔を分つ風が先づ起り、金屬陶冶の術は則ち此に導かれたものでは無からうか。南太平洋の或民族、例へばタヒチの島人などの火渡りは、燃ゆる薪の中に石を燒いて、之を大きな竪坑に充たし、神系の貴族たちは列を作つて、其上を步むのであつた。日本に於いても大穴牟遲神(おほあなむち)の、手間(てま)の山の故事のように、赤くなる迄石を燒く習[やぶちゃん注:「ならひ」。]があつたとすれば、或種の重く堅い石が、猛火の中に滴り落ること、其石が凝つて再び色々の形を成すことは、所謂奧津彦(おきつひこ)奧津媛(おきつひめ)、卽ち炭火の管理に任じた者には、殊に遭遇しやすき實驗であつて、之を神威の不可思議と仰ぐは勿論、更に進んで其便益の大なることを諒解した場合には、必ずや新たに無限の歌を賦して、火の神の恩德をたゝえんとしたことであらう。之を要するに炭燒小五郞の物語の起原が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であつたとすれば、爰に始めて小倉の峰の菱形池(ひしがたのいけ)の畔に、鍛冶の翁が神と顯れた理由もわかり、西に鄰した筑前竃門(かまど)山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ傳へられた事情が、稍明らかになつて來るのである。所謂父無くして生れたまふ別雷の神の古傳は、至つて僅少の變化を以て、最も弘く國内に分布して居る。神話は本來各地方の信仰に根ざしたもので、其の互に相容れざる所あるは寧ろ自然であるにも拘らず、日を最高の女神とする神代の記錄の、此れほど大なる統一の力を以てするも、尚覆ひ盡すことを得なかつた一群の古い傳承が、特に火の精の相續に關して、今尚著しい一致を示して居ることは、果して何事を意味するのであらうか。播磨の古風土記の一例に於て、父の御神を天日一箇命(あまのまひとつのみこと)と傳へて、乃ち鍛冶の祖神の名と同じであつたことは、恐らくは此神話を大切に保存して居た階級が、昔の金屋であつたと認むべき一つの根據であらう。火の靈異に通じたる彼等は、日を以て火の根原とする思想と、いかづち[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]と稱する若い勇ましい神が、最初の火を天より携へて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたと云ふ信仰を、持傳へ且つ流布せしむるに適して居たに相違ない。宇佐は決して此種の神話の獨占者では無かつたけれども、彼宮の神の火は何か隱れたる事情あつて、特に宏大なる恩澤を金屬工藝の徒に施した爲に、彼等をして永く其傳説を愛護せしむるに至つたので、炭燒長者が豐後で生れ、後に全國の旅をして多くの田舍に假の遺跡を留めて置いてくれなかつたなら、獨り八幡神社の今日の盛況の、板木の理由が説明し難くなるのみで無く、我々の高祖の火の哲學は、永遠に不明に歸してしまつたかも知れない。然るに文字の記錄を唯一の史料として、上古の文明を究めんとする學者が、誤り欺き獨斷するに非ざれば、則ち絶望しなければならなかつた問題の眼目を、斯く安々と語つて聽かせ得る者が、隱れて草莽の間に住んで居た。さうして滿山の黃金が天下の至寶なることに心付かず、之を空しき礫に擲ちつゝ、孤獨貧窮の生を營んで居た。新しい學問の玉依姫は、今や訪ひ來たつて彼が柴のを叩いて居るのである。

[やぶちゃん注:このエンディングは柳田國男にしては文学的で悪くない。]

2018/09/26

鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)

 
 

死んだ男   鮎川信夫

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

 

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつまでも残っているね。

だがぼくは、何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かかった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 

埋葬の日は、言葉もなく

立会う者もなかった。

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。

空にむかって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 

   *

「鮎川信夫詩集」(昭和三〇(一九五五)年荒地出版社刊)より。

鮎川信夫(大正九(一九二〇)年~昭和六一(一九八六)年)本名は上村隆一。東京生まれ。早稲田大学英文科中退。昭和一二(一九三七)年、中桐雅夫編集の詩誌『LUNA』、翌年には村野四郎らの『新領土』に参加、昭和一四(一九三九)年森川義信らと詩誌『荒地』を創刊した。諸和一七(一九四二)年十月に青山の近衛歩兵第四連隊に入隊、翌年、スマトラに出征したが、マラリアや結核を発症、昭和十九年五月、傷病兵となって送還され、福井県の傷痍軍人療養所に入所、昭和二〇(一九四五)年四月、外泊先の岐阜県から退所願いを出し、福井県大野郡石徹白村で終戦を迎えている。翌年、詩誌『新詩派』『純粋詩』に参加、昭和二二(一九四七)年、第二次『荒地』を創刊した。同年に発表された本詩「死んだ男」は戦後詩の出発点と称されている。昭和二六(一九五一)年には田村隆一・黒田三郎らを同人とし、年間アンソロジー『荒地詩集』を創刊、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする地位を決定的なものとした。詩作品の他にも多くの翻訳・詩論・評論・随筆がある。平凡社「マイペディア」及びウィキの「鮎川信夫を参考にした)。

 

【鮎川信夫「死んだ男」 藪野直史 授業ノート】

 

●第一連

◆「遺言執行人」=作者=死んだ友人M(に代表される戦死(第三連)していった人々)の代わりに生きる《役目》を与えられてしまった「ぼく」

◎《戦後》という時代を《遺言執行人》として生きることを自らに課した詩人の登場

★何故「遺言執行人」なのか?

*「遺言執行人」は「遺言配達人」でも「遺言告知人」でもないことに気づかせる。果敢に「執行」するのである。

《モノクロームのサスペンス映画のオープニングのように「遺言執行人」のシルエットが見え始める印象的な映像的処理》

 

●第二連

・回想~戦前

◆「遠い昨日」=(第三連)つい「昨日」であったにも拘わらず「遠い昨日」である「短かかった黄金時代」=(第四連)しかし、同時にある意味では戦後の「今日」に、飴のように延びきって続いてしまっている「昨日」でもある

・「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」

┃ 並列(等価)

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」

◎ニヒリズム(虚無主義)を気取った文学青年の知的で、アンニュイ(倦怠)に満ちたデカダン(退廃的)な雰囲気の醸成

《心内の映像もカメラをやや傾かせて撮るのがよい》

☆「手紙の封筒を裏返すようなこと」とは何か?

*実際の封筒(横開きの開口部が大きいものを使用)を何人かの生徒に渡し、自由にやらせてみる。《実演させる》

*ただ封筒の裏(裏書き部)返す生徒には、その意味を聴き、それが「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」と同属性を持つ意味を聴く(経験的には「住所・名前を見るため」「その手紙の内容が恋人からの最後の手紙であるから」「知人の訃報」等。但し、私が正答と考えるそれを躊躇なく行う生徒もいる)。

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」の「ようなこと」とは、それが、普通でないことであり、尋常でない「ような」ヘンな「こと」なのではないか?

   ↓ とすれば

・ただ封筒を表から裏に「裏返す」ことではないのではないか?

   ↓ とすれば答えは一つ

袋状の封筒の内側を外側にひっくり返す、反転させること

   ↓ さればこその

「実際は、影も、形もない?」(Mの台詞)

=現実や人間社会なんて、内も外もない「空っぽ」なもの

=存在自体の空虚さ

=アンニュイでデカダンなニヒリスティクな〈当時の〉雰囲気

   ↓ しかしそれは、「今」に響き合う

・「――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった」~現在への意識転換

   ↓

『「死にそこなっ」た〈戦後〉の自分のこの空虚感の予言だったのだ』という認識

 

●第三連

◆「昨日のひややかな青空」~Mと共にあった作者の思い出の象徴的イメージ

 クールな(存在の空虚さを孕んだ)詩的な感覚世界

 (その頃からぼくらの心情はいつだって感傷的な)「秋だった」(第四連)

*「剃刀の刃」から連想する語句を生徒に挙げさせ、その属性を記す。例えば、

「自殺」~デカダンな議論にしばしば登場

「鋭い」~詩人の持ちがちな「反」社会性・「非」社会性。人生そのものへの批判的な「抉るような」「鋭敏な」感覚

「傷つける・切り裂く」~自己の或いは人の心を

「危険」~無謀な感性

    ↓

 《青春の属性》

◎「活字の置き換え」

 ~戦前のモダニズム・ダダイズム風の詩的実験や制作上の試み

*西脇順三郎・北園克衛・高橋新吉・萩原恭次郎等の作例を示す。

◎「神様ごっこ」

 ~詩人としてミューズから霊感を受けたような天才気取りの競い合い

《詩的絶対者然とした者たちの果てしない議論のシークエンス》

    ↓ それが

★「僕たちの古い処方箋だった」

『一時の気休めとして用意(処方)された、前時代的な効き目のない古くさい慰戯に過ぎなかったんだよ。』(これはMの亡霊の台詞か?)

☆「ぼく」が「M」を「見失ってしまった」のはなぜか?

①(彼らの過去時制で考えると)時代(ファシズム・戦争への傾斜)の渦へと巻き込まれて行き、その中で自分さえも見失ってしまったからか?

②(詩作時の現時制で考えると)現在(戦後)の作者の意識の中で、Mの存在が同一化してしまっているからか?

*私は②でとる。そうすることで、この詩は真に〈話者の重層化〉(話し手が、Mでもあり、作者でもある)が行われ、「遺言執行人」としての「ぼく」の存在も同時に明確となるからである。

 

●第四連

◆「いつも季節は秋だった」

 Mや「ぼく」の青春期を覆う時代の色調

   ↓

 決定的にうそ寒く、淋しく、暗い。

   ↓ しかも

 戦前・戦中(「黒い鉛の道」)の「昨日も」、戦後の「今日も」(変わりはしない)

*この詩句は直ちにヴェルレーヌの「秋の歌」の詩を想起させ、当該詩篇の冒頭にはランボーの詩篇の一部が引かれており、彼らの悲劇的な同性愛関係とその決裂を考え合わせると、Mと「ぼく」との間に同性愛的な意識関係があったと仮定することは無理がないと考えている。

・「淋しさの中を落葉がふる」(Mの詩篇か? 作者のそれか? はたまた彼らの意識の中の共通したヴェルレーヌでありランボーでもあるような寂しいミューズか?)

   ↓ 衰滅を比喩する「秋」

◆戦争と絶望と死、そして戦後という荒れ果てた地(現実+精神)への道は永久に「淋しさの中を落葉がふる」「道」であった

《この連は一見すると最もリアリスティクな二人の町を行く映像が相応しい》

 

●第五連

◆戦没死したMの埋葬=「ぼく」の想像の中の心象風景《イメージ・フィルム》

・「憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった」=全否定で表現された絶対の沈黙・絶対の孤独=感情という中途半端なものが、一切、かき消えた無感動・無表情~虚無感

・「空に向かって」あげられたMの視線

 ~ここでは『戦争において死にそこなったもののすべては、はっきりとみつめかえされて』いる(長田弘評)

★「さよなら、太陽も海も信ずるにたりない」

「太陽」~人間の儚い「希望」?

「海」~生命の根源としての無限の包容力をもった広大無辺とされる「愛」のようなもの?

   ↓

  全否定

  ↓

 現実への深い懐疑・絶対の強烈な絶望

*この言葉はMのみのものか?

 「遺言執行人」としての「ぼく」の言葉でもあることは言を俟たぬ

★「Mの傷口」が作者の「胸の」傷口でもあるとすれば?(Mと作者との一体化からそう考えるのが自然)

 過去(主に第二連以降)~死者「M」に代表される者の思い(胸の傷=心傷(トラウマ))

    ↓ が直ちに

 現在(主に第一連)~生き残った自分に代表される者の思い

    ↓ であるとすれば、それはやはり直ちに

 未来へと投げかけられる

    ↓ 命題であり、だからこそ「ぼく」=「M」は言う

「これがすべての始まりである。」

 

*本詩篇全体を包んでいる徹底した陰鬱な気分は、戦争体験者の、回復し難い「生の意識」の喪失感と、戦後の虚構に満ちた〈平和〉社会への違和感・拒絶感の表明でもあろう。

 

【二〇一八年九月二十六日附記】

 授業(私が最初にこれを授業したのは一九八〇年の柏陽高校の三年生に対してで、その後、最低でも二回はやったと記憶する。暗く難解だという理由で、教科書の載っていても、やらない国語教師は多かった。国語教師は現代詩の授業を苦手とする者が実は非常に多い。現代詩好きの国語教師であればあるほど、逆にやらない傾向さえある。感性重視派のそうした現代詩を偏愛する人々ほど、普遍的な解釈や分析を生理的に甚だ嫌うからである)では意識的に「M」が誰であるかを語らなかった。それは本詩篇を生徒が個人的な感傷に還元して処理してしまうことを避けたいと思ったからである。

 この「M」は鮎川信夫の親友で詩人の森川義信である。大正七(一九一八)年十月十一日に香川県三豊郡栗井村本庄で生まれ、香川県立三豊中学時代に「鈴しのぶ」のペン・ネームで文芸投稿誌『若草』(宝文館発行)や西條八十主宰の詩誌『臘人形』(両誌は後に詩誌『詩研究』に統合された)に投稿、早稲田第二高等学院英文科に入学(十四年十二月中退)した昭和一二(一九三七)年に中桐雅夫の編集していた『LUNA』に参加して筆名を「山川章」と改名、中桐・鮎川信夫を知り、昭和十四年には鮎川の主宰した第一次『荒地』に参加したが、昭和一六(一九四一)年四月に丸亀歩兵連隊に入隊、翌昭和一七(一九四二)年八月十三日、ビルマのミートキーナで戦病死した。享年二十五、未だ満二十三歳であった。

 私の古い電子化に森川義信詩集 ちゃ版」(二〇〇五年一月七日公開。底本は昭和五二(一九七七)年国文社刊の鮎川信夫編「森川義信詩集」)があり、青空文庫」現在二十四詩篇公開てい

 鮎川の本詩篇「死んだ男」は、実はそれら、森川の詩篇を読むことで、森川の詩想を確信犯で裏打ちした作品であることが判る。例えば、彼の(引用は私の上記詩集から。但し、今回、森川が敗戦前に亡くなっていることから、現在の私のポリシーに従い、恣意的に漢字を概ね正字化して示した)「衢路」(「くろ」。「岐(わか)れ道」の意)、

   *

 

 衢路

 

友よ覺えてゐるだらうか

靑いネクタイを輕く卷いた船乘りのやうに

さんざめく街をさまよふた夜の事を――

鳩羽色のペンキの香りがかつたね

二人は オレンジの波に搖られたね

お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?

友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ

窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを

昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ

それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが

ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も

友よ お前は知らないだろ?

ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて

今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて

猶太人のやうにほつつき步いてゐる事を

だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて

ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ

そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは

かぐはしい昨日の唄聲ではなかつたのだ

ああ それは――昨日の窓から溢れるものは

踏みにじられた花束の惡臭だつたのだ

やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ

ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま

小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする

いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする

ボードレエルよ ボードレエルよ と

ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが

――又仕方なく昏迷の中を一人步かうとする

 

   *

のシチュエーションや全体のダルな雰囲気(十六行目の「かげ」及び十七行目の太字「はつ」は底本では「丶」点)、或いは、「衢にて」(「ちまたにて」と訓じておく。意味は先の「衢路」に同じい。全体の雰囲気からはより広義の「街路」「街中」でもよいと思う)、

   *

 

 衢にて

 

翳に埋れ

翳に支へられ

その階段はどこへ果ててゐるのか

はかなさに立ちあがり

いくたび踏んでみたことだらう

ものいはず濡れた肩や

失はれたいのちの群をこえ

けんめいに

あふれる時間をたどりたかつた

あてもない步みの

遲速のままに

どぶどろの秩序をすぎ

もはや

美しいままに欺かれ

うつくしいままに奪はれてゐた

しかし最後の

膝に耐え

こみあげる背をふせ

はげしく若さをうちくだいて

未完の忘却のなかから

なほ

何かを信じようとしてゐた

 

   *

の冒頭部、或いは、森川の代表作の一篇である「勾配」、

   *

 

 勾配

 

非望のきはみ

非望のいのち

はげしく一つのものに向つて

誰がこの階段をおりていつたか

時空をこえて屹立する地平をのぞんで

そこに立てば

かきむしるやうに悲風はつんざき

季節はすでに終りであつた

たかだかと欲望の精神に

はたして時は

噴水や花を象眼し

光彩の地平をもちあげたか

淸純なものばかりを打ちくだいて

なにゆえにここまで來たのか

だがきみよ

きびしく勾配に根をささへ

ふとした流れの凹みから雜草のかげから

いくつもの道ははじまつてゐるのだ

 

   *

は、既にして詩篇全体が、本「死んだ男」との激しい親和性を持っていることが判る(「ゆえ」はママ)。

 但し、これはインスパイアなどという、なまっちょろいものでは決して、ない。

 元に戻り給え、本「死んだ男」は既にして詩人鮎川信夫と詩人にして盟友の森川義信のハイブリッドな産物なのであるから――
 
 

2018/09/25

柳田國男 炭燒小五郞が事 八

 

      八

 金屋が神と其舊傳とを奉じて、久しく漂泊して居た種族であるとしても、彼等と宇佐の大神との因緣は、此だけではまだ見出されないのである。又眞野長者を中心とした連環の物語が、其の不文の記錄から出たと云ふことも單に一箇の推測であつて、炭燒の一條が果して最初より是と不可分のものであつたか否かには疑がある。自分はたゞ此ほど奇拔にして且つ複雜な話が此ほどの類似を以て各地に偶發することは無いと信じ、何人かゞ運搬してあるいたとすれば、それは炭燒の業と最も親しかつた者が、古く信仰と共に或地方から持つて出たので、之を豐後とすれば比較的鍔目[やぶちゃん注:「つばめ」。]が合ふように思ふだけである。但しまだまだ解きにくい難題がいくらもある。

 例へば芋掘藤五郞の、イモは鑄物師と見てもよいが、奧州三戸(のへ)郡の是川(これかは)村には、蕪燒笹四郞(かぶやきさゝしらう)と爲つて同じ奇談が、路の行く手のヤチ[やぶちゃん注:「谷地」等と漢字表記し、草などの生えた湿地の意。普通に使用するが、青森の方言としてもある。]の鴨に、花嫁の二分金(ぶきん)を打ち付けることから、後に發見した大判小判を洗ふこと迄、あとは大抵其まゝで傳はつて居る。親の讓りのたつた一枚の畠地から、朝夕蕪ばかりを掘つて來て、燒いて來て食つて居たと云ふ點だけが違つて居る。遠くかけ離れて肥後の菊池の米原(よなばるの)長者、是も名前が薦編(こもあ)みの孫三郞であつたのと、鳥が白鷺であつた點を除けば、長谷の觀世音の夢の告げと云ふことまで、符節を合したる小五郞であつた。黃金發見者の職業は、只何と無く少し替へて見たのかも知らぬが、肝要な點である爲に看過することが出來ぬ。尤も肥後の方では程遠からぬ玉名郡の立願寺(りふぐわんじ)村に、匹石野(ひきしの)長者の舊記があつて、恰も中間の飛石を爲しては居る。此長者は貧しい炭燒別當であつた。花嫁は内裏の姫君、同じく觀世音の御夢想に由つて、女房十二人侍四人を從へて堂々として押掛けたまふ。但し此には水鳥の飛立つことは無く、靑年は只一つの石塊をツチロ[やぶちゃん注:辞書類では見当たらぬ語であるが、恐らくは薦編みの際に用いる糸巻のような中央に窪みのある錘、「ツチノコ」「ツツロ」のことではなかろうか? 「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」の「椎木の薦上の薦編み」のページに木製のそれが使用されていることが確認出来る(写真有り)。また、神野善治氏の「手工用具」PDF)に『俵や菰、背負い袋を編むときに俵編み』(工具名。俵や菰を作製する編み台。リンク先に有り。)『と共に用いる。ツチノコ・ツツロなどという』とある。但し、「只一つの石塊を」用いてとあるところは、或いは、素材である藁や薦を加工し易くするために叩く「藁打ち槌(つち)」ことのようにも当初は思えた。しかも前記の神野氏の解説では、その「藁打槌」のことを鹿児島では「ワラウツゴロ」「ワラウチゴロ」と呼ぶとあるのである。]として、其炭薦を編んで居たとある。そのツチロはどこから持つて來たかと問うと、斯樣なる石塊は此山中に何程もあり、炭燒が家では水石[やぶちゃん注:「すいせき」。ここは泉水を作っている用材石と庭石の意であろう。]踏石まで皆此なりと答へ、乃ちそれが黃金であつたと謂ふ。此長者は早く退轉して、長者屋敷には瓦や礎が殘り、又例の糠(ぬか)の峰、小豆塚等の遺迹の他に、金糞塚と稱して鐵滓[やぶちゃん注:既出。「かなくそ」。]多く出る塚もあつた。鐵の滓が出ただけでは、之を以て黃金發見者の實在を證することが出來ぬ次第であるが、よく似た話は羽前の寶澤(はうざは)村にも有つて、藤太の相續人が建てたと云ふ石寶山藤太寺[やぶちゃん注:山形県山形市上宝沢(かみほうざわ)にある住吉神社(ここ(グーグル・マップ・データ))はブログ「蟻行記」の「住吉神社と炭焼藤太」に、同神社は『神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった』とある。同ブログは記事も必読。]は、是も炭燒男の語として、こんな石が三國の寶であるなら、私が山屋敷では藁打つ石まで、みんなこの石だと謂つたのに基くと傳へて居る。偶然の一致では無かつたやうである。而も炭燒が薦を編んだ、藁を打つたと云ふことも、よく考へてみると仔細があるらしい。卽ち單に炭を包む爲だけに斯んな物を作つたのでは無く、金屋は一般に其製品の輸送に付て[やぶちゃん注:「ついて」]、特に薦を大切にしたかと思ふ。江州長村(をさむら)の鑄物師の神は、豐滿明神(ほうまんみやうじん)と稱へて其音は宇佐の御伯母神[やぶちゃん注:「おほんはくのははのかみ」か(しかし、どう読んでみても、ちっとも音通ではないが)。ウィキの「八幡神」によれば、『アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられて』おり、『宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされて』、『比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある』とある。]に近いが、もと高野(かうや)より移りたまふと傳へて居る。其時此地の米を獻上し、十符(とふ)の菅薦(すがごも)を二つに切つて下された。今に至る迄其由緖を以て、鑄物師は五符の薦を以て包むと云ふ。其意味はまだよく分らぬが、荷造りにも作法のあつたことを謂ふのであらう。江戸深川の釜屋堀[やぶちゃん注:底本は「金屋堀」であるが、調べてみると、地名としては「釜屋堀」が正しい。ちくま文庫版もそうなっているので、ここは本文を訂した。]の鑄物師は、上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた。當日の神事のツク舞の柱に、高く結附けられる徑[やぶちゃん注:「わたり」。]八尺の麻布の球は、必ず鍋釜を包裝する藁の殘りを納めて、其心(しん)につめたと云うふ話がある。此ばかりの材料から推測をするのは大膽であるが、宇佐神宮の以前の御正體(みしやうたい)が、黃金であつたと謂ひ、薦を以て之を包んだと謂ふ神祕なる古傳は、卽ち亦薦編みの孫三郞が、後終に米原長者と耀くべき宿緣を、豫め説明して居たものかとも考へられるのである。

[やぶちゃん注:今回、調べものをするうちに、すわさき氏のサイト内に「炭焼き小五郎/芋掘り藤五郎/運命の結婚/いざり長者」炭焼長者(再婚型)/丁香と海棠」「炭焼長者(父娘葛藤型)轆角荘の由来/薯童伝説/月の中の天丹樹の話」という本「炭焼き長者譚」の世界的でしかも膨大な資料集成を見出した。是非、ご覧あれ。

「上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた」「當日の神事のツク舞」現在、当該の大宮神社の兼務神社の一つに、市原市五井中央西にある上宿・宿大神社(しゅくだいじんじゃ)というのがあるが、「大宮神社公式サイト内の同神社の解説によれば、この神社は万治二(一六五九)年に『現在の鎮座地に移った』もので、『万治二年、五井の宿割りをした際に用いられた縄と、幣束を社殿に納め』、『五井宿の守り神として祭られた。また、塩焼き業に欠かせない竈を守る神として崇敬を集め』、『宿割荒神とも呼ばれる』とあり、現在の『宿大神社の例祭日は、十二月一日で』、『例祭日には、つくめまい(筑摩舞とも)と呼ばれる舞が演じられ、鍋釜市が開催されたと伝えられる(現在の五井大市』(ごいおおいち:三百五十余年の歴史があるという)『の起源)。つくめ舞は、現在行われていないため』、『詳細は不明であるが、文書には以下のように記されている』。『市街の中央に高さ二丈余りの大柱二本を組』み『建て、柱の頂上には麻布にて周囲八尺余経二尺許の球形を』『造り、太き麻縄二本を結び』、『以て階梯とし』、『多人数をしてそれを左右に引かしめ、舞人は獅子の仮面を冠り』、『白衣の装束を着し、頂上に昇りて舞を奉すを以て例とす。世俗に之を五井のツクメ舞と称せり』。『ツクメ舞が盛大に行われていた頃、万治年間より、五井は大きく発展し始めた。万治元年八月一日、深川の釜六・釜七という金物屋が鍋釜市を開いたのが、徐々に盛大に行われ、五井宿の守護神として尊崇を集めていた当社の祭礼と重なり、現在の五井大市へと発展していったと言われている』。『当社は、江戸時代の五井宿の地頭神尾家の崇敬も厚く、神尾家の紋入りの祭器具や調度品の寄進もあったと伝えられている。明治』一七(一八八四)『年の火災により焼失し』、『今に残されていない。その後』同年内に再建され、昭和七(一九三二)年の『修繕を経て』、『今に至っている』とある(ごくこじんまりとした小社である。リンク先に写真有り)。]

 孫三郞も小五郞も、畢竟するに常人下賤の俗稱である。此物語の盛に行はれた時代には、家々にそんな名の下人が多く使はれて居た。それ程の者でも長者になつたと云ふ變轉の面白味もあつたか知らぬが、尚大人彌五郞(おおひとやごらう)などの旁例を考へ合せると、特に八幡神の眷屬として、其名が似つかはしい事情があつたやうに感ずる。併し其點までは今は深入りせぬことにしよう。炭燒男の名としては既に列擧した藤次藤太の外に、尚阿波の糠の丸長者の傳説に伴うて、攝津大阪には炭燒友藏が住んで居た。長者の一人娘は父に死別れて後、家の守護神なる白鼠に教へられ、遙々海を越えて尋ねて來て嫁となる。奇妙に光る石塊を井戸の傍に出て洗つて見て、是が黃金ですかと謂つた若者が、曾てあの大阪に住んで居たと謂ふのは、今更の滑稽である。

[やぶちゃん注:「大人彌五郞」柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎までを参照されたい。そこでも書いたが、鹿児島県曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」というのがある。私は大の祭り嫌いであるが、この岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私は若き日の母が見た「弥五郎どん」の祭りを、死ぬ前に一度、必ず、見たいと思っている。]

 大隅鹿屋(かのや)鄕大窪村の山で、からかねを[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を發見したと云ふ觀音信者の炭燒は、初の名が五郞藏であつた。炭は暖い國に來るほど、段々と不用になる。故にもう是が日本の炭燒長者の、南の端であつても不思議は無いのだが、佐多の島泊(しまどまり)の山に新たなる意外が起らんとしつゝある如く、更に又波濤の千海里を隔てゝ、世にも知られぬ寂寞たる長者が住んで居た。宮古の島の炭燒太良(すみやきだら)は卽ち是であつて、事は本文に既に詳かに述べてあるが、自分が爰に問題として見たい唯一つの點は、冬も單衣ですむやうな常綠の島に在つて、尚且つ炭を燒きつゝ終に長者となることが、信じ得べき物語であつた根本の理由である。

 

柳田國男炭燒小五郞が事 七

 

      七

 例へば江戸周圍の平原の如きは、村が少ない爲か採鑛地が遠い故か、いつ迄も金屋の移動が止まなかつたやうである。尤も鍛冶屋の方だけは國境の山近くに、領主の保護を受けて二戸三戸づゝ、さびしく土着した者が農村の中にまじり、由緖は記憶し技藝は忘れてしまつて、後は普通の耕作者になつて居るが、鑄物師の部落は佐野の天明(てんみやう)武藏の川口等、取續いて土着して居た者は至つて稀であつて、他の大部分の工人等の、地方の需要に應じて居た者は、空しく遺跡のみを殘留して、皆どこへか立ち去つてしまつた。現在武藏相模の中間の樹林地に、カナクソ塚などゝ云ふ名のある小さい塚の、附近から多量の鐵の滓を發掘するものが多いのは、何れも鐵の生産地とは關係無く、他に想像の下しやうも無い彼等の仕事場である。又カネ塚又はカナイ塚と稱して、小さな封土の無數にあるのも、或は之を庚申の祭場に托する人もあるが、他の府縣に在るカネイ場と云ふ地名と共に、是も金を鑄る者の假住の地であつたらしい。彼等は單に在來の塚に據つて、露宿の便宜を求めたのか。仕事の必要から時として自ら之を構へたか。はた又別に信仰上の動機でもあつたものか。之を決定することはまだ六かしいが、兎に角に是が塚の名になつて殘るのには、單に稍長い滯留のみで無く、或期間を隔てゝ繰返し、同じ場處に訪ひ寄ること、富山の藥屋や奧州のテンバ[やぶちゃん注:嘗て山間や水辺を漂泊して川漁や竹細工などを生業とした民「サンカ」「山窩(さんか)」の別称。恐らくはその放浪形態に基づく「転場」である。]のやうな、習性があつたことを想像せしめる。殊に金吹きの勞作には、人の手を多く要した。今のイカケ屋のやうな小ぢんまりとした道具では旅は出來なかつた。猿蓑集[やぶちゃん注:蕉門の最高峰の句集とされる俳諧七部集の一つ「猿蓑」(松尾芭蕉監修/向井去来・野沢凡兆編/宝井其角序/内藤丈草跋)。元禄四(一六九一)年刊。]の附合の中に、

     押合うて寢ては又立つかり枕

     たゝらの雲のまだ赤き空

 とあるのは、おそらくは貞享[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]頃までの、武藏野あたりの普通の光景であつて、或は妻子老幼をも伴のうた物々しいカラバン姿が、相應にい印象を村の人に與へた結果ではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:「猿蓑」の引用は正確な表記では、

 押合て寢ては又立つかりまくら   蕉

  たゝらの雲のまだ赤き空     來

で、謂わずもがなであるが、前句が芭蕉の、付句が去来の作である。

「カラバン」砂漠を隊を組んで行く隊商の意の英語“caravan”(キャラヴァン。ペルシャ語の「旅行者の一団」の意が語源)、ある目的のために隊を組んで各地を回るその様態。]

 タヽラと云ふ地名も亦無數に殘つて居る。此徒は燃料の豐富なる供給を要とした他に、尚水邊に就てその臨時の工場を開設せねばならぬ事情が有つたと見えて、沼地の岸、淵川の上などに、タヽラと呼ばるゝ地があつて、前代の金屋の事業を語り、さうで無くても鐵の澤を掘り出すものが多く、しかも其主はもう行方を知らぬのである。水の神が鐵を怖れると云ふ話、或はそれと反對に、釣鐘其他の金屬の器を、極度に愛惜すると云ふ物語は、踏鞴師(たたらし)のことに重きを置くべき言傳へであるが、今は一般の俗間に弘く分布して居るのも、何ぞの因緣らしく考へられる。炭燒藤太が將に運勢の絶頂に辿り付かんとするとき、必ず水鳥の遊ぶ水の邊を過ぎて、天下の至寶を無益の礫[やぶちゃん注:「つぶて」。]に打たずんば止まなかつたのは、所謂隴畝[やぶちゃん注:「ろうほ」。「壟畝」とも書く。「畝(うね)と畦(あぜ)・田畑」転じて「田舎・民間」。]に生き送つた單純な人々には、寧ろ聊か皮肉に失したる一空想であつた。或は此話が金を好むこと彼等に越えた者の、草枕の宵曉[やぶちゃん注:「よひあかつき」。]に靜かな水の面を眺めつゝ、屢想ひ起し語り傳へた昔の奇談であつたとしても、尚今一段と丁寧なる説明、例へば其鳥は神佛の化する所にして、夫婦を導いて新たなる發見の端緖を得せしめたと云ふ類の、信心の奇特などを附け加へる必要があつたかと思ふが、旅の金屋は亦之を爲すにも適して居たやうである。關東地方に於けるカナイ塚の築造、殊に其保存と尊敬は、或はまだ宗教的の起原を證するに足らぬかも知れぬが、次第に北に進んで下野の山村に入れば、金井神若くは家内(かない)神社などゝ書く神が著しく多くなり、福島宮城山形の三縣に於ては、其數が更に加はつて、その或ものは鍛冶鑄物師の筋を引く家に、由緖を以て祭られ、他の大部分は普通の村に、只の祠(ほこら)となつて祭られて居る。卽ち此徒の第二の業體、若くは少くとも旅行の補助手段が、斯う云ふ特殊の信仰の宣傳であつたことは、これでもう疑が無いのである。中部日本の金屋の神は、今は唯霜月八日の吹革(ふいご)祭に、近所の小兒たちが蜜柑を拾ひに參加するだけであるが、海南屋久島(やくのしま)などに行けば、鍛冶屋神は村中から信ぜられて居た。白齒[やぶちゃん注:「しらは」。嘗て女性は結婚すると鉄漿(かね=お歯黒)をつけたことから、「未婚女性」の意。]のうちに身持ちになる女があれば、此神に賽錢を納めて鐵滓(かなくそ)を申請け來り、此に唐竹(たうちく)[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科トウチク属トウチク Sinobambusa tootsik。]と柳との葉を加へ、煎じてその婦人に飮ましめる。魔性蛇體などの種ならば忽ちに下りてしまひ、人の子であれば何の障[やぶちゃん注:「さはり」。]もないと謂つたさうである。屋久では此神を槖籥神(とうやくしん)、又は金山大明神と呼ぶと謂ふが、他の島々ではどうであらうか。中國地方の鐵産地に於ては、多くの村に金鑄護(かないご)又は金屋子といふ祠あり。金屋既に去つて後も、神のみは留まり、此も學問ある神官に由つて、金山彦命などと屆けられて居るが、人は依然として之をカナイゴサンと稱へるのである。備後の双三郡[やぶちゃん注:「ふたみぐん」。現在の三次(みよし)市の大部分に相当する。]に行はるゝバンコ節は俚謠集にも出て居る。曾てタヽラの作業の折に歌つたものが、遺つて昔を語るのである。

    たゝら打ちたや、此ふろやぶへ

    鹽と御幣で、淨めておいて

    いはひこめたや、かないごじんを

山脈を隔てゝ出雲の大原郡にも、又別種のタヽラ歌がある。

    ヤーむらげ樣がナーよければナー

    炭燒さまもよけれ

    イヤコノ世なるでナ

    その金が金性がよいわ

ムラゲは鎔爐[やぶちゃん注:「ようろ」溶鉱炉。]のことであるらしい。炭燒樣も爰ではもう祭られる神であつた。

[やぶちゃん注:「バンコ節」これは踏鞴(たたら)を踏んで風を起こし続けるのを担当した「番子(ばんこ)」の労働唄と思われる。数日に及ぶ絶え間ない連続作業で、交代で踏鞴番を代わったことから、現在の「かわりばんこ」の語が生まれたとされている。

「俚謠集」文部省文芸委員会編の大正三(一九一四)年国定教科書共同販売所刊。当時の文部省が全国の府県提出を命じて蒐集した俗謡集成(但し、東京・大阪を始めとして十五府県は提出されなかったのでそれを欠き、歌詞に特徴のあるものを採用し、一般的なものと猥褻なものは省き、手毬歌・子守歌等の童謡に類するものは一二の例外を除いて採用しなかった、と緒言にあって、なんとなく面白い)国立国会図書館デジタルコレクションの画像縣」で視認出来る。最後に『是は昔たゝらに唄ひしもの』『(雙三郡)』とある。

「此ふろやぶへ」「このふろやぶへ」であるが、「ふろやぶ」というのが判らぬ。「風呂」は「炉」の意があるが、だとすると「藪」は複数の炉が集合している箇所を指すか。或は「ふろ」は「ふうろ」の短縮形であるから、「風露」で「風と露」、「この風が冷たく、露がおりるこの山間(やまひ)の藪の辺りへ」の意とも採れなくはない。識者の御教授を乞う。

柳田國男 炭燒小五郞が事 六

 

     六

 津輕最上其他の炭燒藤太が、遠く西海の濱から巡歷して來たことは、最初より之を疑ふことを得なかつたが、然らば何人が何樣の意趣に基いて、此話を運搬してあるいたかに就ついては、解答は今以て容易で無い。自分が試に揭げた一箇の推定は、所謂金賣吉次を以て祖師と爲し、理想的人物と仰いで居た一派の團體、卽ち金屬の賣買を渡世とした旅行者の群に、特に歌詞に巧なりと云ふ長處があつて、之に由つて若干生計の便宜を、計つて居たのでは無いかと云うふに在つたが、現存の資料は必ずしも之を助けるのみで無い上に、全體に亙つて世上の忘却が甚だしく、年代の雲霧は頗る我々の回顧を遮るものがある。尚辛抱い後の人の硏究に、委付するの他は無いのであ

 この自分の想像の第一の手掛りは、加賀の芋掘(いもほり)藤五郞の傳説であつた。野田の大乘寺の西田圃にある二子塚(ふたこづか)を、藤五郞夫婦の墓と稱して、寬政九年[やぶちゃん注:一七九七年。]には記念の石塔を建て、近年は又之を市中の伏見寺に移したのみならず、金澤市史には之を富樫(とがしの)次郞忠賴[やぶちゃん注:永延元(九八七)年に加賀国司となり、善政を敷いたとされる人物。]の事だと迄謂つて居る。卽ち津輕と同じやうに、大半はもう歷史化して居るので、最早口碑とも謂はれぬか知れぬが、而もその黃金發見の顚末に至つては、全然豐後の小五郞と異なる所が無いので、之を土地の人かぎりの賞翫に委ねて置くわけには行かぬのである。藤五郞芋を掘つて、細々の煙を立つる賤が伏屋[やぶちゃん注:「しづがふせや」。]に、大和初瀨の長者の娘、觀世音の御示しによると稱して押掛け嫁にやつて來る。長者の名を生玉右近萬信(いくたまうこんまんのぶ)と謂ふのは、或は又滿能では無いだらうか。姫の名は和五[やぶちゃん注:「わご」。]と謂ふとある。和五は和子[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]であつて單にお孃さまも同じことだ。藤五郞は芋を掘る處の土が皆黃金であるのに、それが寶であることをちつとも知らなかつた。或時父の右近が贈つた一包の砂金を以て、田に居る雁に打付けて還つて來た。妻女の注意を受けて始めて山に入り、莫大の黃金を持ち還つて、それを近くの金洗澤で洗つた。金澤の名もこれより起り、兼六公園の泉の水は卽ち其故迹である。遠州濱松の近くにも、藤五郞とは謂はぬが、やはり一人の芋掘長者が居た。奈良の某長者の信心深い娘が、遙々と嫁に來てから一朝にして長者になつた。鴨江寺[やぶちゃん注:「かもえじ」。]の觀世音は芋掘長者の一建立(いつこんりふ)で、附近には尚黃金千杯朱千杯の噂もある。鴨江と謂ふからには、鴨の話も有つたのであらうが、書いたものには遺つて居らぬ。紀州の湯淺に近い小鶴谷(こつるや)の芋掘長者、是は正しく廣川に遊ぶ鷗に、小判を打ち付けて居るところを、多くの人に見られた。何で其樣な勿体ないことをするかと戒められると、うちの芋畑にこんな物なら、鍬で搔寄せる位あると謂つたので、其自慢から芋掘長者の字(あざな)が出來たとは、少し六つかし過ぎた説明である。此家の嫁は京から來た。隅櫓(すみぐら)長者と謂ふのは角倉(すみのくら)の聞き誤りか、信州園原の炭燒吉次も、京の角倉與一の遠祖であると傳へ、やはり炭から富を得た話の筋を引いて居る。但し此婦人の内助の功は傳はらず只大さうな衣裳持ちで、山の屋形で土用干しをすると、淡路の海まで照りかゞやき、魚が捕れぬと云ふ苦情が來たなどゝ、花やかな語り草を殘して居るだけである。

 芋掘りも一人で山中に入り、土に親しむ生活をして居るから、幸運ならば黃金を得たかも知れぬが、自分だけは此イモを鑄物師(いもじ)のイモであらうと考へて居た。卽ち炭を燒く者ともと同じ目的で、必ずしも世に疎く慾を知らぬ爲では無く、寧ろ現實の生活には滿足せぬ連中が、我境涯で夢想し得る最大限の福分、乃至は文字通りの過去黃金時代を、記憶し且つ語らざるを得なかつた結果が、自然に印象深く歌と爲り昔話と變じて、歳月の力に抵抗して來たのでは無いかと思つた。金賣吉次の黃金專門も、既に亦一つの空想であつた。あの頃に假に金賣りと云ふ職業があつたにしても、それは後世の金屋(かなや)と同樣に、タヽラの助けに由つて有利に古金類(ふるかねるゐ)を買集め得る者を除く外、さういふ旅行者は想像することが出來ぬ。吉次の遺迹と云ふ地が京都平泉、奧州路の宿驛附近の他に、最上苅田の山奧の鑛山にも、庄内會津越後などの山村にも、下野の國府の近くにも、下總印旛沼の畔にも、武藏の片田舍にもあれば、京から西の安藝の豐田郡に迄分散して、兩立せざる色々の記念を留めて居ることは、卽ち彼自身が運搬自在なる假想の人物であつた一つの證據で、更に推測を進めて見れば、中古實在の鑄物師に、吉を名乘に用ゐた人の多かつたことゝ、何ぞの關係があるやうにも思はれる。

 金屋の旅行生活は、一方諸國に刀鍛冶の名工が輩出し、鏡や色々の佛具の技藝が著しく進んだ後まで、尚持續して居たやうである。地方の需要に應じて製品の輸送の煩しさを省くの利はあつたが、原料の蒐集が甚だしく不定な爲に、生産を擴張することは六かしかつたので、便宜を得る每に土著を心掛けたらしく、近畿の諸國を始として、中部日本には金屋と稱する小部落が多く、其住民が以前漂泊者であつたことは、彼等が忘れた場合にも尚證據がある。源三位賴政禁中に恠鳥[やぶちゃん注:「けてう」。]を退治した時、仰を蒙つて百八箇の金燈爐(かなとうろ)[やぶちゃん注:底本は「爐」は「鑢」(工具の「やすり」)であるが、誤植と断じて訂した。]を鑄て奉り、功を以て諸役免許の官符を賜はつたと謂ふ類の由緖書は、些少の變化を以て殆ど之を持傳へざる家も無く、何れも只の百姓から轉業したものとは考へられて居らぬ上に、尚鎌倉時代の東寺文書にも、金屋等が此大寺の保護の下に、五畿七道に往反して鍋釜以下、打鐵鋤鍬の類より、更にその序を以て布米などをも賣買し、利潤の一部を寺へ年貢に備進して居たことが、明瞭に見えて居る。甑(こしき)[やぶちゃん注:昔、強飯(こわいい)などを蒸すのに使った器。底に湯気を通す数個の小さい穴を開けた鉢形の素焼きの土器で、湯釜の上に載せて使用した。後の蒸籠(せいろう)に相当する。]が廢れて鍋釜の弘く行はるゝに至つて、彼等の大半は鐵の鑄物師と爲り、鑄懸(いかけ)と稱する一派の小民は、亦其中から次第に分れて、鑄工[やぶちゃん注:底本は「銅工」。ちくま文庫版を採った。]が地方の需要に據つて、諸國の空閑[やぶちゃん注:「くうかん」。空いていること。]に定住の地を求めて後も、依然として遷移の生活を續けて居た。所謂イカケ屋の天秤棒(てんびんぼう)の、無暗に細長く突出して居たことは、卽ち近江美濃等の多くの金屋村の文書に、「兼て又海道鞭打(むちうち)三尺二寸は、馬の吻料(くちれう)たるべし云々」とあるのと、必ずその根原を一にするものであつて、是亦此種の鑄物師の、久しく自由なる旅人であつた一つの證據である。

 鋤鍬其他の打物類も、もとは兼て鑄物師の受扱ふ所であつた。鑄物師も鍛冶も等しく金屋と呼ばれ、金屋神はその共同の守護神であつた。東海道の金谷驛は古くからの地名で、金谷の長者一人娘を水神に取られ、金(かね)を湯にして池に注いだと云ふ口碑なども殘つて居て、卽ち亦一箇の金賣吉次かと思はれるが、後世此地の名産は矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]だけであつた。釘鍛冶庖刀鍛冶などの手輕なる作業は、各自踏鞴(たゝら)を獨立し原料を別にする迄も無く、土地の工人の不自由勝ちな設備を以て、田舍の入用だけを充して居た痕跡は、今日の金物店にも殘つて居る。旅をしてあるけばまだ其以上に、臨時のホド[やぶちゃん注:「火床(ほど)」。鍛冶用の簡単な炉。]も選定せねばならず、又燃料用の炭から燒いてかゝる必要もあつた。斯ういふ生活が遠國偏土に於ては、かなり久しく尚續いて居たのである。

けもの

森川義信は鮎川信夫に、加藤健という詩人の次の詩を示し、
   *
公園の熊の子は寂しい
二匹で相撲をとるのだ
そして
二匹ともころぶのだ
   *     
この詩をはじめて読んだ時、涙が出そうになった。わかるわからないは問題ではない、「どれだけ感じているかだ」と言い、「それは人の眼には見えない」と。(鮎川信夫「失われた街」(一九八二年美成社刊)より要約)
 
   *   *   *
 
東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。(夏目漱石「心」より)
 
   *   *   *
 
 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐるぐる廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。(夏目漱石「心」より)

2018/09/24

醜奴兒 書博山道中壁   辛棄疾

 
 醜奴兒 書博山道中壁   辛棄疾
 
少年不識愁滋味
愛上層樓
愛上層樓
爲賦新詞强説愁
 
而今識盡愁滋味
欲説還休
欲説還休
却道天涼好個秋

  
  醜奴兒(しうぬじ)
 
    博山道中の壁に書(しよ)す   辛棄疾(しんきしつ)
 
 少年は識らず 愁ひの滋味を
 愛(この)みて層樓に上る
 愛みて層樓に上り
 新詞を賦するに强(しひ)て愁ひを説(い)ふ
 
 而今(じこん) 識り盡くす 愁ひの滋味を
 説(い)はむと欲して還(ま)た休(や)む
 説はむと欲して還た休め
 却つて道(い)ふ 天涼しくして好き秋なり と
 
 
   醜奴兒

     博山への道中の壁に書(しる)す   辛棄疾
 
  少年の頃は知らなかった 本当の悲しみの味なんてもんは
  好んで高いところに登ったもんさ
  好きで高いところに登ったもんさ
  そうして 新しい唄を詠もうと わざわざ「哀しみ」を詠じたもんさ
 
  でも もう今は 哀しみはいやになるほど知っちまった
  何か語りたいとも思うけど 止める
  訴えたいと思うけど いや 止める
  そうして 寧ろ 言おう 「天は涼やかで、なんと、いい秋なんだろう」って……

   *
 
・辛棄疾(一一四〇年~一二〇七年)は金・南宋の政治家で詩人。
 

柳田國男 炭燒小五郞が事 五

 

      五

 天皇潛幸の畏れ多い古傳は、かの炭燒藤太の出世譚と同じく、亦弘く東北に向つて分布して居る。富士淺間(せんげん)の御社に於ては、竹取物語の一異説として、かくや姫は聖德太子の御祖母なりと傳ふること、廣益俗説辨に擧げられ[やぶちゃん注:「卷三 神祇」の「富士淺間神(あさまのかみ)は赫夜姫(かくやひめ)を祀ると云(いふ)説、附富士山、孝靈帝御宇に現ずる説」。(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分の画像)の右頁の終りから三行目を見よ。]、有馬皇子が五萬長者の姫を慕ひ、下野に下つて暫く奴僕に身をやつしたまふといふことは、慈元抄[やぶちゃん注:室町時代に書かれた教訓譚。]にこれを錄して居るが、其よりも更に類似の著しいのは、岩代苅田宮(かりたのみや)の口碑である。是は物語と謂ふよりも寧ろ現存の信仰であつた。用明天皇或年此國に幸したまひ、玉世姫を娶りて一人の皇子を儲けたまふ。妃薨じて白き鳥と化したまふ。祠を建てゝ祀り奉り白鳥大明神と謂ふ。水旱疾疫に祈りて必ず驗あり、土人は今も白鳥を尊崇して、敢て之に近づく者も無いとある。後世の學者には此説の正史と一致せざるを感じ、白鳥の靈に由つて日本武尊の御事ならんと論ずる者があつた。社傳も亦漸く之に從はうとして居るが、鄕人古來の傳承は、尚容易に動かすことを得ないやうである。此地方には一帶に、鵠(くゞひ)[やぶちゃん注:白鳥の古名。]を崇敬する白鳥明神の例が多い。柴田郡[やぶちゃん注:底本は「柴田村」。ちくま文庫版で訂した。]では平(たひら)村の大高山神社、之に隣する村田足立(あしたて)二處の白鳥社は、相連繫してよく似た傳説を奉じている。但し緣起は何れも三百年來の京都製であつて、殊に別當寺と神主側と互に相容れざる言立をして居るのは怪しいが、双方の偶然に一致して居る箇條は、却つて最も荒唐信ずべからざる部分、卽ち乳母が稺き[やぶちゃん注:「をさない」。]皇子を川の水に投じたるに忽ち白鳥と化して飛び揚り去りたまふと云ふ點に在る。此の如き一見無用なる悲劇は、固より後人の巧み設くべき物語で無い上に、苅田宮の方にも同じく兒宮(ちごのみか)子捨川(こすてがは)投袋(なげぶくろ)などの舊跡があつて、此と共通なるきれぎれの口碑の今も有るを見れば、何か尚背後に深く隱れたる神祕が有るのであらう。それは又別の折に考へるとして、兎に角に御父を用明天皇、御母の名を玉倚媛(たまよりひめ)とする尊い御子(みこ)が、此地に祭られたまふ神なりと弘く久しく信ぜられて居たことだけは偶然の一致では無かつたらうと思ふ。以前平の隣村、金瀨宿(かながせじゆく)の總兵衞と云ふ者の家には、古風なる一管の笛を藏して居た。其先祖某、或時林に入りて大木を伐り、其空洞の中より之を見出したと傳へ、笛頭には菊の紋が彫つてある。是れ卽ち山路(さんろ)用ゐる所の牧笛なるべしと、土地の人たちは謂つたとあるから、あの物語の爰でも歌はれて居たことは疑が無いのである。

[やぶちゃん注:以上の伝承については、福田晃氏の論文「白鳥・鷹と鍛冶―二荒山縁起の「朝日の里」を尋ねる―」がたいへん参考になる。]

 長者の娘、容顏花のごとくにして、終に内裡[やぶちゃん注:「だいり」。内裏。]に召され、妃嬪[やぶちゃん注:「きひん」。妃と嬪。天子の第二・第三夫人、或いは、天子に仕える女官のこと。]の列に加はつたと云ふ話は、備後の靹津[やぶちゃん注:「とものつ」。]の新庄太郞、常陸の鹿島の鹽賣長者等其例少からず、古くは又實際の歷史であつたかも知れぬが、特に之を用明天皇に係け[やぶちゃん注:「かけ」。]まつるに至つては、乃ち亦豐後の影響なることを感ずるのである。炭燒藤太の舊住地の一つ、陸前の栗原郡に於ては、姉齒(あねは)の松の古事に托して、美女の途[やぶちゃん注:「みち」。]に死したる哀話を傳へて居る。氣仙(けせん)高田の武日(たけひの)長者が姉娘であつたと謂ふ。妹は後に代りて京に上らんとして、姉が墓の松に對して涕泣したと稱して、紙折坂[やぶちゃん注:「しをりざか」。]の地名もある。用明帝の御代の事と謂ひ、側に神通山用明寺があつた。陸中鹿角(かづの)郡小豆澤のダンブリ長老は、蜻蜓[やぶちゃん注:「だんぶり」。蜻蛉(とんぼ)類の古い総称。]に教えられて酒の泉を發見し、之に由つて富を積んだと謂ふ有名な長者である。唯一人ある愛女[やぶちゃん注:「愛娘」同様に「まなむすめ」と訓じておく。]を皇后に召されて、寂寞の餘りに財寶を佛に捧げたと云ふことが、是亦眞野長者の生涯に似通うて居るが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]地に於ては之を繼體天皇の御時と傳へて居る。嶺を隔てゝ二戸(のへ)郡の田山に於ても、田山長者の事蹟は全く是と同じく、是は唯大昔の世の事とばかりで、何れも既に至尊巡狩の傳へは存せず、いよいよ本[やぶちゃん注:「もと」。]の緣は薄れて居るが、尚此物語の獨立して起つたので無いことは、之を推測せしむる餘地があるのである。

 其理由の一つとして算へてよいのは、所謂滿能長者[やぶちゃん注:「まんのうちやうじや」。]の名が、遠く本州の北邊まで知れ渡つて居たことである。蜻蜓長者(だんぶりちやうじや)の例を見てもわかるやうに、大凡長者の名前ほど、變化自在なものは無い筈であるのに、説話中の長老の極度の富貴に住する者は、往々にして其名が滿能であつた。自分が始めて炭燒藤太の話を書いた後、八戸(のへ)の中道等(なかみちひとし)君が同處のイタコから、正月十六日のオシラ神遊びの詞曲を聽いて、手錄した所の一篇にも、やはり「まんのう」長者とあつた。イタコは奧州の村々に於て、桑の木で刻んだ男女の神に仕へ、神託を宣る[やぶちゃん注:「のる」。]を業とする盲目の女性である。世を累ねて曾て文字無く、授受を苟くもせぬ[やぶちゃん注:「いやしくもせぬ」。いい加減には決してしない。]彼らの經典に、尚この名稱を存して居るのは、尋常流行の章句と同一視することが出來ぬのである。但し此曲に説く所は、炭とは何のゆかりも無い養蠶の起原であつた。長者の厩第一の駿馬せんだん栗毛、たゞ一人ある姫君に戀慕して命を失ひ、其靈は姫を誘ひて上天し、後に白黑二種の毛蟲となつて現れたのを、十二人の女房と八人の舍人(とねり)、こかひ母、桑取り王子と爲つて之を養ふと謂ふのが其大要で、之に續いて春駒によく似た文段がある。干寶[やぶちゃん注:底本は「于」であるが、誤植なので訂した。]が搜神記は中央の學者等に取つても、手に入り易い平凡の書では無かつたのに、如何なる徑路を經𢌞つていつの時から、それと同じい話が北奧の地にばかり、斯うして姫見嶽の長者の名と結合しつゝ、巫女の祕曲には編入せらるるに至つたか。誠に過去生活の不可思議は、窺ふに隨つて益々其渺茫を加ふるが如き感がある。

[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、中国の伝説の一つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとする「蚕馬(さんば)」「蚕女」「馬頭娘」伝説と、奥州の「おしらさま」伝承との係わりを言っている(但し、私は「おしらさま」は本邦で独自に平行進化したもののように思われてならない)。その最も古形とされるのが、東晋の文人政治家干宝(?~三三六年)が記した私の偏愛する「捜神記」の巻十四にある話で、私は既に柳田國男 うつぼ舟の話 三の注で原文を電子化してある。]

柳田國男 炭燒小五郞が事 四

 

 

 溯れば源は尚遙かである。神が人間の少女を訪らひ[やぶちゃん注:「とぶらひ」。]たもふということは、豐後においては嫗嶽(うばだけ)の麓に、花の本の[やぶちゃん注:「はなのもと」。段落末注参照。]神話として夙く之を傳へて居る。神裔は永く世に留まり、卽ち緖形氏(をがたうぢ)の一族と繁衍[やぶちゃん注:「はんえん」。「繁栄」に同じい。]したと謂ふ。緖形はまた大神田(おがた)とも書くものあり、大和の大三輪(おほみわ)の古傳と、本は一つであらうと謂ふ説も、尚其據り所無しとせぬのであるが、更に之を隣國宇佐神宮の信仰に思ひ合せるときは、先づ其脈絡關係の殊に緊切なるものあるを認めざるを得ぬ。八幡は最も託宣を重んじたまふ大神であつた。歷史の錄する所に從へば、其巫女の言[やぶちゃん注:「げん」。]は時代を逐うて進展し、現に朝家に在つては年久しく宗廟の禮を以て之を齋ひ[やぶちゃん注:「いはひ」。]祀られてあるが、當初は單にある尊き御母子の神と信ぜられ、必ずしも記紀に傳ふる所の應神天皇の事蹟とは一致せず、恰も山城の賀茂に於て別雷神(わけいかづちのかみ)とその御母とを祀るが如く、玆にも亦玉依姫は、其姫大神の御名であつた。大隅正八幡宮の如きは、後に宇佐より分れたまふ御社かと思ふのに、其社傳に於ては別に神祕なる童貞受胎の説があつて、頗る高麗百濟の王朝の出自と相類し、直接に日神をもつて御父とすと迄信じられて居た。是れ日本の國家の未だ公けに認めざりし所ではあるが、少なくとも以前の信徒の多數に、此の如く語り傳へる者はあつたのである。眞野の長者が放生會の頭(とう)に選ばれて、門前に榊を樹てられた[やぶちゃん注:「たてられた」。]時、流鏑馬(やぶさめ)の古式を知る者無くして、誰にてもあれ此神事を勤め得たらん者を、一人ある娘の聟に取らうと謂ふと、乃ち山路が進み出でゝ、始めて射藝を試みるといふ一段は、後に百合若大臣(ゆりわかだいじん)の物語にも、取り用ゐられたる花やかな場面で、此曲に聽き入つた豐後人の胸の轟きは想像にも餘りがあるが、其よりも更に驚くべかりしは、愈第三の矢を引きつがへて、第三の的にかゝらんとしたまふ時しも、天地震動して八幡神は神殿を搖ぎ出でたまひ、君の御前に畏まつて、自ら敬を十善の天子に致したまふと云ふ條である。卽ち神よりも尊い御身が、斯んな草苅童の姿を假りて、暫く長者の家に止まりたまふと云ふことが、果して尋常文藝の遊戲として、古人の口の端に上るべきものであつたか否かは、詳しく説明するまでも無いのである。宇佐が古來の傳統に基いて、次々に四所八所の若宮(わかみや)王子神(わうじがみ)を顯し祀り、遠い東方の郡縣に、絶えず活き活きとした信仰を運んで居たことを考へると、其力が山坂を越えつゝ、南鄰の國々へも早くから、斯うして進んで居たことは疑が無い。要するにもと山路が笛の曲なるものは、神が人間界に往來したまふ折の警蹕[やぶちゃん注:「けいひつ」。天皇や貴人の通行などに際し、声を立てて、人々を畏まらせて「先払い」をすること。]の音であつたのを、佛法が干涉して神子を聖德太子と解せしめんとしたゝめに、是を何のつきも無く[やぶちゃん注:何らの曰く所縁もなく。]、用明天皇には托するに至つたのである。

[やぶちゃん注:「花の本の神話」三輪山直系の大蛇の化身伝承「嫗嶽大明神伝説」で、これは「平家物語」巻第八の「緒環」の章でも語られている、緒方惟栄(これよし 生没年不詳:豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し、源範頼の平家追討軍に船を提供し、「葦屋浦の戦い」で平家軍を打ち破った武将)をその神裔とする。個人サイト戦国 戸次年表」の「嫗嶽大明神伝説を参照されたい。]

 此推定を更に確めるものは、姫の名の玉世であつた。宇佐の姫神の御名を玉依姫と傳へた理由は、久しい間の學者の問題であつて、或は之に由つて山に祀つた御神を、海神(わたつみ)の御筋かと解する者さへあつたが、神武天皇の御母君が、同じく玉依と云ふ御名であつたことは、唯多くの例の一つと謂ふばかりで、前にも云ふ如く賀茂でも大和でも、凡そ神と婚して神子をまうけたまふ御母は、皆此名を以て呼ばれたまふのである。玉依は卽ち靈託であつた。人間の少女の最も淸く且つ最もさかしい者を選んで、神が其力を現したまふことは、日本神道の一番大切なる信條であつた。神の御力を最も深く感じた者が、御子を生み奉ることも亦宗教上の自然である。今日の心意を以て之を訝るの餘地は無いのである。眞野長者が愛娘も、玉世であつた故に現人神(あらひとがみ)は乃ち訪ひ寄られた。それが亦八幡の古くからの信仰であつた。

 或は又別の傳へに、姫の名を般若姫と謂ふものがある。周防大畠に般若寺があつて、姫の廟所なりと謂ふ説と關係があらうと思ふが、尚さうしなければならぬ第二の必要は、姫の母長者の妻を亦玉世姫と謂ふ故に、之を避けんとしたものであつて、爰にも此物語の古い變化が認められる。烏帽子の插話に於ては、長者の妻は其夫に向つて、「御身十八自ら十四の秋よりも、長老の院號蒙つて、四方に四萬の藏を立て」と謂ひ、山中に炭を燒いた以前の生活は、もう之を忘れしめられて居るやうであるが、此點は恐らく豐後人の承認し能はざる改訂であつたらう。長者の物語は其性質上、斯うして際限も無く成長し、後には繪卷の如く幾つかに切り放して、纏めて見れば一致せぬ箇條が、現れて來るのを普通とはするが、今若し母と子と二人の玉世の、何れが先づ知られたかを決すべしとすれば、自分は躊躇無く話の發端であり、發生の動畿の不明であり、且つ類型の少ない炭燒の婚姻を以て、神を聟とした玉世の姫の奇緣よりも、一つ前から存在した場面なりと認める。然らば宇佐の玉依姫の故事も、此には適用が無かつたかと謂ふと、それは唯記錄に現れてからの八幡の信仰が、第二の玉世の物語に近かつたと云ふのみで、神を尋ねて神に逢ふと云ふ更に古い炭燒口碑が尚古く存し、時の力で十分に人間化して、斯うして久しく殘つて居たとも、考へられぬことは無いのである。炭燒はなるほど今日の眼から、卑賤な職業とも見えるか知らぬが、昔は其目的が全然別であつた。石よりも硬い金屬を制御して、自在に其形狀を指定する力は、普通の百姓の企て及ばぬ所であつて、第一にはタヽラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知つた者だけが、其技藝には與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]居たので、之を神技と稱し且つ其祖を神とする者が、曾てあつたとしても少しも不思議は無い。扶桑略記の卷三、或は宇佐の託宣集に、この郡厩(うまや)の蜂(みね)菱潟(ひしかた)の池の邊に、鍛冶(かぬち[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『かじ』。])の翁あつて奇瑞を現ず。大神(おほみわ)の比義[やぶちゃん注:「ひぎ」。]なる者、三年の祈請を以て之を顯し奉る。乃ち三歳の小兒の形を現じ、我は是れ譽田(ほんだ)天皇なりとのりたまふとある。若し自分などが推測する如く、比義は最初の巫女の名であつたとしたら、貴き炭燒小五郞が玉世姫の力に由つて顯れたと謂ふのは、極めて之に近い神話から、成長して來た物語と見ることができるのである。

「反古のうらがき」に就いてT氏より貴重な資料情報の提供を受けて注を追記・改稿した

「反古のうらがき」について、いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、膨大にして貴重な資料情報の提供を受け、本未明より、各話で注の追記・改稿を行った。T氏に心から御礼申し上げるものである。

2018/09/23

反古のうらがき 卷之三 火事場のぬす人 ~ 反古のうらがき 卷之三~了

 

   ○火事場のぬす人

[やぶちゃん注:やはり、改行を多用した。]

 淺草川の東なるあたりに住(すみ)ける人、其名は忘れ侍る。

 其人が家は、百年(もゝとせ)に足らず、火の事にあひて燒(やけ)たることはなかりしが、一とせ、冬のはじめより、雨ふることなくて、冬の末迄つゞきたれば、常に賴み切(きつ)たる庭の池水も遠淺になりて、やゝ深きところのみ、水少し斗り殘りにけり。

 かゝる處に、あたり近き所より、火、出で、風につれて、家並に燒來(やけきた)るにぞ、こたびは、とてものがるべきよふもなくぞみへける[やぶちゃん注:「よふ」「みへ」孰れもママ。]。

 されども、其主(そのあるじ)は家をば立(たち)さらで、火の付(つく)處に、水をそゝぎそゝぎする程に、左右(さう)なく燒(やけ)もやらず。

 かくして、しばしさゝへたれども、元より、水の手も思ふに任せず、折節、風さへ吹(ふき)まさりたれば、終(つひ)にさゝへ兼て、おもての座敷は、はや、燒(やけ)にけり。

「せめては、おもやをば助けん。」

と、池に入(いり)ては、水を取り、かけ上りては、打(うち)そゝぐ。

 かくする程に、となりの家は、みな、燒(やけ)たり。うら手の家も、みな、燒たり。此家一つ助けざらんには、火をさけて出(いづ)べき方もなくなりぬ。

 されども火の手は彌(いよいよ)、きほひ[やぶちゃん注:「氣負ひ」。]まさりて、屋根も燒け、屋のうらより吹出(ふきいづ)る火は、目も鼻も、分ちなく、引(ひつ)つゝむよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]になりにたれば、

「今は是迄。」

とて、池の水の、少しのこれる所に入(いり)て、濕薦(しめれるこも[やぶちゃん注:私の勝手な読み。])、引(ひつ)かむりて、火のしづまるをぞ待ける。

『扨も、吾ながら、危きことしてけり。かく一人として火消(ひけし)だにみえざる迄、立(たち)もさらでこらへぬるは、あまりにかたくなにてぞありける。今、おもやの燒(やく)るさま、いかなる火消なりとて、面(つら)をむくべきよふもなし。』

など思ひつゝ、少しへだたりし池の中より見てあるに、もみかへすよふなるほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の中に、人、二人迄、入來(いりきた)る。

 其樣(そのさま)、何の衣(ころも)か着けん、水にうるほしたりと見へて、湯氣の烟り立(たち)のぼること、物をむすがごとく、何をか足にはきけん、火の上を平地の如く、

「ゆるゆる」

と步みて、あちこち、あさり求(もとむ)る樣(さま)、盜人とはしられけり。

『かゝる危き中を物ともせで入來(いりきた)りて、心靜(こころしづか)に物奪ふは、なみなかの盜人にてはあらじ。かゝる肝太き人にしあらずば、など、盜みをばなし得ん。』

と見てけるまに、此家にては奪ふ物も多くあらざりしか、又、隣の家の、火にうづみたる中を、おしひらきて、入(いり)けり。

 すべて、火の内を行く樣(さま)、常の家に入(いり)たるよふにて、目をめはり、いきをつかふに、苦しむ樣(よう)、見へず。

 おりおり求得(もとめえ)たる物は、すべて、鐡器・陶器の類ひなれども、手に持ち、背に負ふ樣(さま)も、あつしとも覺へぬ樣(やう)なりけり。

 しばしありて、家も燒(やけ)おちにければ、主(あるじ)も池より出で、かの盜人が入來(いりきた)りしあたりに行(ゆき)て、其(その)火氣(ひのけ)を試むるに、いかに水にひたりて居(をり)たる肌にても、いまだ、より付(つく)ことのならざる程にてぞありける。

 むかし、もろこしにて、めしつかふわらはが、玉(ぎよく)の杯(さかづき)打(うち)わりしとて、罪をおそれて立(たち)かくれしが、いづち行(ゆき)けん、一間内(ひとまうち)にて、影をかくしぬ。二た日(ひ)斗(ばか)り過(すぎ)て、大床(おほゆか)の下に、紅の紐の下(さが)りてありしを見て、床(ゆか)を打(うち)かへしければ、床の下に、手足もて、はり付(つき)てぞありける。

「二た日が間、ものもたふべで、力もたゆまずありけるは、ゆゝしき大盜にもなるべし。玉の杯、打わりしは輕き罪なれども、生(い)けて置(おく)べきものならず。」

とて、ころしてける、となん。

 かゝれば、

『人にすぐれたることする人が、心直(こころなほ)くならねば、大盜人となり、人にすぐれたること、仕(し)いだすにてぞあらん。』

と、此(この)とき、思ひ當り侍る、と、人に語り侍るとなん。

反古のうらがき 卷之三 はかせのぬす人

 

   ○はかせのぬす人

 

[やぶちゃん注:やはり改行を施した。]

 何がしといふ人、いとけなきより、物よむことを學びて、詩つくり、文作ることさへ、くらからず。

 其性も、もの靜(しづか)に、かたち、けだかくおひ立(たち)ぬれば、

「末々は、ゆゝしきはかせにもなるべし。」

と、人々、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]あへりける。

 此人、家のまづしきにもあらず、ことのたらわぬ[やぶちゃん注:ママ。「足らはぬ」。物に不自由している状態。]にもあらねど、いかなる故にや、人のものを奪ふことをこのみて、いくたびとなく、人にあやしめらるゝことありけるが、それにても、なを[やぶちゃん注:ママ。]やまで、折々に此事、ありけり。

 果(はて)には、人人(ひとびと)、皆、しり侍りて、交りをする人もすくなくなり行(ゆく)にぞ、後には、しらぬ人の家に行(ゆき)て、もの奪ふことをぞなしける。

 いかなる道ありて奪ふやといふに、何方(いづかた)にても、ふみよむ聲の聞ゆる家には、必(かならず)、心覺へ[やぶちゃん注:ママ。]をして、其あたりの人々に其姓名を問ひ置き、其後(そののち)、玄關(おもてむき[やぶちゃん注:底本のルビ。])より、あないをこひて、おとなふなり。

 それも聲をひきく[やぶちゃん注:低く。]して、よくも聞へぬよふ[やぶちゃん注:孰れもママ。]に、一聲(ひとこゑ)二聲にして、こたへもなく、出來る人もなければ、

「そろそろ」

と障子おしひらきて内にいりて、しばし待合(まちあは)せて、人、出(いで)くるさまもなければ、又、座敷に入(いり)て待合(まちあは)す。

 かくしても人の出くるさまなければ、其あたりにある物、何となく奪ひ、出(いづ)るなり。

 もし、人の出來(いでく)ることあれば、

「先程より、あなひを乞ひ侍れども、取次(とりつぐ)人のなければ、きも太くも、これまで入來(いりき)にけり。ゆるし玉へ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、

「扨。其(その)訪ひ來(こ)しゆへは、吾、文(ふみ)よむ事をこのみて、同じ友のほしさに訪(おとな)ひこしたれば、おしへ玉ふことも聞(きか)まほしく、又、これよりも、きこへたきことども、多し。」

など、いひて、かたらふに、もとより、其道にはくらからねば、いつはりともみへず、たゞ、

「文よむ人のくせとして、ものごとにおろそかにして、人の家に入るにも、おとない[やぶちゃん注:ママ。]もなく入來(いりきた)ることなどあるは、常のことよ。」

などいひて、ことすむなり。

 かくある後(のち)は、名をもきこへて、しる人になりて、怪しまれざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にして、又、他(よそ)の家に行(ゆく)なりけり。

[やぶちゃん注:こうなった場合は、相手にそれを信じ込ませて、怪しまれぬようにするのである。計算高く、巧妙である。]

 或る日、さるはかせがり行(ゆき)て見しに、折節、文學(ふみまな)ぶ童子どもがみなさりて、玄關におとなへども、こたへもなし、立入(たちいり)て見しに、人もなし。あたりに、文ばこ、つみかさねたるがありければ、ふたおしあけて、手にあたる文ども、引出(ひきいだ)して、ものにおしつゝみて、直(ただち)に持(もち)て出(いで)けり。

 あるじのはかせは、おくまりたる所にて、ひる飯給(た)ふべて有(あり)けるが、たうべ果(はて)たれば、又、座敷にいでゝ見れば、文箱の蓋、取(とり)ちらして有けるに、怪しくて、

「誰(だれ)ぞ來(き)てけるか。」

ととへども、しるもの、なし。

 おさなきものゝおもてに遊びゐたるにとへば、

「今、しらぬまろう人[やぶちゃん注:ママ。]【客ど。】[やぶちゃん注:「客ど」は「まろう人」の右傍注。]の來(き)玉ひて、何にかあらん、持(もち)て、去り玉ひぬ。」

といふに、文箱の内を見れば、品々の文ども、見へずなりぬ。

「何人なるか。遠くは行(ゆく)まじ。おひかけてみるべし。」

とて、其衣服・かたちをとひしりて、おもての方へおひ行(ゆき)けり。

 其日は、雨のはれたる後(あと)なりければ、ちまたのみちの、どろ、ふかくて、とくも[やぶちゃん注:速やかには。]おひ得で、走りなやみけるが、さる城主が門の前にて、あやしき人をぞ見付ける、と見れば、おさなきものがいふに違(たが)はず、雨のころもの、身だけ[やぶちゃん注:後の表記から「身丈(みたけ)」で、成人男子が直立した際、首の首の中央部の骨の突起(頸椎点)から踵の中央部分までの高さを言う。]なるに、高きあしだをはきて、手に文(ふみ)めける物の、大づゝみにしたるをもてり。

「しばし待ち玉へ。」

と聲かけたれば、高き下駄をば、ぬぎすてゝ、泥の中をひた走りに走るにぞ、

「扨は、まごふ方なし。」

と、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に走りて、やがておひ付(つき)て、

「手にもてる包み、見せ玉へ。」

とて、手をかくるに、少し爭ふよふなりしが、ゆきゝの人の、多く立(たち)よりて見る間(あいだ)に、かきゆひ𢌞(めぐら)したるよふ[やぶちゃん注:「垣結ひ𢌞らしたる樣(やう)。]なれば、

『かなわじ[やぶちゃん注:ママ。]。』

 

とや思ひけん、其儘に、わたしてけり。

 其中は、みな、見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]の文なれば、打(うち)も、くゝり[やぶちゃん注:「括(くく)り」。引っ括る。捕縛する。]もすべかりけれども、餘りに盜人めかぬ人が仕業(しわざ)なれば、

『よふこそあらめ。』[やぶちゃん注:何かわけがあるのであろう。]

とて、まづ、其名をとふに、少し爭ひて、とみにはいわざりけれども[やぶちゃん注:ママ。]、はては、

『何某が家の子。』[やぶちゃん注:「家の子」は家臣。]

と答ふ。

「しからんには、幸ひに其主(あるじ)と相(あひ)しる人、あり。よびて來(き)て、いかにもすべし。」

とて、人して、よびて來てければ、一目見るとひとしく、

「あな、いたまし、家の子にては、あらずかし。其(その)主が第二のわか[やぶちゃん注:「若」。次男の若様。]にて侍るは。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、身をかくして、にげて去りけり[やぶちゃん注:その呼ばれて来た人物が、である。主人の子息であり、その人物はとても引き取って対応出来るような身分の者ではなかったのであろう。]。

「扨は。とらへて、せん、なし。もの取返へしたれば、此儘、はなちやるぞ。」

とて、はかせは、さりてけり。

 さらぬだに、身丈(みだ)けの雨衣着たる人は、手に物持つだに似合(にあは)しからぬが、今は、高足駄は、はるかのみちのべにぬぎ捨(すて)ぬ。

 手にもてる物は幸(さいはひ)に取(とり)かへされたれば、かへりてよけれども、多くの人が追々立(たち)まさりて、

「いかなる人なるや。」

「二腰の刀さして、見ぐるしからぬ人がらなるが。かかる淺ましき樣(さま)は如何に。」

といふもあれば、

「いや、みしりたる人なり。怪しきわざする人と常々きくなるが、果して、人のいふに違(たが)はで、かゝる恥辱をとるなりけり。」

などいふが、みな、其人の耳にいりて、其くるしさ、如何(いかが)なりけん。

 扨も、かくてあるべきにもあらねば、人立(ひとだち)の内(うち)をおし分(わけ)て、泥道、ふみ分(わけ)て去りける、ときゝしが、程もなくて、家の内にとぢこめられけり。

 今は如何になりしや。

[やぶちゃん注:所謂、今も多い、「病的窃盗」「窃盗症」(Kleptomania:クレプトマニア)である。経済的利得を得るなどの目的性が全く認められない(窃盗理由が一般の他者には理解不能である)、窃盗自体の衝動のままに反復的に窃盗行為を実行してしまう衝動制御障害に包括される精神障害の一種である。才能が有意にあること・次男であること・座敷牢処理されたところ等から見ると、父か母、或いは両方の愛情欠損を、本疾患発症の一つの大きな起因の一つと考えることは可能であろう。桃野は描写力が半端ない。イタリアン・ネオリアリズモの映画を見るような感じが実に凄い。]

反古のうらがき 卷之三 河豚魚

 

    ○河豚魚

 

 河豚魚(ふぐ)の毒ありて人を殺すことは、昔しより、人のしれることなるに、今は毒にあたる人もなくなりて、冬の頃なれば、うる人、市(いち)にみちて、あたひも昔のいやしきが如くにてはあらずなりにたり。

[やぶちゃん注:条鰭綱フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。古くからの食用種としてはトラフグ属トラフグ属トラフグ Takifugu rubripes・トラフグ属マフグ Takifugu porphyreus が知られる。孰れも猛毒で解毒剤のないテトロドトキシン tetrodotoxinTTXC11H17N3O8:ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌由来のアルカロイド)を持つ(卵巣・肝臓は猛毒で皮膚と腸も強毒性を持つ)。]

 こゝに何某といふ人ありける。常に物おし[やぶちゃん注:不詳。何かにつけて出しゃばって、口を挟んでは文句をつけることか。]をして、人のきらふことを好み、益なき腕立(うでだて)[やぶちゃん注:腕力の強さを誇示すること。腕力の強さを頼んで人と争うこと。]をして、人に勝(かつ)事をよろこぶが、其さがにてぞ有ける。酒は、あく迄に、くらひ、大食をこのめども、獨り、河豚の魚(うを)をば、食(くは)ざりけり。此頃(このごろ)の風(ふう)にて「河豚を食ざる人は臆病ものよ」と人の笑ふが口惜しさに、常に食ふさまにして、實(じつ)は其味をだに、しらざりけり。一と年(とせ)、雪のいたく降りつゞきて、寒さ、よのつねならぬに、風さヘつよく吹きて、たへがたきこと、いはん方なかりければ、夜になれば、河豚汁(ふぐじる)にて、酒、打(うち)のみて、寒さをしのぐ人、おゝかりけり[やぶちゃん注:ママ。]。此年は、河豚の魚、いたりて少なく、あたひも常にまして、思ふよふには[やぶちゃん注:ママ。]、食ふによしなくて、コチ[やぶちゃん注:カサゴ目 Scorpaeniformes コチ亜目Platycephaloidei の魚類の総称である(この場合は私はスズキ目Perciformes ネズッポ亜目Callionymoidei の「コチ」呼称群を考慮する必要はないと思う)。特にここではフグに化けさせるわけだから、本邦の典型的な大型種であり、寿司種にする「鯒」、コチ亜目Platycephaloidei のマゴチや近縁種のヨシノゴチ(どちらも Platycephalus sp.(以前は Platycephalus indicus と同一種とされていたが、研究の進展により現在は別種とされる。学名は未認定である)を想定してよかろう。]といへる魚を「河豚もどき」といふにして、食ひけり。何某がしれる人の家にて、貮人三人(ふたりみたり)寄合(よりあひ)て、酒、打飮(うちのみ)つゝ、かの「河豚もどき」をして食ひけるに、折節、何某も入來(いりき)にければ、主(ある)じが思ふは、『常に大酒・大食にこふじ[やぶちゃん注:ママ。「困(こうじ)」。]果(はて)たる人の來てけるは、折惡(をりあし)しとこそいふべけれ。いかにせまし』と思ふに、よにいみじき謀りごとこそ思ひ出(いで)けれ。『かれは常に河豚をば食はずといふことを、ひそかに聞(きき)けり。しらざるを幸(さいはひ)に、コチの魚を「河豚なり」といゝて、あざむきたらば、食ふことあたわで[やぶちゃん注:ママ。]、酒を飮むも、興(きやう)なく、日頃の大醉(だいすい)にも至るまじ』と、客どもにも計り合せて、「今宵は河豚の魚を得たれば、二人三人よりて食ふなり。折よくも來(き)ましたれども、君には常にきらひて食(しよく)し玉はぬよしなれば、氣の毒に侍(はべり)」ときこへければ、何某は例のさがなれば、「いや、さにあらず、常に大(おほい)に好むところに侍る」といふに、「さあらば、幸ひなり」とすゝめけるに、「こは珍らし」といひて、ふたとりのけ、筋[やぶちゃん注:「すぢ」。一切れの意か。]、とり上(あげ)たれども、口にいるべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]も覺へず、『南無』と心に念じて、一口に、一切二切、のみこむよふにして、やがて、みな、食ひ盡しけり。人々、「是はいかに」と、案に相違の思ひをなせども、せん方なく、しばし、ためらひてありけり。酒ふた𢌞(まは)し斗(ばか)りなる頃に、何某が、ふと、思ひ出(いで)たるよふに座を立ちて、「口惜しや、今宵の寒さに、あるじのうじ[やぶちゃん注:敬称の接尾語「氏」か。しかしならば、「うぢ」が正しい。]が思ひ付(つき)のもてなしにて、一醉(いつすい)よひて歸らんと思ひしに、一大事の事、申置(まうしおく)べかりしを、はたと、打忘れて來にければ、今より立歸らではかなはず侍るなり。もしも妨(さまたぐ)ることなくば、またも來りて、かたり侍らん」とて、立(たち)て去りけり。其家は近きあたりなりけるが、やがて小者が走り來りていふよふ、「主人は家に歸ると其まゝに、つよく、腹、いたみ、大熱(だいねつ)、をこりて[やぶちゃん注:ママ。「起(お)こりて」。]、もだへ苦しみ侍るにぞ、醫を迎へてとひしに、『食當(しよくあた)りなるべし』といふに、主人にとへば、『覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なし』といひて、こなたにての、たべ物を語り侍らず。『もし、食合(くひあはせ)もやあしかりけん、とひてこよ』と、醫がいふにまかせて、此旨(このむね)、きこへ侍る」といふにぞ、みなみな、一同におどろきて、「扨は、コチを河豚と思ひて食ひしによりて、食當りとなりたるならん。益なきこと、いゝつるものかな[やぶちゃん注:ママ。]」とて、何某がり、立越(たちこえ)て、其あらまし、說き示しければ、醫も是を聞(きき)て、「扨は。さりけり」とて、藥をあたへければ、俄(にはか)に大吐下(だいとげ[やぶちゃん注:底本のルビ。])して、くるしみは、やみけりとなん。

 又、しる人の語りしは、「近頃、シビ[やぶちゃん注:「鮪」。マグロ。]の魚を鹽漬(しほづけ)にしたるを『すき身』といひて、下人の食ふものなり。遠き國より、もて來ることなれば、いときたなげにみゆるによりて、馬の死したる肉を取(とり)まじへて漬(つけ)おきて江におくる、といふ。或人、是を食ひたるに、折節、客の來りて、「是は馬の肉なり。めし玉ふな」といゝければ、其人、よくよくみて、「扨も、おもわざりけり[やぶちゃん注:ママ。]。馬の肉がかくうまからんとは」とて、いよいよ食ひてやまざりけりとぞ。前の人にくらべば、其剛臆(がうおく)【つよき、よはき。】、いかにぞや。

[やぶちゃん注:「すき身」は「剝(す)き身」で、薄く削(そ)いだ魚肉の切り身や、そうしたものを軽く塩漬けにしたもの及びその乾燥品(干物)を広く指す。専ら、筋肉の「鮪のすき身」のように「骨に付いた魚肉をこそげ落とした片々やその半ペースト状の塊り」の意だとばかりと思っている人も多いが、そればかりではなく、鱈を開いて干したようなものもかく呼ぶ。

「剛臆」古くは「こうおく」とも読んだ。剛勇と臆病。]

反古のうらがき 卷之三 くわを盜みし人の事

 

    ○くわを盜みし人の事

[やぶちゃん注:例によって改行を施し、注を中に入れ込んだ。]

 しる人のかたりしは、高田といへる所の西に諏訪明神の古社ありて、其あたりを「すわ村」[やぶちゃん注:ママ。]となんいゝける[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「高田」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『今の高田馬場駅附近から早稲田にかけての地』とある。(グーグル・マップ・データ)。以下の「諏訪明神の古社」、現在の新宿諏訪神社をポイントして示した。高田馬場駅周辺(馬場がこの辺りにあった)は切絵図を見ても畑地である。

「すわ村」「諏訪村」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、この表記は正しくなく、『諏訪谷村』であるとある。【2018年9月24日追記】経になって、いつも情報や誤認を指摘して下さるT氏よりメールが来たり、この 朝倉氏の「諏訪村」補註には違和感を感ずるとされ、「新編武藏風土記稿」の「卷之十一」の「豊島郡之三」にある以下(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)を見るに、『幕府の行政的には諏訪村』であって、『「土俗私ニ諏訪谷村ト唱フルハ谷々多キ故ナリト云」と記載されてい』るので、ここは『「市中では『諏訪谷村』と呼ぶ」とするのが』註として『親切では?』とあった。私も昨日、ここが引っ掛かって旧の正式地名が諏訪谷村であるとする記載を探してみたものの、見当たらず、旧行政名でも「諏訪」であったから、違和感を持っていた。T氏の調査でもやもやが晴れた。T氏に感謝申し上げるものである。]

 秋のころになれば、おぎ・はぎ、いろいろの草花ある中に、きりぎりす、くつわ蟲などすだきて、鳴く音(ね)おもしろし。

 ある日、

「くさびら、ひらわん。」

とて、此あたりに行けるに、茄子の花、豆の花のある畑の内を、ひたばしりに走る人あり。

[やぶちゃん注:「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)。]

 北より南に走る、十たん斗りおくれて、所のものども、聲々に、

「盜人々々。」

とよばはるにぞ、あなたこなたの畑を作るものども、かけ集り、

「あますまじ。」

とおふ程に、其人は、又、西より東へ走る。行先(ゆくさき)ごとに、人ありて、のがるべきよふも見えずなりければ、二(ふ)たつべ斗りの畑のほりきりを、あなたへ飛越(とびこえ)んとして、

「どう。」

と、おちけり。

[やぶちゃん注:「十たん」「十反」。距離の単位で一反は六間(約十一メートル)であるから、百十メートルほど。

「二たつべ」国立国会図書館版では『二つべ』とある。「つべ」は不詳。「ほりきり」は「堀切」であるからそれを仮に「二坪(ふたつぼ)」の訛りとするなら、一坪は一辺が六尺(一間)の正方形が単位であるから、幅三メートル六十四センチメートル弱か。]

 こし骨をや打けん、しばしおきもやらずある内に、人々、走りよりて、からめてけり。

 やがて、きる物は、はぎとりて、六尺斗りの竹に、左右の手を引のばして、繩もて結(ゆ)ひ付(つけ)、きる物は、帶もてからげて、首にかけ、打倒しては、おき上らせ、仰のけに引倒しては、おき上らせ、しばしありて、

「所のおきて、すみたり。」

とて、おのおの、おのが畑にぞ退(しりぞ)きける。

[やぶちゃん注:後に出るように「所のおきて」(掟)、村の私刑(リンチ)である。]

 けしからぬ事なれば、殘り留(とどま)りし人に問ふに、

「これは、此所(ここ)にて畑作る人のくわ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「鍬(くは)」。]を盜みてさらんとせしが、主(あるじ)に見付られたれば、以後の見せしめに、かくするが、所の法なり。凡(およそ)畑の物を盜むものは、茄子・瓜の差別なく、皆、此法に行ふ。」

とぞ語りける。

[やぶちゃん注:「けしからぬ事」桃野は理由が判らなかったから(彼は恐らくは鍬の窃盗に失敗しており、何も持っていないのである)、村人が寄って集(たか)って、一人の無辜の者に不当に暴行を加えているようにしか見えなかったのである。]

 扨、盜人が樣(さま)を見るに、乞食・非人などの樣にもあらず、いたく打(うち)たゝかれたれば、今は起きも上(あが)らで、臥居(ふしゐ)たり。

「さても、此後(このあと)はいかにするぞ。」

ととへば、

「最早、ことすみたれども、此所を離るゝまでは、人のときゆるすことをゆるさず、所を離れて、恥をさらすよふ[やぶちゃん注:ママ。]にするが法なり。」

といふにぞ、此所にて、繩ときゆるべんも、いかゞなれば、

「そは、さることなりけるか。」

とて、其儘に其所を去りければ、其後、いづち行(ゆき)て助かりしか、しらざりけり。

 一年餘りありて、さる方(かた)に行(ゆく)とて、刀のつばを作る家の前へを過(よぎ)りしが、珍らしきわざなれば、立(たち)よりて見けるに、いろいろの形ちしたるあら鐡(がね)に、好みの繪もよふ[やぶちゃん注:ママ。「繪模樣(ゑもやう)」。]を彫る樣(さま)、おもしろかりけり。

 ふと、其人を見るに、見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]あるよふ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]にて、それとも、思ひ出(いで)ず打過(うちす)ぎける。

 それが心にかゝりて、家にかへりても幾度か、思ひかへし、思ひかへしするに、とかくに覺(おも)ひ出でで、やみけり。

 或日、家にありて、下部(しもべ)におゝせて[やぶちゃん注:ママ。]、山の芋をほらせしに、思ふよふにも、ほり得で、ほりなやみけり。

『これは、くわのよからぬによるならん。』

と思ふに、

『野山の人が用ひてつかふすき[やぶちゃん注:「鋤」。]・くわは、白銀の如く光りかゞやきて、いとほりよげに見ゆるなり。先にみし「つば師」が、いろいろの形(かた)ちに作りたるあら鐡(がね)の鐡(かね)の地のまゝに、錐(きり)にて打(うち)ひらめたるが、よく似たり。』

と思ふにぞ、さても、日頃、思ひかへし、思ひかへしして、思ひ出(いで)ざりし「つば師」の面(おもて)を思ひ出(い)で、

『正しく、諏訪村にて取らへられしくわ盜人は、其人なり。さるにても、何故に盜みはなしつる。』

と思ふに、

『かの細鍬(ほそくは)の鐡(てつ)の、鍔(つば)につくりよげに見ゆるより、盜みとりて鍔につくらんと思ひしなるべし。』

と、思ひあたりてける、となん、語りける。

[やぶちゃん注:「錐」小さな鍔の細かな細工なので「きり」なのであろう。平たく削るための彫刻刀のような形状をした「壺錐」のようなものか(サイト「初心者のためのDIY工具〜大工道具、電動道具、園芸道具の紹介」のこちらを参照されたい)。]

反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事

[やぶちゃん注:本条は既に『柴田宵曲 妖異博物館「狸囃子」』「諸國里人談卷之二 森囃」の注で電子化しており、本「反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異」との強い親和性も既にそこの注で述べておいた。先行する上記二本と差別化するために、改めて改行その他の読みの大幅な追加を行い、注も零から附した。]

 

    ○化物太鼓の事

 「番町の化物(ばけもの)太鼓」といふことありて、予があたりにて、よく聞ゆることなり。

 これは、人々、聞(きき)なれて、別に怪しきことともせぬことなり。

 霞舟翁(かしうわう)がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜、其聲の聞ゆる方(かた)をこゝろざして尋行(たづねゆき)けるに、人のいふに違(たが)はず、こゝかとおもへば、かしこ也(なり)。又、其方(そのはう)に行(ゆき)てきくに、又、こなた也。

 市ケ谷御門内より、三番町通り・麹町・飯田町上(うへ)あたり、一夜の内、尋(たづね)ありきしが、さだかに聞留(ききとむ)る事なくて、夜明(よあけ)近くなりて、おのづからやみぬ。

「果して、化物の所爲(しよゐ)なり。」

とて、人々にかたりて、おそれあへり。

[やぶちゃん注:「番町」現在の番町は東京都千代田区一番町から六番町まであり、その周辺の広域旧地名である。(グーグル・マップ・データ)。江戸城西方に当り、当時は旗本を中心とした武家屋敷地区であった。

「霞舟翁」桃野が属した詩会氷雪社の評者の一人であった友野霞舟。同会に属した木村裕堂は友野霞舟の女婿で、学問所吟味に及第して勤番組頭でもあったから、或いはこの木村とも桃野は親しかったかも知れない。

「市ケ谷御門内」現在の千代田区内の神田川の右岸、「市ヶ谷駅」の南東部。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三番町通り」現在の千代田区三番町附近はここ(グーグル・マップ・データ)だが、切絵図を見ると、現在のここを通る道は「新道二番丁」となっているので、その南東の御厩谷坂のある通り辺りがそこか。

「麹町」現在の東京都千代田区麹町附近。旧番町の南部分。(グーグル・マップ・データ)。

「飯田町上」現在の千代田区九段北の中央附近かと思われる。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 予が中年の頃、番町の武術の師がり行(ゆき)て、其あたりの人々が語りあふをきくに、

「凡(およそ)太鼓・笛の道は、馬場下(ばばした)に越(こえ)たる所なし。稻荷の祭り・鎭守の祭りとう[やぶちゃん注:「等」。]にて、はやしものする人をめして、すり鉦(がね)・太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは、稀なり。まして他處(よそ)の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと、打(うち)いでゝ、其所(そのところ)々々の風(ふう)あり。馬場下の人は、それにことなり、其一(そのひ)とむれはいふに及ばず、他處(よそ)の人なれば、其所々々の風に合(あは)せて打(うつ)こと、一手も、たがひなし。吾輩、かく迄、はやしものに心を入(いれ)て學ぶといへども、かゝる態(わざ)は得がたし。」

といゝけり。予、これをきゝて、

「扨は、おのおの方には、はやしものを好み玉ふにや。されども、稻荷の祭りの頃などこそ打(うち)玉ふらめ、其間(そのあひだ)には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことの、かたきなるべし。」

といゝければ、

「いや、さにあらず、吾輩(わがはい)がはやしは、每夜なり。凡(およそ)番町程、はやしを好む人多きところも稀なり。けふは誰氏(たれうぢ)の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時は、すくなし。」

といへり。

 予、これにて思ひ合(あは)するに、

「かの化物太鼓は、まさに、これなり。たゞし、あたりのきこへ[やぶちゃん注:ママ。]を憚るによりて、土藏・穴藏に入りて、深くとぢこめて、はやすなれば、其あたりにては、かへりて[やぶちゃん注:却って。]聞ヘずして、風につれて遠き方(かた)にて、きこゆるにきわまれり[やぶちゃん注:ママ。]。さればこそ、其はやしの樣(さま)、拍子よく、面白く、はやすなりけり。これを『化物太鼓』といふも、むべなる哉(かな)。」

とて、笑ひあへり。

 先の卷に、物のうめく聲の、遠く聞へしくだりをのせたり。これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みな、ケ樣(かやう)のことのあやまりなりけり。

[やぶちゃん注:「予が中年の頃」鈴木桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれで、嘉永五(一八五二)年に没(病死と推定される)しているから、満で五十二ほどであった。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、江戸時代、自称で「中年」は、四十代前後をそのトバ口と考えてよいか。とすれば、天保一一年(一八四〇)年前後の話となる。

「武術の師がり」武術の師匠のところへ。複数回既出で既注であるが、特異的に再掲する。「がり」は接尾語で、通常は、人を表わす名詞・代名詞に付いて、「~のもとに・~の所へ」を添える。漢字表記では「許(がり)」。以下ではもう注さない。誰もが、高校の古文で習ったはずだからである。

「馬場下」東京都新宿区馬場下町、早稲田大学の山キャンパス辺りとなる。(グーグル・マップ・データ)。

「其一(そのひ)とむれはいふに及ばず」その馬場下町内で集まって、町内の祭りで打つ場合は、言うに及ばず、びしっと合う。

「他處(よそ)の人なれば」やや言葉が足りないように思われる。余所の祭り等に出向いて「他處(よそ)の人」と一緒に打つというシチュエーションであれば。その時は、美事に「其所々々の風に合」は「せて打」って「一手も」違(たが)うことがなく、合わせることが出来る、というのであろう。

「されども、稻荷の祭りの頃などこそ打(うち)玉ふらめ、其間(そのあひだ)には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことの、かたきなるべし」『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。「しかし、秋の稲荷の祭りの頃などならば、練習を含めて、前からお打ちになられるであろうが、終わって、翌年の祭りまでの凡そ一年の間はお打ちになることはないから、失礼乍ら(そのように短い間の練習では)、とてものことに、そうした妙技にまで至らるるは、これ、なかなか難しいことでは御座らるまいか?」。

「さればこそ」日々精進してよりよい演奏をと考え、また、同時に何時も楽しんで練習しているからこそ、「其はやしの樣(さま)、拍子よく、面白く、はやすなりけり」の「さればこそ」であろう。

「むべなる哉(かな)」「宜(むべ)なるかな」。

「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」卷之一 物のうめく聲。私はそこでは大気の逆転層の可能性を持ち出した。ここでもそれが言えると思う。]

反古のうらがき 卷之三 二人のくすし

 

    〇二人のくすし

[やぶちゃん注:如何にも物語風なれば、改行を施し、注を入れ込んだ。]

 たとき御方につかへまつるくすしなんありけり。おひたるとわかきと、二人、むつみ深かりけり。たがひにざえ【才】[やぶちゃん注:「才」は「ざえ」の右傍注。]の世にすぐれたるをほこりて、はては

「智慧くらべして、かけ物せん。」

といひけり。

「扨、いかにせん。」

といふに、

「北の御方にもの奉りて、其御こたへとて、物たびてんとき、よき物得たらんものこそ、智慧まさりたりとは定むべし。」

といへば、

「いみじく計りけり。」

とて、其事には定めける。

 家にかへりて、

「何をか奉らん。」

と案じわづらふに、わかき藥師がおもふに、

「先に、北の御方御なやみありしとき、つきづきの女づかさが、ひそかに、とひし事あり。『琉球芋[やぶちゃん注:薩摩芋のことであろう。]の能毒(のうどく)はいかに。北の御方の御なやみにさわりはあらじ』などいへり。思ふに常にこのみ玉ひてめすにてあらん。これは女のこのむ物なれば、貴きいやしきの隔てはあらじ。さらずともつきづきの女づかさどもは、これをこのむ人もおほかるべし。さあれば、奉り物は、これにしかじ。」

と、琉球芋のよくこへふとりたるをゑらびて、米だわらに入(いれ)て貮つ迄ぞ奉りける。

 取つぎの女づかさにいゝ入るよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、

「北の御方にきこへ上(あげ)んよふは、琉球國より、さつの國に渡りて、いま、吾朝にもてはやす、味よき芋にて侍れば、御藥にかへ玉ひても、くるしからず。御つきづきの女郞にあたへ玉へば、色を白くし、みめをよくし、膚につやをせうず。」

など、口がるにのべければ、みな人、

「にくきゑせくすしがいひてふ哉(かな)。」

[やぶちゃん注:「憎き似非藥師が言ひてふかな」で、「いひてふ」は恐らく「言ひ言ひて」(「繰り返し言って・あれこれ言って」の意)の後半が「といふ」の約「てふ」に変じたものであろう。]

とて、よくも聞果(ききは)てゞ、三人四人(みたりよたり)づゝ立出(たちいで)ては、さしになひ、いとおもげに、もて入(いり)にけり。

「よくもしつるものかな。」

と、吾ながらにたゝへてかへりぬ。

 扨、老たるくすしも、

「何をがな。」

と思ひつゞくるに、これも、同じことをぞ案じいでけり。

「先に北の御方の御くすりめすとき、御忌みものを聞へ上げしに、女づかさがおどろきていふよふは、『餘(よ)の品々はさわりなし、「わりな」は常にめす物なり。穴賢(あなかしこ)、あやまりて、ぐこに、なそなへそ』と、其つかさつかさへふれたるを思へば、常に好みて、「わりな」をめすとこそ覺へ侍る。さあらんには、よふこそあれ。」

[やぶちゃん注:「わりな」割菜。乾燥させた里芋(八頭)や蓮芋などの葉柄。「随喜(ずいき)」「芋茎(いもがら)」(皮を剝いて干したもの)とも称する。戦国時代から保存食として食されてきた伝統的な保存食。水やぬるま湯などで戻し、酢を入れたお湯で茹でてあく抜きをした後、酢の物・和え物・味噌汁・煮物・きんぴらなどに用いられる。

「ぐこ」「供御」。女房詞で「御飯」のこと。「くご」とも。]

とて、唐のいも[やぶちゃん注:「とうのいも」で、ここはサトイモを指すと考えてよかろう。]の莖立(くきだち)て葉をさへひらきたるが、たけ、六尺斗りもあらんと思ふを、瓦の鉢に植(うゑ)て、一もと奉りける。きこへ奉るよふは、

「これは常に『ぐこ』にもそなへ侍る『わりな』の、いけるまゝをとり得て侍れば、餘りに珍らかなるによりて奉り上る也。『ぐこ』に備へ侍るは、きたなげにほしからして侍れば、いくたびかせんじてものにつくるにてさむらへ[やぶちゃん注:ママ。]ば、味ひ、さりはてゝ、ものにも似ず侍る也。これは其まゝにて、見そなわす如く、いみじく淸らに侍れば、葉まれ、莖まれ、そがまゝにせんじてめすとも、おのづからなる味ひありて、殊に人の身にますこと、多く侍るかし。女郞のうへには、更にめでたきことありて、いかなる『うまづめ』【石女】[やぶちゃん注:「石女」は「うまづめ」の右傍注。]なりとも、これをふくせんには、必(かならず)、近きに、はらめること、あるべし。これ、いものこの多きにても、しらるゝ道理にて侍る。」

など、聞へ上げたり。

「さても、にくきくすしどもが計ひや。」

と、女づかさ共がのゝしるをばしらで、

『計(はか)りおゝせぬ。』

とおもいて[やぶちゃん注:ママ。]歸りてけり。

 かゝるくせ者どもが奉り物も、そがまゝに捨置(すておく)べきにあらぬならひにて、聞へ上げしよふも[やぶちゃん注:献上した際の各薬師が述べ上げた能書きも。]、のこりなく取次(とりつぎ)て、みまへにぞ出(いだ)しけり。

 日をへて、

「御こたへの賜物あり。」

とて召すにぞ、うれしくみまへに出(いで)にけり。

 黑漆のからひつ[やぶちゃん注:「唐櫃」。]に、山なす斗り、もの取入(とりいれ)てみまへにすへたり。

 北の御方、御手づから、ゑりとらせ玉ひてたぶ、といふが、ふるきためしなれば、其日も、さるかまへしつるにてぞありける。

「此くせ者どもが、何れか智慧まさりて、案じ出(いだ)しことの、其(その)づに當りたるや。」

といふに、老たる方は、殊に久しく見もし、聞もしたること多ければ、これが勝(かち)たるにて、北の御方は常に「わりな」をすかせ玉ひけるにてぞありける。琉球芋はさまでにすかせもし玉はず。

 みまへにすへ侍る時も、きたなげにみへ[やぶちゃん注:ママ。]侍れば、さまでにめでもし玉はず、ひたすら唐の芋を、

『めづらし。』

とぞ思(おぼ)し玉ひけり。

 よりて、これにこたへ給はんとき、

「よき物とらせん。」

とて、から櫃のうち、ゑり[やぶちゃん注:「選り」。]求め玉ひて、

『これぞ、よきもの。』

とや思しけん、油紙の烟草入(たばこいれ)に、金の箔、おきつめたる[やぶちゃん注:「置き詰めたる」であろう。]を、取出(とりいで)て、たぶ。

 今一人には手に當る物を取りて、たびけり。

 これは和蘭陀(おらんだ)の羅紗(らしや)にて作りたる紙入に、白銀(しろがね)の金物(かなもの)打(うち)たるにてぞありけり。

 みなみな、みまへをしぞきて、いふよふ、

「芋の莖を奉りしは、北の御方の御心にかなひしに疑ひなけれども、餘りに『よき物たばん』とて求め玉へば、元より物のよしあしもしろしめさぬものから、金の光りのめでたく見へしを、『上(うへ)なきよきもの』とおぼし誤りて、たびけるなり。然れば、智慧は、右[やぶちゃん注:対になる一方。ここは我(われ:話者である老薬師)の意。]、勝(まさ)りたるなれども、手に當る物をたびたる方(かた)、かへりて、よきもの得てければ、物は、そこ、勝(まさ)りたり。『奉りし物がかろければ、たまものもかろき』ぞことはり[やぶちゃん注:ママ。]にあたりて侍るなれば、『みな、大ぞらよりさづけ玉ふものぞ』と思ひて、かまへて智慧をば、たのむまじきもの。」

とて、互に笑ひ侍るとなん。

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 三

 

      三

 前代の地方人が傳承に忠實にして、はなはだ創作に拙であつたことは、四箇所の炭燒長者の名が悉く藤太であつたと云ふやうな、些細な點からも窺ふことが出來る。是が心あつての剽窃であつたならば、寧ろ名前ぐらゐは變へたであらう。然るに幾つかの山川を隔てゝ信州園原の伏屋長者(ふせやちやうじや)なども、先祖は金賣吉次で其父は亦炭燒藤次[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『炭燒藤太』。]であつた。阿智川(あちがは)の鶴卷淵は亦例の通り、鶴は飛び立ち小判は沈むという故迹であつて、是も物語の要點はすべて皆、豐後の長者譚の第一節と異なる所が無い。豐後の眞野長者は小五郞であるが、それは炭燒の子に養はれてから後の名で、童名はやはり藤治と呼ばれて居たとある。數多の國所を經𢌞つて、此だけの月日を重ねて後迄、話の興味とはさして關係も無ささうな、名前すらも變化をしなかつたと謂ふのは、恐らくは歌の口拍子の力であらう。

 此序に尚少しばかり、名前の點に付て考へてみたいのは、同じ盆踊りの歌でも筑前朝倉郡に現存するのは、藝州に於て臼杵の小五郞を説くに反して、別に「豐後峰内炭燒又吾」と謂ひ、「又吾さんとも謂はれる人が、こんな寶を知らいですむか」ともうたうて居た。峰内は卽ち三重の内山觀世音の地をさしたものらしく、今も彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]に傳はつて居る長者の記錄では、又吾は小五郞を養育した親の炭燒の名であつて、爰に亦一代の延長を見るのである。大野郡の三重と海部[やぶちゃん注:「あま」。]郡の深田とは、山嶺を隔てゝ若干の距離がある。長者が船著きの便宜の爲に、海に臨んだ眞名原(まなばる)の地に、居館を移したと云ふのは説明であるが、然らば兩處で炭を燒いて居たと云ふ言ひ傳へは成立せぬ。兎に角に蓮城寺と滿月寺と、二箇の佛地の緣起には矛盾があり、之を流布した者の間にも、近世東西本願寺の如き爭奪のあつたことが、稍推測し得られるやうである。其上に更に一つの錯綜は、周防大畠浦の般若寺の方からも加はつて居るらしいが、是はまだ目が屆かず、且つ直接に炭燒の話とは緣が無いから殘して置く。之を要するに豐後の本國に於ては、却つて後代の紛亂があつて、昔の物語の單純なる樣式は、別に四方に散亂した首尾整然たらざる斷片の中から、次第に之を辿り尋ねるの他は無いやうになつたものと考へられる。

 舞の本の「烏帽子折」[やぶちゃん注:「えぼしをり(えぼしおり)」。]の中に、美濃の靑墓(あをばか)の遊女の長[やぶちゃん注:「をさ(おさ)」。]をして語らしめた一挿話、卽ち山路(さんろ)が牛飼ひの一段は、文字の文學として傳はつた最も古い眞野長者であらう。用明夫皇職人鑑[やぶちゃん注:「ようめいてんわうしよくにんかがみ(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」近松門左衛門作の時代物浄瑠璃で全五段。宝永二(一七〇五)年大坂竹本座初演。出語りで出遣い方式及びからくりを用いた舞台機構が、当時、評判となった。]を始めとし、近世の劇部は概ね範を此に採り、現に豐後に行はるゝ長者の一代記の如きも、或は飜つて其説に據つたかと思ふ節があるが、固より必ずしも之を以て、久しい傳承を改めざりしものと信ずるには足らぬのである。長者の愛娘が觀世音の申し兒であつて、容色海内に隱れ無く、天朝百方に之を召したまへども、終に御仰せに從はなかつたと謂ふのは竹取以來の有りふるしたる語り草ながら、之を假り來たつて後に萬乘の大君が、草苅る童に御姿をやつして、慕ひ寄りたもふと云ふ異常なる出來事を、稍實際化しようとした所に文人らしい結構がある。然るに其皇帝を用明天皇とした唯一つの理由は、生れたまふ御子が佛法最初の保護者、聖德太子であつたと謂はんが爲であつたらうに、其點に付ては何の述ぶる所も無い。しかも牛若御曹司の東下(あづまくだ)りの一條に、突如としてこの長物語を傭ひ[やぶちゃん注:「やとひ(やとい)」。]入れたには、何らかの動機があつた筈である。今は章句の蔭に隱れて居る笛の曲に、山路童(さんろわらは)[やぶちゃん注:真野長者伝承に於いて花人(はなひと)親王(後の用明天皇)が真野長者の草刈り童となって名乗ったとされる名。「山路が笛」という成句もあり、恋心を寄せさせる道具とされる。]の神祕なる戀を、想ひ起さしむる節があつたか。或は海道の妓女たちが、眞野長者の榮華の物語を、歌にうたつて居た昔の習慣が、斯うして半ば無意識に殘つて居るのか、はた又金賣吉次三兄弟の父が、かの幸運なる炭燒であつたと云ふことが、將に漸く信ぜられんとする時代に、最後の烏帽子折の詞章は出來たのであらうか。何れにしても此中に保存せらるゝ、山路と玉世姫の世にも珍しい婚姻は、卽ち長者[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「長者」の前に『豐後の』という限定が入る。]の大なる[やぶちゃん注:「おほいなる(おおいなる)」。]物語の一節であつて、而も或時に語部(かたりべの)[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「語部」の前に『中世の』という限定が入る。]の興味から、早既に著しい改作を加へて居たことを知るのである。

 

柳田國男 炭燒小五郞が事 二

 

      二

 

 炭燒長者の話は、既に新聞にも出したのだから、出來るだけ簡單に、その諸國に共通の點のみを列擧すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を燒いて居たことである。豐後に於ては男の名を小五郞と謂ひ、安藝の賀茂郡の盆踊に於ても、其通りに歌つて居る。卽ち

   筑紫豐後は臼杵の城下

   藁で髮ゆた炭燒小ごろ

なる者である。第二には都から貴族の娘が、兼て信仰する觀世音の御告げによつて、遙々と押掛け嫁にやつて來る。姫の名が若し傳はつて居れば、玉世か玉屋か必ず玉の字が附いて居る。容貌醜くゝして良緣が無かつたからと謂ひ、或は痣[やぶちゃん注:「あざ」。]が有つたのが結婚をしてから無くなつたなどゝ謂ふのは、何れも後の説明かと思はれる。第三には炭燒は花嫁から、小判又は砂金を貰つて、市(いち)へ買物に行く途すがら、水鳥を見つけてそれに黃金を投げ付ける。それが此物語の一つの山である。

   をしは舞ひ立つ小判は沈む

とあつて、鳥は鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」。]であり或は鴨であり鷺鶴[やぶちゃん注:「さぎ」・「つる」。]であることもあつて一定せぬが、兎に角必ず水鳥で、其場所の池又は淵が、故跡と爲つて屢永く遺つて居る。第四の點は卽ち愉快なる發見である。何故に大切な黃金を投げ棄てたかと戒められると、あれが其樣な寶であるのか、

   あんな小石が寶になれば

   わしが炭燒く谷々に

   およそ小笊で山ほど御座る

と謂つて、それを拾つて來てすぐにするすると長者になつてしまふ。

[やぶちゃん注:「炭燒長者の話は、既に新聞にも出した」この新聞掲載の論考はちくま文庫版全集には未収録と思われる。調べて見たところ、『大阪朝日新聞』に掲載されたものと思われ、国立国会図書館のリサーチ・ナビの「新聞集成大正編年史」の大正十年度版上巻(一九八二年十一月「明治大正昭和新聞研究会」発行)の「一月」の目次に『炭焼長者譚⑵柳田国男 二五』とあるのを見出せた。試みに同書の大正九年度版下巻を調べたが、「炭焼長者譚」の記載はない。また、「青空文庫」の歴史学者喜田貞吉(きださだきち)の論文「炭焼長者譚 系図の仮托と民族の改良」(『民族と歴史』(第五巻第二号・大正一〇(一九二一)年二月号初出)の冒頭で、『東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた』とあることから考えると、これは少なくとも、『東京朝日新聞』では大正十年一月に第一回が発表されているものと私は推測する。なお、これは筑摩書房の柳田國男の新全集の第二十五巻に収録されている(二〇〇〇年刊・未見)。]

 右の四つの要點のうち、少なくとも三つ迄を具備した話が、北は津輕の岩木山の麓か

南は大隅半島の、佐多からさして遠く無い鹿屋の大窪村に亘つて、自分の知る限でも既に十幾つかの例を算へ、更に南に進んでは沖繩の諸島、殊には宮古島の一隅に迄、若干の變化を以て、疑も無き類話を留めて居るのである。事小なりと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]看過すべからざる奇事であつて、自分が日本のフォクロア興隆の爲に、何とぞして其由來を究めたいと云ふ誓願を立てたのも、亦のがれ難き因緣であつた。

 炭燒小五郞は莫大の黃金を獲得して後に、其名を眞野長者(まのゝちやうじや)と呼ばれ、或は又萬之長者とも謳われて居る。眞野長者の榮華の物語は、中世民間文學の眞只中であつて、豐後と謂へば忽ちに此長者を想ひ浮べるほど、都鄙を通じてよく知られて居たのであるが、不思議なることには其出世の始を語つた、炭燒婚姻の一條のみは、之を豐後の出來事として、認めざる者が甚だ多い。現に津輕に於ては之を伯爵家の系圖の中に編入し、第四代左衞門尉賴秀、幼名は藤太、元仁元年[やぶちゃん注:一二二四年。]九月生る。六歳の年父秀直、安東勢と津輕野に戰ひて討死す。仍て乳母に扶けられて姉の夫橘次信次(きつじのぶつぐ)[やぶちゃん注:ちくま文庫版ではここを『橘次(きつじ)信高』とし、名前にルビを振らない。ちくま文庫版の方が一般的知見としては正しいが、底本がわざわざルビまで振っているのであるから、ここはそのままとすることとした。私の段落末注参照。]の許に匿れたり。橘次は新城の豪族にして、黃金を採掘して之を賣りて富を致す。藤太を常人とともに使役して敵を欺かんと、戸建澤(とたてざは)の山中に遣りて炭を燒かしむ。故に人呼びて炭燒藤太と謂ふとある。民間に於ては近衞殿の女福姫、もと甚だしい醜婦であつたが、津輕にさすらへ來たりて或川の水に浴し、忽然として美女となり、後炭燒藤太殿に嫁したまふなどゝ謂ふ。鳥に小判を投げたといふことも、有るといふ話である。此等の古傳の少くとも一部分が、外部からの混入であることは、愛鄕心の強い學者たちも之を認めている。津輕と近衞家との關係の其樣に古くは無いこと、或は藤太の母が唐絲御前(からいとごぜん)で、卽ち最明寺時賴の落胤であつたと云ふ説の無稽なことなどは、今や誰も之を爭ふ者が無い。而も自分などが最も明瞭なる輸入の證とする點は、此の如き[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]消極の材料では無くて、炭燒藤太と云ふ名前であり、又橘次と謂ふ金賣のあつたことである。豐後の方では此事は更に説かぬが、東日本へ進むほどづゝ、金賣吉次が突進して、炭燒の藤太と接近せんとする。就中[やぶちゃん注:「なかんづく」。]羽前村山郡の寶澤(はうざは)と、岩代信夫郡の平澤とには、共に炭燒の藤太が住んで居た遺跡があつて、水鳥に向つて小判を打付けたと云ふ池も、双方ともにちやんとあり、而も緣あつて遠國から來た花嫁の忠言に由り、後に無量の黃金を得たときには、何れも此水を以て之を洗つたやうに傳へて居る。吉次吉内吉六三兄弟の金賣は、卽ち藤太の子どもであつて、彼等は單に父の幸運を以て授かつたものを、都へ運んで居たに過ぎぬことも、二處同樣の口碑である上に、記念として今日に殘るものに、福島に在つては鄰村石那坂(いしなざか)の吉次宮あり、山形の吉事の宮は、後に兩所宮と改稱して、鳥海月山の二靈山を奉祀すと謂うふも、尚且つ義經が願を受けて、吉次信高之を再建すと語り傳へるのである。兄弟の金賣が家の跡と稱する地は、勿論京都にもあれば、平泉の衣川の岸にもある。然るに陸前栗原郡の金成村[やぶちゃん注:「かんなりむら」。底本では『金田村』となっているが、ちくま文庫版ではかくなっており、調べたところ、「炭焼藤太夫婦の墓」が現存する宮城県栗原市金成(旧栗原郡金成村。ここ(グーグル・マップ・データ))であることが確認出来たので、訂した。]には長老屋敷と名づけて又一つ彼等の故鄕があり、近世に入つてから殊に色々の珍しい財寶を掘出したと云ふ噂を聞くが、此地に於ても父は炭燒であつたと謂ひ、其炭燒の名は藤太である。淸水(きよみづ)の觀音の御告げを受けて、京から媛に來た姫が徒涉(かちわた)りをしたと云ふ小褄川(こつまかは)、藤太が姉齒(あねは)の市(いち)へ米を買ひに行く路で、雁に小判を投げたと云ふ金沼[やぶちゃん注:「かなぬま」。]などもやはり有るので、理由は知らずずつと古い時分の、互に比較をする折も無い頃から、斯うして話は方々の土に、何れも立派な根をおろして居たのである。

 それを移植若くは接木[やぶちゃん注:「つぎき」。]と見ることは、我々にはどうしても出來ぬ。第一には模倣をせねばならぬ理由も無く、又さうする機會も有りさうに無い。既に他鄕でもてはやされて居ることを知れば、寧ろ語り傳へる張合ひが無くなるべきことは、近頃漸く同種の珍談が、他府縣にも有ることを知つた人々の、驚く顏失望する顏を見てもよくわかる。但し少くとも古い淸水、濠の跡とか無名の塚とか、所謂由[やぶちゃん注:「よし」。]有りげなる處には、其邊を浮遊する昔物語の破片が、いつの間にか來て取附くことは、恰も米を寢させると麹と爲り、木を伐倒しておけば椎蕈[やぶちゃん注:「しひたけ(しいたけ)」。]が成長するのと、ほゞ同じやうな作用である。口から耳へ傳承する文學の、書籍以上に保存が六かしく、何かの原因で保存を業とする者が無くなれば、忽ち散亂して原の形を留めず、只其中の印象き部分のみが、斯うして我々の記憶に殘ることは、今の世中でも普通の現象であつて、之を考へると此種の偶合[やぶちゃん注:「ぐうがふ(ぐうごう)」。偶然の一致。]は必ずしも奇異では無く、單に斯くばかり弘い地域に亙つて、如何なる事情が同じ話の種を、播いてあるいたかを尋ねてみる必要があるのみである。

[やぶちゃん注:「橘次信次」(ちくま版全集「信高」)や「藤太の子ども」の「吉次」等は、既にお判りの通り、例の「金売吉次(かねうりきちじ)」伝承の時系列混乱の別伝と採るべきものである。ウィキの「金売吉次」によれば、『平安時代末期の商人。吉次信高、橘次末春とも称され』、「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに『登場する伝説的人物。奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。それぞれ、「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三条の橘次と云し金商人」、「源平盛衰記」では「五条の橘次末春と云金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」とし、「平治物語」に『よると、義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある。』。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では、『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では、『吉次から話を持ちかけている。吉次は義経と共に奥州へ向かう。下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず、まったくもって不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている。吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない。したがって現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い。また、岩手県宮古市田老地区の乙部には、彼の弟とされる吉内(きつない)の子孫である吉内家(よしうちけ)がある』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲になり』、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。]

2018/09/22

反古のうらがき 卷之三 うなぎ

 

    ○うなぎ

[やぶちゃん注:私が「反古のうらがき」を読み進めて、初めて本気で最後に噴き出して笑ってしまった話である。シークエンスの臨場感と滑稽さを狙って、盛んに改行を施し、掟破りのダッシュも用いた。]

 予が師内山先生は、きわめて心すぐなる人なりけり。

 又、ものごとに極(きはめ)てつたなきこと、おゝかり[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 何某より、いと大きなるうなぎの魚を二つ迄おくりけるを、

「自(みづ)からさきて、蒲燒てふものにしてたふべん。」

とて、桶より、一つ、取いでて、爼(まないた)の上に置き、

「魚(さかな)やがうなぎさくは、手にて撫でさすれば、いとしづかにありて、心易くさかるゝもの。」

とて、少し手をつけたれば、

「ぬらぬら。」

とはひ出(い)で、あたりをはひ𢌞(まは)るにぞ、こたびは、つよくとらへて爼板の上におし付(つけ)、三ツ目ぎり[やぶちゃん注:最も一般的な先端部を持った錐。サイト「初心者のためのDIY工具〜大工道具、電動道具、園芸道具の紹介」のこちらを参照されたい。]もて、のどのあたりをつらぬき、

「扨、爼板にさし通さん。」

とするに、かねて穴を明け置(おき)たるにあらねば、俄(にはか)に通しなやみて、

「誰(たれ)ぞ、こよ。」

とよぶにぞ、今の皡齊(こうさい)先生が、十七、八の頃なりけるが、來りて、魚をつらぬきたるまゝに、きりをもむ程に、やがて、爼板をば、さし通しぬ。

 うなぎは、くるしさのかぎりもがけども、のどのあたり、板につらぬかれたれば、のがるべきよふなく、しきりにうねり𢌞りて、さくべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]も見へず。

 されども、二人がゝりなれば、庖丁にて、骨のあたり、少しきりさきたるに、勝手のちがひたるよふなれば、よくよく見るに、

「こはいかに。」

初め、あまりにあわてたれば、むきをちがへて、さしたり。

「向ふより、さけ。」

といへば、

「こちらよりも、向きちがひて、さきがたし。」

といふにぞ、

「さらば、さしなをさん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、きりをぬきたれば、うなぎは

『こゝぞ。』

とおもひて、ちからの限り、ぬめり出で、かまどの下にはひ入(いり)ぬ。

 薪(まき)ども、取りのけて尋出(たづねいだ)して見てければ、それとも見へぬ程にちりにまみれて、ぬめりもなく、とらへよくぞ、なりにける。

 其まゝにとらへて、きりを、再び、さすべかりしを、

「餘りによごれたり。」

とて、桶の水にて洗ひたれば、こたびは、とらゆることもならぬよふに、はひ𢌞りて、板の間のすきより、椽の下へ落けり。

「いかにせん。」

といふに、

「此板一枚、はなせ。」

とて、こぢはなちたれば、又、ちりにまみれて、とらへよくぞ覺へ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 前のことにこりたれば、其まゝ爼板におし當て、

「早く、きりさせよ、させよ。」

といふに、其間(そのあひだ)に、きりは、いづち行(ゆき)けん、みへず。

 からくして、椽の下より求め出(いだ)したり。

「早くさしね、もはや、自然にぬめり出(い)で、手の内を拔け出(いづ)る。」

といふに、またもあわてゝさしたれば、こたびは、少し、わきの方を、さしたり。

 うなぎは、

『今を限り。』

と尾を卷付(まきつけ)て、力にまかせて、おのが首ぎわの内、少し斗(ばか)りつらぬかれたるを引(ひき)ちぎりて、又も、くるひ出(いで)けり。

 今は、はや、せんすべもなく、

「椽の下に入らざる内に。」

と、先(まづ)桶の内にかひ[やぶちゃん注:「搔(か)き」の転訛。]入(いれ)て、ともに思案にくれけるが、

「おもひ出(いだし)たることこそ、あれ。」

とて、

「鍋蓋をおし板にして、石にて作りたる七輪をおもしに置(おき)て、二つともにおしひしぎて、半ば、死入(しにいり)たる時、さかばや。」

とぞ、かまへたり。

[やぶちゃん注:台詞内の「おもし」は名詞の錘(おもり)としての「重(おも)し」。以下も同じ。]

 二つの大うなぎが力なれば、ものともせず、折々はおしかへすよふにて、さらによはりたる氣色(けしき)なし。

「いまだ、おもし、たらざりけり。」

とて、其上に又、大鉄甁(おほてつびん)に水をあふるゝ斗(ばか)りに入(いれ)たるをおきたれば、是(これ)にて、うごきはやみけり。

 しばしありて、

「もはや、よからん。」

とて、おもしども、取(とり)のけしに、うなぎは、少しもよはりたる色なく、かの孫行者(そんぎやうじや)が兩界山(りやうがいさん)にてやくをのがれたる心地して、又も、くるひ出(いづ)るにぞ、からくして、鍋蓋におしすくめ、七輪をば、元の如くに、おしすへたり。

[やぶちゃん注:「孫行者」かの「西遊記」の孫悟空の別名。

「兩界山」悟空が天界で暴走して手をつけられなくなってしまい、天帝は釈迦如来に助けを求め、釋迦は賭けを仕掛けて、結局、彼の掌から飛び出すことが出来なかった増長慢の悟空を取り押さえ、「五行山」に封印してしまう。この「五行山」の別名が「両界山」である。伝承上では、現実世界と異界との国境の山とされ、ここから先は妖仙が住む別な世界と信じられた山である。

「やくをのがれたる心地」「やく」は「厄」としか読めないが(「役」と採って有名無実の閑職たる官職「斉天大聖」から逃れたとする解釈も考えたがやっぱりおかしい)、これでは比喩した「西遊記」の話(悟空は身動き出来ないように封じられてしまうのであって、大厄(大罰)を受けるのである)とは齟齬するからおかしい。

「扨も、手にあまるうなぎかな。」

と詠(なが)め居(をり)しに、いみじき智惠こそ思ひ出(いで)けり。

 其七輪に、炭、多く入れて火をおこし、かの大鉄甁に入(いれ)たる水を其まゝかけおきて、團扇(うちは)もてあほぐ[やぶちゃん注:ママ。]程に、程もなくて「たぎり湯」とはなりにけり。

 これを鍋蓋のすきより、つぎ入(いれ)たれば、なにかたまるべき、なかば、うでたるよふになりて、二つともに、死入(しにいり)たり。

「今は心安し。」

とて、取出(とりいで)て、さきたれば、庖丁の刀にもさわらで、よく、さけけり。

 扨、くしにさして燒(やき)て食ひければ、

――思ふにも似ず

――まづかりける

となん。

[やぶちゃん注:「内山先生」既注の通り、底本の朝倉治彦氏の注に『内山椿軒の子、通称壺太郎。名』は『明時。天保四』(一八三三)『年八月二十六日歿、法号常徳霊明信士』とある人物。

「皡齊(こうさい)先生」既注の通り、先のに出た「一谷先生」。底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『内山壺太郎の子』である『一谷か。名』は『謙、字』(あざな)は『徳柄』とある。]

反古のうらがき 卷之三 砲術

 

    ○砲術

 余がしれる佐々竹氏[やぶちゃん注:不詳。]は、少年より砲術をよくし玉へり。おしへ子も多く侍りて、人をおしゆる事も他に越(こえ)て、くわし[やぶちゃん注:ママ。]かりけり。予に語り玉ひけるは、「『弓の當るは不思議なり、鐡砲のはづるゝは不思議なり』といふこと、常に人の言(いひ)ならわす[やぶちゃん注:ママ。]ことなり。かく迄當るべき器(き)をもて、おめおめと打(うち)はづすこと、言(いひ)がひなきよふ[やぶちゃん注:ママ。]なれども、人は萬物の靈にて、不思議の術をもなすといへども、又、不思議の病(やまひ)あり。是れ、七情[やぶちゃん注:人の持つ七つの感情。儒家では「喜・怒・哀・懼(く:恐れ)・愛・悪(お:憎むこと)・欲」。仏教では「喜・怒・憂・懼・愛・憎・欲」を挙げる。]の動くにつれ、一たび、『おそろし』と思ひしことは、吾にもあらで[やぶちゃん注:無意識のうちに。]、忘れがたきことあるによりてなり。凡(およそ)此術を學ぶ程の人が、其聲[やぶちゃん注:発砲音。]のおそろしといふにあらず、あやまりて、吾身を害せんと思ふにあらず、都(すべ)ておそろしきことはあらずと思へども、心の底におそろしと思ふこと、いかになりしても、忘られざることありて、其器を取れば、必(かならず)其(その)心、おこりて、術(じゆつ[やぶちゃん注:「すべ」でもよい。冷静適切な射撃術の意。])も消失(きえう)せ、思ふよふに[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]打當(うちあ)つることもならずなり行(ゆく)なりけり。かゝる心のつよくおこりし人には、から筒(づつ)に口藥(くちぐす)り計(ばか)りをこめて[やぶちゃん注:火薬だけの空砲。]打(う)たすに、何のかわり[やぶちゃん注:ママ。]たることもなく、よく打(うつ)也。其時、腰と腹とに手をあて、つよくおさへて、はらをはらする[やぶちゃん注:「張らする」。臍の下のツボである丹田(たんでん)に力と安定の意識を集中することか。]よふに教ゆ。はらもよくはり覺へたるときは、ひそかに玉藥(たまぐすり)をこめて[やぶちゃん注:実弾を装填し。]、其人にしらさぬよふに手に持たしめ、常のよふに打たすに、必ず、的の星に當る。これ、器(き)は當るべき道理なるに、おしえを守ればなり。其次に、又、から筒を打たすに、こたびも『玉ありや』と思ふにぞ、腹の下の方より、ゑもいわれ[やぶちゃん注:ママ。]ざる一筋の惡物(あくもつ)、うねくり上(のぼ)りて、胸中(きようちゆう)に入る。癪(しやく)[やぶちゃん注:腹部や胸部の非常に生ずる強い「さしこみ」、特に腹部を襲う強い突発性の激痛を指す。]の病(やまひ)のさし込(こむ)がごとし。此時、玉ある筒なれば、必ず、打(うち)はづすにぞありける。其次も、又、から筒なれば、四、五度にして、『扨は、皆、から筒なりける』と思ふにぞ、かの惡物の上るも休(や)みて、常の如し。しばしありて、又、玉藥を用ゆるに、腹も常の如く、放てば、星に當る。其次は、惡物、また、上りて、玉ありても當らず、偶(たまたま)當るといへども、ほしにはいらで、上下左右、さまざまと當りをなせば、さだかに打得(うちえ)たりとはいゝ[やぶちゃん注:ママ。]がたし。此事、傍(かたはら)より見たりとて、しらるべきにあらず、又、其人は、もとより、しることなく、唯、腹に手を當(あて)たる人のみ、しることなり。吾も人も、みなみな、かくあるべけれども、久しく學びてい[やぶちゃん注:ママ。]たる人は、此事、甚(はなはだ)しからぬのみにして、絶(たえ)てなきこととは、いひがたし。偶(たまたま)、『百發百中の人、世にこれあり』と、きく。其人、定めて、此事、なきなるべし」と語り玉ひき。予、これをおもふに、かの『おそろし』と思ふ心、火器の故(ゆゑ)のみならず、唯、『打(うち)はづさじ』と思ふ欲心(よくしん)、惡物となりて害をなすなれば、凡(およそ)藝事(げいごと)、何によらず、皆、此事、あるなり。物かくこと、物よむことなどにおそろしきことはあらねど、みな、此惡物に害せられて、其場に臨めば、常の習らひも打忘れ、藝事、常よりおとりて見ゆること、おゝし[やぶちゃん注:ママ。]。七情の發すること、其(その)正しきを得ざる故ぞかし。予が物かくことを學びて年久しけれども、其場に臨めば、手(て)振(ふる)ひて、思ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]にも書き得でやみぬるを、雲樓[やぶちゃん注:既出既注。不詳。因みに、江戸後期の山水画家三宅西浦(みやけせいほ 天明六(一七八六)年~安政四(一八五七)年:本名・三宅高哲(たかてつ))は「看雲楼」の別名を持っていた。彼かどうかは判らぬが、ウィキの「三宅西浦」をリンクさせておく。]が每(つね)にいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けるは、「子が書を學ぶは、無益なり。學び至らざるにはあらず、肝氣(かんき)高ぶりて、學びの如くなること能はざるなれば、是より、學びを休(や)めて、藥(くすり)を服し玉へ」といゝき[やぶちゃん注:ママ。]。此事、思ひ合せて、同じ道理なること、しらるゝなりけり。

[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の冒頭解説によれば、桃野の著作「無何有鄕」の下巻所収の自身の叙述によれば、『幼年より多病、八歳より』母方の親族『多賀谷向陵に従って楷法を学んだが覚えず、同じ頃、父』白藤(はくとう)『に読書を受けたが、これまた』、『勉強嫌いのため、母から』「家嚴(かげん[やぶちゃん注:(通常は自分の)父の異称。]、學問をもつて、家より作つて、名、四方に、しく。爾(なんぢ)讀(よむ)を厭(いと)はば、家を出でて、他に行け。敢へて其の嫌ふ所を(し)いざるなり」『と叱責されてより、勉学に努めるようになったとし、それでも『九歳より寺子屋に行ったが』、諸知識を覚えることが出来ず、『深く恥とした』とある。しかし、そこから刻苦勉励して満三十九歳の天保一〇(一八三九)年に部屋住みから、昌平坂学問所教授方出役となったのだから、独特の知的才能があったのである。にしても、「雲樓」なる人物、「肝氣(かんき)高ぶりて、學びの如くなること能はざるなれば、是より、學びを休(や)めて、藥(くすり)を服し玉へ」とは、「お前は一種の精神病(今でいうなら、癲癇的疾患或いは強迫神経症等)だから、学問するのは止めて、それに効く薬(今で言うなら、抗癲癇剤や精神安定剤のようなもの)を服用して生涯を送られ給え」とはトンデモないひどい謂いだな。

反古のうらがき 卷之三 賊をとらへし話

 

    ○賊をとらへし話

 いづれの國主にかつかへたる人の、いまはつかへをやめて、余が叔父醉雪翁[やぶちゃん注:複数回既出既注。「魂東天に歸る」参照。]がり來りて、常に物語りする人ありけり。其名はわすれ侍る。

 此人、弓手(ゆんで)[やぶちゃん注:左手。]の指より手の甲へかけて、いくつとなく舊(ふる)きずの痕あり、常に問ひたくおもひけるが、其人、事の次手(ついで)に語りけるは、若かりし頃、「袖がらみ」といふ物を使ふことを學びて、いかなる打物(うちもの)を持(もつ)たる人にても、からみ伏せることを心懸けけるが、或時、「時𢌞(じまは)り」といふを命ぜられて、得物なれば袖がらみを持(もち)て、屋敷の隈々殘りなく𢌞りけり。夜の九つ[やぶちゃん注:午前零時。]を𢌞る時、長屋より遙に隔りたる所に、いろいろのぬりこめの藏[やぶちゃん注:「塗籠(ぬりごめ)の藏(くら)」。入口以外を防火用・盗難防止用に厚い壁で堅牢に塗り固めた蔵。]あり。そが中に幕[やぶちゃん注:幔幕。]ども、多く入(いれ)たる藏ありしが、殊に奧まりたる所なり。其あたりを𢌞る時、ふと見れば、藏の、半ば開(ひ)らきてあり。挑燈のともし火もて、てらし見るに、内に、人ありけり。『盜人よ』と思ふにぞ、おし開(ひ)らきて、つと、入(いり)たり。『見付られけり』と思ひて、刀、引拔(ひきぬき)て、飛出(とびいで)るを、袖をからみて、はたらかせず、逐に左右の手を一つにからみ、刀を持(もつ)たるまゝに、胸のあたりにからみ付(つけ)、力を入(いれ)て突(つく)程に、仰のけに突倒し、長持の有(あり)ける上に突付(つつぷし)たり。賊は足もて、蹴(け)んとするに、及ばず、刀もて、切らんとするに、からみ付(つけ)られたれば、是も叶はず、胸のあたり、つよく突付られたれば、今は、はたらくこと、能はで、しばし息を休めて、透間(すきま)を伺ひけり。こなたは、日頃の手鍊(てれん)にて、一旦は突伏(つきふせ)たれども、『少しにても力のゆるみたらんには、はねかへされん』と思ふにぞ、金剛力を出して推付居(おしつけを)るに、跡よりつゞかん人もなく、挑灯の火さへ滅(き)へ失(うせ)ぬ。『又も夜𢌞りの來らんは、半時がわり[やぶちゃん注:ママ。]なれば、はるかのことなり。聲を上(あげ)たりとて、藏の内なれば、何方(いづかた)へか聞へん。さりとて、今さらに手を放ちて刀を拔(ぬか)ん間(あひだ)には、一打(ひとうち)に切らるべ。如何にせん』と思ふものから、こうじて果(はて)てぞ見えける[やぶちゃん注:我乍ら、成すすべなく、すっかり困り果ててしまった感じになってしまった。]。さる程に、賊も今はのがるべき術(すべ)もなく、刀持(もつ)たる手の首斗(ばかり)りはたらくにまかせて、こなたの袖がらみ持(もつ)たる先手(さきて)[やぶちゃん注:生身の手先。]のあたりをかひ拂ふ。『こは、かなわじ[やぶちゃん注:ママ。「敵(かな)はじ」。]』と思ひて、手を遠くなしてこれをさくる[やぶちゃん注:「避くる」。]に、又、刀のつかの先を持ち、かひ拂ふ[やぶちゃん注:「搔き拂ふ」の謂いであろう。]。其度每(そのたびごと)に、手の甲・指の先、少しづつ[やぶちゃん注:底本も国立国会図書館版も『つづ』であるが、特異的に訂した。]の疵を受たれども、賊が刀を振るも、手の首斗りの力なれば、よくもはたらかず、いく度となく切拂ふに、彌(いよいよ)手元近く覺えて、最早、袖がらみの柄、纔(わづか)に二尺斗(ばかり)を持(もつ)てこらへぬれば、力は彌(いよいよ)つかれて、こらへ果(はつ)べくも見えずなりぬ。かくて、夜はいよいよ靜(しづか)になるに、『もはや半時斗りも經ぬらん』と思へば、さにはあらで、遲九つの鐘のつきもはてぬ鐘の音など耳に聞へて、眞くらなる藏の内に、二人、ともに、『氣根(きこん)[やぶちゃん注:根気。気力。]の限り』と、おしあひてぞ、ありける。しばしありて、はるかに人の聲の聞へて、こなたへ來るにぞ、『あな、うれし』とおもひて、聲を放ちて呼(よび)けるに、相士(あひし)の者が二人迄、來にける也。「いかにありける。餘りに歸りの遲きが心元(こころもと)なくて、いひ合せて來にける」といゝて、藏の内に入れば、賊は、初めより、長持の上に仰のけにおし倒されて、腰をかけたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]に壁の隅によりかゝりたれば、刀を用ゆること、能はず、おめおめと、とらへられけり。扨、手先の疵を見れば、幾處(いくところ)となく切付(きりつけ)たれども、みな少しばかりなれば、さわりなし。みなみな、「よくしつる哉(かな)」とて、たゝヘけり。此事、國主、聞(きき)玉ひて、大(おほい)によろごひ[やぶちゃん注:ママ。]玉ひ、もの、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]たびけり。今より、二十年斗り前のこと、とて語りける。

[やぶちゃん注:「袖がらみ」「袖搦・袖絡(そでがらみ)」或いは「もじり」とも呼んだ、一般には長柄の先に特殊な金属器が装着された捕り物道具。ウィキの「袖搦によれば、『袖搦は、先端にかえしのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。容疑者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取る事で相手の行動を封じる。鞘の刺は相手に』摑『まれて奪われない様にするための工夫である。棍棒や槍としても使用可能である』。『刺又』(さすまた)・『突棒などとともに捕り物の三つ道具とよばれ、抵抗する人を取り押さえる際に使用された武具である。どれも』七尺(二・一メートル)の『長さがあり、相手が振るう打刀、長脇差の有効範囲外から攻撃が可能である』とある。(ウィキの挿図)。但し、以下の賊を押さえつけたシークエンスを見るに、この主人公の持っていた「袖搦み」は、使い勝手のいいように、この柄の部分をやや短く加工したものではないかと私には思われる。

「打物」武器。

「時𢌞り」「じまはり(じまわり)」と読んでおいたが、所謂、「地𢌞(ぢまは)り」(隠語を含め、 (「Weblio辞書」の縦覧検索結果)を参照)の意味ではなく、夜間の定「時」巡「廻」(じゅんかい)の意である。

「得物なれば」やや言い方が雑。賊等に対抗するための武具を持ってのこと(巡回)に当たることになっているので。

「今より、二十年斗り前のこと、とて語りける」この話の冒頭は「余が叔父醉雪翁がり來りて、常に物語りする人」の話としており、桃野叔父醉雪は天保一〇(一八三九)年三月に亡くなっているのであるから、それよりも前(因みに桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれ)の「二十年斗り前」となるから、文政二(一八一九)年以前の話ということになる。]

反古のうらがき 卷之三 きつね (二篇目)

 

   ○きつね

 近き代の事なりけん、河内の國也(なり)。ある時、御代官の巡見在(あり)とて、村々より人賦(にんぷ)を出し、村繼(むらつぎ)に繼立(つぎたて)ける。凡(およそ)拾八村をぞ巡りける。最後の村にて、夜のしらめる頃、ふと心付(こころづき)て見れば、御代官と思ひしは、古き山駕籠の内に壹人(ひとり)のいざりのおしなるを入(いれ)たる也。銘々(めいめい)持(もち)しものを見れば、長柄(ながえ)は古き竹帚(たけぼうき)となり、合羽籠(かつぱかご)[やぶちゃん注:大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。]は番ども樽となり、どれも異形のもの成りしかば、「扨は狐狸にやたぶらかされしぞ」とて、繼立(つぎたて)し村々を聞合(ききあは)せしに、いづれも、「人賦をばいたしけるが、夜のほどにて心付かず、誠の巡見とのみ心得し」とぞ。「夜明ぬれば、狐の離れし故、心付けるにぞ、猶、夜の明(あけ)ざらましかばと、幾ケの村々をも化しけん。かく橫行(わうぎやう)に化したるは世に珍らしき事にて、おそろしきもの也」とて、上方より下りて、天文方(てんもんかた)を勤めし足立左内といひし人、語りける。

[やぶちゃん注:「近き代」本項最後のクレジットは嘉永三(一八五〇)年。しかしそれから最低でも五年を引いた弘化二(一八四五)年よりも前となる(後注参照)。

「人賦」夫役(ぶやく)。百姓が負担する雑税である「小物成(こものなり)」の一つで、労役を課せられる人足役(にんそくやく)。

「村繼(むらつぎ)」幕府や領主の御触(おふれ)などを村から村へと引継いで順達させること。

「いざり」「躄」。下肢の不自由な歩行困難者。

「おし」「啞」。

「合羽籠(かつぱかご)」大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。

「番ども樽」不詳。識者の御教授を乞う。

「橫行(わうぎやう)」読みは「わうかう(おうこう)」でもよい。自由気儘に歩きまわること、或いは、恣(ほしいまま)に振る舞って悪事が盛んに行われること。

「天文方」幕府によって設置された天体運行及び暦の研究機関。主に編暦を担当した。詳しくはウィキの「天文方」を参照されたい。

「足立左内」江戸後期の幕臣で天文学者足立信頭(あだちのぶあきら/しんとう 明和六(一七六九)年~弘化二(一八四五)年)の通称。で生家の姓は北谷。ウィキの「足立信頭」によれば、大阪生まれで、『大坂鉄砲方足立正長の養子となる。暦学を麻田剛立に学ぶ』寛政八(一七九六)年に『幕府天文方、高橋至時の下役となった』文化一〇(一八一三)年に『松前藩に出張し、馬場貞由らとゴローニン事件で幽閉されていたヴァーシリー・ゴローニンからロシア語を学び、文政年間には通詞を務めた』。天保六(一八三五)年に『天文方を拝命する。渋川景佑らとともに』、天保一五(一八四四)年の『改暦に功績があった』。とある。鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)より三十一も年上である。最後のクレジット(嘉永三(一八五〇)年)から考えると、五年以上前に彼から桃野が直に聞き取った話ということになり、そこから「近き代」(近い過去)とするのが正しいと考える。

 以下は底本では全体が二字下げ。桃野自身の附記。]

 此ふたくだりは、吾師一谷(いつこく)先生(うし[やぶちゃん注:底本のルビ。「氏」のつもりか。但し、その場合は「うぢ」が正しい。])の聞傳(ききづた)へ玉へることを、みづからかひ付置(つきおき)[やぶちゃん注:「書き付けおき」。]玉ひて、余が「反古のうら書」の内へ入れてよ、とて、おくり玉へるなり。今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ。此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける。嘉永三年暮春

[やぶちゃん注:「此ふたくだり」以上の二条。ね」と、錯簡の問題(注で後述)はあるが、この「きつね」を指すと考えてよいであろう。実は、国立国会図書館版ではこの二つの条には底本のような(「きつね」)の標題が附されていないことから見ても、そう考えてよいのである。

「一谷先生」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『内山壺太郎の子』である『一谷か。名』は『謙、字』(あざな)は『徳柄。「うなぎ」』(この後三つ目)『の項の皡斉先生』とある。「今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ」とあり、最後のクレジットが「嘉永三」(一八五〇)「年暮春」であるから、この「一谷先生」は嘉永二年晩春前後に没していることになろうか。なお、「うなぎ」の項の冒頭で桃野は「予が師内山先生」と起筆しており、補註には『内山椿軒の子、通称壺太郎。名』は『明時。天保四』(一八三三)『年八月二十六日歿、法号常徳霊明信士』とあるから、桃野は内山壺太郎及びその子である一谷の父子二代に亙って弟子であったということなる。

「此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける」不審。或いは、先の「幽靈のはなし」の末尾に唐突に中に挟まった附記やそこに書かれた「すでに五つ卷をなせり」という謂いから見て、現行の「反古のうらがき」は原本の総てではなく、原「反古のうらがき」は実は六巻以上、存在し、しかもその幾つかが散佚・断片化してしまい、それを不用意に繋げた結果、錯簡が生じているのではないかと考える。そう措定してこそ、これらの奇妙な表現や附記配置の不思議が解明されるからであり、全四巻の分量のバランスの不均衡もそれで腑に落ちるからである。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴したが、そこで紹介された、国立国会図書館デジタルコレクションの森潤三郎氏の「鈴木桃野とその親戚及び師友(上)」(大正一四(一九二五)年刊)には「十、成虁の事蹟とその著書」の一章が存在し、(ここから)そこには、

   *

 予は本年二月永井荷風氏より書簡を以て、同氏も鈴木成恭の事蹟を知らんと欲し、光照寺[やぶちゃん注:鈴木家の菩提寺。神楽坂藁店上。但し、現在は孫の鈴木成虎の墓だけしかない。「新宿法人会」公式サイト内のこちらの記事に拠る。なお、それによれば、白藤は『書物奉行を十年間勤め』たが、『江戸城内の紅葉山文庫を管理する仕事の中で密かに多くの秘蔵の書物を筆写、友人達にも与えたことが露顕して文政四(一八二一)年に免職になった』ともある。]を訪問せられ、住職が桃野の「反古の裏書」の稿本を保管せることを聞き、予に通知せられたるを以て、一日同寺を詣でゝ之を見ることを得たり。稿本は半紙版にして七冊に分たれ、箱の表に

   桃野先生遺稿

     反古廼裏書

浄書幷に原稿【浄本四冊、稿本七冊】

とあるも、淨書本は今傳はらず。第一册に口繪四枚あり、第二册の綴目の邊に「嘉永元戌戊申九月望後一日書」第五册の同所に「嘉永三年庚戌雛祭る頃日永く月淸らかなる日北に向へる窓の下に筆を執る」、[やぶちゃん注:中略。ここには本底本の巻末にある「詩瀑山人の漢文の最終詩が載る。で見られたい。]

とあり。用紙はその名に背かず、すべて反古を裏返へしとして認めらる。學、庸、論、孟、易、書、詩禮[やぶちゃん注:間に読点なし。改行部なので印刷時に省略された者と思う。]と橫に印刷し、「湯淺猪之助十七」等の文字あるを見れば、昌平黌學問所若しくは自宅にて諸生に講義の出席簿ならん歟。[やぶちゃん注:下略。続きはで見られたい。]

   *

とある。T氏は、現行の四『巻本は、浄本四冊の系統のようで』、『稿本七冊から浄本四冊へどのように編集されたかは不明』であると述べておられる。

反古のうらがき 卷之三 きつね

 

    ○きつね

[やぶちゃん注:読み易さを狙って改行を施し、注も中に入れ込んだ。]

 むかし【文政の初年[やぶちゃん注:一八一八年。]。】、ある人【小普請手代何某[やぶちゃん注:「小普請」組は禄高三千石未満の旗本・御家人の内で非役の者の称。「手代」は小普請組の雑務を担当した下役人。]。】、王子の金輪寺(きんりんじ)[やぶちゃん注:現在の東京都北区岸町(きしまち)にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。近隣の王子権現(現在の王子神社)及び王子稲荷神社の別当寺で、徳川将軍家の御膳所(おぜんしょ:鷹狩りの際の休息や食事をする場所)であったが、明治の廃仏毀釈で廃絶、現在ある金輪寺は明治三六(一九〇三)年に嘗ての同寺の支坊の一つであった藤本坊が「金輪寺」の名を継いで再興したものである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に御用の事ありて行(ゆき)し歸るさに[やぶちゃん注:行って仕事を終えた、その帰る折りに。]、飛鳥山[やぶちゃん注:王子稲荷神社の南東直近にある、現在の飛鳥山公園(グーグル・マップ・データ)。享保年間に行楽地として整備された桜の名所。]の麓へかゝりけるに、ふと、琴・三味線などの聲の耳に入(いり)しかば、

「どこなるや。」

といぶかり、遠近(をちこち)尋ぬるに、とある出格子ある家の、いと淸々(せいせい)なる内になん、ありける。

 はや、誰(たそ)かれ時の頃なりしかば、

「人もあやしめじ[やぶちゃん注:ママ。人気もなく、暗いから、誰かが怪しむことはあるまい。]。」

とて、格子のすきまより見いれしに、いとあてやかなる女ども、三人四人(みたりよたり)、いづれもおもひおもひに琴・三味線・胡弓・笛などかまへ、打解(うちとけ)たる樣(さま)にて、外(ほか)に、あるじめきたる男なども見えず、客らしき人もなし。

『女なだちなどの、つれづれなるまゝにつどひ、興ずるならめ。』

など思ひて、かひまみし程に、やがてそばなる木くゞりの明(あき)たる音のしければ、

『あなや。』

と思ひしに、ひとりの女子いでゝいふ樣、

「君には鳴(なり)ものゝおと、好み給ふや。今宵はつれづれなるまゝに、友達、打(うち)つどひて興ずるにぞ、外に心置(こころおき)給ふ人もなければ、いざ、此方(こなた)へ入給ひてよ。」

とて、切(せち)にすゝめければ、初(はじめ)のほどはいなみしが、また、窓の内よりも、ひとりの女子(をなご)、顏さしだして、

「とく、とく。」

といひければ、もとより好みし道なれば、

「さらば、椽の片はし、しばし、かし給(たまは)れ。」

とて、入りしに、ありあふ酒肴とりでゝなにくれともてなしするまゝに、三人(みたり)の女子は隣りわたりのものにや、

「つい、行(ゆき)てくるまゝ、かならず待(まち)給へ。」

とて、いにけり。

 殘りし女、いと打とけたる樣(さま)にて、ふすまよふ[やぶちゃん注:ママ。]のもの、とふでて[やぶちゃん注:不詳。「給(たう)び出(い)でて」「給び出(いだ)して」か? 衾(ふすま:夜具)を持ち出して下さっての意か?]、

「頓(やが)て歸り侍らん。しばしがほど、やすらへ給へ。わらはも、ねむたくなりぬ。」

などいひて、しめやかに打かたらひ居(をり)けるに、頓て一人の女、歸りきぬ。

「いとわりなく契り給ふものかな。あな、うらめし。」

などいふて、つい入りぬ[やぶちゃん注:さっさと入ってしまった。本来は不快不満の動作であるが、ここでは『憎らしい!』と思いつつもその時にはちらりと微苦笑したと採る。]。

「何條(なんでふ)させる事やあるべき、さいひ給ふ君こそは。」

[やぶちゃん注:前で微苦笑したと採ったのは、「さいひ」があるからである。私はこれを「咲(さき/さい)ふ」→「咲(わら)ふ」と採ったのである。或いは直後の「いと恨めしげなる有樣」と齟齬する(私は後の展開からそうは全く思わぬ)とされる方もあるかも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。]

とて、さきの女子、又、いぞこへか行(ゆき)ける。

 歸り來し女子は、いと恨めしげなる有樣にて、

「今迄何して居給ひしや。たばかられぬる事の口惜しや。」

などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]つゝ、頓(やが)て又、淺からぬ契りをぞ結びける。

 おなじよふにて、先にいで行(ゆき)し女子ども、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。]に歸りきたりて、つひには夜もふけぬ。

「今宵は、こゝに泊り給ひてよ。」

とて、打ふしぬ。

 夜、明ければ、

「麥畑の内に、人の打(うち)ふしたるは醉(ゑひ)だれ[やぶちゃん注:酔っ払いの輩。]にやあらん。」

とて、あたりの人々おどろかせしに、やうやうに目の覺(さめ)たるおもゝちして、あたりを見れば、元の家居(いへゐ)などもなく、麥畑の中なれば、

『扨は、狐のしわざにや。』

と心付(こころづき)しが、よふよふ[やぶちゃん注:ママ。]ものいふ斗(ばか)りにて、起(おき)ふしも得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」の当て字。]かなはざりしかば、あたりの人々、駕籠、やとひて、家に、ゐて行(ゆき)ぬ。

 漸(やうやう)、氣は慥(たしか)になれど、いかにも樣子のあしければ、

「藥や、あたへん、醫師や、招きてん。」

とて打さわぐにぞ、ありし事どもつぶさにもの語りければ、

「狐のしわざにやあらん、いといぶかし。」

などいひはやすほどに、遂に其夕方に、はかなく成(なり)にける。

[やぶちゃん注:化かされただけでなく、命も落している。これは結局、何人もの狐の化けた女と交合した結果、完全に精気を奪われ、結果して生気も失ったからである。妖狐譚は中国にも本邦にも数え切れぬほどあり、狐の化けた女と交合するものも甚だ多いけれど、実はかく命を奪われる結末はそれほど多くない。本条の一番最後の附評の終りの部分は、そうした事実を踏まえてのことを言っているように私には読める

 以下は底本でも改行が成されてある。]

 是れは近き世の事なれば、さだかに見聞(みきき)し人もありて、つばらに語りけるを聞ける。此人、見目・形、きよらにて、年も漸(やうやう)三十斗(ばかり)にもや成りけん、常に姿容(すがたかたち)を自負せしが、凡(すべ)て、狐狸のみならず、人のたのむ心あれば、其たのむところに乘じて、たぶらかさるゝこと、常なり。つゝしむべき事にや。

[やぶちゃん注:「たのむ」「恃(たの)む」。自負する。自信過剰になり、自己肥大を起こす。

 以下は底本では一行空けが入り、ポイント落ちで全体が二字下げである。如何にもネタ晴らしの現実的な解釈は先例もあった、例の天暁翁浅野長祚らしい評言である。]

これに似たる事あり、麻布のあたりに、さる大きやかなる屋形のうちへ引入(ひきれ)られて、あまたの美人に交(まぢは)り、つかれはてゝいねたるに、廣尾のはらにあすの朝は打ふして居たりしものあり。諸人、みな、「きつねのわざならん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]のゝしりける。さて、人あまり不思議におもひて、ふたゝび、「こゝぞ」と思ふあたりをたづねけるに、ゆひまはせし垣のあや、松の木立、杉のかわにてふきたる小さき門など顯然として、夢うつゝには、なかりけり。これはおもき方の女の君(きみ)の孀(やもめ)ずみしたるに、あたりにかゝるたわたれありて、「跡をおゝわん」[やぶちゃん注:ママ。]とて、廣尾のはらへすてゝ、狐と思わせたるなりける。すてらるゝさへ、うつゝにも覺へぬほどなれば、いかにつよくつとめたりけんか。人と交りては死せず、狐狸と交るものは死するは、賦禀(ふひん)の殊なるゆへにや。

[やぶちゃん注:「たわたれ」「色好みの戯(たわ)けた誰彼(たれかれ)」の意か。好色漢。

「跡をおゝわん」「跡(あと)を覆(おほ)はん」で、「やんごとない家柄の女君(おんなぎみ)の未亡人が乱交パーティを開いたという事実の痕跡を覆い隠さんがために」の意であろう。

「賦禀」生得的性質。生まれつき持っている素質。]

反古のうらがき 卷之三 幽靈のはなし

 

    ○幽靈のはなし

[やぶちゃん注:前半部はシークエンスをとり易くするために改行を施し、読解の便を考えて注をその段落末に添えた。]

 予がしれる方にて、いと有德なる家より妻をめとりけるが、半年斗りもあるに、兎角にものゝたらわぬよふにいふがにくさに、去りてけり。

[やぶちゃん注:「ものゝたらわぬよふにいふ」「物の足らはぬ樣(やう)に言ふ」が正しい表記。裕福な家の出であるから、つい、いろいろな家内のことで、あれが足りない、これが不十分といった感じのことを何気に言うのである。]

 有德人のことなれば、程もなく、又、さる方に、よめらせけり。此家も予がしれる人なりけり。

 こゝをも、半年斗りにて去られてけり。

 それより幾月もあらで、病(やみ)て死にけり。

 余(われ)、後(あと)の夫(をつ)とがり、行(ゆき)て、酒のみたる時に、打戲(うちたはぶ)れて、

「獨り寐の凄(さび)しからん。」

などいふにぞ、

「いや。此程、暑氣のたへがたくて、『竹夫人(すゞしめ)』てふ物を抱(いだ)きて眠れば、さまでに凄(さび)しからず。先(さ)きの夫(をつ)とが、交(まぢは)りの道さへいまだ得(え)しらざる女を、半年餘り抱きて寐たるは、竹夫人(すずしめ)を抱きて眠ると、おゝくも、たがい、あらじ。」

といふに、

「こは、ふしぎのことをきく物かな。それは、いかに。」

ととふに、

「去りし妻がわれによめりしは、十七のとしなり。先(さき)の夫(をつ)とによめりしは、十五、六の時なり。半年の契りあれど、いまだ交りの道をしらず。われによめりてより、月をへて初て其道をしれり。左(さ)すれば、二度のよめりするといへども、われによめりたるが初ての如くおもふらめ。さるをもて、先の夫は竹夫人(すずしめ)に近きものを抱きて、半年餘り、眠れりとはいふぞ。」

と、かたりけり。

[やぶちゃん注:「竹夫人(すゞしめ)」ルビは底本のもので、「涼し女(め)」の当て読みであろう。通常は「ちくふじん」と読む。竹や籐で編んだ円筒状の抱き枕で、英語では“Dutch wife”(「オランダ人の妻」の意。ウィキの「ダッチワイフ」の「語源」(このリンクのクリックは自己責任で)によれば、語の起源は一八七五年から一八八〇年頃とされ、『本国に妻を残してオランダ領インドネシアで取引していたオランダ人商人の境遇に由来すると想像される』。『英米では、日本でいう』性欲処理の性具としての人形(ひとがた)の「ダッチワイフ」は『sex doll と呼び、これを Dutch wife と呼ぶことはまずない』とある)と呼ぶ。ウィキの「竹夫人」によれば、『暑い日に、片腕や片足をこれに乗せて寝ることで、涼をとれる。アジアに広く見られるもので、かつては日本でも使われていた。竹だけではなく、籐や綿製のものや、近年では人工樹脂でできたものも売られている』。『俳句では夏の季語』である。

「おゝくも、たがい」孰れもママ。「多(おほ)くも、違(たが)ひ」。

「よめり」「嫁-入(よめ)る」(ラ行四段動詞)。「嫁入(よめい)る」の転訛。方言としてもあるが、一般表現としても諸本に認められる。]

 其後に、又、先の夫が家に行(ゆき)て酒のみたることありけるに、これは、今は後妻をむかへて、はなしの折々には、先の去りし妻が事を、あしざまにのゝしりけり。

『皆、後妻へのへつらひなり。』

と思へば、心にくく覺へける[やぶちゃん注:ママ。]。

 因りて、一つの計りごとを思ひ出(いで)て、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「今日、態々(わざわざ)訪ひ來ぬること、よの事(こと)に侍らず。君に聞(きこ)へたきことの侍りて來ぬる也。しばし、左右の人を遠ざけ玉へ。」

といへば、

「さらば。」

とて。しりぞけけり。さて、いふやふ、

「ふしぎのことあり。けふより四、五日以前の夜、夢ともなくうつゝともなく、一人の女、枕のかみに座せり。

『何もの。』

ととへば、これは君にも見しり玉へる、二人の夫(をつ)とに去られ侍る女なり。

『一度も子を産まで死に侍れば、いとど罪業の深くて、今に浮(うか)びもやらず侍るなり。二世のゑにし[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]といへるは、いとふかきことにて、此世にて去らるゝとも、又、先の世にて再び結ぶことなり。さあるからに、もし二人の夫(つま)が一度に來(きた)らんとき、何れへか從ふべき。前の夫とは始めてのゑにしなれば、これになん隨ふべけれども、われは其時は、としのいとけなかりければ、男・おふな[やぶちゃん注:ママ。]の交りの道さへわきまへず、うつゝなくふしをともにするのみなれば、夫婦の契りありといへども、よそごとのよふに覺へて、情(なさけ)深からず。後の夫は、これにことなり、としとりてのちのことなれば、交りの道もよくしり侍れば、夜ごと夜ごとにふしにいれば、ひるのうさをも打忘るゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]に、情け深く覺へて侍りしにぞ。此方(こなた)にか隨ふべき、いづれをいづれともわきかねたれば、いづれにまれ、これよりのち、香花(かうげ)の一つだも、そなへ玉へる方(かた)こそ、あの世にての夫となれ。其時に「『見限りたり』とて、うらみ玉ひそよ」と、二人の夫とに告(つげ)てたべ。』

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、消失せぬるよふにて[やぶちゃん注:ママ。]、夢のさめたるなりけり。

 あまりにふしぎなることなれば、君に告げ侍りて、跡なき夢なるか、又は正夢(まさゆめ)なりけるか、君が心に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]もあなることなるべし。これを問ひ侍る。」

と、まことしやかに聞へければ、しばしことばもなくてありけるが、さめざめと泣きていふ。

[やぶちゃん注:「跡なき夢」後(ここは後世(ごせ)という迂遠な未来)になっても意味を持たない(何ものをも予兆するものでもない)ただの馬鹿げた夢。]

「これ、正夢なるべし。跡なきことにはあらざりけり。われ、こゝろに思ひ當ること、あり。香花のことは安き程のことなり。佛事供養も當りの年月は忘るまじ。此事、後の夫(をつ)とに、ゆめゆめ、語り玉ひそ。」

とて、其後は、あしぎまにいふことも、なかりけり。

[やぶちゃん注:「佛事供養も當りの年月は忘るまじ」「まじ」は打消意志。一般の仏事としての回忌供養の規定の年忌は忘れることなく、万事、必ず執り行おう。]

 ねやのうちの事などは、他人(よそびと)にしらるゝことはなきことはり[やぶちゃん注:ママ。]なれども、かく、もるゝこともあることなれば、唐の玄宗皇帝が、

 七月七日長生殿

 夜半無ㇾ人私語時

 天に在りては比翼の鳥

 地に在りては連理の枝

と誓ひし言葉を言送(いひおく)りたれば、

「楊貴妃がなきたまに疑ひあらじ。」

と、道師にあざむかれしも、これとおなじ道より、思ひ迷ひしなるべし。

 

[やぶちゃん注:引用は言わずもがな、私の大好きな、中唐の名詩人白居易の「長恨歌」のコーダの一節。但し、御存じの通り、正確には、

七月七日長生殿

夜半無人私語時

在天願作比翼鳥

在地願爲連理枝

天長地久有時盡

此恨綿綿無絶期

 七月七日 長生殿(ちやうせいでん)

 夜半 人(ひと)無く 私語の時

 「天に在りては 願はくは 比翼の鳥と作(な)り

  地に在りては 願はくは 連理の枝と爲(な)らん」と

 天 長く 地 久しきも 時 有りてか盡(つ)く

 此の恨みは 綿綿として 盡くる期(とき)無からん

と終わる。全詩は信頼漢詩サイト「碇豊長の詩詞「長恨歌」をリンクさせておく。

 以下、底本では最後のクレジットの一行前まで、全体が二字下げとなっている。ここは前のようには改行を施さなかった。二箇所の改行は底本のママ。]

予がいつはりの出で所(どころ)は、もろこしの何某が作れる小説に、地獄にて先の夫と後の夫と、一人の女を爭ひたることをのせたるより、思ひ付たるなりけり。男女の交りは、相感ずる所あるをもてこそ情も深かり、かく半年に餘る迄、交りの道をもしらぬ女とそひたらんには、みどりのとばり、くれないのねやに在りても、おのれ獨り、ものにくるふよふ[やぶちゃん注:ママ。]なるさまして、海に誓ひ、山に誓ひて、睦言(むつごと)などするに、かなたは幼子(おさなご)に乳など含まするこゝ地して、燈火の影のうつばりにうつりて丸く明らかなるに、はらひのこれる塵のひらめくをながめやりて、たる木の數(かず)いくつありけん、よべかぞへしより、一つおおくおぼゆるとて、幾度もかぞへかへしなどするぞ、又なく、わびしかりつらん。扨も、後の妻をむかへて其わびしさは免(まぬ)がれつらんが、後の夫と睦(むつま)じくありしを聞くときは、又、ねたく、くやしかりつるにや、先の世にては、かれにはあたへじと思ふこそ、おろかにも、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なりけれ。かゝれば、かく、おめおめと、あざむかれけるなり。

[やぶちゃん注:以上の話は標題の「幽靈のはなし」で惹かれて読んだ読者を、美事に裏切って余りある。しかも怪奇現象を信じない現実主義者の桃野が、自分自身が見たとする幽霊話を中国の志怪小説を元にデッチアゲて、友人をまんまと騙す、という意外な展開に吃驚する。この友人は確かに人格的に問題があるようだから、同情はしないけれど、にしても、この一話は実は、桃野が当時としてはかなり先進的な科学的現実主義者であったにも拘わらず、周囲は勿論、親しい友人に対しても、用心に用心を重ねて、そうした思考の持ち主であることを知られぬようにしていたという意外な事実が明らかとなっているのである。

「もろこしの何某が作れる小説に、地獄にて先の夫と後の夫と、一人の女を爭ひたることをのせたる」思い出せそうで、思い出せない。思い出したら、示す。悪しからず。

 以下は、本章の内容とは関係がない、桃野のインターミッションである。]

反古紙のうらにかひしるすこと、すでに五つ卷をなせり[やぶちゃん注:ママ。]。先の卷のすへ[やぶちゃん注:ママ。]にもいへるごとく[やぶちゃん注:。]、夏の日の永く、雨さへそぼふりて、友がき[やぶちゃん注:「友垣」。友人。]もとひこぬとき、うさのやる方なく、机に向ひては、しるすなりけり。もとより、後の世に傳ふべきと思へるにもあらず、ただ、ふみかくことのならはせ[やぶちゃん注:ルーティンの習慣。]に、思ひ出(いづ)ることども、つゞくりて、隔てなき友の來ませる時とり出(いで)て、ふみぶりのよしあしなど、語り合(あひ)て、聞(きき)もし聞(きこ)へもして、筆とる業(わざ)の助けにもせんとのかまへなれば、正しきことのみをば、しるさで、まこと、そらごと、取(とり)まぜて、人のよみて、うみ果(はて)ざらんをのみ、ねがふものから、かりにも心に樂しくあらんよふ[やぶちゃん注:ママ。]にこそは、ものしつるなりけり。こと葉(ば)のあとさきになりしと、おなじことをくりかへし、くだくしくしるせしことなどは、文(ふみ)ぶりに、いとよからぬといふは、筆とりながらも、自(おのづ)からしり侍れども、あまりにかひあらためたらんには、いとゞさへ反古紙(ほごがみ)なるに、又も、かひ添へ、かひへらして、文字(もじ)讀分(よみわく)るに、いぶせき迄になるべければ、先づ、こたびは此儘にさし置(おき)て、後にぞ、かいあらたむべきと思ふになん。

[やぶちゃん注:「かひしるす」の「かひ」は「書き」「書きて」、現代の「書い(て)」の「い」の転訛の縮約の誤表記ようである。]

「夜讀隨錄」・「聊齋志異」なんどは、近淸の小説の董狐(とうこ)にてはありし。されど此二書、多く狐怪に託して、空に架するのこと、多し。此書は、事は多くは實踪(じつさう)にして、只、文華を騁(はせ)ること、妙なると□とす。「虞初新志(ぐしよしんし)」を一筆にて書(かき)たるものなり。

 嘉永三年庚戌(かのえいぬ)三月の六日といふに此卷を終る。

[やぶちゃん注:「夜讀隨錄」清の乾隆帝の時に刊行された、和邦額(か ほうがく)の小説集。

「聊齋志異」既出既注。私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。

「董狐」春秋時代の晋の史官。生没年未詳。霊公が趙穿(ちょうせん)に攻め殺された時、正卿である趙盾(ちょうとん)が穿を討たなかったことから、董狐は「盾、その君を弑(しい)す」と、趙盾に罪があることを記録した(「春秋左氏伝」の宣公二年に記載されてある)。後世、理非を明らかにしたこの態度が、孔子に大いに讃えられたことから、「権勢を恐れることなく、現実の真実を毅然として記すこと」を「董狐の筆(ふで)」と言うから、ここはそれ。

 

「空に架する」事実に基づかない「架空」の勝手な想像をする。

 

「實踪」事実実在の実記録。

 

「騁(はせ)る」思いのまま、恣(ほしいまま)に筆を滑らせてしまうの意か。「文華」は「詩文の華麗なこと・その作品」の意であるから以下で意味がとれない。脱字と思われる「□」(国立国会図書館版も同じ)がそうしたこと、即ち、調子に乗って文飾の妙に走るあまり、事実に則さないことを書くような誤りは厳に謹んで書いたことを意味するのでなくてはなるまい。

 

「虞初新志」明末清初の張潮撰になる文語小説集。但し(次注参照)、志怪短編も多い。

 

「一筆にて書(かき)たるものなり」『この私の「反古のうらがき」は、かの「虞初新志」のような(それには無論及ばないが)ものを、ちょいと僅かばかり書き散らしたようなものである』の意か? よく判らぬ。

 

「嘉永三年庚戌三月の六日といふに此卷を終る」とあるのだが、実は「反古のうらがき」の「卷之三」はここで終わっておらず、まだ十一章も続くので注意されたい。ここで終わらせるつもりが、新しい巻を起こす前に、興が乗ってしまって結局書き継いだか、或いは単なる後に装本する際の錯文となっただけかも知れない。「嘉永三年」は一八五〇年。]

2018/09/20

大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)

 

杜父魚 本草綱目ニアリ伏見ニテ川ヲコゼト云京ニテ

 石モチト云近江ニテチンコト云嵯峨ニテ子マルト云筑紫ニ

 テドンホト云杜父ヲ云ナルヘシ西近江ニテ道滿ト云江州

 ノ湖ニ多シ形河魨ニ似テ色黑ク長サ五六寸アリ鯊魚

 ニモ似タリ此魚ヲ河鹿ト云說アリ夜ナク故ニ名ツク古

 哥ニモヨメリ一說ゴリノ大ナルヲ河鹿ト云ゴリ杜父魚同

 類ナリ○京都ノ方言ニダンギボフズト云魚アリ杜父魚

 ニ似テ其形背高シ是亦杜父魚ノ類也

○やぶちゃんの書き下し文

杜父魚〔(トホギヨ)〕 「本草綱目」にあり。伏見にて「川ヲコゼ」と云ひ、京にて「石モチ」と云ひ、近江にて「チンコ」と云ひ、嵯峨にて「子〔(ネ)〕マル」と云ひ、筑紫にて「ドンホ」と云ふ。「杜父(トホ)」を云ふなるべし。西近江にて「道滿〔(ダウマン)〕」と云ひ、江州の湖〔(うみ)〕に多し。形、「河魨(フグ)」に似て、色、黑く、長さ、五、六寸あり。「鯊-魚(ハゼ)」にも似たり。此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕說あり。夜、なく。故に名づく。古哥にもよめり。一說、「ゴリ」の大なるを、「河鹿」と云ふ。「ゴリ」・「杜父魚」、同類なり。○京都の方言に「ダンギボフズ」と云ふ魚あり。「杜父魚」に似て、其の形、背、高し。是れ亦、「杜父魚」の類なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus polluxウィキの「カジカ」によれば、漢字表記では「鰍・杜父魚」鮖」等と書き、『地方によっては、他のハゼ科の魚とともにゴリ』(既に独立項「ゴリ」として既出既注)や『ドンコと呼ばれることもある。 体色は淡褐色から暗褐色まで、地域変異に富んでいる。日本固有種で、北海道南部以南の日本各地に分布する。ただし、北海道に生息するのは小卵型のみである』。『分類については定説がまだなく』、「大卵型(河川陸封型)」・「中卵型(両側回遊型)」・「小卵型(両側回遊型)」(三類の別はリンク先を参照されたい)を、それぞれ別種に、或いは「湖沼陸封型」は「小卵型」と亜種に分ける説なども存在する。『生活型によって、一生を淡水で過ごす河川型を大卵型、孵化後に川を下り稚魚の時期を海で過ごして成魚になると再び遡上する小卵型、琵琶湖固有のものをウツセミカジカ Cottus reinii と分けることが多かったが、近年の研究により』、小卵型にウツセミカジカを含めて、大卵型と小卵型に分けるようになった。しかし、これらには別種レベルでの違いがあると考えられているという。『大卵型は、山地の渓流などの上流域を中心に、小卵型は中流域から下流域にかけて生息する。石礫中心の川底を好み、水生昆虫や小魚、底生生物などを食べる』。ここでは、以前の種分類に従うなら、現在の「河川型(湖沼陸封型)」の、上記、

カジカ Cottus pollux(宮崎県・大分県・東海・近畿・本州の日本海側・四国の太平洋側に分布)

の他、「両側回遊型」の上記、

ウツセミカジカCottus reinii(北海道南部の日本海側・本州・四国・九州西部・琵琶湖に分布)

及び、

カンキョウカジカ Cottus hangiongensis(北海道南部から本州・四国・九州・朝鮮半島東部と沿海州に分布し、特に河川の下流から上流に棲息する)

また、「降河回遊型」の、

カマキリ Cottus kazika(一般名は「アユカケ」。太平洋側は神奈川県相模川以南、日本海側は青森県岩崎村津梅川以南に棲息)

さらに、

カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus (有明海と流入河川に棲息)

を挙げておく必要があろう。「利用」の項。『見た目は悪いが、とても美味な魚とされる。汁物、鍋料理では、大変美味な出汁が良くでる』ことから、突き過ぎるとして『「なべこわし」とも称される』。『日本各地で食用にされ、汁物、味噌汁・鍋料理や佃煮、甘露煮などにして食される。代表的なものに石川県金沢市の郷土料理「ゴリ料理」』があるが、殆ど正式なそれは原材料の入手困難から幻しに近い。「名称」の項。『日本語で「鰍」は「カジカ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「カジカ」は、「杜父魚」と書かれる』。『カジカ(鰍、杜父魚、Cottus pollux)は、「鈍頭杜父魚」』である。『なお、カジカは、石伏(いしぶし)、石斑魚(いしぶし)、霰魚(あられうお)、川鰍(かわかじか)、ぐず、川虎魚(かわおこぜ)などの別名を持つ』とある。最後に本条で益軒が挙げている異名を一遍に並べてみると、

「川(カハ)ヲコゼ」・「石(イシ)モチ」・「チンコ」・「子(ネ)マル」・「ドンホ」・「杜父(トホ)」・「道滿(ダウマン)」・「河鹿(カジカ)」・「ゴリ」・「ダンギボフズ」

の十を数える。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カジカ」のページの「地方名・市場名」の欄には実に五十五もの異名が載るが、以上は「ゴリ」以外は、完全同一のものはないというバラエティーさを誇る(この異様な多さは全くの他種(或いは他種名の援用)が含まれていることにも由来はする)。

「本草綱目」のそれは「巻四十四 鱗之三」の以下。

   *

杜父魚【「拾遺」。】

釋名渡父魚【「綱目」。】、黄䱂魚【音「么」。】。舩矴魚【「綱目」。】。伏念魚【「臨海志」】

時珍曰、「杜父、當作渡父。溪澗小魚、渡父所食也。見人則以喙挿入泥中、如舩矴也。」。

集解藏器曰、「杜父魚、生溪澗中。長二三寸、狀如吹沙而短。其尾岐、大頭闊口、其色黃黑有斑。脊背上有鬐刺、螫人。」。

氣味甘、溫。無毒。

主治小兒差頽。用此魚擘開、口咬之、下即消【藏器、大差頽、陰核小也。】。

   *

「道滿〔(ダウマン)〕」安倍晴明のライバルの憎っくき陰陽師蘆屋道満の不敵な面構えというところからの命名であろう。腑に落ちる。

「江州の湖」琵琶湖。

「河魨(フグ)」海産の河豚(フグ)のこと。「カジカ」の異名に「フグ」がある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カジカ」のページにもある。

『此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕説あり。夜、なく。故に名づく』男鹿が女鹿を呼んで夜啼くことに由来するというのである。

「ダンギボフズ」不詳。「坊主」ではあろう。小学館「日本国語大辞典」にはメダカの異名とするが、この流れでは、それには同定出来ない。]

反古のうらがき 卷之三 大雅堂

 

    ○大雅堂

 大雅堂の畫のほまれは、「畸人傳」及び和泉やのとら吉が「書畫談」につまびらかなれば、こゝに略しぬ。此人の畫、東都にあるはことごとくいつはりなるよしは、みな人のしる事なれども、其門人どもが工みに似せたるは、いかにしても、しるよしなし、とぞ。京攝の間は其(その)もてはやしも又、甚しく、其門人といへども、あざむかれて僞物を賞翫するもあり。大雅堂、歿して後、其年忌に當れる日、門人共がいゝ[やぶちゃん注:ママ。]語らふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、「こたび打よりて追福の會を催し、おのおの師の手筆の畫持寄りて、大きなる寺院の廣座敷にかけ置て、互に見もし見せもして、終日供養なしたらんは、師もよろこばしく思(おぼ)し玉はん」とて、其日の酒飯の料出し合(あひ)て、貮、三十人寄り合けり。

[やぶちゃん注:「大雅堂」日本の文人画(南画)の大成者とされる、画家・書家の池大雅(いけのたいが 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の雅号の一つ。京都銀座役人の下役の子であった。

「畸人傳」江戸後期の歌人で文章家の伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:名は資芳(すけよし))著になる「近世畸人傳正編」(三熊花顚(みくまかてん)画・寛政二(一七九〇)年刊)の巻之四に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読め、「日文研データベース」のこちらでも横書挿絵入りで読める。

「和泉やのとら吉が書畫談」江戸後期の書画鑑定家で書画商であった和泉屋虎吉(通称)こと安西雲煙(うんえん 文化四(一八〇七)年~嘉永五(一八五二)年)の天保一五(一八四四)年刊の「近世名家書畫談」の巻之三巻頭の「本朝名山大雅畫に眞の幽趣を得る事」。「早稲田大学図書館」の「古典総合データベース」のこちらPDF)で読める(こちらから各ページの画像でも読める)。

「其年忌に當れる日」彼が没したのは安永五年四月十三日(一七七六年五月三十日)。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、記載時からだと、既に七十年以上が経過している。]

 こゝに何某といへる人あり。これは大雅堂の門人なれども、師の世にいませる頃より、師の僞筆をかきて、錢金(ぜにかね)にかゆる[やぶちゃん注:ママ。]をもてなりはひとしてありければ、同門の人々、賤しみ忌みて、常にも同門の數にもいれねば、此度の催しの事も告(つげ)しらせざりけり。すでに其日も時うつりて、皆、酒くみかはし、書道の物語りなどして、いと興ありける頃に、彼(か)の何某が麻の上下(かみしも)に黑小袖着て、手に壹幅の畫を携へ、其席に入來れり。人々、「あれは。如何に」といふに、「いや、吾も師が門人なれば、今日の列にくわへ玉へ。各(おのおの)が約(やく)の如く、師の畫幅も持(も)て來りぬ。寄合(よりあひ)の酒飯料も持て來(き)ぬ」とて、さし出(いだ)すに、皆々、かほ見合せて、「如何に計(はか)らはん」といふを、とし老(おい)たる門人がいふ、「此人、常に賤しみ、にくまれたりとて、師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の爲に催せし會に、數を加へじといふ理(ことわ)りなし。また、かれが持て來りし師の畫幅もあれば、もて歸れといふべき理りなし。許して列にいるゝこそ、よからめ」といふにぞ、皆人々も、「さらば」とて、通しけり。何某も大によろこびて、おのが持て來(きたり)し幅もかけ並べ、「各(おのおの)がたの持て來(き)玉ふ幅ども、見ん」とて、廣座敷、一と𢌞(まは)り見てけり。歸り來て、元の座に付(つき)けるが、「扨も。よく多く集まりて、めでたし。各(おのおの)が、師の道、慕ひ玉ふ心の深さも推計(おしはか)られて、よろこばしく侍るなり。しかし、今、見たりし中(うち)に、おのれがかきたる幅、三幅迄、見ゆるぞ」といふにぞ、皆人々、おどろきて、「にくきかれが廣言(こうげん)かな。師の門人が、まさしく師に授(さづか)りし畫なるに、彼(か)れが筆ならんいわれなし。いづれをか、自(みづ)からの筆といふや。ことによりては其まゝに拾置(すておき)がたし」など、口々にのゝしるにぞ、「いや。爭ひは無益なり。第幾番目の幅より、又、二つ置(おい)ての幅、末(すゑ)より幾番目の幅、此三幅は、みな、おのれが筆なり。但し、其持主はしらねども、親しく師の筆とりて書きしをみて授(さづか)りたるには、おそらくは、これ、あるまじ。市にて求め給ひつるならん。さあらんには正しき師の筆とは、いゝがたし。いかにぞや」と問ひたるにぞ、みな、目を見合ひて辭(ことば)なし。但し、市にて求(もとむ)るにも、一人の眼(め)に極(きは)め兼たれば、同師の友どち、助け合(あひ)て見極めたることどもなれば、今更に、師、自(みづか)ら授け玉へるなりとも、いつはり棄(かね)て、惡(あ)しとは思へども、爭ひにもならで、休(や)みけり。かゝればこの何某が僞筆は、おさおさ、師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、他人の見て眞僞を言ひ爭ふは益なきことぞと、京師より歸りたる人、語りける。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体がポイント落ちで二字下げ。]

◎大雅堂・文晃(ぶんてう)・應舉ナドノ畫ハ僞(ぎ)シ易シ。椿山(ちんざん)ノ畫ニ至テハ、天眞爛漫、實(まこと)ニ企及(ききふ)スベカラズ。夫(それ)サへ、近時、僞物、オビタヾシクアリテ、庸凡(ようぼん)ハ、ミナ、アザムカルヽ也。余、鑿裁(せんさい)ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ畫ニ至ツテハ、闇中摸索スルモ、失ハジ。

[やぶちゃん注:「文晃」江戸後期の南画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)。田安家の家臣で漢詩人の谷麓谷(ろっこく)の子。

「應舉」江戸中・後期の画家で円山派の創始者円山応挙(享保一八(一七三三)年~寛政七(一七九五)年)。生家は丹波桑田郡の農家。

「椿山」江戸後期の南画家椿椿山(つばきちんざん 享和元(一八〇一)年~安政元(一八五四)年)幕府槍組同心で刀・槍・乗馬に優れた。

「企及」「跂及」とも書く。比肩・匹敵すること。

「庸凡」凡庸に同じい。

★「鍳裁(かんさい)ニ暗シ」は

☓底本は『鑿裁ニ倍シ』で意味が全く通らぬ。

☓国立国会図書館版では『鍳裁(かんさい)ニ愔シ』であるが、

○「鍳裁」は「鑑裁」で鑑定のことだからいいとして、

☓「愔」(和らぐ・静かに安らう・奥深く静か・沈黙する)では意味がとれない。

☓「倍」(背く・もとる・離れる・賤しい)でもなんともピンとこない。

万事休すという訳にもいかないので考えてみた。

○この「□シ」は、或いは、底本も国立国会図書館版も草書で書かれた文字の判読を誤ったのではないか?

そこである字を調べて見た。ああ! これなら「愔」や「倍」に誤りそうだ!

◎「暗」である!

さすればここは評者(例の天暁翁浅野長祚であろう)は謙遜して「私は鑑定眼=目利きには暗いが」と言っているのではないか?

そう採ると、腑に落ちるのである。かくして本文を特異的に弄った。大方の御叱正を俟つものである。

「闇中摸索スルモ、失ハジ」評者は椿椿山の画ならば鑑定眼に自信があると言っているのである。]

柳田國男 炭燒小五郞がこと 一 / 始動

 

[やぶちゃん注:評論集「海南小記」(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成る単行本書き下ろし論文)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「海南小記」の当該の「炭燒小五郞がこと(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。本底本では「ゝ」の代わりに、「〻」が用いられ、この「〻」に濁点が附いた気持ちの悪い踊り字が使用されている。私はそもそもがこの「〻」が生理的に嫌いなので、この際、総て「ゝ」「ゞ」で統一することとした。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章(分割公開)及び「うつぼ舟の王女」(全)をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 なお、今回については、原則として私の目障りな注は、原則、施さないこととする(どうしても必要と私が判断した箇所や全集との有意な移動箇所の注記、及び、若い読者で読みに悩む箇所等は読みを振ることとした)。安心されよ。【2018年9月20日始動 藪野直史】]

 

  炭燒小五郞が事

 

      

 大正九年の九月一日であつたかと思ふ。私は奧州の海岸を傳うて、とうとう尻矢岬(しりやざき)[やぶちゃん注:全集版では『尻屋岬』と訂正されてあり、以下も総てそうなっている。これは思うところあってそのまま残す。ここまで書いたので、言っておくと、下北半島の北東端である青森県下北郡東通村にある岬で、(グーグル・マップ・データ)。]の突角[やぶちゃん注:「とつかく(とっかく)」。]に辿り着き、燈臺裏手の岩に腰をかけて、荒く寂しい北方の海を眺めた。三戸(のへ)郡の鮫港[やぶちゃん注:「さめみなと」或いは「さめこう」。]から、この附近に來て事業をして居る本間君と云ふ人が、最も親切に世話をしてくれたので、別れに臨んで今に南九州に遊びに行くから、南の端の大隅の佐多岬(さだのみさき)から、必ず通信をしようと云ふ約束をした。ちやうど丸四ケ月の旅行の後、豫定の如く佐多の田尻と云ふ村に宿して、元旦の鷄の聲を聽き、年始の狀を本間君へ出したときは、何か大きな仕事を終つたやうな、滿足を感じたのであつた。佐多の燈臺監守の三宅氏は、家は相州にあるが尻矢の事もよく知つて居た。尻矢や遠州の御前崎(おまへざき)、或は豐後水道の水之子[やぶちゃん注:「みづのこ(みずのこ)」。]などでは、渡り鳥の季節には燈臺の光に迷はされて、大小無數の鳥類が、突當つて落ちて死ぬと謂ふが、佐多では神の森がよく茂つて居る爲か、其樣なことが少ないと云ふ話もした。こんな細長い日本の島が、一つの國である爲に生活事情も亦一つで、坐して千里の天涯にある雪の荒濱を、あたかも鄰家の噂をする如く話し合ふことが、此日は特別に有難く思はれた。

 佐多の島泊(しまどまり[やぶちゃん注:底本は『しまとまり』であるが、先行するヶ所で(以下のリンク先)「しまどまり」と振っており、本篇の「八」でも「しまどまり」と振られてあるので、誤植と断じて濁音化した。])から伊座敷(いざしき)に越える山路を、豐後から來た炭燒が獨力で開いた話は、もう本文にも書いておいたが[やぶちゃん注:本「海南小記」の先行する七 佐多路」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示しておく。]、どう考えてみても自分には、奇緣とより他は感ぜられなかつた。豐後は今に於て尚炭燒の本國である。其一半は進化してナバ師卽ち椎茸作りとなり、各地に招かれて、盛にナバ木の林を經營して居るが、他の半分は昔ながらの炭を燒くべく、此頃は主として鄰國日向の東臼杵(ひがしうすき)の奧山に入つて居る。炭燒には人も知る如く、現在尚傳授を必要とする技術があつて、而も同じ楢なり櫪(くぬぎ)なりを伐つても、土地と竃[やぶちゃん注:「かま」。]とに由つて出來る炭には差等[やぶちゃん注:「など」。]がある。しかも普通の民家に火桶を用ゐるに至つたのは、煙草などよりも更に新しいことで、偏土の山に炭を燒いた始は、必ず別に尋常ならざる需要があつた爲と思はれる。さすれば何が故に豐後の炭燒のみが夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]人に知られ、殊には小五郞長者の物語が、遠く久しくもてはやされるに至つたか。

 大分縣方言類集に依れば、宇佐郡などで炭をイモジと謂ふとある。是が若し炭の最初の用途を語り、更に一步を進めて宇佐の信仰の極めて神祕なる部分、卽ち所謂薦(こも)の御驗(みしるし)、黃金の御正體(みしやうたい)の由來を解き明かす端緖ともなるならば、我々の學問は永く今日のしどけなさに棄てゝ置かれる患も無く、夢のやうな村々の歌が尚至つて大切なる昔を、忘却から救うて居たことを、追々に認める世の中が來るであらう。

 自分は尻矢外南部(そとなんぶ)の旅を終つてから、船で靑森灣を橫ぎつて津輕に入り、弘前の町に於て始めて此地方の炭燒長者の話を知つた。豐後に起つたことは疑が無い炭燒の出世譚が、ほんの僅かな變更を以て、本土の北の端までも流布するのは如何なる理由であるかを訝るの餘り、稍長い一篇の文を新聞に書いて置いて、九州の旅行には出て來たのであつた。豐後をあるいて見ると考へねばならぬことが愈多かつた。其から途上に幾度と無く斯んなことを空想しつつ、佐多の島泊までやつて來て、さうして又豐後の炭燒の小屋の前を過ぎたのである。自分の想像では、豐後の國人は今でも炭燒を以て、微賤にして恥づべき職業と思つては居らぬやうである。聞いて見る機會は無かつたが、此小屋の主人なども、或は炭燒だから斯う云ふ尊い事業をするのだと考へて居たのかも知れぬ。近年石佛を以て一層有名になつたが、臼杵の城下に近い深田の里には、小五郞が燒いたと云ふ炭竃の址あり。岩のくづれの間から炭の屑の化石と云ふ物が無數に出る。長者の後裔と稱する家には、俵のまゝ燒けた炭が二俵と鉈などを持ち傳へ、一年一度の先祖祭に之を陳列して人に見せる。或は又家傳の花炭と稱して、七十八代の間連綿として、之を製したと云ふ由緖書も傳はつて居る。卽ち或特定の家族に於ては、此物語は今も決して單純なる文學では無いのである。

 大昔小五郞の炭を燒いたのは、別に重要なる目的のあつたものと、推測する人は近年は既に多かつた。長者大に家富みて後に、召されて都に登つた愛娘(まなむすめ)の船を、遠く見送つて別れを惜んだと云ふ姫見嶽から、この深田の村近くまで、現に皆金銅鑛[やぶちゃん注:聴き慣れない語であるが、これは「愚か者の金」、黄銅鉱(CuFeS)のことであろう。]の試掘地に登錄せられている。前に臼杵の警察署長で、後に大分銀行の支配人となつた某という人が、傳説から思ひ付いて出願したのが、今は或大阪人が買取つて權利を持つて居る。爰から七八里離れた大野郡三重町の内山も、内山觀音の緣起に依れば、小五郞の初の在所であつて、炭を燒いて居た故迹は、はど近い神野(かうの)の山家であつたと傳へる。而も燒いた炭をどうしたかと云ふことには考へ及ばずに、例の朝日さし夕日かゞやく云々の歌などに由つて、長者の寶を埋めた地を見付けようと、そこら掘返した人が幾らもあつた。明治の少し前にもこの内山で、金の蒲鉾形の物を多數に發掘したことがあつたと謂ふ。それを買取つて外國人に賣り、後に發覺して獄に投ぜられ、維新の大赦で出牢を許された人のあることを、その實物を見たと云ふ人の子息から、匿名で知らせてくれたこともあつた。傳説と歷史とは、人がこれほど賢くなつてしまつた時代までも、まだ紛亂し混淆し、且つ身勝手に誤解せられて居るのである。况や鄕土を愛する人々は、多く一地方の古傳に割據して、目前の因緣關係をすらも否認するために、一層此問題が解きにくゝなつてしまふのは、誠に是非もない次第である。

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(59) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅳ)

 

 この文書の中に伴天連に對して爲された二つの明確な非難があるといふことが觀られる、――宗敎に裝を藉りて、政府を橫領しようといふ考へをもつた政治的陰謀、それから神道と佛敎といふ日本固有の禮拜の式に對する異說抑壓に就いての非難である。この異說抑壓はジエジユイト敎派自身の書きものによつて充分に證明されて居る。陰謀の非難に至つては少しく證明し難い。併に社會が與へられたならば、ロオマ舊敎の諸敎團が、既に改宗した大名の領地に於て、地方政府を管理することが出來たやうに、正しくその通りに中央敎府全體を管理せんと企てるであらうとは、道理を辨へた[やぶちゃん注:「わきまへた」。]ものにして誰れが疑ふことが出來たであらうか。その上この布告が發せられた時には、いろいろな事を耳にして居て、家康はロオマ舊敎に就いて、恐らく最も惡るい意見をもつて居たに相違ない。これは確と言つて宜からう。――則ちアメリカに於けるスペインの征服、西印度人種絕滅の話、ネザアンド[やぶちゃん注:Netherlands。ネーデルラント。オランダ。直近のスペイン統治時代の異端審問体制やプロテスタントの焚書や発禁等の一連の宗教弾圧を指す。]に於ける迫害、竝に其他の各所に於ける宗敎審問の事に就いての話、フイリツプ第二世のイギリス征服の計畫と、二囘に亙る大艦隊(アルマアダ)[やぶちゃん注:Armadas。スペイン語語源で「海軍・艦隊」の意。]の失敗の話などを聞いて居たに相違ない。この布告は一六一四年に發せられた。而して家康は夙に一六〇〇年[やぶちゃん注:既に示した通り、慶長十八年。]に、以上の事柄の二三を知る機會を得たのであつた。則ちその年にイギリス人の水先案內ヰリアム・アダムス[やぶちゃん注:既出既注。]がオランダの船を託されて日本に到著した。アダムスは一五九八年[やぶちゃん注:慶長三年相当。アダムスが豊後臼杵に漂着したのは慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)。]にこの多事な航海に上つたのであつた、――卽ちそれはスペインの最初の大艦隊敗北後十年、第二囘艦隊全滅後、一年の事であつた。彼は偉大なエリザベス女王――まだ存生中であつた――の赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。光り輝くが如く、華々しい功名を挙げるさま。]時代を見た人であつた――彼は多分ハワアド、セイマア、ドレイク、ホオキンズ、フロビシヤア、それから一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル等を見てゐたのである。何となればこのヰリアム・アダムスといふ男は、ケントの人であつて、『女王陛下の船の船長と水先案內を勤めた……』人であつたからである。今述べたこのオランダの商船は九州に到着すると同時に捕獲された。そしてアダムスとその乘組員は、豐後の大名によつて監禁され、その事實は家康に報告された。是等新敎徒なる船乘り達の到來は、ポルトガルのジエジユイト敎徒によつて重大事件と考へられた。蓋し、ジエジユイト敎徒は、このやうな異端者達と、日本の統治者との會見の結果を恐れるべき、特別な理由をもつて居たのである。然るに家康も亦たまたまこの事件を重大視した。そして彼は大阪なる彼の許にアダムスを送るべきことを命じた。この事に就いてのジエジユイト敎徒の惡意を藏した懸念は、家康の透徹力ある觀察を遁れなかつた。アダムス自身の筆述に從つて見ると――アダムスは決して虛僞を言ふのではなかつた――彼等は再三船乘り達を殺してしまはうと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]のであつた、そして彼等は豐後に於て該船の乘組員中の二人の無賴漢を脅して、【註一】僞證をさせ得たのであつた。アダムスは次のやうに誌した、『ジエジユイト敎徒達とボルトガルの人達とは、私と餘の者を中傷する多くの證據を皇帝(家康のこと)に向つて呈し、吾々は諸國から來た竊盜であり、又盜賊であると言ひ、若し吾々を生かして置けば、殿下と國土の御爲めにならぬに相違あるまいと言つた』と。然るに家康は恐らく彼をなきものにしてしまはうといふジエジユイト敎徒の熱心の爲めに、却つてアダムスの方に多くの好意を持つやうに傾いてゐたらしいのである――なきものにするとはアダムスの言ふところに從ふと、『十宇架につける〔磔刑に處する〕事』で――これは『我が國の絞刑のやうに、日本に於ける裁判の風習』なのである。アダムスは云つて居る、家康は彼等に答へた、卽ち『吾々(アダムス等)は彼や彼の國土の何人に對しても、未だ危害や損害を蒙らしたことはなかつた。それ故吾々を殺す事は道理と正義とに反した事である』と……。それからジエジユイト敎徒が正に最も恐れてゐた事が起こるやうになつた――彼等が恐嚇、誹謗、竝びに出來る限りの陰謀を以て、防止せんと努めてしかもその効のなかつた事――則ち家康と異端者アダムスとの會見が起こることになつたのである。『そのやうなわけで私が彼(家康)の御前に出ると直ぐに』と彼は誌した『彼は吾々が何處の國の者であるかと尋ねた。それで私はあらゆる事を彼に答へた。それは、國々の間の戰爭と平和といふ事に關して、彼は餘す處なく總ての事を尋ねたからであるが、その委細の事を此處に記しては、あまりに冗長になる恐れがある。そしてその時に私は、良く待遇されたのではあるが、一時私に仕へる爲めに一緖に來た海員の一人と共に私は入牢を申しつけられた』アダムスの他の手紙に依つて、この會見がびきつづき夜にまで及び、且つ家康の質問は、特に政治と宗敎とに關係してゐたらしく察しられるのである。アダムスは云つて居る、『彼は我が國が戰爭をしてゐるかと尋ねた。私はスペインとポルトガルとを相手にして戰つてゐると答ヘた――他の總ての諸國とは平和にしてゐるから、更に彼は私が何を信仰してゐるかと尋ねた。私は、天と地とを造つた神樣を信じてゐると言つた。彼は宗敎關係の色々な他の質問と、その他の多くの事に就いて尋ねた、例へばどんな路を通つて日本に來たかといふやうな。私は全世界の海圖を持つてゐたので、マゼラン海峽の直路を彼に示した。彼はそれに驚いて私が噓をいふと思つた。このやうに、次から次へと話がつづき、私は深更までも彼の許に居た』……この兩人は互に一見して雙方好きになつたのらしい。家康に就いてアダムスは特に恁う言つて居る。『彼は私を凝と見て、驚く程好意を持つたやうに思はれた』と、二日たつて家康は再びアダムスを招いて、特にジエジユイト敎徒が隱さうとして居る事柄に就いて彼に微細に亙つて質問した。『彼は我が國とスペイン或はポルトガルとの戰爭と、その理由とに就いて又尋ねた。それを私はすつかり了解の出來るやうに說明したが、彼はそれを喜んで聞いた、とさう私には考へられた。最後に私は再ぴ監禁を受けることを命ぜられたが、然し私の宿所は前よりもよくなつた』……アダムスはその後殆ど六週間の間家康に再會しなかつたが、それからまた招きの使を受けて、三度事こまかに尋問を受けた。その結果は自由の身となつて恩顧を得た。爾後、時を置いて、家康は彼を招くを常とした。そして程なく吾々は彼が『幾何學の二三の點と、數學の理解とその他のいろいろの事とを合はせて』此の大經世家に敎へてゐるといふことを聞くのである……。家康は彼に多くの贈物竝びに充分の祿を與へて、深海航行用[やぶちゃん注:確かに原文は“for deep-sea sailing”であり、平井呈一氏も『深海を走る船』と訳しておられるけれど、潜水艦じゃあるまいし、ここはやはり「遠洋航海用の」でいいと思うのだけれど。]の船を二三建造するやうに彼に委任した。かくして此の一水先案內は一人の侍に取り立てられ、そして所領を與へられた。彼は恁う書いた、『ご皇帝の御役に使はれたので、彼は私に對して、イングランドの貴族のやうに、丁度私の奴隷、若しくは召使たるべき八九十人の農夫をつけて祿を私に與へた。かくの如き事、或は同樣な先例は嘗てこの國では、如何なる外國人にも與へられた事のなかつた事である』と。……アダムスが家康に對して勢力のあつたといふ證明は、イギリス商館のキヤプテイン・コツクの通信によつて得られる、コツクは一六一四年[やぶちゃん注:慶長十九年。]に彼に關して次のやうに書いて故國へ送つた、『實を言へば皇帝は彼を甚だ尊重してゐる。そして彼はいつでも入殿して、諸王や諸公子が退座させられてゐる時でも、【註二】彼と話しする事を得た』と。イギリス人が平に商館を建設することを許されたのは、この勢力によつたのである。第十七世紀の物語の中で、この白面のイギリス人なる水先案內の話程不思議なのはない、――自分を扶ける者とては唯だ率直な正直と常識との外なにもなく――しかも日本のあらゆる統治者の中での、最も偉大な又最も機敏な人の、かくの如く格別の恩顧に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]まで登つたといふ。併しながら、アダムスは遂にイギリスヘ歸る事を許されなかつた――多分彼の奉仕が、それを失ふことの出來ない程貴重なものと考へられたからであらうか。彼は自らその手紙の中で、家康は、イギリスに再び歸るといふ一權のほかは、彼の願つたものは、何でも決して拒絕しなかつた。彼があまり屢〻それを求めた時【註三】、この『老皇帝』には默した儘何も云はなかつたと言つて居る。

註一 『日每にポルトガル人は吾々に對して裁判官と人民の怒を煽ることを盛んにした。そして吾々の仲間の中二人は裏切者となつて、自ら王(大名)に仕へた、それはポルトガル人によつてその生命を保證されたため、何事も彼等と一緖に共謀するやうになつたからである。その一人は名をギルバアト・ド・コンニングといつて、彼の母はミツドルボロに住まつてゐる、又彼は自らこの船に於ける貨物一切の商人であると稱して居た。今一人はジヨン・アベルスン・ヴアン・オウオタアと云つた。此等の裏切者達は貨物を彼等の手に入れるために、あらゆる種類の方法を講じ、吾々の航海中に起つた總てのことを彼等に知らした。吾々の到着後九日經つて、此國の大王(家康)は私に彼の許まで來るやうにと言つて來た』――ヰリアム・アダムスのその妻にあてた手紙。

註二 『神樣の思召で世間の人の眼には不思議に思はれるに相違ないやうな事が起こるやうになつた、何となればヱスパニヤとポルトガルとは私の不俱戴天の惡むべき敵であつたのである、然るに今彼等は此卑しい慘めな者なる私に求めなければならないのであるから、そしてポルトガルもエスパニヤも彼等の商議の一切を私の手を通してしなければならないからである』――一六一三年[やぶちゃん注:慶長十八年。]一月十二日附のアダムスの手紙。

註三 彼は彼を殺さうと求めた人々にまでも好意を持つてゐる。アダムスは恁う言つた『私は彼の氣に入り、私の言つた事に彼は何でも反對しなかつた。私の以前の敵達はそれを不思議がつてゐた、そして今となつて彼等は私がエスパニヤ人とポルトガル人に對してなしたやうな友誼を彼等に對してもつやうに私に懇願しなければならなかつた、惡に報ゆるに善を以てするといふやうにして。それで私の生活を得るために時を費やすには、私には最初非常な勞働と困難とを要した、併し神樣は私の勞働に報いを授け給うた』

[やぶちゃん注:「ハワアド」政治家で海軍軍人の初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(Charles Howard 一五三六年~一六二四年)か。一五八五年から一六一九年にかけて海軍卿を務め、「アルマダ海戦」(Armada Wars:スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻に於いて一五八八年に英仏海峡で行われた諸海戦の総称)を始めとするスペインとの戦争を指揮した人物。ウィリアム・アダムス(William Adams)は一五六四年生まれで、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)来日、元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日)没である。

「セイマア」初代ハートフォード伯エドワード・シーモア(Edward Seymour 一五三九年~一六二一年)か。ウィキの「エドワード・シーモア初代ハートフォード伯によれば、父はエドワード世の『下で護国卿を務めたサマセット公エドワード・シーモア、母はサー・エドワード・スタンホープの娘アン。一五五二年に『父がウォリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバランド公)らに捕らえられ処刑されるとサマセット公位を始め爵位は没収されたが』、一五五九年に『新設の形でハートフォード伯・ビーチャム男爵に叙せられた。しかし』、一五六〇年にヘンリー世の『曾孫に当たるキャサリン・グレイ(サフォーク公ヘンリー・グレイとメアリー・テューダーの娘フランセスの次女でジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したため、エリザベス』『世の怒りを買い』、『ロンドン塔へ投獄された。ただ、獄中にも関わらず』、『妻の下を訪れていて』、一五六一年には長男エドワードが、一五六三年には『次男トマスが生まれている』。一五六八年に『キャサリンが死亡すると釈放されたが、息子』二『人は庶子とされ』、『王位継承権は無いものと決められた』。一五八二年に『フランセス・ハワードと再婚した際、子供達を嫡子に格上げしようとして』、『再び捕らえられ』、一五九八年には『フランセスが亡くなり』、『失敗に終わった』。一六〇一年に『ハワード子爵トマス・ハワードの娘フランシスと』三『度目の結婚、フランセスとの間に子供が無いまま』、『死去した』とある。但し、「Seymour」姓の人物は複数おり、私は世界史に疎いので、彼以外の人物かも知れない。

「ドレイク」イングランドの航海者で私掠船(しりゃくせん:英語:Privateer:戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃し、その船や積み荷を奪う許可である私掠免許を得た個人の船を指す)船長であったが、海軍提督となったサー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ドレークによれば、『イングランド人として初めて世界一周を達成し』、「アルマダ海戦」では、『艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した』。『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「ホオキンズ」イングランドの私掠船船長・奴隷商人で、海軍提督ともなったジョン・ホーキンス(John Hawkins 一五三二年~一五九五年)であろう。ウィキの「ジョン・ホーキンスによれば、彼は『フランシス・ドレークの従兄弟であり』、彼も『アルマダの海戦で活躍した』とある。

「フロビシヤア」イギリスの航海者・私掠船船長で探検家のサー・マーティン・フロビッシャー(Sir Martin Frobisher 一五三五年又は一五三九年頃~一五九四年)であろう。ウィキの「マーティン・フロビッシャーによれば、『私掠船に乗ってフランス船などを襲い多くの富をイングランドにもたらした。北西航路の探検を始めた後は』、三『度にわたり』、『現在のカナダ・バフィン島(レゾリューション島およびフロビッシャー湾)を訪れ』、『航路よりも金の採取に熱中したが、結局』『、採取した鉱石は金ではなく』、『ただの黄鉄鉱だったことがわかった』。一五八八年の「アルマダ海戦」では、『スペイン艦隊の撃退に対する貢献から爵位を贈られている』とある。

「一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル」不詳。

「イギリス商館のキヤプテイン・コツク」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』( Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks 一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。]

大和本草卷之十三 魚之上 泥鰌(ドヂヤウ) (ドジョウ)

 

泥鰌 海鰌ハクジラ也極テ大ナリ泥鰌ハ極テ小也ナレ

 𪜈形ハ相似タリ性温補脾胃ヲ助ク但峻補乄塞氣

 然煮之有㳒○一種京シマドヂヤウ一名鷹ノ羽

 トチヤウト云アリ又ホトケトチヤウ共云筑紫ニテカタビ

 ラトチヤウト云泥中ニハヲラス沙溝淸水ニ生ス本草

 時珍曰生沙中者微有文采ト是也ドヂヤウノ白色

 ニテ有文采者也○泥鰌ノ羹先米泔ニテ能煮ア

 フラ浮ヒタルヲスクヒテスリミソヲ入一沸スレハ氣ヲ不塞乄

 ツカエス煮鰌法也

○やぶちゃんの書き下し文

泥鰌(ドヂヤウ) 海鰌は「クジラ」なり。極めて大なり。泥鰌は極めて小なり。なれども、形は相ひ似たり。性、温補して、脾胃を助く。但し、峻補〔(しゆんほ)〕して、氣を塞ぐ。然〔れども〕之れを煮〔るに〕、㳒〔(はふ)〕、有り。

○一種、京、「シマドヂヤウ」、一名「鷹ノ羽ドヂヤウ」と云ふあり。又、「ホトケドヂヤウ」とも云ふ。筑紫にて「カタビラドヂヤウ」と云ふ。泥中にはをらず。沙・溝・淸水に生ず。「本草」、時珍曰はく、『沙中に生ずる者、微かに文采〔(もんさい)〕有り。』と。是〔(これ)〕なり。「ドヂヤウ」の白色にて文采有る者なり。

○泥鰌の羹〔(あつもの)は〕、先〔(まづ)〕、米〔の〕泔〔(ゆする)〕にて、能く煮、あぶら浮びたるをすくひて、「すりみそ」を入れ、一沸〔(ひとわかし)〕すれば、氣を塞がずして、つかえず。鰌を煮る法なり。

[やぶちゃん注:脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus が本邦産の代表的一般種。属名「ミスグルヌス」はヨーロッパドジョウ(Misgurnus fossilis:英名European weatherfish or European weather loach)を指す古い英語名に基づき、種小名「アンギリカンダトウス」は「ウナギの尾のような」の意。但し、市販されているもの及び料理屋で供されるそれらは多くがドジョウ属カラドジョウ(唐泥鰌)Misgurnus dabryanus であることが多くなったという(ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカラドジョウのページによるが、泥鰌好きの私も強くそう感ずる)。同種はアムール川からベトナムまでの中国大陸東部・朝鮮半島・台湾が原産地であるが(ここはWEB図鑑「カラドジョウに拠る)、ぼうずコンニャク氏によれば、カラドジョウは『日本では関東地方、東海地方、近畿地方、愛媛県などで確認されている。日本では国外外来種で、要注意外来生物。群馬県、栃木県、埼玉県、神奈川県、長野県、愛知県、岐阜県、滋賀県、山口県、香川県、愛媛県などで定着』してしまっているとあり、WEB魚図鑑「カラドジョウ」には、『本種は食用として輸入されたドジョウに混ざって逃げ出した、あるいは遺棄され日本に定着したものとされている』。『しかし、日本列島ではふたつの異なる遺伝的集団があることが報告されており、そのうちの一つは中国のものと同じ集団とされる(移植され』て『定着したものと思われる)が、もう一つの集団は他の地域で見られない集団であると』され、『現在』、『研究が進められているところである』とある。なお、私も若い頃はよくやったが、恐るべき有棘顎口虫の中間宿主となることがあるから、「踊り食い」などの生食はやめたがいい。

「ドヂヤウ」ウィキの「ドジョウによれば、『多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、字音仮名遣に従った表記では「どぢやう」が正しいとされている。大槻文彦によれば、江戸後期の国学者高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから「どぢょう」としたという。「どぜう」の表記は越後屋初代・渡辺助七が「どぢやう」は』四『文字で縁起が悪いとして縁起を担ぎ』、三『文字の「どぜう」を用いたのが始まりといわれる』とあり、私の行きつけの「駒形どぜう」の主人もそう言っていた。

『海鰌は「クジラ」なり』例えば、かの曲亭(滝沢)馬琴の描いた鯨図譜の題名は「海鰌圖說」(かいしゅうずせつ:現代仮名遣)である。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで全図見られる。但し、現在、本邦には「海泥鰌」「海鰌」「うみどじょう」の名を標準和名に持つ。骨魚綱条鰭亜綱側棘鰭上目アシロ目アシロ亜目アシロ科ヨロイイタチウオ属ウミドジョウ Loach brotula がいるので注意されたい。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のウミドジョウのページをリンクさせておく。それによれば、無論、海水魚で水深三十~二百メートルのやや深い砂泥地に棲息し、分布は千葉県外房から九州南岸の太平洋沿岸、新潟県から九州西岸の日本海・東シナ海、及び東シナ海大陸棚斜面から上部で朝鮮半島東岸・済州島・山東省から海南島の中国沿岸、オーストラリア北岸・東岸・西岸とあり、『食用として認知されていない』とある。ちょっと漫画っぽい風体である。

「クジラ」脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla 鯨凹歯類 Cetancodonta、或いはその下位の鯨反芻亜目クジラ目Cetacea に属するクジラ類。

「形は相ひ似たり」おいおい! 似てませんって! 益軒先生! と叫ぼうと思ったら、後に示すように「本草綱目」の受け売りだったのね、先生。

「峻補して、氣を塞ぐ」狭義には、漢方医学に於いて補益力の強い薬物を用いて、気血の激しい虚なる状態や陰陽の気が孰れかに暴走している事態を急激に変化させる療法を指すが、ここはそうした薬効作用が甚だ強いため、精神面での副作用を起こし、気鬱になるという意味であろう。

「然〔れども〕之れを煮〔るに〕、㳒〔(はふ)〕、有り」「㳒」は「法」の異体字。後述されている。

「シマドヂヤウ」「鷹ノ羽ドヂヤウ」日本固有種である、ドジョウ科シマドジョウ(縞泥鰌)属シマドジョウ Cobitis biwae であるが、近年同種からCobitis sp. として「オオシマドジョウ」・「ニシシマドジョウ」・「ヒガシシマドジョウ」「トサシマドジョウ」(どれの異名かは不詳であるが、「スジシマドジョウ」の名もあるようである)の四亜種が分離されているらしく(ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のニシシマドジョウのページに拠る)、それらも当然、「タカノハドジョウ」の異名を引き摺って保有していると考えねばならぬし、ほかにもヤマトシマドジョウ Cobitis matsubarae もおり、それも含めた方が無難である(後で示すサイト川のさかな情報館シマドジョウ属も参照のこと)。また、ウィキの「シマドジョウ」によれば、他にも「カワドジョウ」「ササドジョウ」「スナサビ」「スナメ」などの異名や地方名が多いとあり、『山口県西部・四国南西部を除く』、『ほぼ日本各地の淡水域に生息している。河川の中流域の砂礫底に多く見られる』とある。

「ホトケドヂヤウ」記載ではシマドジョウの異名のようにしか見えないが、現行ではシマドジョウとは科レベルで異なる全くの別種である。コイ目タニノボリ科フクドジョウ(福泥鰌)亜科ホトケドジョウ(仏泥鰌)属ホトケドジョウ Lefua echigonia。日本固有種。シマドジョウのような有意な縦縞はなく、体色も全体に茶褐色から赤褐色を呈して(黒点散在)いて、全く似ていない。分布域は青森県を除く、東北地方から三重県・京都府・兵庫県。但し、フクドジョウ属フクドジョウ Noemacheilus barbatulus の方は、縦縞があり、ややシマドジョウに似てはいる。しかし、フクドジョウは国内での自然分布域は北海道のみで、近代以降に福島県・山形県米沢市に移入、他にはシベリアから中国東北部・朝鮮半島・サハリンに分布する北方種であり、益軒の頃の認識世界の外にいた種であるから、考える必要はない。

「カタビラドヂヤウ」「帷子泥鰌で、先の仏泥鰌の異名だろう」と思っていたが、ちゃんと調べようと思って検索してみて、驚いた! これは何と! この「大和本草」のこの部分の記載(!)によって、九州の有明海へ流入河川に固有の種として、アリアケスジシマドジョウ Cobitis kaibarai という学名(種小名に注目!)が与えられているものの、福岡県での他種とのヤマトシマドジョウ Cobitis matsubarae  などとの混称異名である。この事実を発見したのは、サイト川のさかな情報館シマドジョウ属で、そこには、『筑紫(現在の福岡県)で初めてシマドジョウ類(カタビラトチヤウ)を記録した本草学者「貝原益軒」にちなむ』とあるのである!

「泥中にはをらず。沙・溝・淸水に生ず」シマドジョウ類は『河川の中流域の砂礫底に多く見られ』(ウィキの「シマドジョウ」)、ホトケドジョウも『水温が低く流れの緩やかな河川や湿地、水田等に生息する。あまり底層には潜らず、単独で中層の水草の間を泳ぎ回ることが多い』(ウィキの「ホトケドジョウ」)とあるから、棲息域は孰れでも齟齬はない。

『「本草」、時珍曰はく、『沙中に生ずる者、微かに文采〔(もんさい)〕有り。』と』「本草綱目」巻四十四の「鱗之三」の「鰌魚(しゅうぎょ)」(下線太字はやぶちゃん)。

   *

鰌魚【音酋。「綱目」。】

釋名泥鰍【俗名。】。【「爾雅」。】。時珍曰、按、陸佃云、鰌、性酋健、好動善優、故名。小者名鰌魚。孫炎云、者尋習其泥也。

集解時珍曰、海鰌生海中、極大。江鰌生江中、長七八寸。泥鰌生湖池、最小長三四寸、沈於泥中。狀微似鱓而小、銳首肉身、靑黑色、無鱗。以涎自染、滑疾難握。與他魚牝牡、故「莊子」云、『鰌與魚游。』。生沙中者微有文采。閩廣人去瘠骨、作臛食甚美。「相感志」云、燈心煮鰌甚妙。

氣味甘、平。無毒。景曰、不可合白犬血食。一云凉。

主治暖中益氣、醒酒、解消渴【時珍。】。同米粉煮羮食調中、收痔吳球。

附方新五。消渴飮水、同泥鰌魚【十頭陰乾、去頭尾、燒炭。】乾荷葉等分。爲末。每服二錢、新汲水調下、日三。名沃焦散【「普濟方」。】。喉中物哽、用生鰍魚、線縳其頭、以尾先入喉中、牽拽出之。【「濟普方」。】。揩牙烏髭、泥鰍魚槐蕋狼把草各一兩、雄燕子一箇、酸石榴皮半兩、搗成團入瓦罐内、鹽泥固濟、先文後武、燒炭十觔取研、日用一月以來、白者皆黑普濟陽事不起、泥鰍煮食之【「集簡方」。】。牛狗羸瘦、取鰌魚一二枚、從口鼻送入、立肥也【陳藏器。】。

   *

『「ドヂヤウ」の白色にて文采有る者なり』それで通属性を言うというのは、ちょっと無理。

「泔〔(ゆする)〕」米のとぎ汁、或いは、強飯(こわめし)を蒸した後の湯を指す。かつてはこれで頭髪を洗い、また髪を梳(くしけず)る際に濡らす水として一般に用いられた。]

ブログ1140000アクセス突破記念 梅崎春生 三日間

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年一月号『新潮』初出。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。

 簡単な語注を最初に添えておく。

・「トンコ節」旧録旧版と新録新版の二種(歌詞が異なる)があり、昭和二四(一九四九)年一月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットで日本コロムビアから発売されたのが前者で、昭和二六(一九五一)年三月に、同じく久保幸江が新人歌手であった加藤雅夫とともに吹き込んだものが後者。作詞は西條八十、作曲は古賀政男である。ウィキの「トンコ節」によれば、一九五〇年『以降から売れ出した理由には朝鮮戦争の特需景気による「お座敷の繁盛」という社会状況の変化が大きかったともいわれ、歌詞に見られる「さんざ遊んでころがして」や「上もゆくゆく下もゆく、上も泣く泣く下でも泣くよ」といったアブナ絵的な文句が、特需景気で増えた新興成金層による宴会などで騒ぐためのお座敷ソングとして定着したことが大きな要因とされている』。『新版を発売するにあたりコロムビアは、引き続きの作詞者である西條八十に対して「宴会でトラになった連中向きの唄を」と依頼しており、それに応える形で八十は当時としてはエロ味たっぷりの文句に書き直した。評論家の大宅壮一はこれを「声のストリップ」として批判している』とある。本作の初出から見て、ここで若者に歌われるのは後者のヒットを受けてのもの、即ち、エロい歌詞のそれと考えてよい(読めば分かるが、この性的ニュアンスは梅崎春生の確信犯である)。後者の当該録音はこれである(You Tube 0klz39氏のアナログ七十八回転レコード再生版)。歌詞だけならばj-lyric.netのこちらで新版が、同じくこちらで恐らくは旧版と思われるものが読める

・「成意」は「せいい」で、「当然の権利として認識しているといった感じを表わした主張」といった意味で使っているようである。

・老人が唄う子守歌の一節は「五木の子守歌」のお座敷唄の最終節である。歌詞全篇はウィキの「五木の子守歌を参照されたい。

・「坊主枕」は「括(くく)り枕」。布帛で筒形に縫い合わせ、蕎麦殻や茶殻などを入れて、両端をくくって作った円筒形の中・大型の枕のことで、元来は箱枕・木枕などと区別して言う語であったが、ここはもう、現行の我々が使っている普通の枕の大き目の奴と思えばよろしい。

・「一仕切」「ひとしきり」で、「仕事が一段落ついた」「一区切りついた」の意。

・「五六間」九・一~十一メートル弱。

・「軽燥(けいそう)」落ち着きがなく騒がしいこと。思慮が浅く軽弾みなこと。ここは一種の擬人法的用法。

・「厚物咲」「あつものざき」で、分厚く、花弁の多い鑑賞用の菊を指す語。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1140000アクセス突破を記念として公開した。【2018年9月20日 藪野直史】]

 

  三日間 

 

「長いヘチマだね」

「ああ、なんてひょろ長えんだ」

 畳屋が二人、庭で仕事をしていた。

 縁側のすぐ前に、低い木台をならべ、畳が一枚ずつ乗っている。畳は、部屋にはめこまれている時よりも、厚ぼったく、またその面積もいくらか大き目に見えた。あたりには、剝(は)ぎとられた古畳のへりや、よれよれの糸屑、新しい畳表の裁(た)ち片などが、雑然とかさなり、ちらばっている。そこらに午後の陽は照り、空気は乾き、ときどき藺(い)のにおいがただよい動いた。

 畳屋の一人は、五十五六のあから顔の男で、体軀(たいく)もがっしりしていた。片方は、まだ三十歳にならぬ、どこかしなびたような、青白い若者だ。若者の方は左利きらしく、老畳屋とは逆の姿勢で、反対の動作で仕事をすすめていた。左手で畳針を刺す。はみ出た畳表の端を、ずんぐりした刃物で断ち落す。薬罐(やかん)の口をじかにくわえて、水を霧にしてふきつける。しかしその動作は、はなはだ鈍い。陽をななめに受けて、霧の中には小さな虹が立った。

 この家の主(あるじ)、人見莫邪(ばくや)は、縁側に大あぐらをかき、放心したような眼付きで、二人の動作を見くらべている。畳屋の仕事の手ぶりにつられて、そっとその手が動きそうになる。はっきりしないような声で言った。

「長いだろう」

「長えね。なんだってこんなに、伸びたんだろう」

「ほっといたら伸びたんだ」

 ヘチマは古びたヘチマ棚から、ただ一本、ひょろひょろとぶら下り、その尖端は、老畳屋の頭から一尺ほどのところに揺れている。直径は一寸ばかりなのに、長さは三尺もある。さっきからそれが気になっているらしく、仕事の手をやすめて、老人はまぶしそうにヘチマを見上げた。眼尻に飴色(あめいろ)の眼やにがたまっている。干(ひ)からびた油絵具のかけらを、莫邪はふと聯想(れんそう)した。

「初めはヒョウタンだとばかり、思ったんだがね」

「ヒョウタンとは違うよ」

 この春、駅前の苗木屋で、この苗を求めたのだ。たしかにヒョウタンと指定した筈なのに、実って見ると、まぎれもなくヘチマである。ヘチマでは、中をくりぬいて酒を入れるというわけには行かない。と言って半年前のことだから、苗木屋に文句つける気にもなれない。近頃このヘチマの恰好(かっこう)を見る度に、莫邪はしてやられたような、また莫迦莫迦(ばかばか)しい気分になる。

「ヘチマ、嫌いかね?」

「嫌いじゃないよ」と老人は答えた。「嫌いじゃないけれど、あんまり長過ぎる。長過ぎると、感じが良くないね。おれは長えもの、この頃なんだか厭だねえ」

「欲しけりや上げるよ。多分いいアカスリが出来るよ」

「うん。荷車なんかに竹竿を積んだりするのがあるだろう。竿が長過ぎて、うしろにはみ出てさ、地面に引きずっている。あんなのは大嫌いだね。見ていると、口の中がカラカラになって、おでこが痛くなってくるんだ」

 莫邪と老人の対話を、若者はちらちら横目を使うようにしながら、聞いていた。青白い頰に、愚鈍らしい笑いをうかべている。その掌や肱(ひじ)や肩は、相変らずのろのろと動いている。莫邪はその腕を見ていた。若者の腕はすべすべして、肱の畳ダコも、老人のそれにくらべると、型も小さく不確かであった。そのタコの形や色に、莫邪は突然するどい生理的な色情を感じた。莫邪は視線を浮かせた。畳を剝ぎ取られたはだかの部屋に、柱時計がかかっている。針は三時五分前を指している。 

 

 ガスに点火して、薬罐(やかん)をのせる。新しいのは、霧吹き用に畳屋に貸したから、つるのとれかかった古薬罐だ。そそくさと台所を出、渡り廊下をぬけて、画室に入る。画室と言っても、莫邪が自分でそうきめているだけで、離れの四畳半を改造した、へんてつもない板の間である。イーゼルは埃(ほこり)をかむって、部屋のすみに押しやられ、床には彩色しかけた小さな金具が、足の踏み場もなく散らばっている。(長いものが嫌いだとは妙な爺さんだな)莫邪はそう思いながら、床から煙草の袋をつまみ上げ、中味をしらべてポケットに入れる。台所に戻ってくると、ガス台の薬罐は、もうシュンシュンと白い湯気を立て始めていた。

 ラッキョウを盛った井と煮立った薬罐をぶら下げて、莫邪が縁側に戻ってきた時、畳屋は二人とも縁に腰をかけ、煙草をふかしていた。その二人に、彼は急須から茶を注いでやった。

「こいつは早くヘチマ水を取るといいね」

 ラッキョウを掌に受け、器用に口にほうりこみながら、老人が言った。

「そうかい。それはどうやって取るんだね?」

「茎を切って、それから――」

 水の取り方を、老人は熱心に説明し始めた。莫邪はいい加減に相槌(あいづち)を打ちながら、ろくに聞いていなかった。肥った頰の肉がややゆるんで、うす笑いをしているように見える。運動不足のせいか、近頃また一まわり肥ったようだ。老人は話し終った。すばやい手付きで、ラッキョウを五六粒口に投げこむ。

「ヘチマ水には、用はないんだ」

 少し経って莫邪は低い声で言った。

「そりや旦那には用はねえだろうさ。男だから――」

「女房はいないんだよ」

「へええ」

 老人はちらりと莫邪の顔を見た。べつだん驚いた表情でもなかった。

「旦那はいくつだね?」

「三十五だよ。爺さんは?」

「おれの女房か。いることはいるが、今病院に入っている。もう三年ごしだ」

「あれ、あんなにナメクジがいやがら」

 と若者が口をさしはさんだ。若さに似ずかすれたような声である。その指さした庭のすみっこに、ナメクジが七八匹白っぽくぐちゃぐちゃにかたまっていた。莫邪の指は無意識のうちに、肥った膝の上で、むずむずとなにかこすり落すような動き方をした。

「さっきは俺の膝にも、一匹這(は)いのぼって来たぜ」

 庭を仕切る長者門の扉がぎいと開いて、変な器械をぶら下げた男が、つかつかと入ってきた。平気な顔で庭を横切り、台所の方に歩いてゆく。莫邪も立ち上って、汚れた床板を爪先立って歩き、台所に入った。その男は案内も乞わず、職業的な無表情さで、がたがたと上ってくる。(こういう連中は、よく台所のありかを見当つけるもんだな。職業的習練というやつかな)そんなことを考えながら、莫邪はだまって男の動作を眺めている。

 男はヤッと小さなかけ声をかけて、ガス台の上によじのぼった。手にした変な器械を、ヒューズのところに近づけたり遠ざけたり、しきりになにかを調べている。三分ほどしてまた、ヤッというかけ声と共に、男の軀(からだ)は床に降り立った。揚げ板ががたんと弾(はじ)けた。

「ちいっとばかり、漏電の気味ですな」

 男は蒼(あお)黒い顔を、初めて莫邪にむけた。

「注意したがいいですよ」

「どこが漏電してるんだね」

 と莫邪は興味をおこして訊(たず)ねてみた。

「まあ漏電というほどじゃないが、天井裏の配線のどこかに、具合の悪いところがある」

「じゃ、その配線をとっかえればいいんだね」

「そうすりゃ、一番安全だ。はあ」

「君んとこの会社で、それをやって呉れるのかい?」

「いや、うちじゃやらんね」

「じゃどうすりやいいんだい」

「注意することですね」

 と男は憐れむような眼差しで、莫邪を見おろした。

「この家はもう古いからね、どうしても配線が傷んでるね。電熱器とか大きな電球は、使用しないことですね」

 男は三和土(たたき)に降りて、板裏草履をつっかけた。ガラス扉に手をかけた。

 その後姿に、莫邪は声をかけた。

「君はメートル調べじゃないんだね。漏電を調べる係りなんだね」

「そうですよ」

「漏電を調べるだけで、あとは何もしないのかね。つまり、漏電箇所の修繕とか修理だとか――」

「それはやらない。そりゃわたしの任務じゃない。ただ漏電の状況を調査するだけ」

「ふん」

 莫邪は割切れない気持でつけ足した。

「いい商売だね」

「あまり良くもないさ。ところであんたは画描きかね?」

「いや、なぜ?」

「絵具のにおいがしたから」

 莫邪は黙っていた。男は外に出て、も一度蒼黒い顔を彼にふりむけた。

「なにしろ古家だからね。建ってから三四十年は経つね。だから、あちこち破れたり湿ったりしている。出来りゃ電気をもう使わないことですね。はあ。そうすりや漏電したり、火事になったりすることは絶対にない」

 ガラス扉がしめられ、湿土を踏む草履(ぞうり)の音が遠ざかってゆく。莫邪は何となく手を伸ばして、ついでのようにガスの栓をひねってみた。シュウシュウと音が立った。においが鼻に来た。莫邪は栓をゆっくりしめた。昔は止んだ。

「さて」

 裸の床板を兎(うさぎ)飛びして、縁側に戻ってくると、二人はまだ縁に腰かけて、煙草のけむりをはいていた。茶碗も空だし、丼のラッキョウもすっかり空になっていた。老人は莫邪の顔を見ると、ゆるゆると腰を上げ、半纏(はんてん)の裾をはたはたと叩いた。

「さあ、仕事だ」

 若者も立った。ヘチマの胴を指でちょっとつつく。秋陽の中で、そのだらしなく細長い物体は、不承不承(ふしょうぶしょう)に揺れた。 

 

 流しのすみにも、小さな飴(あめ)色のナメクジが、一匹へばりついていた。空の丼を洗ったついでに、そいつもついでに流し落し、手をズボンで拭き、莫邪は台所を出た。そして画室に入った。(畳屋というやつは、ラッキョウを五六十粒も、よく食えるもんだ)床に散乱した金属片をかきわけて、莫邪は床に坐りこんだ。あたりを見廻した。

「さあ、こちらも仕事だ」

 さまざまの形のブリキ片は、パチンコ台に使用する金具である。比較的大きいのはケースと言って、玉のたまるところを飾る金具。小さいのはハッタリという名で、穴をかざるブリキ片のことだ。それらの彩色を、知合いの辰長パチンコ台製作所から依頼されて、明後日までに仕上げて届ける約束になっている。彩色代は、ケースは一枚につき二十円、ハッタリは五円だ。それほど悪い手間ではない。ハッタリなどはその気になれば、一日に四百や五百は彩色出来る。それぞれの形に応じて、七福神の顔を描いたり、猿や牛や梟(ふくろう)を描いたり、花や機関車や昆虫を描く。面白い仕事ではないが、引換えに金を呉れるので、収入としては確実だ。以前勤めていた雑誌社よりは割がいい。

 一年前その雑誌社をクビになって以来、莫邪はひどく苦労した。身寄りには、丸の内に事務所をもっている異母兄があるが、そうそう援助を仰ぐわけにも行かない。ある日偶然、莫邪は電車の中で、中学校時代の旧友辰野長五郎に出会った。莫邪の失業を知ると同情して、俺のところの仕事をやってみないかと言った。

「君はたしか絵ごころがあったな、あの頃から」

「仕事って何だね?」

 と莫邪は反問した。辰野は名刺を出した。辰長パチンコ台製作所長という肩書がついている。辰野は大きな掌を莫邪の肩に置き、慈善者特有の過剰な光を眼に宿しながら、なだめるように言った。

「なに、絵ごころがあれば、素人(しろうと)だってやれるさ。古なじみだから、特に割を良くしておくよ」

 それから四ヵ月、莫邪はもっぱらこの仕事で生計を立てている。画室にとじこもって、終日この仕事をしていると、何だか自分が囚人にでもなったような気がしてくる。雑誌記者時分に、彼はF刑務所を見学に行ったことがある。その時たくさんの囚人たちは、黙々と坐って、玩具をつくったり箱の紙貼りをしたりしていた。一日中ブリキ片と向い合っていると、自分の表情が囚人たちのそれと、全くそっくりになってくるのが判る。その自覚は重苦しかった。

「さあ、仕事だ」

 莫邪はも一度、ぼんやりと四辺(あたり)を見渡した。しかし手は画筆の方には伸びない。急に腹が減ったような感じで、マカロニみたいなものが突然食べたくなってくる。咽喉(のど)がぐうと鳴った。

「あいつら、仕事してるかな?」

 畳を換えようと思い立ったのは、半年ばかり前、春頃のことだ。金のやりくりの都合で今まで伸び伸びになったが、今だってやりくりがついたわけではない。畳はますます傷(いた)んでくる。雨が降ると部屋のすみに茸(きのこ)が生えたりする。なるたけ畳の上は踏まずに、縁や廊下や敷居を歩くようにしているが、それでもいよいよ傷んでくる。やむなく思い立って、月払畳表替株式会社というのに頼んで、畳替えをして貰うことになった。替代は、今月から四ヵ月、月割で会社に払い込めばいい。今来ている二人は、その会社がよこした畳職だ。だから金銭支払いについては、この二人は直接莫邪とは関係がない。彼等は会社から、きまった日当を貰うのだろう。二人の働き方がのろのろしているのは、どうもそのへんに関係があるらしい。

 莫邪としては、何日かかろうとも、とにかく畳が新しくなればいいのだから、その働きぶりに干渉する気もないが、今朝からなんということもなく、何度も縁側に足を運び、二人の仕事ぶりを仔細らしく眺めた。どうも連中の動作は、他のことに気をとられているような具合で、はっきりしないところがある。ラッキョウを食べる時ははっきりしているが、いざ仕事に向うと、労働していると言うより、単に止むを得ず動いているようなおもむきだ。

「へんなもんだな」

 彼は無意識に画筆をとり、左手で鈍色(にびいろ)のブリキの一片をつまみ上げていた。その表面に、芋虫みたいな模様をさっさっと描きつけると、画筆をそばに置いて、しばらくそれを眺めていた。笑いに似た翳を頰にはしらせながら、そのまま立ち上った。ブリキ片はカチャリと床に落ちた。猫足で渡り廊下を過ぎ、台所に入った。

 塩は食器戸棚の壺の中にあった。一握り、大づかみにつかむと、莫邪は下駄をつっかけ、勝手口から外に出た。庭に廻ると、畳屋はさっきと同じ姿勢で、のろのろと手や体を動かしていた。場所は老人と若者が入れ代っている。ヘチマのすぐ下で、若者は肱(ひじ)でぐりぐりと畳を押しながら、低い声で流行歌をうたっていた。その背を廻り、庭のすみに莫邪はしゃがみこんだ。根太の根元に、ナメクジ群はかすかにうごめきかたまっている。うしろで眠そうな老人の声がした。

「ナメクジかい?」

「うん。塩をかけてやるんだ」

「よしなよ。もったいない」

しかし莫邪は、塩をばらばらとふりおとし、最後に掌全部を使って、ぐしゃりとそこに塩を押しつけた。塩は白い土饅頭(まんじゅう)の形となり、その表面に掌や指の形を不明確に残した。声を含んで笑いながら、莫邪は立ち上った。若者はまだ低声でトンコ節を口吟(くちずさ)んでいる。

 すこし経って、莫邪は二人のどちらにともなく声をかけた。

「どうだね。今日中には済みそうにないね」

「ああ、済まないね」

 老人は気のない返事をして、空を見上げた。空には雲が出始めていた。

「明日にかかるね。まあのんびりやるんだね」

「明日もいい天気だといいけどね」 

 

 再び画室に戻って、二時間ほど、こんどは仕事が相当にはかどった。ケースを十枚に、ハッタリ五十枚ばかり。その代りにこれらは、注文通りの意味ある絵模様ではなく、色と形の単純な組合せばかりだ。さっきの芋虫模様で思いついて、こんな試みをやって見たのだが、大黒やお多福の図案より面白く出来上ったと思う。でも辰長パチンコの方で何と言うか判らない。

(シュールはいけませんや、シュールは)製作所主任の棚山がそう言いながら、両掌で莫邪の方に空気を押しもどす。そんな状況を、莫邪はちらと頭のすみで想像した。

 縁側の方から声がした。

 彩色を仕上げたブリキ片を、床にていねいに四列縦隊にならべて、目算する。柱時計が五時を打った。風が出ている。夏から窓にぶら下げ放しの小さな竹の虫籠が、ふらふらと揺れている。その中には、しなびた胡瓜(きゅうり)の残骸と、かなぶんぶんの死骸が二個人っている。かなぶんぶんは鳴かないし、ごそごそ這(は)い廻るだけだし、飼って見て面白味のある動物ではなかった。死骸になればなおのこと面白くない。生きていれば、ハッタリのモデルぐらいにはなるだろうけれども。

 声が呼んでいるらしい。

 縁側には、畳屋二人が腰をおろして、庭を眺めていた。道具や木台はすっかり片づいている。出てゆくと、座敷の方から新しい畳のにおいが、莫邪の嗅覚をうった。そのまま座敷に踏み入り、二三回ぐるぐると歩いて見る。新畳は陽を吸って、蹠(あしうら)になまあたたかかった。それは快よさというより、妙に不吉なものを、莫邪に感じさせた。かすかな身慄いを感じながら、彼は縁に出て来た。

「もう溶けたかな」

 塩饅頭のあたりを見ながら、莫邪はぼんやりと口を開いた。老人はその言葉を聞き違えたらしい。

「いや、今日はもう時間だよ。あとは明日だ。明日の昼までには済むよ」

「そりやご苦労さま。それで――」

 手間賃は会社から出るんだろうね、と言いかけて止しにした。言わなくても判っていることだし、無駄なことは言わないがいい。あやふやに言葉をついだ。

「お茶でも沸かすか」

「焼酎がのみたいな」

 若者がざらざらした声でそう言った。莫邪は若者を見た。若者は脣(くちびる)を曲げてへなへなと笑っている。別に成意のある表情でもない。老人はむっと黙っている。背をまっすぐに立てて、ヘチマの揺れを眺めている。莫邪は柱によりかかり、ゆっくりと口を利いた。

「焼酎はないよ。お茶ならあるが」

「買って来るよ」

「金は僕が出すのかね?」

 そんなしきたりなのかと思いながら、莫邪は反問した。

「俺もすこし、出すよ。爺さんも出すだろ。な、爺さん」

「え?」

 初めて気がついたように、老人はふりむいた。

「出せって、いくらだい?」

 柱に身をもたせたまま、莫邪はあいまいな微笑を浮べていた。彩色の仕事が予定以上にはかどったから、飲んでもいいという気持はあった。老人はどんぶりから、何枚かの皺(しわ)くちゃの紙幣をつかみ出した。節くれ立った指が、不器用にそろえて数え始める。やや意地悪い視線で、莫邪はそれを見ていた。

「いいよ」

 老人が数え終った時、莫邪は言った。

「僕がいっぱい買うよ」

「そうかい」

 彼はポケットに手を入れた。この二人をもりつぶしてやると面白いだろうな。そんな思い付きが、素早く頭を通りぬけた。

「一升も買えばいいな」

「おめえ、ひとっぱしりして、買ってこい」

 沓脱(くつぬ)ぎに立っている若者に、老人は声をかけた。莫邪は若者に金を渡した。台所に戻り、湯呑み三つに食パンを持ってきた時は、もう若者の姿は見えなかった。外はだんだん暗くなり、庭隅の塩のかたまりだけが、ほの白く残っている。

「へんな男だろう」

 老人は表の方を指差した。若者のことを言っているらしかった。

「そうかい。それほどでもないよ」

「すこし頭がいかれているんだ。全くのハンチク野郎さ」

「でも、腕は割に確かなようだね」

 莫邪はお世辞のつもりで、反対のことを言った。

「あれ、あんたの息子さんかね?」

「とんでもない。あかの他人さ。あいつ、この間デモ行列で、巡公に頭なぐられてよ、それからしょっちゅう変てこなんだ」

「へえ、畳屋でもデモに出るんだね」

「出ちゃいけないのかね?」

「そりゃいいさ。出てもいいが――」

「頭を殴(なぐ)られると、鉢が歪(ゆが)むんだってな。ついでに脳味噌だって歪まあな」

 老人は考え深そうに、眼をしばしばさせた。

「それまでは酒一滴のまねえ、実直な男だったが、毎晩大酒を呑むようになった。やっぱり頭は殴られちゃいけねえな」

 沈黙が来た。風の音が強くなってくる。少し経って、老人が口を開いた。

「旦那はこの家に、ひとり住いかね?」

「今のところ、そうだよ」

「もったいねえ話だな」

「この家も売ってしまいたいんだけどな、買い手はないかねえ」

「売るのかい?」

 老人は頸(くび)を廻して、家内をじろじろと見廻し、天井を見上げたりした。莫邪も同じことをした。

「相当傷(いた)んでるね。がたがただ」

「昼間見ると、なおひどいよ」

「いくら位で手離すつもりだね?」

「まだ金額はきめてない。すこし手を入れなきゃ、買い手はつかないだろう」

「まあ心当りがないこともないね。話してやってもいいよ」

 少しして老人は押えたような声を出した。その件に乗気になっていることは、その眼の色でも判った。老人は膝を曲げて、縁にすこしずり上った。

「この家、火災保険つけてあるかい?」

「ある。なぜ?」

「知合いがその仕事やってるんでね。そうか。入ってるのか」

 それから老人は、莫邪の職業を訊ねた。どういうつもりなのかは判らなかった。失業していると答えるのは、気が進まなかった。画を描いて暮していると彼は答えた。

「へえ。画を描いて暮せるのかい。いい身分だね。どんな画だね」

「いろいろさ」

「見せて呉んねえか」

 莫邪は暗い庭を見た。画室に散乱しているブリキ片のことを思った。分厚いものに埋没してゆくような不快さがあった。

「見られるのは厭だよ」

「やはりそうかねえ。じゃ俺と同じだ」

「そうかね。見られるのは厭かね。でも畳屋さんだったら、どうしても眺められるだろう」

「眺められるね。縁側から見られるのが、ちょっと辛いね。白洲(しらす)に坐ってるみたいな気になる。どういうものか――」

 表から跫音(あしおと)が近づいた。会話を切って、二人はそちらを見た。薄暗がりの長者門から、酒瓶を下げた若者が、ぬっと姿をあらわした。呼吸をすこしはずませている。

「酒屋で瓶はあとで返して呉れってさ」 

 

 妻に病まれた老人と、頭がおかしい若者と、ひとり者の中年失業者は、それから一時間半ばかり、薄暗い縁側に車座をつくり、食パンをちぎって肴にして、一瓶の焼酎を飲み合った。会話はいっこうとりとめなく、ばらばらだったが、酔いは着々と進行した。老人は膝を打ち打ち、(花はなんの花、つんつんつばき、水は天からもらい水)という子守歌を、くり返しくり返し歌った。若者は湯呑みを、左手でいそがしげに口に運んだ。その揚句、畳屋は二人ともすっかり酔っぱらい、莫邪も不本意にも酩酊(めいてい)した。食パンは耳の端まで食べ尽し、瓶底には液体が潦(たまりみず)ほど残った。老人が先ず帰ると言い出した。縁側から地下足袋をはくのにも、二人は手付きがあやしく、なかなか暇どった。商売道具をめいめいの自転車の尻にゆわえつける。自転車の二つの前燈が、庭の部分を黄色くした。老人が声を出した。

「ヘチマ、貰ってくよ」

 老人はヘチマにすがりつき、ぶら下るようにした。ヘチマ棚はわさわさ揺れた。引きちぎったヘチマを、老人は警棒のように腰にむすびつけた。

「じゃ明日」

 明日また来るのなら、商売道具を置いておけばいいではないか。そう思っただけで、口には出さない。酔いが体の芯(しん)に沈みこんで、口をきくのも大儀だ。二つの自転車の燈の輪は、押し手の背を黒く浮き立たせながら、長者門をくぐり、四ッ目垣の向うに遠ざかってゆく。大声で話し合っているらしいのだが、内容は聞きとれない。(あれで自転車に乗れるかな。どこまで帰るのかな?)すっかり燈が見えなくなってから、莫邪は時間をかけて、あちこちの戸締りをした。泥棒に入られても盗られるものは何もないが、畳を新しくしたので、厳重に戸締りをする気になった。台所に入って丁寧に手を洗い、枕もとに置くための薬罐に水をみたす。この薬罐の口に畳屋が、じかに唇をつけていたことを、莫邪は思い出す。若者の腕は青白くほっそりとしていた。(あの連中、一休何を考えているんだろうな)莫邪は頰をゆるめ、笑っているような顔になり、薬罐をぶら下げて座敷に入った。時間はまだ八時頃だから、寝るには早いが、仕事する気にもなれなかった。ばたんばたんと寝床をしき、薬罐(やかん)を枕もとに置いた。ごうと地鳴りがして、軽い地震がきた。莫邪は口を半開きにしてあおむき、眼を光らせて、電燈の揺れを見詰めている。柱や敷居がみしみしと軋(きし)む。天井裏をかけ廻る鼠の跫(あし)音。配電線、と莫邪はちらと考えた。揺れはゆるやかに止んだ。電燈が動かなくなるのを確めて、莫邪はごろりと横になった。畳はあたたかいのに、布団はひやりと冷たかった。

「花はなんの花、つんつんつばき、か」

 老人の子守歌の抑揚が、皮膚の内側に、まだじんじんと沁み入っている。閉じた瞼の裏に、ヘチマの形や蒼黒い電気屋の顔や、ブリキ片の色などが入り乱れ、そして莫邪はいびきをかいて眠っていた。夢を見ていた。 

 

 朝は曇って、寒かった。黒い大きな犬が、四ッ目垣をくぐって、ひっそりと庭に入ってきた。地面をくんくん嗅ぎながら、庭の隅にあるいてくる。立ち止ると、首を垂れて、薄赤い長い舌を出し、いきなり白いものをべろべろと舐(な)めた。縁側で歯ブラシを使いながら、莫邪はそれを見た。大声を出した。犬はびくっとふりかえり、莫邪の姿を見て、構っ飛びに垣根をくぐって逃げた。莫邪は庭に降り、そこに近づいた。盛り塩の型はくずれ、不規則に散らばっている。ナメクジの姿は、どこにも見当らなかった。莫邪は下駄の歯で、湿った土とともに、塩を縁の下に蹴ちらした。歯みがき粉が昨日で切れ、今朝は塩を使っている。口の奥が突然にがくなってきた。こみ上げてくるものを押えようとして、莫邪の咽喉(のど)は苦しく痙攣(けいれん)した。表に自転車のベルが鳴り、畳屋の若者が入って来た。

「今日は」

 莫邪は顔を歪めて、若者を見た。その瞬間、今朝がたの夢にこの若者が出てきたことを、莫邪は憶(おも)い出した。ねばねばした肉質の夢の感じはすぐに来たが、どんな筋の夢だったか、それはよみがえって来なかった。血の糸の混った白い唾を地面におとしながら、莫邪は訊ねた。

「お早う。爺さんは?」

「死んだ」

 道具箱を自転車からおろしながら、若者はかんたんに答えた。

「死んだ?」

「うん」

 箱をかかえて、沓脱(くつぬ)ぎの上に置く。若者の顔には、別にきわだった表情はなかった。どんよりと動かない。

「今朝、会社から、電話がきた。爺さんは死んだから、一人で行けって」

「本当かい。嘘だろう」

「本当だ。嘘はついたことない」

「何で死んだんだね」

「それは聞かなかった。告別式は、明日の二時からだって。電話が途中で切れたんだ」

 のろのろした動作で、若者は木台を組み立てている。老人の死に無関心なのか、あるいは感情の起伏を押えているのか、よく判らない。しかし嘘を言っているのではないようであった。なにか膜をへだてて分明しないような、じりじりした感じが莫邪に来た。しかしその感じを、莫邪はうまく表白できなかった。

「変だな」

 と彼は言った。昨夜ヘチマを警棒みたいにぶら下げて、自転車を押していた老人の姿を考えた。あの時たしかに、危いなと思ったが、帰りに事故でも起きたのか。

「どこで別れたんだね、昨晩」

 若者は町の名を言った。その町がどこにあるのか、莫邪は知らなかった。若者は草履を脱いで、茶の間に上った。かけ声をかけて古畳をおこす。よろよろと、畳を引きずるようにして、庭に降りてくる。歯ブラシをくわえたまま、それを木台に乗せるのを、莫邪は手伝った。

「帰りに自動車にでも、ぶつかったんじゃないかな」

「そうかも知れない」

「ずいぶん酔ってたようだね」

「生酔いだろう」

 若者の身体は、スルメのようなにおいがした。その体臭と口調が、莫邪をやや不快にさせた。

「爺さんの家、知ってるかね?」

 若者は考え考えしながら、老人の名前と住所を答える。そして思い付いたように聞いた。

「昨晩の瓶、酒屋に戻したかい?」

「いいや、まだ」

「早く戻すがいいよ。親爺がそう言ってたよ。すぐ戻して呉れって」

 莫邪は返事しないで、若者に背を向けた。勝手口に廻り、口をゆすいだ。水がつめたく奥歯にしみた。台所のすみに、昨夜の一升瓶がころがっている。小量の液体が残っている。莫邪は台所に上り、栓をとってコップにあけた。それはコップを半分充たした。(瓶のことばかり心配してやがる!)莫邪はコップを口に持ってゆき、ぐっと一息にあおった。コップを流しの上に戻し、少しの間莫邪は神妙な顔で突立っていた。やがて腸のあちこちが熱くなり、すぐに消えた。「つまり」と彼は口の中で言った。「畳替えが昼までに済むかわりに、夕方までかかるということだな」しかし、老人の死を聞いた時のショックは、まだかすかに莫邪に残っていた。勝手口から、若者が首を出した。

「薬罐貸しとくれよ」

「そこにあるよ」

 薬罐を下げた若者に、莫邪は習慣的な口をきいた。

「今日中に済みそうかい?」

「済むだろう。済まなきゃ、残ってやるよ。明日は日曜だからよ」 

 

 電熱器に手を伸ばそうとした時、昨日の漏電係の言い草を、莫邪は思い出した。眉をひそめ、そのままかまわずスイッチをひねる。ニクロム線は見る見る赤熱してくる。古薬罐を乗せ、莫邪は心もとなげに天井を見上げた。天井は蜘蛛(くも)の巣だらけで、部分的には房になって垂れ下っている。天井板の向うにある煤(すす)だらけの配電線を、莫邪はある抵抗と共に想像した。この古家への、そしてここに棲息する自分へのぼんやりした憎悪が、莫邪の胸にじわじわとひろがってきた。しかしこの瞬間でも、莫邪の顔はあおむいている関係上紅潮し、頰の贅肉(ぜいにく)もたぶたぶとゆるんでいるので、いかにも楽しげに見える。彼は呟(つぶや)いた。

「玉置庄平、か」

 さっき聞いた老人の名だ。玉置老人の住んでいる町の名は、莫邪は聞き覚えがある。たしか辰長ハチンコと隣り合った町の名だ。その町の老いたる一住人が、昨夜なんらかの事故か病気によって死亡した。自分に納得させるように、莫邪はわざと筋道をつけて、そんなことを考えてみた。北向きの画室は寒かった。やがて薬罐がしゅんしゅんと沸(わ)き立ってきた。食慾はなかった。沸き立った湯にコーヒーをいれ、彼は二杯飲んだ。電熱器を切った。画筆をとり上げる。画筆もブリキ片も、指につめたかった。

 昼までにハッタリを百二十箇ばかり彩色した。昨日みたいな色調ではなく、今日はちゃんと顔や鳥や獣など。描いている間は、それに没頭する。玉置庄平の死も、ほとんど頭に上ってこなかった。

 十二時、莫邪は空腹をかんじた。

 庭では、剝ぎ取った古畳表をござの代りにして、若者が弁当を食べていた。びっくりするほど大きな弁当箱に、白い御飯がぎっしり詰めてある。縁側から莫邪はそれを見下した。若者は旨(うま)そうに舌を鳴らした。御飯に埋もれた紅生姜(べにしょうが)の色が、莫邪の眼にしみた。

「お茶、飲むかね?」

「うん。欲しいね」

 今日もこの男は酒を飲みたいと言い出すかな、と莫邪は考えた。空はまだ曇って、どんよりと暗い。ヘチマ棚からは、実を千切られた蔓(つる)が一本、ふらふらと揺れている。(あのヘチマはどうなっただろう) 背中にうそ寒さを感じながら、莫邪はのそのそと部屋に入った。仕事は予想外に進行していて、古畳をあと三枚残すのみになっている。

(畳だけ取っ換えても、あんまり意味がなかったな)今の索莫(さくばく)とした情緒が、老人の死の報知とも関連がある。それは確かだけれども、どういう筋道の関連があるのか、よく判らなかった。台所の方に歩きながら、明日は旨い鮨でも食べようかな、と彼は考えた。考えてみただけで、すぐそれは頭から消えた。この日一日、莫邪はもう鮨のことを全然思い浮べなかった。 

 

 翌朝眠が覚めた時、まっさきに意識にのぼってきたのは、鮨(すし)のことであった。莫邪は眼をぱちぱちさせながら、視線をあてどなく天井に這わせていた。鮨は夢の中にも出てきたらしい。坊主枕ほどもある巨大な鮪が、ずらずらと並んでいる。そういう場面をたしかに見たような気がする。そこから引きつがれた後味として、それは寝覚めの莫邪の頭に浮んできたらしかった。あたたかい寝床に手足を伸ばし、莫邪は五分間ばかり、その夢の前後の筋道を、ぼんやりと反芻(はんすう)している。雨戸がしまっているので、部屋の中はうすぐらい。畳のにおいがする。とりとめのない平安と幸福感がその匂いの中にある。熟眠した果ての目覚めの少時(しばらく)が、一日中で莫邪にはもっとも甘美な時間に感じられる。やがて彼は、大きなかけ声をかけて、むっくりと起きあがる。立ち上って着物を着る。今朝は昨日ほど寒くない。帯をぐるぐる捲きつけながら、もう鮨のことはすっかり忘れてしまっている。彼は呟く。

 「もう戻ってきてもいい時分だがなあ」

 この家付きの老女中のお君さんというのが、肉親の不幸で郷里に戻って、もう二週間も経つ。その間莫邪は、自ら雨戸をあけ立てし、自ら食事をつくり、自ら寝床の始末をし、毎日そうすることに、そろそろうんざりし始めてきた。たかが自分一人が生きて行くために、こんなに煩瑣な行事と手続きがあるとは、今まで想像だにしなかった。お君さんはしっかりした働き手では決してない。天井が蜘蛛(くも)の巣だらけでも放っておくような女で、むしろ怠け者に属するが、それでも彼女の一日中の仕事の量は相当なものだと、莫邪は体験を通じて始めて認知した。三度の料理だけでも並大抵ではない。お君さんがいなくなって三日目のこと、莫邪はカレーライスを作製する野心をおこし、大失敗をした。カレー粉の分量を誤ったらしく、辛くて辛くて口に入らない。捨てるのは勿体(もったい)なく、砂糖をまぜたり味噌を入れたり、水や粉を増量したり、いろいろ試みてみたが、ますます奇怪な味になってゆくばかりで、とうとう大鍋一杯のそれを全然無駄にした。それ以来莫邪は複雑な料理を断念して、かんたんなもので我慢している。食物の夢をよく見るのも、おそらくそんな関係からだろう。

(近頃塩分が不足しているんじゃないか?)

台所で歯ブラシを使いながら、莫邪はちらと考えた。歯ぐきから血が出るらしく、毎朝唾に赤いものがまじる。全身がぶわぶわとむくんだような感じで、ちょっと動くのも大儀な気分になる。莫邪は眉をひそめた。あのナメクジを溶かしこんだ塩のかたまりと黒い犬のことが、ふっと頭に浮んできたからだ。

 ブリキ片の仕事はまだ少し残っていた。

 そそくさと鬚(ひげ)をそり、顔を洗い終えると、彼は薬罐をぶら下げて画室に入って行った。どのみち今日は外出するから、朝食は省略しても差支えない。

 午前九時、残余のブリキ片を、全部彩色し終えた。莫邪は押入れから、小さな古トランクを出す。乾いたのはそのまま、絵具で濡れているのは一枚一枚紙片をあて、そっくりトランクの中に重ねて入れる。電熱器をつけて、薬罐を乗せる。仕事が一仕切済んだこと、久しぶりに外出できることが、莫邪の気持をやや浮き立たせていた。立ち上って、洋服を引っぱり出す。近頃肥って服が窮屈になってきたので、肥った分だけ下着を減らさねばならない。冬に向うというのに辛い話だが、それも仕方がない。ネクタイを結びながら、莫邪は鼻歌をうたっている。カラーが咽喉(のど)仏をしめつけて、すこし息苦しい。意味もない鼻歌の節が、ふっと一昨夜の子守歌の抑揚に似てくる。あやふやな表情で、莫邪は歌を止めた。

「告別式は午後二時と言ってたな」

 柱鏡の中の自分の顔と、莫邪は中腰のまましばらく向き合っている。鏡面をしめるその顔は血色よく、屈託なげに紅潮し、笑う気持は毛頭ないのに、膚や頰の筋肉はゆるんで、おのずから不断の微笑をたたえている。くたびれた服やネクタイを見なければ、つまり顔かたちだけならば、けっこう特別二等重役ぐらいには見えるだろう。莫邪は八割がた満足して、柱鏡から身体をはなす。

 薬罐が煮え立っていた。

 莫邪は用心しいしい床に坐り込む。膝から腿(もも)のあたりまで、ズボンがはち切れそうになっている。慣れた手付きでコーヒーをいれる。溝く熱いのを時間をかけて飲み干す。トランクの蓋をしめ、ゆっくりと立ち上る。背伸びをしたついでにハンチングをつかみ、頭に載せる。トランクをぶら下げて、あとも見ず部屋を出る。

 落陽(うすび)さす朝の小路を、莫邪は駅の方に歩いていた。辰長パチンコに品物を届ける時はいつも、彼はこのいでたちである。このいでたちは、その度ごとに、莫邪の気に入っていた。鼠色の背広に、やや斜めにかぶったハンチング。手に提げた小さなトランク。どこから眺めても旅行者と見えるだろう。旅人。家郷を失い、あてどなくさまよいの旅に出る。その贋(にせ)の情緒が、常に莫邪の胸をこころよく刺戟し、莫邪の歩調をさわやかにする。莫邪の歩調にしたがって、ぶら下げたトランクの中では、数百のブリキ片が互いに触れ合いこすれ合い、ガチャガチャガチャと鈍く乾いた音を止てる。このやくざなブリキ片と引換えに、どれほどの金が貰えるか、やがて莫邪は神妙な瀕になり、口の奥でぶつぶつと呟きながら暗算を始めている。薄ら日は照っているが、空には雲が多い。冬に入る前兆のように、雲はそれぞれ翳(かげ)を持っている。 

 

 すぐ背後で聞き覚えのある声がする。がらがらしてよく徹る声だ。(藤田の声に似ているな)一年前雑誌社で同僚だった男。ぎっしり詰った満員電車の中で、その会話を背にしながら、莫邪はいっそう体をすくめるようにする。その声は別の声と、胃の話をしている。(やはり藤田の声だ)振り返ろうと思えば出来ないことはないが、そうしたくない。なるべく自分と気付かれたくない。失業の引け目が莫邪をそうさせる。午前十時、電車は揺れながら奔(はし)っている。カーブにかかる毎に、トランクをはさんだ両脛(すね)がしなって痛い。

(満員電車に乗るのも久しぶりだな)

 そろそろ右手を頭に上げ、ハンチングの廂(ひさし)をそっと引きおろしながら、莫邪はそう思って見る。背中がうすうすと汗ばんでくる。背後の話題は、胃のことから寄生虫のことに移っている。Uという作家のこと。それが虫下しを呑んだら、回虫が二十四匹もぞろぞろと出てきたという話。おかげですっかり健康をとり戻したが、どういう訳か、とたんに小説が書けなくなったという話。相手側の低い笑声。

「つまりさ、今までのあいつの小説は、回虫が書いていたということさ。当人はただの仲介人さ。だから奴さん、近頃は後悔して、生野菜ばかり食ってるという噂だよ」

「そいつだけでなく、小説書くてえのは、大がい虫けらの部類じゃないのかい」

 声に笑いが混る。こんな会話の向うにある世界から、俺はもう一年も隔離している、と莫邪は思う。脛の間でトランクの中味がガチャリと揺れる。ある苦痛が莫邪の胸をはしり抜ける。それをごまかすために、すぐ前の男が窮屈そうにひろげた新聞の一部分に、莫邪は視線を固定する。丹念に一字一字をたどって読む。うなぎのどろ吐かせ。彼は意識を強引にそこに集中させた。どじょうやうなぎのドロを早く吐かせるには、料理をする前に唐辛子(とうがらし)を細かく刻んで少し振り込んだ水にしばらく放しておくと、きれいにドロを吐きます。これは唐辛子の辛味成分であるカプサイシンが、うなぎの胃を刺戟するためです。電車が速度をおとした。

「カプサイシン、か」

 電車はホームに、辷りこんだ。扉がはずみをつけて開く。莫邪は背をぐっと曲げ、大急ぎでトランクの把手をつかむと、その丸まった姿勢のまま扉へ突進し、ホームにころがり出る。カラーにしめつけられた首筋が汗ばみ、ワイシャツの釦がひとつ弾け飛んでいる。ずっしりと重いトランクを下に置き、莫邪は顔を前方に突出し、指をカラーと頸の間にはさんで風を入れた。鼻の両翼に汗が粒になってふき出ている。

「カプサイシン。こんな役に立たない言葉は、早く忘れなくちゃ」

 大切なことはすぐ忘れてしまう癖に、生活に関係のない不用のことは、いつまでもしつこく覚えている。記憶から排除しようとすればするほど、そいつらは爪を立ててしがみつく。近頃の莫邪の記憶の大部分は、そんなやくざなかけらばかりで満たされていて、本筋のものは忘却の後方に薄れかかっている。

「カプサイシン」

 電車が発車して、がらんとなった線路に、莫邪は忌々(いまいま)しく唾をはいた。唾は線路の鉄に当り、一部分は斜めにぐにゃりと枕木に、辷り落ちた。莫邪はハンチングの形を直し、トランクを持ち上げて、のろのろと改札の方に歩き出す。 

 

 午前十時半。パチンコ部品係主任の棚山幸吉は、製作所の二階の小さな窓から、しごく無感動な顔付きで、通りを見おろしていた。製作所と言っても、小さな町工場程度のがたぴしした建物で、塗りもペンキも剝げかかっているし、入口なども貧弱な構えだ。眼下の通りをななめに横切って、今その入口の方に、トランクを重そうにぶら提げた人見莫邪が、ゆっくりと近づいてくる。棚山はその姿を眺めながら、チッと歯を鳴らした。

「よく肥ってやがるな、あの先生は」

 棚山はせんから莫邪という男を好きではない。それは棚山自身が瘦せているせいもあるが、莫邪のあの頰ぺたのあたりの、能の無さそうな笑いが、何となく気に食わないのである。彩色技術も優れているとは全然思えない。それなのに、所長辰野長五郎の旧友だというわけで、塗り代も特別高く取る。所長の言い付けだから仕方がないけれども、普通の彩色下請(したうけ)はケースが十円、ハッタリが三円が相場なのに、あの男たけにはその二倍も払っている。ムダな浪費のような気がして、全く面白くない。階段をのぼってくる重々しい跫音(あしおと)を聞きながら、棚山はかるく舌打ちをして、煙草に火を点けた。

「所長の気紛れにも、ほんとにうんざりするな」

 そんな余分の金があるなら、この俺の月給を上げて呉れればいいのに。彼がそこまで考えた時、うすっぺらな木扉がぎいと鳴って、汗ばんだ莫邪の丸い顔がぬっとあらわれた。

「今日は」

「今日は」

 棚山も反射的に愛想笑いをうかべて、あいさつを返した。莫邪は扉をしめて、口を半開きにして部屋中を見廻した。

「辰野君は、今日は留守ですか?」

「所長は昨日、名古屋に発(た)ちましてねえ」

 と棚山は歯の奥をチイッと吸った。

「近頃うちの売行きもあんまり香ばしくないんで、新知識を仕入れに、製造本場の見学ですわ。ははは」

「そうですか。それはそれは」

 莫邪はハンカチを振出して、がっかりしたように額をごしごしと拭いた。やや不安な眼付きになっている。

「売行きが良くないんですか」

「もうそろそろこの商売も下火でしょうな」

 棚山は意地悪さをかくして、にこにこと笑って見せた。

「もう業界も飽和状態ですしねえ」

 莫邪は困惑したような表情で、視線をあやふやに宙に浮かしている。棚山は煙の輪をはき出しながら、その莫邪の顔をじっと見詰めていた。莫邪はふと我に帰ったように、足もとのトランクを卓の上に載せ、おもむろに蓋を開いた。ぎっしり重ねて詰めこまれたブリキ片を、棚山はじろじろとのぞきこんだ。形式的に口を開いた。

「御苦労さまですな。毎度毎度」

「いやいや、こちらこそ」

 女みたいにふくらんだ莫邪の掌が、一重ねずつブリキ片を摑(つか)んで、次々卓上に並べ始める。ブリキ片は触れ合って音を立てる。棚山の手がつと伸びて、その卓の上の一片をつまみ上げた。

「こ、こりゃ何ですか?」

 莫邪は手を休めて、棚山の方に顔を上げた。それは一昨日描いた、あの無意味な色と形である。その一片が指にぶら下げられているのを見た時、予期しないかすかな羞恥と狼狽がのぼって来て、莫邪はそれをごまかすように、曖昧(あいまい)な笑いを頰に走らせた。棚山はその一片を、掌の上で二三度ころがした。

「手をお抜きになっちゃ、困りますな」

「いや、そりゃ、手、手を抜いたわけじゃなくて――」

 とどもりながら莫邪はあわてて弁解した。

「いつもいつも月並な模様じゃ、お客も飽きると思ってね。それでこう、ちょっとシュールの――」

「シュールは困りますな。シュールは」

 棚山はつめたい声でさえぎって、不機嫌な動作でそのブリキ片をことりとトランクに投げ戻した。

「大衆は月並で結構ですよ。ええ、シュールはお断り。これは描き直していただかなくちゃあ。この手のやつは、一体何枚あるんです?」

「ええ、何枚だったかな」

 莫邪は急に興覚めた顔になり、一昨日の分をより分け始める。棚山の手ももどかしげにその作業に参加して、二十本の指がしばらくそこらで忙がしく動いた。

「じゃ、この分は別として――」

 すっかり整理し終えた時、棚山は卓上に整列したブリキ片の数を読みながら、低い声で言った。

「今日お支払する分は、ええと、合計と願いましては、ええ、四千六百円也か。そうですな」

 棚山の瘦せた身体が隣りの部屋に消えて、紙幣(さつ)束を持ってまた現われる迄に、莫邪は不合格品をトランクに収め、もう元の表情を取り戻していた。棚山は紙幣束を莫邪につきつけた。莫邪は受取った。

「ええと、次の仕事は――」

「所長がお戻りになってからのことですな」

 棚山はわざと退屈そうな声を出した。

「私どもではよく判りませんで」

「そうですか。それじゃまた」

 紙幣束を内ポケットにしまい、頭をかるく下げて、莫邪は扉の外に出た。棚山は急いで窓のところに行き、ふたたび通りを見おろした。トランクを下げた莫邪の姿が、やがて真下の入口から出てくる。左右を見ながら、小走りに車道を横切る。向う側の歩道を四五間歩いて、ふと立ち止る。小さな鮨(すし)屋の前だ。

「奴さん。金が入ったんで、鮨でも食べる気だな」

 あざけりを含んだ笑いが、棚山の瘦せた頰にのぼってきた。莫邪の鼠色の服が、今彼方で紺ののれんをくぐろうとしている。 

 

 マグロを六つ、あなごと烏賊(いか)を各四つずつ食べ、莫邪はちょっと頭をかしげ、服の上から胃のあたりを押えてみて、今度は鉄火巻を注文した。鮨屋がそれをつくっている間、莫邪はあがりを飲みながら、台の向う、大薬罐をのせた電熱器を、ぼんやりと眺めていた。薬罐はさかんに湯気をふいていた。

(告別式に行ってみるかな)

 どうせ今日は暇だし、家に戻っても仕方がない。それにあの老人の死は、こちらにも充分かかわりがある。

 鮨屋は鉄火巻をつくりかけて、うしろに手を伸ばし、電熱器のスイッチをパチンと切った。莫邪の眼はそれを見た。

(はてな?)

 彼の顔は急に緊張し、遠くを眺める空虚な眼付きになった。

(今朝、おれは、うちの電熱器を消してきたかな?)

 莫邪は大急ぎで記憶の中を探り廻した。右手がもぞもぞ動いて、スイッチをひねる手付きになる。切ったような気もするが、切らないような気もする。どうもはっきりしない。不安げな呟きが口から洩れ出た。

「さて、これは――」

「へい。おまちどお」

 六つに切った鉄火巻が、黒漆の台にずらずらと並ぶ。莫邪の手がそこへ行く。口ヘ運ぶ。海苔の香。ワサビ。莫邪の右手は、惰力で台と口を往復する。古家のこと、その屋根裏の配電線、火災保険のことなどを、莫邪はあれこれと考えている。最後の一つを口にほうりこみ、ろくに嚙みもせず、ぐつとのみこむ。(三十五にもなって、職もなければ、女房もない)莫邪は元の弛緩(しかん)した顔容にもどって、生ぬるいあがりを飲み乾しながら、うんざりしたような声を出した。もう家なんかどうでもいいような気分になっている。

「ああ、腹いっぱいになった。いかほど?」

「へい」

 千円札からおつりを貰いながら、莫邪はふたたび訊ねてみた。

「富田町三丁目というと、ここからどう行けばいいんだね?」

 昨日若者から聞いた玉置老人の住所である。この町と隣接しているから、ここからぶらぶら歩いて行ける筈であった。 

 

 玉置庄平は黒い喪服を着け、玄関にしつらえた壇の歪みを直したり、弔花の位置を動かしたりしていた。この老人の頑丈な体軀(たいく)には、紋服はあまり似合わない。袖口から太い武骨な手首がにゅっと出ている。告別式の時刻までには、まだすこし間がある。庄平は壇の正面に廻って、不備やそそうの点がないか、ずっとそこらを見廻した。

 壇の一番奥には、黒く縁取られた引伸し写真がかかげてある。一昨日Q精神病院で死亡した庄平の妻の写真である。発病前に撮った写真なので、ひどく若々しく見える。庄平は眼をしばしばさせながら、それを眺めた。亡妻の死因は盲腸炎である。腹膜炎を併発して、一昨日の午前に息を引きとった。しかし庄平は今それほど悲しみを感じていない。生きていても、重症の精神分裂病だから、彼女は生涯庄平の生活に再び戻って来ることはなかったのだ。庄平にとっては、三年前の妻の発病の時の方が、よっぽど悲しかった。

「これでよし、と」

 庄平は踵(きびす)を返し、紋服の裾をわさわさ鳴らしながら、門のところまで出て来た。

 小路を向うからゆっくりした歩調で歩いてくる人影が、その庄平の姿を見て、ぎょっとした風に立ち止った。庄平はその男を見た。門から五六間隔てた、電柱のすぐ横である。電柱には「玉置家」と書いて矢印をつけた紙が貼ってある。

 男は鼠色の服をつけ、片手にトランクをぶら下げている。食パンのように肥っている。庄平は、眼を細めて男の顔を見た。そして庄平はそのきょとんとした顔の男が、一昨日仕事をやりに行った家の主であることを、やっと思い出した。

「やあ」と庄平は言った。

 莫邪はようやく驚きから覚めたように、トランクを左手に持ち換えて、そろそろと庄平の方に近づいてきた。近づきながら口の中で何かもごもご言ったようだが、庄平には聞き取れなかった。庄平はかさねて言葉をかけた。

「そんな恰好して、どこへ行くんだい?」

「うん」と莫邪はもつれたような混乱した口を利(き)いた。

「ちょっと、そ、そこまで」

「そうかい。俺んちは今日は、ちょっと取り込みでさ」

 庄平は顎(あご)を玄関の方にしゃくって見せた。壇の横や向うに、手伝いの人の影が、ちらちらと動いている。香のにおいが流れてきた。

「女房が死んだんでね」

「おお。それはそれは――」

 莫邪はとってつけたように頭をぴょこんと下げた。

「御愁傷さまでした。して、何の病気で?」

庄平はかんたんに亡妻の病状を説明した。他の人々に何度も説明したあとだから、口下手な庄平にしては、なかなか要領を得た話しぶりであった。莫邪はうなずきながら耳をかたむけている。

「それで昨日は来なかったんだね」

「ああ、そうだ。あの若僧っ子、何か言ってなかったかい?」

「いや、何とも」

 莫邪はうそをついた。本当のことを言うのも具合が悪かった。

「あの青年、妙な青年だね」

「うん、全くハンチクな野郎さ」

「ヘチマ、どうしたね?」と莫邪は思いついて訊ねてみた。

「そこに漬けてあるよ」

 門のすぐ傍の防火用水槽に、ヘチマは頭をすこし出して漬けられていた。水は青黒くどろりと濁っているので、底の方は見えなかった。

「何月か経つと腐って筋ばかりになるね。そうすりゃもう立派なアカスリだ」

「こいつは細長いから、背中こするのに都合がいいね」

 黒くよどんだ水面に、空がうつっていた。庄平は空を見上げた。

「今日は日曜だろ。Q病院の運動会さ。女房が生きてりゃ、見舞いがてら、そいつを見に行こうと思ってたんだがな」

「ほう。運動会って、気違いのかい?」

「そうだよ」

「そりゃ僕も見たいもんだな。面白そうだな」

 莫邪は興味をそそられて口走った。

「今から行けばまだやってるよ」

「そうかい。ひとつ行って見ようかな」

「行って見るといい。若え時にゃ何でも見とくもんだ」

「どこにあるんだね、その病院」

 庄平は説明を始めた。手伝いの若い男が、木机をかかえて、奥から出てくる。受付台にするのらしい。ハンチングをかぶり古トランクを下げた自分の姿が、どうも場違いのような感じがして、莫邪は落着かず身体をもじもじ動かした。

「じゃあ――」

 莫邪はハンチングに手をかけて、頭をちょいとかたむけた。

「そうかい」庄平もうなずき返した。

「こういう取り込みで、まだ家のこたぁ話してないんだ。そのうち連絡にゆくよ」

「家のこと?」

「そら、家を売る話さ」

 莫邪はあいまいに合点合点して、そろそろとそこを離れた。五六間歩くと、ふいに急ぎ足になりながら、ポケットからハンカチを出して、顔の汗をごしごし拭いた。手に提げたトランクの中では、不合格のブリキ片が踊る。(てんで出鱈目(でたらめ)だな)莫邪は歩調に合わせてわざとトランクを乱暴に振ってみる。ブリキ片たちはトランクいっぱいに、チリチリチャランと軽燥(けいそう)な音を立てて鳴った。

「もう、こうなれば――」

 何がこうなればなのか、莫邪は自分でも割切れないまま、頰の肉を力ませて呟いた。

「気違い共の運動会を見に行くより他はない」

 さっき鱈腹(たらふく)つめこんだ鮨が、胃をむっと膨脹させている。息苦しい。何であんな沢山食べたのだろう。そのせいか、思考に筋道がつかず、一向にとりとめがない。さっき見た霊前の菊の花はきれいだったな。あんなのを厚物咲というのかな。路地を出て横に曲りながら、莫邪はそんなことを考えている。 

 

 病院の構内のやや広い空地に、気の確かな人々と不確かな人々が混然と群れ集い、旗ははためき、風船玉は揺れ、拡声器からはレコードの響きが、ひっきりなしに流れ出ていた。空地は高いポプラの樹々にかこまれ、空は厚い雲の層におおわれている。

 午後三時。呼物の仮装行列が終って、仮装の人々はアーチをくぐり、どよもす歓笑の中をしずしずと病棟の方に引き上げて行った。たくさんの子供たちが、放された風船を追って、乱れ走る。レコードが突然止んだ。男の声が拡声器に乗って、たかだかと響き渡る。

「ええ、次は、本日のプログラムの最後、プログラムの最後、綱引きでございます。東病棟対西病棟の、東西対抗綱引き。患者さんたちは全部出場して下さい。患者さんは全部」

 看護婦の白服がばらばらと、見物席の方に走ってゆく。空地の一隅から、屈強な男たちが七八人で、長い綱を引っぱり出してくる。看護婦たちが見物席の患者たちをうながして廻っている。見物席は不規則にぎわめき、乱れ立ち、列がくずれてくる。ばらばらと空地に出て来る。うながされても、しゃがんだまま動かないのもいる。男もいるし、女もいるし、年も服装も雑多な群衆は、かり立てられた家畜のようにのろのろと動く。空地の中央に長々と綱が横たえられる。呼び声や笑い声や叫び声。拡声器のアナウンス。やがてごちゃごちゃした雑沓は、すっかり一本の綱の両側に収まっている。黄色い砂塵が中空までうっすらと立騰(のぼ)っている。

 号笛一声。雑然たる懸け声と共に、砂塵をおこして綱引きが始まる。またたく間に終る。東病棟の圧倒的勝利。拡声器が鳴り渡る。

「本日は有難うございました。本日の運動会はこれで無事終了致しました。役員の方は至急本部まで集合して下さい。――」

 午後三時二十分。病棟にはさまれた石畳の道を、外部からやって来た見物人は、三々五々、正門の方に戻ってゆく。重症病棟の鉄格子の窓から、今日の運動会に参加出来なかった患者が、戻ってゆく人波を眺めている。黄色く色づいた銀杏(いしょう)の葉が、病棟の屋根にも石畳にもおびただしく散り、湿った風に吹かれている。Q精神病院の大きな石造の正門を、今トランクを提げた人見莫邪がのそのそと入ってくる。ぞろぞろと正門向けて動いてくる人々を見て、妙な顔をして立ち止る。黄色い銀杏の葉が一枚ひらひらと莫邪の肩にとまる。

「運動会はどこだね?」

 折柄傍に走ってきた子供らを呼びとめて、莫邪は訊ねる。子供らは立ち止って、小莫迦(こばか)にしたような顔を一斉に莫邪にむける。

「もうとっくに済んじゃったよ。なあ」

「今頃来たって遅いよ。デブ小父さん」

 そして子供たちは、口々に呼び交わしながら、てんでんばらばらに走って行く。莫邪は気の抜けたような鈍重な顔で、ぼんやりと佇(た)っている。それからのろのろと廻れ右をする。動いてゆく人波にまぎれこんで、今来た道を戻ってゆく。その肥った右肩には、さっきの銀杏の葉がまだとまっていて、莫邪の歩調と共にかすかに揺れている。 

 

反古のうらがき 卷之三 狼

 

    ○狼

 いつの頃にかありけん、「鬼面山(きめんざん)」といへりける、すまひのほて、なん、ありけり。身のたけ九尺斗り、身の重り四十貫にすぎて、力もすぐれて、つよかりけり。江のすまひ事、はてゝ、いづれの國にか趣くとて出けるが、おしえ子等、多く從ひて行けり。所用のことありて、道より、只、獨り行けり。此道は山にかゝりて、日暮よりは狼出て往來をなやますと聞(きき)けれども、少し酒に醉(ゑひ)たるまゝに、人のとゞむるをも聞かで行(ゆき)けり。元より大男なれば、ふつうの人の十人廿人よりは、つよからんとおもふにぞ、人々も、おしても、とゞめざりけり。明けの朝にいたる迄、歸り來(こ)ざりければ、人々、怪しみて、其道筋、尋ね行て見るに、山より、山に入る道筋に、小高き所ありて、其あたりに狼壹つ、切(きり)ころして有りけり。「扨こそ」とて尋行(たづねゆく)に、又、狼の打殺したるもあり、引さきたるもあり、五つ六つぞありける。其あたりに、草履・竹笠など取ちらしたれども、其人はあらざりけり。おちこち走り𢌞りて見れども、血のしたゞりなど、少づゝ見へて、其人の行衞はしれざるにぞ、「扨は、狼に取られ玉ひつらん」と、人々、言合(いひあ)へり。「かゝる猛者(もさ)のやみやみと食殺さるゝといふは、定めて、狼、いくつとなく集りたるならん、五つ六つは切(きり)もしつ、引さきもしつらんが、手に獲物のあらざれば、はては、つかれ果て、取られたるなるべし。其時の樣、さこそすさまじかりつらん」と思われて[やぶちゃん注:ママ。]、殘(なご)り惜しかり。予が見たる「鬼面山」は、身の重さ四十貫と聞へし。四ツ谷に住(すみ)けり。それが師にや、または、又の師にや。

[やぶちゃん注:「鬼面山」四股名。因みに、鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)の後半生と交わる時期に生きた、文政九(一八二六)年生まれの大相撲力士に第十三代横綱となった美濃国鷲巣村(現在の岐阜県養老町)出身の鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう 明治四(一八七一)年没:本名・田中新一)がいる。身長百八十八センチメートル、体重百四十キログラム。武隈部屋。嘉永五(一八五二)年二月場所で「濱碇(はまいかり)」の四股名で初土俵を踏み、安政四(一八五七)年一月場所で新入幕を果たし、「鬼面山 谷五郎」に改名、この頃には徳島藩抱え力士となっている(ウィキの「鬼面谷五郎に拠る)。しかし、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃で、この鬼面山谷五郎が初土俵を踏んだ年(未だ四股名は「濱碇」)に桃野は亡くなっているから、ここに出る四股名を有する複数の「鬼面山」は彼ではなく、彼の先輩格に当たる力士らと思われる。

「すまひのほて」「すまひ」は「相撲(すまひ)」で力士。「ほて」は「最手」「秀手」で、最上位に位置する強い相撲取りを指す語。

「九尺斗り」約二メートル七十三センチメートル。誇張があろうが、恐るべき身長である。

「四十貫にすぎて」百五十キログラム超。

「所用のことありて、道より」後に「明けの朝にいたる迄、歸り來ざりければ」とあることから、ある集落(①)を起点として、別な山を越えた集落(②)に私的な所用があり、①を出て、②に戻る予定であったことが判り、「道より」は、とある「道から」は弟子らと別行動で「寄り」「道」をしたのである。

「おしても、とゞめざりけり」「押しても、止めざりけり」。強いては止めなかったのであった。

「おちこち」「遠近」「彼方此方」。場所や時を示す指示代名詞。あちらこちら。ここかしこ。

「したゞり」「下垂り」。「滴(したた)り」に同じい。

「やみやみと」「闇闇と」。副詞。どうすることも出来ないさま。みすみす。やすやすと。

「獲物」「得物」。武器。

「取られたる」目的語は「命」。

「思われて」ママ。

「殘(なご)り惜しかり」誠に残念無念なことであった。

「それが師にや、または、又の師にや」この狼に襲われて行方不明になった「鬼面山」は、私の見た四谷の力士「鬼面山」の師匠だったのか、又は、師匠のそのまた師匠に当たる人だったのだろうか。]

2018/09/19

反古のうらがき 卷之三 風俗

 

   ○風俗

[やぶちゃん注:読めば分かるが、所謂、トンデモ薀蓄の饒舌体なので、より判り易くするため、特殊な改行法を多用し、途中に注を挿入した。読み難いと思うが、悪しからず。桃野以上に私は我慢して注を附したのである。お察しあれかし。]

 文政の季年にかありけん、散り殘る花に靑葉打交りて、日永く、風淸らなる日、友人の家に訪ひ侍りしに、其あたりなる友がき一人二人集りて、酒、打のみて居にけり。各(おのおの)心々(こころごころ)のこと、語り合たる中に、一人がいふ。

[やぶちゃん注:「季年」末年。文政は十三年十二月十日、グレゴリオ暦で一八三一年一月二十三日に天保に改元しているから、一八三〇年の初夏のロケーションである。

「友がき」「友垣」。友人。交わりを結ぶことを垣を結ぶのに喩えた語。]

「扨も、此頃の風俗、いろいろの好みある中に、願ひの如くにとゝのわぬ[やぶちゃん注:ママ。]ことのみ多くて、花の咲く山遊び、又は川風すゞしき舟遊びなども、心のくるしき事あれば、樂しからず。かく友どち、二人三人(ふたりみたり)、打(うち)よりてかたり合ふとても、時の風俗に出立(いでたち)て、同じ心の人とよりあふが、反(かへ)りて、樂し。」

などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

[やぶちゃん注:「時の風俗に出立(いでたち)て」今の風俗の出で立ちをして。]

「いかなることか、時の風俗ぞ。」

[やぶちゃん注:これは貴殿の申される「時の風俗」とは「いかなること」を「か」言ふ「ぞ」の意か。或いは単に「いかなることが」貴殿の言ふ「時の風俗ぞ」の濁点落ちか。]

ととへば、先づ、男は、

「廿(はたち)のうへ、一つ二つ越たるが、さかり也。

身の丈(たけ)はひくき方ぞ、よき。

色は餘りに白からぬを、よく洗ひて、つやあるをよしとす。

目(まな)ざし・口元・鼻のかゝり、女めけるも反(かへ)りて、よろしからず。たゞにくからぬぞ、よき。

[やぶちゃん注:「かかり」作り。様子。]

髮のかゝりは、髭(ひげ)薄らかに、月代(さかやき)のそりたる跡、靑々として、油の氣(け)、少くて、つやあるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にすき立(たち)、元結の糸、數少(かずすくな)く卷(まき)て、手輕く推曲(おしま)げ、『イチ』の大きさと『ハケ』の長さと、其人の顏かたちにかなひたるが、よし。

[やぶちゃん注:「イチ」「日本国語大辞典」に、髷(まげ)の元結で括ったところから後方に出た部分を指すとあり、浮世風呂から『(イチ)が上り過たじゃあないかね』という引用例が示されてある。

「ハケ」「日本国語大辞典」に、男の髷の先端・髻(もとどり)の先・はけさき、とあり、「刷毛先」である。]

先づは『小銀杏』といへる結び樣(やう)ぞ、時の流行に叶へり。

[やぶちゃん注:ウィキの「銀杏髷」(いちょうまげ)によれば、『江戸時代を通して最も一般的だった男性の髪形』が「銀杏髷」=「銀杏頭(いちょうがしら)」で『現在』、『一般に「ちょんまげ」と呼ばれるのは』それであるとあり、『月代(さかやき)を剃り、髻を作って』、『頭頂部に向けて折り返し』、『その先(刷毛先)を銀杏の葉のように広げたもの(広げない場合も多い)』を指すが、『身分や職業によって結い方に特徴があ』あったとし、『武士の多くには』今の相撲取りのする『大銀杏が好まれた。髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。なかでも野暮ったい田舎の藩主などは頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷をこれ見よがしに結うものもいた』。『武士ではあるが、町人の中に住まって犯罪捜査に従事する「不浄役人」の与力はもっと町方風の粋な銀杏髷を結っている。髷尻が短く髷自体も短くて細い。髷先を軽く広げ月代の広いサッパリとした「細刷毛小銀杏」がそれで、町人とも武士とも見分けがつきにくい(現代でいう、私服姿の捜査員である)。同じ街中で暮らすにしても浪人などは月代をきれいに剃らず節約のため』、『五分刈り状態で伸ばしていた』。町人の『いわゆる「江戸っ子」は髪形に気を使っていて、いつもきれいに剃りあげようと散髪屋に足しげく通ったために散髪屋が社交場になるほどだった。彼らの好みはやはり「小銀杏」だが、ここでも職業によって微妙に違いが見られ』たとある(太字下線やぶちゃん)。「コトバンク」の「大銀杏」の「大辞泉」のところにある画像で「大銀杏(武士)」・「小銀杏(町人)」・「浪人銀杏(浪人)」の図が見られる。]

扨、春着の小袖ならば、『羽二重(はぶたへ)』にかあらん、『七子(なゝこ)』にかあらん、何(なんに)まれ、『通し小紋』といふに染(そめ)て、『花色染(はないろぞめ)』の『秩父絹(ちちぶぎぬ)』を裏となし、『フキ』多く出して上に着るぞ、よき。

[やぶちゃん注:「羽二重」経(たて)糸・緯(よこ)糸に撚(より)をかけない生糸を用いて平織り又は綾織りにした後で精練と漂白をして(「後練り」と称する)白生地とし、用途によって染め等を施す。一つの筬羽(おさば)に経糸を二本、二重にして 通すところからこの名がついたとされる。柔らかく上品な光沢がある高級品である。

「七子」「七子織り」「斜子織り」は経糸・緯糸ともに二本以上を一単位として平織りにした絹織物。同じ本数の経糸と緯糸を打ち込んで織る。織り目が籠目のように見えることから、現在は「バスケット織」「ホップサック織」とも呼ばれ、 漢字では他に「魚子織」「並子織」などの表記がある。「魚子織」は外観が魚卵のように粒だって見えることからと言う。ふっくらとした厚地の織物で、帯地や羽織に用いられる、と創美苑の「きもの用語大全」の「斜子織」の解説にあった。生地画像は株式会社アルテモンドのこちらがよい。

「通し小紋」「小紋」はウィキの「小紋」によれば、『全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている』とある。中でも「江戸小紋」は別格の格式あるもので、『江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。また、各大名で使える模様が固定化していった。代表的な模様として』「鮫小紋」(紀州藩徳川氏)・「行儀小紋」及び本「(角)通し小紋」があり、これを特に「江戸小紋三役」と称する。他にも『「松葉」(徳川氏)「御召し十」(徳川氏)「万筋」、「菊菱」(加賀藩前田氏)、「大小あられ」(薩摩藩島津氏)「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)があ』り、『このような大名の裃の模様が発祥のものを「定め小紋」「留め柄」という』とある。「通し小紋」の生地様態は、表参道の江戸小紋の店「染一会(そめいちえ)」のこちらがよい。

「花色染」「花色(はないろ)」は青系統の代表的な伝統色で、強い青色を指すので、ここもその染め色のことであろう。サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「花色」によれば、奈良時代以前は「はなだ色」、平安の頃は「縹色(はなだいろ)」の『色名で、江戸の頃より「花色」「花田色(はなだいろ)」と呼ばれるようにな』ったもので、『現代でいうところの』「青色」に当たるとあり、『ちなみに、「花色」の名前は平安時代にも見られ、これはもともと鴨頭草(つきくさ)(露草(つゆくさ)の古名)の花の青い汁で摺染(すりぞめ)していたことに由来し』、『いつからか』、『藍染(あいぞ)めに黄蘗(きはだ)をかけた色を指すようにな』っ『たが、色名はそのまま残ったようで』ある、とある。

「秩父絹」現在の埼玉県秩父地方で生産される絹。着物の裏地として、当時はその丈夫さで知られていた。

「フキ」「袘(ふき)」。創美苑の「きもの用語大全」の「袘」の解説から引く。『袷の着物や綿入れの袖口や裾の部分で、裏地を表に折り返して、表から少し見えるように仕立てた部分。ふき返しとも』称する。『表地の端の傷みや汚れを防ぐため』及び錘(おもり)の『役割などを担ってい』るもので、『かつては、ふきに綿を入れる「ふき綿仕立て」があり』、『ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで、裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも、ふっくらと柔らかな美しいラインが出て、重厚な感じや着物の豪華さを引き立て』る役割をした。『このため、武家や富裕な商家の女性に好まれ』たという。『ふきの分量は流行で変化もあり、江戸時代中期には』一『寸以上の幅や厚みを持つものもあったといい』、『時代が下ると庶民にも広がり、明治~昭和初期にはふき綿入りの晴れ着も一般的にな』った『が、現在は花嫁衣裳や舞台衣装などに残るのみで』あるとある。但し、『綿を入れないふきは、今でも袷の着物や綿入れの袖口や裾に見られ』、『表布からちょっぴりのぞいて見えるふきは、配色などにおいてのデザイン性も兼ね備えてい』て、『今も昔も変わらぬ、実用と装飾の両面を併せ持つ工夫といえ』る、とある。]

かさねには『中形小紋』といへる染(そめ)の縮緬(ちりめん)に、おなじ【花色の事。】[やぶちゃん注:以上の【 】内は割注ではなく、「おなじ」の右添え書き。]こん染(ぞめ)の裏付(うらつけ)て、二つ三つ、打重(うちかさ)ね、黑染(くろぞめ)の『龍門』といへる絹に、白く紋(もん)付(つけ)たる上着も、よし。それも家の紋にかぎらず、紋の樣(さま)、心にくからぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に見つくろふて[やぶちゃん注:ママ。]、大きさ二寸計(ばか)りに、三所、付(つけ)たる、よし。

[やぶちゃん注:「中形小紋」本来は。型染(かたぞめ)の技術で、「小紋」よりも少し大きな型を用いて、中ぐらいの大きさ紋を染め出すものを「中形」と称したようである(後に今のような専ら浴衣地の呼称となった)。幾つかのページを見たが、まず、グーグル画像検索「中形小紋」がよかろうか。

「龍門」染織品の販売用商品名であるようだ。沢尾絵(かい)氏の論文「『宗感覚帳』にみる江戸時代前期の染織品の受容と価格―西鶴作品との比較検討を中心に―」(『日本家政学会誌』第六十四巻第十二号(二〇一三年刊)PDF)の「(4)越後屋呉服店の経営と呉服商品」(「越後屋呉服店」は現在の「三越」の前身)の章に(ピリオド・コンマを句読点に代え、「日本永代蔵」の刊行年の個所の表記を変更、注記号を省略させて貰った)、

   《引用開始》

越後屋呉服店の繁盛の様子を、井原西鶴が『日本永代蔵』(貞享 五(一六八八)年)巻一ノ四「昔は掛算今は当座銀」でも取り上げている。ここでは、本来の三井八郎右衛門の名が三井九郎右衛門に置き換えられているが、店の規模、手代の人数、越後屋の特徴である現銀売り・掛値なしの商売といった内容は駿河町に移転後の越後屋呉服店の特徴であり、当時の越後屋呉服店の知名度の高さを窺うことができる。越後屋の大変な繁昌ぶりと共に、品揃えの豊富さも知ることができる。売場で扱われる商品の名称としては、金襴、日野・郡内絹、羽二重、紗綾、紅類、麻袴、毛織類、天鵞絨(天鳶兎)、緋繻子、龍門があげられる。これらの品揃えは、三井高好が記録した『宗感覚帳』の「亥七月店落残」「呉服物相場書上」の羽二重類、紗綾、紅類、羅紗や猩々緋(毛類)、びろうど、龍文といった名称と共通する。西鶴作品中の染織品と同じ名称を呉服屋の記録に見出せることで、西鶴作品に描かれている染織品を、当時実際に使用された呉服商品として捉える事が出来るのである。

   《引用終了》

因みに、同論文の注の十七に、「日本永代蔵」の当該箇所が引かれてあり、確かに『龍門』とある。沢尾氏によれば、事実は『龍文』が正しいようだが、この薀蓄は桃野が記憶の中にあるものを再録したものであるから、殊更に指弾する必要はない。]

肌着の襦袢(じゆばん)、縮緬のしぼり染(ぞめ)ぞ、よき。襦袢の袖は無地の茶染(ちやぞめ)なるべし。

半ゑりは、皆、黑染の『八丈』、打(うち)そろひたる、よし。

[やぶちゃん注:「八丈」八丈絹。原産地とされる伊豆八丈島産の「黄八丈」を中心とした、平織りの絹織物で、八丈島産のものを「本八丈」と呼び、類似品が各地で生産されるようになった。着尺地(きしゃくじ:大人用の着物一着を作るのに要する布地)・夜具地などに用いられる。また、各地で生産されているものに「黒八丈」・「米沢黄八丈」・「鳶八丈」・「八丈紬」・「紅八丈」などがあり、「美濃八丈」・「尾張八丈」などの名も残っていると、「ブリタニカ国際大百科事典」にはあり、同事典の「黒八丈」には、黒色無地の絹布で、略して「黒八」ともいう。生糸を落葉高木の夜叉五倍子(やしゃぶし:ブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma)の液に入れて煮出してのち、鉄分を多く含んだ泥土にもみ込むことで、ヤシャブシに含まれるタンニンと泥中の鉄分が化合して純黒色に染まる。現在の東京都あきる野市五日市付近を中心に産し、「泥染」と称したが、現在ではほかの機業地へ移ったとある。また、「大辞泉」には、主として和服の半襟・袖口や畳の縁などに使用される。黒色で、織り目を横に高くした絹織物で、初めは八丈島で織ったので、この名がある、とするから、八丈産ではない可能性が高い。]

ゆきたけは、少し身丈(みたけ)より長くして、ゆたかなる、よし。

[やぶちゃん注:「ゆきたけ」着物の裄(ゆき:着物の背の縫い目から袖口まで。肩ゆき)の長さ。

「身丈」この場合は、実際の背骨の中心から腕首までの長さを言っていよう。]

帶はよき品ほどよけれども、此頃の流行に隨ひては、『小白(こはく[やぶちゃん注:底本のルビ。])』の淺靑染(あさぎぞめ)ぞ、よき。幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて、『伊勢松』といふ縫物師が仕立たるぞ、よき。

[やぶちゃん注:「小白(こはく)」不詳だが、或いは光沢のある絹織物か? 識者の御教授を乞う。

「淺靑染」薄い青緑色の「浅葱(あさぎ)」色に染めるたものであろう。

「幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて」全然、意味不明。「くけ」は「絎(く)く」(現代語「絎(く)ける」)で、「縫い目が表に出ないような縫い方をする」の意か。そうすると、例えば帯の幅を曲尺(かねざし)の寸法で「一寸八分」(=五センチ二・七ミリ)分、内側に織り込んで縫い目を外に出さずに縫った帯の謂いか?

「伊勢松」帯職人の名前らしいが、不詳。]

『小白』の黑染をもて、袖形に作りたる頭巾のゆたかなるぞ、又なく、よし。

扨、上着の小袖、『黑小白』ならば、下着は『唐ざらさ』の靑にも、よし。

[やぶちゃん注:「唐ざらさ」「唐更紗」(からさらさ)であろう。インド産の更紗。木綿や絹に花・鳥などの模様を描いたもの。]

羽織は『七子』まれ、『八丈』まれ、『ケンボ』といへる小紋に染(そめ)たるに、同じく黑染の『八丈』の裏(うら)付(つけ)て、『毛拔合(けぬきあは)せ』といふに仕立(したて)、丈は二尺の上に出(いで)ざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にして、前下(まへさが)り無きぞ、よき。

[やぶちゃん注:「ケンボ」よく判らぬが、「憲法小紋(けんばふこもん)」のことではなかろうか。「憲法(けんぼう)染め」の「小紋」で、黒茶色の地に小紋を染め出したもの。慶長年間(一五九六年~一六一五)に吉岡流四代目憲法(直綱)(吉岡憲法は剣術吉岡流の歴代当主が世襲した名。渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える染織の技術も相伝した)が考案したとされる。「吉岡染め」とも。ここは赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指し、江戸時代には黒系統の平服として広く愛用された。私は「『ケンボ』といへる小紋」で、直ちに、芥川龍之介の「枯野抄」の、『と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)其角が、紬(つむぎ)の角通(かくどほ)しの懷(ふところ)を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々(りゝ)しい去來と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる』という去来のそれを思い出したのである。

「毛拔合せ」二枚の布を縫い合わせて、両方の布に縫い目から同分量の被(きせ:縫い目が表から見えないように糸道に沿って深く折った時の、縫い目から折り山までの部分。折りきせ)をかけて仕立てる手法。]

かゝれば、武士・町人の分ちなく、よけれども、武士には今一つの好み、多し。

大小の刀は、いづれも短きぞ、よき。

大の方は、二尺の外に出(いで)ざる、よし。備前の太刀、細くとぎへらして、地金(ぢがね)、あらび、心金(しんがね)、きらきらと出(いで)たるに、『丁字(ちやうじ)亂れ』の燒刃、刃(やいば)近き所斗(ばかり)殘りたるが、反(そ)り深く、輕きぞ、よき。

[やぶちゃん注:「とぎへらして」「砥ぎ減らして」。

「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」これは刀の真価としては、おかしいことを言っているように思われる。日本刀に求められるものは「折れないこと」・「曲がらないこと」・「よく切れること」で、この相い反する要求に応ずるため、折れぬように軟らかな「芯金(しんがね)」(ここで言う「心金」)という鉄を、曲がらずによく切れるようにするための「皮金(かわがね)」というよく鍛えた硬い鉄(炭素鋼)が包み込む構造になっているのである。「地金が出る」という言い方があるが、これは、太刀の研ぎをやり過ぎ、皮金が減ってしまって「芯金」がすっかり出てしまった状態を指すのであって(そこから、「表を取り繕っていたものが取れてしまい、悪しき本性が表われてしまった意味に転じた)、地金が「荒ら」んで、削れてしまい、その間から「心金」が「きらきらと」チラついて見える太刀はダメな刀なのではあるまいか? 実際に太刀打ちすることもなかった、このウンチク・ボンクラ侍のお飾り太刀であったとすれば、大いに満足、腑に落ちるとは言える。

「丁字亂れ」焼入れによって生じた文様「焼刃(やきば)」「刃文(はもん)」の一つ。丁子刃。代表的な乱刃の一つで、乱れの頭が丁子(クローブ)の蕾に似ていることに由来する。グーグル画像検索「丁子乱れ 刃文」を見られたい。]

小の方は一尺斗りの、極めて銘古く、極めて名高き品、よし。細き直(す)ぐ刀(がたな)の、金色(かねいろ)、白く見ゆるこそ、尊(たつと)げなれ。

茶染(ちやぞめ)の糸卷(いとまき)の柄に、黑塗りの頭(かしら)を卷(まき)かけて、白鮫(しろざめ)の粒(つぶ)揃(そろ)ひたるが、うるみのつやあるよふに[やぶちゃん注:ママ。]、うらに油をさし、それとしれざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にしたる、よし。

[やぶちゃん注:「日本刀・居合刀のNPS」のこちらの「柄巻き」(全三ページ)でその過程が具さに判る。

「頭」柄頭と採った。

「白鮫」サメの皮であるが、実際に使用されたのはエイの皮。表面がざらざらしていることから、滑り止め(柄の補強と柄糸がずれぬようにする)として柄木の被覆に使用された。

「うるみのつやあるよふに、うらに油をさし、それとしれざるよふにしたる」「潤(うる)みの光澤(つや)ある樣(やう)に、裏に油を注(さ)し、其れと知れざる樣にしたる」如何にも如何にもいやったらしい極みである。]

目貫(めぬき)は『いろ繪』あるぞ、よき。

[やぶちゃん注:「目貫」柄に附ける金具。「目抜」とも書く。元来は刀剣の茎孔(なかごのあな)へ通して、柄と刀身をがっちりと留めるための目釘(めくぎ)の上の金具であって、ごく実用的なもので(「目」とは「孔」のこと。それを「貫く」の意)、普通は、その上を前に出た柄糸で糸巻にしたので見えなかった。特に巻かずに露見しているものを「出(だし)目貫」と称した。しかし、中世末から近世に入ると、目釘と目貫は本来の機能的連結を失って分離してしまい、目貫は専ら、刀装(拵(こしらえ))の装飾の一つになってしまい、室町後期に装剣金工を業とする後藤家が出現して以降、「獅子」「虎」「竜」或いは「家紋」などの意匠がそこを飾るようになってしまうのである。

「いろ繪」「色繪」。金工用語。刀剣の装飾金具として、色彩の異なる数種の金属を組み合せて象眼(ぞうがん)文様を作ることを指す。]

『フチ』は銀の『四分一(しぶいち)』といへる、金或(あるい)は烏金(しやくどう[やぶちゃん注:底本のルビ。])の、立(たち)だけ、二分(ぶ)斗りなる平(ひ)ら形(かた)なるに、奈良の京にて作りたる細工のものぞ、このまし。

[やぶちゃん注:「フチ」縁金(ふちかね)。柄頭の逆の鍔側に附ける金具。

「四分一」色金(いろがね)の一つで、暗い灰色をした、銀と銅の合金。合金に於ける銀の比率が四分の一である事から名付けられた。参照したウィキの「四分一」によれば、『煮色仕上げで美しい銀灰色を示すことから』、『朧銀(ろうぎん、おぼろぎん)とも呼ばれ』、『朧銀には他に銀の表面に梨地(なしぢ)をつけ』て『光沢を消したものも含まれる』とある。

「烏金(しやくどう)」ルビで判る通り、赤銅(しゃくどう)のこと。銅に金を三~四%、銀を約一%加えた銅の合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すことから、本邦では古くから「紫金(むらさきがね)」「烏金(うきん)」などと呼ばれて重用された。

「立(たち)だけ」「だけ」は「丈」で、柄からの盛り上がったその高さ、の意であろう。

「二分」六ミリメートル。いやはや、細かい注文がお好きだね。]

鍔は、いかめしからぬぞ、よき。

其外の金(かな)ものは、金まれ、しやくどうまれ、さゝやかなる、よし。

さや塗(ぬり)は呂色(ろいろ)に『きすの魚の石』など塗(ぬり)こめたるか、又は『笛卷』といふに塗(るり)たるか、あわび貝の靑き粉(こ)をまきたるなど、いろいろ、あるべし。

[やぶちゃん注:「呂色」サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「呂色」によれば、『黒漆の濡れたような深く美しい黒色』で、『漆工芸の塗りの技法のひとつである呂色塗からきた色名で、蝋色とも書』く。『呂色塗は京漆の代表で、中でも本堅地(ほんかたじ)呂色塗は大変な工程と高い技術を必要とし、また』、『表面を平滑に磨き上げる非常に技術の高い塗りだからこそ』、『専門職の呂色師が存在するほどで』あるという。『生漆(きうるし)に油類を加え』ずに『精製したものを塗ることで、色は黒色に近い深い光沢をもつ色にな』るとある。漆アレルギーの私には触れない。

「きすの魚の石」キス類(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae)の耳石(じせき:脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織。平衡胞に含まれる平衡石で、平衡感覚と聴覚に関与する。よく目にする魚類のものが知られ、その断面は木の年輪のような同心円状の輪紋構造が見られ、事実、一日に一本の筋が形成される。これを「日輪(にちりん)」と呼び、年齢推定を日単位で行うことが出来る)であろう。キスは耳石が採取し易い。キス属シロギス Sillago japonica それは「福井県水産試験場」公式サイト内のこちらで見られる。

「笛卷」笛巻塗(ふえまきぬり)。「銀座上州屋」の「刀剣用語解説集」より引く。『刀の鞘或いは槍や薙刀の握部に施された、主として赤と黒の段塗り模様。一寸ほどの間隔で円周方向に段差をつけて塗る手法がとられる。竹笛の節模様に似ているところからの呼称だが、風流な趣が感じられる』とある。]

但し、此(この)刀の事に尤(もつとも)心を用ひで叶はざること、あり。

[やぶちゃん注:「尤心を用ひで叶はざること」最も心を用いないでは(細心の注意と意識の集中を行わない限り)、決して叶わぬ(実行不可能な)こと。]

さやの小じりに羽織のすそのかゝり過(すぎ)たるは、藥師(くすし)めきて、見苦し。餘りに刀の鞘、出過(いですぎ)たるは、田舍武士めきて、見苦し。刀の小じりは『螢小(ほたるこ)じり』とて、金まれ、銀まれ、極めて薄くして、橫に見ては、無きが如く、後(しり)へより見て斗(ばか)り見ゆるよふに[やぶちゃん注:ママ。]したる小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき。」

と、いゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「小じり」「鐺」「璫」等と書くが、元は「木尻」の意。刀剣の鞘の末端。また,そこに嵌める金物を指す。

「藥師」医師。

「螢小(ほたるこ)じり」以下に語られる構造から、何となくは判る。金銀の薄い薄片を埋め込んであれば、昼でも夜でも蛍の尻のようにそれこそ「木尻」が光るわけだ。

「後へより見て斗(ばか)り見ゆるよふにしたる」後ろから見たときだけ、辛うじて現認出来る様(よう)にした。

「小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき」ここまで私が我慢して聴いていたら、その様子をその場で滑稽に演技してこいつ以外の連中の笑いを誘う、ね。

「いゝけり」ママ。]

 余、こゝに至りて、聞(きく)事をおふるに得(え)たへずして、座を立(たち)て去りけり。

[やぶちゃん注:「おふる」ママ。「終へる」。私なら、一発、「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」のところでチャチャを入れて、へこまして黙らせる、ね。

「得」は呼応の副詞「え」の当て字。]

 數十年の後、思ひ出(いづ)るに、時の風俗は、目に見し事も忘れ侍れど、此事のみは耳に殘りて、今に語り出(いで)て話しの種となせり。

 

反古のうらがき 卷之三 隅田川の見物

 

    ○隅田川の見物

[やぶちゃん注:本篇は非常に長いので、適宜、改行を加え、途中に注を挟んだ。]

 近きころのことになんありける。大國、領し玉へる諸侯の國につかへまつる貮人の武士ありけり。こたび、江の館に召されて國を出しが、百餘里の道程を經て、江に付(つき)けり。初て君にまみへ奉ることおはりて、各(おのおの)それぞれの役儀をぞ受(うけ)たまわりける。公事のいとまある每に、城外に出(いで)て見るに、目なれぬことのみおゝく[やぶちゃん注:ママ。]て、いと興あるまゝに、今日は深川八幡、あすの日は淺草觀音と、名所々々を打(うち)めぐり、樂しみける。

 夏の初(はじめ)頃、日の永きに、朝、とく出で、此日は隅田繩手を行(ゆき)て、牛島(うしじま)・白髭(しらひげ)・梅若塚(うめわかづか)・關屋の里など見𢌞(みめぐ)り、此あたりの植木の花つくりが家に入(いり)ては、家每に見𢌞りければ、見なれぬ鉢植(はちうゑ)どもの多く、いと珍らかなり。

[やぶちゃん注:「牛島」底本の朝倉治彦氏の注によれば、『牛御前近辺をいう。向島洲崎町(現在は隅田公園に移っている)。長命寺、弘福寺と隣接して、隅田川に臨んでいた』とある。東京都墨田区向島の隅田川左岸の牛嶋神社石碑附近(グーグル・マップ・データ)。

「白髭」同じく朝倉の注によれば、『白髭明神をいう。寺島町一丁目。隅田川堤の下に鎮座』とある。現在の東向島白鬚神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「梅若塚」同じく朝倉の注によれば、『梅若山梅若寺(隅田区隅田町二町目)の境内にある。梅若丸の貴種流離譚が伝えられている』とある。但し、梅若寺は現在の木母寺の前身で、この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、後に復活して、現在の東京都墨田区堤通に現存する。ウィキの「木母寺」によれば、『寺伝によれば』、貞元元(九七六)年に『忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した』とされる『梅若丸を弔って』塚(梅若塚:現在の墨田区堤通二-六)を『つくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる』。天正一八(一五九〇)年には、『徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った』慶長一二(一六〇七)年、近衛信尹(のぶただ)に『よって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた』。『明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により』、『いったん廃寺となったが』、明治二一(一八八八)年に再興された。その後』、『白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した』とあるから、このロケーションは梅若塚のあるこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。

「關屋の里」同じく朝倉の注によれば、『隅田より千住河原までの一円の地で風光の名所、関屋天神があった』とある。これは今の北千住を中心とした一帯、現在の足立区千住仲町の関屋天満宮附近(グーグル・マップ・データ)である。]

 大(おほ)やかなる家は、門のかゝり、風流にして、座敷の樣、籬(まがき)結ひ𢌞せし樣、池の作り、石竹、いろいろの美を表せし庭の景色、こなたの家にて見たると、彼方の家にて見たると、又、別々の趣ありて、何れか勝れる、何れか劣れるなど、かたり合(あひ)て見るまゝに、幾家(いくいへ)ともなく、見てけり。最後に入たる家は、殊に門のかゝり風流にして、入て見れば、二重の板塀ありて、とみには入得ず、

「奧の方ぞゆかし。」

とて見𢌞るに、板の開(ひ)らきてあるより、入たり。

 水そゝぎ塵はらふ男の、三人四人(みたりよたり)出來て、

「いづくより。」

と問ふ。

「いや、くるしからず。何某が家の子なるが、こたび初て武藏の國に來(き)にたれば、名所古跡見𢌞るとて、此あたり迄來にけるが、植木の花作り共(ども)が、心も及ばず手を盡したる庭の面白くて、一と家一と家と見てければ、此方(こなた)は殊に大(おほ)やかなる構へに見受(みうけ)侍れば、奧の方ゆかしくて、こゝ迄は入來(いりきた)れり。ゆるして、見せ玉へ。」

といへば、

「こは、ふしぎの者どもが來にけり。」

とて、打(うち)どよめくを、耳にも留(とめ)で、籬に添(そひ)て入(いり)けり。

 主(あるじ)めける、道服(だうふく)[やぶちゃん注:僧衣。]着たる法師が是を見て、

「今の言葉に相違もあるまじ。苦しからず。こなたへ。」

といひて入(いれ)けり。

 これは、今迄見しとは、又一きわ立(だつ)て、大きなる石のいろいろなる形あるもあれば、石の燈籠の大きなるに、見も及ばぬ彫物したるもあり、池の𢌞り、松の枝、橫に竪に思ふまにまに作りなして、珍卉(ちんき)珍木、數をしらず、植込(うゑこ)めたり。四つ足の亭(あづまや)に唐木(からき)の珍らしきもて雕(ゑ)りたる桂・うつばり[やぶちゃん注:梁。]・椽板(えんいた)・簷(のき)のたる木[やぶちゃん注:垂木。]迄、思ひ思ひの珍木を集めたるもあり。大やかなる家の作り、又、わびたる家の作り、其所々によりていろいろに作れり。

 𢌞り𢌞(めぐり)て、元來(もとき[やぶちゃん注:底本のルビ。])し道のほとりに來て見れば、池に臨みたる家の、美を盡して作りたる椽前に大石を置(おき)、先の法師が椽にこし打懸(うちか)けて居(ゐ)にけり。

「扨も扨も、見事なる手入(ていれ)かな。」

とたゝへてければ、

「これにて、茶壹つ、まゐるべし。」

といふにぞ、

「辱(かたじけな)し。」

とておし並んで腰かけたり。

 淸らかなる女(め)の童(わらは)が茶を汲(くみ)て持ちて來るに、今一人の女の童が、見るに目なれぬむし菓子を、玉(ぎよく)の器に盛りて持(もち)て來にけり。

「一つ、まゐり玉へ。」

といふに任せて、手に取り見るに、是も目に見たる事もなき飴の如きものの煉り詰(つめ)たるに、砂糖の氷なせるを打碎(うちくだ)きてかけたる樣なるにこそありける。二人のもの、一つづつたうべたるに、得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」への当て字。]もいわれず[やぶちゃん注:ママ。]うまかりければ、茶も、二つ三つ、乞ひて飮(のみ)けり。

 法師もよろこべる樣に、

「酒まいり玉はんや。」

といふにぞ、

「元より、好める一所。」

とこたへければ、

「いざ。」

といひて椽に上れば、先の女の童が、酒壺・酒(さか)づき、其外いろいろの酒のな[やぶちゃん注:「菜」。肴(さかな)。]持出(もちいで)たり。

 武藏にては初鰹とて、四月の初より、松魚(かつを)を賞翫するよしは兼て聞(きき)つれども、未だ節(ふし)[やぶちゃん注:鰹節。]に作れるより外は見し事も無きを、差身(さしみ)に作りて出(いだ)したれば、問(と)はで、「鰹なるべし」とは知りけり。

 玉の鉢に盛り入(いれ)たるは、名もしらぬものゝ、いろいろに煮染(にそめ)たるを、三品五品(みしなごしな)取揃(とりそろ)へて小皿に取分(とりわけ)て、一人一人の前に差置(さしお)き、酒(さか)づきめぐらして、すゝめける。

「扨も、かゝる富貴なる家の植木の花作りもありけり。人の入來(いりきた)るに間もなくて、かゝる珍味を取揃へて出(いだ)しぬるは、絶へせず客の來ることにや。吾國は山野なれば、見る事(こと)每(つね)に珍らしく、今日程の樂しみは世に覺へなきことに侍る。」

など聞へければ、法師は、たゞうなづく斗(ばか)り、おほく物談(ものがたり)もせで座して居にけり。

 二人の者は酒の𢌞(めぐ)り、數重(かずかさな)りければ、いとゞ心よく、いろいろのこと語り出で、

「吾(わが)國主の庭も、よしといへども、手入方(ていれかた)おろかなれば、中々にかくは得及ばず。今日(こんにち)是迄、多く見し家家もこれには及ばず。殊に主(あるじ)の樣(さま)、又、主ぶりも、かくは行屆(ゆきどど)き侍らず。且(かつ)、もてなしぶりのみならず、種々の珍味に飽(あき)てけり。酒も數盃(すはい)に及びたれば、今は辭し侍る。」

といふに、一人がいふ。

「かく迄もてなしぶりよきに、如何なる謝儀の計らひにして歸らん。」

といへば、今一人がいふ。

「吾、聞及(ききおよ)びしは、江の風として、茶を乞ひたらんには、茶の價(しろ)を取らせ、酒肴(しゆかう)を出(いだ)したらんには、酒肴の價をとらすとこそきく。かゝる富貴めける家にても、其價はかはることなし。吾計(はから)ひ侍らん。」[やぶちゃん注:底本では「計」は「斗」であるが、国立国会図書館版を採った。後の『吾ながら、よく計ひけり』も同様の仕儀。

とて、懷中より細金(こまかね[やぶちゃん注:底本のルビ。])壹つ取出(とりいだし)て紙におしつゝみ、

「これは少し斗(ばか)りなれども、いさゝか先程よりの謝儀として、二人の者より送り侍る。」

とて差出(さしいだ)しければ、法師は、いなみもやらず、

「心づかひ、なし給ひそ。」

とて、火入の箱の上に置(おき)けり。二人はよろこびて、おもふに違(たが)はず受け納めぬれば、

『吾ながら、よく計(はから)ひけり。』

とて、いとまを乞ひて立(たち)ぬ。

 一人がいふ。

「かく迄によき主ぶりの家は又なきを、再び來りて訪(おとな)ひもし、又、何某々々など打連れて來らんに、家の名を問ひ侍らでは叶ひがたし。」

とて、家の名をとひしに、法師が、

「これ持(もち)玉へ。」

とて、札紙にかきたるを出(いだ)せり。

 請取(こひとり)て、紙挾みに入(いれ)たれば、『後日に見ん』とて、立出て家に歸りけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 明けの日は、國主の館につかへまつる日なりければ、二人の者も出で、諸人(もろびと)と樣々の物語する中に、

「扨も、昨日(きのふ)の遊び程面白かりつることは覺えず、隅田川の堤は絶景に侍れども、殊に勝れたるは植木の花作りが家の園なり。そが中にも白髭の社(やしろ)のこなたあるあたりに、殊に勝れたる植木師がり立(たち)よりて、酒肴のもてなしに預りたるは、又なく心よく覺ゆる。」

など語るに、諸人、問(とひ)侍りて、

「其家は何とかいふ家ぞ。」

ととふに、一人がいふ。

「札紙にしるせし名を請取たれども、家にのこし置たれば思ひ出でず。」

 一人がいふ。

「吾は名は問ひ侍らねども、座敷の鴨居の上に、石摺(いしずり)にしたる大文字を額に張りて懸けたるが、主じの名かと思ひ侍る。しかし、とくとも覺へ侍らねども、『石』へんに『頁』したる字と、今一字はわすれたり。扨、其(その)家の樣(さま)、主の法師の樣、細やかに問ふに、答ふる所、其あたりの植木師が家にあらず。

 諸人の内に心付(こころづき)たるものありていふ。

「先に聞けることあり。もろこしに、沈德潛(しんとくせん)といへる人ありて、しかじかの文字を書(かき)て額に張りしを、後の人、石摺となして、長崎の津に持(もち)て來にけり。こゝに又、何がしといへる有德人(うとくじん)あり、當都將軍の御覺(おんおぼえ)深くて、今は仕(つかへ)をやめて法師となりて、隅田川のつゝみにいませるよし、其名石摺の文字と音(こへ)おなじければ、さる人、送り奉りしより、額にはりて掛け玉ふときく。其文字に疑ひなし。其御人ならば、今仕へは止め給へども、常に將軍の御召しにより登城も爲し給ひ、御覺へ以前にかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、此御人にとり入(いり)候(さふらふ)てとあれば、如何なる望みある人も、叶はずといふことなし。こゝをもて、いづれの國主・城主たりとも、この御名を聞(きく)ときは、おそれ玉はずといふことなし。かの二人がもしあやまりて植木作りの家と見て、無禮のことあらば、一大事なり。とくとく家に行(ゆき)て名書(ながき)の札紙、もてこよ。」

といふに、二人も大(おほい)におどろき、

「左(さ)なりけるか。當所不案内のことなれば、是非なしとはいへども、云譯(いひわけ)もなき粗忽(そこつ)なりけり。」

などいう[やぶちゃん注:ママ。]内に、一人が歸り來て、

「違(たが)はざりけり。」

とて、差出(さしいだ)す名札は、まさに其御人の名にて有(あり)ければ、

「こは。いかにせん。」

と、みな一同に、かたづをのみけり。

 かくて、二人のものをば、先(まづ)、家におしこめ置(おき)て、國主には告げで[やぶちゃん注:底本「告けで」。国立国会図書館版「告げて」。後の展開から、特異的にかく表記した。]、重役のつかさ人(びと)より、使者もて、隅田つつみの館に言入(いひいれ)けるは、

「國主の家の者なるが、今度(このたび)國より出(いで)たれば、物のわきまへもなく、昨日(さくじつ)御館(おんやかた)に推參して、上(うえ)なき無禮に及びしよし、申出(まうしいで)侍るにより、二人ともに家におしこめ置(おき)て候が、いよいよ、さあらんには、如何なる刑に行ひ申(まうす)べきや、此むね、伺ひのため、參越(まゐりこ)したる。」

旨、申入(まうしいれ)ければ、頓(とみ)に使者の趣(おもむき)取次(とりつぎ)て申入(まうしいれ)けるに、

「使者、こなたへよべ。」

とて、召しけり。

 おそるおそる、入(いり)ければ、先(さき)の二人が申(まうし)つる法師、しとねの上にありて、

「きのふ來りしは、田舍の人なるべきが、庭の草木見んとて望むに任せて、ゆるして見せたるなれば、決(けつし)て無禮のことなし。『おしこめ置(おき)たり』とは、大(おほい)なるひがことなり。國主の耳に入(いる)べき理(ことわ)りなし。とく歸りて此趣き申聞(まうしき)けべし。」

とて、歸しける。

 其後は如何になり行(ゆき)て事濟(ことすみ)けんか、しらず。

 此法師も世を去り、故ありて隅田の花園も、今は田畠となりて、跡もなし。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体がポイント落ちの二字下げ。]

◎御小姓頭取中野播磨守隱居シテ石翁トイフ。墨田川ニ別莊アリ。其娘於美越、文恭廟ニ侍シテ加州公主溶姫、藝公主末姫ヲ産ム。

[やぶちゃん注:「中野播磨守」旗本中野播磨守清茂(きよしげ 明和二(一七六五)年~天保一三(一八四二)年)のことである。九千石。別名を中野碩(或いは「石」)翁(せきおう)。通称は定之助。ウィキの「中野清茂によれば、父は三百俵取りの徒頭(かちがしら)『中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔』(よしきよ:高家肝煎)『の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした』。『鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取』(原注(天暁翁浅野長祚のそれであろう)の「御小姓頭取」というのは、この誤認か)、『新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉』(彼の諡号は文恭院。原注の「文恭廟」は彼のこと)『の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある』(彼女は後注しるが、原注の「其娘於美越」の「越」は「代」の誤記か誤判読と思われる)『新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時』、『江戸城に登城する資格を有していた。このため』、『諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが』、天保一二(一八四一)年に『家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した』。『漢学者』五弓久文(ごきゅうひさぶみ)の「文恭公実録」に『よると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済』(はるさだ/はるなり)、『島津栄翁こと島津重豪』(しげひで)。『一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、彼が加増地没収と別邸取壊処分を受けてから、七~九年以内の記事となる。所持する江戸切絵図類を見ても、どの辺りかも探り得なかった。豪邸変じて田畑と成る。

「於美越」前注で示した通り、中野清茂の養子で第十一代将軍徳川家斉の側室の一人で、寵愛された専行院(せんこういん 寛政九(一七九七)年~明治五(一八七二)年)。俗名は「美代」或いは「伊根」とも。ウィキの「専行院によれば、『実父は内藤造酒允就相』(ないとうみきのじょう(「なりすけ」か))、『養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓とされている』『はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり』文化一〇(一八一三)年三月二十七日に溶姫を、文化一二(一八一五)年十月十六日に仲姫を、文化一四(一八一七)年九月十八日に末姫を産んでいる。『仲姫は夭折したが』、「溶姫」は加賀藩第十二代藩主前田斉泰(なりやす)の正室となり、「末姫」は安芸国広島藩第九代藩主浅野斉粛(なりたか)の正室となった。『家斉の寵愛が深く』、天保七(一八三六)年、『家斉にねだって』、『感応寺を建てさせ』、『将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。この感応寺では大奥の女性達が墓参りと称して寺を訪れ、若い坊主と遊興に耽っていたとされる。また』、『前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は』、『家斉に慶寧を』、『いずれ』、『将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている』。『家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した』。『慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である』。第十二代将軍『徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された』。『専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで』、『本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で』、『三田村鳶魚が天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも』、文久二(一八六二)年、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある』。明治五(一八七二)年六月十一日、『文京区の講安寺にて死去』、享年七十六歳と伝えている。『駒込の長元寺に葬られたが、後に金沢市の野田山の墓地に改葬された』とある。]

2018/09/18

柳田國男 うつぼ舟の王女 (全)  附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの上記「昔話と文學」の当該の「うつぼ舟の王女」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。太字「うけび」(誓約(うけひ(うけい))で、元来は、ある条件を設定してその成否によって願いが叶うかどうか(吉凶・運命)を占うことを指す。本文では呪言(じゅげん:まじないのことば)の意)は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある』(中略)。『書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無い』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 禁欲的に注を施した。【2018年9月18日 藪野直史】]

 

  うつぼ舟の王女

      ――ベルヴォントとヷステラ――

 

 昔々、ベルヴォントといふ貧乏で懶け者[やぶちゃん注:「なまけもの」。]で、見つともない顏をした靑年があった。母にいひ付けられて薪を刈りに行く路で、野原に三人の子供が石を枕にして、暑い日に照らされて睡つて居るのを見た。可哀さうに思つて樹の枝を伐って來て、きれいな小屋根を掛けて日蔭を作つて遣つたら、子供たちはやがて目を覺まして大そう其親切を悦び、「お前の願ひ事は何でも叶ふやうに」と言つてくれた。三人は魔女の兒であつた。それから森に入つて、木を伐つていると草臥れて[やぶちゃん注:「くたびれて」。]しまつたので、あゝあゝこの薪の束が馬になつて、私を乘せて行つてくれるといゝがなと、いふ口の下から薪の束があるき出した。さうしてベルヴォントを乘せてとことこと、町の方へ還つて來た。

 王樣の娘のヷステラが、御城の高い窓から顏を出して、薪に乘つて來るこの若者を見て笑つた。まだ生れて一度も笑つたことの無いヷステラが高笑いをした。するとベルヴォントは腹を立てて、「お姫樣孕め[やぶちゃん注:「はらめ」。]、わしの子を生め」と謂つたところが、是も忽ちその通りになつた。父王は驚いてどうしようかと思つて居るうちに、月滿ちて黃金の林檎のような美しい二人の男の兒が生れた。

 そこで家來たちと相談して、その兒が七つになつた年に、國中の男を集めて父親を見つけさせようとした。第一日には大名小名を集めて宴會を開いたが何のことも無い。二日目には町の重だち[やぶちゃん注:「おもだち」。「重立」。これは本来は近世・近代の本邦の農村部に於ける村落内の上層身分階層の通称である。多くは特定の土地所有資格者で構成され、村落の運営機構を支配していた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]金持ちを招いて見たが、二人の子供は知らぬ顏をして居る。終りの三日目には殘りの貧乏人たちが喚ばれて、其中に醜い姿をしたベルヴォントもまじつて居た。さうすると二人の子は直ぐに近よつて、しつかりとその手を取つて離さなかつたので、彼の兒であることが顯はれてしまつた。王樣はいきまいて母の姫と兒と彼と四人を、うつぼ舟に押し入れて海へ流してしまへといひ付けた。

 腰元たちがそれを悲しんで、乾葡萄と無花果とを澤山にうつぼ舟へ入れてくれた。さうして風に吹かれて海の上へ出て行つた。姫のヷステラは淚を流して、お前は何故に斯んなひどい目に私を遭はせたかと問ふと、葡萄と無花果とを下さるなら話しましようと言つた。それを貰つて食べてしまつてから、ぼつぼつと薪の馬の日の話をした。お姫樣は溜息をついて、それにしてもこの樣なうつぼ舟の中で、四人が命を棄ててしまつてどうならう。もしも願ひ事が何でもかなふならば、早く是が大きな屋形船に變つて、もと來た海邊の方へ還るやうに願ひなさいと言つた。さうするとペルヴォントは、もつと其無花果と葡萄を下さるならばと答へた。

 若者の願ひ事は直ぐに叶つた。愈〻船は陸に着いたから、爰に廣大な御殿が建つて、家來も諸道具も何でも揃ふように、願つて下さいと姫が勸めると、それも卽座に其通りになつた。折角御殿が出來ても、あなたが其顏ではしようが無い。早くりりしい美靑年に變るやうに、願つて下さいと賴んでその願ひ事もかなひ、悦んで四人仲よくその御殿に住んで居た。

 そこへ父の王樣が狩に出て、路に迷うて偶然に訪ねて來る。二人の子はこれを見て、お祖父樣お祖父樣と大きな聲で言つたので、忽ち今までの一部始終が明らかになつた。それから善盡し美盡した[やぶちゃん注:「善(ぜん)を盡(つ)くし美(び)を盡くした」と訓読しておく。欠けるものがなく、完璧であること。美しさと立派さをきわめているさま。「尽善尽美(じんぜんじんび)」。]お取持を受けて、王樣は大いに喜び、聟の一家を王城に呼び迎へて、めでたく其國を相續させることになつたといふ話。

 

        

 

 バシレの五日物語(ペンタメロネ)の一の卷に、始めてこの昔話が採錄せられてから、もう彼是三百年になつて居る。斯んな輕妙な又色彩に富んだ物語が、一つの昔話のもとの形であつた筈は無いのだが、西洋の説話硏究者の中には、此本が餘り古いために、丸のまゝで其起原を説かなければならぬ樣に、思つて困つて居る人もあるらしい。實際また後に發見せられた國々の昔話は、どれもこれも形が是とよく似て居て、たゞ比較の數を重ねて行くうちに、最初力を入れて語つて居た點が、案外な部分に在つたといふことに氣づくだけである。つまり十七世紀よりもずつと以前、又恐らくは歐羅巴以外の地に、既に話術といふものゝ發達はあつたので、それが又頗る今日のものと、異なる法則に指導せられて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「バシレの五日物語(ペンタメロネ)」Pentamerone(イタリア語:ペンタメローネ/ペンタメロン:五日物語)は、十七世紀初めにナポリ王国の軍人で詩人でもあったジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile 一五七五年?~一六三二年)が「ジャン・アレッシオ・アッパトゥーティス(Gian Alessio Abbattutis)」というペン・ネームで執筆したナポリ方言で書かれた民話集(刊行は彼の死後の一六三四年~一六三六年)。書名は中世イタリアのフィレンツェの詩人で小説家のジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio 一三一三年~一三七五年)の代表作「デカメロン」(Decameron:ギリシャ語の「十日」を意味する“deka hemerai”(ラテン文字転写) に由来。一三四九年から一三五一年に執筆)に倣ったもの。同書の「一日目」の第三話で、イタリア語サイトを見ると、主人公の綴りは Peruonto(音写は「ペルオント」か)、王女のそれは Vastolla(「ヴァストーラ」か)。英文ウィキの「Peruontoはある。]

 グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」では、如何にしてとんまの靑年が、願ひ事の何でもかなふ力を持つに至つたかを述べてない。其代りに父の王樣が訪ねて來た時に、姫が知らぬ顏をしてもう一度男に「願ひ事」をさせる。寶物の玉の杯がいつの間にか老いたる王のかくし[やぶちゃん注:ポケット。]に入つて居て、王樣は盜賊のぬれ衣を干しかねて[やぶちゃん注:晴らし(雪(すす)ぎ)兼ねて。]當惑する一條が附いて居る。それ御覽んなさい。だから無暗に人に惡名を着せてはいけませんと言つて、始めて親子の名のりをすることになつて居る。ジェデオン・ユエの民間説話論の中には、多分最初は斯んな形であつたらうといふ想像の一話を復原して載せて居るが、是も結末にはこの小さな仕返しを説いて居り、發端は若者が漁に出て物いふ魚の命を宥し[やぶちゃん注:「ゆるし」。]、御禮に願ひ通りの力を貰つたことにして居る。それから不思議の父なし兒に、父を見付けさせる方法としては、何か小さな物を其子の手に持たせて、それを無心に手渡しする相手が、誠の父だといふやうに話す例が最も多いさうで、是が恐らく上代の慣習であつたらうとユニは言つて居る。グリムの説話集でも、子供がシトロンの實を手に持つて城の門に立ち、入つて來る國中のあらゆる若者の中で、最も見にくい顏をした貧乏なハンスに、それを渡したことになつて居るのである。

[やぶちゃん注:『グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」ともに言語学者で文学者であった、ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Carl Grim  一七八五年~一八六三年)と弟ヴィルヘルム(Wilhelm 一七八六年~一八五九年)のグリム兄弟の「グリム童話」(Grimms Märchen:正式名Kinder- und Hausmärchen(子供達と家庭の童話))は一八一二年に初版第一巻が、一八一五年に第二巻が刊行されているが、著者の生前から数度改訂されつつ、版を重ねており、このHans Dumm(「馬鹿のハンス」)は第二版でDer Ranzen, das Hütlein und das Hörnlein(「背嚢と帽子と角笛」)に削除・差替された一話である(ウィキの「グリム童話の一覧」他に拠る)。ウィキの「ハンスのばか」も参照されたい。また、この話について柳田國男は翌年の昭和七(一九三二)年一月の『方言と國文學』に発表した「物言ふ魚」でも言及している。『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 物言ふ魚 七を参照されたい。

「ジェデオン・ユエの民間説話論」フランスの文献学者で民俗学者でもあったジェデオン・バスケン・ユエ(Gédéon Busken Huet 一八六〇年~一九二一年)の作品らしいが、原題を探し得なかった。石川登志夫訳・関敬吾監修「民間説話論」として同朋舎出版から一九八一年に翻訳が出ているのが、最も新訳のもののようではある。

「シトロン」Citron(英語)。ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica。インド原産の蜜柑の一種でアジアで古くから栽培され、今日ではコルシカ島を始め、地中海地方で主産する。近縁種であるレモン(ミカン属レモン Citrus limon)に似ているが、葉や果実がより大きく,香りもより強く、酸味が強いため、生食は出来ず、果皮を砂糖漬にする。]

 ユエなどの考へて居る昔話の「最初の形」なるものが、果してどの程度の最初であるかを私は知らぬが、日本に生れて自國の口碑に興味を有つ者ならば、此昔話の複合であり、又ある技藝の産物であることを認めるに苦しまないであらう。少なくとも曾てこの樣な形を以て、人に信ぜられたことがあつたかの如く、説かうとする樣な無理な學問を、日本人だけは受賣りする必要が無いのである。

 

        

 

 大體この一篇の古い昔話には、八つほどの奇拔な話の種が含まれて居る。その一つは微力な見すぼらしい貧しい靑年でも、ある靈の力の助けが有るならば出世をする事、もしくは英雄が始めはそんな姿で隱れて居たことである。是は桃太郞でも安倍晴明でも、日本にも異國にも弘く行渡つた昔話の型であつて、第二の非凡なる「如意の力」と共に、寧ろ餘りに普通であることを、不思議と言はなければならぬ位である。

 第三には處女の受胎、それがたゞ一言のうけびによつて、忽ち效果を現じた例だけは日本には無いが、其代りには東方の諸國には丹塗りの矢もしくは金色の矢といふ珍らしい形があつて神と人間との神祕なる婚姻を語つて居る。第四にはうつぼ舟に入れて海に洗すといふこと、是はわが邦にも色々の傳へがある。大隅の正八幡では七歳の王女、父知らぬ兒と共に此中に入れられて、唐から流れ著いたのを神に祭つたといふ記錄もあり、それは又朝鮮の古代王國の創始者の奇瑞でもあつた。

[やぶちゃん注:最終の一文の伝承は私の「柳田國男 うつぼ舟の話 四」や、『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(4)』を参照されたい。]

 第五には小童の英明靈智であるが、爰では之に伴なうて第六の父發見の方法が問題になる。宮古島の神代史を飾つている戀角戀玉[やぶちゃん注:「こひつの」・「こひたま」。]の物語に於ては、この二人の女の子のみは、人の怖るゝ大蛇を自分の父と知つて、背に攀ぢ頸を撫でゝ喜び戲れたと言つて居る。播磨風土記の道主姫[やぶちゃん注:「みちぬしひめ」。]の父なくして生める兒は、盟び酒[やぶちゃん注:「うけびざけ」。]の盃を手に持つて、これを天目一箇命[やぶちゃん注:「あめのまひとつのみこと」。]に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる。山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神[やぶちゃん注:「わけいかづちのおほかみ」。]の御事蹟は、恐らく神話として久しく信ぜられたものと思ふが、前の例よりも今一段と具體的である。外祖父の建角身命[やぶちゃん注:「たけつぬみのみこと」。]は八しほり[やぶちゃん注:「やしほり」。]の酒を釀して[やぶちゃん注:「かもして」。]神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとあるのは、卽ち御父がこの地上の神で無かつたことを語るものであつた。

[やぶちゃん注:「戀角戀玉」サイト「沖縄情報IMA」の宮古島にある、首里王府公認の島内最高の霊場とされる「漲水御嶽(はりみずうた)」の解説によれば、未だ、『この世界に人が現れる以前、恋角{(古意角)こいつの}・恋玉{(姑依玉)こいたま}の二神が漲水に天降り、一切のものを生みだして昇天しました』。『この跡地に建てられた御 嶽が漲水御嶽です』。『それから数百年後、平良のすみや里の夫婦の娘が聟を取る以前に妊娠してしまいます。驚いた父母が娘に問うと、毎夜』、『清らかな若者がきて』、『夢心地になっているだけだと語ります。不審に思った父母は、とても長い糸をつけた針を若者の髪に刺すよう に指示し、翌朝糸をたどって行くと、漲水御嶽の洞窟に、首に針を刺した大蛇に出会います。その夜、若者は娘の夢に現われ、「我はこの島を創った神恋角の変化なり、この島の守護神を仕立てるために汝に思いをかけた』。三『人の娘が生れ』、三『歳になったら』、『連れてくるように。」と告げます』。『やがて娘』三『人が生れ』、三『歳になって連れていくと』、三『人はそれぞれ大蛇の 首、腰、尾に抱きつき』、『睦まじい様をみせ、大蛇は光を放って天に昇り』、三『人の娘達は御嶽内に姿を消して』、『宮古の守護神になりました』。『また、島始神託という古文書では、天界の古意角という男神が、天帝に島づくりを願い出ると、天帝が天の岩戸の先端を 折り海に投げいれると出来た島が宮古であるという話も伝わっています』とある(末尾に、以上の『一部は宮古毎日新聞さんの記事を参考にさせていただきました』という添書きがある)。

「播磨風土記の道主姫の父なくして生める兒は、盟び酒の盃を手に持つて、これを天目一箇命に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる」「播磨國風土記」の託賀(かみ)の里の条。岩波文庫の武田祐吉編「風土記」を参考にして引く。

   *

託賀の里【大海山(おほみやま)、荒田の村。】土は中の上なり。右は、川上(かはかみ)に居(を)るに由りて名と爲す。大海と號(なづ)くる所以(ゆゑ)は、昔、明石の郡(こほり)大海の里人、到-來(きた)りて、この山底(やまもと)に居りき。故(かれ)、大海山といふ。松を生ず。荒田(あらた)と號くる所以は、此處に在(い)ます神、名は道主日女(みちぬしひめ)の命(みこと)、父無くして、兒(こ)生みき。この爲に、盟酒(うけひざけ)を釀(かも)さむとして、田(た)七町(なゝまち)を作るに、七日七夜(なぬかなゝよ)の閒(ほど)に、稻、成-熟(みの)り竟(を)へき。すなはち、酒を釀し、諸(もろもろ)の神たちを集(つど)へ、その子をして酒を捧げて、養(みあ)へせしめき。ここに、その子、天(あめ)の目一(めひとつ)の命(みこと)に向きて奉る。すなはち、その父なることを知りき。後、その田、荒れき。故(かれ)、荒田の村と號く。

   *

この「荒田の村」は現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。先行する柳田の論考である『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(9)』も参照されたい。

「山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神の御事蹟」「外祖父の建角身命は八しほりの酒を釀して神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとある」「風土記」の逸文の「山城の國」の最初にある「賀茂の社」。同前で示す。

   *

   賀茂社

山城の國の風土記に曰はく、賀茂の社、賀茂と稱(まほ)すは、日向(ひむか)の曾(そ)の峯[やぶちゃん注:=日向(ひゅうが)の高千穂の峰。]に天降(あも)りましし神、賀茂(かも)の建角身の(たけづのみ)命(みこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)[やぶちゃん注:=神武天皇。]の御前(みさき)に立ちまして、大倭(やまと)の葛木山(かつらきやま)の峯に宿りまし、そこより、ややややに遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至り給ひ、山代河[やぶちゃん注:=木津川。]のまにま、下りまして、葛野河(かどのがは)[やぶちゃん注:=桂川。]と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見(み)はるかして、言(の)りたまひしく、「狹(さ)く小(ほそ)かれども、石川の淸川(すみかは)なり。」と宣(の)り給ひき。仍(よ)りて名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰(い)ひき。その川より上りまして、久我(くが)の國の北の山基(やまもと)に定(しづま)りましき。その時より、名づけて賀茂といへり。賀茂の建角身の命、丹波(たには)の國の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)を娶(よば)ひて生みませる子、名を玉依日子(たまよりひこ)といひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)といひき。玉依日賣、石川の瀨見の小川に川遊びせし時、丹塗(にぬり)の矢、川上より流れ下りき。すなはち取りて、床(とこ)の邊(へ)に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)建角身の命、八尋屋(やひろや)を造り、八つの戸-扉(とびら)を竪(かた)め、八腹(やはら)の酒を釀(か)みて、神集(かむつど)へ集へて、七日七夜(なぬかなゝよ)樂-遊(うたげ)し給ひて、然して子と語らひて言(の)り給ひしく、「汝(な)の父と思はむ人に、この酒を飮ましめよ」と宣り給へば、すなはち、酒坏(さかづき)を擧(さゝ)げて、天(あめ)に向ひて祭を爲し、屋(やね)の甍(いらか)を分け穿(うが)ちて、天に昇(のぼ)りき。すなはち、外祖父(をほぢ)の名に因りて、賀茂(かも)の別雷(わきいかづき)の命(みこと)と號(まを)す。いはゆる丹塗の矢は、乙訓(おとくに)の郡(こほり)の社(やしろ)に坐(ま)せる火雷(ほ)の雷(いかづち)の命(かみ)なり。賀茂の建角身の命と、丹波の伊可古夜日賣と、玉依日賣と、三柱(みはしら)の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社に坐(ま)せり。

   *]

 第七には世にも稀なる幸運の主が、妻に教へられ勸められるまでは、少しも自分のもつ力の大いなる價値に心づかず、これを利用しようともしなかつた點、これは日本では炭燒長者の話として傳はつて居る。これが八幡神の聖母受胎の信仰と關係あるらしいことは、『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある。第八の特徵はペンタメロネにはまだ見えておらぬが、僅かな人間の智慮を以て、勝手に此世の出來事を批評してはならぬといふ教訓、これが又我々の國に於ては、實に珍らしい形を以て展開して行かうとして居るの である。今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁[やぶちゃん注:「へ」。]の話が是から出て居る。最近に壹岐島から採集せられた一つに、昔ある殿の奧方が屁をひつた咎によつて、うつぼ舟に入れて海に流される。それが或島に流れ著いて玉のやうな男の子が生れる。其童子が大きくなつて茄子の苗を賣りに來る。これは屁をひらぬ女の作つた茄子だといふと、殿樣が大いに笑つて、屁をひらぬ女などが世の中にあるものかといふ。それなら何故にあなたは私の母を、うつぼ舟に入れて海に御流しなされたかと遣り返して、めでたく父と子の再會をするといふ話。是が他の地方に於てはうつぼ舟を伴なはぬ代りに、屁をせぬ女が栽ゑると黃金の實が結ぶ木とか、又は黃金の瓜とかいふ事になつて居り、又沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る。人が長老の語ることを皆信じ得た時代には、斯んな笑ひの教訓なども入用は無かつたらうが、後に疑ふ人が少しづゝ現はれて、話し方は追々巧妙に、また複雜になつて來たのである。それに又國限りの孤立した發達があつて、比較は何よりも意味の多いことになつた。西洋の説話硏究者たちが、素材のなほ豐かなる日本の口碑蒐集に、深い注意を拂つて居るのは道理あることである。

   (昭和六年七月 朝日グラフ)

[やぶちゃん注:最終行の注記は底本では本文最終行の下一字上げインデント。「朝日グラフ」はママ。冒頭注で示した通り、ちくま文庫版全集第八巻では『アサヒグラフ』。

「『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある」『海南小記』は大正一四(一九二五)年大岡山書店刊の評論集。当該の、同論集の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)は次回にここで電子化を予定しているので、注は附さない。

「今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁の話が是から出て居る」後で柳田が述べているように、これは「金(きん)の瓜(うり)」「金の茄子(なす)」或いは「黄金の成る木」等とも称され昔話の一類型。「ブリタニカ国際大百科事典」では、『放屁したために奥方の座を追われた母の過去を知った男の子が、』十三になって『殿様の屋敷に黄金の瓜の種を売りに行き』、『「屁をひらぬ者がまかねばならぬ」と言い』、『「世の中に屁をひらぬ人間があるか」と殿様に言わせ』、『結局』、『母は奥方の座に戻り』、『自分は跡取りになる』というストーリーで、沖縄・奄美・鬼界ヶ島・壱岐・佐渡などの、『主として』島嶼部に『分布している。瓜のほか』、茄子や『金のなる木などになっている話もあり』、『類話に「銭垂れ馬」その他がある』とあり、平凡社「世界大百科事典」では、放屁『した罪で殿様が妃をうつぼ舟で流す。妃は懐妊していたので』、『流離中に男の子を生む。子どもが成長してその真相を知り』、『放屁しない人が植えると金のウリが実るウリ種を売りに出かける。城に行くと』、『殿様が放屁しない人間はないと言う。子どもは妃の放逐を問い責める。殿様は』『自分の子どもであることを悟り』、『母子を城に招き』、『子どもを跡継ぎにする。少年の英知と機転そして知謀の小気味良さを主題にした物語である』とある。所謂、貴種流離譚の一変形でもある。

「沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る」サイト「日本し」久高島採集民話のうり」を参照されたい。]

2018/09/17

柳田國男 うつぼ舟の話 七 / うつぼ舟の話~了

 

        

 

 もう澤山と言はれるといやだから、最後に此話の成長した例を三つばかり附け加へて、饒舌の區切りとしようと思ふ。舞の本では大職冠の一曲に、鎌足勅命を奉じて海底の明珠を求めんとする時、龍王これをすかし返さんがために、乙姫のこいさい女という美人を、うつぼ舟に作りこめて、浪の上に推し揚げるという趣向がある。

     流れ木一本浮んであり

     かこかん取之を見て……

     沈香にては無し

     恠しや割つて見よとて

     此木を割つて見るに

     何と言葉に述べ難き

     美人一人おはします

とあつて、見た所は流材の如く、割つて見なければ中に美人の居ることが知れなかつた。卽ちこの位でないと海底の龍宮から往來することはむつかしいと考へたのである。

[やぶちゃん注:「舞の本」「大職冠」柳田國男が引用したものとは異なるものの、塩出貴美子の労作『奈良絵本「大織冠」について―個人蔵本の翻刻と釈文―』PDF)でストーリーを読むことが出来る。

「かこかん取」「水主(かこ)」で「かんとり」は「楫取(かぢとり)」で、船の船主や楫取りらは、の意ではないかと思われる。

「沈香」は「ぢんかう(じんこう)」。香木。]

 之とは反對に肥後の八代地方で、牡丹長者の物語として今も歌はれて居るものは、潜航艇も及ばざる念入りの細工であつた。牡丹長者には三人の子息あり、二人はそれぞれ立派な里から嫁を取つたが、末弟の嫁御は卽ち貴人の出であつた。主要なる文句を拔書きして見ると、

     弟嫁殿(おとよめどの)の最初を聞けば

     元は源氏の公卿衆の娘

     少しばかりの身の誤りで

     うつろ舟から島流された。

     紫檀黑檀唐木(からき)を寄せて

     京の町中の大工を寄せて

     さても出來たやうつろの舟が

     びどろさまにはちやんなど掛けて

     夜と晝との界がわかる。

     金と銀との千よーつ(マヽ)かいて

     中に立派な姫君入れて

     なんじ(マヽ)灘より押流されて

     こゝの沖には五日はゆられ

     そこの沖には七日は搖られ

     流れついたが淡路の島よ

     島の太夫の御目にかゝる。

     うつろ舟とは話にやきけど

     ほんに見たこと今度が始めよ

     拾ひ上げてくづして見れば

     中に立派な姫君さまに

     頭に天冠ゆらゆら下げて

     その日その日の食事をきけば

     蘇鐵團子やこくど(マヽ)の菓子よ

     菓子の中でも上菓子ばかり

     一つあがれば七日の食事

     二つ上がれば十四日の食事

     それが立派な食事でござる。

     國はいづこか名はなにがしか。

     國は申さは耻かしけれど

     元は源氏の公卿の娘

     少しばかりの身の誤りで

     うつろ舟から島流された。

     あらば太夫もこれ聽くよりも

     國に還るか緣付きするか

     うつろ舟から流されたから

     二度た我家に還りはならの

     御世話ながらも緣付き賴む。

     あらば太夫も御喜びで

     牡丹長老の弟嫁に

 是も常陸の濱の人と共に、食事の點ばかりを氣にして居るが、蘇鐵團子は如何にも殺風景で、天冠をゆらめかす女性とも思はれぬ。ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれるが、近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつたのである。思想統一の感謝すべき影響に由つて、九州の南の端でも夢の樂土は平安の京であつた。遠く唐天竺を求める必要もなかつたのである。

[やぶちゃん注:「牡丹長者」みんみん氏のブログ「夢の浮橋 大分県の唄と踊りの覚書」の「牡丹長者(77段物)」で、柳田の採録とは異なったものであるが、口説の全体像が判る。それによれば、『鶴姫が牡丹長者の三男に嫁ぐまでの波乱万丈の物語り。他県』(『奥州仙台』)『を舞台にした口説ではあるが、大分でも広く親しまれたようだ』とある。それにしてもこれは、強烈だ。「うつろ舟」が「びどろ」(ビードロ=硝子(ガラス))「さまにはちやん」(チャン=瀝青(chian turpentine の略とされる):タールを蒸留して得る残滓又は油田地帯などに天然に流出して固化する黒色乃至濃褐色の粘質又は固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いるピッチのこと)「など掛けて」「夜と晝との界がわかる」(上部がガラス張りだから)「金と銀との千よーつ(マヽ)かいて」(金色と銀色の金属製の蝶番(ちょうつがい)か。上部カバーが開閉システムと採れる)「中に立派な姫君入れて」ときた日にゃ、「どうだ! これが「兎園小説」の素材だ!」と鼻先に突き出されて言われれば、「ご説御尤も!」と平服せざるを得ない気はする。

 しかし、である。柳田はこの採取時期と採取された唄の学術的な推定時期を明確に述べていない。「ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれる」とある「時代」を、「兎園小説」の「虛舟の蠻女」が「兎園会」で公開された文政八(一八二五)年十月二十三日よりも前、ひいてはそこで漂着があったとしている享和三(一八〇三)年二月二十二日よりも遙かに前であると無批判に読み替えることは出来ない。否、寧ろ、同時代的でさえある。その証拠に、柳田は続けて「近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつた」と述べているが、この「近代」とは何時を指しているのか? 本篇が書かれた大正一五(一九二六)年に私が居たとして、私は享和・文化・文政期を「近代」とは呼ばないだろう。「牡丹長者」という古い伝承譚だから、そこに出る定型詩的歌謡だから、えらく古いものだと思ってはいけない。私は、この歌詞は決して古いものではないと感じたのである。

 そこで調べて見た。TO7002氏のブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」の「UFO&美人宇宙人IN江戸時代 3」で「虛舟の蠻女」を考証する中で、本柳田の論文を紹介し(但し、このブログ主はこの牡丹長者の話が馬琴の元ネタである可能性を支持している)『「牡丹長者」=「ばんば踊り」は、「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられていますが』、『一説には江戸時代後期(「兎園小説」が書かれた頃)に盛んになったと言われています』。『当時の延岡への流通は海運(千石船)によって成されており、「牡丹長者」は千石船によって、上方経由で江戸まで伝わった様です』。『古今東西の伝承・民話を収集し、それをモチーフにして南総里見八犬伝などの名作を創作した馬琴ですから、「うつろ舟の伝承」やその類話の「牡丹長者」を「うつろ舟の蛮女」の下敷きにしても不思議ではないと思います』とあったこの情報には大いに感謝する。因みに、このブログ主の考証は一部に私の考証と妙に一致を見る部分がある(氏の記事は二〇〇九年で、私のページ(二〇〇五年公開)へのリンク等はない)。別にそれはそれで本譚と同じように偶然の一致でいいのだが、少なくとも第一回目で使用しておられる「兎園小説」の画像は、トリミングから見て、私の公開版で私がスキャンしたそれを用いていることは確実である(比較されれば一目瞭然)。私の公開版画像を誰かがどこかに転載したものをTO7002氏がそのまま使用したものかも知れぬが、一言言っておく)。則ち、TO7002氏の調査によれば、本「牡丹長者」の唄が、本「虛舟の蠻女」よりも後に成立した可能性も否定出来ないことが判るのである。柳田國男が鬼の首捕ったように、最後の最後で厭らしく「どうよ!」と突き出したそれが、実は逆に「虛舟の蠻女」の挿絵と話を元に改作されたものでなかったとは断言出来ないということなのである。

 言っておくが、私の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」での考証を読んで戴ければ判る通り、私はそこに書かれた「虛舟の蠻女」という「空飛ぶ円盤」みたような未確認物体の漂着と、その中のジョージ・アダムスキイが会見したとのたもうた、美人火星人の如き外国人女性の存在を無批判に肯定する立場には実は立っているものではない。ただ、あらゆる可能性を残しておいて考察することが、本話を真に民俗学的・文化史的・精神分析学的な有意味にして有意義な読解の多角的面白さを保持し得ると考えているのである。ところが、柳田國男は本話を紹介した初っ端(ぱな)から、「疑ひも無く作り事であ」り、「蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」ものだとして退けておいて、この最後の最後になって、厭ったらしく、やおら、「牡丹長者」の、製作時期も不確かな妖しげな唄を掲げては、「どうよ?!」とほくそ笑んでいるのである。この順序が私には到底、正統な民俗学的に誠実な考察法・論証法だとは思われないのである。こう言い換えてもよい。則ち、正直、柳田國男が有り難く奉天して真面目に論考対象としている「古事記」の神話から天皇を現人神とするような伝説・伝承の総て、「一寸法師」「桃太郎」「花咲爺さん」といった昔話の総て、ついこの間まで市井の人々の多くが信じていた「一つ目小僧」のような物の怪・幽霊・妖怪といった総てこそが、「疑ひも無く作り事であ」り、「いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「今では最も明白に」その「話の駄法螺なることを證明する」ものではないか。柳田は明らかに、怪しい非論理的な形で〈近代〉〈現代〉という線引きを無意識に措定してしまい、民俗学の研究の対象の核心や真理は、その線引き以前にのみあると考えているようである。彼が「昔話」と「噂話」を区別した時点で、近現代の「噂話」を考現学的心理学的な側面からの民俗学的研究の対象物としては明らかに下らぬもの、対象足らざるものと考えているとしか思えないのである。彼は「虛舟の蠻女」の最後で、評した馬琴のことを「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」終っていると、如何にもイヤ~な唾を吐いているが、本篇自体が、最後にトッテオキの(と柳田は考えているらしい)隠し玉を出して「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」鼻で笑って文を終わらせているのは、馬琴ではなく、そう言った柳田國男自身である、と私は思うのである。

「蘇鐵團子」(そてつだんご)は本邦の南西諸島では中世から近代まで食用(救荒食)とした。但し、裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta は神経毒で発癌性をも持つアゾキシメタン(Azoxymethane)を含む配糖体サイカシン(Cycasin)を、種子を含めた全草に有し、サイカシンは摂取後、体内で有毒なホルムアルデヒド(formaldehyde:水溶液がホルマリン(formalin))に変化し、急性中毒症状を惹き起こす。しかし一方で、ソテツは澱粉質を多く含むため、幹の皮を剥いで石臼で潰した上で、長い時間、水に晒して発酵させ、後に乾燥するなどの煩瑣な処理を経て、サイカシンを除去して食用とした。凶作期の飢餓の中、処理が不全で、サイカシンによる急性中毒で死亡することもままあり、それを飢餓地獄に対し、「蘇鉄地獄」とさえ呼んだ怖ろしい食物であった。

「こくど」不詳。「菓子」からの連想では私は「黑奴」の肌のような「菓子」でチョコレートを想起したが、違うだろう。いや、そうだったら、この歌詞は明らかに「虛舟の蠻女」より後だ

「二度た我家に還りはならの」「二度(にど)たぁ我が家に還ることはならんのよ」の意の方言か近世口語か。]

 

 たゞ悠久の年代の間に、肝要な一點だけが村の人々には理解し得られぬやうになつた。鹿兒島灣の西北隅、大隅牛根鄕の麓部落では、岡の中腹に居世(こせ)神社がある。舊記に依れば大昔の十二月二十九日の夜、此地に住む一農夫、潮水を汲まんとして海の渚に到るに、空艇一艘漂流して船中に嬰兒の啼聲がする。火を照らしてこれを見れば七歳ばかりの童子であつたとあるから、嬰兒の啼聲は如何かと思ふ。是れ欽明天皇第一の皇子であるが、ある時雪中に庭に下り、跣足にて土を踏み玉ふにより、御擧動輕々しくもはや大御位を嗣ぎたまふべからずとあつて、空船に乘せて海に流しまつると謂ふ。空船は恐らくは亦空穗舟のことであらう。此皇子は農夫之を奉仕して養育したが、十三歳にして御隱れなされたので社の神に祀ると傳へ、別に御潜居の地が社の東三町の邊にあつた。皇子流寓の古傳は何れの地方でも、大抵は神社の由來である。薩隅では天智天皇或年巡遊なされ、玉依姫といふ美人を御妃に召されて、男女數所の若宮を御留めなされたことになつて居る。いかにも正史と一致せぬ故に、多分は彦火々出見尊[やぶちゃん注:「ひこほほでみのみこと」。]の御事を誤り傳へたものと、土地の學者たちは解して居たらしいが、是はやはり神話を歷史化したいといふ人情からであつた。居世神社の皇子の「少しばかりの身の誤り」は、殊に史實として考へることがむつかしい。たゞ至尊土を踏みたまはずと信ずる者が田舍にはあつたことゝ、社の神は斯うして遠くから、祭られに來たまふものと思ふ風が、或時代には盛んであつたことゝは、この舊記一つでも推測し得られ、十二月の廿九日の潮汲みが、元は年々の正月神の御迎への用意であつたのを、いつしか此樣に固定したことも、幽かながらわかつて來るのである。

[やぶちゃん注:以上は『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9)』の本文と私の注を参照されたい。]

 神代の舊史に於ては、諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。伊弉諾(いさなき)と伊奘冊(いさなみ)。]二尊の最初の御子を葦船に入れて流し去ると書いている。「書紀」には天磐樟船[やぶちゃん注:「あめのいはくすふね」。]と出ているが、それが如何なる形狀のものであるかは、もう西村眞次君より他に知る者が無くなつた。況や何の趣旨を以て、正史に此一條を存せねばならなかつたかは、考へて見やうも無いのである。たゞ後世に及んで、かの有名なる難波堀江を始めとして、不用の客神を海に送り出す風は有り、それが神自らの意圖に基づいて、或は逆流して本の主に復り、或は遠く流れて新たなる地に寄りたまふにしても、共に第二の地位が定まつて後に、始めて説き立てらるゝ習はしであるのに、獨り上代の水蛭子(ひるこ[やぶちゃん注:三字でかく読んでいると採る。ちくま文庫版全集もそうなっている。])の君ばかり、單なる放流の箇條のみを以て顯はされて居るのは、恐らくは完全な記錄でなかつたらう。例に取るのも唐突であるが、かつて賴政が紫宸殿の廂で退治した、啼く聲鵼(ぬえ)に似たりけりの怪物すら、尾足身首が切れ切れになつて、内海處々の岸に漂著し、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]犬神・蛇神の元祖になつたやうに傳へられる。しかも京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)[やぶちゃん注:漢字表記の違いはママ。]もあるのに、神に近い芦屋浦の鵺塚でも、鵺漂著して之を埋めたことを主張するのみか、更に其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた。ぬえなど空穗舟は無用の話と考へられぬでは無いが、現に謠曲の「鵺」でも、ぬえの精靈自身が出現して、

     賴政は名を揚げて名を揚げて

     我は名を流す空穗舟に

     押入れられて淀川の

     よどみつ流れつ行く末の

     うど野も同じ芦の屋の……

云々と、いつて居る位だから古いものである。

[やぶちゃん注:『「書紀」には天磐樟船と出ている』楠で造った堅牢な船とされるが、「古事記」では蛭子を載せて流したのは木製の舟ではなくて葦舟である。

「西村眞次」(明治一二(一八七九)年~昭和一八(一九四三)年)は歴史学者・考古学者・文化人類学者・民俗学者。ウィキの「西村眞次」によれば、『戦前日本において「文化人類学」の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる』とある。大正七(一九一八)年に『母校の早稲田大学に講師として招聘され、日本史や人類学の講義を受け持』ち、大正一一(一九二二)年、『教授に昇進』、昭和三(一九二八)年には史学科教務主任』となっている(柳田國男の本篇初出は大正十五年)。昭和七年には「日本の古代筏船」「皮船」「人類学汎論」によって、『早稲田大学より文学博士号を受け』ているように、他のネット記載を見ても、彼の研究対象は多岐に亙ったが、中でも古代船舶に就いての研究が知られているという。

「難波堀江」(なにわ(の)ほりえ:現代仮名遣)は仁徳天皇が難波(現在の大阪市)に築いたとされる水路(又は運河)。ウィキの「難波堀江」より引く。「日本書紀」仁徳紀十一年の『記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた。」という内容の記述があり、堀江の成立を物語るものとされている』。『古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は』四世紀末から五世紀初頭頃に『奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に都を移した。本拠となる難波高津宮(なにわの』『たかつのみや)は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時は』「草香江(くさかえ)」又は「河内湖(かわちこ)」と『呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっていた。上町台地の北から大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げて、洪水や高潮の原因となっていた』。『新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていた。そこで、ヤマト王権は河内平野の開発を企図し、草香江の水を排水するための水路を掘削することとした。水路は上町台地の北部を横断して難波の海(大阪湾)へ通じ、「堀江」と呼ばれるようになった』。『この堀江は伝説上の存在ではなく、実際に築造されたものと考えられている。築造の時期は』五『世紀前期と見られる。ただし、築造したのが本当に仁徳天皇だったのかについては、肯定派と懐疑派で見解が分かれている。堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されている。なお、大阪市西区に残る地名の堀江とは位置が異なる』。「日本書紀」に『よると、仁徳天皇は、堀江の開削と同時期に、淀川の流路を安定させるため』、『茨田堤(まむたのつつみ)を築造させている。茨田堤の痕跡が河内北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。堀江の開削と茨田堤の築造は、日本最初の大規模な土木事業だったのである』とある。

「京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)もある」平安神宮の向いの、現在の岡崎公園の中央附近に嘗て存在した。ウィキの「鵺」によれば、『京都の清水寺に鵺を葬ったという伝承との関連性は不明』だが、『発掘調査の結果、古墳時代の墳墓であることが判明している』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神に近い芦屋浦の鵺塚」現在の兵庫県芦屋市浜芦屋町にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「鵺」によれば、「平家物語」で『川に流された鵺を葬ったとされる塚』とある。サイト「日本伝承大鑑」の「芦屋鵺塚」によれば、『一説によると、鵺の死骸は悪疫を招くということで丸木船に乗せて川に流してしまったらしい。そしてその死骸はどうやら大阪の都島に漂着したようである(ここにも【鵺塚】が存在する)。しかしここでも悪疫をもたらしたということで、更にまた舟に乗せられた死骸は流されることになった。最終的に漂着したのが、この芦屋の浜であったという訳である』。『芦屋の浜に打ち上げられた鵺の死骸であるが、やはりここでも祟りを起こし、悪疫をまき散らしたらしい。この付近の人々は祟りを恐れて、鵺の死骸を丁寧に葬った。それが【鵺塚】なのである。芦屋の浜から他所へ鵺が流れ着いたという話を聞かないから、多分鵺はここで本当に埋められた可能性が高い』とある。また、玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMAでは当地に赴かれ、平成一七(二〇〇五)年三月のクレジットを持つ、芦屋市教育委員会の解説版を電子化されておられるので引用させて貰う(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)。

   *

およそ八百年ものむかし、源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがしていた怪鳥をみごとに射落とした。

それはぬえ(鵺)といって、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという奇妙な化鳥であった。その死がいをウツボ舟(丸木舟)にのせて、桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着した。浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。

ぬえ塚伝説は、『摂陽群談』『摂津名所図会』などに記されているが、古墓にまつわる伝説の一つと思われる。

現在の碑は、後世につくられたものである。

   *

「其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた」前注で示した玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMAで、説明板に載る「摂陽群談」と「摂津名所図会」に載る「鵺塚」の条々が電子化されてあり、その両方の文中に、この「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」らしきものが出る。そこで私も国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像で当該項を探し、発見出来たので、如何に示す。まずは「攝陽群談」の巻第九「塚の部」に載るそれである。

   *

鵺塚 兎原郡蘆屋・住吉兩河の間にあり。俗傳云、近衞院御宇仁平三年[やぶちゃん注:一一五三年。「平家物語」では、『仁平の頃ほひ』で限定されていない。]、源三位賴政公の矢に射落されし化鳥、𦩞(ウツロブネ)[やぶちゃん注:「𦩞」の(つくり)は正確には「兪」。「攝津名所圖會」のそれも同じ。]〕に入て、西海に流す。此浦に流寄て、留る事暫あり。浦人取之、是に埋み、鵺塚と成し、側に就て祀祭の所傳たり。亦東生郡滓上江(カスガエ)村に、鵺塚あり。蘆屋浦に鵺を取て埋之、其柯[やぶちゃん注:音「カ」であるが、意味不詳。この字は「草木の枝や茎」或いは「斧の柄」であるから、或いは鵺の翼の茎か?]を捨て海に流す。潮逆上て滓上江に寄り[やぶちゃん注:「よれり」か。]。拾之以て鵺〔舟+兪〕塚と成す歟と云の一説あり。蘆屋浦には、北岡に叢祠在て、鵺之社と號祭る[やぶちゃん注:「號(がうし)、祭る」と読んでいよう。]。東西遙に隔て、同じ號あり。其證、所緣、不詳。

   *

次に「攝津名所圖會」の巻七のそれも、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら同書の当該項の画像で起こす。

   *

鵺塚 葦屋川住吉川の間(あひだ)にあり。今さだかならず。むかし源三位賴政、蟇目(ひきめ)にて射落したる化鳥(けてう)、𦩞(うつぼぶね)[やぶちゃん注:前の太字注参照。]に乘て西海(さいかい)へ流す。此浦に流れよりて止(とゞま)るを、浦人こゝに埋(うづ)むといふ。又東成郡(ひがしなりごほり)滓上江村(かすかえむら)の東田圃(ひがしでんぽ)の中にも、鵺冢(ぬえづか)と稱するあり。何れも分明(ぶんみやう)ならず。按ずるに又鵺の事も一勘(かん)あり。別記に書す。

   *

この二篇について、玉山氏氏は『『摂津名所図会』の記述は、『平家物語』、謡曲「鵺」、『摂陽群談』の内容が融合しているようだ。伝説が独り歩きしている。芦屋市教委の説明板は、その到達点といえよう』とされ、『芦屋の鵺塚の場所は、芦屋川と住吉川の間にあるという。本日紹介している碑は、芦屋川の東側にあり、住吉川との間ではない。しかも、鵺塚の場所は定かでないという。碑のある場所は、松林が美しくて絵になるが、本当の鵺塚ではないようだ』と述べておられるが、どうも、鵺の漂着と塚は実際に複数あったもののようでもある。ともかくも、「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」の一つの候補、或いは、同旧村域内の別な鵺塚は、現在の大阪市都島区都島本通三丁目にある「鵺塚」であると考えてよい。ここである(グーグル・マップ・データ)サイト「日本伝承大鑑」の「鵺塚」も読まれたい。

『謠曲の「鵺」』世阿弥作の複式夢幻能。旅僧の前に鵺の亡霊が現れ、源頼政の矢に射殺された際の有様を語る。

「うど野」「鵜殿」で淀川筋の寄港地で蘆の名所として知られた地。現在の高槻市内。

 但し單に文藝上の興味だけからであつたら、事如何に奇異なりとも是だけ弘く、且つ數千年の久しきに亘つて記憶せられるわけは無い。素朴な昔の人が深く心を動かされた如く、我々の間に於ても時には作り話にせよ、新たな實例を擧げて刺戟を復習せしめる他に、尚此信仰を保存するに足るだけの、宗教行事が持續されて居たのである。例へば公邊の記錄には認められて居らぬけれども、宇佐では近い頃まで神を流す儀式が行はれて居た。伴信友翁の八幡考に松下見林の筆記を引いて、宇佐の御正體[やぶちゃん注:「みしやうたい(みしょうたい)」。]といふ薦[やぶちゃん注:「こも」。]の御驗(みしるし)は、每年菱形池[やぶちゃん注:「ひしがたいけ」。]から苅取つて編み造つた薦筵に、木の枕を包んだものを三殿每に安置し、古い去年の分を取出して次々の社に下し、最末の小山田神社にある舊物は、空穗舟にのせて海に流すと、必ず伊豫國の海上なる御机石という石の上に漂著して、そこにて朽ちたまふ也と述べて居る。我々の今の智識では、まだ諒解の出來ぬほどの神祕である。しかし每年の儀式として神を流すだけは、尾張の津島神社にも其例があつて、之を御葭神事(みよしのしんじ)と名づけて居た。定まつた水邊に行つて葦を苅り束ね、祈禱の後これを川に流すと、遠く近くの海岸の村々に漂著し、其村では必ず新たなる祠として之を祀つた故に、此地方には天王の社が次第に多いのだといふことである。是は勿論分靈であつて、本社の移轉では無いのだが、さうして次々に漂著せしめるといふことに、此神の教義は存したのかも知れぬ。津島は京都で八阪神社と謂ふ所の祇園樣を祀つて居る。諸國の田舍でも舊曆六月十四日に、祇園に供へると稱して胡瓜を川に流し、それから以後は胡瓜を食はず、中に蛇が居るからなどと説明するのが普通である。思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう。神が最初に蛇の形を現じたまふことは、隨分古くからの日本の習はしであつた。大和の三諸山(みもろやま)の天つ神も、蛇の姿を以て大御門に參られた。而うして之を世に傳へたと稱する家も、又其氏の名は小子部(ちひさこべ)であつた。

      (大正十五年三月、 中央公論)

[やぶちゃん注:最後の一行は底本では最終行下インデント。月はママ。ちくま文庫版全集では冒頭注で記した通り、『四月』である。

「伴信友翁の八幡考」江戸後期の国学者伴信友(ばん のぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)の八幡信仰の考証書。当該箇所こ(国立国会図書館デジタルコレクションの伴信友全集画像(右下)。

「松下見林」(けんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)は江戸前期の医師・儒者。京都で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、「異称日本伝」などを著わした。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。

「菱形池」現在の大分県宇佐市にある宇佐神宮上宮の真裏の小椋山の北麓にある神池。戸原個人サイト宇佐神宮/菱形池・御霊水・鍛冶翁伝承によれば、池名は『池の形が菱形をしているのではなく、辛嶋宇豆高嶋に天降った大御神(八幡神)が御許山を経て遷座した』比志方荒城磯邊(ひしかたあらきいそべ)という地名『に因む名という』。「比志方=菱形」とは「神が顕現した聖地」を『意味』する、とある。

「小山田神社」大分県宇佐市小向野にあるそれであろう。(グーグル・マップ・データ)。宇佐神宮の旧社地域である。

「御机石」不詳。

「尾張の津島神社」愛知県津島市神明町にある津島神社。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「津島神社によれば、『建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約』三『千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という』(神仏習合神である素戔嗚(スサノオ)=牛頭天王(ごずてんのう)を信仰するもの。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神とも同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに素戔嗚の本地ともされた。京都東山の祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神ともされ、現在の京都八坂神社に当たる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社・天王社で祀られた)。『社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇』四五年(機械的単純換算で紀元前二四五年)、一旦、対馬(旧称・津島)に『鎮まった後』、欽明天皇元(五四〇)年)六月一日、『現在地近くに移り鎮まったと伝える』。弘仁九(八一〇)年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間』(九九〇年~九九四年)には『一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載されておらず、国史にも現れない。年代が明確な史料では』、承安五(一一七五)年の『名古屋七寺蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる』。『東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より』千二百九十三『石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。津島市の市名はこの津島神社の門前町が発祥である』。『中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた』とある。

「思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう」この考察は非常に共感出来る。

「大和の三諸山(みもろやま)」三輪山の異名。

「小子部(ちひさこべ)」は、本来は少年を組織して宮門護衛・宮中雑務或いは雷神制圧を任務としたと思われる職掌集団(品部(しなべ))としての名「小子部」が元であろう。しかもこれは先に出た、雄略帝配下の武人(武族集団)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」との関係性が疑われているものである。]

     ――――――――――――――

  (附記)

『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある。『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである。

[やぶちゃん注:柳田國男先生、判りました。ここでこれだけ先生を批判しましたから、せめても次の電子化はその『昔話と文學』(昭和一三(一九三八)年創元社刊)の「うつぼ舟の王女」(『アサヒグラフ』昭和六(一九三一)年七月初出。判る通り、本「うつぼ舟の話」より後の発表で、この「附記」が「妹の力」(昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊)の際に附されたものであることが判る。「うつぼ舟の王女」は掲載誌で判る通り、三章から成るごく短いものである)、次に『海南小記』(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)と致しましょう。御約束致します。

 なお、
「虛舟の蠻女」の比較的新しい知見は「怪奇動画ファイル」のこちらがお勧めである。

2018/09/16

柳田國男 うつぼ舟の話 六

 

       

 

 今の流行の日本人類學は、自分達から謂へば殆ど土器學である。土器の以前に又は土器と併行して、そこにはさらに瓢簞學があるべきであるが、その瓢簞は腐つてしまつたから、シャベルで學問をしようと思つても掘出すことが出來ない。しかも瓢簞の人間生活との交涉は、若干の忍耐を條件として、之を辿つて行くことが不可能では無いのである。

 全體日本の如く天然の惠みが厚く、植物の人に對する役目が、物質界でも精神界でも、是ほど綿密に行き屆いて居た國で、稻も櫻も連綿として、今尚以前の種を植ゑ繼いで居りながら、土中に滯つて腐らぬ遣物ばかりを當てにして、上代の社會を説かうとするのは、極めて無法なる算段であつた。所謂考古學の硏究が進んで來れば來る程、之と對立して無形遺物の採集を急ぎ、兩々相助けて出鱈目論斷の跋扈を抑へねばならぬ。不幸にしてそんな便宜の得られなかつた國の學問が、今迄は主として譯述せられたが、我々は千古の大倭人の相續者である故に、この國民文藝と稱する廣大なる包含層の中には、獨りに關する歌や口碑や習俗のみで無く、まだ色々の珍らしい紋樣や彩色が、大小無數の破片となつて殘つて居るのを、存外容易に發見することが出來るのである。是が實は自分の過去を自分で硏究し得る民族の幸福であつて、そんな文明國は現在はまだ幾つも無いのである。

 瓢の用途はいたつて弘くかつ久しかつた。土の壺の中に神いますと信じて、祭つて居た神社は僅かしか無いのであつた。食事其他の普通の用には、もはや陶土器の便利を知つて之に移つて後も、信仰は形式が大切だから古風を改め難かつたのである。其前には木の箱や曲げ物が神體の入れものには用ゐられた。(勿論開けても中には凡眼に見える何物も入つて居らぬのが普通である)。併し是とても木の工藝の始めよりは古くない。目に見えぬ神が物の中に宿りたまふといふ思想が、中世から新たに起る理は無いから、箱曲げ物を人が作り得た前には、木地鉢などの如く鑿り[やぶちゃん注:「ほり」。]凹めた物を用いたのであらう。故に今も家々で臼を重要視し、又屢〻臼の上で氏神樣を祭り始めたといふ口碑が保存せられてある。その今一つ前は何かと問へば、天然の空洞木と、ひさごとより他は有り得なかつたのである。さうしてこの二物は古風のまゝに、今以て各地に神靈の宿する所として、崇敬せられて居る例が多いのである。

 我々の神は日本種族の特性を反映して、頗る移動を愛し又分靈を希望せられた。然るに空洞ある天然の樹木は固よりこれを動かすことを得ぬ故に、一方にはその神聖なる一枝を折つて、行く先々の地に挿すと云ふ風が行はれたらしいが、それだけでは賴り無い場合が多くて、別に色々のウツボといふものが用ゐられた。八幡太郞の發明などゝ稱する箭の容器の靱(うつぼ)の如きも、最初は旅行用の魂筥[やぶちゃん注:「たまばこ」。古代人はあくがれ出で易い自分の魂を着物の裾や襟或いは特定の匣(小箱)の中に封じ込めておき、自分しか分らぬ式法で縛ってしまっておいたという説に基づくものであろう。]であつたかと思ふが、それよりも普通であつたのは、やはり天然の瓠であつたえらうと思ふ。その外貌までが幾分か人に似て、堅固で身輕で沈まず損はれぬ故に、何れの民族でも所謂「たましひの入れ物」として、承認せられることが出來たのである。

 但し空穗舟の多くの口碑に於ては、乘客は神に最も近いといふのみで半ば人間であつたから、瓠の中に入つて泛び來るわけには行かなかつた。昔は神代史の少彦名神[やぶちゃん注:「すくなひこなのかみ」。]を始めとして、玉蟲のような御形[やぶちゃん注:「みかたち」と読んでおく。]で箱の偶に居られたと云ふ倭姫命[やぶちゃん注:「やまとひめのみこと」。]、あるいは赫夜姫[やぶちゃん注:「かくやひめ」。古くは清音。]、瓜子姫子[やぶちゃん注:「うりこひめこ」。]、さては御伽噺になつてしまつた一寸法師等、日本の小千(ちひさこ)思想は徹底したものであつたが、神々の人間味、卽ち御仕へ申す家々との、血筋の關係を説く風が盛になつてからは、もつと舟らしいものを必要とするに至り、しかも空洞木の利用に始まつたかと思ふ獨木舟[やぶちゃん注:「まるきぶね」と訓じておく。ちくま文庫版全集もそう振ってある。]が、追々に稀に見るものとなつてしまふと、各人遺傳の想像力を應用して、終に享和年間に常陸の濱へ漂著したやうな、筋鐵[やぶちゃん注:「すぢがね」。]入りの硝子張りの、何か蓋物(ふたもの)みたやうな船が出來上り、おまけに世界どこにも無い文字などを書いて、終に馬脚を露すのであるが、しかも尚奇妙千萬にも其船の中には、依然として遠い國の王女らしい若い女性が乘り込ませてあつたのである。

[やぶちゃん注:「世界どこにも無い文字」以前に述べた通り、キリル文字可能性てい。]

柳田國男 うつぼ舟の話 五

 

        

 

 出雲の佐陀[やぶちゃん注:「さだ」。]の大神も、母あつて未だ父の神を知らず、加賀の岩鼻に入つて之を尋ねると、黃金の箭が水に浮んで流れて來たと傳へられる。神が丹塗りの矢に化して訪れたまふといふ物語とともに、いかにも美しく鮮かなる我國風の空想であつて、之を單純に戸の隙間の日の光が、少女の腹を追ひまはして射たと謂ふ話し方と比べると、元は一つであつたと認めるのさへ感心せぬが、何れの民族でもそれぞれの文化の境遇に應じて、常に聽く者の理解を主とするの他は無かつたから、最初は此よりも更に露骨な、其代りには感動の深い物語であつたのも尤もである。智力と趣味とは新たなる文飾を必要とし、神話の如き保守的の文藝にも、やはり目に見えぬ成長があり、既に形式の固定して時代に適せぬものは追々に圈外に押出された。今に於て俗間の卑猥なる笑話などの、尚輕蔑すべからざる所以である。うつぼ舟に關して一二の著しい例を説くならば、臺灣東岸のパイワン族の中に、美女を朱塗りの箱の中に入れて、海に流したといふ傳承が多く、知本社と呼ばれる部落が之を拾ひ上げたと謂つて居る。此女は身の内に怖ろしい牙があつて、之に近づく程の男は悉く傷き死んだ爲に、用無き者として棄てられたのであつたが、知本社蕃の若い頭目は、方法を施して其牙を除き、乃ち之を娶つて子孫が榮へたと傳へるのである。此話は所謂金勢大明神の本緣として、今でも奧羽の村の人が笑ひながら、人に語る所の昔語りの一つであるが、既に懸け離れた南島の荒磯に、同じ例を遺して居るからには、近代の才子が發明した惡謔[やぶちゃん注:「あくぎやく」。悪ふざけ。]ではなかつたのである。但し依然たる不可解はその共通の起原であるが、幸ひに臺東方面の土人の間に於ては、アミの馬蘭社でもパイワン族の卑南蕃でも、等しく海に放たれた身に牙ある娘が、知本社の海岸に漂著したことを語り、後者自らも之を認めて居るのを見ると、既に交通ある二つ以上の部落の間に、一方で不用として顧みなかつたものを、他の一方が歡迎し且つ大切に守り立てたと云ふ話、卽ち日本の諸州の田舍に於て、神と住民との因緣約束を信じ、流れて來た飛んで來た、或は盜んで來たとさへ傳へて居る口碑が、元來は亦このうつぼ舟の信仰から、分れて出たものであるやうに感ぜしめるのである。

[やぶちゃん注:「知本社」「知本社蕃」「社」は民族集団の名であると同時に、出身地名でもある。「蕃」は原住民を指す漢語で、嘗て台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていたが、これは差別語である。この「知本社」は「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「プユマ族」の解説から見て、このプユマ族を指すものである。『昔から台東平原に住んで』おり、現在は『一万人余り』で、『卑南川南部、知本川北部間の地域に集中している』。『もともと台東県太麻里郷、屏東県満州郷、牡丹郷に住んでいた卑南族が殆どパイワン族に同化』したものらしいとあり、さらに、『言い伝えによると、当初』、『台東の美和村のpanapanayan』という『ところから上陸』したが、その時、『知本社の言い方に』従えば、『当時』、『先に上陸』した『のが女性二人、男性一人であった。名前は索加索加伍、派魯伍と立加索だった。三人』は『上陸後、すぐ子供を生んだ、姉は今の建和部落、弟が知本社と南王社で』あるとある。

「アミの馬蘭社」アミ族(アミス)は現在の台湾で人口最も多い原住民族群。「馬蘭社」は地名としては旧台湾台東庁馬蘭社で、現在の台湾南東部の台東市である。国立台湾先史文化博物館公式サイト内の「アミ族によれば、早期の文献では「アミ」には「阿眉」「阿眉斯」「阿美」「阿美斯」と漢字を当てていたが、アミ族自身は自分たちの『ことをPangcah(花蓮地区のアミ人)とAmis(台東地区のアミ人)と呼んで』いるとある。

「パイワン族の卑南蕃」パイワン本族は現在、台湾原住民で三番目に人口の多い民族集団。「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「イワン族」によれば、『主に台湾中央山脈の南脈、北は武洛渓上流の大母母山から南の恒春半島(東南の山肌部と海岸地区)まで分布してい』るとある。以上のリンク先の記載は、やや日本語に難はあるが、各部族の歴史と文化を綴って、とても素晴らしい。]

 またパイワン種の諸蕃社には、ことに人が樹木の中から出たといふ傳説が多い。或は竹の中から卵が轉げ出して、最初の男女と爲つたとも謂へば、亦壺の中もしくは瓠(ひさご)[やぶちゃん注:瓢簞(ヒョウタン)の果実の内部の柔らかい果肉を取り去って乾燥させ、酒や水の容器とした「ふくべ」のこと。]の中からも、人の出現したと謂ふことを信じて居る部落があるのである。異人卵生の古傳は印度にも例乏しからず、佛典を通じて日本にも知られて居た。卽ち寧ろ説話の類似のみを根據として、比鄰民族の血緣を論斷すべからざる反證の一つであるが、斯ういふ意外な未開人の間にまで、同じ思想が稍別種の樣式を以て、年久しく持ち傳へられて居た事實は、其起因を單なる偶合に歸するには餘りに重要であると思ふ。新羅の國王が金色の卵から出たといふ神話が、朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公[やぶちゃん注:「ここう」。]の奇跡を説くものと、本源一つなるべきことは既に之を説いた人がある。瓢簞に乘つて來るといふ列仙傳の如き繪樣を想像し得た以前から、瓠のやうな内部が空虛で外見の具備した物は、三韓の人民に取つてもやはり奇異であつた故に、夙くこの類の口碑を發生せしめたのであらう。殊に渚に近く村を構へ、日月の出入りを眺めて海と天とを混同して居た人々には、是ほど大きな問題は少なかつた筈である。實際人間の智巧を以て、箱や樽などを作り出すのにも、天然の手本とすべきものが澤山は無かつた。故に始めて空洞の木や瓠の類が、水に浮んで流れて來た場合の、好奇心は強烈なものであつて、幾多の誤つた宗教觀、もしくは後世の詩人の及び難しとする空想境を、誘ひ出すに十分であつたので、其印象が次にやゝ姿容を變じつゝ、永く世に留まつたのに不思議は無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公」(生没年不詳)は新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。ウィキの「瓠公より引く。『金氏王統の始祖となる金閼智』(きんあっち)『を発見』したとされるが、実は『もとは倭人』『とされ』、『新羅の』三『王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと』「三国史記」は『伝えている』。『初代新羅王の赫居世居西干』(かくきょせい/きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)『の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある』。『また、脱解尼師今』(だっかい/にしきん:新羅第四代の王)『が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった』。赫居世三八(紀元前二〇年)、『王命に従って馬韓を訪問し』、『国交を開こうとした。このとき馬韓王からは馬韓の属国である辰韓諸国の一国に過ぎない新羅が貢物を送らないことを責めたが、瓠公は逆に新羅に聖王(赫居世と閼英夫人)が現れたことを主張して馬韓王の失礼を咎めた。馬韓王は怒って』、『瓠公を殺そうとしたが、馬韓の重臣が王を諌めたため、許されて新羅に帰国した』。『脱解尼師今』二(紀元後五八年)、『最高官位である大輔に任命された』。『脱解尼師今』九(六五)年、『王都金城(慶州市)の東で起こった神異を調べにいき、金閼智を得た』とある。]

 是が我々の昔話の多くに、作家といふものゝ無かつたことを、推定せしめる有力な理由である。再びパイワン蕃の神話に戾るが、その或社に於ては先祖が生れて出たと云ふ壺を傳へて居る。是にも大陽の光線が壁を通して、又は細くなつて其壺を射たと謂ふものが多く、卽ち太陽の子であらうと思つて之を養育したと説くのである。日本では竹取の物語の如きは、今ある語り方の外にまだ色々の異傳があつた。鶯の卵から成長したと云ふのも其一つである。かくや姫が身より光を放つたといふ代りに、數多の竹の林の中に只一處、特に光がさして居たのを竹取翁が見付けたと謂ふなどは、姫が後に天上に還つたとある一段と相照して、亦一種の日の子神話の流れと見るに足らぬであらうか。又桃太郞の前の型と認められる瓜子姫子の如きも、童話に於てはむざむざと山姥に食はれてしまふが、それでは折角山川をどんぶらこつこと流れて來た甲斐も無い。或は狼の腹を割いて救ひ出された羊の子の話のやうに、後に復活したといふ傳への方が古いにしても、やはり誕生の奇瑞譚としては片輪であるから、斯うして第二の冒險談、卽ち山姥や天のじやくとの鬪靜談と結合する前に、別に亦一系統の瓠公神話が、此方面にも曾て繁茂して居たことを、假定して見るの他は無いので、しかも瓠といふ瓜の我々東方民族の生活に與へた影響は、最も複雜にして且つ興味深きものなのである。

 

柳田國男 うつぼ舟の話 四

 

        

 

 だから我々はいたずらに諸國の類例を列擧して、今さら偶合の不思議に驚くよりも、何物の力が斯くまでに根強く且つ年久しく、この民族の想像を導き又約束したかを尋ねて見なければならぬのである。伊豫の和氣姫は仔細あつてと謂つて居るが、その仔細なるものは大なる神祕であつた。叨り[やぶちゃん注:「みだりに」。]に語られざる神話であつた故に、忘れられんとして尚僅かに傳はつて居るのである。奈良の手向山(たむけやま)の勸請以前から、公邊の文書には八幡の祭神は應神天皇であつたが、宇佐には別に一箇の異傳があつて、伊多利亞で成長した耶蘇教と同じく、殊に御母神[やぶちゃん注:「みおやがみ」。]を重しとし、後に大帶姫(おほたらしひめ)を神功皇后と説くに至つても、尚比咩神(ひめがみ)または玉依姫の御名を以て、之を中殿に祭つて居た。養老年中[やぶちゃん注:。七一七年~七二四年。]に大隅の隼人が亂を起した時、宇佐の神部(かみべ)は頗る平定の功に參與したと稱し、爾後宇佐本社との絶えざる交通があつたにも拘らず、大隅正八幡宮の本緣として、古く記錄せられた物語は、亦全然北方の所傳とは一致せず、母の神の御名を大比留女(おほひるめ)と申し上げ、若宮は卽ち太陽の御子であつて、同じく空穗舟の中の人であつた。八幡愚童訓・惟賢比丘筆記等に、詳しく此由緖を載せたのみならず、男山の社においても既に大比留女の名を錄して居た。恐らくは朝家の認定と兩立せざるを憚つて、次第に之を南端の一社に押付けてしまつたものであらう。

[やぶちゃん注:「大隅正八幡」鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある大隅国一宮である鹿児島神宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。この辺り、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(4)』も参照されたい。

「八幡愚童訓」鎌倉中・後期に成立したとされる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起通史。

「惟賢比丘筆記」「いけんびくひつき」と読む。僧惟賢が、建武二(一三三五)年六月に鎌倉の宝戒寺で、諸書から日吉山王のことを抜き書きし、山王神道の立場を明らかにしたもの。]

 今簡單にその舊傳を述べるならば、震旦[やぶちゃん注:「しんたん」。古代中国の呼称。]國陳大王の娘大比留女、七歳にして懷妊す。父王之を訝り、汝まだ幼少なるに、誰人の子を儲けたるぞと問ひへば、わが夢の裡に朝日の光胸を覆ひて娠む所なりと答へたまふ。いよいよ驚き怖れて誕生の皇子もろ共に、うつぼ舟を刻みて之に入れ、印鎰[やぶちゃん注:「いんやく」。公印と蔵(或いは門)の鍵。]を相具して大海に放ち流したまふ。流れ著かん所を所領とせよとの御詞であつた。然るに其舟日本國鎭西大隅の磯岸に寄り來る。太子を八幡と號し奉るに由つて、その岸を八幡崎と稱へた。時は繼體天皇の御宇[やぶちゃん注:在位は継体天皇元(五〇七)年?から同二五(五三一)年?とされる。]のことゝいふ。後に大比留女は筑前若椙(わかすぎ)山に飛入つて、香椎[やぶちゃん注:「かしひ(かしい)」。]の聖母大菩薩と顯われたまひ、王子は大隅國に留まつて正八幡と齋(いは)はれ、幼稚の御年にして隼人を討ち平げたまふと謂つて居る。

 日の光が少女の胸を覆ふということは、はつきりとせぬ言ひ方である。八幡大菩薩御國位緣起には、朝日の光身にさして、寢たる胸間に在りとあるが、それでもまだ納得が出來なかつたものか、後世の俗説では大比留女、日を吞むと夢みてと言ひ替へて居る。太閤秀吉を恐らくは最後として、以前の高僧たちの生ひ立ちの記などに、日輪懷に入ると謂ひ、もしくは日を吞むといふ類の母の夢が幾つとも無く傳へられるが、何れも個々單獨に空想せらるべく、あまりにも奇拔なる空想であつた。人もよく知るが如く、此系統の物語で最も早く記錄の上に現はれたのは、百濟と高句麗と二つの王國の、始祖王の誕生に關する奇瑞であつたが、固く信じた人々の筆になつたゞけに、其記述は之に比べて遙かに精彩がある。卽ち一人の年若き女、兒を生まばその兒は後に王となるべしとの豫言があつたので、これを一室に幽閉して外界との交通を杜絶して置くと、太陽の光が戸の隙間より差し入り、直ちに少女の身を射る。之を避くれば何處までも追ひかけ、終に感應して身ごもらしめたと謂ふのである。ぺリイの文化遷移論には、東印度の諸島にも往々にして此傳承の例あることを説いて、日の光の物を實らしむる力あることを經驗した者の間に、おのづから成長した説明神話なるが如く解釋して居るが、單にそれのみでは斯ういふ個人指定の思想などは起り得ない。年久しく密林の底に遊び、又は巖窟の奧に隱れ住んで、太陽の光線の譬へば黃金の箭の如くなるものが、屢〻心有つて人に近づかうとするやうな有樣を見た者にして、始めて夢まぼろしの間に、之を雄々しい男神として迎へ親しむことを得たのであつて、日を崇敬した原始人の信仰は、却つて此の如き異常受胎の奇瑞に刺戟せられて、更に強烈を加へた場合が無かつたとは言はれぬ。從つて記錄の今日に傳ふるものは、假に扶餘の二種族の建國譚を最も古しとするも、これを傳説の根源と解すべからざるは勿論である。日本に於ては山城賀茂の玉依姫、山川に美しい白羽の矢を拾ひ還つて、感じて別雷神[やぶちゃん注:「わけいかづちのかみ」。]を産み給ふと謂ひ、或は大和の三輪の大物主の神は、姿を丹塗りの矢に變じて、流れ來たつて少女の身を突き給ふと謂ふの類、單に太陽を男神とする俗信の夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]衰へたばかりに、説明の付けにくゝなつた説話が數多いのみならず、別に又新羅の古き物語として、日の光の虹の如くなるに照されて、赤い玉を生んだと云ふ賤の女の話を載せ、其玉美麗なる孃子と化して日矛(ひぼこ)王子の妃と爲り、後に遁れて日本に渡り、難波の比賣碁曾(ひめこそ)の社の神に祭らるるというからは、我々の祖先も二千年の昔から、必ずしも大陸の歷史家の仲介を須たず[やぶちゃん注:「またず」。]して、既に日を父とし人間を母とする、尊とき神あることを知つて居たのである。平安京の初期に際して、大に用ゐられた武人の家、阪上氏は百濟の遺民であつた。家の由緖を朝廷に奏聞して、詳かに太陽が少女を占有した傳説を述べて居る。それが後漢書の記事とも合致すれば、亦大隅正八幡の緣起ともよく似て居て、同じ頃に西海に興隆した宇佐の信仰が、之を學び且つ利用したと解することも困難ではない。しかし自分達は其樣に窮屈に、一つの物語が次を逐うて諸國を周流したと迄は思つて居らぬ。遠く太古に潮つてまだ多くの民族が今の如く分散しなかつた時代に、誤つた判斷ながら素朴なる人の心に、深い印象を與へた實驗が殘つて居て、緣に觸れて再び各處に出現したものが、斯うして大切に保存せられ、圖らずも互ひに比較せられることになつたのかも知れぬからである。但し此點を論究しようとすれば、話が込み入つて果し[やぶちゃん注:「はてし」。]が付かぬ。しかも差當り自分の考へたいのは、何故に海の彼方の大比留女を、うつぼ舟に載せてこの島國へは運んだか。或は比賣碁曾の社の阿加流姫神(あかるひめのかみ)が、もと新羅の太陽の御子であつたことを、何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]の教へに由つて知り得たかといふ點であるが、是とても決して容易なる問題では無いと思つて居る。

[やぶちゃん注:「ぺリイの文化遷移論」作者・著作ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。

「扶餘」「ふよ」。「夫余」とも記す。中国東北地方から朝鮮半島東北部に紀元前一世紀から紀元後五世紀の間に存在した国及び部族名。民族の系統についてはツングース系ともされるが、定説はない。漢文化の影響を受けて紀元前一世紀に国家を形成し、今の長春・農安付近を中心に、松花江流域を版図とし、紀元後一~三世紀頃を全盛とする。鮮卑(せんぴ)や同人種の高句麗と対立し、三世紀後半から衰退、四九四年、勿吉(もっきつ)(後に靺鞨(まっかつ)と呼称)に滅ぼされた。「三国志」の魏志東夷列伝によれば、迎鼓という祭天の行事を新春に催すなど、シャーマニズムの傾向が窺われる。なお、百済の王族はこの夫余が南下したものとする伝説があるという。平凡社「マイペディア」に拠った。

「比賣碁曾(ひめこそ)の社」現在の大阪府大阪市東成区東小橋にある比売許曽(ひめこそ)神社。(グーグル・マップ・データ)。

「阪上氏」ウィキの「坂上氏によれば、坂上氏系図によると、『坂上直』(さかのうえのあたい)『姓の初代は東漢』(やまとのあや)『氏の坂上直志拏』(「しだ」か)。『東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主』(あちのおみ)『)を祖とすると伝わる。後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)で、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志拏であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)』。『坂上志拏には坂上志多、坂上刀禰、坂上鳥、坂上駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である』とある。]

柳田國男 うつぼ舟の話 三

 

        

 

 大昔もこれとよく似たうつぼ舟が、やはり常陸國の豐良(とよら)の濱といふ處に漂著して、漁夫に拾ひ助けられたと云ふ話がある。廣益俗説辨の一節として偶然に傳へられて居る。欽明天皇の御宇、天竺舊中國霖夷大王の姫金色女、繼母の憎しみを受けて此舟に載せて流された。後久しからずして病みて身まかり、その靈は化して蠶となる。是れ日本の蠶飼ひの始めなりと、語る者があつたさうである。此俗説も同じく中世の造り言ではあらうが、起原は必ずしも甚だ簡單で無い。奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し、豐後で有名な眞野(まんの)長者をもつてその父の名とする者もあるが、話の内容は支那最古の傳説集、干寶が搜神記の記事と著しく類している。蠶の由來を説く必要のあつた者は、多分は蠶の神の信仰に參與した人々であらう。或時機緣が有つて斯ういふ外來の舊傳を取入れ、自他の昔を識らんとする願ひを充たしたことは想像してよいが、それとうつぼ舟の漂著とを、一見繼目も知れぬやうに繼合せたのは、別に海國に住む民の、數千年に亙つて、馴らされたる一つの考へ方が、働いて居たものと見るの他は無い。

[やぶちゃん注:「常陸國の豐良(とよら)の濱」サイト「Silk New Waveによれば(リンク先は各神社の解説ページ)、驚くべきことに、

茨城県つくば市にある日本一社の「蚕影(こかげ)神社」(つくば市神郡豊浦。『隣りにある老人保健施設「豊浦」にその名が残ってい』る)

日本最初の蚕養(こがい)神社」(日立市川尻町豊浦。『近くには小貝浜=蠶飼浜があ』る)

日本養蚕事始めの「蚕霊(さんれい)神社」(鹿島郡神栖町日川(豊良浦))

三つの場所にこの地名が現認出来る

「廣益俗説辨」は江戸前・中期の肥後熊本藩士で神道家の井澤蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)が一般の通説・伝説を和漢の書を引用して検討・批判した啓蒙書。以上のそれは、同書の附編(享保四(一七一九)刊)の「第六雜類」の「蟲介」に、「蠶食(こがひ)の始(はじめ)の説」として以下のように載る。私は正編しか所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(国民文庫刊行会編・大正元(一九一二)年刊)の画像を視認して起した。

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       蠶食の始の説

俗説云、欽明天皇の御宇、天竺舊仲國(きうちうこく)霖夷(りんい)大王の女子(むすめ)を金色女(このじきぢよ)といふ。繼母(けいぼ)にくみてうつぼぶねにのせてながすに、日本常陸國豐良湊(とよらのみなと)につく。所の漁人(ぎよじん)ひろひたすけしに、程なく姫病死して其靈化(け)して蠶(かひこ)となる。是日本にて蠶食(こがひ)の始(はじめ)なり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。【 】は二行割注。]

今按ずるに、此説は蜀方志、代醉編、搜神記等(とうに)載(のす)馬頭娘(ばとうぢよう)が事を、日本の事とせるものなり。【馬頭娘がこと印本の恠談全書にある故略ㇾ之。養ㇾ蠶法は黄省曾蠶經にくはしく見えたり。おのおのあはせ見るべし。】日本紀云、雄畧天皇命螺嬴國内蠶。續日本紀云、和銅七年二月辛丑始令出羽國養蠶と、是日本にあつて養(かえ)るのはじめなり、俗説用ふるなかれ。

    *

「日本書紀」と「續日本紀」のそれを訓点(ルビは省略してある)に従って訓読しておくと、

雄畧天皇、螺嬴(すがる)に命じて國(くに)の内の蠶(かひこ)を聚む。

和銅七年二月辛丑(かのとうし)、始て出羽國(ではのくに)をして蠶(かひこ)を養(か)はしむ。

である。「螺嬴(すがる)」は「日本書紀」「日本霊異記」に見える雄略帝配下の武人(武族)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」のこと。ウィキの「少子部スガル」には狂言か落語みたような「日本書紀」の『雄略天皇六年三月の条』(機械換算四六二年)の、『后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。同時に少子部連の姓を賜った。とある』という養蚕。命名奇譚示されてある。「和銅七年」ユリウス暦七一四年。

「奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し」言わずと知れた「おしらさま」伝承である。ウィキの「おしら様を参照されたい。また私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 原蠶」も一つ、参考になろう。

「眞野(まんの)長者」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)』の本文を参照されたい。

「干寶が搜神記」「搜神記」(そうじんき)は私の偏愛する、四世紀に東晋の政治家文人干宝が著した志怪小説集。当該条は巻十四の以下。

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舊説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女。牡馬一匹、女親養之。窮居幽處、思念其父、乃戲馬曰、「爾能爲我迎得父還、吾將嫁汝。」。馬既承此言、乃韁而去。逕至父所。父見馬、驚喜、因取而乘之。馬望所自來、悲鳴不已。父曰、「此馬無事如此、我家得無有故乎。」。亟乘以歸。爲畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。每見女出入、輒喜怒奮擊。如此非一。父怪之、密以問女、女具以告父、「必爲是故。」。父曰、「勿言。恐辱家門。且莫出入。」。於是伏弩射殺之。暴皮於庭。父行、女以鄰女於皮所戲、以足蹙之曰、「汝是畜生、而欲取人爲婦耶。招此屠剝、如何自苦。」。言未及竟、馬皮然而起、卷女以行。鄰女忙怕、不敢救之。走告其父。父還求索、已出失之。後經數日、得於大樹枝間、女及馬皮、盡化爲蠶、而績於樹上。其蠒綸理厚大、異於常蠶。鄰婦取而養之。其收數倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。言桑蠶者、是古蠶之餘類也。案「天官」、「辰、爲馬星。」。「蠶書」曰、「月當大火、則浴其種。」。是蠶與馬同氣也。「周禮」、「教人職掌、票原蠶者。」。注云、「物莫能兩大、禁原蠶者、爲其傷馬也。」。漢禮皇后親採桑祀蠶神、曰、「菀窳婦人、寓氏公主。」。公主者、女之尊稱也。菀窳婦人、先蠶者也。故今世或謂蠶爲女兒者、是古之遺言也。

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梗概ならば、ウィキの「蚕馬」(さんば)にある。]

 しかもこれ以外には東部日本に於ては、空穗舟の話は未だ聞く所が無いのである。其信仰も亦舟の中の少女の如く、波に浮んで西南の方から、次第に流れて來たらしい痕がある。本來が人間ばかりの計畫に基づいて、開かれたる通路で無かつた故に、乃ち奇瑞として神の最初を説き、まだ家々の昔を誇る者が、之を遠くの故鄕から導いて來ることを忘れなかつたのである。歸化人の後裔としては、九州では原田の一族が、近い頃まで此口碑をもつて居た。是も右に謂ふ俗説辨の中に、筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神は漢の高祖を祭つて居る。傳ふらく高祖の皇子一人、虛船につくり込めて蒼海に押し流され、終に此濱邊に到著す。皇子の姿かたち等倫[やぶちゃん注:「つねに」。]に超えければ、處の者ども奏聞を遂げ、敕許を蒙りて此地の主とす。苗裔は卽ち原田氏にして、タカズを高祖と書くは其謂れなりと稱したとある。但し此傳は歷史と合致せず、又同じ門流でも更に宗教的色彩の豐かな大藏氏などは、之と異なる由緖を主張して居るから、言はゞ後に世間の風にかぶれて、斯うも考へられたと云ふに過ぎぬのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「広益俗説弁」のそれは「後編 巻三 士庶」の「原田種直は漢の高祖の裔(えい)といふ説」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。本文部は柳田の引用と大差ないので電子化しない。原田種直(保延五(一一四〇)年~建暦三(一二一三)年)は源平合戦期から鎌倉初期の武将。ウィキの「原田種直」によれば、『原田氏は天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲する。最初期よりの武士団のひとつ』。『保元の乱以降、大宰大弐(大宰府の第二等官)に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。平清盛の長男・重盛の養女を妻とし、大宰府における平氏政権、日宋貿易の代行者となる』。『平氏の軍事力の中核のひとつでもあり』治承三(一一七九)年十一月の『平氏による政変では、郎党を率い御所の警護を行』っており、治承五年二月の九州に於ける『反平氏の鎮西反乱で』は『肥後の菊池隆直らと合戦』、また、寿永二(一一八三)年八月の「平氏都落ち」の際には』、『私邸を安徳天皇の仮皇居にしたと伝えられる』(「平家物語」・「筑前国続風土記」)。文治元(一一八五)年二月、源範頼軍との「葦屋浦の戦い」の際、弟『敦種が討ち死にし』、以降、同年二月の「屋島の戦い」、三月の「壇ノ浦の戦い」に敗北、『平家没官領として領地を没収された』。『関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉されるも』、建久元(一一九〇)年に『赦免され、御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられる』。『福岡県糸島市二丈波呂には、種直が平重盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる龍国寺がある』。『鎌倉市建長寺の裏山にも原田地蔵と伝わる故地があり、かつては地獄谷と呼ばれていたこの地にて処刑される平家の人々を、種直とその一族が弔ったものと考えられる』。『この地蔵堂はやがて心平寺となり、北条時頼の代にはその地に建長寺が創建された』。『一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄。鎮西大蔵朝臣六家(原田氏・波多江氏・秋月氏・江上氏・原氏・高橋氏)といわれる家々を中心に国人領主、大名に成長するも、豊臣秀吉の「九州征伐」により没落。秋月氏を除き他家の陪臣となる』。『筑前国以外には、三河国の徳川家家臣団にも原田家があり、足助などには種直に因む千躰地蔵の話が伝わる。 江戸時代になると、旗本として数家に別れた。さらにそこから榊原氏家老や紀州徳川家重臣となった原田家もある』とある。なお、井澤蟠龍は本文後の評言で、大化年中(六四五年~六五〇年)の帰化人とするものの、当然の如く、『虛船(うつぼぶね)』説は否定している

「筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神」現在の福岡県糸島(いとしま)市高祖(たかす)にある高祖(たかす)神社ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「高祖神社」に『創建は不詳』で、『伝承では、古くは大下の地に鎮座したが』、建久八(一一九七)年に『原田種直が当地に入るに際して、高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという』。『また、古くは怡土城の鎮守神として祀られたとする伝承もある』。『糸島地方は』「魏志倭人伝」に『見える伊都国の比定地で(曽根遺跡群)、古墳時代にも古墳の密集地域として知られるが、一方で渡来系氏族による製鉄遺跡も認められており、上古の祭祀の性格については古来伝統祭祀と渡来系祭祀の両面で諸説がある』とある。]

 瀨戸内海沿岸の古い移住者の中には、之とよく似た家の傳説が、まだ幾らもあつたやうだが、そればかりで歷史を推定するが如きは、最も不安全なる學風である。たとえば周防の大内氏が歸化人の後だということは、最初百濟の琳聖太子[やぶちゃん注:「りんしやうたいし」。]、當國多々良濱[やぶちゃん注:「たたらはま」。]に上陸したまふという物語から出たのだが、元來の趣意は至つて遠い時代に、此地に降臨なされたと云ふ北辰妙見の宮と、家の起源を一にすることを主張し、其到著が神意に基づくことを説くに在つたので、太子は恐らくは尊神の御子を意味し、必ずしも本國が百濟であることを要しなかつたかと思はれる。しかも百濟が佛法の輸入國であつた爲か、或は後に述べんとする第二の理由からでもあつたか、備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る。大治二年[やぶちゃん注:一一二七年。]と謂へばかの王國が滅びてから、四百數十年も後の話である。百濟の國から王子を孕める姫宮を、うつぼ舟に乘せて海に放ち、其舟今の兒島に漂ひ寄る。三條中將といふ人此女性を妻に賜はり、腹ごもりの子生長して後に三條宇喜多少將と稱すなどゝ謂つて居る。或は千人のちごの千人目に當つた故に、京の三十三間堂の棟木を曳かしめたとも謂ひ、(大治二年といふのは其爲であらう[やぶちゃん注:三十三間堂は、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿の一画に平清盛に建立の資材協力を命じて長寛二(一一六五)年に完成したとされる。しかしこの付け合いも人を食った話で、後白河天皇はこの大化二年の生まれである。])、又は名作の鬼の面を取持[やぶちゃん注:「しゆじ」。]したために生きながら鬼になつて人を噉ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]、由つて再び兒島に流されたところ、某といふ山臥[やぶちゃん注:山伏。]これに行逢ひ、鬼面を取上げて切碎き終に其恠を退治した。兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)の鬼塚はその面を埋めた塚だなどゝも傳へられ、今ではかの地方の信仰や口碑と混同して、手輕に本の姿を見定めることがむつかしくなつて居る。

[やぶちゃん注:「琳聖太子」(生没年不詳)は大内氏の祖とされる人物。ウィキの「琳聖太子」によれば、朝鮮半島の百済の王族で第二十六代聖王(聖明王)の第三王子で武寧王の孫とされる。名は義照。十五世紀後半に書かれた「大内多々良氏譜牒」に『よれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ』、推古天皇一九(六一一)年に『百済から周防国』の多々良浜(現在の山口県防府市)に上陸、『聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという』。『この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。義弘は朝鮮半島との貿易を重視した』。大内氏は、「李朝実録によれば応永六(一三九九)年には『朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した』「大乗院寺社雑事記」の文明四(一四七二)年の項には『「大内は本来日本人に非ず』……『或は又高麗人云々」との記述が見える』とある。

「北辰妙見の宮」仏教に於ける天部の一人である妙見菩薩の別名。ウィキの「妙見菩薩によれば、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもので』、中国の神としては、『北の星宿の神格化』されたもので、『玄天上帝ともいう』とある。

「備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る」ウィキの「宇喜多氏」によれば、『従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の』三『人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする』。この説は、「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」(「宇喜多能家画賛」)の『記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ』、二十『世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている』。『備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた』「備前軍記」では、「宇喜多能家画賛」の『全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある』。『古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東』二十一『カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している』。『なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある』。『浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の』「岡山県史」では、『宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする』。『ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ』、『三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり』、『宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる』とし、『一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする極少数説もある』。『百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める』。『具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古』『の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領』『から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守』)が文明二(一四七〇)年に『上道郡西大寺に居住したとする』。『なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の』「西大寺文書」が『文献で確認できる初出である』とある。

「兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)」現在の岡山県倉敷市児島由加(こじまゆが)にある真言宗由加山(ゆがさん)蓮台寺((グーグル・マップ・データ))の前身とされる寺。]

 しかしこれらの雜説を丁寧に仕分けてみれば、一つとして備前より外[やぶちゃん注:「ほか」。]では聞かぬと云ふものが無い。中にもうつぼ舟は系統が明瞭であつて、つまりは遙かなる海の彼方から、因緣あつて來たり寄るものは、昔も今も此舟を必要としたことを知るのである。現に對岸の伊豫に在つては、河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)も亦それであつた。大昔興居島(ごゝのじま)の漁夫和氣五郞大夫なる者、海上に出でゝ、一艘のうつぼ舟を見た。家に曳き還つて之を開き見るに、内に十二三歳の少女あり、我は唐土の者、仔細ありて此の如し云々。名づけて和氣姫とよんで養育し奉る。後に伊豫王子の妃となつて小千御子を生むと傳へ、船越といふ處には姫の御墓なるものが今も存する。常陸の荒濱の所謂アメリカの王女が、決して突發した空想でなかつたことは、もう是だけでも證明し得られるのである。

[やぶちゃん注:「河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)」河野氏は伊予国の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる一族。個人サイト「おに」の「越智氏考や、古田史学会報〇〇八月木村賢司論考等が参考になる。]

2018/09/15

柳田國男 うつぼ舟の話 二

         

 うつぼ舟は空洞の木を以て造つた舟、卽ち南方の小さい島々に於て、今尙用ゐられて居る所の、刳舟(くりふね)丸木舟のことで無ければならぬが、多くの日本人はもう久しい間、その元の形を忘れてしまつて居る。我々の親たちの空想の「うつぼ舟」には、潜水艦などのやうに蓋が有つた。斯うしなければとても荒海を乘切つて、遙々遣つて來ることは出來ぬものと、思ふ者が次第に多くなつた爲であらう。加賀での出來事から更に四十二年を經て、享和三年二月廿二日の眞晝頃、常陸の原やどりとか云ふ濱に、引上げられたと傳ふるうつぼ舟などは、其形たとへば香盒の如くに圓く、長さは三間あまり、底には鐵の板金を段々に筋の如く張り、隙間は松脂をもつて塗り詰め、上は硝子障子にして內部が透き徹つて隱れ無く、覗いて見ると一人の生きた婦人が居り、人の顏を見てにこにこして居たとある。

[やぶちゃん注:冒頭注で示した、次段で示される通り、滝沢馬琴の「兎園小説」の琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継のペン・ネーム)の報告になる、「うつろ舟の蛮女」である。私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)の『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』で原文と電子化訳注を参照されたい。附帯する諸図もリンクで添えてある。【追記】後、私は「兎園小説」全篇のオリジナル電子化注を完遂している。その曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女』が、その完璧な決定総集編であるので、必ず、そちらを見られたい!

「享和三年二月廿二日」グレゴリオ暦一八〇三年四月一日。この年は閏一月があったために、新暦では、かなり後ろにずれ込んでいる。

「常陸の原やどり」同話を載せる別な随筆「梅の塵」では「原舎浜(はらとのはま)」と記載。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名には同定出来ない。上記リンク先で私の詳細な考証をしてあるので参照されたい。

「香盒」原文は「はこ」と読んでいるが、正しくは「かうがふ(こうごう)」で、香料を入れる容器。漆塗・蒔絵・陶器などがある。香箱。香合。円盤状である。

「三間」約五メートル五十センチメートル。]

 

 此話は兎園小說を始めとして、當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居る。例れも出處は一つであるらしく、疑ひも無く作り事であつた。その女は年若く顏は桃色にして、髮の毛は赤いのに、入れ髮ばかりが白く且つ長かつた。敷物二枚の他に甁に水二升ほどを入れ、菓子樣の物及び肉を煉つたような食物もあつたとある。又二尺四方の一箇の箱を、寸刻も放さず抱へ持ち、人に手を觸れしめなかつた。浦人の評定では、多分蠻國の王の娘などで、密夫あつて其事露顯に及び、男は刑せられたが王女なれば殺すに忍びずして、此の如くうつろの舟の中に入れ、生死を天に任せて突き流したものであらう。然らばその大切にする木の箱は、定めて愛する男の首でゞもあらうかなどゝ、言語は不通であつたと謂ふにも拘らず、驚くべき確信を以て說明する者があつたと記して居る。

[やぶちゃん注:「兎園小說」江戸後期の随筆。全十二巻の他に外集・別集・余録など九巻が附帯する。編者は瀧澤解(とく:曲亭馬琴の改名本名。当初は興邦(おきくに)であった。馬琴は江戸深川の旗本松平信成の用人の五男)。文政八(一八二五)年成立。同年、馬琴と随筆家で雑学者の山崎美成(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える。

「當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居る。例れも出處は一つであるらしく、疑ひも無く作り事であつた」非常に不審である。「當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居」り、「例れも出處は一つであるらし」いから、「疑ひも無く作り事であ」るとは、どういう論か!?! 事実、多数の別人による記載がある。例えば、リンク先の「梅の塵」の原文と比較されたいが、日時や地名シークエンスの細部に異同はあるが、寧ろ、これは実際に起こった出来事の伝聞過程での許容範囲内のそれであるとしても何ら、問題ないし、この当時は鋭い随筆考証家を輩出したことを考えれば、当時の市井の好事家の関心を惹いた以上に、その中にこれが創作物だと批判する者が有意にあっておかしくないにも拘わらず、否定派のそうした資料は私の披見した限りでは、殆んど見当たらないのである。出所が一つであるというのは、これまた寧ろ、起こった原事件があったればこその強い映像的類似性を持っているものと言って差し支えない(作話ならば、作話であることを確信犯とした連中が雲霞の如く飛びつき、とんでもない尾鰭がついて変形譚が数多く出るのが世の常であるのに、同じ話と思われるものは、その全体に於いては一様に酷似している)。にも拘らず、この日本の民俗学の父とも称せられる柳田國男が、非論理的にも、一刀両断で「疑ひも無く作り事」と断じているのは、如何にも解せないと言わざるを得ない。

「此の如く」「かくのごとく」。]

 

 實際海邊に住む人民にしては、出來過ぎた斷定には相異ないが、以前も此近くの沿岸に、同じやうな蠻女を載せて漂著したうつぼ舟があつて、それには爼板の如きものに一箇の生首をすゑて、舟の中に入れてあつたと云ふ口碑があつたさうである。常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議を談ずる氣風が特に旺盛であつたらしい。從つて海に對する尋常以上の信用が、噂の根をなして居たことは認めてもよいが、少なくとも記述の文飾、殊に所謂蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものである。官府の表沙汰にすると雜用手數が容易で無い故に、先例に由つて再び元の如く女を舟に入れ、沖に引出して押流したと謂つて、是以外には一つの證跡も殘らぬのだが、舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する。それを曲亭馬琴が註解して、最近浦賀の沖に繫つたイギリス船にも此等の蠻字があつた。だからこの女性はイギリスかもしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。是もまた知るべからず、尋ねまほしきことなりかしなどと、例の恐ろしく澄ましたことを言つて居る。さうして今日までまだ其儘になつて居たのである。

[やぶちゃん注:まず、柳田國男に反論したいのは、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議を談ずる氣風が特に旺盛であつた」のではない! ということだ。常陸の海岸沖は、北からの親潮と南からの黒潮がぶつかり合う地点に相当し、驚くべき南北遠方からの漂流物が漂着する場所である。長い砂浜海岸が多く、これは岩礁性の入り組んだリアス式のそれとは異なり、相当な距離にある対象も容易に視認出来る。則ち、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議」「を談ずる氣風が特に旺盛であつた」のではなく、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議」な〈何もの〉(生物やその死骸或いは本邦に存在しない物質・物体)かが漂着することが、しばしばあった、だからこそ、そうした「不思議を談ずる氣風が特に旺盛」となったの「であつた」と言ってこそ、真に科学的なフォークロアの考察法であると言える。

 さらに柳田は「所謂る蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」と言っているが、これはまさに御用学者が原発の絶対安全性を主張し、反論する者をせせら笑い、福島第一原発の致命的なメルトダウンと放射性物質の甚大な飛散に口をつぐんでソッポを向いているのと同じ臭いを私はこの柳田國男の口振りに強く感ずるのである。明治の、自身の権威付けが絶対使命である知的指導者としては、あの文字(リンク先は私のそれ)は鼻持ちならない「いゝ加減人を馬鹿にしたもの」としか見えず、文字なんぞであろうはずがない「文字」なるものは「今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」――確かな児戯に等しい悪戯書きだ! だから! 全体が嘘なんだよ!――と青筋立てて、幽冥界の馬琴をバキンバキンに感情的になって怒っている、という構図なのである。リンクで、私は船・婦人そして文字について、それらが事実であったものと措定して私なりの解明を試みているので是非、参照されたい。特に文字のそれは私の完全なオリジナルな説で、今でも相応に自信を持っている。「でも、あんな、文字ないよ!」と宣う方、全く知らない外国語で横書きされたものを、縦書きの和語しか知らない一般大衆が見たら、どの方向からどう読むかを考えて見られよ。しかも、この文字は円盤型ヴィークルの下半分の内部の壁面に書かれていたんだぜ? そうしてそれを、おっかなびっくり、円盤の上部の縁に手を掛けてちょいと覗き見たものを写したんだ。としたら、どんなものが出来上がるか、自分でロシア語ででも書かれたものを、その漁師に成りきって、やってみてご覧な!

「ベンガラ」縦糸が絹糸で横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。]

 

 勿論自分たちには近世の僅かな知識を根據にして、古人の輕信を笑つてみようと云ふ考へは無い。第一そんな舟、そんな亞米利加の王女などが、流れて來る筈が無いと謂つてみたところが、然らば何故に是だけの事實、もしくは少なくとも風說が出現したかと問へば、今だつて答へ得る者はないのである。單なる耳目の誤り又は誇張であつたとしても、何か基づく所がなければならぬ。假に丸うそであつたにしても、斯う謂つたら人が騙されると云ふだけの、見込みが最初から有つたものと思ふ。現代の文學才子が必ず實驗したであらう如く、作り話が譬へば鍍金のやうなものならば、其土臺もやはり稍安つぽい金屬であつて、決して豆腐や菎蒻では有り得ない。どんな空中樓閣にも足場があつた。或は無意識にかも知れぬが、いつの間にかうつぼ舟とは斯んな物と、人も我も大凡きめて居た形式があつた爲に、その寸尺に一致した出鱈目だけが、たまたま右の如く成功し得たのである。人間は到底絶對の虛妄を談じ得る者で無いといふことが、もしこの「うつぼ舟」から證明することになるやうなら、是も亦愉快なる一箇の發見と言はねばならぬ。

[やぶちゃん注:柳田は、お得意の、伝承のプロトタイプから生ずるメタモルフォーゼという別ステージの考察に持ち込みたかったがためだけに、のっけから強引に法螺と決めつけていたことが以上から判明する。正直、前段のそれこそ人を小馬鹿にした官製御用アカデミスト柳田國男は、彼自身が嫌った妖怪バスター、妖怪存在の科学的否定を展開した井上円了のそれよりも遙かに「厭な感じ」である。その類似性に柳田もちょっと気づいたのであろう、この段落では、デッチアゲだとした舌鋒が急に後退している。読者にそうした反感を持たれると、後を読んで呉れないかも知れぬ、と彼自身が危ぶんだからに相違ない。

「鍍金」「めつき(めっき)」。

「菎蒻」「こんにやく(こんにゃく)」。「蒟蒻」に同じい。]

柳田國男 うつぼ舟の話 一 /始動

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「妹の力」の当該の「うつぼ舟の話」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 私は、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を公開しており、実際に授業もやったが、その『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』で本篇の「二」に登場する、滝沢馬琴の「兎園小説」の、琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継のペン・ネーム)の報告になる「うつろ舟の蛮女」を電子化訳注し、さらに子細な考証も行っている。

 いわば、それを補助するものとして、この「うつぼ舟の話」一篇のみを電子化することにした(「妹の力」総てではないので注意されたい)。但し、今までの本カテゴリ「柳田國男」での、有意な分量の単行本ではあったが、「蝸牛考」(完成に一年)や「一目小僧その他」(同じく一年三ヶ月)ような詳細注は附さないこととする。私の場合、注を附け始めると、徹底しないと気が済まなくなり、テクストの完成自体に上記の通り、ひどく時間がかかってしまうためである。但し、私自身がどうしても附けたくなる箇所、致命的に判らない部分・疑問部分及び私自身が柳田國男の見解に反論がある場合、また、若い読者が躓きそうな熟語の読みや意味についてはその限りではない。その場合は当該箇所の直後或いは段落の後に注を挿入することとする。……とか言いつつ、結局、元の木阿弥化した。……まあ、仕方ねえな、俺の「性(さが)」じゃけぇ……【2018年9月15日 藪野直史】]

 

   うつぼ舟の話

 

        

 今から百六十五年前の寶曆七年の八月の或日、辨慶法師の勸進帳を以て世に知られた加賀國の安宅(あたか)の濱に、一つのうつぼ舟が漂著したと云ふ舊記がある。「うつぼ舟」とは言ひふらしたけれども、其實は四方各九尺ばかりの厚板の箱で、隅々を白土のしつくひをもつて固めてあつた。開けて見ると中には三人の男が入つて死んで居る。沖で大船が難破するとき、船主その他の大切な人、または水心を知らぬ者を斯うして箱に入れ、運を天に任せて押し流す例があるといふ。果して其樣な事があるものかどうかは心元無いが、たとへ死んでも姿だけは、何處かの海邊に打ち寄せられることを、海で働く人たちが願つて居たことだけは事實である。

[やぶちゃん注:「寶曆七年」一七五七年。同年「八月」は一日がグレゴリオ暦九月十三日。

「九尺」二メートル七十三センチメートル弱。]

 如何なる素性の人間であつたか、久しく郡代の手で尋ねて見たが、終に何らの手懸りも無かつた。そこで亡骸は先づ砂濱の片端に埋め、木の箱はこれを毀して、供養の爲として其あたりの橋の板に用ゐしめた。其時諸宗の寺々より三人の塚に會葬して、有難い追福の行事が行はれたのであつたが、尚海上の絶命に迷ひの念慮が深かつたか、但しは南蠻耶蘇の輩であつて佛法が相應しなかつたものか、夜分は時として此墓から陰火の燃えることがあつたと謂ふ。遺念火(ゐねんび)の怖ろしい話は、最も此類の墓所に多かつた。必ずしも目の迷ひで無くとも、他の場合には心付かずに過ぎてしまふ出來事を、何かと言ふと思ひ出す者が、其方角ばかり眺める故に、特に見出して騷ぐことになつたのであらう。河内の姥が火とか尾張の勘五郞火とか、百をもつて算へる全國の同じ例が、場所や時刻を一定して、其上理由までもほゞ似て居たことを考へると、たとへば天然普通の現象であつたにせよ、やはり非業の死を傷む人の心の動きから、作り設けた不可思議といふことになるのである。

[やぶちゃん注:「姥が火」私の諸國里人談卷之三 姥火を参照されたい。ウィキの「姥ヶ火」もよい。

「勘五郞火」「かんごらうび(かんごろうび)」。の「怪異・妖怪伝承データベースによれば、『続く日照りに思い余った男が他人の田から水を盗み、それがばれて殺され埋められた。子を失ったその母もあとを追った。それ以来、夏の夜には二個の陰火がとび、青木川の堤防は毎年きれるようになった』とある(出典はリンク先を参照のこと)。]

 又箱の板を橋に架けたということも、同じく古風な日本人の、優美なる心遣ひであつた。奈良では藥師寺の佛足石の碑の石なども、久しい間佐保川の橋板に用ゐられてあつた。冬の徒涉りの辛さを味わつた者ならば、この萬人の脚を濡らすまいとする企ての、尊い善根の業であることを理解する。人を向ふの岸へ渡すといふ思想には、更に佛教の深い趣意があつて、地藏樣などは牛馬にも結緣させんがために、橋になつて踏まれてやらうといふ御誓願さへもあつた。けだし北國の濱邊の昔のたつた一つの出來事でも、斯うして記錄になつて傳はつて居ると、次から次に思ひ掛けぬ色々の問題を、考へさせずには置かぬのである。

[やぶちゃん注:「徒涉り」「かちわたり」。]

 但し自分がここで少しばかり、話の種にして見ようと思ふのは、さほど込み入つた民族心理の法則などでは無い。この大海を取繞らした日本國の岸には、久しい年代に亙つて流れ寄る物が無數であつた。曾ては半島の出水に誘はれて、所謂天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭が、朝鮮から漂著したことも一再でなかつた。羽後の荒濱では蛾眉山下橋と題した橋柱を、漁民が拾ひ上げたといふ奇聞もある。沖より外の未知の世界は、殆どある限りの空想の千變萬化を許したにも拘らず、如何なる根強い經驗の力であつたか、海を越えて浮び來たる異常の物は、例へば死人を納めた木の箱のごときものまで、我々の祖先は一括して、常に之を「うつぼ舟」と呼ばうとしたのである。それがもし偶然の一致で無ければ、卽ち何らかの原因の隱れたる、不思議な國民の一つの癖である。つまらぬ問題のやうではあるが、もし之に基づいて新たに見出さるべき知識があるとすれば、是もやはり學問のうちではあるまいか。

[やぶちゃん注:「天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭」朝鮮民族の村落に見られる魔除けのための境界標である、尖塔部に厳めしい武人の頭を彫り込んだ「除魔将軍標」或いは「将軍標」(朝鮮語音写:チャングンピョ)のこと。

 

原民喜 旅空

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四一)年一月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

「落柿舍」の章(言わずもがなであるが、ロケーションを示すために注しておくと、落柿舎は蕉門十哲の一人向井去来の別荘で、芭蕉も三度訪れ、「嵯峨日記」を著した場所としても知られる。現在の京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町(ひのみょうじんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は本篇ではここ以外は訪れたことがない)の「吻とした」は「ほつとした(ほっとした)」と読む。

・「杜絶えて」は「とだえて」。

・「現身」は「うつそみ」と万葉語で読みたい。この世に生を享けている己が姿。

・「晒天井」(さらしてんじやう(さらしてんじょう))は部屋の天井板を張らずに屋根裏や梁が見えたままの造りを指す。

「伊賀上野」の章の「蓑蟲庵」は「三冊子(さんぞうし)」で知られる芭蕉の同郷の門人服部土芳(とほう)の庵。訪れた芭蕉が詠んだ挨拶句「みのむしの音(ね)を聞(きき)にこよ草の庵(いほ)」からかく名指された。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「愛染院」は「あいぜんゐん(あいぜんいん)」。三重県伊賀市上野農人町(うえののにまち)にある真言宗遍光山愛染院願成寺(がんじょうじ)のこと。本尊愛染明王。松尾芭蕉の松尾家代々の菩提寺。ウィキの「願成寺(伊賀市)によれば、芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に滞在先であった大坂で亡くなり、門弟らによって遺命に従って大津の義仲寺(ぎちゅうじ:滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山(あさひざん)義仲寺。ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られたが(墓はこれウィキの「義仲寺」の画像)、先に出した『伊賀上野の門弟服部土芳』『と貝増卓袋が、形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の墓所に納め、後に故郷塚が築かれた。現在の場所に移されたのは』芭蕉五十回忌の元文三(一七三八)年の時と伝えられる。寺の位置及び故郷塚の画像は「伊賀市観光協会連絡協議会」公式サイト内の「愛染院・故郷塚」を見られたい。

・「私の喪神」「喪神」は「もがみ」と訓じておく(「さうじん(そうじん)」と読む熟語としては存在するが、その場合は「喪心」と同じで、「放心状態」や「意識喪失(気絶・失神)」の意でしか用いないと思われる)。自身に近しい人の神霊、則ち、永く喪に服すべき親族の死者の霊魂のことを指している。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「逢遭」(ほうさう(ほうそう)」は「めぐり逢うこと・出会い」の意。

・「櫟」は「くぬぎ」。ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

・「腰板」壁や障子等の下部に張った板。

「義仲寺」の章の「窄めた」は「すぼめた」。

「幻住庵」の章(幻住庵(げんじゅうあん)は滋賀県大津市国分(こくぶ)にある芭蕉が滞在し、「幻住庵の記」をものした小庵。ウィキの「幻住庵」によれば、『「奥の細道」の旅を終えた翌年の』元禄三(一六九〇)年三月頃より、『膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水』(きょくすい:俳号は「曲翠」とも記す。本名は菅沼定常。膳所藩重臣で芭蕉の門人。芭蕉の死から二十三年後のことであるが、享保二(一七一七)年、不正を働いていた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らも切腹した。墓所は芭蕉と同じ義仲寺である)『の奨めで同年』四月六日から七月二十三日の約四ヶ月間、ここに『隠棲した』。『元は曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社(ちかつおじんじゃ)境内にある。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現したが、その趣は』『今も変わらず』に『残っている』(現在の建物は一九九一年の復元)。『敷地内には幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」との記述があるように、芭蕉が自炊していた』とされる「とくとくの清水」が『今も木立の中、水を湧き出している』とある。

・「藥師堂」いろいろ調べてみたが、私自身、行ったことがない場所なので遂に判らなかった。ここが判ると、或いは後の主人公の行路がより明確に判るように思われるのであるが。後の私の注の杜撰な考証の限りでは、前の「義仲寺」に素直に続くものとするなら、この薬師堂なるものは大津市馬場の義仲寺と大津市別保の国分寺の間、膳所駅と石山駅の間(中央附近。グーグル・マップ・データ)にあることになるのだが、私の後注の考察が誤謬である可能性もあるので確信はない。識者の御教授を乞う。〈裏に坂道がある薬師堂〉である。

・「展がる」は「ひろがる」。

・「眼路」は「めぢ(めじ)」。目で見通した範囲。視界。「目路」とも書く。

・「新草」は「にひくさ(にいくさ)」。春先に芽を出した草。「若草」に同じい。

・「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、読むと判るが、主人公は寺を訪れたのではなく、単に遠望しただけである。

・「川」瀬田川。

・「戰いで」は「そよいで」。

・「國分寺」これは以下に続くシークエンスと地図を照らし合わせてみたりして、大津市国分にある近江国分寺跡に比定されており、幻住庵の北北西二百四十メートルほどのごく直近にある(ここ(グーグル・マップ・データ))国分聖徳太子堂(こくぶたいしどう)、或いは、その東北方の新幹線を跨いだ滋賀県大津市光が丘町付近にある国分寺跡(遺跡で建築物等は全く残っていない)、揚句は瀬田川の対岸の滋賀県大津市野郷原(のごはら)・神領(じんりょう)地区の国分寺比定地跡なども画像で見たが、国分寺跡どちらも遺構地であって、少なくとも現在は、ただ比定を示す石柱が建つだけで、本文にあるような「門を潛る」というようなロケーションの場所ではないし、流石に原民喜がこの殺風景な跡地を「國分寺」とは言うとは思えない。国分聖徳太子堂ならば、寺形式の建築物も門もあるから(ブログ「竹林の愚人 Ⅲ」の「国分聖徳太子堂」が写真豊富で(視認判読可能な現地の解説板を含む)よい)それらしい感じで、当初、ここだと決めかけたのだが、次のシーンで道を教えて呉れる老人は「向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた」とあり、地図を見る限りでは、この国分聖徳太子堂附近からだったなら、川を渡らずに山裾を廻り込めばよい(ただ、主人公が東に川を渡ってしまっていた可能性はある)近さなので、如何にもおかしいと私は感じてしまった。さらに、表現は圧縮されているものの、「私はもう大分步いたやうだが」と、実は相当な距離を歩いてきたことが判る。とすれば、この「國分寺」とはずっと北の、東海道本線を跨いだ滋賀県大津市別保にある現存する曹洞宗別保山(べっぽざん)国分寺ではなかろうかという気がして来たのである。(グーグル・マップ・データ)である(この寺は旧粟津国分尼寺で、後に兼平寺(無論、木曾義仲の乳母子にして義仲四天王の一人の、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した今井兼平所縁の寺名であろう。南東直近に兼平の墓はある)を経て、国分寺としてある寺で、巴御前の供養塔がある。但し、の訪れたい方に言っておくと、ネットで見ると、今あるのはピッカピカの新造塔である)。但し、私の思い違いがあるかも知れない。現地に詳しい方の御教授を切に乞うものである。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「八幡宮の神殿」近津尾神社の祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇の諱で、八幡神と応神天皇は同一とされてきた。

・「凝と息を凝してゐた」前は「じつと(じっと)」、後は「こらして」。

・「人格」は「じんかく」でよかろうが、ここは「人の影」「人らしい姿のもの」といった謂い。見慣れぬ使い方であるが、そこは原民喜の確信犯の用法なのである。……ともかくも読まれるがよい……まっこと、味なことやるねぇ! 民喜!……

・「遽かに」は「にはかに(にわかに)」。

・「煮えたぎつ心地がした」ママ。「激しく沸き立つ」の古語「滾つ・激つ」(タ行四段)ならおかしくないが、この前後は全くの口語なのだから、奇妙である。「たぎる」の原民喜の誤記か、底本の誤植か、或いは初出の『文藝汎論』の誤植の可能性もある。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 旅空

 

  落柿舍

 

 私は釋迦堂の方ヘアスフアルトの道を步いて行つた。背中に正午の陽が熱く射して、眼はさつき見た渡月橋の賑はひに疲れてゐた。今朝、京都驛へ着いて、疲れたままの體を嵯峨まで運んで來たのだつた。すると此處は花見客でひききりなしの人通りである。その人通りのなかに紛れて、渡月橋まで來たが、尋ねる落柿舍は見あたらなかつた。角の餠屋で訊ねると、娘が耳馴れない言葉でぼんやりと教へて呉れた。おぼつかなくは思つたが、來た道を逆に引返して行くと、暑さが背に匐登つて來るのだつた。

 そのうちにどうやら右に石の道しるべがあつて、私は吻とした。その小路に這入つて行くと、もう人通りは杜絶えて、竹籔がさらさら風に搖れてゐた。畑中の道に添つて、ところどころに人家があつた。はじめそれかと思ふ門口の額を見上げると、異つてゐる建物であつた。畑には豆の花が咲いてゐて、槪して、纖細さうな植物が眼に著いた。落花がひらひらと竹籔に散つて來るのを見送つて、道は更に白く伸びてゐた。ふと立留まつた小さなな門に立札があつて、石に落柿舍と彫つてあつた。

 見上げると、後は竹籔で、生垣をめぐらした、藁葺の一軒家だつた。門を這入つて行くと、日陰と日向の入混つた庭で、突當りの戸に蓑が掛けてあつた。飛石を踏んで座敷の緣側まで行くと、内から人の氣配がして、若い男の顏がのぞいた。私は默つて、帽子をとつた。私は緣側に立つて、藁葺の屋根を仰いだり、座敷の奧の方を眺めた。座敷の壁に笠が掛けてあつて、内部は爽やかな薄明りだつた。緣側に腰かけて、私は煙草を吸つて、ふと側にある柿の樹を見上げた。梢に靑い芽がつやつやと光つてゐた。庭の隅に句碑らしい石もあつた。山吹に似た花が咲いてゐて、地面を割つて蕨が二つ三つ伸びてゐた。

 私は立上つて、半分戸のひらいてゐる土間の方を覗はうと步いて行つた。すると、座敷から、「お茶をどうぞ」と聲がした。見ると、土間の片隅には茶釜が据ゑてあつて、そのまはりに切株の腰掛が置いてあつた。私はそこに腰掛けて、竹筒の茶碗に柄杓で汲んで飮んだ。茫と疲れてゐる現身に、番茶の味が沁み亙るやうだつた。粗壁のところどころに色紙などが貼つてあり、晒天井やくねつた柱がまひるの愁ひを湛へてゐる。お茶を飮んで少し元氣になつて、私はそこを辭した。門を出て、あたりを見渡すと、なかなかいい眺めだつた。畑のむかふの山麓に、杉らしい木立や、寺院の甍や、桃や櫻の花が見えた。そして畑はほんとに風光るといつた趣きだつた。

 

  伊賀上野

 

 木津近くの竹籔が窓の外に搖れ、桃、梨、櫻など咲いてゐる野原に、若芽をもつた枝や、日の光で潤んだ枯枝など混つてゐた。木津驛で降りて、鳥羽行を待つた。驛のホームは寒い風が吹きとほした。鳥羽行に乘ると、團體客で滿員で、昇降口にまで一杯乘客が詰つてゐた。笠置で少し席が空いた。笠置は櫻が滿開で、靑い溪流と由が迫つてゐた。それから汽車は山の中を暫く進んで、伊賀上野に着いた。その驛で降りたのは、私ともう二人位の人だけだつた。

 さて、私は驛の前の廣場に立つて暫くぼんやりしてゐた。そのうちにそこに留まつてゐたバスはみんな行つてしまつた。私は寂しい廣場を過ぎて、一本道の家並の方へ步いて行つた。古びた百姓家ばかり並んでゐて、すぐ側は田だつた。私は一軒の家で、伊賀上野といふのはこのあたりのことですかと訊ねてみた。すると、伊賀上野といふのはまだここから大分あるから、バスで行つた方がよからう、バスは汽車の着く度に迎へに來ると教へられた。それで驛に引返して、三十分程、待つた。やがて、次の汽車が着いて、漸く私はバスに乘ることが出來た。

 バスは畑道を走り、四方に薄く山が霞んでゐた。櫻の咲いてゐる山坂を越えると、視野が改まつて、バスは町中に這入つた。終點で降ろされたものの、私はどう行つていいのか見當もつかなかつた。足の向くままに行くと、天滿宮があつた。それから狹い町中を步いて行つたが、靜かな町だと思つた。私は誰かに蓑蟲庵へ行く道を訊ねたいのだが、誰に訊ねていいのか戸惑ひながら步いた。ふと、橫から坊さんが出て來たので、その坊さんに訊ねてみた。坊さんは蓑蟲庵を知らなかつた。そのかはり芭蕉の祀つてあるお寺なら愛染院だから、そこへ行くといいだらうと、道筋を教へて呉れた。教へてもらつた道筋は途中で忘れてしまひ、二三人の人に訊ね、訊ねして、やつとそのお寺へ來た。町はづれの、坂の下にはすぐ畑などがある道を通つて來たのだつた。

 門を潛つて、ぼんやり境内を見渡してゐると、橫の建物から中年の婦人が現れて、「芭蕉のことですか」と聲をかけられた。私が頷くと、婦人はさきに立つて案内してくれた。遺髮が收めてあるといふ塚を見て、そこから次いで庭に椿の咲いてゐる一つの庵室に案内された。そこに位牌が祀つてあつた。私はその前に坐つてゐると、ふと喪にゐるやうな氣持がした。今、私に説明したり案内してくれる婦人の聲も、それは何か私の喪神に對つて悔みを云はれてゐるやうな錯覺を與へた。御遠方からよくおいでなさいました、と云はれると、それは賴りない身空で逢遭した慰籍の語のやうに思へたり、しかし、私は何のために遍歷してゐるのかよくわからなくなるのでもあつた。私は蓑蟲庵へ行く道順を教へてもらつて、そのお寺を辭した。

 蓑蟲庵は更に町はづれの溝に添つた路にあつた。黃色い高い塀からは庭樹がこんもりと見えてゐた。玄關を入つて、案内を乞ふと、年寄つた主が現れた。それから橫の徑を這入つて、庭に出た。古びた、よく手入れされた廣い庭だつた。飛石づたひに行くと、藁葺の舊い平屋が控へてゐた。

 緣側の前に立てば、半分開かれた襖の向ひに、薄暗い部屋が並んでゐて、突當りの部屋の壁は眞暗だが、圓くくり拔かれた障子窓が、遠くぼんやりと朧月のやうな光を放つてゐる。私は暫くその光に見とれてゐたが、勸められるままに座敷へ上つて坐つた。閾も柱も障子もところどころ朽ちかけてゐた。主は床柱を指差して由來を語つた。白い細い節くれだつた柱で櫟の木ださうだ。六疊の座敷の次に四疊の部屋があつて、その奧の突當りの六疊には爐が切つてあつた。そして、臺所と境の障子の越板が一寸位缺けたままになつてゐた。片隅に、朱塗の行燈が置いてあつた。主はその行燈を顧ると、こんなものを使つてゐた頃のことをあなたは知つてゐますかと云つた。私にもそれは遠い記憶のうちに殘されてゐる行燈のあかりがあるやうに思へ、何故か苦惱に近いものが眼前を橫切るのだつた。

 

  義仲寺

 

 電車を石場で降りると、アスフアルトの往來が一本續いてゐた。私はそば屋で晝餉を濟まして、義仲寺へ行く道を訊ね、それから、ぶらぶらと步いて行つた。塀の外に芭蕉の葉が覗いてゐるお寺があつた。門を入ると、婆さんが出て來た。芭蕉の墓は兼て寫眞で見知つてゐた通りで、今も靑い木の葉が供へてあつた。狹い庭に日が明るく射してゐた。婆さんは緣側の白い砂挨を眺めながら、「昔はこの邊もさぞよかつたことだと思ひますが、この頃ではすぐ外を走るバスの挨がみんなこの緣側に來るのでかなひません、それに、私は永く東京で暮してゐて、年とつてからここへ來たものですから、どうも朝夕は冷えて寒くてなりません」と肩を窄めた。

 

  幻住庵

 

 藥師堂の裏の坂路を行くと、私は次第に何ものにか憑かれてゐるやうな心地がした。雨は小止みなく降りつのり、展がる眼路は濡れて、ひつそりした畑であつた。ほんとに人一人見かけない畦道となつた。あぜ路に田の水が溢れ、靴の底に踏む枯草は水を吐いた。新草もちらちら見える細い徑は、うねり高くなり低くなり續いて行つた。雨靄に籠められてゐる山や森は薄墨色であつた。

 この寂寞とした眺めにひきかへ、私は後に殘して來た湖水の姿が次第に哀感を含んで訴へるやうであつた。さきほど見た石山寺の對岸の景色は、ほどよい距離に川があるためか、それはうつとりとして、柳と櫻が立並んだ岸の青草の上を雨傘が靜かに進んでゐた。湖水の仄かなる表情がまだ遠くで戰いでゐる。

 そして今私の對つてゐる路は、現世のはてのやうに寂れてゐた。境涯の夢が何時かはこんな場所に人を運んで來さうな感じがした。それで私は私の小説を腹案してゐるのか、實踐してゐるのか、さだかならぬ氣持で路を傳つて行つた。暫くすると、繁みがあり、靑い小さな池が足もとにあつた。それから路は更に畑のなかに煙つてゆく。やがて、人家のまばらに並んだ一角に來ると、私は漸く人心地づいたやうだつた。けれどもどこの家もひつそりとして雨だつた。ふと、後から黑い犬が現れて、默々と私の後をつけて來た。國分寺があつた。門を潛ると、犬もついて來た。そこから道幅は廣くなつてゐて、遠く畑の中へ伸びてゐた。暫くすると、犬の姿も無くなつてゐた。

 私はもう大分步いたやうだが、幻住庵は何處にあるのか、見當もつかなかつた。その時、橫の人家から、とぼとぼと憔悴した老人がこの雨の中を步いて來た。私はその老人を立留まつて待つた。老人は向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた。私は雨の中を更に急いだ。小さな溪流の岸では、工夫が二人土を掘返してゐた。橋を渡つて、山坂にかかると、路はぬかるんで、滑りさうになつた。日和だつたら、それほど難儀な坂路でもなからうが、私は呼吸切れがして、びつしより汗になつてゐた。

 鳥居の上に大きな枯葉を重ねてある處を潛り、間もなく頂上へ來た。八幡宮の神殿の格子がまづ眼についたが、私はその奧を覗いてみるのが何だか怕くなつた。その橫に、瓦屋根の粗末な平屋が雨戸をたてきつてゐる。それが幻住庵跡なのか。雨戸一めんに落書の句が誌してある。ふと見ると、目の前に椎の木もあり、句碑が立つてゐるのだつた。私はぐつたりして、繪馬堂の板敷の上に腰を下した。そして、煙草を吸つた。雨の音が頻りで、下の溪流の音も聽きとれる。絶えず鳥の聲がひそまり返つた空の方でしてゐた。

 それからどれほどの時間が經つたのか私にはわからなかつた。が、ふと見ると、幻住庵の雨戸が靜かに一枚開け放たれてゐるのだつた。私はもう奇異な感に打たれたまま、繪馬堂の方から凝と息を凝してゐた。たしかに淡い影のやうな人格が今私を手招きしだした。私はおそるおそる、しかし、抗ふことも出來ず、その招かれる方へ近づいて行くと、相手はぼんやりと頷いたまま、すつと雨戸の奧の方へ消えて行つた。私は靴を脱いで、その奧の方へ上つてみた。暗闇の家の中央に、さつきの人格は坐つてゐた。私はその人の前に行つて坐ると、遽かに悲しさと羞恥がこみあげて來た。しかも、何か云ひ出したい衝動が私をその人の前に釘づけにしてゐた。ありうることであらうか、その人はまだ生とも死ともわかたぬ存在を今この眼の前に保つてゐるのだ。私はそれを疑ふ前に既に烈しい感動で眼が煮えたぎつ心地がした。とうとう口を開いて私はその人に訴へた。

「私は何のつもりで、今迄、あなたの遺跡を巡つてゐたのか、自分でもよくわからなかつたのですが、今あなたにお逢ひ出來たので、遽かにおたづねしたいことが出來ました、あなたは以前、昔を慕はれてよく旅をなさいましたが、その頃と今とでは何も彼も全く變つてしまつたやうですが、昔の景色はどんなものでせうか、その昔の姿を、直接あなたの口からきかせて頂けませんか」

 私は自分の訊きたいと思ふことさへ、うまく云へなかつたが、その人は私の言葉を凡そ了解してくれたのだらうか、何度もかすかに頷いてゐるやうに思へた。けれどもその人はなかなか口をあけて話してはくれさうになかつた。私は凝と耳を澄して聲を待つた。卽ち聲はあつた。はつきりした聲で、「朧ぢや」と一ことその人は言ひ放つと同時に、もうその人の姿は消え失せてゐた。

 

 

2018/09/14

原民喜 夢時計

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

・主人公の名「千子」であるが、これは既に電子化した後の「淡章」(昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出)の「榎」の主人公の名としても出る。個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。なお、本篇の描写から、この千子には原民喜の妻貞恵(昭和八(一九三三)年に結婚後、昭和一四(一九三九)年に結核(糖尿病も併症)発病、本篇発表の二年後の昭和一九(一九四四)年九月に三十三歳で逝去した。逝去当時、民喜三十八歳)の影が色濃く感じられるように思われた。

・「機み」は「はづみ(はずみ)」と読む。

・「歇なかつた」は「やまなかつた(やまなかった)」。

・「閊へてゐる」は「つかへている」。

・「蹠」は「あしのうら」或いは「あしうら」。

・「顰めた」は「しかめた」。

・「顴骨」は「かんこつ」(「頰骨」のこと)と読んでおくが、これは慣用読みで、実際には「けんこつ」が正しい読みである。

・「視凝めて」は「みつめて」。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「鞴」は「ふいご」。

・「矢次速に」は「やつぎばやに」。「矢継ぎ早に」に同じい。

・「捋し去らう」は「らつしさらう(らっしさろう)」。「拉(らっ)し去ろう」に同じい。

・「その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた」このままでも不自然とは言えないが、せめても「その星は砂地を亙つて墓地に、柵の方へ走つて來るのだつた」と読点を打つべきで、或いは「その星は砂地を亙つて墓地柵の方へ走つて來るのだつた」の誤字か誤植かも知れぬ。「の」の方が躓かぬ。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「𢌞角」は「まはりかど(まわりかど)」と読んでおく。「曲角」としないのであるから、直角でない曲線の通路と採っておく。

・「ぺつとりと」「べつとりと」ではないので注意。

・「這入る」経験上から、原民喜はこれで「はいる」と訓じている。

 

・「吻として」経験上から、原民喜はこれで「ほつとして(ほっとして)」と訓じている。

・「麥藁眞田」は「むぎわらさなだ」で「麦稈真田(ばっかんさなだ)」のこと。麦藁を平たく潰し、真田紐のように編んだもので、夏帽子や袋物などを作るのに用いる。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 夢時計

 

 白い露のおりてゐる草原の線路に、いくつもいくつも提燈が犇いてゐて、汽車が近づいて來るに隨つて、遠くの方の提燈が波打ち、そして段々こちらの提燈も波打ち、あかりをつけた窓々には默々と人々の顏が見えてゐて、それが過ぎ去つてしまふと、天の川がくつきり見え、提燈を持つた人々はぞろぞろと步きだし、千子は人と提燈の流れに從つて步いてゐるうちに、枯れた黍の穗が塀に悶え、石塊が灰白く、いつしか足許は不安に吸込まれるやうであつたが、やがて人々は小學校の講堂へ雪崩れて行つた。いつの間にか板の間には白衣の勇士が坐つてゐて、壇上では假裝行列の樂隊が始まり、どつと人々は哄笑に沸き立つ。近所の知つた人の變裝を見つけて、千子もほつと笑ひかけたが、どうした機みか、淚が浮ぶと、もうそれはいくら制しようとしても歇なかつた。わあわあと溢れ出る淚に千子は轉び伏してゐたが、そのうちにこんなに泣いては皆に迷惑かけると思ひあたると、そのことがまた切ない淚を誘つて、今度は一生懸命で聲を消さうと努めると、息が妙に塞がつて來た。

 今、咽喉の奧の方で死にかけた蟋蟀の聲のやうな音がゆるく絡つてゐて、細い細い今にも折れさうな針金のやうなものが閊へてゐるので、千子は不思議さうに何度もそれが咽喉の奥から引張り出せさうに思つて、顏を顰めた。すると、蹠の方や指のさきから、ザラザラとした熱の微粒が湧いて來て、それは潮のやうに皮膚の全面を撫で𢌞つてゆき、あるところでは渦を卷き、あるところでは急流となつて、その振舞がいよいよ募つてゆくと、心臟は脅えながらも、づしんづしんと音を高め、やがてもの狂ほしい勢で家政婦の姿がをどり出た。

 相手は理不盡なことを要求し、口ぎたなく罵りながら、今廊下を足音荒く逃げてゆく。どこまでが廊下なのか、どこまでが千子の心臟なのか、みんなわからなくなつてゆくうちにも、家政婦の尖つた顴骨やギツギツした眼ざしは濛々とした中に閃き、相手が撒き散らして行つた呪詛の言葉はくらくらと湯氣を發した。その湯氣は眞黑な闇となつてあたり一めんを領した。その時、千子の軀はぐつたりとして、透き徹つて消えてゆくやうにおもへたが、暫くして氣がつくと向の黃色な壁のところにひそひそと身を屈めて、靑ざめた女が茶碗に一杯溜まつた液體を訝しげに視凝めてゐる。千子はそれが自分自身の姿であることを識り、あの壁はどうやら野村病院の壁だつたらしいと思ひあたると、茶碗の中のものはもとよりわかりきつてゐた。ところが向の靑ざめた女はとろとろとした袋のやうな血の塊を指でつまんでは舌のさきにやり、無理矢理に吞込まうとしてゐる。

 千子はぎよくつとして、それを見るのが怕くなつた。ジンジンと厭な鋭い音が針の亂れて降りかかる闇に續き、わたしはどこにゐるのだらう、わたしのからだはどこにあるのかしら、と茫漠とした悶えを繰返してゐると、ふと掌に觸れたシイツの端から、顏全體の輪廓が浮び上り、どうやら千子の魂はそこへ舞ひ戾つて來た。だが、その掌はお湯に浸したやうに熱く、頰の下の一とところは焰がゆらいでゐるやうに火照つて、心臟の疼くことも前と變りなかつた。深夜の部屋は墓のやうにひつそりしてゐた。

 千子は心弱く溢れ出た淚の眼瞼を、ぼんやり閉ぢてゐると、眼球がずんずん腦の方へ沈んで行きさうになり、くらくらする頭の内部の暗がりに、腫れて少し大きくなつてゐるらしい眼球の恰好がまざまざと描かれて來たが、夢にまでこの眼は泣かされてゐるのかしらと思ふと、一たん沈みかかつた眼球の運動が今度はだんだん上方へ昇つて行き、そのうちいつの間にか風呂場の煙突の折れ口がパツと口を開いてゐた。

 嵐でへし折られたその煙突はぶらんぶらんと頭上に搖れ、今にも降り出しさうな空模樣の中に、歪んだ針金を突出し、その針金には蜘蛛の巢が汚れてぶら下つてゐる。今にもあれは墜ちるかもしれないと、千子は口惜しくて耐らなく、眼もとが昏んでゆく思ひだつたが、ふと見ると、その煙突の傍には靑ぶくれした顏の煙突屋がぼんやり腰を下してゐる。何度賴みにやつてもやつて來なかつた煙突屋は今も修繕に取掛らうとするでもなし、氣心の知れない顏附で煙草を吸つてゐた。ところが煙突屋は誰か向に知人を見つけたらしく、一寸手をあげて合圖した。怪しんで千子がその方向を見𢌞すと、塀の破れ目から爛々と光つてゐる家政婦の眼があつた。と、思ふとバタバタ逃げだす足音がして、千子の心臟はまた張裂けさうになる。

 軀は鞴のやうに音を發し、その上をいくつもいくつも其黑いものがつ走り、矢次速に黑い塊は數を增してゐた。ザザザと彼の音が聞えた。海岸の空に懸つてゐる三日月がキラリと一瞬美しく見えた。と思ふと、眞黑いものは更に猛り立ち、その巨大なものは無理矢理に千子を捋し去らうとする。風の唸りや稻妻の中に折れ曲つた煙突があはれに浮んだ。暫くして、あたりは氣の拔けたやうに靜かになつた。

 仄暗い砂地にはささやかな波形の紋が一めんに着いてをり、重たい空氣の中にヒリヒリと草の穗の熟れる匂ひが漾つて來た。今、千子の眼の前に黑い柵がくつきりと蹲つてゐて、柵の向にも砂地は起伏し、そのあたりの光線は奇妙にはつきりしてゐたが、その上に被さる漆黑の空には無數の星が刻んであつた。千子の眼は吸込まれるやうに星空に見入つてゐると、病苦に滿ちた空の星は瞬く每にいよいよ美しくなつてゆくやうであつた。ふと、一つの星が白い尾を曳いて砂地に落ちた。今、落ちたところの星は遠くの地點にあつて、ぐるぐると囘轉してゐるやうであつた。暫くすると、その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた。見れば砂煙をあげて音もなく走つて來るのは灰色の豚であつた。千子は目を疑ふやうに空を見上げた。流星はひつきりなしに砂地を日懸けて墜ち、豚の數ほ陰々として增えて行く。無言のまま砂塵をあげて突進する豚の群は黑い柵のすぐ側を犇き流れた。ある限りの星は地上に向つて墜落しつづけた。

 千子はぐつたりと脅えて、傍の柵にとり縋つた。黑い柵のほとりには何時の間にか千子の夫の顏もあつた。

「ああ、あれはどうなるのでせう」と千子は凄じい動物の群を指差した。「そつとしておいた方がいい」と夫は口籠つた聲で答へた。そのうちに、あたりの樣子は徐々に變つてゆき、今も眼の前に不可解な現象は生起してゐたが、次第にそれはレントゲンに映る肺臟の風景に似かよつて來た。

 星の消えた空はうつろに靑ざめてゐた。家畜の群も既に散じて見えなかつた。起伏する砂丘の一端に黑い岩帶があつて、そこから白煙がゆるゆると立騰り、あたりの空氣を濁してゐた。麓の方に目も覺めるばかりの薊の花が一むら咲いてゐるのは、千子が旅で見たことのある風景ではなからうか。だが、傍で誰かが説明を加へてゐた。あの煙が消えて、あの黑い岩穴が塞つてしまふまでは、まだまだ養生をしなければいけません。千子はその人に對つてお時儀をして、部屋を出て行つた。

 草を敷いた長い廊下を步いてゐると、扉や𢌞角で看護婦とすれ違つた。その看護婦たちの足はみんな廊下から宙に二三寸浮上つて進んでゐるのに、千子はぺつとりと足が下に吸込まれてゆくやうで、草を敷いた廊下は汗ばんだ足の下をずるずると流れて行つた。廊下は容易に盡きなかつたが千子は一心に步いてゐた。次第に行交ふ人の數が增えて、それは巷で見かける人々の服裝になつてゐたが、遂にある部屋の前に人々は殺到してゐた。

 千子は立並ぶ人の中に捲込まれてゐると、すぐ後からも人が來て並んだ。その傍を自轉車に乘つた男が蜻蛉のやうに飛んで行つた。後から押されるやうにして、部屋の中へ這入ると、薄暗い光線の中に押込められて立つてゐる人々の顏はみんなぼんやり霞んでをり、千子は呼吸をするのもつらくなつた。苔の生えた大きな柱が高い天井を支へてゐて、ものものしい殿堂に似た場所であつた。漸く人數が減つて、眼の前に石の臺が見えた。千子は 吻として、石の臺に肘を凭せ、向に立働いてゐる人に對つて、何か訊ねようとした。すると白い顏をした小僧がヂロリと千子を見咎め、「切符の無い人は駄目だよ」と云つた。忽ち周圍に居合はせた人々が笑ひだした。千子は喘ぎながら辨解しようとした。「オイオイ、病人のくせして出しやばるない」と、ステツキを持つた男の聲がした。

 すると、人々は遠かに動搖しだした。女達はあわてて千子の側を避けながら、鼻に袖をあて、お互に耳打ちしては千子の方を振向く。男は忌々しさうに顏を外けた。千子はブルブルと戰へながら立疎んでゐたが、そのうちに立つてゐる力を失ふと、ワツと泣き崩れて行つた。死ねるものなら死んでしまひたい、早く死んでしまひたいと轉倒しながら泣き叫んだ。

 倒れてゐる千子の軀から二つ三つ白い影が立迷ひ、ぐるぐるぐる立迷ひ、倒れてゐる千子はすべてを失つて行くやうであつた。しかし暫くすると、足指の方から枕の方へふわりと影は戾つて來た。夜の部屋は死のやうにひそまつてゐた。こんなに興奮してはまた軀に障るだらうと、千子はおづおづと眼を閉ぢた。暫くすると、眼を閉ぢてゐる筈なのに、すぐ側の押入の内部がはつきりと眼の中に飛込んで來た。もう長い間整頓したことのない押入は、行李や新聞の包みが歪んで脹らんでゐたが、それに天井板の方からぶら下つた麥藁眞田がぐるぐる髮毛とともに絡んでゐる。あんな麥藁眞田などをどうして今度の女中は持つて來たのかしらと思ふと、隅の方に笊が置いてあつて、豆もやしとマツチの軸木が一緖くたに混ぜこぜになつてゐるし、鼠の開けたらしい穴からは隣の家の庭がまる見えになつてゐて、そこから蛞蝓がずるずると匐ひながら行李の方へやつて來る。蛞蝓はもう行李の蓋にべつとりと一杯群がり、次第に行李の中の衣類へ移つて行く。着古した着物の襟や、裾の裏地にまで、蛞蝓はねとねとと吸ひつき、そのままじつと動かなくなる。と、袂の隅が少し脹らんで動きだしたと思ふと、そこからは大きな蛾が跳ね出して、パタパタと押入の中を飛𢌞つた。眼のキンキン光る蛾は翅からパラパラと粉を撒き散らし、押入は濛々と煙つてしまつた。

 千子は無性に腹が立ち、今にも飛起きて、あそこを片附けたくなつた。あの着物はもうみんな洗張して縫ひ直さなければいけないと思ふと、ヂリヂリと氣は苛立ち、夜具の上にきつと坐り直した。だが、暫くすると、がくりと姿勢は崩れて、今度はふらふらと手探りで催眠劑のありかを求め、小さな箱にコロコ搖れる藥を掬ふやうに掌に取ると、そのまま睡りに陷ちてゆくやうであつた。


 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(58) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅲ)

 

 家康――今までに現はれた中での最も機敏な、そして又最も人情の深い經世家の一人である――のこの決斷を正當に評價するには、日本人の見地からして、彼をしてかくの如き行動をとるの已むなきに至らしめた、その根本となつてゐる證據の性質を考へて見ることが必要である。日本に於けるジエジユイト派の陰謀に就いて、彼は充分に承知して居たに相違ない、――その陰謀の中には家康の身を危くするやうなものも少からずあつたので――併し彼はこのやうな陰謀が發生するといふ單なる事實よりも、その陰謀の究極の目的と實際は、如何になるかといふ、その結果をむしろ考慮したらしいのである。宗敎的陰謀は佛敎徒の間にあつても普通の事であつた。そしてそれが國家の政策、若しくは公共の秩序を妨害した場合は別として、さうでない限りそれは武力的政府の注意を惹くことは殆どなかつたのである。併し政府を轉覆すること及び宗派を以て一國を占有することを、その目的とする宗敎的陰謀は、これは重大な考慮を要する事である。信長はこの種の陰謀の危險なることに就いて嚴しい敎訓を佛敎に與へた。家康はジエジユイト敎派の陰謀が、最も大きな野心を包藏した政治上の目的をもつてゐると斷じた。併し彼は信長よりも遙かに隱忍して居た。一六○三年には、彼は日本の諸州を悉く彼の威力の下に歸せしめた。併し彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた。――

[やぶちゃん注:「一六〇三年」慶長八年。この年の二月十二日(グレゴリオ暦三月二十四日に徳川家康に将軍宣下が下り、ここで江戸幕府が正式に開府された。

「彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた」或いは、プレに慶長十七年三月二十一日(グレゴリ暦一六一二年四月二十一日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令の布告(江戸幕府による最初の公式のキリスト教禁令)を指すか、同年八月六日(九月一日)の「伴天連門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」という全国的なキリスト教信仰禁止の布告を指すか、又は「十一年」は「数え」で、幕府開府から十年後の、家康が第二代将軍秀忠の名でブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させて発布した「伴天連追放之文(バテレン追放令)」(ウィキの「禁教令では慶長十八年二月十九日(一六一三年一月二十八日)布告とするが、小学館「日本大百科全書」では慶長十八年十二月二十三日(一六一四年二月一日)とあるので、確認したところ、禁令原文の最後のクレジットは「慶長十八」「臘月」(旧暦十二月の異名)とあることが判った)。但し、ウィキの「禁教令によれば、実際にはまだ、『幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約』五十『名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる』とある。

 以下、底本では「身を曝す事にならう。」までは本文同ポイントで全体が二字下げ。]

『切支丹の徒は日本に來り、日本の政府を變へ、國土の領有を獲ようとするために、ただに貨物の交易に彼等の商船を遣はすばかりでなく、惡法を播布し、正しき教へを打倒さうと熱望してゐる。これこそ大災難を起こす荊芽であつて打潰さなければならぬ……

[やぶちゃん注:「荊芽」(けいが)は茨の芽であるが、ここは「刑罰に値する悪しきものの萌芽」の意。]

『日本は神々及び佛の國である、日本は神々を崇め佛を敬ふ……【註】伴天連の徒は神々の道を信仰せずして眞の法を罵る――正しき行ひに背いて善を害ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]……彼等は眞に神神及び佛の敵である……若し之が速に[やぶちゃん注:「すみやかに」。]禁ぜられずば、國家の安全は確に今後危險とならう、又若しその時局を處理するの衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。大事な任務。]に當たつてゐる者共が、この害惡を抑止しなければ、彼等は天の怒に身を曝す事にならう。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が三字下げ。] 

 

 爰吉利支丹之徒黨、適來於日本、非啻渡商船而通資財、叨欲弘邪法威正宗、以改域中之政號作己有、是大禍之萠也、不可有不制矣、日本者神國佛國、而尊神敬佛……彼伴天連徒黨、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、殘義損善。……實神佛敵也、急不禁、後世必有國家之患、殊司號令不制之、却蒙譴天矣、日本國之內、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、有違命者、可刑罰之、……一天四海宜承知、莫違失矣。

[やぶちゃん注:「啻」は「營」であるが、平井呈一氏の引用(但し、誤り有り)その他原布告文を確認して訂した。以下、自己流で訓読しておく。

   *

 爰(ここ)に吉利支丹の徒黨、適(たまたま)日本に來り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)るに、邪法を弘(ひろ)め、正宗(しやうしゆう)を惑はさんと欲し、以つて域中(いきなか)[やぶちゃん注:国中。]の政號を改めて、己(おの)が有(ゆう)と作(な)さんとす。是れ、大禍(たいくわ)の萠(きざし)なり。制せずんば有るべからず。日本は神國・佛國にして、神を尊(たつと)び、佛を敬す。……彼(か)の伴天連の徒黨、皆、件(くだん)の政令に反(そむ)き、神道を嫌疑し、正法(しやうばう)を誹謗し、義を殘(そこな)ひ、善を損ず。……實(まこと)に神敵。佛敵なり。急ぎ、禁ぜずんば、後世、必ず、國家の患(うれ)ひ有り。殊(こと)に號令を司(つかさど)りて、之れを制せずんば、却つて天譴(てんけん)を蒙らん。日本國の內、寸土の尺地、手足を措(お)く所(ところ)無し[やぶちゃん注:キリスト教の伝道者が主語。本文後文を見よ。]。速かに之れを掃攘(さうじやう)し[やぶちゃん注:払い除くこと。この語は後の幕末に於いて「外国を排撃する」の意で盛んに用いられた。]、いて違命有らば、之れを刑罰すべし。……一天四海、宜(よろ)しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。

   *] 

 

 『これ等の者は(布敎師のこと)卽刻一掃されなければならぬ、かくして日本國內には彼等のためにその足をおくべき寸土もないやうにしなければならぬ、そして又若し彼等がこの命令に服することを拒むならば、彼等はその罪を蒙るであらう……一天四海もこれを聽かん、宜しく從ふべし』

註一 伴天連とはポルトガル語のパドレ(padre)の飜譯であつて、宗派を問はず、總てロオマ舊敎の僧侶に今日でも使用されて居る名稱である。

註二 右の全宣言はかなり長いもので、サトウ氏によつて飜譯されたものであるが、日本アジヤ協會記事“Transactions of the Asiatic Society
in Japan
”第六卷第一部の內にある。

 

[やぶちゃん注:最後の記事名は“ Transactions of the Asiatic Society of Japan”の誤りである。] 

反古のうらがき 卷之三 怪談

 

    ○怪談

[やぶちゃん注:本篇も長いので読み易さを考え、改行を多用し、注は本部内或いは各段落末に添えた。また、核心部分は本書では特異点の真正の怪談(但し、桃野が少年の日に「何がし」(相応な年長者と思われる)が話して呉れたもの)であることから、その部分を「――――*――――」の記号で挟んで区別し、また、その中のシークエンスをも「*」を用いて恣意的に区分けした。]

 段成式(だんせいしき)が酉陽雜爼(ゆうようざつそ)に、「朱盤(しゆばん)」といへる怪物をのせたるが、極めておそろしき物がたり也。

[やぶちゃん注:「段成式が酉陽雜爼」段成式(八〇三年?~八六三年)は晩唐の学者・文学者。現在の山東省の臨淄(りんし)の人。名家の出で、父段文昌は宰相。父の功績によって秘書省校書郎となり、その後、吉州刺史・太常少卿などを歴任し、晩年は襄陽(湖北省)に住んだ。博聞強記で、家伝の膨大な蔵書や宮中の秘書から得た知識をもとに、古今の異聞怪奇を記した随筆「酉陽雜俎」(本集二十巻・続集十巻。八六〇年頃成立)を著した。但し、私の知る限り、「朱盤」では同書には載らない。但し、「朱盤」は、本邦ではかなり著名な妖怪で、私の電子化注でも「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」(延宝五(一六七七)年刊・作者不詳)や、酷似した内容の「老媼茶話巻之三 舌長姥」(「老媼茶話(ろうおうさわ)」は寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したもので、作者は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている)、或いはそれを紹介した『柴田宵曲 妖異博物館「再度の怪」』辺りの本文及び私の注を読まれたい。なお、宵曲は中国の似たようなケースとして「捜神記」の「巻十六」に載る「琵琶鬼」を挙げているが、そこには「朱盤」という名は出ない。またそこで宵曲は本妖怪の本邦での後裔を小泉八雲の「怪談」で知られた「狢」のノッペラボウに認めてもいるので、未読の方は、是非お読みあれかし。

 正德(しやうとく)ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊(ばんばう)」となし、又、何某が「化生物語」といへる書に、武州淺草の堂に化物出ることとなせり。

 皆、朱盤をもととして書(かき)たるもの也。

[やぶちゃん注:『正德ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊」となし』「正德」は一七一一年から一七一六年。これが何という怪奇小説を指しているかは、よく判らない。題名は明らかに「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に極近いが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で作者不詳(「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)であるから、違う。或いは、桃野は正徳二(一七一二)年刊の北条団水著の怪談「一夜船」の、後の改題本「怪談諸国物語」とこの「諸國百物語」を混同しているのかも知れないとも思ったが、団水は談林派の俳諧師であって僧ではない(俳諧師は概ね僧形をしてはいたが)。

「化生物語」不詳。私は一般人よりは江戸怪談集に接してきた人間と自負するであるが、「化生物語」(「けしやう(けしょう)ものがたり」と読んでおく)という怪談集は知らぬ。江戸時代の怪談集には改題本や改竄本・他者による再編集本が多数生まれているから、それらの一つかと思われるが、特定出来なかった。ただ、「武州淺草の堂に化物出ること」という標題に近いらしいものに従うなら、私が電子化注を終えている、延宝五(一六七七)年に京の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)が編著した「宿直草(とのいぐさ)」に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」「宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事」が載りはする。しかし「宿直草」には「化生物語」の異名や異本(改竄本・再編集本)はないように思われる。

 されば、怪談の妄言も、才智、人に勝ぐれたる人にあらねば、世の人の「おそろし」とおもふ程には作りがたし。

 予が少年の頃、何がしが話したる怪は、大(おほい)に人意の表(ほか[やぶちゃん注:底本のルビ。])に出で、おそろしく覺ゆる所あり。

    ――――*――――

 いつの頃にかありけん、國一つ領し玉へる太守ありけり。其奧に宮づかへする少女の二八[やぶちゃん注:「にはち」。十六歳。]斗(ばかり)なるが、二人迄ありける。いづれも、容儀、世に勝れてうつくしく、太守の御いつくしみも深かりけり。一人は「金彌(きんや)」とよび、一人は「銀彌(ぎんや)」とよびけり。二人が仲も甚(はなはだ)睦まじく、座するも伏するも、皆、相(あひ)ともになしける。

 一年斗りありて、金彌は病めることありて、父母が家に下りけるが、程遠き方なれば、消息もなくて過(すぎ)ける。

   *   *

 二た月ばかり在りて、「はや快くなりぬ」とて、再び宮づかへに出けり。

 銀彌がよろこび、言斗(いふばか)りもなくて、前にかわらで[やぶちゃん注:ママ。]睦みける。

 每(つね)に語らひけるは、

「かゝる宮づかへの道は、人に惡(にく)まれ、そねまるゝこともおほければ、心にくるしきことのみたへせぬは、常のならひなるに、吾(わが)二人はよき友を得て實の姉妹のごとくなり。たらわぬことあれば、互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。])に心を付(つけ)て賴母(たのも)しく宮づかへするに、誰より指さす人もなく、假令(たとひ)人ありとも二人一體の如く睦むものから、おのづとたよりよく、心も安く侍るこそ、實(まこと)にうれしきことにぞ。」

など語り合ひて、つかへ[やぶちゃん注:「仕へ」。]のことも語り合せてはからへば、退(しりぞ)きて休むときも打(うち)つれて、片時も離るゝことなくて暮らしける。

 夜の間といへども、一つの衾(ふすま)の内に臥すこともあり、かわやに行(ゆく)とても打連(うちつれ)て行(ゆき)けり。

   *

 とかくすること、又、半年斗り有りてけるが、秋の末つかたに成(なり)ける。

 此日もともに君のみまへをしぞきて[やぶちゃん注:ママ。「しりぞきて(退きて)」の脱字と採る。]、同じ伏しに入けるが、夜深(よふけ)て、常の如く呼連(よびつ)れて、燈火(ともしび)てらして、かわやに行ける。

 金彌は、まづ先に入(いり)てけり。

 いかにかしけん、程經(ふ)れども、出でこず。

 あまりに待ちこふじたれば[やぶちゃん注:ママ。「待ち困(こう)じたれば」。待ち兼ねたので。]、何の心もなく、のすきよりうかゞひたれば、こはいかに、金浦がおもては常ながら、其色、朱の如く、目を見張り、齒をかみ合せて、左右の手に火の丸(まろ)がせを、二つ迄持(もち)て、手玉にとるよふにして居(ゐ)にけり。火の玉の光り、かわやの内にみちて、朱の如きおもてに、明らかに照り合(あひ)たる樣、いかなる「物のけ」なるやらん、二目ともみるべき樣(やう)ぞなかりける。

[やぶちゃん注:「丸(まろ)がせ」「まろ」は推定読み。「丸める」の意の動詞「丸かす・円かす」の名詞形で「丸くしたもの」の意。]

 銀彌は心おち付たるさがなりければ、日頃、かく迄に睦みたる金禰が、假令(たとひ)怪物なりとも、あから樣に人に告げて、此迄(これまで)の睦みを無にせんこと、得たへず思ふものから、

『たゞしらず顏にて濟(すま)さんにしくことあらじ。』

と、おそろしさをたへ忍びて、再びそともに立(たち)て待けり。

 しばしありて金彌は、何のかはりたる氣色(けしき)もなく、かわやより出(いで)けり。

 にこやかにものいひて、

「いつになく待せつること、面(おも)なく侍る[やぶちゃん注:恥ずかしく存ずる。]。」

など、なぐさめて、かわりて燈火を持(もち)てそともに立(たち)けり。

 銀彌もおそろしといふ樣は色にも出(いだ)さで、あとに入(いり)て用たしつれども、こゝろにもあらで[やぶちゃん注:内心は気が進まぬままに。]、打連れて、又、元の臥に入けり。つらく思ふに、

『かゝるあやしき人と此迄(これまで)深く睦みたれば、今更に立別(たちわか)れて別々に伏さんといふも言葉なし。さりとて、かくおそろしき人と、此迄の如く一つ衾(ふすま)に伏さんこと、いかでかこらへ果(はつ)べき。いかなる因果の報ひ來(きたり)て、口にも出し難く、人にも斗(はか)り難き心ぐるしきこととは成行(なりゆく)ことぞ。』

と、淚のしのびしのびに流るゝを、おしかくしおしかくしする程に、其夜はいねもやらねど、心よくいねたる樣(さま)するぞ、又なく心ぐるしかりける。

[やぶちゃん注:「いかでかこらへ果(はつ)べき」どうして恐ろしさを我慢し通すことが出来ようか、いや出来ない。

「いかなる因果の報ひ來(きたり)て」一体、如何なる因果の報いが私を襲いたるものか、と。やや表現に足らぬところがあるが、それが逆に銀弥の恐怖感を効果的に示している。]

 折々に目を開きて見るに、金彌は常よりも心よげに眠りて、少しも常にかわりたる樣(さま)もなし。

   *

 夜も明けければ、又、打つれて宮づかへに出けり。

 銀彌は心の中(うち)にちゞの思ひあれば、

『うき立(たつ)こともなきをさとられじ。』

と、立居(たちゐ)も常より心よげにふるまひて、又、夜に入て、ともにかわやに行たれども、こたびはうかゞひもやらず、伏に入てはいねもやらず、かくすること、日數へにければ、つかれはてゝ、顏の色・飮食とても、常ならずなりにけり。

[やぶちゃん注:「うき立つこともなき」「浮き立つ」は、「気持ちが落ち着かずそわそわする」の意があるが、それではあとの否定の「なき」が合わない。されば、ここは「うきうきする・気が晴れる」の意であろう。]

 金彌はおどろきたる樣にて、

「いかにせまし。」

と、いろいろに心をつくし、藥をあたへ、神彿をいのるなど、いとまめやかなり。

 銀彌は、いよいよおそろしく、

『少しなりとも傍(そば)を離れたらんには、心も少しおち居(ゐ)ん。』

と思へども、殊に心を盡して付添ひ居(を)れば、これも叶わず、おひおひ、おもひの病(やまひ)とはなりぬ。

[やぶちゃん注:「おもひの病」気鬱の病い。]

 金禰、其樣を見て、近くより、

「病の困(くる)しみ玉ふ樣(さま)は、物おもひによるとこそ見侍る。君は此程何(いか)なることか見玉へる事はなきや。」

ととふにぞ、

『扨は。』

とは思ひぬれども、色にも出(いだ)さず、

「それは何事にや、心に覺へなし。」

とこたへければ、

「さあらんには。」

とて、やみけり。

[やぶちゃん注:「扨は」「さては、私が彼女の変容を垣間見たことを薄々感ずいたものか?」の意。

「さあらんには」「それなら、いいのだけれど」。]

 銀彌が心に思ふは、

『先きの夜のことは、もしや、吾が目の迷ひにて、おそろしきことを見つることもや、と思ひ迷ひたれども、今、かの人がとふ樣(さま)を見るに、覺(おぼえ)あることとおもわれて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ物の怪に疑ひなければ、少しもはやく、病(やまひ)を言立(いひた)て、父母がり、歸るにしかず。』

と一定してけり。

 されども、

『此事、心に誓ひて、他人にはもらさじ。』

と思ひければ、病の趣き、ふみに認(したた)め、父母が許にいゝやりけり。

   *

 かくする程に、金彌は、いよいよ、夜の目もいねで、みとりなどするに、又、再び、先の如く、とひけり。

[やぶちゃん注:「夜の目もいねで」夜も寝ずに。]

 されども、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。]に答へければ、それなりにやみけり。

 其後は日の内に幾度となくとふ樣(さま)、顏ざし、少し其時斗(ばかり)は、かわるよふ[やぶちゃん注:「かわる」「よふ」の孰れもママ。]にて、もはや、こらへはつべくもあらず覺へけり。

 病は、いよいよ重くなるに、とふことはいよいよしげくなるにぞ、はては生ける心もなくて、「物の怪」に取らわれ[やぶちゃん注:ママ。]たるにひとしく覺ゆるにぞ、

『今は命も限り。』

とこそ、覺(おぼえ)ける。

   *

 父母、病(やまひ)の趣、聞(きく)とひとしく、醫師を送り、祝驗者(すげんざ[やぶちゃん注:「すげん」は底本のルビ。修験者。])を乞ひ、いろいろとする程に、先づ、家にては護摩を焚ひて[やぶちゃん注:ママ。]神に祈るに、祝驗(すげん)が、いふ。

「これは物の怪の付たるに疑ひなし、甚(はなはだ)危し。此日の夕暮時迄を免れたらば、又、する法もあるべけれども、それ迄の所、心元なし。早々、呼取(よびと)りて吾が傍(かた)に置(おき)玉へ。」

[やぶちゃん注:「此日」「今日」の意で採る。指定した時日を伏せた表現ともとれるが、それでは怪談としての切迫感が激しく減衰する。]

といふにぞ、父母、大(おほい)におどろき、先(まづ)、銀彌がおばなる方に、人、走らせて呼向(よびむか)へ、右の趣を説き示しければ、おばも大におどろき、

「これより行べし。」

とて、駕籠、つらせて、走り出けり。

 おばが夫は武士なりければ、これも賴みてやりけり。

 みち程も遠からねば、其日の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時頃。]斗りに行付(ゆきつき)て、直(ただち)に此よしを太守に告(つげ)て、駕籠に打乘(うちの)せければ、金彌、傍(かたはら)よりまめやかに手傳ひて、

「風に當り玉ひそ、駕籠にゆられ玉ひそ。」

など心付(こころづけ)て、又、別れのかなしさをかたりあひて泣(なく)など、實(まこと)に姉妹の如く、殘る方(かた)もあらざりけり。

[やぶちゃん注:「殘る方(かた)もあらざりけり」名残を惜しむという程度を越えて、激しく別れの悲しみにあるの意か。或いは、彼女はあたかも心は太守の屋敷に残らず、銀弥とともに一緒に行かんとせんばかりであったことを指すか。]

 扨、太守が門を出るとひとしく、祝驗(すげん)の言葉、「今日の夕暮を大切とする」こと迄を語り聞(きき)けけるに、銀彌もおどろきて、

「さては。さありけり。心に誓ひて、他人にはもらさじと思ひけれども、かく神の告(つげ)ありて、祝驗が言葉、明らかなれば、つゝむによしなし、先の姉妹と誓ひて睦みたる金彌こそ「物の怪」なり、其譯はしかじかなり。」

と告げれば、

「さあらんには、われわれ夫婦、附添(つきそひ)て家に歸るに、何の子細かあらん。おち居てよ[やぶちゃん注:安心して落ち着きなされ。]。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、道を早めて行(ゆく)程に、早、申の刻下り[やぶちゃん注:午後五時半前後。]になりにけり。

 其頃は空も曇りて、時よりは早く薄ぐらくなりて、折節、人ざとの家居もまばら成(なる)所にぞ來にけり。

「最早、家にも近ければ。」

とて、少し心おち付(つき)たりしが、俄に駕籠の内に、玉消(たまき)ゆる斗(ばかり)の聲なしければ、

「こはいかに。」

と駕籠のたれ、引上げて見るに、銀彌は仰(あを)のけに反(そり)かへりたり。

 其おもてを見れば、面(おもて)の皮、一重(ひとへ)むきとりて、目鼻も分たずなりて、息絶へて在(あり)けり。

 夫婦のものは、おどろきて、

「こは、口惜し。」

と悔めども、甲斐なく、其儘、家に持行(もちゆき)て、父母にも、祝驗(すげん)にも、途中の話、且、「物の怪」の業(しわざ)なるを語りて、直(ただち)に太守に、其よしを訟(うつた)へければ、

「ふしぎのことなり。」

とて、金彌を尋ね玉ふに、行衞なし。

 其(それ)、又、母が許(もと)に問ひ玉ふに、

「先に病にて家に下(さが)りてより、二月斗りにして死(しし)て、其後(そののち)、再び、宮づかへせしこと、絶(たえ)てなし。」

と答へければ、

「いよいよ、ふしぎの妖怪ぞ。」

と、人々、おそれあへり。

   *   *

 金彌が病も妖怪の取殺(とりころ)せしにや、又は、金彌が靈氣、妖怪をなせしにや、其事は、しりがたし、となん。

    ――――*――――

 

2018/09/13

反古のうらがき 卷之三 くるしきいつはりごと

 

   ○くるしきいつはりごと

[やぶちゃん注:一部の注を各段落の後に入れ込んだ。第二段落は長いので、適宜改行を施した。]

 これは余がしれる人なれども、其名、明(あか)し難し。此人、常に、ばくゑき・飮酒を好みて、世にいふ藏宿師(くらやどし)といふことを業となせり。かゝる人は思はざるこがねを得るによりて、そのこがねあらん限りは、花柳(くるわ)に遊び、美食を食ひ、こがね盡(つく)れば、再び、あしき謀事(はかりごと)を思ひ付(つき)て、筋にもあらざる小金を得るを每(つね)のこととは、なせり。故に今日は美服美食におごりくらすかと思へば、明日は破れたる衣服に、かしぐべき米もなくて暮らすを常とす。

[やぶちゃん注:「ばくゑき」「博奕」。歴史的仮名遣は「ばくえき」でよい。

「藏宿師」旗本・御家人などに雇われて、札差との間の金の貸借についての周旋や交渉・談判に臨んだ者。主に浪人で、幕府はこれを取り締まった。また、札差もこれに対抗して屈強な者を置いた(小学館「大辞泉」に拠る)。]

 一とせ、年の暮に當りて、仕合(しあはせ)あしく、一人の娘が衣服さへ破れ果て、春を迎ふべき手立(てだて)もなく、已に大つごもりの夜に成(なり)にたり。

 おひめをはたる人は、入替り、立替り、來れども、元よりつぐのふべき手當もなければ、皆、こふじ果て歸るにぞ、反(かへ)りて心安きことに思ふべけれど、娘が、

「春着の衣服を着せてたべ。」

とこふがくるしさに、金貮分斗(ばかり)の工面をせでは、かなはざる時宜(じぎ)とはなりにけり。

[やぶちゃん注:「おひめをはたる人」「おひめ」は「負ひ目」で「はたる」は「徴る・債る」で、借金を取り立てに来る人の意。]

 常の日さへ、かゝる人がこがねをからんといふに、こゝろよくかす人あらん理(ことわり)なきに、かく、年のつごもりになりて、何れへか、いゝよるべき。又、あしき謀事も、人々の心ゆるき時こそおこなへ、此時に望みて誰をかあざむかん。纔(わづか)に貮分のこがねの手に入(いる)べき術(すべ)の盡果(つきはて)ければ、やがて思ひ出(いで)し計りごとこそ、ふしぎにも、くるしかりけり。

 程近き所の、料理仕出して飮食うる家に行て、

「唯今、大一座の客來りたれば、あたへ、三兩斗(ばかり)の飮食を料理して卽時におくり越すべし。其品々には何にまれ、大やかなる魚を第一とし、塗りひらのうつわゝ、大きなる程こそよけれ、皿にまれ、臺にまれ、皆々、大やかなるに盛りてこせよ、とくとく。」

といひて、かへりぬ。

[やぶちゃん注:「あたへ」「價(あたひ)」。

「うつわゝ」「器は」。国立国会図書館版もママ。]

 程もあらで、もて來にけり。

 藍染付の大皿に鯛の魚の濱燒にしたるを、頭(かしら)・尾の外に出(いづ)る斗にもり、其傍にいろいろの取合せを盛りたり。同じ程の平らめる皿に、しびの魚と、ひら目の差身(さしみ)をしきならべ、くさぐさの、靑き紅き、海の草、山の草を盛り添(そへ)たり。沈金に朱塗りの大平のうつわには、魚の肉、鳥の肉、海山の珍味、打(うち)まぜて、葛のたまり、うすらかになして打かけ、山葵(わさび)の根のすり碎きたるを上におきたれば、湯げの烟りに蒸し立られて、かほり深く、めでたし。又、物の蓋(ふた)めけるふち高き板の、黑漆以(も)て塗(ぬり)たるに、金の箔(はく)切(きり)ふせ、其間に金粉(きんぷん)もて、山川の景色ゑもいわれず、手を盡して畫(ゑが)きたるに、魚の肉、鷄の卵、木の實、草の根、いろいろの物を五色に色取(いろど)りたるを、山の形(かた)、川の形、七曜の形などに、手を盡して盛り並べたり。其外、器にそれぞれの酸(す)き、辛らき、甘き、五味の外の味迄も取揃へて差出(さしいだ)しければ、

「三ひら斗(ばかり)の黃金(こがね)にて、かゝる品品の揃ひしは、思ふにもましたり。」

など、いひつゝ、物をば取收(おちりをさ)めて、其人をば歸しやりけり。

[やぶちゃん注:「しびの魚」「鮪(しび)」。まぐろ。

「葛のたまり」葛餡(くずあん)のこと。醤油や砂糖で味つけした汁に、水で溶いた葛粉を加え、とろ火で煮たもの。

「ゑもいわれず」「ゑ」も「いわれ」もママ。「えも言はれず」。言いようもなく素晴らしく。

「七曜の形」肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星及び太陽・月(陰陽)を合わせた七曜(天体)を当てた、円い或いは半円などを組み合わせた紋型・図形。]

 扨、客ありといひしは初より詭(いつは)りなれば、いかゞするやと思へば、打寄(うちよ)りても食はで、皆、前の小溝へ打捨(うちすて)たり。

 井の水、汲上(くみあげ)て、器ども、取集(とりあつ)め、其汚れをば洗ひ落し、打重(うちかさね)て廣布(ひろぬの)の風呂敷につゝみ、持出(もちい)で、ほとり近き質屋がり持行(もてゆき)て、こがね二分をぞかりてけり。其歸るさに古き衣類うる家に行て、娘が春着になるべき一ひらのきる物かひて歸りにけり。

[やぶちゃん注:「質屋がり」質屋へ。「がり」は接尾語で、通常は、人を表わす名詞・代名詞に付いて、「~のもとに・~の所へ」を添える。漢字表記では「許(がり)」。この後も結構、出るが、以下では注さない。誰もが、高校の古文で習ったはずだからである。]

 娘も吾も、

「よくしてけり。」

とて、喜びて年を越(こえ)けり。

 明けの日、飮食うる家より使ひ來りて、よべの器どもと其あたへとを乞ふに、

「今少し食ひ殘りて、器もの、みな、明(あ)き兼たれば、後にこそ。」

とて歸しぬ。後の刻に行(ゆけ)ば、

「客がりおくりたれば、器の歸らん時、歸さん。」

といふ。

「こなたにも、用ゆることのしげきによりて、送り玉へる方に行(ゆき)て請(こ)ひ取侍(とりはべ)らん。」

といへば、

「其方(そのかた)は彼、方(かなた)なり、此方(こなた)なり。」

などいふを聞けば、いづれも、一さと二里隔りたる方なれば、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]ゆかで歸りけり。

[やぶちゃん注:「一さと」は「一里」ではなく、村一つ分越えた所の意と採っておく。]

 二日三日過(すぎ)ぬれども、音もなければ[やぶちゃん注:一向、音沙汰なしなので。]、

「こは、あやし。」

とて、行(ゆき)てなじり問ふに、前のごとく答へて、明(あか)ら樣(さま)にもしりがたければ、

「扨は、いつはりにかゝりたるなり。飮食のあたへは思ひもよらず。せめてものことに、器どもの行衞にても知(しれ)たらば、請ひ取(とり)てかへれ。」

と、いひてやるに、

「今、しばしく。」

とて返さず。

[やぶちゃん注:「せめてものことに」底本も国立国会図書館版も「せめてものごとに」であるが、濁音を除去した。]

 こふじ果たれば、こなたより、わびていふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「飮食のあたへは請(こ)ひ奉らず。たゞ、器もののみ返し給はらば、上へなき御慈悲なり。いづちかへおくり玉ふ。それのみ、あかさせ玉へ。」

といへば、

「いや。飮食のあたへもあすは取らすべし。などて、故(ゆゑ)なく、たゞに食ふべき。器も其折(そのをり)こそ返し與(あた)ふべし。」

といふにぞ、いよいよ持(も)てあぐみて、ひたもの、器の行衞を問ふに、

「さらば。何屋がり行(ゆき)て取れ。」

といふ。「何屋」とは、近きあたりの質やなり。

「扨こそ、思ふには出ざりけり。此器のあたへ、飮食の料にたぐふべきならねば、利足、かさまざるまに、はや、行(ゆき)て請(う)け戾せ。」

とて、行て見れば、纔に貮分の質物に利足の付(つけ)たるまゝなれば、

「いと心安し。」

とて受戾(うえもど)して歸りにけり。

 器の中なる品々の飮食、人にもおくり、自分もたべたらんに、さこそうまかりつらんに、かゝる人は、ものおしみはせぬものなり。

[やぶちゃん注:「こふじ果たれば」歴史的仮名遣は誤り。「困(こう)じ果てたれば」。困り果てたので。

「あたへ」「價(あたひ)」。]

反古のうらがき 卷之三 三つのおそれにあふ

 

   ○三つのおそれにあふ

[やぶちゃん注:この一条、長いので、本文中に注を繰り込んだ。本文と識別が容易に出来るように注は太字とした。]

 伊豆國熱海の溫泉は、江戶より路程(みちのり)も近ければ、行(ゆき)て浴する人も多かり。深き疾(やまひ)・重き疾の癒(いゆ)るといふにはあらねども、亦、しるしなきにあらず。まづは夏のあつさをしのぐにはよき海邊なれば、富める町家のあるじなど、來りて、遊ぶもの多し。且、此地の湯本におきてありて、遊女を買ふことをゆるさず。其故は、病を療するとて來りたる人が、かへりて瘡毒(さうどく)[やぶちゃん注:梅毒。]など受(うけ)てかへりたらんには、益なくて害あり、あまつさへ熱海の湯はしるしなく、病(やまひ)、彌(いや)增(ます)などきこへんには、大(おほい)なる所の妨(さまたげ)なればなりとぞ。故に此地に湯女(ゆな)なし。偶(たまたま)諸國より來れる倡家[やぶちゃん注:女郎。娼婦。]の女あれども、皆、瘡毒の療治なれば、問はでもしらるゝ瘡毒の女なり。これが、おりおりは、ひそやかに客をとることあれども、極(きはめ)て祕密のことにて、湯本にきこへたらんには、速(すみやか)におひ去らるゝことのよし。されば、金錢を費さんに手立なき處にて、富豪のあるじ・其外、江戶にて多く金銀を費す人をば、人々、すゝめて此處に遊ばしめ、費(つひへ)を省(はぶ)く術(すべ)をなすとぞ。飮食も自由なれども、價貴(たか)き品々なく、魚類は其處にて獵するなれば、甚(はなはだ)、價、賤(やす)し。これも此地に遊ぶ人、金壹分[やぶちゃん注:一両の四分の一。江戸後期は現在の七千五百円から一万二千五百円に相当。]出して鯛網(たひあみ)[やぶちゃん注:タイを捕るのに用いる巻き網。金額から見て「沖縛り網」で、複数の船を出して円形に囲い込んで漁(すなど)るそれであろう。]を引(ひく)に、獲物多く、家々の遊客におくるに、猶餘りて打捨(うちすつ)ることもあるよし。諸遊藝の宗匠どもは、多く此地に來り、遊客の相手となり、其日を送るもあり。各(おのおの)好み好みのあそびに日をおくるといへども、遂に金錢多く費す術はなきを、此地の名譽となすことなり。湯の沸出(わきだ)す時は一日三度、朝・晝・暮と、時をたがへず、其熱きこと、筍(たかんな)などの類(たぐひ)を投入置(なげいれおく)に、程なくして、よく熱すとぞ。湯本はいふ、「此地に來り玉ふ人々、身分の上下を論ぜず、各(おのおの)同輩のこゝろにて、諸遊客と交り玉ふ程面白き事なし。もし、其意ならば、武家は刀劒を湯本に預け、富家は從者(ずさ)を同遊となし、衣服・身の廻り、人に異なる樣(やう)なく、此地の風俗に隨ひ、單(ひと)への衣一つに細き帶一筋、新らしき好み好みの褌(ふんどし)、其外は新らしき手拭・もみ紙の煙草入(たばこいれ)・きせるなど、大體、島中(しまなか)[やぶちゃん注:海辺の一帯。領分の「シマ」の意かも知れぬ。]一樣の出立(いでたち)にて、『互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。「互い」にと同義。])に身本(みもと)をしらるゝことなきを上々の遊びといふ也』と、人々に告げしらすにより、若き人々などは島中を橫行するに、誰(たれ)に心置(こころおく)ことなく、實(じつ)に心樂しく思ふ遊ぶなり。蓄への金銀も、同じく湯本へ預くる方(はう)、氣遣ひなし。入用程(いりようほど)づゝ受取り、若(も)し、多く費す人あれば、湯本、是を許さず」とぞ。

 余が族家、内海某[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の注に『桃野の祖母の実家』とある。]、「病(やむ)ことあり」とて公(おほやけ)に告(つげ)て、此地を遊ぶこと、數旬なりけり。老(おい)て後、其事を語るに、「實(じつ)に、魂(たましひ)そゞろに脱出(ぬけいづ)る斗(ばかり)に覺ゆる」とて、しばしば、余にも語れり。其島の東北七里斗りに小島あり[やぶちゃん注:不詳。熱海の東北二十七キロメートル半の駿河湾内にはこんな島はない。南東なら初島や大島があるが、前者では距離が近過ぎ(直線で約十キロメートル)、後者では遠過ぎる(約四十キロメートル強)。また後者なら名前を長く流人に島として知られていた(但し、明和三(一七六六)年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島・利島とともに寛政八(一七九六)年には正式に流刑地から除外されている)から名を出すはずである。但し、以下の海難未遂は外洋っぽく、また、大島西岸にある波浮港村は寛政一二(一八〇〇)年に立村しており、当村の鎮守波布比咩命(はぶひめのみこと)神社の例祭は七月二十七日ではあった。だが、やはり大島では遠過ぎ、以下に見るような大きさの舟ではとても無理だと思われるから、やはり初島とすべきか。]。七月何の日、土地の神社の祭禮ありて、此日は家々、酒樽の蓋、打拔き、來る程の人々飯を盛る碗もて、おのがまにまに[やぶちゃん注:思うがままに。]、くみて飮むことを例となせり。故に、男女(なんによ)打交(うちまじ)り、醉(ゑひ)たるまゝに打戲(うちたはむ)れ、舞歌(まひうた)ひすること、二日にして止むとぞ。内海某、從者(ずさ)二人、其外同道の客貮人と船二艘を買ひて、「此祭りを見ん」とて出ける。折節、海上、浪靜かに、幾尋(いくひろ)となき海底に、大小の鮫の魚、行かふ棲(さ)ま、見なれぬことのみにて、いと面白かりけり。人の語るにたがわず、其地の祭り舞歌ふ樣(さ)ま、珍づらしく、日のかたぶくもしらで遊びけるが、日も七つさがり[やぶちゃん注:午後五時半前後。]の頃、船をかへして三里斗來(きた)ると覺へしが、舟子ども、西の空を「き」と見て、「あれはいかに」といふとひとしく、碗(わん)程の雲、二つ、飛出(とびいで)たり。見るが間に傘(かさ)程となり、又、見る間に十たん斗(ばかり)のひらめる雲となり、俄に一天におほひ來(きた)る。「こは、早手なり、かなわじ」といふまゝに、二つの舟を橫樣におしならべ、帆柱二本を舟の上に橫たへて、二所を堅く繋ぎ合せ、かぢを引上げ、櫓を取上る程もあらせず、大風大浪、海をくつがへし、天を拍(う)つ樣(さ)ま、四方、やみの如く咫尺(しせき)を分たず、舟に入(いる)浪は山を崩しかくるが如く、舟のたゞよふ樣(さ)まは木の葉の空に舞ふが如し。人々、膽魂(きもたま)消失(きえう)せて、手に當る物、取持(とりもち)て水をかへ出(いだ)すに、舟中に有(あり)とあらゆる品々、皆、水と共に海中にかへ出(いだ)せり。されども浪は、彌(いよいよ)舟に入(いり)てかへ果(はつ)べくも見へねども、「命のあらん限り」と力を出して、かへ出す。『此あたりぞ、先に見て來にける大鮫などの多くありし處なるべし。鳴呼、不幸にして此禍(わざはひ)にあひ、かれらが腹に葬らるゝ事よ』とおもへば、かなしくも、又、せんすべなく、互に聲よびかわし[やぶちゃん注:ママ。]、力をつくるに、はや、よはり果て、黃水(おうずい)を吐くもあり、潮の中に倒れ伏すもあれども、是をかへり見るにいとまなければ、力のかぎりを命の限りとあきらめて、はたらきける。かくして、舟はいづこをさして洋(ただよ)ふやらん、岸もしらず、果もなき方へ洋ふに任せて、吹かれゆく。舟子共は、人々にまさりてはたらきける故に、はや力盡(ちからつき)て、只、聲斗りふり立(たて)て、「人々、浪にな取られ玉ひそ、風にな取られ玉ひそ」と叫べども、果(はて)には、舟中人ありとも見へず、皆、舟底の潮の中に打伏(うちふし)て、息出(いきいづ)る樣にも見えざりける。一時斗りも經ぬる頃、風、少し靜まり、浪も平らかになりゆくにぞ、人々漸く息出る心地して、舟底より這ひ出て見れば、四方の闇も漸く晴行(はれゆ)き、西の空と覺しき方(かた)、夕日の殘りたるが、「ひらひら」と紅く見ゆる夕暮の空の景色とはなりぬ。「扨も命(いのち)めで度(たく)、舟もくつがへらで、先(まづ)此迄にはしのぎ果(はて)ける、うれしや」とて、互に大聲出(いだ)して泣けり。しかし、舟中に一物なく、各(おのおの)いたく飢(うゑ)たるに、「こゝはいづこなるべき、先(さき)の舟路よりは幾里斗り洋ひたる」と舟子に問ふに、東北の諸島は、皆、見覺(みおぼえ)あり。未だ、霧、晴渡(はれわた)らねば、しかとも分たねども、西の空の日の入る光りのあたりぞ、先に渡りたる小島なるべし、十五、六里には過ぎざるべし、いで、櫓をおせ、かぢおろせ」とて、先の帆柱、とき分ち、舟二つ、おし並べてこぐ程に、矢を射る如くおし切(きり)て、夜の五つ半といふ頃に熱海の嶋に乘り入ける。是も、今少し早く、乘付(のりつく)べかりしが、「早手(はやて)[やぶちゃん注:疾風(はやて)。]のあとは、又も、『かへし風』[やぶちゃん注:吹き返しの風。それまでとは大きく異なる方向から吹いてくる風のこと。主に台風が過ぎ去った後に吹く逆方向からの強い風を指す。]といふことあることもあれば」とて、嶋影見ゆる方をさして乘(のり)たれば、直(ただちに)に[やぶちゃん注:風に逆らって無理に真っ直ぐには。]おし切らで、西をさし、南をさし、島が根近き方へ方へと行たれば、里數、四、五里の𢌞り道とはなりし也とぞ。これを、「一つのおそれに逢ひたる」とかぞへたり。

 湯治も日數經(へ)にたれば、家に歸るも、又、樂(たのし)みになるよふ[やぶちゃん注:ママ。]におぼへて、そぞろに歸り心出で、いまだ公に告たる日限(にちげん)にもいたらねども、「一と先(まづ)、熱海を立(たち)て金澤の八景見ん」とて、山路ごへ[やぶちゃん注:ママ。]に相模の國に入けり。夏の山の景色、得もいはれず、木影に立休(たちやす)らへば、涼風(すずかぜ)、客衣(かくい)を吹き、石によりて坐すれば、白雲、杖のもとよりおこるなど、早立(はやだち)の朝の空、いと晴(はれ)わたり、ひるの暑さにことかわりて、露深く、夕の日の入る山影、いろいろの雲の峯、形をかへて見ゆるなど、面白かりけり。道の案内する人を雇ひたれば、神社佛閤も殘りなく拜み奉り、山道にかゝり、向ひの山を見てあれば、一つの鹿の遊び居たるに、目なれぬ故に、各(おのおの)「あれを見よ、あれを見よ」と見るまに、此方(こなた)の谷合(たにあひ)に錢砲の音響くとひとしく、鹿は「ころころ」とまろびて、谷に落(おち)けり。「扨も、情けなき事よ」と見るまに、さしこの布もて一身すきまなく包みたる人、鐡砲をかたげ、山刀(やまがたな)、腰に橫たへたるが、小篠(こしの)の中、推分(おしわけ)て出(いで)けり。これ、このわたりの獵師にて、是が打留(うちとめ)たるとぞしられける。かくて行(ゆく)こと一里斗にして、道案内の者、彼方(かなた)の山を深く見入(みい)れ居(をり)たりしが、驚きたる樣に、人々を差(さし)まねき、「ひそかに、ひそかに」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、逸(い)ち足(あ)し[やぶちゃん注:速足。]を出(いだ)して、行くての路へ走り行(ゆく)にぞ、人々共、心は得ねども、それが招くに隨ひ走り行(ゆけ)ば、いづこを當(あ)てともなく、ひた走りに走る。『後れては惡(あ)しかりなん』と思ふにぞ、そゞろにこはけ立(だち)て[やぶちゃん注:「怖氣立ちて」であろう。]、互に言(こと)ばもなく、つかれたる足を引(ひき)つゝ、『力の繼(つづ)くだけは』と走りける。廿町[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]斗にして、先に立(たち)たる人、立止りて、待受(まちうく)るにぞ、人々、「何事なれば、かくはするぞ」と問(とふ)に、「人々は知り玉はじ、かく日暮近くなりては山路は行かよふ間敷(まじ)かりしを。此頃はさせることもなしと聞(きく)にぞ、人々を伴ひしが、先の處は狼の出入する所にして、年の内には、いくたりとなく、狼にとらるゝ者あり。先に彼(か)の山を見入(みいり)たるに、木葉(このは)がくれに狼の此方(こなた)に向ひ坐(ざ)せるを見付たり。其間、五、七町[やぶちゃん注:約五百四十六~七百六十四メートル。]隔(へだつ)るといへども、かれが見付たらんには、一足に飛來(とびきた)る。彼が一疋來らんには、いづこより來るともしらず、いくつともなく出來(いできた)り、ゆく手の路をふさぎ、又、後(しりへ)より送る[やぶちゃん注:尾行してくる。]。其時、幾人ありとも、敵すること能はず。又、運つよく害に逢(あは)ざる人もあれども、先づは稀なり。そが中に此方より狼の影を見付て、彼が心付かでやみたるといふことは、尤(もつとも)稀なることなり」と語りけり。人々、是を聞(きき)て、身の毛、立(たつ)斗りにおそれけれども、先に、走る頃、此事をしらば、殊に身もすくみて走りなやむべかりしを、其時はしらで走りけるぞ、めで度(たき)事とぞ祝(しゆく)しける。これなん、第二條のおそれにあひたるとかぞふる也。

 それより相州金澤に遊びて、名所古跡打𢌞り、しばし足を休(とゞ)めたれども、公に告し日數の限りにはあらざりけれども、年の若き人々なれば、山路或は幽邃の地にこふじ果(はて)たれば[やぶちゃん注:「こふじ」は、ママ。「困(こう)じ果てたれば」で、すっかり疲れ、或いは静か過ぎて飽きてしまったので。]、少しも早く歸り來(きたり)て、『家路近きあたりにて、心ゆるく遊ばん』と思ふにぞ、金澤には一夜もとゞまらで、神奈川の驛に宿りぬ。其夜、大風雨にて、海原の景色も見るによしなけれども、所の賑ひに取まぎれて一夜をあかしぬ。朝は早く立出(たちい)で、雨後の涼しさを追ひて、六合(ろくがふ)の渡し[やぶちゃん注:東海道は東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町の間の現在の六郷橋附近で多摩川を渡った。旧「六郷大橋」は慶長五(一六〇〇)年に徳川家康がを架けたが、貞享元(一六八四)年に五回目の架け直しをされたそれが、貞享五(一六八八)年に洪水で流された後は再建されず、「六郷の渡し」が設けられた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に來るに、夜べの嵐に水增して舟を出さず。心にもあらで、日の午後過(すぐ)る迄、此處に居(をり)しに、追々に聞へけるは、「昨夜の大風雨に大浪打入(うちいり)て、金澤の驛は、皆、引入(ひきいれ)られ、湖水[やぶちゃん注:この「湖」は「海(うみ)」の意。そうでなくても「金沢八景」は中国湖南省の洞庭湖付近の名勝名数「瀟湘(しょうしょう)八景」に見立てたものであるから、何ら、違和感はない。]に臨みたるあたりは、家人ともに影もなし」など聞(きく)にぞ、「さては、さることありけり。吾々、今一夜前に彼(かの)地に付(つき)たれば、思ひ設ざるの禍に逢ふべかりしを。そゞろに家路近くなして心おちゐん[やぶちゃん注:『何とはなしに「家路へなるべくより近くへ近くへ」と向け、これといってわけもないのに、そのようにして心を落ちつけよう』の意か。]と思ふものから、ひたいそぎに神奈川驛迄追ひ付しは、我にして我ならず、神佛の助け玉へるなりけり」とて、人々、又も、命のめで度(たき)を祝しける。程もあらで、川も明(あ)きければ、其日に家に付(つき)て、人々、旅中無事を賀し、且は「危きことども語り合(あひ)て、後の談(はなし)の種とせん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。是なん、第三條のおそれとかぞふべし。「其中に後の二條は、おそれたれども、其場にては心付かで過(すぎ)ければ、膽(きも)のつぶるゝ程にはあらざりけれども、最初一條はつぶさに其苦況を經(へ)にたれば、深く心に染入(しみいり)て、語るさへおそろしく覺ゆる」とて、此三つのくだりを畫(ぐわ)に寫(うつ)し、文に作り、家に傳へて、「『子孫無益の遊歷(あそびあるき[やぶちゃん注:底本のルビ。])して他鄕に至ることを禁ずべし』と成(なさ)しめたり」と語りき。繪は丹丘(たんきう)[やぶちゃん注:加藤好夫サイト浮世絵文献資料館に浮世絵師「丹丘」の事蹟が載るが、彼がこの人物かどうかは不詳であるものの、天明三(一七八三)年刊の四方赤良撰・丹丘画「狂歌三十六人撰」、享和元(一八〇一)年の大田南畝の山内穆亭宛書簡に名が載り、これは本「反古のうらがき」の成立(嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃)や桃野の生没年と同時代的であり、先行条によっても桃野は四方赤良(=大田南畝)と接触があった可能性が高いことから、彼であってもなんらおかしくはないと言える。]といふ人、かきたり。文は小野蓑水[やぶちゃん注:不詳。「蓑水」の読みは「さすい・さいすい」か。]、作れり。

反古のうらがき 卷之三 金貮枚刀

 

  ○金貮枚刀

 大判(おほばん)の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに、今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり。故をもて、金壹枚といふを小判七兩、本金一枚七兩貮分と定め、いにしへのあたへ[やぶちゃん注:ママ。]の名のみ殘し、刀劒の折紙などにしるす時のみ、此ことばを用ひ、常の賣買ごとに用ゆること、なし。又、小判一ひらを一枚といふ人もありて區々(まちまち)なれば、あやまることも多くありけり。

 天保弘化の頃、刀劒、大(おほい)に世に行はれ、刀師・とぎ師・拵師(こしらへし)、各(おのおの)かけ走りて利を得るとき也。

 予がしれるとぎ師が持(もち)ける刀は【銘、誰なるか失念。】、さる方に賴みて、

「金貮枚に賣りくれよ。」

と云ひやりしが、めぐりめぐりて、吾が弟子の方へ持來りけり。

 それともしらで、價ひを問ふに、

「貮枚。」

と答ふ【枚といふは大判金のことにて、小判なれば兩といふなり。】。世の稱呼、區々(まちまち)なれば、忽ち誤りて、「小判貮兩」と心得、とくと見るに名刀なり。

『いかに見おとすといへども、五、六兩をば下るまじ。』

とおもひけれども、さし當り、手元金子、間合兼(まにあひかね)たれば、先づ師が許に持行(もちうき)て、

「金貮兩貮分なり。いかにも、あたへ[やぶちゃん注:ママ。]、いやし。取置給へ。」

といひて、貮分の口錢のみを所德とする心なりけり。

 師、一目見ると、

「これは、大(おほい)に、價、安し。直(ただち)に代金を渡すべし。」

とて、出して買ひけり。

 弟子、うれしくて、刀屋が許に行て、金二兩を出(いだ)し、

「さる方にて、かひたり。」

といへば、刀屋、大におどろき、

「最初より貮枚といゝ[やぶちゃん注:ママ。]たるに、貮兩とはいかに。同じどしの刀・脇差やり取(とり)に、大判小判といはずとも、貮枚といはゞ大金、貮兩といはゞ、小金と聞(きき)しるは、われわれのみならず、何方(いづかた)も同じことなるを。今、かくの玉ふは餘りにおろかなり。且、又、品物も物によるべし、あの品が貮兩や三兩の品と見ゆる品なるか。かへすがへすもおろか敷(しき)人也(なり)。早々(はやばや)、取かへし來(きた)るべし。」

といふにぞ、

「さては。さありけり。いかさま、餘り、價の品より賤しと思ひしも、理(ことわ)りにてぞありける。間違(まちがひ)といふ物なれば、是非なし。取かへし來るべし。」

とて、再び師の許に來りて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「先の價は間違なり。大金(おほがね)貮枚なれば、小金十四兩なりけるを、只『貮枚』とのみいひて、大金といはざれば、吾、誤りて小金貮兩と心得、かくは謀らひける也。いざ、戾させ玉へ。代金はかへし奉る。」

といへば、師、且、笑ひ、且、怒りていふ、

「此刀は元吾が品にて、何某へ賴みて賣(うり)に出(いだ)せしが、價貮枚と申約(まうしやく)せし也。然るを、汝、おろかにして貮兩と聞(きき)誤りしは、理(ことわ)りあるに似たり。されども、汝、吾方に來りうるに至りて、『貮兩貮分也』といゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。故に、吾、其儘に價を取らせしぞ。但し、貮枚貮分といふ價なし。さすれば、貮分とは何の聞誤りぞ。もし、師弟の間にて口錢貮分を取らんとならば、恩をしらざるくせ者也。更に亦、罪あり。數年來の弟子なるに目きゝもなくて、金貮枚の品物、小判貮兩の品物と分(わか)ちなきは、おしへて甲斐なきおろか者也。此二罪あれば、師弟の約をも絶(たつ)べきやつなれども、只一つのゆるすべきことあるによりて、さし置(おく)なり。初め、此刀、『よき品』と見て、少しの所德もあるべしと思はゞ、他所(よそ)へこそ持(もち)あるくべきを、他所へは行かで、先(まづ)、吾方にもて來りしは、師によき物得させんと思ひしに似たり。此一點、良心あるにより、此度はさしゆるす。」

とて、ことすみけり。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。

「大判の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに」大判とは広義には十六世紀以降の日本に於いて生産された延金(のしきん/のべきん:槌やローラー状の機器で薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものを指す。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金(こがね)」と呼ばれ、「大判金(おおばんきん)」とも称した。享保大判金(享保一〇(一七二五)年~天保八(一八三七)年)は一枚を七両二分とする公定価格が設定されたと参照したウィキの「大判にあるのと一致する。なお、ウィキの「小判」によれば、『小判に対し、大判(大判金)も江戸時代を通して発行されていたが、大判は一般通貨ではなく、恩賞、贈答用のもので』、『金一枚(四十四匁』『)という基準でつくられ』、『計数貨幣としてではなく、品位と量目および需要を基に大判相場によって取引された(強いて言えば秤量貨幣に近く、現代的に解釈すれば、金地金(インゴット)に相当するものと言える)。また、天保年間に大判と小判の中間的な貨幣として五両判が発行されたが、金含有量の劣る定位貨幣でありほとんど流通しなかった』とある。

「今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり」Q&Aサイトの回答によれば、江戸前期・中期(明和九・安永元(一七七二年)頃(田沼意次が老中に就任した年である)まで)は一両は現在の十万円、後期(嘉永六~七年(一八五四)年頃(嘉永七年三月三日に日米和親条約が締結)まで)は八万円であった(それ以降の幕末期はインフレが進み、五万円相当まで下がった)から、この「貮拾五、六兩」は二百万円から二百八万円相当となる(本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

「天保弘化」一八三一年から一八四八年。

「拵師」日本刀の状態を確認したり、修理して使用可能な状態に仕立てる職人の総称。正確にはここに出る「研師」や鞘と柄を彫る「鞘師」、柄を鮫皮と柄糸で巻く「柄巻師」、刀身の手元部分に嵌める金具であるハバキを作る「白金師(しろがねし)・塗師などのさまざまな刀剣職人が、分業で一振りの刀剣を製作・修理した。

「予がしれるとぎ師」「吾が弟子の方へ」則ち、本一件の当事者の二人と桃野は知り合いであったのである。従って一読、落語のネタかと思わせるものの、まぎれもない事実譚なのである。

「それともしらで」ネタバレとまでいかないにしても、やや話を先取りしてしまった感のある表現ではあるが、或いは、私の弟子であっただけでなく、仲介した研師も知っていた、されば、この一件は後に、確実な情報として私の耳に入ることになってしまった、のニュアンスでの言い添えかも知れぬ。

「いかに見おとすといへども」どんなに安く見積もっても。しかし、「五、六兩をば下るまじ」で、大判金二枚=五十~五十二両の品をば、かく見積もったのでは、これまた実は救い難い目利き出来ぬ「かへすがへすもおろか敷(しき)」馬鹿弟子(桃野のそれではなく、後に出る(恐らくは剣術の)「師」のそれ)と言わざるを得ない

「あたへ」「あたひ」で「價」。

「いやし」「賤し」。安い。

「どし」「同士」。「どうし」または「どち」の音変化という。刀剣関連業の仲間同士。

「聞(きき)しる」~と認識する。~の意と採る。

「口錢」「こうせん」「くちせん」両様に読む。取引の仲立ちをした仲介手数料のこと。]

反古のうらがき 卷之三 打果し

 

    ○打果し

 いつの頃にか、若侍二人ありけるが、ともに武邊をはげみて、常に心も剛(こう)なりけり。いかなることにや、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふことありて、はては、互に「一分(いちぶん)立難(たちがた)し」などいふ程に、「打物(うちもの)の勝負して雌雄を決すべし」といふこととはなりぬ。されば場所よき所を選みて、「明朝、立合ふべし」と約して別れけり。既に其日になりければ、朝霜(あさじも)踏(ふみ)しだきて、年壹つおとりたる方、まづ其場に到れり。しばしありて年增(まさ)る方(かた)、來れり。出向(でむか)へて見れば、必死を極めたると見へて、草履もはかで、素足也。こなたも、「不覺なりけり」とて、草履ぬぎすて、「いざ、參らん」とて、刀ぬき合、しばし打合ふに、年增る方、其すきを伺ひ、足をのべて、敵のぬぎすてし草履をかきよせて、はきけり。としおとれる方、是を見るとひとしく、うしろざまにかへりみて、雲霧(くもきり)の如くにげ去りて、影をだに見ずなりぬ。これは年增りたる方は必死を極(きはめ)たるにあらず、途中にて草履踏切(ふみきり)たる故に、是非なく素足にて霜の中を踏み來りしが、敵があやまりて『必死』と見て、吾が不覺を悔ひ、草履脱(ぬぎ)すてつるを、膽太(きもふと)く奪ひて、足のひへ[やぶちゃん注:ママ。「冷え」。]をのがれし也。かゝれば、年おとれる方は、かへすがへす、不覺を取(とり)たることにて、勝負のほども心元なく、自然(おのづ)とおくれ出(いで)、立(たち)こらふべくもあらず、忽(たちまち)に逃去りたる也とぞ。人々、許しけるとぞ。かかればふるまひの中に不覺のことあれば、勝負にかゝはること多し。武邊に志し深き人は、思慮も深からんことぞ、ねがはし。

[やぶちゃん注:標題「打果し」は「うちはたし」で、果し合い・決闘のこと。]

反古のうらがき 卷之三 ふちがしら

 

 反古のうらがき 卷之三

 

    ○ふちがしら

 刀脇差の小道具は、物好(ものずき)多く、いろいろの美を盡(つく)す中に、古(ふ)るき品々取合せて作りたるは、殊に見所多き物也。されば、「大小の刀、同じ品揃ひたるは、物好(ものこの)まぬ人のする態(わざ)」とて、ことさらに別樣の物を用ゆる人、多し。かゝれば品がら、時代或は模樣よく出合(いであひ)たるは、あたへも貴(たか)く賣買することとなりぬ。此頃の人の尤(もつとも)物好する人は、いかなるよき品とても、揃ひたる物は深く惡(にく)みて買取らず、かたくなに似合(にあひ)の品ども取集めて、「よく出合たり」と誇りあへりけり。あき人、これを惡めども、せん方なく、是迄の揃ひたる品は、自然(おのづと)、あたへ、いやしく賣(うり)けり。其中に、わるがしこき者ありて、一揃ひの品を、先(まづ)、片方を持行(もちゆき)てうりけり。扨、これが取合せを求る樣(さま)を見て、後に又、片方を出(いだ)して賣(うり)ければ、「よく出合たり」とて、よろこびて買(かひ)とり、あたへも甚(はなはだ)たかく賣たるとなり。かく、あき人は、かしこく人を欺くなるに、「我は欺かれまじ」とて、あき人のごとく品物取扱ひ、多く見覺へ・聞覺へなどする人ぞ、あさまし。さまでに物好みの心はやみ難きものなるにや。あたへたかくよき念入(ねんいり)の品々は、誰(たれ)にもしり易きものぞ。かゝるゑせ[やぶちゃん注:ママ。]ごとして『貴き品にもまさらん』とする心の賤しきより、あざむかるることも多く出來(いでく)ることぞかし。

[やぶちゃん注:標題「ふちがしら」は「緣頭」で、刀の柄の頭の部分及びそこに付ける金具類を指す「柄頭(つかがしら)」に同じい。

「あたへ」ここは「價」であるから、「あたひ」が正しいが、「あたひ」が転じて「あたえ」「あたい」となった経緯から、すでにこの時代には誤記とは言い難い。

「ゑせごと」「似非事・似而非事」。鑑定家の(レベルの低い・間違いだらけの・杜撰な)真似事。歴史的仮名遣は「えせごと」でよい。]

2018/09/12

反古のうらがき 卷之二 胡麻の灰といふ賊 / 反古のうらがき 卷之二~了

 

    ○胡麻の灰といふ賊

 いづこにや、町家に年季奉公せし者、年季明ければ、

「本國に歸らん。」

とて、いとまを乞ひける。

 幼年なるに、金子三兩を持(もち)けり。

「いかにして行(ゆく)ぞ。」

ととへば、

「伊勢參宮となりて行なり。」

「金子は如何にするぞ。」

と問へば、

「いや。氣遣(きづかひ)なし。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て立出(たちいで)ける。

 「胡麻灰(ごまのはひ)」といふ賊ありて、これを見付(みつけ)、

「年季明けのでつちは、必(かならず)、金子を持たる者也。」

とて、一宿、二宿、付(つけ)たれども、いづくに隱しけん、しれがたかりければ、おめおめと、三日路、四日路、付行けり。

「かくして、手を空しくせんには本意(ほい)なし。是非に奪はざることを得ず。さりとて、金子を持(もち)たるには相違なし。」

と、心を困(こう)じめけるが、身に付(つけ)たる物は、宿にて、皆、ひそかに改(あらため)たれども、物、なし。

 髮の毛の内・かさの内より、行李(こり)・鞋(わらぢ)・わらづと・足袋(たび)・脚半(きやはん)・帶・衣服等迄、湯に入(いる)每(ごと)に、ひそかに改ける。

 これにてこうじ果(はて)けるが、或夜、あたりのを打(うち)たゝき、

「盜人あり。」

と呼(よば)はりければ、丁子(でつち)、起上り、先(まづ)、柱にかけたるひさくを見やり、又、打伏(うちふし)て寐(いね)けり。

『扨は、ひさくこそ曲物(くせもの)よ。』

と思ひ、奪ひとりて打破りければ、二重底にして、金三兩、入(いれ)ありける。

 これは賊が語りしこととて、いひ傳へ侍る。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行がなされてある。]

 されば、人の家に入(いり)ても、金の置所は忽ちにしらるゝことと見へたり。

「常に大切と思ふ人程、置所(おきどころ)しるゝ道理なれば、吾もしらぬ程になし置(おき)て、『家の内には、必、あるべし』と所も定めず差置(さしおく)がよし。」

といふ人、ありける。

 但し、持(もた)ざるが第一なるべし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では最後まで全体が二字下げ。改行は底本のママ。]

嘉永二年己酉(つちのととり)三月十日、下二條をしるす。

古きふみ讀めば、昔しの人に逢(あひ)たるこゝちするとは、みな人のいふことなるが、これにも倦果(うみはて)たる時は、自(みづ)から物語して人に告(きかす[やぶちゃん注:底本のルビ。])るこそ樂しけれ。これも人なき時は、壁に向ひて獨り言(ごと)いふもならぬものぞかし。詩作り、歌よむも、興、來らざれば能はず。この「反古のうらがき」は、かゝる時こそ、よけれ。世の人する業(わざ)さし置(おき)、おしき隙(ひま)、費して、かゝる業、なし玉ひそ。

◎桃野ハ白藤(はくとう)翁ノ子。鈴木孫兵衞トイフ。昌平黌ノ講官タリ。詩ヲヨクシ、最(もつとも)書法ニ通ジ、旁寫肖ヲ善クス。此「反古裏書」ハ一時ノ發興(はつきやう)ノミ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために本文部分に改行を施した。

「胡麻の灰」「護摩の灰」「胡麻の蠅」等とも表記する。昔、旅人の成りをして、道中で旅客の持ち物を盗み取った泥坊。高野聖の風体(ふうてい)をして、「弘法大師の護摩の灰だ」と称して押し売りして歩いた者があったところからの名とされる。

「三兩」江戸後期で現在の九~十五万円相当。

「伊勢參宮となりて行なり」「お伊勢参りの恰好をし、その触れ込みで故郷へ帰ります」。江戸時代、伊勢参詣をする人や動物(犬や豚の参詣記録が残る)は各宿場で丁重に扱われ、何くれとなく保護も受けた。

「でつち」「丁子」丁稚。

「是非に奪はざることを得ず」「子どもじゃけんど、少々、手荒なことをしてでも、強引に奪わないわけには、もう、いかねえわな」。無為に時間を費やしてしまっていることから、焦りの色が濃いのである。それはこの後で「心を困(こう)じめけるが」「こうじ果(はて)けるが」(「困(こう)ず」(サ変動詞)とは「精神的に困る・辛く感じる・弱る」の意で、「めける」は「そのような状態になる・それに似たようすを示す」の意の動詞を作る接尾語(四段型活用)「めく」の已然形に、完了・存続の助動詞「り」(四段活用の已然形に接続)の連体形がついたもの)という表現からも窺える。

「かさ」笠。

「鞋(わらぢ)」底本では『わらし』のルビであるが、訂した。

「わらづと」「藁苞」藁を束ねて中へ物を包むようにしたもの。また、その苞で包んだ土産物。ここは少年の心尽くしの郷里への土産であろうに……。

「脚半」「脚絆」とも書、「はばき」とも言った。旅行・作業などの際に脛(すね)に巻きつけて足を保護した紺木綿などの布。

「あたりのを打(うち)たゝき」「盜人あり」「と呼(よば)はりければ」表現から見て、この「胡麻の灰」が誰かに頼んで(彼自身は少年の動きをごく近くで観察して居なくてならぬから)ヤラセとして行ったもののように見受けられる。

「されば、人の家に入(いり)ても」主語は一般的な押し込み強盗である。

「常に大切と思ふ人程、置所(おきどころ)しるゝ道理なれば」やや捩じれの在る表現に思われる。ややくどい言い換えをすると、「常に大切なものだからと気にかかっている人は、その大切なものの置き所をあれこれと考え、格別に通常の人の目に触れぬような場所に隠し置くものであるが、そうした場所ほど、押し込み強盗のような者には、一発で判ってしまうのが、その道の者の『蛇の道は蛇』の道理なので」の謂いであろう。

「吾もしらぬ程になし置(おき)て、『家の内には、必、あるべし』と所も定めず差置(さしおく)がよし」「自分でも、もうどこへ置いたか判らなくなるくらい、気にせずに置いておいて、『まあ、家の中には必ずあるからいいわい』ぐらいな気持ちで、特別な箇所を定めることなく、日常の品々と全く同様に、ぽんと放って置くのが、却ってよい」の謂いであろう。

「但し、持(もた)ざるが第一なるべし」ご説御尤も!

「嘉永二年己酉(つちのととり)」一八四九年。本「反古のうらがき」の成立が嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃とされる一つの根拠。「己酉」は音で「キユウ」でもよい。

「下二條」「反古のうらがき」きはこの後、「卷之三」「卷之四」の二巻で終わるが、附記位置と「條」という表現から見ても、本「反古のうらがき 卷之二」の前の「僞金」と本末条を指している。

「告(きかす)る」「聽かする」。

「世の人する業(わざ)さし置(おき)」世間の人々が大切な生計(たつき)のための生業(なりわい)を誠実に成すのをよそにして。

「おしき隙(ひま)」貴重な僅かな暇。

「なし玉ひそ」(このような好事は)くれぐれもおやりなさるるなかれ。謙遜自戒。

 

「孫兵衞」桃野(号)の通称。名は成虁(「せいき」か)。

「昌平黌ノ講官タリ」天保一〇(一八三九)年に部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。

「最(もつとも)書法ニ通ジ」特に書道に優れたとはデータにないが、以下に出るように画に優れていたし、漢詩もよくしたから、書もそうであったのであろう。

「旁寫肖」不詳だが、これで一語の名詞で、「ぼうしやしやう(ぼうしゃしょう)」と読むか。所謂、「旁」(かたわら)に素材を置いて、その形を似せて(「肖」の意に有る)、「寫」(うつ)すこと、ではあるまいか?

「一時ノ發興(はつきやう)ノミ」ちょっとした興味から始めたものに過ぎない。これは「天曉翁」浅野長祚の「評閲」で、優れた学者で文人であった桃野の余技に過ぎない、と搦め手から褒めた評言である。]

反古のうらがき 卷之二 僞金

 

  ○僞金

 輕罪の囚(めしうど)一等をゆるして、他賊の巢穴(かくれが)を探らしむる者を「岡引(をかつぴき)」といふ。もろこしにもあること也。役人より是を「手先」といふ。常に平人(へいじん)の如く、人出入多き所に入込(いりこみ)て事を探り出し、是を手柄として己が罪を減ずるにてぞありける。

 或日、餘りに賊の手がかりもなきまゝに、目黑不動に詣でけるに、ある茶店に入(いり)て、酒、打飮(うちのみ)、居(ゐ)ける。次の間に客ありて、主(ある)じをののしるよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「吾を『似せ金遣ひ』とするや。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]しが、やゝありて去りけり。

『「似せ金」とは、賊の手懸りなり。』

と思ふにぞ、あるじに、

「今去りし人は何人(いかなるひと)。」

ととふに、

「始ての御客なるが、御拂(おはらひ)の金子、少し見にくかりし故に、引替(ひきかへ)を願ひたれば、大(おほい)に腹立(はらたて)玉ひて、かく、のゝしり玉ひしなり。外に子細なし。」

といゝけり。

 手懸りにもならぬことなれば、

「さりけり。」

とて、立出て歸りぬ。

 其後、二た月・三月立(たち)て、四ツ谷邊にて其人に逢ひけるが、俄に思ひ出(いだ)さで、

『見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ある人。』

とのみ思ひて、わかれけり。

 其後、又、一と月斗(ばかり)へて、同じあたりにて逢(あひ)けるが、ふと思ひ出(い)で、

『先きの日、目黑にて「『僞金(にせがね)遣ひ』とするや」と、のゝしりし人よ。』

と思ひて、其宿(やど)はいづこ、と付(つき)てゆくに、鹽町(しほちやう)という[やぶちゃん注:ママ。]所に格子立(たて)たる家なりけり。

 又、壹と月斗(ばかり)して、四ツ谷邊に僞金を受取(うけとり)たるといふ質やありて、彼(かの)岡引を賴みけり。

 俄に心當りもあらねど、先(まづ)鹽町の人が心懸りなれば、探りてみけるに、

「此人は靑貝(あをがひ)を作るが商賣にて、多分の利ある人。」

といふ。

 うり先を探るに、實(まこと)に青貝の粉(こ)を作るなり。他に怪敷(あやしき)ことなし。但し、其(その)うること、他人より、やすし、といふ。

 家には、あわび貝、山の如く積(つみ)ありて、日夜、

「こちこち。」

と、たゝく音するよし。

「手堅き人なり。」

といふ。

 岡引、いかんともすること能はで歸りけるが、外に手懸りもあらねば、又、よりより、心を付(つけ)て此人を探りけり。

 二た月斗りが間、此人の遣ふ金を、其先、其先と探りけるに、僞金、一つありけり。

 これは常の人にてもしらで遣ふことなれば、「僞金遣ひ」と定(さだめ)がたかりしが、また壹と月斗りにて、一つ遣ひけり。

 それより、

「靑貝を作る弟子とならん。」

といひ寄(より)て、度々出入せしに、實(まこと)に靑貝を作るより、外、なし。

 或時、こなたより、

「吾、僞金を作らんと思ふが、如何に。」

といゝければ、大に驚(おどろき)ける色ありしが、

「其方の細工にては、作ること、能はず。」

といひけり。

 是より、手懸りと成(なる)よし、ひたもの、僞金の物語りをするに、數日ありて、

「其方、僞金を作らんと思はゞ、外に一細工ありて、人幷(ひとなみ)に衣食の料を取る事を覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、不自由なく暮す上(う)へならでは、忽ち、人の怪(あやし)みを受(うく)る者也。世の中の僞金師、皆、困窮の餘り、俄に富をなさん、とて僞金を作る、いく日もあらで召取らるゝ、拙(つたな)しといふべし。」

といへり。

 こゝにおひて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ僞金師たること、極(きはま)りたり。

 或日、僞金、二つ三つを持行(もちゆき)て、

「吾、これを作れり。如何(いかが)あらん。」

といひて見せければ、

「これは拙し。これを見よ。」

とて、自(みづ)から作りし僞金、三つ、四つ、出(いだ)してみせけり。

 岡引、笑ひて、

「是は眞金(しんきん)なる物を。何ぞ、僞金といわん。」

といひて、信ぜざりければ、初(はじめ)て鑄形(いがた)を出(いだ)し、

「ひそかに、ひそかに。」

といゝけり。

 其夜、召捉(めしとら)へて、段々吟味せしに、

「吾、天運盡(つき)て彼に欺(あざむ)かれぬれば、言(いふ)に解く術(すべ)なし。此業(このわざ)を作(な)す事、十餘年、金を作ること、千兩に近し。人の疑ひしこと、なし。近頃、僞金し、多く、他人の作りたる中にも、大抵よく出來(でき)たるは取交(とりまぜ)て用ひしに、それより疑ひを受けたるなるべし。年のよるに從ひ、氣根(きこん)薄く、自(みづ)から作るも物(もの)うくて、他人の手をかりたる報ひなれば、是非なし。」

といひけり。

「同類あるべし。」

ととへば、

「かゝることをするに、同類あるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なることにては、なし難し。萬事(ばんじ)、皆、吾手(わがて)一つにてする程の業(わざ)ならねば、忽ち、あらはるゝ。」

といひけり。

「これは通用金より少し位(あたひ)を下げたるなれば、利分も薄し。但し、通用するとも、通用金と多くも違ひなし。直段(ねだん)は半分にて出來る也。」

といゝけり。

「半分の直段にて『利、薄し』とは如何(いかに)。」

ととへば、

「三つ、二つ、かくれば、通用金より遙に上品に出來る。」

よし、申(まうし)けると也。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。岡っ引きの潜入捜査もさることながら、この老螺鈿細工師の〈贋金(にせがね)造り〉の美学と、寄る年波に勝てぬペーソスをも添えられていて、上質の犯罪者実録譚に仕上がっている。

「岡引」ウィキの「岡っ引」より引く。『岡っ引(おかっぴき)は、江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者』。『正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州』(相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸。その中でも狭義の江戸御府内では別に「御用聞き」と称しもしたということであろう)『では目明かし(めあかし)』、『関西では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。岡とは脇の立場の人間であることを表』わ『し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから』、『岡っ引と呼ばれた。また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった』。『本来』、『「岡っ引」という呼び方は蔑称で、公の場所では呼ばれたり』、『名乗ったりする呼び方ではないが』、『時代小説や時代劇でこのように呼ばれたり』、『表現されたりすることが多い』。『起源は軽犯罪者の罪を許し』、『手先として使った「放免」である』(日本の令外官である検非違使の下部(しもべ)で、正式には「放免囚人」の義。検非違使庁の下級刑吏として、実際に犯罪者を探索・捕縛したり、拷問や獄の看守等を担当した。遅くとも、中古末期、十一世紀前半には放免が確実にいたことが文献から確認されている。ここはウィキの「放免」に拠った)。『武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み』、『情報収集のため』に『使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた落伍者・犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。必然的に博徒』・穢多・『的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、両立しえない仕事を兼ねる「二足のわらじ」の語源となった。奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で金を強請る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た』。以下、「江戸の場合」の項。『南町・北町奉行所には与力が各』二十五騎、同心が各百人『配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて』三十『人にも満たず、人口』百『万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約』五百『人、下っ引を含めて』三千『人ぐらいいたという』。『奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札(小遣い)を得ていた。同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く』、『女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど』、『家業を持っ』ていた。岡本綺堂の「半七捕物帳」や野村胡堂の「銭形平次捕物控」などを元にした『時代劇において、岡っ引は常に十手を預かっているかのように描かれているが、実際は奉行所からの要請に基づき事件のたびに奉行所に十手を取りに行ったとされている。十手を携帯する際も見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持っていた。また、時代劇で十手に房が付いていることがあるが、房は同心以上に許されるものであって』、『岡っ引の十手には付かない。ましてや』、『紫色の房は要職の者が付けるものであり、岡っ引が付けることは』、『まずあり得ない』。「半七捕物帳」を『嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる』。以下、「大坂の場合」の項。『一般の町民が内密に役人から命じられて犯罪の密告に当たった。江戸とは異なり、犯人の捕縛に携わらず、密告専門であった』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により』、『公認されたケースも存在している。例えば』、『奥州守山藩では、目明しに対し』、『十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は』、『地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とある。

「もろこしにもあること也」どのように呼称していたかは、今すぐには思い出せないが、中国の古い随筆集や伝奇小説には、しばしばそうした元犯罪者で、最下級の警吏・刑吏として使役されている人物が登場する(一般に悪心はそのままで、最下級とは言え、役人であることをいいことに、より悪辣な行為をなす設定が多い)。

「平人」一般庶民。

『「似せ金」とは、賊の手懸りなり』前で「餘りに賊の手がかりもなきまゝに」とあるから、この時、江戸市中に於いて、広範囲な偽造貨幣絡みの事件が発生しており、この岡っ引きは支配の同心から探索を命ぜられていたことが判る。

「さりけり。」「そうかい。」。軽くいなしたのである。この時点では、特に気に留めなかっただけで、さしたる意味(意識的な気のない芝居をして探索方であることを主人に知られぬようにするといった)はない。

「鹽町」底本は「塩町」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものに正字化した。現在の新宿区四谷本塩町附近(グーグル・マップ・データ)。

「彼(かの)岡引を賴みけり」主語は同心であるが、彼の使われている同心は本篇では実際の姿は殆んど登場しない。最後の捕えられて後の尋問の主導はその同心であろうが(その場には当然いるものとして映像化すべきではある)、老人に直接、語りかけて自白を引き出しているのは、やはり、この岡っ引きである。老人が一度は螺鈿細工の弟子しようと認めたところで、この老人がこの岡っ引きに対し、今も奇妙な親近感を覚えたままでいるという設定で、心内に映像化した方が遙かにドラマとして面白いからである。

「靑貝(あをがひ)を作るが商賣にて、多分の利ある人」直後に「青貝の粉(こ)を作るなり」とするが、単に螺鈿細工用の虹光沢の片々をのみ加工する職人(現在は老いてそれを主としているのではあろうが)ではなく、やはり螺鈿細工師と考えるべきである。でなくて、どうして贋金の鋳型を作ることが出来ようか。

「手堅き人なり。」「といふ」ここまでの聴き込みのシークエンスがなかなかにいいではないか。敢えて会話記号でそれらを細かく改行したのも、その雰囲気をカット・バック風に出すためである。

「ひたもの」副詞。「いちずに・ひたすら・やたらと」。

「外に一細工ありて」贋金造りの技術以外に、他に、世間に示して恥ずかしくない、人並み(「人幷」)の、ちゃんとした手技(てわざ)・生業(なりわい)を持って。

「僞金、二つ三つを持行(もちゆき)て」奉行所に保管されている使用された贋金を、与力・同心を介して、特別に借り受けたものであろう。

「言(いふ)に解く術(すべ)なし」最早、言い逃れする余地はない。

「氣根(きこん)薄く、自(みづ)から作るも物(もの)うくて」根気を入れて贋金を造るだけの気力も失せ、自分で一からするのも面倒になってしまい。

「位(あたひ)を下げたるなれば」品質を下げて作ったものなので。

「三つ、二つ、かくれば、通用金より遙に上品に出來る」さらに精緻に、二つか三つほどの高度な技術行程を加えれば、より高額の貨幣を偽造することが出来る、という意味であろう。]

反古のうらがき 卷之二 賊

 

   ○賊

[やぶちゃん注:主人公の名はルビがない。須藤三次なる個人は不詳であり、名の「三次」は「みつぎ」・「みつじ」・「みつよし」・「みつつぎ」・「みつぐ」・「みよし」・「さんじ」など多様な読みがある。お好きなそれで読まれたい私は個人的趣味から如何にも名前らしい「みつぐ」で読んだ。]

 予が門人須藤三次は、何某が門人にて劒術を學びたり。膽太く、力も強ければ、よく遣ひてけり。

 何某が家に若侍ありけり。これも劒術を好み、免許迄、受(うけ)けり。召使ひの女と申約(まうしかは)せしこと、あらわれて、いとまに成(なり)たるが、或日、寒稽古とて、主人は稽古場へ出(いで)たるを伺ひ、竹具足(たけぐそく)に身をかため【宵より忍び入(いり)たると見えて、稽古人(けいこにん)の竹具足を奪ひてきたる也。】、大太刀引拔(ひきぬき)て、女どもが食事の一間(ひとま)の椽下(えんのした)より跳り出で、直(ただち)に椽にかけ上(あが)りたれば、女どもは一聲、

「あ。」

と叫ぶまゝに、一同、伏轉(ふしまろ)びて、稽古場の方へと逃(にげ)にけり。

 其日は常より稽古人も少く、古き門人は三次壹人にて、其餘は免(ゆる)しも受(うけ)ざる少年の人のみなりければ、先づ、門の方へは三次壹人をさし向け、何某は鎗おつとり、前後に門人を從へ【家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ。】、一と間一と間と家の内を𢌞るに、大太刀を拔(ぬき)たる所にさや斗(ばか)り拾(ひろひ)ありて、人、なし。四方の圍(かこひ)も高ければ、出(いづ)べきよふなし、

「定(さだめ)て椽下ならん。」

とて、さがしけり。

 三次は一方をあづかりたれば、

「でう口(ぐち)[やぶちゃん注:「でう」はママ。]より門へ出ん所を討(うつ)べし。」

と命ぜられたれば、一心に刀振上げ、待(まち)たるに、よくよく思へば、

『彼は吾より免許も先に受たれば、平日稽古にも一席を讓る人也。彼が刀は二尺五寸餘と覺へ、切物(きれもの)なるに、それが死に物狂ひとなり、飛出(とびいで)たらんには、首尾よく討留(うちとめ)んこと、心元なし。相打(あひうち)より外に手なし。餘儀なきことに命を果(はた)す。』

とおもへば、口惜しく、且は己が刀の二尺四寸斗りなるが、壹、二寸、短く覺えて心細く、惣身、石の如く堅くなりて、働き、自由ならぬようにて俄に息切(いきぎれ)し、稽古、四、五人を相手にせし後のよふに覺へければ、

『これにては、とても働(はたらき)、覺束なし、如何せん。』

とあんじ煩ふ程に、玄關に、雜巾をあらいたる、きたなげなる水の入(いり)たる手桶あるを見付(みつけ)、先づ、すくいて[やぶちゃん注:ママ。]、一口飮(のみ)たれば、大(おほい)に精神おさまりしを覺(おぼえ)けり。

 拔刀引(ひき)そばめて待(まつ)ことしばらくして、でう口のくゞりをのぞき見るに、内に見かへしのつい立(たて)あり、其下より人の足の見へければ、

『すは、出來(いでく)るよ。』

と、刀、振上げ、

『今ぞ、一生懸命の所。』

と待(まち)かけたれば、此時は、眼くらみ、物の心も覺へぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]にてありける。

 よくよく見れば、敵にはあらで、主人其外の人にぞありける。

「いかに、いかに。」

と互(たがひ)に聲かけ、

「いづち、行けん、見へず。」

といひけり。

「されども、家の内に疑ひなし。今一度、𢌞らんと思ふなり。此度(このたび)は此口より逆に向ふべければ、最早、でう口を圍むるに及ばず。表の座敷に手鎗あり。取來(とりきた)りて持(もつ)べし。」

といふ。

 三次、思ふに、先の如く、おそろしかりしも、打物(うちもの)短く覺ゆる故なり。

『手鎗ならば心づよからん。』

とおもひ、

「心得たり。」

とて取に行けるに、其道筋は、やはり彼(かの)賊がおどり上りたる椽より上りて、表座敷へ行(ゆく)なれば、いかなる所に潛み居(を)らんも計りがたし。

 おもひ切(きつ)て行たれば、事も無し、歸り道は二十四、五間の三尺斗なる「ひやわひ」なり。

 鎗を持(もち)ながら、五、七間、行(ゆき)たるに、つかみ立てらるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に覺へて、十五、六間は息をもつきあへず、かけ拔(ぬけ)たるは、おそろしくもいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なくも、吾ながら吾身ならず、足元より吹(ふき)とばさるゝよふにて、吾ならず走りたり。

 此(この)十五、六間が内に、又、息切(いきぎれ)して、水をのみて、漸く心地付たり。

 再び家の内を搜しけれども、行衞なく、遂に裏どなりの境なる板塀(いたべい)に土足の跡あるを見付て、

「逃去りける。」

とはしれり。

『さるにても、今、辰の刻斗りなるに、竹具足に白刃(はくじん)を持(もつ)たる者が往來へ出(いづ)べきよふなし。』

と思ふに、此あたりは、殊に人通り少なき所にてありければ、朝は早し、其姿にて逃さりけるなり。

 事果(ことはて)て後、

「一同、骨折なり。分(わけ)て表口の一方は、殊に骨折なり。」

とて、右の鎗をもらひたり。

 かゝる事に出合(であひ)たるは不仕合(ふしあはせ)なれども、又、心得にもなることとて、予に親しく語り侍る。

[やぶちゃん注:臨場感を出すため、改行を施した。

「召使ひの女と申約(まうしかは)せし」これは具体的な交情(肉体関係は未遂でも既遂でも構わぬ)を持ったことを指している。

「竹具足」竹で鎧の胴の形に作ったもの。剣道・槍などの稽古に用いる。

「家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ」如何にも!

「でう口(ぐち)」不詳。しかし、思うにこれは「錠口」(但し、歴史的仮名遣は「ぢやうぐち」で現代仮名遣でも「じょうぐち」である)ではなかろうか? これは単に「錠を取り付けた箇所」の意もあるが、ここでは明らかに屋敷内の特定の出入り口を指していることから、これは、将軍や大名などの御殿や大邸宅に於いて、表と奥との境にあった内外から錠がおろされてあった出入り口である「御錠口(おじょうぐち)」を指しているのではないか? と考えた。単なる剣術家の屋敷ではちょっと考え難いが、後のシークエンスで、この「でう口」にいる三次が主人から「表座敷」にある槍を持ってくるように命ぜられるところで、その帰り路の距離を「二十四、五間」、四十四~四十五メートル半と述べていることから、この主人の屋敷は相応に広いことが確認出来るので(或いはどこかの藩の剣術指南役か何かなのかも知れない)、この「御錠口」と採って違和感はないのである。

「二尺五寸」七十五センチ七・五ミリ。

「命を果(はた)す」「命を落とすとは……、とほほ」。

「二尺四寸」七十二センチ七・二ミリ。

「二寸」約六センチ。

「くゞり」潜(くぐ)り戸(ど)のこと。大きな門扉の脇や下部に作られた、潜って出入りする扉。

「見かへしのつい立(たて)」奥向きが外から見えぬように配した衝立。

「三尺」道幅が約九十一センチ。

「ひやわひ」これは正しい歴史的仮名遣は「ひあはひ」、現代仮名遣は「ひあわい」で、漢字表記では「廂間」「日間」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『廂(ひさし)が両方から突き出ていることころ。家と家との間の小路。日の当たらないところ』とあるから、主人の屋敷の内で、相応に高い単立家屋の壁が左右から迫って立っていて、道幅が九十センチメートルとごく狭く、しかも途中で逃げ場がない路地様の長い(四十四、五メートル余り)路地であることが判る。ここでかの乱心の手練れの賊と対峙しては万事休すである。

「五、七間」九メートルから十三メートル弱。

「つかみ立てらるゝよふ」「摑み立てらるる樣」で、前には人影は見えぬものの、背後から襟首辺りを摑まれて、引き上げられでもするか、という心地がしたのであろう。

「十五、六間」二十七メートルから二十九メートルほど。

「おそろしくもいゝ甲斐なくも」「怖ろしとも言はむかたなき」という究極の恐怖感に襲われた気持ちの表現。「ひあわい」の路地の閉塞感が恐怖感を倍加させているところが、映像的にも効果的である。

「辰の刻」午前八時頃。]

2018/09/11

譚海 卷之三 宇佐奉幣使

 

宇佐奉幣使

○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、

  かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを

[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]

譚海 卷之三 加茂祭

 

加茂祭

○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。

[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。

「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。

「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。

「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia kazinoki)とカジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。

「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。

「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens

「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。

「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。

「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。

「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。

「感賞」感心して褒め讃えること。

「御蔭山」下鴨神社の神体山。二百七十一メートルピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]

甲子夜話卷之五 20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

 

5-20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

六玉川の歌に、高野の玉川は高野大師の歌とて、

 忘れても汲やしつらん旅人の

      高野の奧の玉川の水

此川毒水なればかく詠じたりと云。然ども不審なり。哥詞の中毒水のことなく、又六名勝の中に一つ毒水を入る可きようもなし。其上高野の邊の人は、常にかの玉川の水を飮む。然れば毒あるには非るべし。歌の意は、かくの如き名水を、旅人のことゆゑ、忘て常の水と思て汲やしつらんと、其水を賞て詠じたる也と、浴恩老侯の話られしは妙解と云べし。

■やぶちゃんの呟き

本条については私の「諸國里人談卷之四 高野の毒水」を参照されたい。そこで私が注した内容で、本質的には私の言いたいことは尽きている。

「浴恩侯」元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「六玉川」「むたまがは」。古歌に詠まれた六つの歌枕とされる「玉川」の総称。弘法大師空海・藤原俊成・藤原定家・能因らの歌に詠まれた六つの玉川を総称したもので、山城の井出・紀伊の高野山・摂津の三島・近江の野路(のじ)・武蔵の調布・陸奥(宮城)の野田にある「たまがわ」を指す。原初的には「魂の下る川」という古代祭祀上の「霊(たま)川」であったものと思われる。

「汲やしつらん」「くみやしつらん」

「哥詞」「かし」。

「中」「うち」。

「入る可きようもなし」「よう」はママ。「いるるべき樣(やう)もなし」。

「非るべし」「あらざるべし」。

「忘て」「わすれて」。

「思て」「おもひて」。

「賞て」「ほめて」。

甲子夜話卷之五 19 舜水歸化の後、言語の事

 

5-19 舜水歸化の後、言語の事

朱舜水、歸化年久しかりし後は、邦語をも用ひしが、兒言の如くありしと。一日或人塗に遇ふ。何れへ行たまふぞと問たれば、あす覺兵衞祝儀、肴かひゆくと答しと。又禁廷より内々に揮筆命ぜられしことありて、綿を賜りしとき、御所樣綿くれたと、人に語りしよし。さも有べきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「兒言」「じげん」。幼児語。

「一日」「あるひ」。

「塗」「みち」。路。

「覺兵衞」前に出した安積澹泊(明暦二(一六五六)年~元文二(一七三八)年)の通称。澹泊は号、諱は覚。所謂「水戸黄門」に登場する「格さん」(渥美格之進)のモデルとされる。ウィキの「安積澹泊によれば、水戸生まれで、『祖父・正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に水戸藩初代徳川頼房に仕え禄』四百『石であったが、父の貞吉は多病で』、『この禄を辞退し、寄合組となった』。寛文五(一六六五)年九月、澹泊が未だ十歳の頃、第二代『藩主徳川光圀が』、『朱舜水をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て』、『朱舜水に入門させた。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだ』が、翌年七月に『父が死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった』翌寛文七(一六六七)年)に『朱舜水が水戸を訪れると』、『再び教えを受け』、翌年、『朱舜水に従って江戸へ出た。しかし』、寛文一〇(一六七〇)年『春には痘瘡を病んで水戸に帰国した。澹泊が朱舜水のもとで学んだのは』三『年ほどであったが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金』三『両を図書費として与えた』。『水戸へ帰った澹泊は同年』二百『石で大番組を命じられ』、小納戸役・唐物奉行を歴任し、天和三(一六八三)年二十八歳の時、』『彰考館入りし』、『史館編修に任じられた』。元禄二(一六八九)年、『吉弘元常』(よしひろもとつね)『・佐々宗淳』(さっさむねあつ)『両総裁とともに修史義例の作成に関与』し、元禄五年には三百石となり、元禄六年には、『死去した鵜飼錬斎の後任として史館総裁に就任した』『(当時の総裁は』三名で『他は佐々宗淳・中村顧言)』元禄九年には『佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べ』ている。元禄一三(一七〇〇)年に光圀が死去し、翌十四年に第三代代『藩主徳川綱條』(つなえだ)『の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに』「義公行実」を編集、享保八(一七二三)年には、第四代藩主となっていた徳川宗堯(むねたか)の『命により、さらにこれを修訂』、した上、「常山文集」の『付録として印刷した』また、享保九年には、「義公行実」の付録として「西山遺事」を著した。元禄十四年、『総裁の職は元のままに』、『小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも宝永年間』(一七〇四年~一七一一年)『の筆削活動は目覚ましく、そのため』、『ほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという』。正徳四(一七一四)年に『総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった』。享保元(一七一六)年からは、『「大日本史論賛」の執筆を行』った(同五年完成)。「論賛」とは『史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である』(但し、文化六(一八〇九)年になって論賛は削除されたため、完成した現在の「大日本史」には存在しない)。享保六(一七二一)年、新番頭列、同七年には『新番頭に任じられたが』、『いずれも史館勤務は元の通りであった』。享保一二(一七二七)年からは徳川家康の伝記である』、「烈祖成績」の『編集を担当(同』十七『年完成)』した。享保一八(一七三三)年に致仕したが、『致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた』。『私的な面では菊づくりを趣味としていたという』。『明治時代になってから』、『大阪の講談師・玉田玉知が幕末の講釈師の創作であった』「水戸黄門漫遊記」の『中に主人公・光圀のお供役として澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名』、『大人気となった。この講談中で』、『同じくお供を勤める佐々木助三郎(助さん)のモデルである佐々宗淳は、やはり水戸藩で澹泊と同じく彰考館総裁を勤めた人物である(総裁は複数制であったので、ともに総裁であった時期もある)。澹泊の』十六『歳年上。なお、佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓碑文で安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している』とある。

「綿を賜りし」綿を褒美として下賜した。元は祭祀に用いた神聖な綿の下げ渡しであったものかと思われるが、例えば、先行する甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事には、江戸幕府が年始に於いて、大名・旗本などに対し、綿入れの小袖が下賜衣料として出てくる。

甲子夜話卷之五 18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

 

5-18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

大阪御城中御殿の張付は、金地に秋草の繪なり。長押の上も金張付にて、一處猷廟の御筆にて、鷄を墨畫にかかせ玉ふ有り。御戲筆なるべし。又あき御殿ゆゑ、席は鋪かずあれども、彼御筆の前には一疊を鋪てあり。人其處に到れば、御筆を拜すと云。

■やぶちゃんの呟き

「長押」「なげし」。

「張付」「はりつけ」。ここは布や紙等を張って仕上げた壁面や室内建具その他。

「金張付」「きんはりつけ」。

「猷廟」徳川家光。

「席」東洋文庫には『たたみ』とルビする。

「鋪かず」「しかず」。敷かず。

「鋪て」「しきて」。

反古のうらがき 卷之二 復讐

 

    ○復讐

 寄合御醫師久志本君の奧方は、公家今川何某【◎今川トウフ公家ハナシ、今出川ナルベシ。】の御娘子なり。家にありし時のかし付(づき)の女は、家にかろき奉公する者のつまにてありけるが、今は其夫とともに取立(とりたて)にて、夫婦とも姫君御付け人とぞなりける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行されてある。]

 其事のはじめをとふに、御家に劒術師範する者ありけるが、狂氣せしにや、或夜、彼(かの)かしづきが夫の家に忍び入、矢庭に六十餘歳になりける老人をさし殺(ころし)ぬ。

「あなや。」

と叫ぶ聲に、家人、皆、目覺(めざめ)たれども、燈火も消へたれば、何の子細といふこともしられず。

 人の足音のしけるに、

『盜人か。』

と思ふ内に、老人が苦しげなる聲の聞へければ、

「當(たう)の敵ぞ。」

と、刀、引拔きて切付たり。

 闇夜のことなるに、かろき身分の者なれば、劒術の心得もあらねど、父を打たれしと思ふ一心に踏込(ふんごみ)て打合(ふちあひ)けり。

 老人が妻も出合(であひ)たれども、くらやみに、すべきよふなく、漸く、火打取出(とりいで)て手燭をともし、打合(うちあふ)一間(ひとま)をてらしけるに、俄に明りを見し故なるや、又は、互に眼くらみたるや、暗仕合(やみじあひ)の如く、人もなき所を切拂ひ、寄せ合せて打合(うちあふ)事は絶てなく、壁に突當り、柱に切付などする斗(ばかり)なれば、老母、手燭をてらしながら、

「夫れ、右よ、夫れ、左よ。」

と、聲かくるに、少し耳に入(いる)にや、其(その)いふ方を切拂ふ。

 これに、敵し兼たるや、狂人は、おもてのをおしはづして逃出(にげいづ)るとて、の中程を踏(ふみ)ぬきて、梏(はた)をかけたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]に成(なり)ける所を、たゝみ懸、切付ければ、遂に打留たり。

 よくよく見れば、同家中何某にて、劒術師範の人にてぞ有けり。

 日頃、遺恨のこともなき人なれば、

「定(さだめ)て亂心なるべし。」といふことに極(きはま)りて、こと濟(すみ)たり。

「下賤の者なれども、身命(しんみやう)を顧りみず、當の敵を卽座に討留めたれば、褒美として取立にあづかりける。」

と、久志本夫人、予に親しく語り玉へり。

[やぶちゃん注:「復讐」という標題は父を殺された、この当時、下男であった夫の「復讐」の意である。

「寄合」旗本の内で三千石以上乃至布衣(ほい:下位の旗本(すなわち御目見以上)の礼装は素襖とされていたが、幕府より布衣の着用を許されれば、六位相当叙位者と見なされた。その相当格の者)以上の者で、役職に就いていない者の総称。

「御醫師久志本君」旗本久志本家は元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療しているから、その後裔である。しばしば出てくるロケーションの二十騎町の西直近には「久志本左京」の屋敷がある。

「今出川」菊亭家(きくていけ)の別称。清華家(せいがけ:摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた)の家格をもつ公家。藤原北家閑院流の西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は当初、千三百五十五石であったが、正保二(一六四五)年に三百石加増されて千六百五十五石となり、摂家の鷹司家の千五百石を上回ることとなった(以上は主にウィキの「拠った)。

「當(たう)の敵ぞ」「當の」は連体詞。「まさにそれ(本物の盗賊)だ!」。

「暗仕合(やみじあひ)の如く」目が眩んで逆に闇の中で斬り合うような感じになってしまい。

「敵し兼たるや」「敵する」の連用形ととる。互角に相手になることが出来かねたと思ったものか。

梏(はた)」「桎梏(しっこく)」のそれで(「桎」は「足枷(あしかせ)」)、「梏」は「手枷」のこと。戸板を打ち抜いた際に手を怪我したものか、或いは乱心であるから、何らかの発作によって手が動かなくなったとも考えられる。

「當の」ここは「まさにその時の」。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 讀孟子 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない。それを信ずるとすれば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間に書かれたものとなる。ただ、内容的な深い洞察や表現から見ても中学以前のものとは私にも到底思われない。以下、私の葛巻氏の編集に対する疑問や推測は、前回の「斷章」の冒頭注に述べたので、繰り返さない。

 各段落末に、私自身にとって本篇が完全に読解し得るようにすることを主目標として、不審を残さぬようにオリジナルに語注を附したつもりである(無論、私は二十一の時にこれだけの文章は書けなかったし、今でも無理である。芥川龍之介、恐るべし)。附していない箇所でお判りにならないものは、ご自身でお調べあれかし。注の後は一行空けた。

 

     讀孟子

 

 事新しく云ふ迄もなく、孟子の哲學は内容に於て完く孔子の哲學也。彼は此點に於て新しき哲學の創唱者に非ずして、單に其祖述者たるに止まりき。然れども、彼が孔子の衣鉢を傳ふるや、彼は殆ど古今に其匹儔を見ざる忠實と熱誠とを以てしたり。彼が孔子の哲學によりて其立脚地を樹立したるが如く、孔子も亦彼を俟ちて、始めて其哲學に牢乎たる根柢と組織とを與へたりと云ふも、恐らくは過褒にあらざるべし。加ふるに彼の犀利なる文章と辯才とは、能く彼をして彼の使命を完ふするを得しめたり。彼の文節は極めて明快にして、其縱論橫議竹を破る、刃を迎へて節々皆解くるが如きの妙に至つては、昌黎の雄鷙眉山の俊爽を以てするも、到底其堂奧を窺ふに足らず、二分の圭角と八分の溫情とを湛たる彼をして毫裡に躍如たらしむる、殆ど憾なきに庶幾し[やぶちゃん注:読点はママ。]。しかも彼の舌鋒は又、其文字の雄なるが如く雄勁にして、虛より實を出し、實より虛を奪ひ、比喩を用ひ、諧謔を弄び、彼と議論を上下するものをして、辭盡き言屈し、又如何とも爲す可らざるに至らしめずんば止まず。其齊の宣王に見えて牢牛を談ぜしが如き、戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したるが如き、彼の踔厲風發、説いて膚寸をも止めざる好箇の例證たらずんばある可らず。

[やぶちゃん注:・「匹儔」(ひつちう(ひっちゅう))は「匹敵すること・同じレベルの存在と見做される相手」の意。

・「牢乎」(らうこ(ろうこ))は「しっかりしているさま・揺るぎないさま」の意。

・「犀利」(さいり)。「犀」は「堅く鋭い」の意で、ここは「才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま」の意。

・「刃を迎へて節々皆解くる」底本では「刃」は「刅」の右端の一画を除去した字体。「やいば」。「切れ味鋭い英知の刃を迎えて、蟠った節々が瞬く間に、皆、鮮やかに剖(き)り解かれる」の意。

・「昌黎の雄鷙」中唐の佶屈聱牙、唐宋八大家の一人であった韓愈のこと。彼は昌黎生まれを称し、人々から韓昌黎(昌黎先生)と呼称された。「雄鷙」は「ゆうし」と読み、「雄々しい猛禽」から「偉大な英雄」のことを言う。

・「眉山の俊爽」眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の出身であった、北宋の英才で唐宋八大家の一人である蘇東坡のこと。「俊爽」(しゆんさう(しゅんそう)」は人品・風物などが優れていること。

・「圭角」「圭」は「玉」に同じい。通常は「人の性格や言動に角があって円満でないこと」を差し、ここも表面上はその意であるが、そこに、原義の稀な輝きを持った「宝玉の尖ったところ・玉の角」、則ち、真の鋭才故の角立った部分を匂わせる。

・「毫裡」(がうり(ごうり))はごく僅かな時間内。瞬時。

・「憾なきに庶幾し」「憾」は音「カン」で読みたい。「非常な心残りとなる残念な思い」が全くなく、「庶幾」(しよき(しょき))はこの場合、「目標に非常に近づくこと」の意。

・「雄勁」(ゆうけい)は力強いこと。元来、この語は書画・詩文などに、力がみなぎっていること。

・「齊の宣王に見えて牢牛を談ぜし」「牢牛」は「ろうぎゆう(ろうぎゅう)」で「牢」は「生贄(いけにえ)」の意。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「七」の話。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」内のこちらで原文と書き下し文(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)が、小田光男氏のサイト内の「我読孟子」のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したる」所謂、知られた「五十歩百歩」の話である。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「三」。同じく柏木恒彦氏のサイト内のこちらの「梁惠王曰寡人之於国章」で原文と書き下し文現代語の通釈が、小田光男氏のサイト内のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「踔厲風發」(たくれいふうはつ)は「才気に優れ、弁舌が鋭いこと」。韓愈の柳宗元の墓誌に記した「柳子厚墓誌銘」が原拠。原文はこれ(中文ウィキ)。訓読(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)と訳は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘(四ノ一)」が良い(後者では「踔」が表記不能漢字となっている)。

・「膚寸をも止めざる」説いた舌鋒が、寸止めでなく、膚でぴたっと止まるの意か。]

 

 啻に之に止らず、業を子思の門人に受けたる彼は、魯中の叟が大經大法の宗を傳ふると共に、又能く天下の儒冠をして推服せしむるに足るの學殖を有したりき。殊に、其詩書に出入するの深き、吾人をして、上は堯舜を追逐して參りて翔して下は禹湯に肩隨して、濁世を救濟するの誠に偶然ならざるを感ぜしめずんばあらず。既に言を以て、異端を叱呼するに足り、學は以て、一世を壓倒するに足る。是に於て、四方の俊才が翕然として其門下に參集したる、亦怪むに足らず。しかも其一生の經歷が彼の先導者たる孔子のそれに酷似したるが如く、彼も亦、孔子が顏囘の賢、曾參の智を打出したると殆ど同じき成功を以て、樂正子の如き、公孫丑の如き、幾多の人材を陶鑄したり。

[やぶちゃん注:・「啻に」「ただに」。限定の副詞。

・「業を子思の門人に受けたる彼」孟子は、孔子の孫であった子思(しし)の、その門人の下で学んだとされる。

・「魯中の叟」魯国の老人で孔子を指す。

・「大經法」「たいけいたいはふ(たいけいたいほう)」。「大經」は「大きな筋道・不変の条理・大道」の、「大法」は「大きな定理・重要な規律」。

・「宗」は「そう」と読んでおく。根本義。原理。

・「儒冠」儒学者。

・「推服せしむる」ある人を敬って心から従わせる。心服させる。

・「吾人をして」「我々をして」。以下の「感ぜしめずんばあらず」が受ける。

・「堯舜を追逐して參りて翔して」「翔」(こうしよう(こうしょう))は「天高く飛び上がること・空を自由に飛ぶこと」。伝説の聖王である堯や舜の正道を忠実に追い、或いはそれをも超越せんとするかのように、理想の高みに自在に飛翔して。

・「禹湯に肩隨して」古代の賢明なる名君たる、夏の禹王や殷の湯王に比肩追随して。

・「濁世」私は個人的には「ぢよくせ(じょくせ)」と仏教語読みしたい。政治や道徳の乱れきった濁り汚れた世の中。「だくせ」という仏教語でない純粋に上記の意味である読みもあるが、私は読みとして好まないからである。

・「叱呼」(しつこ(しっこ))は通常は「大声で呼ぶこと」であるが、ここは正面から名指しして徹底批判すること。

・「翕然」(きふぜん(きゅうぜん))は「多くのものが一つに集まり合うさま」。

・「顏囘の賢」孔門十哲の一人で秀才随一とされた。孔子が最も嘱望した弟子であったが、孔子に先だって亡くなった。

・「曾參の智」曾子(そうし)。先に出た孔子の孫子思は曾子に師事し、子思の教えが孟子に伝わったことから、孟子を重んじる「朱子学」が正統とされるようになると、先の顔回と、この曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。

・「樂正子」(がくせいし)は春秋時代の曽子の弟子であった楽正子春(しゅん)。

・「公孫丑」(こうそんちゆう(こうそんちゅう))は孟子の弟子。「孟子」全十四巻中の二冊「公孫丑章句」の上・下の編纂を担当している。

・「陶鑄」(とうしゆ(とうしゅ))の「陶」は焼成して創る陶器、「鋳」は「金を鋳(い)て器を作ること」で、「陶冶」に同じい。]

 

 彼が卅歳の一白面書生として、鄒の野に先王の道を疾呼してより、七十三歳の頽齡を以て、志を天下に失ひ、老脚蹉跎として故山に歸臥するに至るまで、彼の五十年の一生は、一面に於て不遇と薄命との歷史なれ共、他面に於ては、又教育家として、殆剩す所なき成功の一生涯なりき。

[やぶちゃん注:・「卅歳の一白面書生」「卅歳」で「白面」(はくめん:年が若くて経験の浅いこと。青二才)というのは少々感覚的には皮肉っぽくも感じられるが、芥川龍之介はここで「彼の五十年の一生」と言っているが、孟子は現在、辞書類では紀元前三七二年頃の生まれで、紀元前二八九年頃の没とされており、それに従うなら、八十三歳前後の生涯であったことを考えれば、かの戦国時代にあって、まず「白面」は腑に落ちるとも言える。因みに「卅歳」を前の生年推定に機械的に当てると、紀元前三四二年頃となる。小学館の「日本大百科全書」によれば、その後、孔子の生国である魯に遊学し、そこで孔子の孫の子思の門人に学んだ後、弟子たちを引き連れて「後車数十乗、従者数百人」という大部隊を組んで、梁(魏)の恵王・斉(せい)の宣王・生国である鄒の穆(ぼく)公・滕(とう)の文公などのもとに遊説して回ったが、孰れも不首尾となり、晩年は郷里で後進の指導に当たったとある。

・「鄒」(すう)。孟子は鄒、現在の山東省西南部の済寧市の県旧市である鄒城(すうじょう)市の生まれである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「先王の道」儒家の政治思想に於いては、天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し、それを「先王」と称し、その政道を「王道」と呼んだ。「徳」を政治の原理とする思想は既に「書経」や「論語」などに見られるが、「王道」を覇者が武力や権謀術策によって天下を支配する「覇道」と対比させて明確にしたのは孟子であって、「徳を以つて仁を行ふ者は王たらん」、則ち、「仁義の徳が善政となって流露するのが王道である」と説いた(平凡社「世界大百科事典」に拠った )。

・「疾呼」(しつこ(しっこ))慌ただしく主張し喧伝すること。

・「七十三歳の頽齡」「頽齡」(たいれい)は心身の能力が衰えてしまうほどの高齢・老齢の意。先の「卅歳」やこの「七十三歳」(同前の機械計算では紀元前二九九年となる)という限定年齢は、芥川龍之介が拠った何らかの出典があるものと思われるが、不詳である。しかし、に示した孟子の遊説先の内、在位開始が最も後なのは、斉の宣王で紀元前三一九年から(退位は没した三〇一年)であるから、時制的には違和感はない

・「蹉跎」(さだ)「蹉」「跎」ともに「躓(つまず)く」の意で、「つまずくこと・ぐずぐずして空しく時を失うこと」或いは「落魄(おちぶ)れること・不遇なこと」の意もある。但し、ここで芥川龍之介は「教育家として」「成功の一生涯」と言っているのであるから、単に「老いて足が不自由になること」の意である。

・「殆剩す所なき」「ほとんどあますところなき」。]

 

 然れども、彼の偉大なるは其能く數多の小丘、小孟珂を打出したる教育家としての驚くべき成功の故にあらず、寬厚宏博、天地の間に充つるが如き文章の玄に悟入したるが故にもあらず、抑も又秋霜の辯と河海の學とを抱き、以て一代の學徒として能く仰望敬畏せしめたるが故にもあらず、山夷ぐべく谷煙むべく、而して孟何の名、獨り萬古にして長く存する所以の者は、其孔門の哲學をして、醇乎として醇なる眞面目を具へしめしが故にあり。

[やぶちゃん注:・「其」「それ」。

・「小丘」小さな孔丘(こうきゅう)。「丘」は孔子の諱(いみな:本名)。

・「小孟珂」小さな孟子。軻(か)は孟子の諱。

・「寬厚宏博」心が広くて態度が温厚な上に、広汎なる知識の持ち主であること。

・「文章の玄」微妙で奥深く、深遠な赴きを持った文章。

・「悟入」実体験によって物事をよく理解すること。

・「抑も又」「そもまた」。さても、また。

・「秋霜の辯」弁論が、非常に厳しく厳(おごそ)かであること。

・「河海の學」「史記」の「李斯(りし)伝」に基づく「河海は細流を択(えら)ばず」を意識した。「度量が広く、よく人を容れるところの、大人物の持つ真の学識」の意であろう。

・「仰望敬畏」(ぎやうばうけいい(ぎょうぼうけいい))は敬い慕われ、褒め讃えられること。至上の尊敬と真の敬意を払われること。

・「山夷ぐべく谷煙むべく」思うに、「煙」は「堙」(「埋」の同義有り)の芥川龍之介の誤字、或いは、葛巻義敏の誤判読と思う。「堙」ならば「やま、たひらぐべく、たに、うづむべく」と読めるし、それでこそ意味も腑に落ちるからである。

・「萬古にして」永遠なるものとして。

・「醇乎」心情・行動が雑じり気がなく純粋なさま。後の「醇なる」はその畳語表現。

・「眞面目」「しんめんぼく」と読んでおく。本来の姿。]

 

 其仁義の説の如き、性善の説の如き、五倫の説の如き、四端擴充の説の如き、放心を求むるの説の如き、就中浩然の氣を養ふ説の如き、人をして切に孔子死して九十餘年古聖の肉未冷ならざるを感ぜしめずんばあらず。しかも彼の擴世の奇才を抱きて之を事に施す能はず、楊柳條々として梅花雪の如くなる故山の春光に反きて、幾多門下の高足と共に、短褐蕭々として四方に歷遊するや、王威地に墮ちて、六霸幷び起り、中原の元々皆堵に安んぜず、道廢し、德衰へ、天下貿々然として之く所を知らざりしのみならず、墨子學派の博愛主義の如き、楊子學派の快樂主義の如き、神農學派の農業社會主義の如き、老莊派の極端なる個人主義の如き、無數の思潮は無數の中心をつくりて、隨所に其波動を及ぼし、一度孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎、堯舜三代の大道、一朝にして亡び、先生の遺法、倐忽として瓦の如く碎くる、將に目睫に迫れるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:・「仁義の説」ウィキの「孟子」より引く。『孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう』。

・「性善の説」ウィキの「孟子」より引く。『人間は生まれながらにして善であるという思想』。『当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため』、周の『文王や武王のような明君が現れると』、『民は善を好むようになり』、同じ周でも、『幽王や厲王のような暗君が現れると』、『民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば』、『不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は』、「人の性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と『述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も』、『その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら』、『人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだ』、『とした。そのため』、『孟子は、』「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失はざる者なり」(離婁章句下)、「學問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)『とも述べている』(龍之介が後に言う「放心を求むるの説」はこれ)。『その後、荀子』『は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって』、『多くの儒者に受け継がれた』。

・「五倫の説」ウィキの「五倫」から引く。「書経」の「舜典」には、『すでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている』が、孟子は、『秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した』。①父子の親(『父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない』)・②君臣の義(『君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない』)・③夫婦の別(『夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる』)・④長幼の序(『年少者は年長者を敬い、したがわなければならない』)・⑤朋友の信(『友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない』)がそれで、『孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした』。

・「四端擴充の説」ウィキの「四端説」より引く。性善説を受けて孟子が発展させた『道徳学説。四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の』四『つの感情の総称』。「孟子」「公孫丑章句上」によれば、そこ『に記されている性善説の立場に立って』、『人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている』四『つの心に根拠付けた』。『その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは』、①『「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)』・②『「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)』・③「辞譲」『(譲ってへりくだる心)』・④『「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)』の四つの『道徳感情である』とし、『この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の』四『つの徳に到達すると』説く。『言い換えれば』、『「惻隠」は仁の端』であり、『「羞悪」(「廉恥」)は義の端』、の『「辞譲」は礼の端』の、『「是非」は智の端』である『ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である』。『たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である』。『したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ』(龍之介が後に言う「浩然の氣を養ふ説」はこれ)。『なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来』、『心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった』とある。

・「孔子死して九十餘年」孔子は現在、紀元前五五二年九月二十八日生まれで、紀元前四七九年三月九日に没したとされ、その「没後九十餘年」は紀元前三八三年頃となり、現行の孟子の生年から計算すると、孟子は未だ十四歳頃であるから、先の芥川龍之介の「卅歳」で「鄒の野に先王の道を疾呼し」たというのを上限として受けるとなら、紀元前三四二年頃で、孔子没後百三十七年、「孔子死して百三十餘年」が正確となる。

・「未」「いまだ」。

・「擴世」人倫・人智の在り方を遙かに大きく押し広げるような、の意であろうか。

・「反きて」「そむきて」。

・「高足」(こうそく)は「高弟」に同じい。

・「短褐」(たんかつ)は麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の賤しい者が着る衣服。「短褐穿結(せんけつ)」(「穿結」は「破れていたり、そこを結び合わせてあったりすること」で貧者の粗末な姿の形容である)。

・「蕭々として」もの寂しい感じで。

・「六霸」芥川龍之介が「戦国の七雄」と「春秋六覇」(こちらは「五覇」の方が一般的であるが、「六覇」とも称する)とを混同したものか。前者は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国である。

・「元々」「げんげん」で、これで「人民」の意。

・「堵に安んぜず」「とにやすんぜず」。民草が安穏に暮らすことが出来ず。「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」に基づく「堵に安んずる」(「堵」は「人家の垣根・その内」の意で、「民が住まいに安心して住める、安心して暮らす」の意)。

・「貿々然」ぼんやりとしてはっきりしない様子。「貿」には「視界が悪い」の意がある。

・「之く」「ゆく」。

・「楊子」戦国時代前期の思想家楊朱(ようしゅ)。老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。前期道家思想の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にある」ことを説いたとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「神農學派」神農は中国古代の伝説上の帝王であうが、神農の名前が最初に文献に現れるのは実は「孟子」であり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきである、と主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である「緯書(いしょ)」などに、しばしば神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃の琴を発明したともされる。こうした業績から、「三皇」の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

・「一度」「ひとたび」。

・「孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎」孔子の継承者として誰彼を誤認したものであろうか。

・「倐忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))は「忽(たちま)ち」の意。

・「將に目睫に迫れる」「目睫」(もくせふ(もくしょう)は目と睫毛(まつげ)で、今まさに目前に迫ってしまったことを意味する。]

 

 然り、彼の成敗は彼一人の成敗に止らずして、全儒教の成敗を意味すべき存亡の危機に際したりき。然れども、彼は着々として幾多の創見と發明とを以て、儒教の地盤を定むるに成功したり。而して傍、異端を弁じ、邪説を闢き、歷古の沈迷を開きて、能く聖人の道、彼を得て復明なるの大業を成就したり。彼は彼自身、孔子を崇敬するの厚きを以て、屢自己の創見をも、嘗て孔子の一度之を云へりし如く、人に示したりき。しかも、其全く彼が前聖未發の卓見にして、彼の大才の奕々として這裡に光耀せるは、孟子二百六十一章を通じて、隨所に指示し得るべしと云ふも、亦妨げず。

[やぶちゃん注:・「成敗」ここは孟子とその教えを否定・無化することを指す。

・「傍」「かたはら」。一方で。

・「邪説を闢き」「闢き」は「ひらき」。誤った説を論破して明確に否定し。

・「歷古の沈迷」古き時代からの議論の混迷。

・「復明」正しい理念を復興すること。

・「其」「それ」。

・「未發」未だ発見・発明されていないこと。

・「奕々」(えきえき)は「光り輝くさま」の意。

・「這裡に」「ここに」と読む。]

 

 かくして、彼は孔子の哲學を最も理論的に、しかも又最も實際的に樹立せしめたり。彼の偉大なる祖述としての事業は、玆に完き成功を以て、其局を結びたり。之を措いて、孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ。孟子を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「祖述」(そじゆつ(そじゅつ))は「先人の説を受け継いで述べること」。

・「其局を結びたり」その孔子の真の教えの解明を終わらせた。

・「孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ」「孟子」の対話者として多く出る斉(せい)の宣王は孟子を厚遇した(孟子の献策で燕を制圧しようともしたが、失敗に終わっている)。「快利」は迅速なさま。「三萬四千六百八十五言」は「孟子」「二百六十一章」の総字数。]

 

 韓退之曰、孟子なかりせば、皆服は左袵にして、言は侏離たらむと。又曰、功は禹の下にあらずと。孟子を透見し得て餘蘊なきに似たり。孟子歿して一千二百年の後、後生も亦我を知る者在りとして、彼亦恐らくは泉下に一笑せしならむ。

[やぶちゃん注:・「韓退之」中唐の文人政治家韓愈の字(あざな)。以下は彼の「孟尚書書與」(孟尚書に與ふるの書)の一節、「然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣」(然れども、向(さき)に、孟氏、無かりせば、則ち、皆、服は左袵(さじん)にして、言は侏離(っしゆり)ならん)。個人ブログ「寡黙堂ひとりごとを参照されたい。

・「左衽」衣服を左前に着ることを指す。昔、中国では夷狄の風俗とした。

・「侏離」(しゆり(しゅり))は、元来は古代中国で西方の異民族の音楽のことを指したが、そこから、異民族の言葉を卑しめていう語となり、更にここで使うように「(音声が聞こえるだけで)その意味が全く通じないこと」の意となった。

・「餘蘊」(ようん)は「余分な貯え・残ってしまったもの・あますところ」の意。

・「孟子歿して一千二百年の後」現在の孟子の没年(紀元前二八九年頃)に足すと、九一一年で、中国では唐が亡んだ(九〇七年)後の五代の頃となるが、韓愈は七六八年生まれの八二四年没であり、その没年からだと千百十三年前となるので、まあ、誤差範囲と言ってよかろう。]

2018/09/10

反古のうらがき 卷之二 手打

 

    ○手打

 尾藩(びはん)門前通り、名、不ㇾ知(しらず)、御旗本ありける。若殿、武術稽古に出(いで)られけるが、

「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」

とて、屋敷に歸りて大に叱りけるに、中間、口答への上、過言(くわごん)せし故、止むことを得ず、一太刀、切(きつ)たる處へ、大殿、立歸り、大(おほい)に驚き、刀を奪取(うばひとり)、一間(ひとま)の内に推入(おしいれ)て出(いづ)る事を許さず。

 若とのの奧方、

「是(これ)にて切捨(きりすて)玉へ。」

と脇差を持來(もちきたる)を、大殿、是も奪取、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「吾、兼々、心願の筋ありて、此度(このたび)、こと成就せんとする時、來(きた)れり。此(この)四、五日の内こそ大切の時なるに、ケ樣(かやう)の變事ありては、又候(またぞろ)、妨げと成り、多年の心願、仇事(あだごと)となるべし。枉(まげ)て内濟(ないさい)取結(とりむす)ぶべし。かゝる者一人、命取りたりとて、無益の殺生なるを哉(や)。ぜひに、ぜひに。」

とて、用人(ようにん)に命じ、醫を呼び、疵口(きずぐち)ぬわせなどして療用せしに、折節、夏のことなりければ、させる疵にもあらねども、療用六ケ敷(むつかしき)こととはなりぬ。

 其夜の内に、いよいよ六ケ敷く、命(いのち)の處(ところ)、請合兼(うけあひかね)たるよし、醫師、申ければ、大殿、甚(はなはだ)難澁し、

「もし、命、終らば、内濟なるまじ。」

といふ内、早、死入(しにいり)てけり。

「さらば、最初よりの如く、手打の趣きにて屆けたらん方(かた)、まさるべし。」

とて、請人(うけにん)、呼寄(よびよせ)けるに、是(これ)は人宿(ひとやど)やの奉公人にて、請人女房來り、

「慮外に付(つき)御手打とあるからは、子細なし。死骸、引取申(ひきとりまうす)べし。」

とて、大の男を引起(ひきおこ)し、身のうち・疵所(きずどころ)、殘りなく改めけるが、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「是は慮外に付御手打とは僞りなり。無理殺しに疑ひなし。手打の者を疵を縫ふ法やある。其筋へ御届となし、御吟味請申(うけまうす)べし。ケ樣の死骸、引取(ひきとる)法、なし。」

といふにぞ、大殿もてあまし、

「彌(いよいよ)、心願の妨(さまたげ)なるべし。」

と手を盡(つく)し、内濟を入(いれ)、

「怪我にて手疵おわせし處、急所にて一命にかかる事に成行(なりゆき)たれば、身寄(みより)の者、養育の爲、手當金を遣す。」

といふ事にて、三十兩とか出(いだ)す事となりて、内濟、ととのひけり。

 此事、評判となり、やはり心願の妨げとなり、損毛(そんもう)の上、耻辱(ちじよく)をとりたるよし。

 武家の未練は、よからぬ事なり【雲樓、話。】。

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、改行を施した。

「尾藩」尾張藩。特に指示がない以上、これは今までもしばしばロケーションとなった「廿騎町」(現在のここ(グーグル・マップ・データ))の南直近の尾張藩上屋敷(現在の防衛省)西門があったと思しい、西、新宿区市谷仲之町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。

「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」「家来の中間が、気がついたら、途中、御供をサボっていた!」。

「過言」弁解を越えて、出過ぎたことを言ったのである。若殿、年少なればとて、或いは若殿に責任があるようなニュアンスのことを言ってしまったものであろう。でなくては、手打ちにまでは普通は及ばぬと思われる。後で母親までその手打ちを完遂させようとしていることからも、かなり不埒なことを言ったものと思われる。

「奪取(うばひとり)」或いは「ばひとり」かも知れぬ。よくそうも読んだし、リズムとし「内濟(ないさい)」表沙汰にしないで、内々に事を済ませること。江戸時代に於ける裁判手続き上の和解としての用語として存在した。幕府は、公事(訴訟)がなるべく「内済」で終ることを望み、殊に民事上の「金銀出入り」 (無担保利子付(つき)の金銀貸借及びこれに準ずる起債権の訴訟。これらを「金公事(かねくじ)」と称した)では奨励しており、その場合は訴訟人 (原告) が訴状に奉行所から相手方 (被告) に出頭を命じる旨の裏書を得、これを相手方の村の名主のもとに持参すると。名主・五人組は両当事者を立会わせて内済を勧告した。内済が整わぬ時には、相手方は奉行所に出頭することになっていた。相手方が裁判所に出頭し、両当事者が対決した後でも、内済は許された。内済の場合には、両当事者は内済証文(済口証文(すみくちしょうもん)とも称した) を作成し、裁判所の承認(済口聞届)を得なければならないが、金公事の場合には「片済口」と称して、訴訟人のみの申立てで足りた。この制度は現在の調停制度へ引継がれている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。ここは刑事事件で、しかも事態は甚だ重いのであるが、ある程度の展開(被害者が死ななかったらの仮想経緯)の類似性は認知出来ようとは思われる)。

「人宿(ひとやど)やの奉行人(ほうこうにん)」「奉公人」は底本では「奉行人」であるが、これはおかしいので、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」で補正した。さて、「人宿や」(人宿屋)であるが、これは単に旅館のことも指すのであるが、この被害者の中間の妻の遺体検案の様子からみると、そんじょそこらの宿屋の女中なんぞとはかなり違っていて、妙に場馴れしていることが見て取れる。さればこれは、男女奉公人の周旋を業とした「人宿(ひとやど)」屋に奉公していた者と見たいのである。「人宿」は、町奉行所等の記録や法令に於いては「人宿」とあるものの、一般には「けいあん」「口入(くちいれ)」(時代劇でよく耳にする)「口入人」などと呼ばれていた。「人宿」の語の初見は寛永一七(一六四〇)年であるが、より以前から使用されていたと考えられており、江戸では若党や徒士(かち)・中間などの武家奉公人を多数必要とし、この「人宿」を仲介とする雇用先の大半は武家方であった。「人宿」は奉公人の身元保証人(請人)となって判賃(判銭)を取り,また奉公先を周旋して契約が成立すると、周旋料(口入料・口銭)を受けたのであった(「人宿」については平凡社「世界大百科事典」に拠った)。さすれば、まさに中間等のトラブル等にもこの「人宿」は関係したから、その「奉公人」であったこの害者の女房も、それなりの知識や応対の方法を心得ていたのではなかったか? 宿屋女中奉公といった一般庶民の女房なら、夫の亡骸を見て、激しく狼狽えこそすれ、遺体を引っ繰り返して仔細に観察、致命傷の傷口の様態等まで具に見、事件の報知内容と遺体の状態の齟齬を突き合わせて分析し、異常な殺害遺体であるから引き取りは拒否するとか、その筋に訴え出て、正式に吟味してもらいたいなどと主張するような、心理的余裕や智慧は普通は働かないのではなかろうか?

「無理殺し」正当な理由もなく、本人も斬られるという意識もなく、突発的に創傷を受け、不当に殺されたものであること。

「怪我にて手疵おわせし處」誤魔化しがある。誰のせいでもない、突発的な事故によってたまたま怪我をし、手傷を負ったところが。

「三十兩」既に述べた通り、これが江戸時代後期の出来事となれば、一両は現在の三~五万円に相当するから、九十万円から百五十万円相当となる。

「損毛」「損亡(そんまう(そんもう):そんばう(そんぼう)」に同じい。損害を蒙ること。損害を与えること。損失。被害。

「耻辱」「恥辱」に同じい。

「雲樓」不詳。因みに、江戸後期の山水画家三宅西浦(みやけせいほ 天明六(一七八六)年~安政四(一八五七)年:本名・三宅高哲(たかてつ))は「看雲楼」の別名を持っていた。彼かどうかは判らぬが、ウィキの「三宅西浦をリンクさせておく。]

反古のうらがき 卷之二 水練

 

    ○水練

 或人、

「水の心は得ざれども、一度(ひとたび)浮(うか)び出(いづ)るは難(かた)くもあらぬことなり。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、又、一人のいふは、

「左にあらず。浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ、其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或夜、あたりなる川に舟浮べ、二人、遊びけるが、「浮ぶ」といひし人、誤りて水に落けり。今、壹人は水心もありければ、入(いり)て救ひ出(いだ)さんとする程に、落(おち)たりし人、舟のほとりに乳のあたり迄、浮出(うかびい)で、

「ソリヤ。浮(うき)たり。いかに、いかに。」

と罵りて、再(ふたたび)、沈入(しづみいり)て、出(いで)もやらず。

 兎角して救ひ出(いだ)せし頃は、半ば死入(しにいり)て在(あり)しが、やゝありて甦(よみがへ)りけり。

 最後の一言にも爭ひし事は「忘れざりけり」とて、人々、笑ひ合りき【皞齋、話。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第二話の頭は改行が施されてある。]

 又、御徒の役(やく)勤めたる人、七十餘歳にて組頭となり、若き人の水稽古に出(いづ)る舟に乘合(のりあひ)て、居睡(ゐねむり)して、水に落(おち)けり。

「年こそ寄(より)たれ、一度浮む程の事は、今も猶、覺へあらん。」

と、人、見てけるに、ふつに浮ばず。

 名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)なりければ、

「流され也(や)しけん。」

とて、遙に川下の方より入(いり)て、こゝかしこ、求むるに、人も、なし。

 やゝして、元(もと)落入(おちいり)しあたりに、人、あり。

 引上(ひきあげ)んとするに、さからひて、出でず。

 二人(ふた)り、三人(みた)りして引上れば、恙なし。

「何とて浮び出ざりし。」

ととへば、

「兩刀は船に置ぬ。紙入囊(かみいれぶくろ)・きせるは内懷(うちふところ)に入(いれ)て、手拭もて胴卷(どうまき)せり。たばこ入(いれ)は腰に付(つけ)たり。今一品は、扇子なり。蘭香が畫(ぐわ)に、赤良(あから)が筆あり。たゝみ置(おき)たれば、ぬるゝとも、猶、用に立(たつ)べし。さらぬといへど、畫と書とは助(たすかり)ぬべし。それが行衞の知れざれば、心當り、あさり求(もとめ)て在りしが、態々(よくよく)思へば、羽織と袴ごしとの間に、さし挾みおきしものを。」

と答へしかば、人々、さめて、

「人の心もしらで、死欲の深さよ。」

と、そしりけるとなん【高橋太左衞門師、話。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第三話の頭は改行が施されてある。]

 これも水心しらぬ人、池水に落たり。

 岸の方は深くもあらぬに、やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)も、なし。

 人々、いぶかり、入(いり)て見るに、水は腰にも及ばず。

 落たる所に人あり、坐して動かず。

 引(ひき)おこしければ、出來(いできた)れり。

「かゝる淺き所に坐したるは、如何に。」

ととへば、

「われ、水心なければ、常に覺期(かくご)して這(は)う[やぶちゃん注:ママ。]べき心なり。されども、落(おつ)る時、倒顚しぬれば、西東(にしひがし)を辨(わきま)へ侍らず。『若(も)し誤りて深き方に向ひて這ふこともあらんか』と、是をおそるゝ故に、先(まづ)坐して、岸の人の動靜(よふす[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])をうかゞひ居(ゐ)たり。故に猥(みだ)りに手足を動かし侍らず。」

といゝし[やぶちゃん注:ママ。]【川上麟川、話。千坂千里なりとも聞(きき)けり。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第四話の頭は改行が施されてある。]

 これも水心しらぬ人、

「水の底を這ふ。」

といふ。

「いや、ならぬ。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或時、

「玉川に鮎の魚取る。」

とて、打連れて行けり。

 河の瀨、幾筋にもなりしを見て、

「水の底、這ふことの、なる・ならぬを勝負せん。」

とて、人々とゞむるもきかで、入けり。

 此瀨、思ひの外、淺くして、這ふ人の背も隱れざりしを、數丈の底にも入(いり)たる心地せしにや、色々、さまして、這ふ程に、這ふ程に、息のつゞくだけに、向ひの岸に上(あが)りて、

「如何に。如何に。」

と誇り罵りしは、おかしかりき[やぶちゃん注:ママ。]【富永金四郎といふ人の話。又、秋浪も、かくありしとか。】。

[やぶちゃん注:迷ったが、対峙する台詞が多く、その比較のために改行を施した。

「水の心」水練の心得。

「浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ」水に浮かんだり、潜ったりすることは、これ、総て自分自身がそうしようと思うに従ってのみ動作出来るものであるのであって。「こそ」……(已然形)「、」~の逆接用法のやや特殊な限定用法。

「其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや」反語。その身(人体)が、そのままでは(意志を以って泳ごうとしなければ)、鉄や石と同様(に重量を持っていて水に沈むものであるの)に、どうして誰でもが簡単に浮かぶことがそう難しくなく出来る、などと断定・主張することが、これ、出来ようか、いや、出来ぬ!

「皞齋」不詳。「こうさい」或いは「ごうさい」か。因みに、漢詩人で木口皞斎(きぐちこうさい)なる人物がいるが(「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「皡斎存稿」のデータを見られたい)、この人物は寛政五(一七九三)年に二十四歳で夭折しており、鈴木桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれであるから、違うか。ただ、この人物は桃野も好んだ漢詩作家であり、また、既に出た桃野と繋がりのあった林述斎とも親交があったから、或いは彼を経由して得た、又聞きの古い話である可能性はあるかも知れない。

「水稽古」水練の稽古。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった御徒組であるから、そうした訓練があったとしてもおかしくない。

「ふつに」「都に・盡に」などと漢字表記した、呼応の副詞で、下に打消の語を伴って「全然~(ない)・全く~(ない)」の意。

「名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)」神田上水は上水である以上、滞留していたのでは役に立たないから、相応に流れが速かったと考えられ、それは世間によく知られていて、されば「名にし負ふ」であったものと推定される。

「さからひて、出でず」救い上げようとしているのに、抵抗して逆らい、川から出ようとしない。

「紙入囊(かみいれぶくろ)」鼻紙袋。財布のこと。

「手拭もて胴卷(どうまき)せり」手拭に包んでそれを胴に巻き付けてあった。

「蘭香」浮世絵師吉田東牛斎蘭香(享保九(一七二四)年~寛政一一(一七九九)年)である。詳細事蹟は「浮世絵文献資料館」のこちらを見られたいが、そこにまさに『没後史料』として、嘉永二(一八四九)年のクレジット(本書成立の範囲内)で、『『反古のうらがき』〔鼠璞〕』『(鈴木桃野著・嘉永二年記)』(私が校合している国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」と同じ後代のものであろう)『(「水練」の項。某御徒役、神田川に落水した時〝蘭香画、赤良筆〟の扇子を共に没めたものと思い、行衛を探しに潜水し周囲をはらはらさせた話。扇子は船中の羽織と袴こしの間にありし由)』とあるから、間違いない。

「赤良」四方赤良(よものあから)。天明期を代表する稀有の文人・狂歌師で、御家人として支配勘定でもあった大田蜀山人南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)狂名。

「態々(よくよく)」通常は「わざわざ」であるが、どうもしっくりこないので、かく、当て読みした。

「人々、さめて」皆、興醒めして。

「高橋太左衞門師」不詳。「師」とあるから「高橋太左衞門」の「師」匠(何の師匠かは不明)の意であろう。

「やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)もなし」少し立った気配はしたが、よく見てみても、姿が見えず、溺れて辺りの水が掻き乱されているような様子も、これ、ない。

「覺期(かくご)」「覺悟」。危険なこと・不利なこと・困難なことを予め考えて、それを受けとめる心構えを持つこと。ここは水泳が出来ぬから、冷静に水の底を這って陸(おか)に上がろうと冷静な判断と行動をとろうとしたことを、如何にも事大主義的に言っているので、既にしてここが笑話なのである。

「西東」ここは単に広義の「方角」の意。池の縁がどちらであったか、の意。

「川上麟川」「かはかみりんせん」と読んでおく。不詳。

「千坂千里」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千坂廉斎。昌平黌徒出役』(「徒」は不明だが、所謂、「出役(しゅつやく)」とは江戸幕府の職制に於いて、本職を持つ者が臨時に他の職を兼ね勤めることを指し、昌平黌からの出役として知られるのは、鈴木桃野が死の直前に命ぜられた甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)へのそれや、他の学問所や取調所への出役があった)『名は幾、字』(あざな)は『千里、通称一学。本姓吉田氏。天保八』(一八三七)『年致仕後は莞翁』(かんおう)『と号した。元治元』(一八六四)『年八月歿、七八歳』とあるから、生まれは天明七(一七八七)年で、桃野より十三年上である。

「富永金四郎」不詳。

「秋浪も、かくありしとか」「秋浪」不詳であるが、この謂いは、秋浪(あきなみ)という桃野の知合いも、これと同じ経験があったとか言う、の謂いか。]

反古のうらがき 卷之二 愚人

 

    ○愚人

 或人、「笠谷といへる賤しき賣女(ばいた)ある所を通りて、金壹步、ひろひし」と語る。一人ありて、「吾も行て、ひらわん」とて、夜ごとに、提燈てらして、行ける。五夜目(いつよめ)といふ夜、銀一朱、ひらひて歸りける。「おろかなるものも、しいだす事あるもの」とて、人々、わらひしとなん【月笛、話。】。

[やぶちゃん注:「ひらわん」はママ。

「笠谷」読みも位置も不詳。江戸切絵図集の地名索引や「江戸名所図会」索引等やネットのフレーズ検索も掛けたが、見当たらない。識者の御教授を乞う。

「壹步」一両の四分の一。江戸後期の一両は三~五万円相当であるから、七千五百円から一万二千五百円ぐらい。

「銀一朱]一両の十六分の一。千八百七十五円から三千百二十五円ぐらい。

「月笛」「げつ(或いは「がつ」)てき」と読んでおくが、不詳。]

反古のうらがき 卷之二 儉約法

 

    ○儉約法

 或人、遊女にふけりて、多く、金銀、失ひしとて、俄に身をつゝめ、金銀を貯へしが、婦妻といぬるにも、ことあるごとに、錢百文づゝ竹筒に入(いれ)て置(おき)けり。二月(ふたつき)、三月して傾(かたぶ)け出(いだ)して見しに、思ひの外、多く積りて、外(ほか)の儉約より遙(はるか)に多く延びけり。それがおもしろさに、いよいよ筒に入て、積るを喜びしとぞ、夜のこといかにかはげみけん、おかしや【隣人、話。】。

[やぶちゃん注:隣人の話とは言うものの、色めい言辞をコーダとするのは、本書では非常な特異点である。

「つつめ」は「気がねする・憚る・遠慮する・慎む」の「愼(つつ)む」であろうが、これは他動詞マ行四段活用であるから、せめても「つゝみ」とあるべきところである。

「婦妻といぬるにも」妻と外出する際にも(ということは単独で外出する際は勿論のことという、添加の係助詞「も」である)。出費が嵩むのはまず、外出した出先でのそれに従うから、かく、したものであろう。]

反古のうらがき 卷之二 頓首

 

   ○頓首(ぬかづき)[やぶちゃん注:底本のルビ。]

 ぬかをつくことの極(きはめ)て長き人と、極て早き人と出合ひて、先づ、互にぬかをつく、早き人、先づ、もたげて見てあれば、ながき人は未だつきもはてず、まして、もたぐるはいつの頃といふさへしられねば、再びつきなをし、又、擡(もたげ)て見れども、なを、いつ、つきはつべきともおぼへねば、ただ見てあり。やがて、はつる頃、又、一度(ひとたび)、ぬかづきて、互ひに一度に擡てければ、永き人はあざむかれぬれども、早き人もこうじ果たるが、おかしかりき【醉雪老人、話。】。

[やぶちゃん注:「醉雪老人」魂東天に歸るその他で複数回既出既注。桃野の母方の叔父。先手与力で火付盗賊改方も勤めた。]

反古のうらがき 卷之二 貴樣

 

    ○貴樣

 貴樣といふは尊稱なれども、今は世の樣(さま)、下(さが)りて、へつらへる言(いひ)のみ多ければ、同輩より賤しき人を呼ぶ言葉とは、なれり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]

 あるいやしきつかさ人どち、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふこと有(あり)しが、互に腹立(はらだつ)まゝに、一人より、

「貴樣は何々。」

と言(いひ)ければ、

『常には互(たがひ)に「貴樣」とよぶこと無きを、今、かくいふは、吾を賤しむよ。』

と、大に怒りて、

「貴樣々々。」

とつづけざまに、四つ五つ、云(いひ)けり。

『扨は。吾を罵るよ。』

と心得て、彌(いよいよ)爭ひとなりて、互に

「一分(いちぶん)立(たた)ず。」

など言(いふ)程に、上司(かみつかさ)の人の前に出で、理非を斷じけり。

 一人は、

「貴樣といふは固(もと)より同輩の稱呼。」

といふ。一人は

「のゝしりし覺(おぼえ)なし。」

といふ。

 上司、斷ずるにかふじ[やぶちゃん注:ママ。]たれば、互に叱りこらして、止みけり。

「さるにても、何故、『貴樣々々』と重言(じふげん)せし。」

ととふに、

「貴樣、吾を『貴樣』と呼(よぶ)ならば、貴樣をも『貴樣』と呼ぶぞ。」

といゝしが、

「腹立(はらだつ)まゝに疾言(しつげん)して、罵るよふ[やぶちゃん注:ママ。]にきこへ侍りしならん。」

と、跡にて、笑ひ合(あひ)けりとか。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]

 予共、適樓にて「世説(せせつ)」の會讀せしに、吾、「卿(けい)を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」といふ所を讀むとき、阿部松陰、此談をなしたり。實は組下の人のよしなり。松陰、死して今十一星霜を經たり、鳴呼。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてあり、特異点で二字下げの追伸形式と推察される。]

  嘉永二年三月六日、桃季(たうり)盛んに開きて、日永きとき、筆をとる。

[やぶちゃん注:短いが、それぞれの言い分を比較し易くするために改行を施した。「貴樣」という二人称は、『中世末から近世初期頃に武家の書簡で用いられた語で、文字通り』、『「あなた様」の意味で敬意をもって使われていた』。ところが、『近世後期頃から』、口語として『使用されはじめ、一般庶民も「貴様」を用いるようになった』ことから、『尊敬の意味が薄れ、同等以下の者に対して用いられるようになった』。特に『その後、相手を罵って言う場合にも用いられるようになり、近世末には上流階級で用いられなくなった』と語源由来辞典」にある。

「いやしきつかさ人どち」幕府の下級官吏。

「かふじたれば」「困(こう)じたれば」。歴史的仮名遣は誤り。どうしてよいか判らず、困ってしまったので。

「疾言(しつげん)」「失言」であろうが、売り言葉に買い言葉で軽率に言い合って、思わず「口走ってしまった言葉」という意味で腑に落ちなくもない。

「予共」私や共学のものどもが。或いは「予、共適樓」なのかも知れぬが、後の「會讀」から、共を複数を示す接尾語「ども」でとった。

「適樓」不詳。塾の固有名詞か? 識者の御教授を乞う。或いは、前注の通り、「共適樓」の可能性もある。

「世説」中国南北朝期の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集「世説新語」。「世説」とは「世間の評判」の意。

「會讀」数人が集まって、同じ書物を読み合って、その内容や意味を研究し、論じ合うこと。

「卿を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」「世説新語」の「惑溺第三十五」の一節。

   *

王安豐婦、常卿安豐。安豐曰、「婦人卿壻、於禮爲不敬、後勿復爾。」。婦曰、「親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰當卿卿。」。遂恆聽之。

   *

 王安豐(わうあんぽう)の婦(ふ)、常に安豐を「卿(けい)」とす。安豐、曰はく、「婦人の壻(せい)を『卿』とするは、禮に於いて不敬爲(た)り。後、復(ま)た爾(しか)する勿(な)なれ。」と。婦、曰はく、「卿を親したしみ、卿を愛す。是れを以つて卿を『卿』とす。我、卿を『卿』とせずんば、誰(たれ)か當(まさ)に卿を『卿』とすべき。」と。遂に恆(つね)に之れを聽(ゆる)す。

   *

「王安豐」は、かの「竹林の七賢」中の最年少者である王戎(おうじゅう 二三四年~三〇五年)のこと。三国時代から西晋にかけて、魏・晋に仕えた軍人政治家。「婦」は妻、「壻」は夫。「卿」は当時の中国では、昵懇の者への信愛を込めた呼称、或いは同輩以下の者に対する親しみを込めた呼称であり、ここは「あなた」とか「あんた」とかの意となる。日本語の「卿」とは異なるので注意が必要。

「阿部松陰」「公益社団法人新宿法人会」公式サイト内の「新宿歴史よもやま話」の第七十九回の「灌楽園――松岡藩下戸塚村抱屋敷(5)」の記載の中に、『寛政二(一七九〇)年、松平定信による寛政改革の一環として幕府は朱子学を正学とし、他を異学とする異学の禁、ついで九年の幕臣やその子弟を教育する機関を昌平坂学問所(官学)と決めた。したがって、昌平坂学問所に関係または影響を受けた漢詩を嗜む人たちを官学派詩人といわれた』。そうしたグループの一つとして『文政五(一八二二)年十二月二十六日』に『関口龍隠庵で詩会氷雪社が結ばれた。参加したのは山内穆亭・設楽翠巌( 篁園門下、名能潜、通称八三郎、のち代官、勘定吟味役、先手鉄砲頭〔組 屋敷は住吉町〕と進む)・中村秋浪・石川柳渓(名澹、字若水、通称次郎 作、昌平校助教、牛込宝泉寺葬、現中野区上高田)・石川秋帆(柳渓の 弟)・拝石・川上鱗川・石川練塘・阿部松陰・内山一谷・鈴木桃野ら。遅れて楢原景山(如茂、表右筆、屋敷は四谷から牛込白銀町)・南圃・木村裕堂(友野霞舟の女婿、学問所吟味に及第して勤番組頭)も加わる。評者は野村篁園・植木玉厓・友野霞舟。龍隠庵は都電早稲田終点駅から程近い現在の椿山荘西側、胸突坂下の芭蕉庵である。篁園は風流絶佳の地として『龍隠庵賞月賦』を作詩している。なお、これより以前であるが、大田南畝もまた竜』(ママ。以下も同じ)『隠庵での佳日(七月七日、九月九日)の詩会七回の記録を残し、その中の『竜隠庵に会する記』に「竜蛇の潜伏する所なり、門を敲きて入り、曲徑の紆余する有りて、庵に上る」と記している』(下線太字やぶちゃん)と出る。「阿部松陰」でヒットするのはこの一ページのみである

「組下」既出条に登場する人物(親族・友人)の多くは先手組であるから、それと考えてよい。

「松陰、死して今十一星霜を經たり」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、この記事のみ、特異的に次の一行でクレジット記載があって「嘉永二年三月六日」とあるから、記事記載時制は一八三八年と確定され、この桃野の学友・詩友であった阿部松陰は、天保九(一八三八)年に亡くなっていることが判る。冷静な桃野にして、極めて珍しく、ここでは記末に「嗚呼」と歎き、情感を露わにしており、今までにないクレジット追記の添書きも非常な感傷に満ちているではないか。彼の松陰への信愛の強さが伝わってくる。]

2018/09/09

反古のうらがき 卷之二 覺へ誤り

 

    ○覺へ誤り[やぶちゃん注:ママ。]

 或醫師、和蘭(おらんだ)の藥を用ゆるとて、藥名「ソツピル」といふを誤りて「ソツタレ」といゝき。異國の辭(ことば)は覺ゆるにかたくて、おゝくは物によそへて覺ゆることなれども、やゝもすれば覺へ誤りて、ひがこといふもの、おほし。此くすしの覺へ誤りしは何にかよそへしより誤れるといふに、諺に「いひかひなきもの」を「クソツタレ」とも、又、「クソツビリ」ともいふ。是によそへしをあやまりしかと思へば、ひと言(こと)の誤りも、其心のいやしきは、しらるゝ者ぞかし。予の素讀の弟子に、「喜怒哀樂」といふを「ロジ哀樂」と覺へ誤りしことありき。是等も、とわずして其よそへしことのしらるゝなり。

[やぶちゃん注:「ソツピル」梅毒に有効とされた軽粉(はらや:水銀の粉末。白粉(おしろい)にも用いられた)のこと。根本曽代子氏の論文「近代製薬工業発達の要因と背景」(史学雑誌一九七七十二巻第十二所収)(PDF)に)拠った。綴りは不明。

『「喜怒哀樂」といふを「ロジ哀樂」と覺へ誤りし』「キド」を「木戸」と宛て記憶しようとしたのを、木戸がある裏の「路地」の連想が自動的に働いてしまって「ロヂ」となってしまったものか。]

反古のうらがき 卷之二 雪隱

 

    ○雪隱

 或人、おゝやかなる館に行(ゆき)侍りて、夜に入(いり)てかわやに行けるが、其樣、いとひろびろとして、見なれぬことのみおゝかりければ、時經る迄、用足しなやみ侍りけるが、いとゞ内せまりて、こらふべくもあらねば、先(まづ)さし入て、内のさま、見侍りしに、備後疊(だた)み幾重か敷(しき)たる座敷に、黑漆もて塗(ぬり)たる板あり。取上(とりあげ)て見るに、切穴(きりあな)と覺敷(おぼし)くて、下に又、黑漆の板をはり、その中に大錢(おほぜに)程も有らんと覺ゆる、穴、有り。「是(ここ)に臀(いさらへ[やぶちゃん注:底本のルビ。])さし當て、其穴より用たすことにや」と思ひ侍れど、其間(そのあひだ)、六、七寸も隔たれば、首尾よくたれ果(はつ)べくも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍らず。もみ尻して、やみけり。庭の柴垣のあたりに冬木の蔭ありて、いとたれよげに見へければ、ひそやかに其あたりに入てたれければ、知る人もなくて、すみけるにぞ。後、人に問(とひ)ければ、二重の蓋のよし、穴あるは下の蓋にて、手かけの所にてぞありける。

[やぶちゃん注:「備後疊み」備後表(びんごおもて)で張った畳。備後表とは、広島と福山両藩の備後地方の藺草(いぐさ)で織った畳表。主産地を形成する備後国(広島県)沼隈(ぬまくま)・御調(みつぎ)郡地方では、すでに天文・弘治年間(一五三二年~一五五八年)に引通表((ひきとおしおもて:途中で継がずに幅一杯に一本の藺草を通した上質な畳表)が織られていた。福島氏時代(一六〇〇年~一六一九年)の沼隈郡では二十七ヶ村で七百七十二機もの畳表織機があったという。毎年、三千百枚が幕府献上品とされ、畳表改役(あらためやく)による製品管理が厳重に行われた。福山藩主が水野氏になると、献上表は幕府買上げの御用表となり、正保四(一六四七)年には「備後表座」とよぶ独自の買上げ機構が設けられた。畳表生産の大部分を占める商用表は、国産第一の品として領外市場の信用確保のため、「九か条御定法」を定め、品質管理及び流通統制を厳重に行った。広島藩に於ける御調郡産の畳表も、藩は毎年一万枚を御用表として買い上げ、商用表は運上銀を納めて尾道(おのみち)町表問屋の手を経て、販売された。表問屋の金屋取扱いの畳表は、元禄一六(一七〇三)年で四万六千九百枚、宝永七(一七一〇)年には五万余枚となっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「大錢」十文銭である宝永通宝の通称。しかしこれ、直径三センチ八ミリしかないんですけど……。

「臀(いさらへ)」「ゐさらひ(いさらい)」の転訛したもので、尻・臀部の意。しかも平安中期の辞書である源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」にも出る古い語である。

「六、七寸」十八~二十一センチメートル。二階から目薬ほどではないにしても……。

「たれ」「垂れ」。

「もみ尻して」自ずと適正確実にヒリ放ち垂れることがおぼつかず、遂に文字通り「尻」込みされて、という意味で採る。

「やみけり」用をたすのが文字通り「憚(はばか)られて」止めてしまったのである。

「いとたれよげに見へければ」「いと垂れ良氣に見へければ」。「ウン」、この気持ちは私にはよく判る。私は二十七年前、イタリアのローマのカンピドリオ広場でこのように物色し、妻を見張りに立てて、果敢に実行に移したことをここに自白する。無論、うまうまと「知る人もなくて、すみけるにぞ」であったのであった。]

反古のうらがき 卷之二 栗園

 

   ○栗園

 

[やぶちゃん注:個人的にしみじみと心打たれ、思わず目頭が熱くなった一話であるので、特異的に改行を多用し、空行及びダッシュやリーダ及びアスタリスクを挿入した。……私は確かに……千住の飲み屋での――名もなき猿引きと栗園と猿と別れのその場に――居た――そんな気が……するのである…………猿引きの口上が……栗園の三味のクドキが……演ずる猿の潤んだ眸が……思い出せるのだ…………

 

 予が友北雅(ほくが)君は、よく浮世繪をかき給ひて、おしえ子も多く侍りける、其中に――栗園(りつゑん)――といへる人ありけり。

 これもよく繪をかきて、常々、北雅君を訪ひ侍りけり。

 或時、同じ友、より合(あひ)て、酒、打のみたる時――猿引(さるひき)がはやしものする三味線――を、よく引(ひき)興じけり。

「いかゞして學びし。」

と問へば、

「……これは、おそろしく、かなしき事にて覺へ侍る。……故に、常には手にもとらねども……一生、忘るゝ事なく侍る。……」

よしを答へける。

 ふしぎのことなれば、人々、

「如何に。」

ととへば…………

   *   *   *

…………ある年、繪の修行とて、少しの蓄へをもちて、繪箱・紙筆・衣服の行李(こり[やぶちゃん注:底本のルビ。前にも注した通り、かくも読む。])など取持(とりもち)て、

「上方筋、修行せん。」

と立出(たちいで)けるに、先(まづ)、伊豆の溫泉に浴したるに、𤻗瘡(しつさう)夥(おびただし)く出來(いでき)て、立居(たちゐ)もならぬ程になりけり。

 こゝに逗留して其癒(い)ゆるをまつに、いやが上に出來て、二タ月餘りにして、漸く立居もなる程になりけり。

 其間に衣服も着破(きやぶ)り、たくわへ[やぶちゃん注:ママ。]も盡(つき)、繪の道具さへに賣盡し[やぶちゃん注:「に」はママ。]、湯本の飯代・藥用の料も多く積れり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されてある。]

 扨、𤻗瘡も大に癒(いえ)たれば、主(あるじ)に向ひて、これ迄の介保(かいほう)を謝し、且は飯代・藥用料の高を問ふに、大(おほい)に積りて三兩餘りありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「君が繪、如何程の價にあたり侍るかはしり侍らねども、此あたり、左樣のことを好む人、さらになく、三兩の繪をかき玉はんには、一月、二月にて、事果(ことはて)侍らんや、また、幾月立(たち)ても望む人なき時は、一年、半年立(たた)んも斗(はかり)がたし。しかして三兩の償ひを取(とり)玉はんには、又、三兩斗(ばかり)の飯代、積るべし。かゝらんには、いつか、はつべきこととも覺へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]侍らず。むしろ、當家の下男となりて壹年勤め玉はんには、給金、三兩進(しん)じ申(まうす)べし。これにて、先(まづ)、飯代を償ひ、扨、又、半年も勤め玉はゞ、路用・衣服等も見苦しからぬ程に出來申べし。其時、江に趣き玉へ。かく不仕合(ふさはせ)の人なれば、惡くは斗(はか)らひ申まじ。」

といゝけるにぞ、よに賴みなく、かなしき事、いわん方なくて、おぼへず、さめざめと泣けり。

 其時、隣り座敷に猿引の乞食ありしが、是を聞(きき)て、

「……よにあわれなる人なり。吾が教へに隨ひ玉はゞ、今日(こんにち)、二兩の飯代は、吾、償ひ進じ申べし。其譯(そのわけ)は、吾、去月(きよげつ)迄、壹人(ひとり)の三味線引(しやみせんひき)をぐしたるが、病(やみ)て死(しに)たり。其代りになり玉はゞ、われ、今より三味線を教へ、北國の方を𢌞り、江に趣くなり、されば、二つながら、便(たよ)りよし。枉(まげ)て吾(わが)意に隨ひ玉へ。」

といいけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 それよりして、夜る晝るとなく、三味線を習ひたるに、一心の、こる所なれば、これ迄、手に取たることもなきことを、十日斗(ばかり)にして見事、引覺(ひきおぼ)へたり。

 扨、此猿引に隨ひ、北國、幾國となく𢌞りあるきて、江近く迄來り、千住宿にて酒うる家に入(いり)、扨、猿引、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「君は、かくいやしき態(わざ)し玉ふ人とも覺へ侍らねど、人も見しらぬ所にてのことなれば、くるしからず。こゝよりは定(さだめ)て辱(はぢ)玉ふことなるべし。衣服をかひて、改め着(き)玉へ。」

とて、金三分、與へけり。

 かたじけなさ、骨に答へたれば、伏し拜みて謝しおはり、扨、

「其許(そこもと)が故鄕はいづこ、名は何。」

と問ふに、

「名はこれ迄の通り――太夫――と斗(ばか)り呼びて、名、なし。故鄕といふも、さだかに定まらず、幼少より先(さき)の太夫とともなひ、諸國を𢌞りたれば、今、父母兄弟といふも、なし。たゞ、此猿一疋より外(ほか)、身より、なし。……いざ、一杯を酌(くま)ん。」

とて

……離(わか)れの杯(さかづき)を𢌞(めぐ)らし……

……心よく猿を舞(まは)し……

……はやしごとして……

吾(わが)名所(なところ)をも問はで、袖をはらひて、去りけり。……

…………

……其時覺へたる三味線なれば……死に至る迄、忘(わする)る事なし……酒のみ、打興(うちきやう)じたる時は、取出(とりいだし)て引(ひき)侍れども……引度(ひくたび)ごとに……淚のこぼれ侍る…………

   *   *   *

と、語りけるとなん。

 

【畫師栗園者平〻人耳不足傳表題改作太夫傳可也然非世信有此人盖。[やぶちゃん注:以上は、底本本文の最後に頭書としてある。この主人公の絵師「栗園」の事蹟の一つを記したものと思われるのだが、私には意味は勿論、どう読んでいいものかさえ、さっぱり見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、これについて、『「畫師栗園」は平凡で人に伝えるには不足。題を「太夫傳」に改めるべき。そうすれば「こんな人も居るんだ」と世間も信じる(だろう)と私は読みました』とメールを下さった。なるほど、これは筆者ではない誰か(恐らくは「天曉翁」浅野長祚)が、本条についての批評をしているらしいと確かに読める。T氏の訳に従って自分なりに訓読してみると、

 畫師「栗園」は平々にして、人耳(じんじ)に傳ふるに足らず。表題は「太夫傳」と改作すべきなり。

とまでは読める。しかし、以下が読めない。「盖」(蓋)が文末にあること自体が悩ましい。誤判読の可能性もあるか。無視して力技で読むと、

「然(しか)ら非(ざ)れば、世、此(か)くなる人の有るを信ぜんや。」

「然(さ)に非(あら)ずんば、世、此くなる人の有りとは信ぜんや。」

 

か? う~ん、私の乏しい訓読力ではここまでである。T氏も「盖」の位置をおかしく感じておられ、お聴きしたところ、

「然(しか)らば、世、此くなる人、(けだ)し有るを信ぜ非(ざ)るか。」

『と反語の疑問詞のように解して』おられるとのことであった。

[やぶちゃん注:「北雅」底本の朝倉治彦氏の注に『姓は寺門と(『香亭雅談』による)』とのみある。不詳。因みに、江戸後期の富川房信及び葛飾北斎の門人に、葛飾北雅(かつしかほくが 生没年不詳)なる浮世絵師がおり、彼の本姓は「山」である。ちょっと気になったので、言い添えておく。

「猿引(さるひき)」猿回し。ウィキの「猿まわし」より引く。『発掘された粘土板に書かれた楔形文字から』四千五百『年前のメソポタミア文明に猿回しが職業としてあったことがわかっている』。『猿を使った芸は日本へは奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の門付(予祝芸能)を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸のみが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった』。『インドでは賤民が馬と共に猿を連れて芸を見せるという風習が有った』。『江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(猿引、猿牽)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわし師は猿飼(さるかい)と呼ばれ、旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地の長吏』(穢多又は非人・非人頭を指すが、その範囲は地域によって差異があった)『や猿飼の家に泊まらなければならなかった』。『新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和もしくは京の者、幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていた』。『猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった』。『明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の』三『系統が残されて活動した。大正時代に東京で廻しているのは主に山口県熊毛郡の者だった』。『昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった』。『猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた』。『高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると』、『徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから』、昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)に『猿まわしは』一旦、『絶滅した』。しかし、昭和四五(一九七〇)年に『小沢昭一が消えゆく日本の放浪芸の調査中に光市の猿まわしと出合ったことをきっかけに』、昭和五三(一九七八)年に「周防猿まわしの会」が『猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている』とある。

𤻗瘡」湿疹。全身性で発熱もあったと考えてよいようだから(「立居(たちゐ)もならぬ程」とはそれを感じさせる)、ウィルス性のものか、又は、アトピー性の重いものだったのかも知れない(旅に出て直ぐに発症しているのは、何らかの強力なアレルゲンによるものの可能性を否定出来ない。或いは、あにはからんや、その逗留した温泉の成分が原因であった可能性も否定出来ない。とすれば、それに馴化するのに二ヶ月かかったというとんだ話となるわけである)。但し、予後は悪くなかったようだ。

「介保(かいほう)」「介抱」の当て字。但し、「介抱」の歴史的仮名遣は「かいはう」となる。

「三兩餘り」江戸後期の一両は米価換算で三~五万円相当。

ありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「はつ」「果つ」払い終わる。この温泉宿の主人の言っていることはしかし、総て尤もなことである。

「去月(きよげつ)」先月。

二つながら、便(たよ)りよし」お前さんと私にとって、これ、都合がよい。

一心の、こる所なれば」「こる」は「凝る」。この温泉宿で一年もの下男などして暮らすわけには自分の節として納得するわけには行かない。されば、賤民の仕儀とはいえ、三味線弾きに身をやつして見たこともない奥州の地を行くも、絵画の修行と心得れば、絶えられもしようし、この猿引きの謂いが正しいならば、半年ばかりもすれば、江戸へ帰ることが出来るようだし、そのときにはそれなりの金も溜まっているかもしれぬ、といった各個的予測を並べてみた結果として、猿引きの誘いに乗ることに決し、そのために一心に三味線の修行に勤しんだことを、かく言っているのである。

千住宿」芭蕉が「奥の細道」で最初に泊まっていることから判る通り、奥州街道(正しくは「奥州道中」と呼ぶ)の日本橋から一番目の宿場町で江戸四宿の一つであった。

「かひて」「買ひて」。

「金三分」一分(ぶ)は一両の四分の一。]

反古のうらがき 卷之二 獵師

 

   ○獵師

 武藤孫之丞といへる人は、英雄の大力なりしが、家の養子、亂心して、後(あと)へより腹迄、刀にて突拔きたれども、殊(こと)ともせず、取(とつ)て控(おさ)へ、いましめたり。扨、刀は其儘置て、目釘を拔(ぬき)、つかまへをはづし、前の方へ拔取らせ、療用せしに、不日にして癒けり。かくせざれば、血、胴に落入(おちいり)て、療用、六づケ敷(むづかしき)よし、自(みづ)から言(いひ)けり。されども、惡虐、增長して、人を殺す事も多かりけるよしにて、甲府勝手小普請となり、其孫、孫之丞、畫名(ぐわめい)「竹石」といふ人、御免にて、江に出たり【不山門人、武藤定五郎の父を「石樹」と云(いひ)、「竹石」は非なり。[やぶちゃん注:これは本文割注ではなく、この箇所の頭書である。]】。

 其人の話に、甲府はおそろしき所といへば、誰(たれ)もしる所なれども、其中、人氣(じんき)のたけきこと、一事(ひとこと)にて推(おし)て知るべきことあり。

 獵師の獸を取(とる)は、何れの國にても、多く矢玉を用ひずして打取(うちとる)を上殺(じやうせつ)とするならひなるに、此國にては、左にあらず、少しよわりたるを生取(いけど)るを上殺として、直(ただち)に打殺したるをば、大(おほい)に笑ふ事なり。如何にとなれば、獵師の山に入(いる)は、二里、三里、山坂峻阻をふることは常なり。猪鹿に限らず、十貫廿貫の重きものを、人を雇ひ荷ひ來(きた)る事、煩勞(はんらう)なれば、自身に步ませ連來り、扨、打殺(うちころ)すとなり。故に武士などの山がりに行て、一玉に打殺荷ひ來るを見れば、大に笑ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、自然(おのづと)、獵師にあらざる人も、生(いき)ながら引來るを手柄とする習ひなり。

 扨、其打樣(うつさま)は、猪鹿ともに、犬をかけ、かり出し、其間合(まあひ)を見て、手・足・首・胸等の所をよけて、一玉、打留(うちとめ)、所謂、手負となし、荒れ𢌞る所を、かけ寄りて組取(くみとる)なり。或は急所をよけて薄手なれば、常の時とかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、猛きこといふ斗なし。されども本より手取になすべき心得なれば、ことともせず、但し、一玉、打留ざれば、捉(とら)ゆる[やぶちゃん注:ママ。]によしなければ、無ㇾ據(よんどころなく)打留(うちとむ)るのみ。たゞ急所に當り死(しな)んことを恐るゝといへり。故に組合(くみあふ)時、上に成り、下に成り、或は疵を蒙ることもあれども、數里の路を荷ひ來るより恥とせず、死力を出(いだ)し、組伏せて繩をかけ引來り、扨、家に來りて後、打殺すを手柄とするよし。かゝる危險なることをおかし[やぶちゃん注:ママ。]、手柄とするは、益なきことなれども、人氣の猛き所斗(ばか)り、古への風(ふう)ありて、なり。「竹石」といふ人も英雄の後なれば、ふつう人(じん)より、心も猛くあるよしなれども、此國の風には大におそれたる、といへり。

[やぶちゃん注:禁欲的に改行を施した。

「武藤孫之丞」不詳。

「刀は其儘置て、目釘を拔(ぬき)、つかまへをはづし、前の方へ拔取らせ、療用せし」誤解されて困るが、この乱心した養子に武藤孫之丞が背後から腹部にかけて、刀を突き通されたのである。突き通されたままで、その養子を捕って押さえて組み伏せ、縛り上げたというのである。しかも、その後、刀を背後から抜かせたせず、柄の目釘を抜かせて、刀身だけにした上で、刃先に革などを巻かせて、前方へ引き抜かせというのである。想像するだに凄絶にして「イタイ!」。

「不日にして」日数をあまり経ずに。直に。

「血、胴に落入(おちいり)て、療用、六づケ敷(むづかしき)」後ろに引き抜く場合と、前に刀身のみを引き抜く場合とでは、内臓その他への損傷の容態は違いがあるとは思う。前者では、引いて斬るように作られている刀剣類の場合、新しい別な創傷が発生し、損傷がより拡大する感じは感覚的には高まるようには思われ、胴体の内部(内臓)に激しい出血が起こるというのは、何となくは判るようには思われる。

「されども、惡虐、增長して、人を殺す事も多かりけるよしにて」ちょっと判り難いが、主語はその乱心した養子であろう。乱心が公に知られれば、その場で、その養子は罰せられてしまうから、元祖の武藤孫之丞は秘密裏に処理した。しかし、その後もその養子の乱心は悪化し、複数の殺人に関わってしまったとかで(しかしそこで厳罰には処されていないから、これも上手く処理されたものであろう)、という意味で採っておく。

「甲府勝手小普請」あまり理解されているとは思えないので、一言言っておくと、甲府勤番(江戸幕府の役職で、江戸中期に設置され、幕府直轄領化された甲斐国に常在して甲府城の守衛・城米管理・武具整備及び甲府町方支配を担った)となるということは、実は実質上の処罰的左遷人事であり、別名を「甲府流し」と称したのである。例えばウィキの「甲府勤にも『甲府勤番は元禄年間に増加し』、『幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている』とあり、さらに『老中松平定信が主導した寛政の改革においては、不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設され』ている、とあるのである(下線太字やぶちゃん)。私の「耳囊 卷之九 賤妓孝烈の事」を参照されたい。則ち、当時のかぶいた旗本連中(特に次男以下)にとって甲府勤番を命ぜられることは、生涯、江戸に戻ることも出来ぬ、致死的窓際族を命ぜられることに他ならぬ、〈恐怖の人事〉、流刑に等しいものであったのである。それを何とか食い止めるために、実父や兄などは賄賂を用いたりもしたのである。

「其孫、孫之丞」乱心者の養子には子がおり、それが祖父の名を継いだのであろう。「御免にて、江に出たり」とあるから、この孫は、父(乱心者の養子)の甲府勝手小普請を継いだものの、幸いにして御役を解かれ、江戸へ戻ることが出来たという意で私は採る。ただ、ここで面倒臭いのは、その孫の孫之丞は絵もよくし、画号を「竹石」と言ったと、桃野は書いたが、恐らくは後の誰かが、そこに頭書(かしらがき)して補正注を入れ、――「不山」(不詳)という絵師の門人に「武藤定五郎」(不詳だが、武藤孫之丞の通称と採るほかはない)「の父」なる者がおり、その画号は「石樹」であって、この本文にある「竹石」というのは誤りである――と書いたのである。正直、この話を読む今野読者にとってはどうでもいいことなのではあるが。

「其人の話」迂遠である。この以下の話をしている「その人」とは、

①豪傑武藤孫之丞

の養子で

②乱心して甲府勝手小普請にされたトンデモ男

の実子で

③武藤定五郎と名乗り、画号を「竹石」(頭書によれば「石樹」の誤り)と言った武藤孫之丞

③の人物であるということである。

「人氣(じんき)のたけきこと」甲府人の気性の「猛(たけ)き」ことと言ったら。

「一事(ひとこと)にて」以下の狩猟方法の節操一つをとってみて。

「ふる」「經る」。行く。

「十貫廿貫」三十七・五~七十五キログラム。

「自身に」大猪や大鹿自身に。

「山がり」「山狩り」。]

反古のうらがき 卷之二 狐

 

   ○狐

 はるの日、長き頃、王子稻荷のあたりに、花見る人多かりける、「裝束榎(しやうぞくえのき)」といへるは、稻荷の祠より、北、四、五町隔りて、田の中にあり。是なん、

「歳(とし)のつごもりに、狐ども、寄合(よりあひ)て狐火たくとき、此榎のもとにて、裝束改(あらたむ)る。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]つたへたる所なり。

 此あたりは、つくづくし・たんぽゝなど、多く生出(おひい)で、飛鳥山の花見る人のかへるさに、立寄りて遊ぶ人も多かり、亦、酒に醉(ゑひ)たる人などは、此邊にて狐にたぶらかされ、食物など奪はるゝ者も、まゝありける。

 ある日、壹人の侍有りて、黑き縮緬(ちゞり)の羽織高くかゝげ上(あげ)て腰にはさみ、大小(ふたふり)の刀、おとし差(ざし)にして、衣のすそ高くかひまくりて、深田の中をあちこちと行けり。

 見る人、

「こは、ふしぎの人也。定(さだめ)て、狐にばかされたるらん。あな、笑止のこと也。」

など、いゝあへり。

 此侍、あたりに人あるもかへりみず、ひたもの、田の内を行かへり、又は立止りなどしける。

 此あたりの田は人の膝より深く、殊に春の水をせき入れたれば、もゝのあたり迄、踏込(ふんごみ)たり。

 田の主、見つけて、これを制(とゞめ)せんとするに、餘りに立派(ひとがらよき)の侍なれば、下人の如く、しかりのゝしるも如何(いかが)なり、しばし立(たち)て其樣を見るに、實(げ)にもゆめ心にみへたれば、遙に聲をかけて、

「御侍は、先程より、そゞろなることなし玉ふ。定めて狐の見入(みいり)たるならん。はやばや、眞心(まごころろ)に立歸り玉へ。魚類など持(もち)玉はゞ、はやばや、打捨玉へ。」

など、告(つげ)さとしけれども、折ふし、南風の少し吹(ふき)たるに、風に逆らひて聲の通じ兼たるに、田の面(おもて)二十間斗(ばかり)も隔たれば、唯、聲のみ聞へて言葉の分り兼たるにや、唯、こなたへ打向ひて、

「今しばし、許し玉へ。」

といゝて、再び、かへりみだにせざれば、

「こは、いよいよ、狐の見入たるに相違なし。あら、笑止々々。」

といふまゝに、打どよめきてのゝしりけり。

 是を見る人、日の暮るゝもしらず、田のまの細道、打めぐりて、男女(なんによ)おし合(あひ)、或は田のくろ踏(ふみ)はづし、足腰、泥にまみるゝなどするも、多かりけり。

 しばしありて、侍は、田の水の淸きあたりにて、足に付きたる泥沙(どろすな)、あらひ落し、淸らかなる手拭、取出で、面より手足迄洗ひて、衣のたもとよりは藤くらの草履、取出(とりいで)て足にはき、こなたの方に向ひ來る。

 人々、

「扨こそ、心付たるよ。又、如何にするやらん。」

などいひて、打圍(うちかこ)みて見るに、侍もおどろき、

「人々は、初(さき)より何をか見玉ふ。吾も先程より心を付て見るに、人々の見玉ふ物の目に入らざれば、今、態々(わざわざ)こゝに來りて問ひ侍るなり。」

といへば、人々、大(おほい)に笑ひて、

「いよいよ狐にたぶらかされしに疑ひなし。吾が輩何をか見ることの外にあらん、其許(そこもと)が、先(せん)より、田の内、あちこちと狂ひ玉ふ樣(さま)、狐の見入たるに疑なければ、扨は打寄て見侍るなり。今は心も付(つき)て泥より出(いで)玉ひたるかと思へば、猶、又、そゞろ言(ごと)の玉ふは、如何に。はやばや、心を付(つけ)玉へ。」

といふに、侍、打笑、

「扨は、さることありけり。吾は兩の足に雁瘡(がんかさ)といふ惡瘡ありて、如何(いかに)療治すれども、癒へず。さる醫のおしへけるは、『春の頃、田の内に入(いり)て、蛭(ひる)に血をすわする[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]が妙也』といふに任せて、先(せん)より蛭のおらんあたり、あちこちもとめて、こゝろの儘に血を吸わせ侍る。今は心地もよく、痒味(かゆみ)も少し忘れたれば、一度(ひとまづ)家に歸り、又の日、來りてかくせんと思ひ侍る也。そを狐に見入られたると誤り玉ふ人々は、ことわりに似たれども、他人のする態(わざ)、とくとも見定めで、一圓(いちゑん)に狐にたぶらかさるるよとて、多くの人々、今、日のくるゝ迄、推合(おしあひ)て見玉ふは、かへりて、狐に見入られたるに似て見え侍るなり。はやばや歸り玉へ。此あたりは日暮より實(げ)に狐の害あり。吾は、ほとり近き所のもの也。さらば、いとま申さん。」

とて、先に立て歸りければ、人々、面目なくて、各々ちりぢりに歸(かへり)けるとなん。

[やぶちゃん注:擬似怪異滑稽譚。構造や展開に如何にもな作話性を感じるが(特にオチの武士の台詞はまさに落語である)、あったとしてもおかしくない。怪異否定派の現実主義者桃野にして、会心の話柄ではあろう。

「王子稻荷」落語「王子の狐」でも知られる、現在の東京都北区岸町にある東国三十三国稲荷総司とする王子稲荷神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「王子稲荷神社」によれば、『荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられた。また、治承四』(一一八〇)『年に源頼朝より奉納を得たという』。『徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくした』。「江戸砂子」(俳人菊岡沾涼の著になる江戸の地誌及び案内書でムック本のはしり。享保一七(一七三二)年刊)の『王子稲荷の段に』は『以下の』ように『記されている』。

『狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ』。

『狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな』

『年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり』。

『毎年大晦日の夜、諸国のキツネ、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代、狐火で有名であった』(下線太字やぶちゃん)。『「関東八州」の稲荷』『の総社と観光紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた』。『社伝には「康平年中』(一〇五八年から一〇六四年)、『源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」とある。この「関東」を中世以来』、『別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国』『」と解釈してきた。「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子(にゃくいちおうじ)縁起」(紙の博物館蔵)の付箋』『が示す通り』、『江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた』。「寛政の改革」(天明七(一七八七)年~寛政五(一七九三)年)『時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった』。『「三十三国」とあるが、北陸道・東山道・東海道を全部あわせても東国は』三十『国しかない』。三十三『という数字は全令制国の合計』六十六『国を半分にした観念的な数字とする説、平安時代までに廃止された諏訪国・石城国・石背国を加えたものとする説、当時「蝦夷ヶ島」と総称された渡党(わたりとう)・日本(ひのもと)・唐子(からこ)を加えたとする説などがある』とある。「花見る人多かりける」と本文にあるように、桜の時節には特に賑わった。

「裝束榎といへるは、稻荷の祠より、北、四、五町隔りて、田の中にあり」知られた歌川広重の「名所江戸百景」の「王子裝束ゑの木大晦日の狐火」の絵のそれ(リンク先はウィキの「王子稲荷神社」のもの)。「四、五町」は約四百三十七~五百四十五メートル半。しかし、夢見る獏氏のブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の「装束榎の大晦日の狐火 (江戸の歳時記)」を見ると、現在の「装束稲荷神社」について、『装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所から北西に』六十メートルの『ところに移され』たものとある。それはここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)なのだが、「夢見る獏氏」のここでの叙述に従って『装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所』を探ると、この「柳田公園」の北西の交差点位置となって、ここは王子稲荷神社からは真東で、四百七十六メートルで(但し、氏は別に旧装束榎があったの『王子駅近くの北本通りの』『交差点の真ん中あたり』であったとされ、昭和四(一九二九)年の『道路拡張のため切倒されてしま』ったと記しておられる。推理するに、私が示した「柳田公園」から西へ二ブロックのの交差点であるが、ここは王子稲荷神社からはもっと短くなってしまう)、位置がおかしい。そこで「江戸名所図会」なども調べて見たのだが、この装束榎の位置は実ははっきりとは書かれていないのであった。されば、桃野の「北、四、五町」も怪しく、結果、この「夢見る獏氏」の考証が総合的に最も信頼の措ける物のように私には思われた

「つくづくし」土筆。

「飛鳥山」王子稲荷神社の南東直近にある、現在の飛鳥山公園(グーグル・マップ・データ)。享保年間に行楽地として整備された。今も桜の名所である。

「おとし差(ざし)」刀を無造作に、垂直に近い形で腰に差すだらしない差し方を言う。

「ひたもの」副詞。「いちずに・ひたすら・やたらと」。

「そゞろなること」なんともわけの判らぬこと。

「二十間」三十六メートル強。

「田のま」「田の間」。

「くろ」「畔」。畦(あぜ)。

「藤くらの草履」「藤倉草履(ふぢくらざうり)」のこと。草履(ぞうり)の一種で、表を藺(い)で編み、白・茶などの木綿の鼻緒を附けたもの。単に「ふじくら」とも呼んだ。

「吾が輩何をか見ることの外にあらん」吾らが何を見ていたかは、お武家さま、以外に誰を外に見ようはずが御座いましょうや。

「雁瘡(がんかさ)」慢性湿疹或いは痒疹(ようしん)の一種。非常に痒(かゆ)く、難治性。かつては、秋、雁の来る頃から発症し始め、去る春頃には治ったことから、かく称した。

「田の内に入(いり)て、蛭(ひる)に血をすわする」既注であるが再掲しておくと、本邦の淡水棲息する成体で、ヒトから吸血するヒルは、ヒルド科 Hirudidae ヒルド属チスイビル Hirudo nipponica である。

「一圓(いちゑん)に」副詞。ここは武士の行動「総体について」の意ではなく、集まった人々「総てが皆」の謂いであろう。]

2018/09/08

原民喜 望鄕 (オリジナル詳細注附)

 

[やぶちゃん注:昭和一八(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。

 なお、第二段落にある伏字『□□□□』は底本のママである。初出誌を見ることが出来ないが(『三田文学』は原本画像が限定公開されているが、大学・研究機関に所属する者にのみに閲覧許可が下りる甚だ差別的で不当な設定である。日本の文学研究のレベルの低さがよく判る)、無論、同じであろうと思われる。当然、筆者自身による伏字と考えられる。

 また、この伏字の主である主人公の「叔父」であるが、太平洋戦争は既に昭和一六(一九四一)年十二月八日未明(日本時間)に開始されており、その当時、この主人公の叔父はアメリカ合衆国(或いはカナダ)の在留邦人であったと考えられる。「神戸大学経済経営研究所」の「新聞記事文庫」の『大阪毎日新聞』の昭和一八(一九四三)年四月十八日附(本篇が発表される前月)の「米加在留邦人状況 外務省事務室の調査報告」によれば、『現在敵国に在留する邦人総数は約五十七万に達し、そのうち抑留されているもの一万三百、集団移住生活者は十三万らに上っている、米国およびカナダの邦人に関してはこのほど詳細な調査が出来たので十七日同事務室から別表の』如き『報告が発表された』とあって、詳細な数値が示されてある。されば、この太平洋戦争での本邦の敵国となっていたアメリカでの邦人抑留者の中に「叔父」は入っていたという意味であることが判る。

 さらに言い添えておくと、原民喜の父信吉は広島市幟町で陸海軍用達の原商店を経営しており、彼の五男であった民喜の上には、三男の信嗣(後に家を継いでいる)と四男の守夫の二人の兄がいた(守夫とは中学時代に同人誌を作るほど馬が合った。長男と次男は夭折)。この事実は、本篇で入れ子構造になっている作品内小説(断片)の人物設定と非常に強い親和性(モデル性)を感じさせる。さすれば、この叔父も実在し、原商店で働いた事実があり、その後、アメリカに渡り、この時、アメリカで抑留されていたのかも知れない。父方か母方は不詳だが、全体を通して読むと、兄の一家と若い時には一緒にいたこと、主人公の姉の死に激しい悲痛を感じていることなどから推すと、主人公の父の弟であるように私には思われる。

 当初、以上以外にも簡単な読解に不可欠な必要最小限の注を附すつもりであったが、考証を重ねるうちに量が増えてしまい、しかも本文の細かな内容に触れる(ネタバレを含む)ことにもなったため、最後に別に注を附すこととした。

 一箇所だけ先に注しておくと、太字で示した「きつぼ」は底本では傍点「ヽ」なのであるが」、これは「きっぽ」で、「傷跡」、則ち、「傷口が盛り上がって跡が残った状態」を指す広島弁である。

 なお、二度目の有意な作品内小説の引用(⦅ ⦆で囲まれてある)の後は、底本では改ページとなっており、一ページ行数を数えると、行空けは施されていないことが判る。しかし、第一回目の引用の後は、同じように底本で改ページでありながら、行数を数えると、間違いなく一行空けが施されてある。一番良いのは、初出誌を確認することであるが、前に述べた通りで、私にはそれが出来ない。そこで――取り敢えず――先例に徴して――一行空けを施した。しかし、これは本篇の中に現われる〈ある現象〉との関連性が疑われ、或いは、原稿でも初出でも行空けは施されていないのかも知れない。これについては最後の最後に別に注することとした。]

 

 望鄕

 

 靜かな朝であつた。春はまだ淺く、日曜日の朝であつた。――それを彼は部屋に坐つてひとり意識してゐた。ずつと、むかうの方に、しかし、ただならぬものがある。そこにも、朝の光は降りそそぐであらうか。もの音はきこえるであらうか。その老いたる胸にはどんな感慨がたぎつことだらうか。

 ――叔父の面影を描かうにも、あまりに隔たるものが重なつてゐた。しかし、たしかに叔父は敵國の收容所で、身に降りかかるものを峻拒するが如く、毅然とした姿でゐる。さうして、大きな運命に身を委ね、自らの胸に暗淚を抑へてゐるにちがひない。不思議と彼には叔父の感情が解るやうな氣がした。さつき、何氣なく朝刊の抑留邦人の氏名を見てゐると□□□□といふ活字が彼の目に大きく觸れた。やはり、さうであつたのか、と彼は感慨にゆらぐ心を、じつと視凝めるのであつた。

 それにしても、叔父は今、幾歳になつたのだらうか……と彼は自分の齡をまづ顧みねばならなかつた。彼自身も今はもう若いといふ齡ではなかつた。……ずつと前から、彼は幼年時代の記憶をもとにして、短篇を書いてゐた。明治末の鄕里の景色をくどいまでに描寫することに、何か不思議な情熱を覺えるのであつたが、容易に筆ははかどらず、まだ一册の本にもならなかつた。しかし、少し前までは、彼はその本が出來上つたなら、一册はアメリカの叔父に送るつもりでゐた。二度ほど歸國したことのある叔父は、その度に鄕里の街を貪るやうに步き𢌞つてゐた。叔父なら、――ごたごたした過去の描寫も喜んでくれさうに思へた。

 

⦅簿記の棒を弄つてゐた叔父が、突然、机の上の戸棚へ意氣込んで掌を觸れた。秋夫はその動作を待ち兼ねてゐたのだ。しかし叔父は今ランプを引寄せると、ゆつくり戸棚の中を搜してゐる。叔父はなかなか見つけ出さないので、秋夫は少し心配になる。「あ、さうだつた」叔父は腰掛から立上つて、机の橫の抽匣を開いた。「ほら、どうだ」と、叔父は一枚の大きな紙を秋夫の前に突附けた。すると、秋夫の眼はそれに吸ひ着けられたまま動かない。そこには、赤・黃・紫・綠・何十種類の切手が縱に橫に斜に重なり合つて犇いてゐるのだ。秋夫はわくわくして眺め入つた。

「皆に見せてやらう」と、叔父は秋夫の手から紙片を取上げて、應接間の方へ行く。そこには大きな火鉢を圍んで、父や姉や兄や店員達の顏があつた。今、皆の目は一勢にその紙に集中されてゐる。――秋夫は叔父が前から舊い手紙の封筒に貼られた切手を鋏で捩取つて蒐めてゐるのを知つてゐた。消印のところは巧く重ね合せて隱し、大きな紙に貼り附けてみるのだと叔父は云つた。秋夫はそれが出來上る日を待ちつづけた。そして、今、立派に出來上つたそれは、てつきり自分が貰へるものだと思ひ込んでゐた。しかし、叔父は人に見せびらかすばかりで一向に呉れさうな氣配がない。「呉れよ」と兄の春彦は叔父の方へ手を伸した。「呉れよ」と秋夫も叔父に迫つた。ところが叔父はそれを高々と頭の上に翳して、片手を振つた。「ただではやれない、五拾錢、五拾錢でなら讓らう」秋夫は茫然として、叔父の姿を見上げた。すると、彼の側にゐた店員が蟇口を開けて、銀貨を一枚取出した⦆。

 

 彼の未完結の作品の一節にこんなところがある。彼は五拾錢銀貨を摘み出した店員が誰であつたかも、その紙片を貰へたものであつたかも、そのあたりの記憶はぼやけてゐるのであつたが、ただ、叔父の意氣込んで、子供をからかふ時の姿がはつきり浮ぶのだつた。

 叔父が父の店へ手傳に來るやうになつたのは、一年志願の兵役を濟してからであつたが、秋夫の記憶にも、軍服を着た叔父が、庭の飛石傳ひに、緣側の方へやつて來る姿が仄かに殘つてゐる。幼い彼は緣側で叔父にきつく抱き上げられたやうな氣がする。さういふ時も、叔父は何か意氣込んで、子供の氣持を高く引上げようとするやうだつた。

 しかし、それ以前の叔父の姿となると、古い寫眞の記憶と母からきいた話によるほかはない。商業學校の卒業紀念に撮つたらしいその寫眞は、細面のすつきりした靑年の姿であるが、右の頤のところに小さな絆創膏が貼つてある。叔父は頤のところにきつぽがあるのを氣にして、いつも絆創膏を粘つてゐたといふ。そんなお洒落ではあつたが、あんまり色が白いため學校で揶揄されるのを口惜しがつて、何時も物乾臺に登つて、天日で皮膚を焦がさうとした。母はよくこんな話を繰返した。彼はかすかにカオールの匂ひを思ひ出した。若い日の叔父が常に愛用してゐた藥である。

 

⦅その日――秋夫は兄の春彦と一緖に叔父と戲れてゐた。叔父は白いシヤツをまくり上げて、拳固を振𢌞したり、草履で廊下を踏み鳴して、二人を追拂つた。逃げては進み、逃げては進みしてゐるうちに、秋夫も春彦ももう無我夢中であつた。

「惡い子供だな」と、ふと思ひがけぬところから叔父の尖つた聲がした。稻妻のやうに物尺が閃いて來た。わあ! と二人は緣側を轉ぶやうにして逃げて行つた。避難所まで來ると、秋夫は息が切れて、へとへとであつた。背後にはまだ眞赤な興奮があつて、暫く秋夫と春彦は棕櫚の葉蔭に弄つてゐた。「ようし、あれを歌つてやらう」兄の春彦が棕櫚の葉を弄りながら云つた。「いいか、靜かに、そろつと、知らない顏して行くのだぞ」

 暫くして二人はそろそろ店の方へ引返した。見ると、叔父はもういつもの顏附で椅子に腰掛けてゐた。二人は默つて、叔父の近くまで進んだ。それから春彦が合圖した。忽ち二人は琵琶を彈く手眞似で聲をはりあげて歌つた。

  屋島と北里 どちらがお好き ビ ビン ビン ビン ビン

 叔父はものをも云はず椅子から立上つた。柱にかけてある帶に叔父の手が觸れた瞬間、ガチヤリと異樣な音響がした。次いて硝子の破片がベリベリと崩れ落ちた。箒は商品棚の硝子戸に大穴を穿つてゐた。もの音を聞いて、父がやつて來た。叔父は奮然と無言のまま立つてゐる。

「一體どうしたのだね」父は訊ねた。

「どうしたと云つたつて、あんまり子供が腹立てさすから……」と、叔父の聲はひきつつてゐる。

「子供を相手にそれはあんまり亂暴ぢやないか」

 父は靜かにたしなめた。突然、叔父はワーツと大聲で泣き出した。秋夫は大人がこんなに號泣するところをまだ見たことがなかつた。その泣聲は何ものかと抗爭するやうにひしひしと續いて行つた。

「出て行きます、出て行きます、これを機會に僕はどうしてもアメリカへ行くのです」

 叔父は兩掌で顏を押へながら、頭を持上げては、また泣いた。⦆

 

 このことがあつてからすぐ、叔父の姿は店から見えなくなつた。コナゴナに碎かれたガラスはやがて新しいのが張りかへられた。店の前の往來を人が行交ふ夕暮、西の空に雲が其赤に燃えてゐた。秋夫はアメリカといふ方向も知らなかつたし、叔父がどうなつたかも知らなかつた。彼が小學校へ入つた頃、叔父はアメリカにゐるといふことを母から聞かされた。

 秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)五月の日曜日の朝彼が緣側に腰かけてゐると、ステツキを小脇に抱へた叔父の姿が庭の方から現れた。叔父は緣側のところに立つて家のうちを眺めてゐたが、靴を脱ぐと同時に、「春彦はゐないか、春彦は」と、つかつか奧の方へ上つて行つた。「何、二階? 二階にゐるのか」ともう叔父は忙しさうに階段の方へ𢌞つた。恰度、聲をきいて兄は階段から降りて來るところであつた。兄と叔父とは階段のところで出逢つた。と思ふと、叔父は兄の手を摑んだ。「やあ、春彦だな、春彦だな、憶えてるか、憶えてゐるか」中學四年の兄が羞みながら頷くと、「さうか。憶えてるかなあ」と叔父は懷しさうに兄の手を搖するのであつた。それからまた忙しさうに裏庭の方へ叔父は𢌞つた。そこには虞美人草や罌粟が一めんに咲いてゐた。「うん、變つてゐないな」と、叔父は滿足さうにあたりを眺めた。しかし、一年あまり前に父はもう死んでゐたし、家のうちも氣持も秋夫にはもう變つてゐたやうだつた。

 秋夫は叔父が兄を把へて、「憶えてるか、憶えてるか」と訊ねた時、幼い日の出來事がすぐに思ひ出された。あの日どうして、叔父はあんなに怒つたのか、叔父を怒らした⦅屋島と北里……⦆といふ歌の意味もその頃は分つてゐなかつたのだつた。そこで、――ずつと後のことであるが――彼ほ兄にその歌の由來を訊ねてみた。意外にも、兄はあの歌は大きな姉が作つて子供達に歌はせてゐたのだと云ふ。琵琶を彈く手眞似は、當時流行の筑前琵琶を叔父が習つてゐたためらしい。そのうち、屋島と云ふ姓がふと彼の記憶の底から思ひ出された。小學六年の時、學藝會に出て以來有名になつた女の子に屋島といふのがある。その屋島といふ家が、嘗て叔父の住んでゐた家と同じ町内にあることを知つたのは、秋夫が父の葬儀の囘禮に𢌞つた折のことであつた。彼は何となしに、その女の子に美しい姉があつて、若い日の叔父の胸中に存在してゐたやうに勝手な想像をするのであつた。

 半年あまり滯在の後、叔父は新妻を伴つて再び渡米した。毛皮の上に並んで立つた叔父とその花嫁の寫眞が暫く皆の目にはもの珍しがられた。叔父の二度目の歸朝は亡妻の遺骨を持つて、その時から九年後のことになる。

 

 ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである。アメリカから悔狀が來てゐるので返事を書いてくれと彼は母から賴まれた。その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた。彼は何氣なく母の依賴に應じたが、その上質の紙に深く喰ひ込むやうな勢で書込まれてゐる字句を讀んで行くうちに、彼ははたと困惑を感じた。

 それは通り一遍の悔狀ではなかつた。嫁いでから死ぬる迄あまり惠まれなかつた姉への追憶と哀悼に滿ち、同時に人生の激浪を乘切らうとする者の激しい感慨の籠つた、あまりにもさまざまの心情を吐露した告白のやうなものであつた。さうして、最後に自作の短歌が一首添へてあつた。

 

 叔父が二度目に歸鄕したのは、その手紙から二三年後のことで、妻の骨を納めるためにはるばる歸つて來たのだつた。妻を喪つて叔父は、しかし、相變らずキビキビした動作で、快活さうに見えた。小さな子供をとらへては、 Bad boy! と呼び、口笛を吹いて、大股で步き𢌞つた。男盛りの、仕事もどうやら快調とある、明るい精力に溢れた顏であつた。それにひきかへて秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた。

 叔父は再婚の話も肯かず、渡米を急いだ。最後に家に暇乞に來た時、叔父はわざわざ二階の方にゐる秋夫のところへもやつて來た。

「やあ、それではこれで當分お別れだが」さう云つて、叔父は彼に握手を求めた。

「君の氣持もよく僕には分るし、君には同情してゐるのだよ、いいかい」

 はじめ叔父が何のことを云つてゐるのかよく解らなかつたが、秋夫は默つて頷いた。

「いいかい、しかしだね、とにかく勉强し給へ、何でもかんでも頑張らなきやいかん」さう云つて叔父は頻りに彼を激勵するのであつた。

 

 アメリカに渡つた叔父は間もなく、秋夫のところに時折雜誌を送つてくれた。MJBのコーヒーやサンメイドの乾葡萄も家の方へ送られてゐた。

 しかし、それから程なく、彼は母から叔父の身の上に生じた大きな災難を聞かされた。歸朝の間留守にされてゐた商舖は叔父の友人に依つて經營されてゐたが、その男は叔父の名義を利用していろんな無謀を企て、これが發覺して遂に起訴されたといふのである。叔父を知るほどの人はみんな同情しても、責任上、刑務所へ入らねばならなくなるだらうといふことであつた。それから後は叔父の消息も殆ど彼の耳にははいらなかつた。彼は叔父が相變らず人生の激浪と鬪つてゐるもののやうに想像してゐた。

 

 彼は叔父のことを書いてみようと思ひながら、それもまだ果さなかつた。叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた。ところが、母の七囘忌でこんど歸鄕してみると、こゝで彼は叔父に關する耳よりなことをきかされた。一人の叔母が親戚の家々を𢌞つては、「定次郞はもう近いうちに歸つて來ます」と頻りに力説してゐるのである。狂信家の叔母は何の靈感に打たれたものか、「あれが歸つて來たら、住宅にも困るから今のうち早く何とか借家をみつけてやらなきやいけません」と、急き立てる。叔父はまだ杳として何の消息もないのに、この叔母は骨肉との再會をまぢかに信じて疑はないのであつた。

 

[やぶちゃん注:・「峻拒」(しゆんきよ(しゅんきょ))は「きっぱりと拒むこと・厳しい態度で断ること」の意。

・「暗淚」(あんるい)は「人知れず流す涙」のこと。

・「簿記の棒」「簿記棒」「丸定規」或いは「ルーラー(Ruler)」と呼ぶ、記帳の際に罫線を引くのに用いた円筒形の特殊な棒。「一橋大学附属図書館」公式サイト内の特別展「明治初期簿記導入史と商法講習所」にある「簿記棒」(写真有り)によれば、使用し易い標準的なものは、直径一センチメートル、長さ十五センチメートルで、材質は樫(カシ)等のような『木質堅靱にして密に』、『且つ』、『反りの生ぜざるを良しと』し、その『使用上』より『重きを可とするが故に』、『材料も成るべく重きものを撰ぶと同時に』、『木材の中心に鉛を入れ』、『目方を付するが如き手段をとることあり』とある。私自身、このページで初めて現物を見た。

・「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

・「抽匣」「ひきだし」。

・「カオール」現在も東京都江東区毛利に本社を置く化粧品・医薬部外品の製造・販売を行っている「オリヂナル」株式会社が、明治三二(一八九九)年に発売を開始した口中香錠の商品名(現在も販売されている)。これは知られた「森下仁丹」の「仁丹」が発売される六年ほど前の発売である。

・「避難所」比喩。普段、何かがあった時に決まって兄治彦と弟秋夫が逃げる場所の意であろう。

・「屋島と北里」「平家物語」の「屋島の戦い」の地名に、叔父の知っていたその「屋島」という女性を掛けたもので、「北里」もやはり叔父のそうした知人女性の姓であるぐらいの推理しか私には働かぬ。「北里」という固有名詞は私の知る限りでは、「平家物語」には出ないように思う。

・「秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)」「中學四年の兄」「一年あまり前に父はもう死んでゐた」第一次世界大戦が終わったのは大正七(一九一八)年十一月十一日で、この翌年である大正八年、原民喜(明治三八(一九〇五)年生)は満十四歳で、事実、この年の四月に広島高等師範学校付属中学校に入学しているから一致する。冒頭の注で示した彼の兄の三男信嗣(明治三二(一八九九)年生)は当時二十、四男守夫(明治三五(一九〇二)生)は十七で中学四年で、これによって作品内小説の「治彦」が確かにこの守夫をモデルしていることが確定される。彼らの父信吉は実際には大正六(一九一七)年二月に胃癌のために逝去しているから、一年のズレはあるけれども、ほぼ事実に即していることが明確に見てとれるのである。

・「筑前琵琶」盲目の琵琶法師の系譜をルーツとする語りものの一ジャンル。参照したウィキの「筑前琵琶」によれば、『日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。筑前琵琶は、それに対し、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立したものであり』、『近代琵琶楽の第一号にあたる』。『近代琵琶楽としての筑前琵琶の成立にあたっては、福岡藩藩士の娘であった吉田竹子の活躍が大きい。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している』。『筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風が全体的におだやかであり、楽器、撥ともやや小ぶりである。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べて軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。薩摩琵琶では歌(語り)と楽器は交互に奏されるが、筑前琵琶の音楽には三味線音楽の要素が取り入れられており、歌いながら琵琶の伴奏を入れる部分がある。著名な曲としては「湖水渡」「道灌」「義士の本懐」「敦盛」「本能寺」「石堂丸」などがある。筑前琵琶の種類は四絃と、四絃より音域をより豊かにする為に初代橘旭翁とその実子である橘旭宗一世によって考案された五絃があり、五絃の方が全体にやや大きい。撥も五絃用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。この他、高音用の「小絃」、低音用の「大絃」も作られたが、一般的に普及はしていない』。『筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)(本名:橘智定(たちばなちてい)が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出された。琵琶奏者の鶴崎賢定(つるさきけんじょう)や吉田竹子がこの新しい琵琶音楽を広めるのに一役買った』。明治二九(一八九六)年、『橘旭翁は東京へ進出し』、『演奏活動を開始して注目を浴びた。そして雅号として「旭翁」と号し、筑前琵琶 橘流を創始、明治天皇の前で御前演奏をするなど急速に全国に広まったり、人気を評した。橘流は創始者である初代橘旭翁の没後、「橘会」と「旭会」の』二『派に分かれて現在に至っている。また吉田竹子の門下から高峰筑風(高峰三枝子の父)が出て一世を風靡したが、後継者がなく』、『その芸風は途絶えた』。『筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。旧福岡市内には多い時で』五十『人もの琵琶の師匠がいたといわれる』。『また、一時期は花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという』とある。

・「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」原民喜は大正一三(一九二四)年四月に慶応義塾大学文学部予科に入学している。「その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた」とあるが、民喜の長姉操は明治二四(一八九一)年生まれで、この大正十三年に亡くなっており、ここでも事実と一致していることが判る

・「悔狀」「くやみじやう(くやみじょう)」。

・「肯かず」「きかず」。うけがわず。承知せず。

・「秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた」前の「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」を民喜の長姉操の逝去の翌年、大正一四(一九二五)年ととると、「二三年後」というのは昭和四(一九二九)年か五年となり、民喜は慶應義塾大学英文科一、二年となり、当時の民喜は「日本赤色救援会」に参加し、昭和五年十二月下旬頃には、広島地区救援オルグとなったりしている(昭和六年には組織の衰弱と崩壊につれて活動から離れた。ここは底本全集の第Ⅲ巻の年譜に拠った)。

・「MJBのコーヒー」現在も続く、一八八一年創業のアメリカ合衆国のコーヒー・ブランド会社。公式サイト日本語)歴史をリンクさせておく。

・「サンメイドの乾葡萄」Sun-Maid は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト日本語)沿革をリンクさせておく。

・「母の七囘忌」原民喜の母ムメは明治七(一八七四)年生まれで、明治二三(一八九〇)年に信吉と結婚、昭和十一年九月に尿毒症で亡くなっている。その七回忌であるから昭和一七(一九四二)年九月となる。本作の発表(昭和一八(一九四二)年五月)の八ヶ月前となる。冒頭注に出した在米邦人抑留の記事は昭和十八年四月のものであるが、彼らはそれ以前から抑留されていたわけであり、昭和十七年春ぐらいに邦人抑留の新聞報道があってもなんらおかしくなく、「叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた」というのも特におかしいとは思われない。

[やぶちゃん最終注:最後まで読まれた方は判ると思うが、本篇に作中内小説の主人公として出る「秋夫」というのは、言わずもがな、本篇を執筆している主人公がモデルなのであるのだが、二度目の作中内小説の引用が終わった後の個所以降の本篇の後半では、この区別は実は作品の本文と融解して一体化してしまっているのである。しかし、それは殆んど違和感を感じさせないと言ってよい。私はこれは原民喜の確信犯の仕儀なのだと思う私が冒頭注の最後でたかが行空けの有無を意味深長に記したのは、その確信犯を匂わせるために、民喜はわざと行空けをしなかったのかも知れないという思いがあるからでなのであった。今のところ、『三田文学』の画像を見ることの出来る雲上のアカデミストの研究者にしか、その真相は⦅藪の中⦆ということになる。何方か、ご確認あられたい。そうして、こっそり私に教えて呉れると有り難い。その時は行空けがないことだけをここに追加補注して、私は私の⦅在野の一分(いちぶん)⦆に於いて、電子テクストはこのままとする積りである。

 ともかくも――上手いぜ、民喜!――]

原民喜 淡章 《恣意的正字化版》

  

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データと、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までのカテゴリ「原民喜のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。なお、私が既に同カテゴリで電子化した、初出誌未詳の、昭和四一(一九六六)年芳賀書店版全集第二巻に所収された「淡章」群岐阜以下の九篇。私のブログでは分割掲載した)とは同名異作であるので注意されたい。

 簡単に語注を附しておく。

 「榎」の主人公「千子」は個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。

 「藏」の「躊躇ふ」は「ためらふ」。「猿の腰掛」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae の漢方薬や民間薬とし用いられるそれ。

 「五位鷺」の「擘く」は「つんざく」。「對つて」は「むかつて」。

 「五月幟」の「罌粟」は「けし」。本邦では通常は双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum を指す。「窄んで」は「つぼんで」或いは「すぼんで」。私は後者で読むが孰れでも。]

 

 

  

 

 誰だかよく解らないが、女學校の友達と一緖に千子は日の暮れかかつた海岸を步いてゐた。海水浴の疲れが路の上にまで落ちてゐるやうな時刻で、うつとりと頭は惱しくなるのだつた。路は侘しい田舍の眺めを連らね、それも刻々、薄闇に沒して行くのだつた。ふと、千子は甘く啜泣くやうに呼吸をした。すると、幼い頃のやはり、かうした時刻の一つの切ない感覺が憶ひ出されるやうだつた。

 見ると、路の曲り角に大きな榎が聳えてゐた。根元の方はもう薄暗くぼやけてゐたが、くねくねと枝葉を連らねた榎の方にはまだ不思議に美しい色彩が漾つてゐた。たしか、あの邊には藁屋根の駄菓子を賣る店が、ずつと昔からあつたやうに想へた。

 やがて、千子がその榎の側まで來た時である。足は自然に立留まつた。榎の根元には、大きな、黑い、毛の房房した動物が繫いであつた。千子はその何とも知れない動物に氣づいた時から、怖さはずんずん增して行つたが、動物の方では尊大に蹲つた儘、人の恐れを弄んでゐるやうであつた。怖さはもうどうにもならなくなつた。千子はとり縋るやうに友達の方を顧みた。

 ところが、伴侶の顏は吃と變つてゐた。突然、懷中電燈を點したかと思ふと、友達はすつすつと走りだした。懷中電燈の明りだけが向ふの闇にすつすつと走つて行く。そしてそれは眞直くこちらへ迫つて來るやうであつた。千子はパタパタひとりで逃げ惑つた。路は眞暗でどこをどう逃げてゐるのかわからなくなつた。そのうちに千子の足が叢に引懸ると、路傍に斃れてゐた死人の手がぐいとその足を摑んでしまつた。

 

  土藏

 

 夏の日盛りの庭を過ぎて、突當りに土藏がある。つゆは吸ひ込まれるやうに土藏の中に這入つて行くと、蹠に冷たい草履を穿いて急な階段を昇つて行つた。眼の霞むやうになつてからは、心の呆ける時が多かつたが、――慣れた階段を昇りつめると、手探りで窓を開いた。すると、飛込んで來る風が、梁に吊された燈籠の房をさらさらと搖るがし、小さな窓からは油照りの甍に夾竹桃の紅がはかなく見えた。

 つゆは錆びた鐵の引手の附いた簞笥の前に行つて、暫く蹲つてゐた。微かに睡氣をそそるやうな空氣の中に蹲つてゐると汗が襟首にじっとり滲んだが、つゆは何を探しにここにやつて來たのかもう忘れてゐた。それは針のめどを求めて躊躇ふ糸のさきに心がとろけて行くやうに快い瞬間でもあつた。

 いつの間にか、つゆは簞笥の上にある黑塗の函を抱へ降すと、その中に一杯詰つてゐる寫眞を取出してゐた。つゆは一枚一枚眼の近くへ寫眞を持上げて眺めた。だが、その繪は弱い視力のやうにひどく色褪せてゐた。ただ、乾燥した挨の淡い匂ひがつゆを闇の手探りへ導いて行くやうであつた。

 つゆは立上つて、薄闇の中をもう一つの窓の方へそろそろと步いて行つた。大きな長持の上にアイスクリームを造る道具があつた。嘗てつゆの亡夫が都會から求めたものである。白木の棚の上には、亡夫が愛用してゐた小道具の類が朧な闇に並べてあつた。鶴の恰好をした瓢簞、蜂の彫刻のある煙草入れ、籠の中にとり蒐められた猿の腰掛、――つゆはその側を通りながら、それらの存在を疼くやうに感じた。

 漸く、小窓の壁につゆの手は屆いてゐた。鐵の引手を把んで、つゆは重みのある窓をぐいとこちらへ引いた。すると、淸々しい朝の光線とともに、三十年前の異樣な光景が轟々と展開された。今、向うの靑空の下に白い大きな土藏が――これははじめてこの土藏が出來た時のことだつた――萬力の力によつて、見る見る方向を變へて行くのであつた。つゆは茫然として、足許がぐるぐる囘轉して行くやうであつた。

 

  五位鷺

 

 雄二はキヤツと叫ぶと、その聲が自分の耳まで擘くやうに想へた。その聲が五位鷺に似てゐるのだつた。キヤツと叫ぶ時、咽喉の奧から何か飛出すやうだ。そして、時々、どう云ふ譯か突然叫びたくなるのだつた。

 五位鷺は、晝間でもそつと池に降りて來て、鯉を攫つた。人の姿を見た時にはもう水の靑ばかりが殘されてゐるのだつた。

 父はランプの下で、謠を復習つた。その聲を聞いてゐると、雄二はとろとろと睡むたくなり、妖しく瞬く火影のむかうに不圖もの凄い翳を感じた。さう云ふ時、屋根の上を五位鷺は叫んで通つた。

 父は池に網を張つて、五位鷺を獲る工夫をした。ふと、雄二は父が五位鷺ではないかとおもつた。鞍馬天狗の話を聞くと、その天狗も父ではないかとおもへた。月の冴えた夜の庭から雄二がなにものかに攫はれてゆく夢をみたのはその頃のことだ。

 

 三十年後のことである。ある宵、彼は窓の向うに出た月を見てゐた。松の枝に懸つて、細く白い橫雲の下に、晚秋の月は冴えるとも冴え亙つてゐた。見てゐるうちに、彼はただならぬ興奮を覺えた。松も雲も空も叫んでゐるのだ。彼のゐる陋屋も今は消え失せたやうで、遠く深山のせせらぎの音が聞えた。攫つてゆけ、攫つてゆけ、と彼は月に對つて叫んだ。

 その夜、彼は寢床のなかで、ふと目が覺めた。ひとり耳を澄してゐると、たしかに五位鷺の渡る聲がした。

 

  五月幟

 

 どこかで、娯しさうな子供がひとり進んでゐた。罌粟の花が咲いて、屋根の瓦の上には晝前の靑空が覗いてゐる。靑空は背伸びして、その子供を見つけようとする。すると、子供の方はそつと隱れるので、罌粟の花が笑ひ出す。子供は跳ねだして、罌粟の花を搖すぶる。子供は風だ、微風であつた。

 しかし、もう一人の子供は夜具の中で、ぼんやりと眸を開いてゐた。その眼は生れてからまだ一度も笑つたことのない眼であつた。眼ばかりではない、顏も手足も日蔭の植物のやうに靑白く、寢かされてばかりゐるので、頭は扁平になり、首筋はだらりと枕に沈んでゐた。誰かが彼の名前を呼ぶと、虛ろな表情の儘、微かに「うん」と答へる。それが生れて以來今日までの彼の唯一の言葉であつた。

「松ちやん、松ちやん、松ちやん」

 母親はよく松雄の返事を求めて夢中であつた。しかし、この二三日、松雄は母親の呼聲にも應へなかつた。そして、いつの間にか額に幼い皺が刻まれてゐた。

 

 もう一人の子供は跳ね𢌞つた揚句、ふと、いいものを見つけた。見上げると高い竿の上に大きな鯉幟がさがつてゐた。鯉幟は今、だらりと窄んでゐるのであつた。「よし」と、子供は跳ね上つた。すると、鯉幟はふわりと脹んでゆき、ゆるゆると空を泳いだ。「泳げ、泳げ」と子供は夢中で叫んだ。

 幟の鯉はぐるぐる𢌞つて、松雄の家の高窓の方へ姿を現した。松雄のうつろな眼に、大きな異樣なもの影が映ったのはその時である。彼はかすかに脅えたやうに、そして、かすかに誰かに應へるやうに、「うん」と靜かな聲を洩した。

 

原民喜 もぐらとコスモス / 誕生日

 

[やぶちゃん注:二篇ともに、原民喜自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分)の二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』初出の、原民喜の遺稿童話である。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」を用いた。

 本二篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 

 もぐらとコスモス

 

 コスモスの花が咲き乱れてゐました。赤、白、深紅、自、赤、桃色……花は明るい光に揺らいで、にぎやかに歌でも歌つてゐるやうです。

 暗い土の底で、もぐらの子供がもぐらのお母さんに今こんなことを話してゐました。

「僕、土の上へ出て見たいなあ、ちよつと出てみてはいけないかしら」

「駄目、私たちのからだは太陽の光を見たら一ぺんに駄目になつてしまひます。私たちの眼は生れつき細く弱くできてゐるのです」

「でも、この暗い土の底では、何にも面白いことなんかないもの。それなのに、ほら、このコスモスの白い細い根つこが、何かしきりに近頃たのしさうにしてゐるのは、きつと何か上の方で、それはすばらしいことがあるのだらうと僕思ふのだがなあ」

「あ、あれですか、コスモスに花が咲いたのですよ。夜になるまでお待ちなさい。今夜は月夜です。夜になつたら、お母さんも一寸上の方まで行つてみます。その時、ちよつと覗いてみたらいいでせう」

 もぐらの子供は、夜がくるのをたのしみに待つてゐました。

「お母さん、もう夜でせう」

「まだ、お月さんが山の端に出たばかりです。あれがもつとこの庭の真上に見えてくるまでお待ちなさい」

 しばらくして、お母さんは、もぐらの子供にかう云ひました。

「さあ、私の後にそつとついて、そつと静かについてくるのですよ」

 もぐらの子供はお母さんの後について行きましたが、何だか胸がワクワクするやうでした。

「そら、ここが土の上」

 と、お母さんは囁きました。

 赤、白、深紅、白、赤、桃色……コスモスの花は月の光にはつきりと浮いて見えます。

「わあ」

 もぐらの子供はびつくりしてしまひました。

「綺麗だなあ、綺麗だなあ」

 もぐらの子供は、はじめて見る地上の眺めに、うつとりしてゐました。

 すると、コスモスの花の下を、何か白いものが音もなく、ぴよんと跳ねました。これは月の光に浮かれて、兎小屋から抜け出して、庭さきを飛び廻つてゐる白兎でした。

「あ、また兎が庭の方へ出てしまつたよ」

 と、このとき誰か人間の声がしました。それから足音がこちらに近づいて来ました。すると、もぐらのお母さんは子供を引張つて、ずんずん下の方へ引込んで行きました。

「綺麗だつたなあ。いつでも土の上はあんなに綺麗なのかしら」

 もぐらの子供は土の底で、お母さんにたづねました。

「お月夜だから、あんなに綺麗だつたのですよ」

 お母さんは静かに微笑つてゐました。

 

 

 

 誕生日

 

 雄二の誕生日が近づいて来ました。学校では、恰度その日、遠足があることになつてゐました。いい、お天気だといいがな、と雄二は一週間も前から、その日のことが心配でした。といふのが、この頃、毎日あんまりいいお天気はかりつづいてゐたからです。このまま、ずつとお天気がつづくかしら、と思つて雄二は、校庭の隅のポプラの樹の方を眺めました。青い空に黄金色の葉はくつきりと浮いてゐて、そのポプラの枝の隙間には、澄みきつたものがあります。その隙間からは、遠い遠かなところまで見えて来さうな気がするのでした。

 雄二は自分が産れた日は、どんな、お天気だつたのかしら、としきりに考へてみました。やつぱり、その頃、庭には楓の樹が紅らんでゐて、屋根の上では雀がチチチと啼いてゐたのかしら、さうすると、雀はその時、雄二が産れたことをちやんと知つてゐてくれたやうな気がします。

 雄二は誕生日の前の日に、床屋に行きました。鏡の前には、鉢植の白菊の花が置いてありました。それを見ると、雄二はハッツとしました。何か遠い澄みわたつたものが見えてくるやうでした。

「いい、お天気がつづきますね」

「明日もきつと、お天気でせう」

 大人たちが、こんなことを話合つてゐました。雄二はみんなが、明日のお天気を祈つてゐてくれるやうにおもへたのです。

 いよいよ、遠足の日がやつて来ました。眼がさめると、いい、お天気の朝でした。姉さんは誕生のお祝ひに、紙に包んだ小さなものを雄二に呉れました。あけてみると、チリンチリンといい響のする、小さな鈴でした。雄二はそれを服のポケツトに入れたまま、学校の遠足に出かけて行きました。

 小さな鈴は歩くたびに、雄二のポケツトのなかで、微かな響をたててゐました。遠足の列は街を通り抜け、白い田舎路を歩いて行きました。綺麗な小川や山が見えて来ました。そして、どこまで行つても、青い美しい空がつづいてゐました。

「ほんとに、けふはいい、お天気だなあ」

と、先生も感心したやうに空を見上げて云ひました。雄二たちは小川のほとりで弁当を食べました。雄二が腰を下した切株の側に、ふと一枚の紅葉の葉が空から舞つて降りてきました。雄二はそれを拾ひとると、ポケツトに収めておきました。

 遠足がをはつて、みんなと別れて、ひとり家の方へ戻つて来ると、ポケツトのなかの鈴が急にはつきり聞えるのでした。雄二はその晩、日記帳の間へ、遠足で拾つた美しい紅葉の葉をそつと挿んでおきました。



 

2018/09/07

反古のうらがき 卷之二 賊

 

   ○賊

 何某といへる劍術師、浪人して、さる方【井上左太夫なり。】に客となりて養はれありける。

 其主人、三月三日、花の宴を催し、客多く來りて夜をふかしけるが、扨、人々は家に歸り、家人は前後もしらで醉(ゑひ)ふしける。

 何某は酒多くも飮(のま)ざりければ、先に座を退(しりぞ[やぶちゃん注:底本には「しぞ」と振るが、従わない。])きて、おのがふしに入(いり)て、いまだ寢(ね)もやらずありけるに、庭のほとりにて足音のするよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に覺ゆるにぞ、やをらおき上りてうかゞふに、まさしく人音(ひとおと)なり。

 刀拔(ぬき)そばめて侍(はべり)ける中(うち)に、こなたへは入らで、奧庭の方へ入けり。

 をそと[やぶちゃん注:そっと。]明(あけ)て出(いで)て見るに、夜は墨の如く、東西だに分たねば、探り探り付從(つきしたが)ひて行けり。

『枝折(しほりど)のあたりにて足音止みたるは。跡に人あるをしりしにや。』

と、一反(たん)斗り下(さが)りてうかゝへば、鼻の先、三寸斗り隔(へだ)てゝ、風を切る音して、枝など打振るよふに覺(おぼえ)ければ、心得て身を潛め、刀引拔(ひきぬき)、あちらこちらと、かひ拂ふに、刄物(はもの)と覺しき物に打當てたり。

 直(ぢき)に、聲もいださで寄せ合(あは)せて、打合(うちあふ)こと、五十餘合と覺へしが、忽ち、引放(ひつぱ)づして逃出(にげいる)る樣(さま)、

『手ににても負ひたるや。』

と覺(おぼ)しかりければ、其儘、追ひすがりて表の方に出たるに、足にかゝりて妨ぐる物あるになやみて、少し後れたるひまに、裏門の木を明(あく)る音して逃出たり。

 引(ひき)つゞひて[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)れば、向ふずねに物のつよく當るにおどろきて、とみに追ひもやらず、其儘、ものわかれとなりけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 扨、おのが部屋に入り、手燭して照らしけるに、少し血の引たるによりて、正しく手負ひて逃たることをしりぬ。

 侍どもよび覺(さま)して、ともに裏門に行て見るに、其道筋、庭の木立々々に繩(なは)引張(ひきは)り、飛石打(うち)かへしなどして有けり。

 侍ども、舌を振(ふる)ひ、

「かゝる心得有る賊の入(いり)たるに、皆、醉伏(ゑひふ)して、前後もしらず。君なかりせば、いかなる禍(わざはひ)を仕出(しいだ)すべかりしを。」

とて、大(おほい)にたゝへければ、

「そは、さまでのことにあらねども、大戰(たいせん)五十餘度(よたび)の間(あひだ)、定めて太刀音もはげしかりつらんに、壹人の目、醒(さめ)給はぬは、餘りに心懸けなきよふにて、見苦しく覺へ侍る。」

など、ゑんずるにぞ、みなみな、面目(めんぼく)なく、

「さはれ、少しの手疵も受(うけ)玉はぬこそめでたし。」

と祝しけり。

「さるにても、血の引たるを見れば、彼者、手疵(てきず)受(うえ)たるに相違なし。刀にのりあるべし。」

とて、引拔(ひきぬき)て見れば、血跡(ちのあと)、少しも見へず、あまつさへ五十餘合の戰(たたかひ)と言(いひ)しにも似ず、打合(うちあひ)たる跡、纔(わづか)に二つありて、血の引たるは、おのがひざ頭(がしら)打破(うちやぶ)りたる血にぞありける。

 これにて、何某、大に辱入(はぢいり)て、再び言(げん)も出(いだ)さず、おのおの入て寢にける。

 後に餘がしれる人に逢ひていゝけるは、

「口惜きことなり。正しく五十餘合斗りと思ひしは、纔に、三、四合にて、つよく打合せたるは、たゞ、一、二合なりしを、かゝる大戰と思ひしは、やはりおくれたる心よりかくありしなり。兎かくに仕(し)なれざることは、都(すべ)ておつくふに思ふ故、かくは思ひつるなり。」

と語りしよし。

[やぶちゃん注:何時もの通り、改行を施した。

「井上左太夫」幕府鉄砲方に代々「井上左太夫」を名乗った人物がいるから、その人であろう。

「一反」凡そ十一メートル。シークエンスとしては間をとり過ぎていて、ピンとこないが、仕方がない。

「枝折」竹や木の枝を折って作った簡素な開き戸。足にかゝりて妨ぐる物あるになやみて、少し後れたるひまに、裏門の木を明(あく)る音して逃出たり。

「其道筋、庭の木立々々に繩(なは)引張(ひきは)り、飛石打(うち)かへしなどして有けり」「飛石打かへし」とは、庭の飛び石をわざわざ掘り出して立て、追手の障害物にしてあるのである。確かに高度な盗賊で、相当に夜目が利き、方向感覚と空間認識の記憶力が抜群によい者であるらしい(そうでないと自分が張ったトラップに自分が掛かってしまうから)。何某が追った際に「向ふずねに物のつよく當」ったのも、後で判る膝頭の傷も、結局はそのトラップに引っ掛かったのであった。

「少し血の引たるによりて」後の展開から何某の衣服に付着した血痕であることが判る。実はそれは自分がトラップに掛かって受けた膝頭からの自分の血痕だったに過ぎなかったのである。

「ゑんずる」「怨ずる」。不満・不快の感じを持ったのである。

「のり」刀剣の刃に付着した血糊(ちのり)。

「後に餘がしれる人に逢ひていゝけるは」後に、私(鈴木桃野)の知人が、その「何某」に逢った際、何某あ語ったことには。

「おくれたる心よりかくありし」「怯(おく)れたる心」で「気後(きおく)れがした結果としてこの為体(ていたらく)となってしまった」の意であろう。何某は剣術師であるが、この情けない話から見ても、浪人していて食客で、実際の真剣による命を張った戦闘経験など実は全くなかったのであろう。

「おつくふ」気乗りがせず、めんどうくさいことの意の「億劫」。歴史的仮名遣は「おつこふ」「おくくふ」で音転訛が複雑に変化した複数のものがあるから表記に問題はない。]

反古のうらがき 卷之二 狐

 

   ○狐

 祭酒快烈公(さいしゆくわいれつこう)と聞へしは、林家(はやしけ)中興の學者にて、其性、闊達にておわしける。別業(べつげふ)を處々に持玉ひて、春秋佳日ごとに行て遊び玉ひける。

 一日(あるひ)、江邊(うみべ)の別業に夏の暑さを凌がんとて、まだきに起て行玉ひける。

 はすの花盛りなるに愛(めで)て、終日(ひねもす)遊び暮し給ひぬ。

 此別業を守る翁ありて、黑犬一つ飼ひ置けるが、其日は、辨當、さざへ[やぶちゃん注:ママ。]の餘れる食物(くひもの)に飽(あき)て、翁が許(もと)へは行かで、從者どもが、わりごひらく、夏木の繁れる下にのみ、居ける。

 從者ども、おのがまにまに、食物、あとうる[やぶちゃん注:ママ。]ものから、あちらこちら行けるが、果は狂ふよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]にて走り𢌞り、物も得たふべで、ひた走りに走りける。

 祭酒公、あやしみ玉ひて、椽(ゑん)の端(はし)に出(いで)て其樣を見玉ふに、物の付たるに似たれば、其(その)走り行(ゆく)方(かた)を東西と見玉ふに、ものもなし。

 蓮池のあなたなる築山(つきやま)の上に、狐、あり。

 心を付てみれば、此狐が、おとがい[やぶちゃん注:ママ。]、さし向けて、東に向へば、犬、東に走り、西に向けば、西に走るにてぞありける。

「こは。希有のことよ。」

と見るまに、犬は走りつかれて、こなたに倒れて伏しけり。

 暫くして、築山なる狐は、おそるゝ色もなく、從者が投捨(なげすて)し食物を飽(あく)までたふべて走りけり。

 犬は漸(やうやう)起上るといへども、茫然(もぬけ)たるよふにて、座しけり。

 その日は暮て、祭酒は館に歸り玉ひて、知る人ごとに語り玉ひけるに、或は信じ、又は疑ふ人も多かりければ、又の日、行て、先の如く、犬に食物與へて見玉ふに、後(のち)、走ること、前の如くなれば、先の疑へる人をもぐして行て見せ玉ひけり。

 其日は狐も大(おほい)に食(くふ)に飽(あき)て、築山の下に出(いで)て眠りけり。

 祭酒公、酒興のあまりにや、

『此狐、打殺して、けふの酒の肴にせんには、是にしくものあらじ。』

と思ひ、小筒の鐡砲もて打(うち)玉ひけるに、元より手慣(てなれ)ざる業(わざ)なれば、いと拙(まづ)くて打殺しもやらず、狐の耳の先、少し斗(ばかり)打拔(うちぬき)ける。

 狐はおどろきて高く叫びつゝ、築山の蔭に逃入ぬ。

 祭酒も、是非にとも思ひ玉ふことならねば、打笑ひて止(やみ)ぬ。

 扨、日も暮に及びける程に、從者ども集め玉ふに、女(め)の童(わらは)の、一人足らざれば、あちこち尋ねさするに、行衞なし。

 別業の内、殘る隅もなく尋盡(たづねつく)し、いとかうじ果(はて)たる時に、築山の蔭なるすゝきの生茂(おいしげ)りたる中に、前後もしらず、眠り伏(ふし)たり。

「こは、先の狐がなせるわざに疑ひなし。」

とて、おそれあへる人も多かりければ、祭酒、大に怒り玉ひ、其あたり、隅(くま)なく求(もとむ)るに、果して、狐の穴ありて、内の方ひろきよふに見ゆれども、いとくらくして見えもせず、日も暮にければ、せんすべなくて、大小の鐡砲、いくつともなく穴の内に打入(うちいれ)て歸り玉ひける。

 其筒先に當りて死けるか、又は餘りに鐡砲のはげしかりしに恐れて逃去りしか、其後は狐の出(いづ)るといふこともなく、又祟りをなすこともなくて止(やみ)けるとなり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 狐は常に犬に逢へば術も失せて、爲に食はるゝといふは、昔のことにて、不意に出合(であひ)し時のことをいふのみ。己(おの)が身をよくかくし、おそるゝことなき時は、などか術を施さざらんや。まして食物を爭ふ時は、犬といへども、食物に心奪はれて、狐に心なし。狐は食を奪ふに手だてなき時は、先(まづ)犬をたぶらかし、其後、食を奪ふことを思ふべし。

 昔を信じて今を疑ひがたし。

 本所・下谷の蚊は蚊帳の目を穿ち、あらき布の夜の衣は、のみ蟲の細かなるがむぐり入(いる)などは、昔なきことなれども、今はめづらしからず、物は昔(むか)しにおとりて蚊帳の目のあらきと、布のあらきとを論ぜず、蚤蚊の智のひらけしと思ふも、未だ得たりとせず。

 犬もおろかならば、狐に誑(たぶら)かさるゝこと疑べきことにもあらずかし。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。

「祭酒快烈公」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。快烈府君は諡号。キの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。本「反古のうらがき」の作者鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)の父鈴木白藤は幕府書物奉行であったし、桃野はまさに天保一〇(一八三九)年に部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となっているから、晩年の彼と接点があったとしてもおかしくない

「闊達」心が大きく、小さな物事に拘らないさま。度量の大きいさま。

「別業(べつげふ)」(現代仮名遣「べつぎょう」)別荘。

處々に持玉ひて、春秋佳日ごとに行て遊び玉ひける。

「さざへ」「榮螺」。歴史的仮名遣は「さざゑ」が正しい。

「わりご」「破り子・破り籠・破り籠・樏」等と漢字表記する。元は檜(ヒノキ)などの薄板で作った容器で、深い被せ蓋(ぶた)が付いた食物を携帯するのに用いたもの。「めんぱ」「面桶(めんつう)」とも称する。要は「弁当」の意。

「あとうる」「與(あた)ふる」の音変化。

「ものから」接続助詞で順接の確定条件(原因・理由)。

「物も得たふべで」「得」は呼応の副詞「え」の当て字。与えた食い物もちっとも食べることをしないで。

「おとがい」「頤」。顎(あご)。歴史的仮名遣は「おとがひ」が正しい。

「先の疑へる人をもぐして行て見せ玉ひけり」則ち、述斎は二度の検証を経て確信し、疑義を挿む人物を三度目に具して行ったのである。彼のある種の冷徹な用心深さを感じる。松浦静山の「甲子夜話」電子化ってが、林述斎は静山の友人でもあり、しばしば登場、なかなかな辛辣にして切れる男ではある。

「昔を信じて今を疑ひがたし」敢えて「信じて」後に読点を打たなかったのは、「がたし」が前文総てにかかっているからである。これは「怪しげな昔の言い伝えを信じておいて今の眼前に起こった事実を疑う」ということは「出来難い」の謂いであるからである。

「のみ蟲」「蚤(のみ)」。

「本所・下谷の蚊は蚊帳の目を穿ち、あらき布の夜の衣は、のみ蟲の細かなるがむぐり入(いる)などは、昔なきことなれども、今はめづらしからず、物は昔しにおとりて蚊帳の目のあらきと、布のあらきとを論ぜず、蚤蚊の智のひらけしと思ふも、未だ得たりとせず」ここも途中に句点を使わず、読点で繋げたのは前の認識と同じと私は採るからである。則ち、ここで合理の人桃野は「犬もおろかならば、狐に誑(たぶら)かさるゝこと疑べきことにもあらずかし」という結論を論理的に引き出すために前を掲げているのであり、そこでは一部の肯定文が実は否定文として機能するように書かれてある、則ち、「昔を信じて今を疑」ふなどということは出来ない、ということの例として提示していると判断するからである。

――本所・下谷の蚊は蚊帳の目を潜って蚊帳の中にやすやすと侵入し、粗い布の衾(ふすま:衣服状を成した寝具用)は、小さな蚤がそこをやすやすと潜って人の肌にまで達して孰れも血を吸うなどということは、これ、「昔は無かったことだけれども、今は珍しくないことだ。これは蚊帳や衾という物は昔のそれに劣っていて、蚊帳の目が今のは荒いからそうなのだ」だの、「衾を製している布の目が粗いからそうなのだ」だのという、他愛もない議論に賛同しようとは私はさらさら思わぬし、「蚊や蚤の智力が進み、細かな目の空間をも冷徹に見通し、僅かな隙間を巧みに狙って侵入出来るほどに進化を遂げたのだ」という似非進化論を開陳されても、さてもそれのも私は納得し組しようとは全く思わぬ。この場合は、昔の考え方が致命的に誤っているのであり、今現在の冷静な観察に基づく認識の方が正しいのだ。

と桃野は言っているのだと私は思う。大方の御叱正を俟つ。]

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(57) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅱ)

 

 一五八六年[やぶちゃん注:ママ。誤り。「本能寺の変」は天正十年六月二日、ユリウス暦一五八二年六月二十一日である。以下の叙述には種々の疑問があり、それを段落末で示すには煩瑣であることから、頻繁に本文中に私の注を差し入れてある。読み難くなってしまったのは、御容赦願いたい。ここのみ挿入注を総て太字にしておいたので、それを目安に飛ばして読めるようにしてはおいた。]に於ける信長の暗殺は、異敎默認の時期を延長したのかも知れない。彼の後繼者秀吉は外國僧侶の勢力を以て危險なものであると斷定はしたが、その時は、武權を集中して、國中に平和を招致しようといふ大問題に專心して居たのであつた。然るに南部の諸國に於けるジエジユイト敎徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信條の殘忍な行爲に對し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた。吾々は布敎の歷史の中に、改宗した大名が佛敎徒の幾千といふ寺院を燒き、無數の藝術作品を破毀し、佛門の僧侶を殺戮した記事を讀んで居る、――そして吾々は又ジエジユイト派の文人がこれ等の宗敎戰を以て、神聖なる熱心の證據であるとて賞讃してゐるのを知つて居る。最初、この外來の信仰は只だ人を說得するのみであつた、然るに後には、信長の奬勵の下に權力を得てからは、制的に、又兇暴になつて來た、それに對する一種の反動は信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年[やぶちゃん注:天正十五年。]に秀吉は京都、大阪、堺等に於ける傳道敎會を破壞して、ジエジユイト敎徒を首府から逐ひ拂つた、又その翌年[やぶちゃん注:誤り。「伴天連(バテレン)追放令追放令」は天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)の発令で同年である。]彼は彼等に平の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に大になつて居たから、この命今に從はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸國に分散して、幾多キリスト敎徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めることの不得策な事を考へたのであらう、又キリスト敎の僧侶達も平穩を守り公然と說敎することをやめた。そして彼等の隱忍は、一五九一年[やぶちゃん注:天正十九年。但し、この以下の小泉八雲の時系列解説には杜撰な、或いは、誤認の部分があるように思われる。例えば、「聖母の騎士社」公式サイト内の高木一雄氏の『月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]』の「(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓」の記載を読まれたい。]までは彼等に甚だ利益ある事であつた。然るにその年に、スペインのフランシスカン派[やぶちゃん注:十三世紀のイタリアでアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi /ラテン語:Franciscus Assisiensis )によって始められたカトリック修道会「フランシスコ会」(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum )派。なお、同派の最初の日本への伝導は文禄二(一五九三)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見したのを嚆矢とするウィキの「フランシスコ会にはある。]の敎徒が到著したことは事情を一變させるに至つた。これ等のフランシスカン派の敎徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加はつて到著し、キリスト敎を說敎しないといふ條件で、國内に留まる許可を得たのであつた。然るに彼等はその約束を破り、無謀な舉に出たので、爲めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と、三人のジエジユイト敎徒と、其他數人のキリスト敎徒を長崎に拘引して、其處で礎刑に處した[やぶちゃん注:所謂、豊臣秀吉の命令によって慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」の殉教を指す。]。大太閤の外來信條に對するこの態度は、その信條に對する反動を促進する結果となつた――その反動は既に諸國に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於ける秀吉の死[やぶちゃん注:慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。]は、ジエジユイト敎徒等に更に幸運の來る希望を抱かしめた。彼の後繼者、卽ち冷靜深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布敎を復興することさへも許可した。彼は關ケ原の戰[やぶちゃん注:慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。]によつて決定される事になつて居た大爭鬪の一準備をして居た、――彼はキリスト敎徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、――その頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、――それでキリスト敎に對し抑壓政策をとるには時機が惡るかつたと考へられる。然し一六〇六年に權力を堅固に建立してしまつた後[やぶちゃん注:「一六〇六年」は慶長六年であるが、これが何を指しているかよく判らない。江戸幕府開府は二年後の慶長八(一六〇三)年である。]、家康は布敎事業をそれ以上績行することを禁止し、且つ外來宗敎を採用したる者共は、それを抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]すべきことを宣言する布告を發して、初めてキリスト敎に斷乎たる反對を爲す事を聲明したが[やぶちゃん注:家康が幕府から最初の公式のキリスト教の禁教令を発したのは慶長一七(一六一二)年三月二十一日で、これは江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊及び布教禁止を命じた布告であった。ウィキの「禁教令によれば、『これ自体は』、『あくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った』とある。]、それにも拘らず布敎は續けて行はれた――最早只だジエジユイト敎派の者によつてのみでなく、ドミニカン派[やぶちゃん注:一二〇六年に聖ドミニコ(ラテン語:Dominico/ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(スペイン語:Domingo de Guzmán Garcés))により設立されたカトリックの修道会「ドミニコ会」。一二一六年にローマ教皇ホノリウス世によって認可された。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum)。]の者及びフランシスカン派の者によつても行はれた。當時帝國內に於けるキリスト敎徒の數は、非常な誇張ではあるが、殆ど二百萬人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年までは、抑壓に就いて何等嚴重なる手段をとらなかつたし[やぶちゃん注:不審。家康がブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させ、公布した(第二代将軍秀忠名)「伴天連追放之文(バテレン追放令)」は慶長十八(一六一三)年の発布である。]、又取らせもしなかつたが――その時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には獨立の大名によつて行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない――中央政府によつて行はれたのではなくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、當時權力の絕頂にあつたジエジユイト敎派の偏執に對する自然の結果で、その時には實に改宗した大名が佛寺を僥き、佛門の僧侶達を虐殺したのであつた。そしてこれ等の迫害は本來の宗敎がジヱジユイト敎派の煽動のため最も烈しく迫害された地方――例へば豐後、大村、肥後などの如き地方――では最も殘酷であつた。然るに一六一四年以來――この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇國だけがキリスト敎の入らないで殘つて居た處である――外來信仰の禁壓が政府の事業となつた、そして迫害は組織的に又中絕せずに行はれて、遂にキリスト敎のあらゆる外面に表はれたる跡は消失するに至つたのであつた。

 

 それ故、布敎の運命は家康とその次の後繼者によつて實際に決定された、そしてこれが特に家康の注意を與へた仕事であつた。三人の大首將達はみな、時機の遲速はあつたが、この外來の布敎に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布敎が惹き起こした社會問題を處理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも廣きに及ぶ嚴格な手段を探つて、現在の政治上の難問を縺れさす[やぶちゃん注:「もつれさす」。]のを恐れて居たのであつた。家康も永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雜であり、又主としてそれは外交上の理由からであつた。彼は決して燥急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。私には見かけない熟語だが、「燥」には「落ち着かない」の意があるから、「早急」に同じい。]に實行せんとする人でもなく、又決して何等かの偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと假定する事は、吾々が彼の性格に就いて知つてゐる總ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても、一百萬以上の歸依者があると云ひ得る宗敎を根絕することは決して容易な仕事ではなく、それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすといふことは彼の性質に反する事であつた。彼は常に人情深く、庶民の友であることを示してゐた。併し彼は何よりも第一に經世家であり愛國者であつた。そして彼にとつての主要な問題は、外來信條と日本に於ける政治的社會的狀態との關係は、將來如何なるものであらうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と氣長な調査を要した。そして彼はそれに出來る限りのあらゆる注意を與へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリスト敎が重大な政治的危險を作す[やぶちゃん注:「なす」。]ものであり、根絕は避くべからざる必要事であると決斷したのである。彼と彼の後繼者等が、キリスト敎に向つで勵行した嚴重な法則が――その法規は二百有餘年の間確實に守られた――この信條を完全に根絕やす[やぶちゃん注:「ねだやす」。]ことの出來なかつたといふ事實は、その信條が如何に深く根を張つて居たかを證明するものである。表面上、キリスト敎のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る組合が長崎附近で發見されたが、この組合はロオマ敎の禮拜式の傳統を祕密にその一派の間に保存して居り、未だに宗敎上の事に關しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用してゐたものであつた。

[やぶちゃん注:「一八六五年に或る組合が長崎附近で發見された」「一八六四年」は元治元年であるが、これは正確には翌「一八六五年」或いは、公儀に知られた「一八六七年」とすべきところである(後述)。明治新政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは明治六(一八七三)年二月二十四日で、これは所謂、「浦上四番崩れ」と称された最後の大規模なキリシタン弾圧事件に発展した。ウィキの「浦上四番崩れによれば、その発端は以下である。この元治元年に『日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ』(太字やぶちゃん)、翌元治二年三月十七日(一八六五年四月十二日)のこと、『浦上村の住民数名が訪れた。その中の』一『人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時』五十二『歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた』。しかし、二年後の慶応三(一八六七)年に浦上村の信徒たちが、仏式の葬儀を拒否したことによって、信徒の存在が明るみに出でしまったのであった。『この件は庄屋によって』直ちに『長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らは』、『はっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八『人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行』い、九月二十一日には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた』。直後に江戸幕府は瓦解するが、慶応四年二月十四日(一八六八年三月七日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』、四月七日(三月十五日)に『示された「五榜の掲示」』(太政官(明治政府)が国民に対して出した最初の禁止令)の第三条で、再び、『キリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』、五月十七日(四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう』、『外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した』。しかし、『この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席で』、『さらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六『時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった』。結局、閏四月十七日(六月七日)になって『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四『名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで間、『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど』、『その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン』Ⅸ『世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は』「日本宗敎自由論」を著し、『禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年』、『キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からも』、『キリスト教への恐怖から』、『解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切』、『解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日(本邦では、この前年の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)、太政官布告によって、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)の翌日からグレゴリオ暦に移行し、明治六(一八七三)年一月一日となるとした。則ち、明治五年には十二月三日から同月三十日までの二十八日間が存在しない)、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数』三千三百九十四『名、うち』六百六十二『名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に故地『浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ)

 

 ジェジュイト敎徒の禍

 

[やぶちゃん注:「ジェジュイト派」既出既注であるが、再掲しておく。ジェズイット(Jesuit)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。イエス(・キリスト)を表わす Jesus が形容詞した Jesuitic が語源。なお、例えば以下の本文第一段落末文中のそれように、本標題と異なり、「ジエジユイト」と拗音表記がなされていないのは、総てママである。]

 第十六世紀の後半は歷史の上で最も興味ある時期である――それには三つの理由がある。第一にこの時代は、かの偉大なる首將、信長、秀吉、家康など――民族が只だ最高の危機に際してのみ產するやうに思はれる型の人々――それ等の人の產みだされるためには、無數の年代から生じて來る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情、境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々――の出現を見たからである。第二に、この時期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社會組織が、初めて完全に完成されたからである――則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武權政府の下に一定の形をなして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日本を基督敎化しようといふ最初の計畫の一事件が――ジエジユイト敎派の權力の興亡の物語――丁度この時代に屬してゐるからである。

 ――この一挿話の社會學的意義は重大である。蓋し、大十二世紀の於ける皇室の分裂を除けば、ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危機は、ポルトガルのジエジユイト敎徒によつて基督敎の傳へられたことであつた。日本は殘忍な手段によつずて、無數の損害と幾萬といふ生命との犧牲を拂つて僅に助かつたであつた。

 この新奇な不穩な要素が、ザビエ[やぶちゃん注:フランシスコ・ザビエル(スペイン語:Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。]及びその宗徒によつて傳へられたのは、信長が權力集中に努力する以前の大擾亂の時期に於てであつた。ザビエは一五四九年に鹿兒島に上陸し、一五八一年の頃には、ジエジユイト敎徒等は國中に二百有餘の教會を持つて居た。この事實だけでも、この新しい宗敎の傳播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さればこの新宗敎は今帝國に亙つて擴がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。一五八五年に、日本の宗敎上の使節がロオマに迎へられ、又その一時には、殆ど十一人の大名――ジエジユイト敎徒はそれ等の大名を『王』と稱したが、それも必らずしも不當とは言はれないが――が基督敎に改宗してゐた[やぶちゃん注:原文は「ゐるた。」]。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、嚴密な意味で言つて、『人氣を得て』行つた。

 信長が權力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト敎徒を優遇した、――それは彼が基督敎徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信條に同情があつた爲めではなくて、彼等の勢力が佛敎徒に對する戰に於て自分の役に立つだらうと考へたからである、ジエジユイト敎徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するためには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王(コンクアラア)ヰリアム以上に無慈悲で、彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた。單なる政治上の理由から、外國の僧侶達に與へた援助と保護とは、彼等をしてその權力を發展せしめて、爲めにやがて彼信長をしてそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその『支那及び日本への基督敎傳播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題に關する興味ある拔萃を引用してゐる――

[やぶちゃん注:「征服王(コンクアラア)ヰリアム」「コンクアラア」は「征服王」のルビ。原文“William the Conqueror”。イングランドを征服し、ノルマン朝を開いて、現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアムⅠ世(一〇二七年~一〇八七年の通称。

「彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた」これは孰れも事実に即していない織田信長の異母兄織田信広(?~天正二(一五七四)年)は一時、信長と争ったが、許され、後に起こった長島一向一揆鎮圧の際に討ち死にしているでのあって、信長に直接に殺されたわけではない。ただ(平井呈一氏も、ここを『兄』と訳しておられるのであるが)、この“brother”を「弟」と訳せば、それは信長の同母弟織田信行となり、彼は信長に謀殺されているから、正しい。また、舅というのは、正室濃姫の父斎藤道三利政(明応三(一四九四)年~弘治二(一五五六)年)を指していようが、彼は継嗣問題で嫡男義龍との戦いで敗死したのであって(この関係を誤認したものか)、やはり信長に殺されたわけでは、ない。

「グビンス氏」イギリスの外交官で学者であったジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harrington Gubbins 一八五二年~一九二九年)か。明治四(一八七一)年(に英国公使館付通訳生として来日し、後に補佐官・日本語書記官補へと順調に昇進し、明治二二(一八八九)年には通訳としての最高位であった日本語書記官に昇った(これはアーネスト・サトウとウィリアム・アストンに次ぐ三代目に当たる)。この間、東京副領事代行・横浜代理領事なども務め、各国合同の条約改正会議にも参加している。明治二七(一八九四)年七月には「日英通商航海条約」調印に成功、翌年七月の追加協約へ向けての「関税委員会」の英国代表となっている。明治三五(一九〇二)年、駐日公使館(三年後の一九〇五年に「大使館」に昇格)書記官待遇を与えられた。一九〇九年外交官を引退し、帰国してオックスフォード大学で日本語の講師などをした。引退後は、かつての上司であったアーネスト・サトウと親交を結んでもいる(ウィキの「ジョン・ガビンズ」を参考にしたが、一部不審な箇所を訂した)。

「支那及び日本への基督敎傳播論」ガビンズが「日本アジア協会」で“ Review of the Introduction of Christianity into China and Japan ”として、明治六(一八七三)年に発表した論文。

「伊吹艾」(いぶきもぐさ)江戸後期に書かれたキリシタン実録物類に見られる書名で、旧梅本重永蔵本の文化九(一八一二)年の写本(天理大学図書館所蔵)が知られる。南郷晃子氏の論文「キリシタン実録類と江戸の商業活動―『伊吹艾』を中心に―」PDF)に詳しい。

 以下の引用(後に附された古文原文も含め)原文は本文と同ポイントで前後の一行空けもなく、全体が一字下げである。]

『信長はキリスト敎の入來を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼はその家臣を集會させてそれに向つて言つた――「これ等布敎師が人民に金錢を與へてその宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の氣に入らぬ。若し吾々が南蠻寺〔『南方野蠻人の寺』――とかうポトガル人の敎會が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀したならば如何であらうか。お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに對して前田德善院が答へた、――「南蠻寺を打毀つことは今日ではもう手遲れで御座ります。今日この宗敎の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので、公家、大名小名共は、この宗敎に歸依して居ります。若し我が君が今日この宗敎を絕滅しようといふならば、騷亂が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります。それ故私の考へでは、南蠻寺破毀の意向を打棄てらる〻こと然るべしと存じます」と。信長はその結果、彼の基督敎に關する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを根絕し得るかと思案し始めたのである』

 信長……心の內には後悔し給ひけるとや……或時諸臣參會之砌宣ふは我取立し南蠻寺の事色々あやしき說有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合點の行ぬ事也……向役此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本國へ追歸さんと思ふ也かたかたいか〻と宣へば前田德善院進み出て被申けるは南蠻寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都は申に不及近國まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名幷無座に居合す御家人の內にも此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆發り御大事に及び候はん先暫く時節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覺也此上宜敷思案氣あらば無遠慮可申との事に面各退出被致ける。『伊吹艾』

[やぶちゃん注:「前田德善院」僧侶で武将(大名)で、後の豊臣政権の五奉行の一人となった前田玄以(天文八(一五三九)年~慶長七(一六〇二)年)。ウィキの「前田玄以から引く。『美濃国に生まれ』。「寛政重修諸家譜」によると、『前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで前田氏を称したという』。『若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも』、『尾張小松原寺の住職であったともいう』。『後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令で』、『その嫡男・織田信忠付の家臣とな』った。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」に『際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した』。天正一一(一五八三)年から『信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが』、天正一二(一五八四)年に『羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる』。文禄四(一五九五)年に秀吉より五万石を『与えられて丹波亀山城主となった』。『豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め』、天正十六年の『後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている』。慶長三(一五九八)年、『秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の』一『人に任じられた』。『蒲生氏郷が病の際に、秀吉は』九『名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された』。『秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対し』、慶長五(一六〇〇)年に『石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより』、「関ヶ原の戦い」の『後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった』。『信長・秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった』。『かつて僧侶だった関係から』、『当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の』文禄二(一五九三)年には『秘密裏に京都でキリシタンを保護している。また』、『ポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子』二『人はキリシタンになっている。また』、『僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している』(フロイス「日本史」第六十九章)。『同じ五奉行の増田長盛は、玄以同様』、『大坂城に留守居役として残り、西軍の情報を提供するなど家康に内通したが』、「関ヶ原の戦い」後に改易されており、『この違いは、玄以が持つ朝廷との繋がりを利用するため、玄以が家康に優遇されたからと推測される』とある。]

2018/09/06

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(55) 忠義の宗敎(Ⅲ) / 忠義の宗敎~了

 

 兩親でも近親の者でも、君主でも師匠でも、そのために何人かが復仇[やぶちゃん注:「ふくきう(ふっきゅう)」。仇討に同じい。]してやるべきであつた。隨分多數の有名な小說や戲曲は、婦人に依つて爲された復讐の題目を扱つてゐる。そして又実際被害者の家族の中に、その義務を果たすべき男子の無かつた場合には、婦人や又は子供迄もが、復仇者となつた例は往々あつた事である。弟子もその主人のために復讐をした、又刎頸の友人同志も、互ひのために復讐してやらなければならなかつた。

 何故に復讐の義務が肉身の親族の範圍に限られてゐなかつたかと云ふ事は、勿論、その社會の特殊な組織から說明され得るのである。吾々の既に見た如く、その族長的家族は一種の宗敎的團體である。家族の結び目は自然の愛情から出た結び目でなく、祭祀に依る結び目であつたといふ事は、既に言つた處である。又一家の組合(小社會)に對する關係、組合の氏族に對する關係、竝びに氏族の部族に對する關係は、同樣に宗敎的關係であつた事も既に述べた處である。この必然な結果として、古い復讐の慣習は、血緣責任であると共に、家族、組合及び部族の祭祀から生ずる責任に依つて定められ、更に支那道德の移入、武權狀態の發展と共に、義務としての復讐の思想は、廣い範圍に及んだのである。養子や義兄弟と雖も、その責任の點では實子や血緣の兄弟と同じであつた。又師匠はその弟子に對して、父と子との關係に立つてゐた。自分の實の親を打つ事は、死に値する罪であつた。その師匠を打つ事も、法律の前では、同じ罪とされてゐた。この師匠が父としての尊敬を受くる資格に就いての思想は、支那傳來のものであつた。則ち孝道の義務を『精神上の父』へ擴大したものである。この他にもかかる擴大があつた、そして日本にせよ支那にせよ、すべてこれ等の事の起原は、等しく祖先禮拜にまで溯られるのである。

 さて、日本の古い風俗を取扱つたいづれの書物でも、未だ正當に主張せられた事のないのは、敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。]は本來宗敎的意義を有つてゐると云ふ事である。古い社會に於て成立して居た仇討のあらゆる慣習が、宗敎に起原して居るといふ事は、勿論、よく知られてゐる。併し日本の仇討に對しては、その宗敎上の性質を、現時に至る迄變はる事なく保持してゐたと云ふ事實の點に於て、それが特殊な興味をもつて居るのである。かたきうちは眞に死者への一種の慰安贖罪の行爲であるが、それは仇討が果たされた場合の儀式――敵の首を慰安贖罪の供物として、仇を討つて貰つた人の墓の上に置く事――に依つて證明される。この儀式の中の感動を與へる特徵の一つは、以前に行はれた事であるが、仇討をして貰つた人の亡靈に向つて爲される報告であつた。時にはそれは只だ口づから話しかけられるだけであつたが、また時にはそれが文筆を以て書かれ、その文書が墓の上に殘された事もあつた。

 吾が讀者で、ミツトフオド氏の非常に面白い『舊日本の話』や、その『四十七士』の實話の飜譯を知らない人は恐らく無いであらう。併し果たして多くの人々は、吉良上野之介の斷られた首を洗ふ事の意義、又は故藩主のために復讐する機會を長い間待ち覗つて居た勇敢なる人々が、彼に捧げた報告の意義を認めて居るか、どうか、私は疑ひを抱いて居るものである。この報告、それを私はミツトフオド氏の譯文から引用するが、この報告は淺野侯の墓前に供へられたものである。それは泉岳寺と云ふ寺に今尙ほ保存されてゐる――

[やぶちゃん注:以下の引用(古文原文)は今までの引用と異なり、本文同ポイントで、全体が三字下げである。一部に読点がない箇所があるが、有意味なものとは見做されない(平井氏もやはり同じ原文表示であるが、総て当該部が読点)ので読点とした。但し、戸川氏は読点の後に一字分の字空けを行っており、それはそれで読み易くしたものと判断されるので、それは再現した。そうなっていない箇所は逆に字空けを挿入した。]

 元祿十五壬午の年十二月十五日、 只今面々名謁申す通、 大石內藏助を始て御足輕寺坂吉右衞門迄、 都合四十七人進死臣等、 謹奉ㇾ告亡君之尊靈、 去年三月十四日尊君刄傷吉良上野介殿之御事、私共不ㇾ奉ㇾ存其仔細、 然所尊君者御生害、 上野介殿は御存命、御公裁之上は、 我等共如ㇾ斯之企非尊君之御心、 而却而御怒り奉恐入候得共、 我等共に君之食ㇾ祿申、 共に天不ㇾ戴之義難默止、 共に不ㇾ可ㇾ蹈ㇾ地之文無ㇾ恥ㇾ不ㇾ可ㇾ申、 然故纓請て可ㇾ被ㇾ下之無ㇾ主、 晝夜感泣仕候上無御座、 縱恥を抱へ空相果候とも、 於泉下可二申上詞無ㇾ之候、 同前可ㇾ奉ㇾ繼御意趣奉ㇾ存候より以來、 今日を相待申事一日三秋之思に御座候、 四十七人之輩赴ㇾ雨蹈ㇾ雪、一日二日漸一食仕候、老衰之者病身のもの數々近ㇾ死申候へども、蟷螂賴ㇾ臂之笑を相招き、 彌々尊君之御恥辱を相遺可ㇾ申かと奉ㇾ存候ヘ共、 不ㇾ止ㇾ止昨夜半申合、 上野介殿御宅え推參仕、 則上野介殿御供申し、 是迄參上仕候、 此小脇指は先年尊君御祕藏、 我等に被下置候、 唯今返獻仕侯、 御墓の下尊靈於ㇾ有ㇾ之者、 再御手を被ㇾ下遂給御鬱憤、 右之段、 四十七人の者共一同に謹而申上候敬白、

[やぶちゃん注:平井呈一氏もこれと全く同じ原文を注で載せておられるのであるが、私の調べ方が悪いのか、この泉岳寺に残っているとする当該の文書と完全に一致するものは、所持する赤穂義士関連の江戸随筆やネット上の史料に見当たらない。されば、またしても全くの自己流で書き下すしかない。字空けは詰めた。

   *

 元祿十五壬午(みづのえうま)の年十二月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。]、只今、面々、名謁(みやうえつ[やぶちゃん注:戦場で互いに名乗りあうこと。名対面(なだいめん)。])申す通り、大石內藏助を始めて、御足輕寺坂吉右衞門まで、都合、四十七人、進死(しんじ)の[やぶちゃん注:進んで命を主君に捧げ奉るところの。]臣等(ら)、謹んで亡君の尊靈に告げ奉る。去年(こぞ)三月十四日[やぶちゃん注:一七〇一年四月二十一日。]、尊君、吉良上野介殿へ刄傷(にんじやう)の御事、私共、其の仔細は存じ奉らず、然る所、尊君は御生害(ごしやうがい)、上野介殿は御存命と、御公裁(ごこうさい)の上は、我等共(ども)、斯くのごときの企(くはだ)て、尊君の御心に非ずして、却つて御怒り、恐れ入り奉り候得(さふらえ)ども、我等、共(とも)に君の祿を食(は)み申し、「共に天を戴(いただ)かざる」の義、默止(もだし)し難く、「共に地を蹈(ふ)むべからず」の文(ぶん)、恥を無くして申すべからず。然るが故に、纓(えい)を請うて下さるべきの主(しゆ)無く[やぶちゃん注:漢の武帝の時、南越討伐派遣を命ぜられた若き将軍終軍が出陣の閲兵式に於いて武帝に帝王の冠の纓(紐)を請うた故事に基づく。]、晝夜、感泣、仕(つかまつ)り候ふ上は御座(ござ)無く、縱(たと)ひ恥を抱(かか)へ空しく相ひ果て候ふとも、泉下[やぶちゃん注:黄泉。あの世。]に於いて申し上ぐべき詞(ことば)、之れ無く候ふ。同前[やぶちゃん注:同様に。]、御意趣を繼ぎ奉るべく存じ奉り候ふより以來、今日を相ひ待ち申す事、一日三秋の思ひに御座候ふ。四十七人の輩(やから)、雨に赴(ゆ)き、雪を蹈(ふ)み、一日・二日に漸(やうやう)一食を仕り候ふ。老衰の者・病身のもの、數々、死に近しとは申し候へども[やぶちゃん注:討ち死にの決心は十全にありまするが、の意で採る。]、蟷螂、臂(ひぢ)に賴るの笑(わらひ)を相ひ招き、彌々(いよいよ)尊君の御恥辱を相ひ遺(のこ)し申すべきかと存じ奉り候ヘども、止まれず、昨夜半、申し合はせ、上野介殿御宅え[やぶちゃん注:「へ」。]推參仕(つかまつ)り、則ち、上野介殿[やぶちゃん注:討ち取ってその首を。]、御供(おんとも)申し、是れ迄、參上仕り候ふ。此の小脇指は、先年、尊君が御祕藏、我等に下し置かれ候ふ、唯今、返獻(へんけん)仕り侯ふ。御墓の下、尊靈、之れ、有らせらる於いては、再び、御手を下され、御鬱憤、遂(と)げ給へ。右の段、四十七人の者共一同に謹んで申し上げ候ふ。敬白。

   *

訓読の致命的部分あらば、御教授方、御願奉る。]

 

 これで見ると、淺野侯は恰も眼前に居るかの如く話しかけられてゐるのが解るであらう。敵の首は綺麗に洗はれたもので、それは生きた上長の行ふ首實驗の時の規則に依つたものである。その首は墓前に九寸五分の劔、則ち短刀と共に供へられる、その短刀はもと淺野侯が幕府の命令で切腹(はらきり)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下も同じ。]をした時用ひられたものであり、又その後大石內藏之助が吉良上野之介の首を切る時に用ひたものなのである、――そして淺野侯の靈はその武器を取つて、その首を打ち、その亡靈の怒りの苦痛を永久に晴らさせようと云ふのである。それから全部が切腹(はらきり)を宣告され、四十七人の家臣は死を以てその主君に從ひ、その墓前に葬られるのである。【註】一同の墓前には、憧憬する參詣人の供へる香の煙が二百年間も、每日たえないのである。

註 四十七士の墓に參詣人が名札を置いて行くといふ風が長く行はれて居た。私が最近に泉岳寺に參詣した時には、墓の周圍の地面は參詣人の名札で白くなつて居た。

 この忠義に關する物語を充分に呑み込むには、日本に住み、古い日本の生活の眞の精神を感じ得るやうにならなければならない、併しそれに關するミツトフオド氏の飜譯や、信賴し得る文藝の譯文を讀む人は、誰れでも感動せずには居られない事を告白するであらう。この報告文は特に感動を與へる――その中に表はれて居る情誼[やぶちゃん注:「じやうぎ(じょうぎ)」。真心の籠った誠実な他者との交情。]や信義のために、又現世以外に及ぶ義務の感のために感動を與へられる。復讐と云ふ事が如何に近代の我が倫理に依つて非難されるに相違ないとしても、君主のための復讐に關する日本の古い物語には尊い方面がある、そしてそれ等の物語は、普通の復讐とは關係のない、あるものの表現――報恩、克己、死に面するの勇氣、及び目に見えざるものに就いての信仰の發露――に依つて吾々の胸を衝つ[やぶちゃん注:「うつ」。]のである。而してこれは、勿論、吾々が、意識して居るにせよ、意識しないにせよ、その宗敎的な性質に動かされたと云ふ事である。單なる個人的復讐――何か一個人の被害に對する執念深い意趣返し――は吾々の道德的感情を傷つける、則ち吾々はかくの如き復讐心を燃やす情緖は、單に野獸的なもの――人間が下等な動物生活の方向を共有して居る事を示すもの――であると考へるやうに訓へられて來た。併し死せる主人に對する報恩や義務の感情から爲す所の殺人の物語には、吾々の高い道德的共鳴に――吾々の非利己心、曲げられぬ眞心、變はらぬ情誼に就いての力及び美の感覺に――訴へしめ得る事情があると云つて宜いのである。而して四十七士の物語はこの種の一つである……。

 併し覺えて置かなければならぬ事がある、殉死(じゆんし)切腹(はらきり)敵討(かたきうち)[やぶちゃん注:以上の三つはルビではなく、本文で傍点「ヽ」付き。以下の最後までの間にある四箇所も同じ。]といふこの三つの恐ろしい慣習のうちに、その最高の表現を得て居る舊日本の忠義の宗敎は、その範圍が狹いといふ事である。それは社會の組織そのものによつて制限せられてゐたのである。國民は、そのいろいろな集團を一貫して、到る處、性質を同じうする所の義務の觀念によつて支配されてゐたのではあるが、各個人のその義務の範圍は、その人の屬してゐる氏族團體以外には及ばなかつたのである。自分の主君のためならば、家臣たるものは、いつでも死ぬだけの心がけはしてゐた。、併しその者は、自分が特に將軍の旗下に屬してゐるのでない限り、幕府に對しても、同樣に自分を犧牲にしなければならぬとは感じて居なかつたのである。その祖國、その國、その世界は、僅にその主君の領地内に限られてゐたのである。その領地の外では、その者は一個の漂泊者であり得たのであつた――則ち主君のない武士(さむらひ)を浪人(らうにん)則ち『浪の人』といつた。かくの如き狀態に於ては、國王や國を愛する氣持ちと一致するところの大きな忠義の念、――これが則ち昔のせまい意味に於てでなく、近代的な意味に於ける愛國心であるが――は十分に發展する事は出來なかつた。何か共通的な危機、何か全民族に對する危險、――例へば蒙古人の企圖した日本征服の如き――が一時的に眞の愛國的感情を喚起し得た事はあらう、併しさうでない限り、此の威情はあまり發展の機會をもつては居なかつた。伊勢の祭祀はなるほど、氏族若しくは部族禮拜と異つた國民の宗敎を表はしたものであつた、併し何人もその第一の義務は、自分の領主に對してである事を信ずるやうに敎へられてゐたのである。人はよく二人の主人に仕へる事は出來ない、しかも封建政府は實際少しでもさういふ方に向ふ傾向を抑壓したのであつた。領主なるものは全く個人の心身を領有して居たので、領主に對する義務の外に、國民に對する義務の觀念の如きは、家臣たる者の心の中に明らかに示される時もなければ機會も無かつたのである。例へば、普通の武士(さむらひ)に取つて、天皇の命今は法律ではなかつた、則ち武士は自分の大名の法律以外に何等の法律をも認めては居なかつたのである。大名に至つては、彼は事情によつて天皇の命令に從つても從はなくてもよかつたのである。則ちその直接の上長は將軍であつた。そして大名は神として天津大君と、人間としての天津大君との間に、巧みな區別を設けざるを得なかつたのである。武權の究極の集中以前には、天皇のために自分を犧牲にした領主の例も多くあつた、併し天皇の意志に反して、領主が公然謀叛を起こした場合の方が遙かに多かつた。德川の治下にあつては、天皇の命令に從ふか、抵抗しようかといふ問題は、將軍の態度一つに掛かつてゐた。そして如何なる大名も京都の宮廷に服從し、江の宮廷に不順を示すやうな危險をおかすものは一人も居なかつた。少くとも幕府が崩壞するまではさうであつた。家光の一時代には、大名の江への途上、皇居に近づく事を嚴禁されてゐた、――天皇の命令に應ずる場合に於てさへも。その上又彼等は御門(みかど)に直訴する事を禁じられてゐた。幕府の政策は、京都の宮廷と大名との間の直接の交涉を全く妨げるにあつた。此の政策は二百年の間陰謀を防いだ、併しそれは愛國心の發展をも妨げたのである。

[やぶちゃん注:「浪の人」確かに原文は“wave-man”ではあるが、ここはせめて「波に漂う人」「流浪(放浪)の男」と訳したいところである。]

 而してこの理由こそ、日本が遂に西歐侵入の意ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]もかけなかつた危機に直面した時、大名制度の廢止が尤も重要な事と感じられた所以なのである。絕大の危機は、社會の諸單位が統一的行動をなし得る一つの調和せる大衆に融合すべき事、――氏族及び部族的集團は永久に解體さるるべき事、――あらゆる權威は直に國民的宗敎の代表者に集中すべき事――天津大君に服從する義務が、直に又永久に、地方の領主への服從なる封建的義務に取つて代はるべき事、――等を要求したのである。戰爭の一千年間に依つて作られて來たこの忠義の宗敎は、容易に放擲される事は出來ないものであつた、則ち適當にこれを利用すれば、それは計量すべからざるほどな價値ある國家の重寶となるであらう――一人の賢明な人が、一個の賢明なる目的に、これを向けたならば、奇蹟をも演出し得る道德力たり得るのである。維新もそれを破滅せしむる事は出來なかつた、併しそれは方向を變へ形を變へる事は出來た。それ故、それは高い目的に向けられ、――大いなる必要に向つて擴大されて――それは信任と義務の新しい國民的感情となつた、則ち近代的なる愛國の感となつたのである。三十年間に、いかなる驚異をそれが果たしたか、世界は今やそれを認めざるを得ない、なほそれ以上如何なる事を果たし得るか、それは今後を待つて知るべきである。少くとも只一事は確である――則ち日本の將來は、昔を通じて死者の古い宗敎から發展し來たつた、此の新しい忠義の宗敎の支持の上に據らなければならないといふ事である。

大和本草卷之十三 魚之上 アユモドキ

 

【和品】

アユモドキ 其形色恰如鰷ニシテ口ニ泥鰌ノ如ナルヒゲア

 リ山州桂川ノ名物也其上流嵯峨ノ大井川ニモア

 リ大ナルハ一尺ハカリアリ身ト尾トアユニ似テ頭ハ不似

 頭ハ粗ドヂヤウニ似タリ凡大井川ニアユスマスイダアメノウ

 ヲアユモドキミコ魚ナトアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

アユモドキ 其の形・色、恰も「鰷〔(アユ)〕」のごとくにして、口に「泥鰌」のごとくなる「ひげ」あり。山州桂川の名物なり。其の上流、嵯峨の大井川にもあり。大なるは一尺ばかりあり。身と尾と、「アユ」に似て、頭は似ず、頭は粗〔(ほぼ)〕「ドヂヤウ」に似たり。凡そ、大井川に「アユ」すまず。「イダ」「アメノウヲ」「アユモドキ」「ミコ魚〔(ウヲ)〕」など、あり。

[やぶちゃん注:本邦固有種の条鰭綱コイ目ドジョウ科アユモドキ亜科 Parabotia 属アユモドキ Parabotia curtus。御覧通り、アユとは無縁なドジョウの仲間である(但し、ドジョウの行う空気呼吸はしない。和名は特に尾鰭がアユのように中央が縊れて上下に分岐していることに由る)。絶滅危惧IA類(CR)。ウィキの「アユモドキ」より引く。現在、棲息が確認されているのは『京都府亀岡市の桂川水系、岡山県の旭川・吉井川水系』のみで、『琵琶湖・淀川水系(宇治川、鴨川、木津川、清滝川)、岡山県の高梁川水系、広島県の芦田川水系では』、『絶滅したか』、『ほぼ絶滅したと考えられている』。『同じアユモドキ亜科のBotia属、Leptbotia属が、インドシナ半島に生息する』。『分布の中心域は東南アジアから中国南部であり、日本のアユモドキの分布はその縁辺部にあたる』。『日本淡水魚ではアユモドキ(Leptobotia curta)が唯一のボティア系の魚であり』、『そのため』、『本種は日本産淡水魚の起源と分散経路を探究する手がかりとなり』得、『動物地理学的にきわめて重要な種であると考えられている』。全長は十五~二十センチメートルで、『体形は側扁』し、『背面や体側面の色彩は黄褐色で、腹面の色彩は白』。『頭部も鱗で覆われ』ている。『体側面は小型の円鱗で覆われ』、『側線は明瞭』。『上顎の吻端に左右に』二『本ずつ、下顎の口辺に左右に』一『本ずつ、計』六『本の口髭がある』。『眼下部に左右に』一『本ずつ』、『先端が二股に分かれた棘状突起がある』。『形態や分子系統解析からアユモドキ亜科Botinaeを、独立した科Botiidaeとする説もある』。『以前はLeptobotia属に分類されていた』。『河川の中・下流域、水路などに生息し、底質が砂礫や砂泥で石組みなどの遮蔽物が多い環境を好む』。『生息地の水質階級は岡山県の報告例では貧腐水性もしくは貧腐水性に近い中腐水性βで、水温は夏季も』摂氏三十度『を超えない水質に生息していた』。『日本に分布するドジョウ類では唯一』、『底層ではなく』、『中層に生息し、遊泳性が強い』。『薄明薄暮性で、昼間は物陰などに潜む』。『底棲のトビケラ・ユスリカの幼虫などの昆虫、イトミミズなどを食べ』、『仔魚や稚魚はプランクトンや付着動物などを食べる』。六~九月に一尾をが一尾『もしくは複数尾で追尾し、体側を擦り合わせるようにして放卵・放精する』。『河川の氾濫や水田の灌漑によって生じた一時的な水場で』、『流れが緩やかで陸生植物が繁茂し』、『一定期間水位低下がない環境でのみ産卵する』。生後二年で『成魚になる』が、『一方で生後』一『年で性成熟したオスが発見された例もある』。『滋賀県の方言で「あいはだ、うみどじょう」、岡山県の方言で「あもず、きすうお」』、『京都方言で「ウミドジョウ」』『と呼称される』(この異名「ウミドジョウ」の「ウミ」は、かつて棲息していた「琵琶湖」を指す。「あいはだ」の「あい」は「アユ」か)。『食用とされ、琵琶湖で漁獲されることもあった』。『河川改修や圃場整備による生息地や産卵場所の消失、堰による移動の妨害、水量低下などにより生息数が減少したと考えられている』。『カワウや人為的に移入されたオオクチバスによる捕食によっても生息数が減少している』。『後述するように法的に採集は禁止されているが、密猟される事もある』。『桂川水系で最大の生息地であった八木町(現:南丹市)の個体群は』一九八七年から一九八八年に、『冬季に越冬場所が枯渇してから』、『生息が確認されず』、『絶滅したと考えられ、飼育下で系統が維持されるのみとなっている』。『日本では』一九七七年に『国の天然記念物に指定されて』おり、二〇〇四年には、「種の保存法」により』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。『休耕田を利用した産卵場所の整備、礫の設置による生息環境の改善、保全調査、保全団体や地方自治体による啓蒙活動、密漁者の監視などの保護対策が進められている』。二〇一五年『現在における生息数』は約八百頭と推定』されており、『桂川水系個体群は』二〇一四年の報告では成魚の生息数は』十『年間で』八十~七百三十尾と『推移している』。『旭川水系個体群は』二〇一〇年から二〇一五年に五十~百六十尾が『産卵場所で確認されている』。『吉井川水系個体群の生息数は』三十~五百尾と『推定され』、二〇一五年に『おける生息数は約』二百十尾『推定されている』。『人工孵化や飼育法は確立しており、神戸市立須磨海浜水族園、滋賀県立琵琶湖文化館(休館)、姫路市立水族館などで累代飼育が行なわれている』。『大阪府水生生物センターでは精子の凍結保存に成功している』とある。You Tube で、神戸市立須磨海浜水族園保護飼育ていアユモドキ動画神戸新聞社国天然記念物のアユモドキが見られる。

「鰷〔(アユ)〕」先行する大和本草卷之十三 魚之上 鰷(アユ)を参照。

「泥鰌」条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus。次項がドジョウ。

「嵯峨の大井川」桂川の嵐山周辺及び上流域での異名。「大堰川」とも。ウィキの「川(淀川水系によれば、『嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河(かつらがわ)」と称されるようになった。『土佐日記』では「桂川」、『日本紀略』では「大堰川」、『徒然草』では「大井川」の記載が見える。うち『徒然草』の第』五十一『段では、嵯峨野の亀山殿に大井川から水を引く様子を伝えている。『雍州府志』では、川の西に「桂の里」が有ることから』、『嵯峨より南の下流域を「桂川」と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域を「大井川」としている』とある。

『大井川に「アユ」すまず』「すまず」は「棲まず」。しかし、これは嘘。桂川にはアユは古来より棲息していたし、現在もいる。

「イダ」これは広汎にウグイ(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)の異名でもあるので注意が必要

「アメノウヲ」先行する「大和本草卷之十三 魚之上 鰧魚(ビワマス)で考証した通り、この和名異名は条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus のそれの方が遙かに古くから定着しているので注意が必要。益軒は言わんでもいいことを言って混乱を招いていることは、既に大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)で考察した。

「ミコ魚」異名確認は出来たが、語源は不詳。]

反古のうらがき 卷之二 鶯

 

 反古のうらがき 卷之二

    ○鶯

 いつの頃にや、四ツ谷信濃町永井飛驒守屋敷に廣き竹藪あり。その頃は籬(かき)もまばらにて、人の出入もなるよふ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]なる樣(さま)にてぞありける。

 ある人、夜更て其あたり過るに、折節、夏の初なるに、鶯の巢立せしにや、

「ヒイヒイ。」

といふこへ[やぶちゃん注:ママ。]聞へけり。

「こは、よき物あり。入て取て歸らん。」

と、疎(ま)ばら籬、踏越へて、聲する方に尋行しに、月は雲がくれて、殊に竹深ければ、いとくらし。

「此あたりよ。」

と立よりて探り見れば、人の足あり。

「扨は、吾より先に入たる人にや。」

と、よくよく見れば、さはあらずして、首縊(くびくゝ)りのかゝりたるにて、

「ヒイヒイ。」

といふは、いまだ少し、息の通ふにてぞありける。

 此人、

「あなや。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て逃出けるが、幸に人も聞付(ききつけ)ず、近きあたりの人なりければ、急ぎ、家に歸りけり。

「おそろしと思ふ時は、かゝるひそやかなることしながらも、吾を忘れて、聲立(たつ)るもの。」

とて、笑ひけるとなん。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行が施されてある。]

 又、牛込御徒町に明(あき)屋敷ありて、秋の末、箒草(はゝきぐさ)のよく生へ繁りけるを、西の木守る人は東に讓り、東の木守る人は西に讓りて、敢てこれを取ることなし。

 ある時、月暗き夜、西の木守り、惡心起りて、鎌をこしにして行けり。

 ひそやかに入てかる程に、一人にては負(おひ)がたき程、かりけり。

 細引の麻繩もて、よくからげ、常に駕籠(つゞら)負ふ樣に背に負ひて、またひそやかに出んとしけるに、思はずも、古き井に落けり。

 箒草を餘りに多く負ひたれば、落もやらず、中途にして止まりけり。

『こは如何せん。』

と思ふに甲斐なし。

 しばしば思案して、ひそやかに出(いで)んとしけれども、出(いづ)べき手立(てだて)なくて、おめおめと聲を立(たて)て呼けり。井の中程なるに、箒草、塞がりたれば、外へは聞へで、聲のかるゝ迄呼(よび)けれども、誰(たれ)助(たすく)る者もなし。

 かくて夜も明けれども、井の中はくらく、いつといふもしらでありけるが、東の木守る人、其あたり、行かよひて、箒草の少し減じたるよふに覺へければ、試(こころみ)に入て見てければ、大(おほい)にかりとりたる跡あり。

「こは、口惜し。何物か入て盜みけるよ。かくとしらば、吾、先に入てからん物を。」

と、思ひつゝ立(たち)めぐるに、古井のへんに、かすかに呼(よば)わる[やぶちゃん注:ママ。]聲の聞ゆるにぞ、立よりて見れば、箒草一ぱいに滿ち塞がりて、その下なり。

「扨は盜(ぬすびと)の落けるよ。」

とて、人々に告て、からくして引出(ひきいだ)せしに、西の木守りなりければ、飽(あく)まで罵りてゆるしけると也。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために改行を施した。個人的には、前半の話柄は如何にも後味が悪い。「ある人」は自殺者を救うべきであろうところが、奇妙な感想を漏らして笑うからである。しかし、寧ろ、そこが「生きた人間こそ鬼よ」という怪談の真骨頂なのかも知れぬ。後注で、再度、分析しているので御照覧あれ。

「四ツ谷信濃町永井飛驒守屋敷」不詳。切絵図を見ると、四谷信濃町附近にあるのは「永井遠江守」・「永井若狹守」・「永井肥前守」の屋敷で、やや離れた東方の安鎮坂の近くに「渡部飛驒守」の屋敷はある。

「人の出入もなるよふなる樣(さま)にてぞありける」「樣」は「やう」かも知れぬ。人の出入りも容易に出来るような感じに見受けられる様子ではあったという。

「人の足あり」尋常ならば人の足跡ととるところであろうが、それでは怪奇談集としては失格であろう。藪を分け入ったところが、藪蔭から、少し先の方に人の足が見えた、としたい。

「おそろしと思ふ時は、かゝるひそやかなることしながらも、吾を忘れて、聲立(たつ)るもの」この評は何を言っているのかを考えると、奇妙と言うか、注の冒頭で述べた通り、そう言って笑った「ある人」の心の冷血が見えてくる。

①題名を「鶯」としたことや、話柄自体の構造からみると、秘かに縊死を実行しようとしながらも、首に繩目が食い込んだその時、「死ぬんだ!」と恐怖を感じたその時には、こんなところで人知れず死のうと望んだにも拘わらず、我を忘れて、思わず、何とまあ、鶯の鳴き声(ね)に似た「ヒイヒイ」! という声を立ててしまうものなんだなぁ、「とて、笑ひける」という意味で、まずはとれる。これも自殺実行者への情けのかけらもないわけで、人非人的ではある(但し、そこでこの自殺志願者を助けていると、恐らくはその大名屋敷の内に知れて、お咎めを受けるのは必定であろうから、必ずしもこの男を批難することは出来ない気もする)。

 しかし、一方で、これは、自殺者のことを全く度外視しているものと読むことも出来る。事実、主人公はまだ息のある自殺者を放置して脱兎の如く逃げている訳だし、そもそもが逃げ出した後に彼は――幸いにも、彼の「あなや」!の叫び声を聞きつけた屋敷内外の人間はは一人もおらず、彼自身も近くに住んでいた者であったので、急いで家に帰って、その一部始終は目撃されなかった――と言っているからである。則ち、

②鶯を捕えようと、こともあろうに、大名屋敷の屋敷内に不法にこっそりと侵入した主人公が、縊死して死にかけた人を発見し、思わず、「あなや」(ヒエエッツ!)と大声で叫んでしまったことを指すとも読めるのだ。則ち、首を吊って自殺をせんとして、死にきれずいる者を目の当たりにし、「おそろしと思」った時、今、自分が、お大名の屋敷に入り込んで鶯を獲ろうなどという、見つかれば、盗賊として斬り殺されても文句は言えない「ひそやかなることしながらも、吾を忘れて」「あなや」と思わず、叫び声を立ててしまうもんなんだなぁ、「とて、笑ひける」である。

 前に述べた通り、②は甚だおぞましく、救い難い。しかし、ここは、より人の心の闇が覗く②の意味なのではないかと私は思うのである。だいたいからして、この二話は孰れも不法侵入及び窃盗の話なのである。大方の御批判を俟つ。

「牛込御徒町」切絵図を見ると、現在の都営大江戸線の牛込神楽坂駅の南東側の新宿区北町・中町・南町附近である。(グーグル・マップ・データ)。

「箒草(はゝきぐさ)」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ
Bassia scoparia。アジア・中国原産。本邦では「延喜式」に雑薬として武蔵国と下総国からの献上が記録されてある。江戸時代には広く庭や畑で栽培され、若い葉はひたし物や和え物として食べ、種子を「とんぶり」と呼んで食用にする。生鮮野菜以外に、若葉を熱湯にくぐらせ、乾燥保存もされた(小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

反古のうらがき 卷之一 奇病 / 反古のうらがき 卷之一~了

 

    ○奇病

 

 いつの頃にや、或太守の、姬君一人持(もち)玉ひけるが、二八(にはち)の春を向へて、花の姿、世にいつくしく生立(おひたち)玉ひけり。父母の、よろこび、めで玉ふものから、よき婿君もがなと、よりより尋(たづね)玉ひけり。此姬、自(みづ)から思ひ玉ふに、十二分の顏色、かく處はなけれども、少し鼻の大きく思ひ玉ふにぞ、つねづね心にかゝり玉ひけり。或日、何心なく自から探り見玉ふに、鼻の大きさ、こぶしの大きさになりけり。「こわ[やぶちゃん注:ママ。]。そもいかに」と驚き玉ふ。いよいよ大きくなりて、おもてとひとしくなりけり。今はたまりあへず、衣(ころも)引(ひき)かづきて伏し玉ひけるが、いよいよ大きくなるにぞ、聲を上(あげ)て泣叫(なきさけ)び、物狂るはしく見え玉ひける。人々おどろき、そのよふ[やぶちゃん注:ママ。]を聞くに、「吾、何の因果にや、かゝる奇病にかゝりたれば、とても人に面(おも)てを見すること能はず。此儘、飮食を絕ちて死(しな)んと思ふなり」とて、絕(たえ)て飮食もし玉はざりけり。其頃、名醫の聞へありける何某とかいへる者、御藥りすゝめけれども、つやつや用ひもし玉はざりけるを、父母、せちにすゝめ玉ひければ、止事(やむこと)を得ず、用ひ玉ひけり。數日を經て少しづゝちいさくなりて、元の如くになりけり。姫君、うれしく、鏡を取(とり)て見玉ふに、元より少し小ぶりになりて、人並みになりて、はじめ、心にかゝりけるも、「此病(やまひ)のつひで[やぶちゃん注:ママ。]に、ちいさくなりつることこそめでたけれ」とて、殊に黃金(こがね)あまたをたびて、醫師に謝し玉ひけるとなん。これは世にある病にて、鼻の大きになるにあらず、かゝる心持に覺ゆる心の病也と、後、醫師、人に語りけると聞けり。

 予が友櫻園(わうえん)鈴木分左衞門も、この病を煩ひけり。これは手の大きくなるよふに覺ゆる病也。夜の間は殊(ことに)甚しく、衾(ふすま)の内にて、だんだんと大きくなりて、後には箕(み)の大さ程になるよふなれば、ともし火の下に出して見れば、何もかわることなし、眼を閉て寐んとすれば、だんだん大きくなる、探りてみるに、やはり大きなるよふ也。かかる故に寐ること能はず、燈火、明(あかる)くして、手を見つめて、夜を明(あか)すより、外なし。外に苦しむ處なしといへども、身の疲るゝこと甚しく、大病となりけり。肝氣の病なるべし。これも數月の後、癒(いえ)たり。予も訪ひ行けるに、「先(まづ)、病も癒侍り」とて、手を出(いだ)して撫でつさすりつして、「人に見せ侍りては、初(はじめ)より手の病にては非ざる物を、手を見たりとて何にかせん、かゝればこれはも肝氣の病とは知りながら、兎角に手の大きくなる病と思ふ心は忘れがたしと見ゆ」とて、人に語りて笑ひけり。されば、彼(かの)姬君の鼻の、前よりちいさく成(なり)たるよふに覺(おぼゆ)るも理(ことわ)りこそ、と思ひ合せて、同病とおもわるゝ也[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:本話が「反古のうらがき 卷之一」の最終話である。本話は既に柴田宵曲 妖異博物館 「氣の病」の私の注で電子化しているが、今回はゼロからやり直した。

「櫻園鈴木分左衞門」は底本の朝倉治彦氏の注によれば、鈴木桃野の友人で、大田南畝の門人であった鈴木幽谷。「櫻園」(おうえん)は号。幕府徒(かち)目付を勤め、諸著作がある、とある。

「肝氣の病」と断じているのは、洋の東西を問わぬ面白い一致である。西洋でも古代より「メランコリア」(現行の鬱病や抑鬱症状)は「胆汁質」タイプ(体質・性質)に発生し易い病いとされ、肝臓を病原臓器として強く挙げているからである。]

反古のうらがき 卷之一 疱瘡

 

    ○疱瘡

 伊勢平八といへる人は伊勢貞丈が別家なり。騎射をよくし、長歌をさへよく謠ふ。闊達なる人なりけり。

 若年の頃より、酒を好み、肉食をすること佗(ほか)にこへて、「しやも」といへる雞(にはとり)を食ふに、一羽を兄弟二人にて盡すといへり。其弟松軒子は予が友なり。

 一日(あるひ)、訪(おとな)ひまいらせしに、折しも、

「『しやも』一羽得たり。」

とて、予にも、もてなし玉ひけり。

 其人、面(おも)て白く、片目なり。おもき「もがさ」の目に入(いり)たるといふ。されども「こゝぞ」といふ、あともなし。たゞ一面に鮫膚(さめはだ)なる人の如し。若かりし頃はさしも美しかりつらんと思ふは、今といへども、しりつべきほどなれば、絶(たえ)て見苦しき樣(さま)はなし。

 其人、十八歳のとし、春の初めより、おもき疱瘡(もがさ)をやみて、面(おもて)より手足迄、唯一面にはれ上り、一時につぶれては、かはき、又、其(その)あいだより、膿汁(うみしる)出で、其上々々とかたまりて、こゝぞ膚といふ處は少しもなく、

「かちかち。」

と昔する程にかたくなりて、日數(ひかず)、經(へ)にけり。

 初の程は、飮食も通らず、心もおぼろげにありて、さ迄(まで)くるしとも覺へずありしが、廿日斗りありて、心はさだかになりたり。

 扨、いかにせんと思ふに、手も足も動かさずありける儘にかたまりて、面(おも)ては假面(めん[やぶちゃん注:底本の二字へのルビ。])をかぶりし如く、いづくよりか息の通ふなり。

 二便(にべん)はいかにしけるかと思ふに、人の、布(ぬの)もて取る樣(やう)なり。

 飮食はいかにと思ふに、耳のあたりより、なまあたゝかなるもの、頰のあたりをめぐりて口にいたる、これ、粥、成るべし。扨、舌もて、口のあたりを嘗(な)めこゝろみるに、なめらかふ[やぶちゃん注:ママ。]して、又、堅き物あり。其あたりに粥の付たると覺しきを、すゝりてありたる也。よくよく思ふに、痂(かさぶた)の間より息のかよへる處ありて、それより粥をつぎ込(こむ)也。自(おのづ)から是をしりたる後は、一口も食ふにたへざれども、又、おひおひに飢を覺ゆるにぞ、是非なく、これを食ふ也。手を出(いだ)して、かきおとさんとするに、左右に人ありてかたくおさへて、これを許さず、怒りにたへずといへども、又、如何ともすべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]なく、幾日となく、かくてありけり。

 五十日斗り經ぬれども、かわる[やぶちゃん注:ママ。]ことなく、唯、足のあたり、少々づゝ痂(かさ)ぶたの落(おつ)るよふに覺ゆれども、いまだ自からさぐり見ることを許さず。手もやゝ指のはたらくことあれども、いまだ試(こゝろみる)こと、なし。

 折節、春も末になりて、暖かなる日は、惣身、かゆく覺へて堪がたし。且、あつくるしきこと、いわん[やぶちゃん注:ママ。]方なし。一日(あるひ)、つよく南風の吹(ふき)たれば、おどり上る斗りにかゆく覺へて、身をもがくを、人々は、

「苦痛やある。」

とて、苦(にが)き藥など、つぎ込(こむ)に、怒りて、吹出(ふきいだ)すといへども、呼吸につれて入(いる)る時は飮(のま)ざること能はず。

 かくありてより、渴(かはき)を覺へ、飢(うゑ)を苦しむこと、廿日斗り、手足も力(ちから)付(つき)て覺ゆれども、いよいよ、人多く守りてふせぐものから、

『かくてはせん方なし。面(おも)ての痂(かさぶた)かき落したらんには、さこそ快よからめ。いかに疵付(きずつき)たればとて、男子漢【おとこ[やぶちゃん注:ママ。]のみにて。】の何をか妨げん。』

と、獨り、自から思ふといへども、母君の、いたく愛(いつく)しみて守り玉ふを、いかにともすること能はず。

 其頃より、耳の塞がり、少々づゝ明(あ)きたるにや、少し人の語る聲聞へて、

「よく寐(ね)玉ふ也(や)、ちと、やすみ候へ。」

などいふ聲の聞ゆるにぞ、忽ち、一つの謀(はか)りごとをぞ思ひ出ける。

『吾、かく心地もよく、手足も力付て何の苦しむ處もなきに、かくして飢に苦しみ、浮きを忍ぶは益なきことぞ。是をしらせんとするによりて、人々の「かきむしるぞ」と心得て守るなるべし。いでいで、寐たるふりして、人を懈(おこ)たらしめん。』

と思ひ付(つき)、一日(あるひ)、朝より少しも身を動かさず、二時(ふたとき)斗りありければ、案の如く、人々、おこたりて、側(かたはら)を去りたる樣子なり。

『此時こそ。』

と思ひて、かの耳のあたりなる飮食を入(いる)る穴に指さし入(いれ)て、

「めりめり。」

とかき落しければ、面(おもて)の大さなる痂(かさぶた)、落けり。

 折しも、櫻は、みな、散り果(はて)て、八重山吹のさかりなるに、少し木梢(こづゑ)々々は靑葉も生ひ出で、南風のそよそよと吹けるが、おもてに涼しく當りたる。

 其心地よきこと、いわんかたなし[やぶちゃん注:ママ。]。

 吾を忘れて、

「あな、こゝろよや。」

と叫びけるに、人々、おどろきて、かけ來り見るに、おもては赤はだなるに、多く、血さへ出で、いづくを目鼻とも見分け難きが、大口(おほぐち)明(あけ)て、

「からから。」

と笑ふ樣(さま)、おそろしくぞ見へける。

 母君は殊に驚き玉ひ、淚と共に、

「心地は如何にぞ。」

と問(とひ)玉ふに、

「いや、心地はさせることもなし。先(まづ)よき酒、二、三合、冷やかなる儘に、たび玉へ。いたく渴(かつ)して候へば。」

といへば、

「酒は醫師の禁物なり。素湯(さゆ)など、もて。」

といひて召しければ、やがて來にけり。

 つゞけ樣に、六、七盃、飮(のみ)けるは、快よくぞありける。

 それよりは飮食も思ふ樣にたふべ、日々に心地も健(すこ)やかにぞ成(なり)ける。

 唯、一眼はいつか星(ほし)入(いり)て、絶へて[やぶちゃん注:ママ。]見ることなくぞありける。

 面の痂(かさぶた)をさへかき落したれば、手足もおひおひかき落し、さゝ湯をさへあびたれば、常の人の心地となり、不日(ふじつ)に全快とはなりけり。

 かゝる疱瘡も又とあるべきならず。

 又、かゝる苦しきことにあひける人も、又とはあるまじ、とかたり玉ひける也。

 高千石、番町おひ坂上、此人兄弟とも、今は、なし。

[やぶちゃん注:リアリズムを出すために改行を多用した。私は「反古のうらがき」の中の真の怪奇談の頂点に、この実話を置きたい気がしている。これはまさに凄絶な実体験談、疱瘡の瘡蓋(かさぶた)が全身に広がり、顔面部では全体に重層して蠔山(ごうざん:斧足(二枚貝)類の牡蠣(カキ)が海中で多数集合して高い山の様な塊りを形成したものを俗にこう呼ぶ)の如くなったその予後経過の元患者自身が冷静に語る稀有の恐るべき記録なのである。

「疱瘡」は「はうそう(ほうそう)」で天然痘のこと。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注を参照されたい。

「伊勢平八」底本の朝倉治彦氏の注に『伊勢角之助真助(『寛政重修諸家譜』巻五〇二』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、最後の一文から、それよりも前に亡くなっているものと思われる。この兄平八が主人公である。

「伊勢貞丈」(いせさだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)は江戸中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実の研究家。ウィキの「伊勢貞丈」によれば、『江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男』。『有職読み』(中世の歌学で歌人の名を音で読むことに始まった尊敬の訓読法)『でテイジョウと呼ばれることもある』。『伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり』、『礼法に精通し、江戸幕府』三『代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された』。享保一一(一七二六)年に実兄が十三歳で『夭折して伊勢氏は一旦』、『断絶したが、弟である貞丈が』十『歳で再興』、三百『石を賜り』、『寄合に加えられた。この時』には十二『歳と年齢を詐称している』。延享二(一七四五)年には二十八歳で『御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく』、『武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった』。天明四(一七八四)年三月に『致仕し』、『麻布に隠居したが』二ヶ月後に享年六十七で亡くなった。『有職故実に関する著書を数多く残し』ている。私も数冊を所持する。

「しやも」軍鶏(しゃも)。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 雞(にはとり)(ニワトリ)」の注の「暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】」を見られたい。

「其弟松軒子」底本の朝倉治彦氏の注に『伊勢政吉貞友。環翠堂の同門か』とある。環翠堂とは既出既注の桃野の祖父多賀谷向陵(明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)が住まいの四谷佐門町で経営した塾のこと。

「たゞ一面に鮫膚(さめはだ)なる人の如し」これは後を読めば分かる通り、全身に膿疱を生じ、全身総てが鮫肌のような人という意味である。

「若かりし頃はさしも美しかりつらんと思ふは、今といへども、しりつべきほどなれば、絶(たえ)て見苦しき樣(さま)はなし」彼は大変な美男子であったのであり、現在もその面影があるのである。

「二便」大便と小便。

「なめらかふして、又、堅き物あり」「滑らかうして」は「滑らかな感じであって」同時に硬いというのであるから、これは歯列のことであろうか。

「よくよく思ふに、痂(かさぶた)の間より息のかよへる處ありて、それより粥をつぎ込(こむ)也。自(おのづ)から是をしりたる後は、一口も食ふにたへざれども、又、おひおひに飢を覺ゆるにぞ、是非なく、これを食ふ也」粥であっても、それが固まってそこを塞いでしまえば、万一、そこが唯一の「息のかよへる」経路であったとすれば、窒息してしまうことが平八には認識されたからである。しかし、それを介護者に伝達する方法がないので、平八はそこから注ぎ入れた粥を食わないことで、それを介護者に伝えようしたものであろう。

「手を出(いだ)して、かきおとさんとする」言わずもがな、重層する瘡蓋(かさぶた)を、である。前文から推すならば、闇雲でやけっぱちな行動なのではなく(痒みはこの次の段で出るから、掻痒感に耐えられなかったからでもないと思われる)、寧ろ、平八は、そうしたら或いは呼吸出来る経路が別にも出来るかも知れない、また、粥を投ずるに相応しい、呼吸用とは別な、口腔内へ比較的安全に食物を投ずることの出来るルートを形成することも可能と冷静に考えたのだと私は読む。

「吾、かく心地もよく、手足も力付て何の苦しむ處もなきに、かくして飢に苦しみ、浮きを忍ぶは益なきことぞ。是をしらせんとするによりて、人々の「かきむしるぞ」と心得て守るなるべし。いでいで、寐たるふりして、人を懈(おこ)たらしめん」平八は言葉を発して自分の思いを介護者達に伝えることが出来ないのである。さればこの思惟は、

――私が実は、かくも見た目とは異なり、疱瘡の病いは快方に向かって、寧ろ、心地(まさに心理的精神的なそれ)はよいくらいで、手足を動かし得る力もついて参り、病いのために感ずる苦しみはもう全くなくなっているのにも拘わらず、このように見当違いの方法で粥を食わそうとしている結果として、飢えに苦しみ、人々に思うところの意思を疎通することが全く出来ない憂えを、かくも耐え続けねばならないということは、全く以って百害あって一利の益もないことである。

――しかし、そのことを介護者らに伝えようとすると、彼らは、「それ! また、痒いので体を無闇矢鱈に掻き毟るぞ! 瘡蓋がひどく剥げ落ちて大変なことになる!」と、私の真意を見抜くことが出来ず、見当違いな方向で、私を抑制するのであろう(現状況下では、その誤認と行動は、それはそれで、理解は出来る)。

――よし! そうだ! 寝たふりをして、彼ら介護者を残らず、油断させることにしよう!

というのであろう。

「二時(ふたとき)」四時間。

「あな、こゝろよや」ここで初めて、病床の平八は肉声を発する。しかも「折しも」、桜は、「みな、散り果」て「て、八重山吹」(やえやまぶき)の盛り」であって、「少し」ばかりだが、「木梢」(こづえ)木梢には既に青葉「も」芽吹き「出で」ていて、「南風」(はえのかぜ)が「そよそよと吹」いていたのが、顔に「涼しく」あたり、その「心地よきこと」、これ言わん「かたな」く、思わず「吾を忘れて」叫んだ、というシークエンスは実に美事なネオ・リアリスモの映像と言える。

「たふべ」「食ふべ」。

「星(ほし)」現行では狭義の疾患としては「フリクテン(phlyctena)」或いは、俗に「星目(ほしめ)」と呼ぶもので、目の結膜や角膜に粟粒程の大きさの、灰白色の星のような結節斑点が現れる疾患。アレルギー反応が原因と考えられている。症状は充血・まぶしさ・流涙などであるが、角膜に発生したものは一般に症状が重く、白濁を残し、視力障害を齎すことが多い。所謂、腺病質の小児や思春期の女性に多い(ここは平凡社「マイペディア」に拠った)。

「さゝ湯」「酒湯・笹湯」と書き、江戸時代、疱瘡 が治った後に子供に浴びさせた、酒を混ぜた湯。笹の葉を湯に浸して振りかけたともされる。「さかゆ」とも呼ぶ。

「不日」日数をあまり経ないこと。すぐであること。副詞的にも用いる。

「番町おひ坂上」切絵図その他を見たが、「おひ坂上」は不詳。因みに、「尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図」を見ると、番町三年坂を登って左に曲がった最初の路地の左の角地に『伊勢平八郎』の名を見出せる。但し、「三年坂」を「おひ坂」と読んだとする記述は見当たらず、この切絵図の伊勢平八郎と本話の伊勢平八が同一人物であるかどうかも不明ではある。]

 

2018/09/05

反古のうらがき 卷之一 すりといふ盜人

 

  ○すりといふ盜人

 これも、竹崖子、語りたるは、杉並の何某とか、名は失す。としの暮に淺草觀音の市の賑ひ見んとて、家の男女、三、四人をゐて行(ゆき)けり。下谷を過(すぎ)る頃、思わず[やぶちゃん注:ママ。]、古き友人に行逢ひけり。たがひに昔し語りしつゝ打連れて行けるが、

「扨も、そこは、今、何國に何の業(わざ)して居玉ふ。」

ととへば、其人、聲を潛めて、

「吾は昔に似ず、色と酒とに身を持(もち)くずし、父兄の勘氣をさへに受(うけ)たれば、なすべき業もなく、今は『すり』といふ盜人の仲ヶ間に入(いり)て、かゝる人立(ひとだち)繁き所に立入(たちいり)、人の懷中物及び腰の下げ物等を奪ひて、これをなりわひとはしつる也。世になせる業も多きに、かく淺間敷(あさましき)ことしつる恥かしさを思へば、淚こぼるゝ業なれども、又、一と度、此業をし侍れば、かゝる面白きこと、世に又とあるまじと思ふにぞ、あしゝとはしれど、止(やむ)ること能はず。今、かく身なりも見苦しからず、金銀に不自由なけれども、人立多き所へ立入が身過(みす)ぎなれば、是非なし。猶、又、同じ業する者、幾たりありともしりがたし。今日は一年の賑ひ日なれば、われわれ一年の元手をかせぐ日なり。あらあら、危し。早く歸り玉へ。われこそ、君とふるきよしみあれ、其餘のもの、誰(たれ)か君をしらん。女子ども引連たるは殊に危し。金銀は誰もさし當りて失ひつれば、俄(にはか)に事(こと)かく物ぞ。よくよく心付(こころづき)て持(もち)玉へ。」

といひける。

 其樣、あたりを憚る樣(やう)もなし。

 何某、心に思ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

『かゝる一大事を路(みち)行(ゆき)ながら語るは、誠にてはよもあるまじ。』

と思ひ、打笑ひつゝ行けるが、せちに

「歸り玉へ、歸り玉へ。」

とすゝむるものから、餘りにいとわしく、

「ここ迄來つる者が、何とて今更に歸るべき。されども、今、そこがいふところ理(ことわ)りあれば、日の暮ざらん前に歸るべし。」

とて、こゝより、別れけり。

 程もなく淺草觀音前にいたりて、ふと心付けるに、懷中にありける鼻紙袋なし。

「こは。口惜(くちをし)。」

とあたりを顧(かへりみ)るに、多くの人ごみなれば、しるよしもなし。

「扨は。奪はれけり。げに彼(かの)人がいゝしこと、いたづらにてはあらざりけり。」

とて、千度萬度(ちたびもゝたび)悔ゆれども、甲斐なし。

 さし當りて食事しつべき料(れう)もなければ、

「如何(いかが)すべき。」

と案んじ煩ふ程に、はや、日も暮に近づきたれば、興もさめ果て、人々、引連れ、家路に趣く樣(さま)、いとあわれにこそ見えける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行されてある。]

 かくて、先に其人に逢(あひ)ける下谷のあたり過る頃、跡より、

「是(これ)かへし侍らん。」

とて、物もて肩のあたり、たゝく人、あり。

 かへり見れば、其人なり。

 手に持てるは吾(わが)鼻紙袋なれば、

「あしくも戲(たはむ)るゝものかな。」

とて受取、懷に入けるが、うらめしくも、又、うれしくも有ける。

 其人いふ。

「吾、先にいへるは、いかに餘りの人ならば、歸すといふ法なし。君が飢(うゑ)玉はんを思ひて、たふべ物の料に歸しぬるなれば、いざ、此處(ここ)にて、ともに蕎麥切(そばきり)など、たうべ候はん。」

とて、東叡山の門前なる蕎麥切うる家に入(いり)けり。

「久々にての面會なれば、一盃酌(くま)ん。」

とて、此處は酒肴もうるなれば、多く物取出させてたうべける。

 いやが上に、物とりよせて、人々、大(おほい)に醉(ゑひ)ける。

 日も暮に及びければ、立歸らんとする時、何某、いふ。

「今日は君が情けにて、懷中物、得たれば、酒食の料餘り有り。いで其價(あた)ひとらせん。」

といひて懷の物出(いだ)しぬれば、彼(かの)人、笑ひていふ樣(やう)、

「何の料ありてか、かくはの玉ふぞ。」

といふに、驚きて見るに、金子は、なし。

 彼(かの)人、いふ。

「これは吾輩の法なれば、歸すことなし。其外、要用(いりよう)の品々、あるべし。一品も動かすことなければ、氣遣ひ玉ふことなし。さらば、いざ、立別(たちわかれ)ん。」

とて、先に立(たち)て去りにけり。

 何某、つらつら思ふに、

『かゝる惡徒なれば、いかなることをか、たくみて、吾(わが)金子を奪ひたる上に、又も、酒食の價ひさへ吾につぐのわせぬる哉(かな)。』

と、いと口惜しく、且は、一錢のたくはへもなければ、

『こゝより、人、走らせて、さる方にてや、からん。又、家までや、歸さん。』

など、あんじ煩ひけるが、今、はた、せんかたなく、殊に此日は物うる家、ことに忙がはしくこみ合ふ中に、心なく、

「いつ迄かはおらん。」

と心ぐるしき折に、此家の小女が、取ちらせし器ども、取集めて持(もち)てさるにぞ、ともこふもあれ[やぶちゃん注:ママ。]、

「先程よりの價ひは幾ばくぞ。」

と問ひければ、

「吾は深くも存(ぞんじ)侍らねども、先の御客が給はりたれば、もはや、事濟果(ことすみは)て候へば、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍らず。」

とぞ答(こたへ)けり。

「扨は。昔のよしみは捨(すて)ざりけり、あな、うれし。」

とて、急ぎて家に歸りけるとなん。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。

「竹崖子」既出の「小野竹崖」であるが、不詳。

「身過(みす)ぎ」生活の手段。生業(なりわい)。

「あらあら」「粗粗」。だいたいからして。

「鼻紙袋」財布。元禄・宝永年間(一七〇〇年前後)にはすでに「財布」の名が浮世草子の作中等に見えているが、江戸時代は「巾着(きんちゃく)」或いは、この「鼻紙袋」の名称の方が一般的であった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「吾、先にいへるは、いかに餘りの人ならば、歸すといふ法なし」やや台詞として腑に落ちない。「私は先に言った通り(掏摸)なんであるからして、さても他の人間だったなら、掏(す)った物を返すという道理はないんだ」という意味で採っておく。

「たふべ物」「食(た)ふべる物」。

「東叡山」寛永寺の山号。

「これは吾輩の法なれば、歸すことなし。其外、要用(いりよう)の品々、あるべし」掏摸として、掏った財布の金子は決して掏った奴には返さない、というのが私の掏摸としての矜持である。財布に入れていた金子以外のもので大事な品々もあることであろう。

「一錢のたくはへもなければ」財布以外には金子を持っていないし、連れの者たちも大した金子は持ってきていなかったということであろう。

「あんじ」「案じ」。

「いつ迄かはおらん」反語。何時までもいられるもんでもない。

「ともこふもあれ」正しくは「ともかくもあれ」のウ音便で「ともかうもあれ」。「ともかくも」に同じい。]

反古のうらがき 卷之一 羆

 

   ○羆

 予がしれる御作事下奉行豐藤省吾といへる人の弟何某、公(おほやけ)の仰(おほせ)を受(うけ)て、蝦夷ケ嶋(ゑぞがしま)に行(ゆき)ける。おゝく日數(ひかず)經(へ)にたれば、冬の中(うち)に至りて、雪、いたく降り積りて、おゝやけのこともはかばかしくはてず、いたづらに日を送りけり。

 或日、蝦夷(ゑぞ)一人、弓矢たづさへ出(いづ)るを見る物から、

『こわ[やぶちゃん注:ママ。]、獵に出るならん。』

と思ひて、跡につきて行けり。

 貮里斗りも行ける時、蝦夷、立留(たちどま)りて小隱(こがく)れする樣(やう)、

『獸にても見付たるや。』

と見てあれば、行手の路、十四、五間斗りの處に、竹の多く生(おい)しげれるを、左右よりおし倒して、其上に大熊、座したり。

 聞及(ききおよ)ぶ蝦夷の大熊は所謂、羆(しくま)といふ者にて、尋常の熊より遙(はるか)に大にして、且(かつ)、たけし。

 此方(こなた)に向ひて座したるは、睡れる樣(さま)に似たり。

『扨も、大(おほい)なる熊よ。』

と見る程に、蝦夷は大岩のかげに身を潛(ひそ)めて、何某が立(たち)ける後より一矢(いつし)射て、跡をも見ずして逃去(にげさ)りけり。

 此(この)矢は烏頭(うづ)を煎じつめて、魚の骨を鏃(やじり)とせし箭(や)をひたし置(おき)て、いることにて、毒矢なり。ふつうの獸は一矢にて、遠くも走らで立(たち)すくみになりて死する、と、きく。

 今、射付(いつけ)たるも是なり。

 月の輪を目懸(めがけ)たれども、間(ま)、遠ければ、一尺斗りも下とおぼしき處に立(たち)ける。

 大熊、驚きて、此方を見ると均しく、ましぐらに飛來(とびきた)る。

 何某、身を潛(ひそむ)るに所なく、雪は深し、逃(にぐ)べき方(かた)もなし、先づ、立(たち)ながら、刀、引拔(ひきぬき)て、靑眼(せいがん)にかまへたれば、大熊、少しおそれけるか、とみにも取(とり)かゝらず、間(ま)一間(けん)斗りに立留りて、人立(じんりつ[やぶちゃん注:底本のルビ。])【ひとのごとく立(たつ)。】して大口を開き、怒れる樣(やう)、口より出(いづ)る息氣(いき)、煙(けぶ)りの如し。

 此方(こなた)も、少しのすき間も無く、刀、突付(つきつけ)て、近よらば、差通(さしとほ)さん、とかまへたり。

 されども、見上(みあぐ)る程の大熊なれば、叶ふべしとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、しばしにらみ合(あひ)て有(あり)けれども、はてしなし。

 蝦夷が立歸(たちかへ)りて、今、一矢、射るやと思ふに、其事も無く、後(しり)への方は、今、來りし路なるが、高低(たかひく)ありて平らかならず、岩の高きも有(あり)つれども、皆、雪に埋もれて、しるよしなし。

『扨は、逃(のが)るべき方(はう)なし。唯にたのむ所は此(この)一刀のみ。』

と思ふに、今は心細く、一心に握り詰(つめ)たる手の内、油、出で、ぬめるに、堅木(かたぎ)に金物(かなもの)はめたる木柄(こづか)なれば、殊にしまりあしく、

『大熊、もし取(とり)かゝりたらんに、此まゝ刺(さゝ)んより外に手なし、惡しく刺(さし)たらんには、手の内より、ぬめり出で、取落(とりおと)さんか。』

と思ふ憂ひありて、心元なく思ふ物から、唯、足ぶみと手の内とのみに、心を付(つけ)て、大熊の來(きた)ると來らざるとは、思ひ斗(かは)るにいとまなかりしが、凡(およそ)、烟草(たばこ)を吸ふ三服斗りの時刻を經て、熊も、體つかれしか、又は、毒の𢌞りしか、つく息、ほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の如く、氣息(きそく)、急になりて、しばしば取かゝらんとして、かゝらず。

 伺某は力盡果(つきは)て、

『今は、かなわじ。』

と思ふに、持(もち)たる刀の重さ、十貫め斗りある如く覺て【持たる刀の十貫めもあるらんと思ひしといふ事、不審なり。あぶらの出(いづ)ぐらい[やぶちゃん注:ママ。]、上氣してあらんには、重き刀もかるくなるはづ[やぶちゃん注:ママ。]也。これは實地を踏みたる論とは思はれず。】、持ち兼(かね)たる時、大熊も、氣、盡(つき)て、大山の如く、倒れかゝりけり。差付(さしつけ)たる刀は、胸のあたりに刺入(さしいり)けると思ひしが、絶入(たえいり)て、其後は覺へず、相共(あひとも)に雪の中に伏しけり。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行がなされてある。]

 此事、誰(たれ)しる物もなく、其日も暮(くる)る頃、蝦夷、家に歸りて、何某が家來に手眞似して教ゆる樣(さま)、恠しげなりしが、ひたすら袖を引(ひき)て行(ゆく)に從ひて行(ゆき)ければ、やがて、其所に出(いで)たり。

 よくよく見れば、主人と大熊なり。

「扨は、主人は家にはあらで、いつしか此所に來(き)まして、大熊と共に死し給ひけるよ。」

と、大(おほい)に驚きて、いだき起し、家に背負ひ歸りて、燒火(たきび)にて煖(あたた)め、氣付藥などあたへければ、程もなく蘇(よみがへ)りぬ。

 蝦夷ども、多く呼集(よびあつ)めて、大熊、引歸(ひきかへ)りて、みるに、一丈斗りの大熊にて、其(その)種、常にかわりて、深山にのみありて、みることまれなる物なるが、雪のいたく降(ふり)たるによりて、近きあたりに出けるなるよし、膽(きも)も常より大なりといふ。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行がなされてある。]

 何某が、後(のち)に人にかたりしは、

「木の柄の刀、持(じ)すべからず。手の内、𢌞(まは)りて、取落すことあるべし。目貫(めぬき)も大なる方(はう)、よし。幾ばくの手がかりになる物也。元來、刀は身の守りにて、鬼魅魍魎[やぶちゃん注:ママ。]もおそるゝといゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふること、誣(しひ)たりとせず。大熊、刀の光りを見て、とみに飛かゞらざること、刀の威德といふべし。刀の刄(は)の利(よ)く物を截(さい)するは、人こそよくしりたれ。大熊のしらんよふ[やぶちゃん注:ママ。]はなけれども、自(おのづ)から神物(しんもつ)と見ゆるものから、近(ちか)よることの能はざるは、不思議といふもおろかなり。かゝる神器(しんき)を身に付(つけ)たる武士こそ、仕合(しあはせ)といふべし。努(ゆめ)、腰物(こしのもの)、粗末になし玉ひそ。」

といへりとぞ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。「羆」は本文に振られてある通り、「しくま」と訓じている。哺乳綱食肉目クマ科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis 古くは「しくま」と呼ばれた。平安中期の源順の著した「和名類聚鈔」の「羆」の条には、

   *

羆 爾雅集注云羆【音碑和名之久萬】似ㇾ熊而黃白又猛烈多力能拔樹木者也

   *

とあり、「之久萬」は「しくま」である。ネット上の「語源由来辞典」の「ヒグマ」によれば、この古称「しくま」は『漢字の「羆」を「四」と「熊」に分けて読んだこと』に由来するとあり、『七世紀には「ヒグマ」の発音が見られるが、一般には「シクマ」もしくは「シグマ」が江戸時代まで使われた』。『明治時代以降、「ヒグマ」の発音が増えるが、明治中期以降も「シグマの誤り」とする辞書が多く、一般化したのは大正以降である』。『「シクマ」からの音変化は、「シ」と「ヒ」の音が混同されやすいこと』によるものと『考えられるが、漢字「羆」の字音は「ヒ」なので、「羆熊(ヒクマ)」という意識があったとも考えられる』。『ちなみに、漢字の「羆」は、網で生け捕りにする熊を表した会意文字で、「四」と解釈されている部分は「網」を表している』とある。

「御作事下奉行」「おさくじしも(或いは「した」とも)ぶぎょう」(現代仮名遣)と読む。ウィキの「作事奉行」によれば、『普請奉行、小普請奉行とあわせ下三奉行(しもさんぶぎょう)と呼ばれた』とあるから、この「下」は普請関係の実務を統括した奉行職の謂いのようで、下級職という意味ではない。寛永九(一六三二)年の設置で、老中支配、諸大夫役で役高は二千石。定員二名。『殿中席は芙蓉の間。幕府における造営修繕の管理を掌った。特に木工仕事が専門で、大工・細工・畳・植木などを統括した』。寛文二(一六六二)年からは一『名が宗門改役を兼任した』。『納戸口と中の口門の間の棟の一番端の目付部屋の隣に本部が置かれた。下役に京都大工頭、大工頭、作事下奉行、畳奉行、細工所頭、勘定役頭取、作事方被官、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などの役がある』。『作事奉行を無事に務めあげた者は、大目付や町奉行、勘定奉行などに昇進した』とある。

「豐藤省吾」姓は「とよふじ」であろう。区立京橋図書館の『郷土室便り』(第二十四号・昭和五四(一九七九年六月発行)の安藤菊二氏の「切絵図考証 一一」(PDF)の中に『御畳奉行格御作事下奉行豊藤省吾』と出ており、「第 3  日本近世の浮橋 ―江戸幕府御用舟橋論考―」(PDF・全体の標題不詳)の中にも天保一二(一八四一)年八月八の老中首座水野忠邦の、翌年の将軍日光参詣の際の休憩所等の検分ための調査一行の中にも『豊藤省吾(作事下奉行)』の名を見出せる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「蝦夷ケ嶋(ゑぞがしま)」言わずもがな、現在の北海道。ウィキの「北海道」によれば、古くは「日本書紀」に『渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫』(あべのひらふ 生没年不詳:七世紀中期飛鳥時代の将軍。越国守・後将軍・大宰帥(だざいのそち)を歴任し、斉明天皇四(六五八)年から三年をかけて日本海側を、北は北海道まで航海して蝦夷を服属させた)『と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている』。『中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)など様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、鉄などを日本人(和人)の交易で得るようになっていった』。また、『鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる』。『室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた』。『和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている』。『当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている』。『室町・戦国期には本土から』の『和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した』「新羅之記録」(寛永二〇(一六四三)年成立)『があり、同書に拠れば』、康正三・長禄元(一四五七)年に起きた「コシャマインの戦い」で『甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)』。『松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌは』「シャクシャインの戦い」や「クナシリ・メナシの戦い」で『蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された』。天明四(一七八四)年からは『蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。なお、明和八(一七七一)年には、『「択捉島のアイヌ」と「羅処和島のアイヌ」が団結し』、得撫(うるっぷ)島と磨勘留(まかんる)島で『ロシア人を数十人』、『殺害する事件が発生していた史実が』あるとする。『江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ』、『日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた』。『ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また』、寛政一一(一七九九)年には東蝦夷地を、文化四(一八〇七)年には『西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として』、享和二(一八〇二)年に『蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった』。その後、『ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は』文政四(一八二一)年に『廃され、全蝦夷地は松前藩に還付され』ている。前注の時制限定から、これは松前藩還付後のことと考えてよいようにも思われる(無論、それ以前でも構わぬ)

「物から」以前に注した接続助詞「ものから」(形式名詞「もの」+名詞「から(故)」)で、ここは順接の確定条件の原因・理由の用法。「~なので・~だから」。

「こわ」「こは」(代名詞「こ」+係助詞「は」)。「これは! まあ!」の感動表現を示す連語。何某は仕事も捗らず、暇であったのに加えて、個人的興味からも、アイヌの狩猟法を見たかったのであろう。

「十四、五間」二十五メートル半から約二十七メートル。

「烏頭(うづ)」強毒を有する双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属Aconitum の古い総称異名。

「いることにて」射ることにて。実戦に於いて射るのに用いるものであって。

「月の輪」「これは蝦夷にはいないツキノワグマ(クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマUrsus thibetanus japonicusだから、この話全体が嘘と見えた」と知ったかぶりしてはいけない。エゾヒグマには個体によっては「月の輪」があるのである。ウィキの「エゾヒグマ」によれば(太字下線やぶちゃん)、『毛色は褐色から黒色まで個体により様々であり』、『その色合いごとに名称が付けられている。黄褐色系の個体は』「金毛」と称し、『白色系の個体は』「銀毛」、『頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体は』「月の輪」と称するとある。個人の画像であるが、こちらを見られたい。

「靑眼(せいがん)」Q&Aサイトの回答によれば、『中段の構えの一種で』あるが、『流派によって微妙に違う』らしい。一般的な『中段の構えとは』、『切っ先を相手の喉もとのあたりに向ける構えのことで』あるが、『これをやや斜め上に少し上げて、相手の眉間から左目のあたりに切っ先を向けるのが、青眼の構え』であると回答者は理解しているとあり、『流派によっては、正眼と青眼と晴眼を使い分けたり、上段も下段も正眼の中に含める流派もあったりして、正直いって全体像はなかなかつかめ』ない。『ただ、「青眼」あるいは「正眼」という以上は、真正面から相手に向き合う構え、という意味なのは間違いないと思』われると記す。しかし、『その「正面」というのが、本当にまっすぐなのか、それともやや斜に構えたほうが実際には打ち込みやすいととらえるのか、そのあたりが流派や人によってとらえ方が異なり、言葉の使い方の差となって表れているのではない』かと纏めておられる。まさに眼から鱗であった。

「とみにも取(とり)かゝらず」急には襲いかかって来ず。

「一間」一メートル八十二センチメートルほど。

「はてしなし」「果てし無し」。

「後(しり)への方は、今、來りし路なるが、高低(たかひく)ありて平らかならず、岩の高きも有(あり)つれども、皆、雪に埋もれて、しるよしなし」後方への逃走のために垣間見たのであるが、その様子から、どうみても顚倒せずに走り逃げおおせることは困難と見たのである。

「殊にしまりあしく」木製の柄と刀身の締りが非常に悪いために、刀身が脇に逸れがちで、突き通した際に、目指すところ(心臓と思われる辺り)から流れてしまい、失敗する可能性があると感じているのである。

『大熊、もし取(とり)かゝりたらんに、此まゝ刺(さゝ)んより外に手なし、惡しく刺(さし)たらんには、手の内より、ぬめり出で、取落(とりおと)さんか。』

「足ぶみ」自身の左右の足の送り方。

「つく息、ほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の如く」「ほのふ」は「炎(ほのほ)」であるが、「氣息(きそく)、急になりて」とあるから、羆の呼吸が荒くなって、呼気よりも吐気が激しく、それが白い水蒸気と成る様子が炎のようであったというのである。

「十貫め」三十七キロ五百グラム。桃野の「重き刀もかるくなるは」ずだという批判の当否は別としても、この重量は幾らなんでも誇大に過ぎ、「これは實地を踏みたる論とは思はれず」という猜疑も確かに生ずると言わざるを得ない

「一丈」三メートル三センチメートル。

「種」「しゆ(しゅ)」でよかろう。その類。

「手の内、𢌞りて」柄が木製だと、強く握っても、手の中で柄が回転し易く。

「目貫(めぬき)」目釘のこと。刀身が柄から抜けるのを防ぐために茎の穴と柄の表面の穴とにさし通す釘。竹・銅などが用いられた。それが大きい方が滑り止めの役目や、刀を安定して支持し続けるためのなにがしかの「手掛かり」ともなるから、と言っているようだ。

「鬼魅魍魎」「魑魅魍魎」の誤字らしい。

「誣(しひ)たりとせず」「しふ(しう)」は「強いる」と同語源で、「事実を曲げて言う・作りごとを言う」。嘘とは思わない。

「大熊のしらんよふはなけれども」「よふは」は「やうは」で、幾ら獣(けもの)とはいっても、知らないという「ようなことは」流石にないであろうが。無論、熊でも、一度、刀が危険物であることを学習すれば、知ることは出来るし、そもそもが光るものは本能的に警戒するはずである。

「自(おのづ)から神物(しんもつ)と見ゆる」この感想が冷徹な現実主義者の桃野には気に入らなかったのではないかと思われ、それが引いては話全体を作り話ではないかと疑う契機となったのではあるまいか。

「ものから」先と同じ、順接の確定条件(原因・理由)。

「不思議といふもおろかなり」ただ単に「不思議だ」と言ったのでは、まだ言い足りないほどの超自然の神秘の力ではないか。これも桃野が甚だ嫌う物謂いと言える。

「といへりとぞ」という文末から、この話が直接何某から聴いた話ではなく、高い確率で、その兄で桃野の知人である豊藤省吾から弟の〈実体験談〉として聴き取ったものであることが判明する。友達の弟というのは友達の友達ではないから、嘘臭い噂話の主属性からは外れるが、この話、結局、この何某の自慢話に軟着陸しており、数分間に及ぶ睨み合いからトリカブトの毒が間一髪で効くところなどのシーンに劇的な作話性が感じられ(目の前で睨み合っていた何某が背後を振り返って地勢を確認する辺りは、一見、リアリズムっぽく映像にも浮かぶけれども、羆と睨み合っている最中にそうした動きをすれば、確実に後ろを振り向いた瞬間に羆に襲われている)、最終的には桃野が疑うように私もどうも信じ難い気がしている。]

反古のうらがき 卷之一 賊

 

   ○賊

 予が友一峯子は、其さが、滑稽にして、又、わざおぎの眞似にすぐれたり。繪事(ゑごと)は雲峯老人に久しく從ひて、又、ざれ繪に長ぜり。

 或年、

「上毛の邊に游歷せん。」

とて立出(たちいで)けるが、

「其地は長脇指(ながどす)といふわる者出で、旅人をなやますことあり。」

と聞(きき)つれば、心おそろしく、一人旅の心細さに、一つのはかりことを思ひ出(いで)けり。

「常に眞似けるわざおぎがわる者のいで立(たち)を學びて、吾こそわる者よと人におそれられたらんには、其友とこころ得て、なやますこともなかるべし。」

と、月代(さかやき)をさへ幾日もそらで、そら樣(ざま)に生(おひ)しげらし、衣服の樣も大じまに黑きゑりかけて、袖は廣くあけたり。長き脇差の、朱の漆もてぬりたるさやに、太きひものふさ下りたるを橫たへ、菅(すげ)の笠に面(おもて)をかくし、繪の具入(いり)たる箱と柳ごふり[やぶちゃん注:ママ。]とを兩がけにして出たれば、おさおさ[やぶちゃん注:ママ。]わる者にもおとるまじ、とこそ見へける。

「吾ながら、よくしつるもの。」

と、ひとり笑(ゑみ)て行(ゆき)けるに、こゝは名にしおふ熊ケ谷の土手とて、晝さへもわる者出で、人を切害(せつがい)することあるなど聞ける所なれば、いとゞ心細く行(ゆく)に、後(あと[やぶちゃん注:底本のルビ。])べより來(きた)る人ありて、聲をかけたり。

「君は一人の御旅とこそ見請(みうけ)奉る。やつがれも一人旅にて心細く侍るなり。あわれ[やぶちゃん注:ママ。]、召(めし)つれ玉はらば、御荷物も、やつがれ、かわり[やぶちゃん注:ママ。]てもち申(まうし)べし。御侍の御供になりてあらんには、いかなるわる者にあふとも、何んのおそれかあるべき。」

と、せちに乞ひける樣(さま)、いとあわれ[やぶちゃん注:ママ。]にみへて、其身なりも町人の旅人に疑(うたがひ)なければ、

「そは易き程のこと也。さあらんには、荷物もてるあたひを定めて、扨こそもたすべけれ。」

といへば、

「それにも及ばぬことなれども、いさゝかのあたひを乞ひて、君がこゝろを安んずべし。」

といふにぞ、其價ひを定めて、兩がけを渡しければ、あとべに從ひ、四方山(よもやま)の物がたりして來(きた)る樣(さま)、

『吾をおそるゝにや。』

と思ふ物から、猶も心おちゐて、

『よき友をこそ得たり。』

と思ひて、伴ひ行ける。壹里斗りも行たる頃、いづち行けん、見へざれば、

「後れやしつらん。」

と立留(たちど)るに、かひくれに[やぶちゃん注:ママ。]見へず。

「扨は、かれもわる者よ。」

と悔(くひ)けれども、せんなし。

 着がへの小袖、其外の要用(いりよう)の品も、こりの内に置(おき)たれば、如何ともせんかたなく、ひたすらに道を急ぎて、とある葦(よし)ず圍ひの茶をひさぐ翁がもとを過(すぐ)るとき、ふと見れば、先の男、吾が小袖を着て、其外の荷物は側に置(おき)て居(ゐ)にけり。

 いかれる儘に身もふるはれて、

「盜人よ。」

と呼(よば)はる聲とともにかけ入(いり)て取らへたり。

 其人も驚きて、

「ゆるさせ玉へ。」

と、いゝ樣(ざま)、遁(のが)れんとするを、かたくおさへて動かさず、

「よくも謀(はか)りけるよ。」

とのゝしりて、先(まづ)、吾(わが)小袖を奪ひ取(とり)、荷物を開きて見るに、その者の衣服あり。

「これは、おのれ、着よ。」

とて投與(なげあた)ふ。

 其外、失ひし物もなし。

 扨、如何せん、とためらひける内に、「盜人盜人」と呼(よば)わり[やぶちゃん注:ママ。]ける時に、往來の人、聞付(ききつけ)けん、だんだんと人多く集り、村のおさなども聞付てかけ來りて、圍みの外(そと)にてもんちやくするを、よく聞(きか)ば、

「あの長脇差(ながどす)は定めて上州のわる者ならん。早く打倒(うちたふ)して旅人をすくへ。」

などいふ樣(さま)、吾を盜人と思ふに似たり。

『こわ[やぶちゃん注:ママ。]、大なる誤り。』

とおもへども、衆人、みな、かく思ひたれば、とみに言(いひ)とくによしなく、

『如何せん。』

とおもふに、盜人も圍みの外に出(いで)たらんには、打倒されんことをおそれて、かゞみ居て、にげもやらず、茶を賣る翁は、耳のつぶれたる人にや、初より、たゞあやしみたる顏色のみにして、辭(ことば)も出(いだ)さず、ほとほと、もてあつかひたることになり行(ゆき)ぬ。

 吾も人にあやしまれたれば、おもてに出たらんに、いか樣(さま)の禍(わざはひ)も斗(はか)りがたく、今にして其(その)出立(いでたち)のあやしげに、月代の舒(の)びたると、衣服のわる物作りなるを悔みけり。

 又、かの盜人はそれに殊(こと)なり、小男にして、衣服・物ごし、殊勝なり。初(はじめ)より、盜人とは誰(たれ)も思ふ者なきものから、扨も、吾を盜人よと思ひあやまるも道理(ことわり)にこそありける。

 かくて、あるべきならねば、盜人に向ひて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「吾は物(もの)取歸(とりかへ)したれば、ゆるすべけれども、おもての人は見誤りて、吾を盜人と思ふとみへたり。なんじ[やぶちゃん注:ママ。]、衆人に向ひ、『吾こそ盜人にて候なれ、あれに在(います)は御侍の旅人なれば、聊爾(りようじ)なせそ』と、ことわりて、いづくなりとも行け。」

といい[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「こわ[やぶちゃん注:ママ。]、有(あり)がたし。」

とて、おもてに出(いで)て、

「やよ、人々よ、あれにおわすは旅の御侍にて候ぞや、聊爾なせそ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、人の中、おし分(わけ)て出(いで)けるが、

「盜人は、吾よ。」

と、いふと均しく、逸足出(はやあしいだ)して逃去りけり。

「扨は。さりけり。」

とて、人々も散んじければ、其所を出(いで)て上州に趣きけるとなん。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。

「一峯子」不詳。

「さが」性質。

「わざおぎの眞似」「俳優(わざおぎ)」で、ここは歌舞伎役者の仕草のそれを、素人がまた物真似することを指している。

「雲峯老人」不詳。

「ざれ繪」「戲(ざ)れ繪」。戯(たわむ)れ画(が)きの絵。滑稽・風刺を主とした戯画のこと。

「上毛」上野国の別称。現在の群馬県。上州任侠はよく知られる。次注参照。

「長脇指(ながどす)」既出既注であるが、再掲しておく。長脇指(長脇差)は本来は一尺八寸(約五十四・五センチ)以上の脇差を言う語であるが、これは幕令によって町人が差すことが禁止されていた。ここは、それを不法に差していた、不良浪人・博徒・渡世人或いは盗賊(団)を指す。小学館の「日本大百科全書」の「博徒」によれば、こうしたアウトローらは、賭け事が庶民階級に浸透していった平安初期には既に発生していたが、組織化して本格的武装をし始めたのは江戸時代で、幕府は文化二(一八〇五)年に関八州取締所を設置、彼らの取締りを強化した。それを避け、江戸及び近郊の博徒らは、このまさに上州付近に集まって、幕府に抵抗した。その後、幕府の取締りも効果がなく、二十年後の、まさに本話柄内時制に近い文政一〇(一八二七)年頃には鉄砲・槍などまで装備し、『ますます手のつけられない状態となった。博徒のことを長脇差(ながどす)というが、戦国時代に榛名(はるな)山の中腹にあった箕輪(みのわ)城の武士たちが好んで長い脇差(わきざし)を用いたところから、上州に集まった博徒たちが自然に長脇差で武装し、その別名となった』のであった。『博徒の集団は一家をなし、統率者を親分といい、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居という身分階級が定められていて堅い団結を信条としている。博徒の子分になるには、仲人(なこうど)をたて』た『厳粛な儀式』を経て、『「一家のため身命を捨てても尽くすことと、親分の顔に泥を塗るような行為はけっしてしないこと」を誓』ったとある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「常に眞似けるわざおぎがわる者のいで立(たち)を學びて」いつも人を喜ばせるのにやっている、舞台の歌舞伎役者の悪人の恰好や仕草を学んで。

「其友とこころ得て」真の悪者どもも、拙者をその同じ悪人仲間と勘違いして。

「そら樣(ざま)」「空樣」。上の方に。

「大じまに黑きゑりかけて、袖は廣くあけたり」太い縞模様に黒い襟を懸け、袖を広く開けたド派手な風体(ふうてい)で。傾奇者(かぶきもの)の好んで着た異装である。

「橫たへ」体の左右に出す形で挿すこと。同前。

「柳ごふり」「柳行李」(やなぎごうり)。歴史的仮名遣は「やなぎがうり」が正しい。コリヤナギ(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属コリヤナギ(行李柳)Salix koriyanagi朝鮮半島に自生し、古く日本に渡来したとされ、江戸時代には行李材として広く用いられていた)の枝の皮を除いて乾かしたものを麻糸で編んで作った行李。

「おさおさ」ここは呼応の副詞で、後に打消の語を伴って、「ほとんど(~ない)・全く(~ない)」の意。

「熊ケ谷の土手」既出既注であるが、再掲しておく。現在の熊谷は埼玉県であるが、北で利根川を挟んで群馬県と接しているから、この附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「後(あと)べ」「後邊」。後ろの方。

「やつがれ」「僕(やつがれ)」。男性の一人称謙称。

「荷物もてるあたひ」荷物を持つに当たっての手間料・駄賃。

「物から」接続助詞「ものから」(形式名詞「もの」+名詞「から(故)」。上代から見られる語法であるが、上代には未だ二語としての意識が強く、中古に至って、一語の接続助詞としての用法が成立した)。ここは順接の確定条件の原因・理由の用法。「~なので・~だから」。

「かひくれに」呼応の副詞「搔い暮れ」で「かいくれ」が正しい。動詞「搔き暮れる」の連用形が転じたもの。下に打ち消しの語を伴って、「全く、まるで、皆目(~ない)」の意。

「こり」「行李」。かくも読んだ。

「いかれる儘に身もふるはれて」「怒れる儘(まま)に身も震はれて」。

「村のおさ」「村の長」。

「もんちやくする」「悶着する」。

「とみに言(いひ)とくによしなく」急にここで縷々(るる)事実を話して説得する余裕もないので。場の雰囲気が完全に主人公に不利であるから、弁解を即座に信て呉れそうもないからである。

『如何せん。』

「圍み」人垣。

「もてあつかひたること」「持て扱ひたる事」は、ここでは「取り扱いに苦しむ・もて余す」の意。

「舒(の)びたる」「舒」は音「ジョ・ショ」で、訓は「のべる・のばす・ゆるやか」。

「殊勝」(見た目や今の態度が主人公よりも遙かに)健気(けなげ)で感心に見えることを指す。

「ものから」先と同じ順接の確定条件の原因・理由の用法。

「吾こそ盜人にて候なれ、あれに在(います)は御侍の旅人なれば」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。

「聊爾(りようじ)」ぶしつけで失礼なこと。これはもともとは「かりそめ」・「ちょっと」・「暫く」といったかなりフラットな意味であるが、「かりそめ」(仮初め)に「軽々しい・こと(さま)。おろそか。ゆるがせ」の意があるから、そこから「沮喪・しくじり」となり、このような意味を表わすようになったものであろう。

「なせそ」するな。呼応の副詞で禁止の意の「な」+サ変動詞「す」の未然形+禁止の終助詞「そ」。

「こわ」「こは」(代名詞「こ」+係助詞「は」)。「これは! まあ!」の感動表現を示す連語。

「さりけり」「然(さ)りけり」。そうだったのか。]

2018/09/04

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷓鴣(しやこ) (シャコ)

Syako

しやこ 越雉

鷓鴣

 

チヱヽ クウ

 

本綱鷓鴣形似母雞頭如鶉臆前有白圓點如眞珠背毛

有紫赤浪文好啖半夏烏頭苗【故肉有微毒】性畏霜露早晚稀

出夜栖以木葉蔽身多對啼云鉤輈格磔今俗謂其鳴曰

行不得哥也其飛必南向雖東西囘翔開翅之始必先南

翥其志懷南不徂北也其性好潔獵人因以黐竿粘之或

用媒誘取商人專炙食肉白脆味勝雞雉【不可與竹笋同食】

藻塩 しやこといふ鳥の上尾の紅に散りし紅葉の殘なりけり

△按字彙云鷓鴣其飛數隨月若正月一飛而止蓋未知

 然否近年亦有來中華最爲珍

 

 

しやこ 越雉

鷓鴣

 

チヱヽ クウ

 

「本綱」、鷓鴣、形、母雞に似、頭は鶉〔(うづら)〕のごとし。臆(むね)の前に白き圓點有り、眞珠のごとく、背の毛に紫赤の浪の文、有り。好んで半夏〔(はんげ)〕・烏頭〔(うづ)〕の苗を啖〔(く)〕らふ【故に肉に微毒有り。】。性、霜露を畏る。早晚には出〔(いづ)〕ること稀なり。夜、栖〔(すみか)〕に〔て〕、木の葉を以つて身を蔽ふ。多く、對し〔て〕啼きて、「鉤輈格磔(キユイチウコキツ)」と云ふ。今の俗、其の鳴くを謂ひて、「行不得哥〔(シンブウデエグウ)〕」と曰ふなり。其れ、飛ぶこと、必ず、南に向ふ。東西に囘-翔(とびかく)ると雖も、開翅の始めは、必ず、先づ、南に翥(と)ぶ。其の志、南を懷〔(おも)ひ〕て、北に徂(ゆ)かざるなり。其の性、潔を好む。獵人、因りて黐-竿(ゑさしざほ)を以つて之れを粘〔(ねん)〕ず。或いは媒(をとり)を用ひ、誘(さそ)い[やぶちゃん注:ママ。]取る。南人、專ら、炙り、食ふ。肉、白く脆(もろ)く、味、雞・雉に勝れり【竹笋〔(たてのこ)〕と同食すべからず。】

「藻塩」 しやこといふ鳥の上尾の紅(くれなゐ)に散りし紅葉の殘るなりけり

△按ずるに、「字彙」に云はく、『鷓鴣、其の飛ぶ數、月に隨ふ。正月のごときは一飛〔(ひととび)〕して止む。』〔と〕。蓋し、未だ然るや否やを知らず。近年、亦、中華より來たること有り、最も珍と爲す。

[やぶちゃん注:シャコ(鷓鴣)はキジ科 Phasianidaeの鳥の一群の総称で、キジとウズラの中間の体形を持つものを俗称するものであって、分類学上の区分ではない。良安も述べている通り、本来は日本には棲息しない鳥であるが、私には実はすこぶる親しい名なのである。何故なら、私の好きなツルゲーネフの「猟人日記」(私のサイトの「心朽窩新館」に翻訳電子化有り。以下のリンク先も同じ)や「散文詩」(これは中山省三郎氏訳)、また、同じく偏愛するジュール・ルナールの「博物誌」「にんじん」(孰れも岸田国士氏訳)にしばしば登場する鳥だからであり、果ては宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集「無門關」(私には暴虎馮河の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」(サイト一括版)がある)の「二十四 離却語言」(こちらはブログ単発版)にも登場し、実はその時の訳注作業によって「行不得哥」に「シンブウデエグウ」という音も添えることが出来たのである。幾つかの種を挙げると、ヨーロッパやロシアで古くから狩猟鳥として有名で、上記の作品群にも登場する、

キジ科ヤマウズラ属ヨーロッパヤマウズラ Perdix perdix(フランス名:Perdrix rouge:ペェルドリ・ルージュ/英名:Grey partridge:グレイ・パートリッジ)

や、中国南部・東南アジア・インドに分布し、家禽としても飼育され、中国では単に「鷓鴣」「中國鷓鴣」及び、ここに出る「越雉」や、習性として記されてある「懷南」の別名を持つ、

シャコ属コモンシャコ(小紋鷓鴣)Francolinus pintadeanus

また、カフカス山脈・ヒマラヤ山脈・チベットなどに棲む高山性の、

セッケイ(雪鶏)属 Tetraogallus

のセッケイ類、また、中国南部原産であるが、北陸地方以北を除く本州・四国・九州に移入して定着し、私の家の裏山にもワンサカいる、既に我々にお馴染みの鳴き声「チョットコイ、チョットコイ」で知られる、

コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicus

及び、神戸周辺に定着している同種の亜種、

タイワンコジュケイ(テッケイ(竹鶏))Bambusicola thoracicus sonorivox

等がいる。コジュケイとテッケイはウィキの「コジュケイ」によれば、本邦には『ペットとして移入された』。『狩猟用に基亜種が』大正八(一九一九)年に『東京都や神奈川県で(』大正四(一九一五)年『には既に脱走していたとされる』『)、亜種テッケイが』昭和八(一九三三)年に『埼玉県や兵庫県で放鳥された』とある。

 また、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「シャコ」の項を見ると、ここで良安が挙げる「本草綱目」の「鷓鴣」は、同書の校訂を行った一人である木村重博士(但し、彼は魚類学者である)によれば、それはシャコではなく、『サンケイ Lophura swinhoii(英名 Taiwan blue pheasant)にあてられる』としつつ(以下、コンマを読点に代えた)、『しかしこれも仮の同定で、テッケイの一種を指すともされる』とあって、さらに中国『北部ではウズラを鷓鴣(チエークー)とよび、シャコは石鶏(シーチー)と称する、と述べている』とある。さらに荒俣氏は『日本にもシャコはまれに渡来したらしい』とされて、「蔵玉和歌集」(室町時代の歌集。一巻。草木鳥月の異名などを詠み込んだ和歌を類聚し、簡単な注を施したもの)から、まさに良安が引いている一首を挙げ(良安の引用元は、後の戦国時代の連歌師宗碩(そうせき 文明六(一四七四)年~天文二(一五三三)年の編になる、連歌を詠む人のために編まれた辞書的な性格を持った語句集「藻塩草」)、次いで貝原益軒の「大和本草」(宝暦六(一七〇九)年刊。私は同書の水族の部に特化した電子化注を継続中)の「鷓鴣」を引いておられる。序でなので、原本に当って電子化しておく。第十五巻の終りの方で、たった一行である(後の訓読は私が推定で附した。「雌」は原典では(つくり)の「隹」が「鳥」であるが、表記出来ないので、かくした)。

   *

鷓鴣 昔年日本ニ渡ス矮雞(チヤボ)ノ雌ニ似テ頭ハ鶉ノ如シ

(鷓鴣 昔年(せきねん)、日本に渡(わたり)す。矮雞(チヤボ)の雌に似て、頭は鶉(うづら)のごとし。)

   *

「渡す」と言ってもシャコ類は総じて飛翔がすこぶる苦手で、とても海は渡れぬから、飛来したのではなく、無論、人為的に移入されたのである。荒俣氏は以下、『江戸時代には、琉球経由でときたまもたらされ、〈世にも稀成るもの、若き人はよく見覚へて、後世の人に言伝へべし〉と《飼鳥必用》』薩摩藩御鳥方比野勘六の著になる「鳥賞案子(ちょうしょうあんし)」(享和二(一八〇二)年序)『にも記されている。また寛政年間』(一七八九年~一八〇一年)『に刊行された橘南谿の《東西遊記》には、九州でシャコを実見した話が見える。それによると、この鳥は肥前肥後付近の海にいて、船人たちは〈シャク〉とよんでいた。南谿は熊本の医者の家で、この鳥の珍味を楽しんだという』とある。最後のそれは、「西遊記 続編」の「巻之二」の「鷓鴣」であるが、そこには『肥前、肥後の海上に、脛高く口ばし長く少し鼠色にて、翼に白き点紋ある鳥なり』(引用は東洋文庫版を使用した。太字下線は私が附した)とあって、これは形状から見て、私は全く以ってシャコではなく、チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae のシギの中間と見た。「しゃく」も「しゃこ」の訛りなのではなく、シギ類の和名中にしばしば見られる、大きく反った嘴を譬えた「杓」(しゃく)であろうと思う。

 ともかくも、本条の「シャコ」は、

コモンシャコ(小紋鷓鴣)Francolinus pintadeanusグーグル画像検索「Francolinus pintadeanus

コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicusウィキの「コジュケイ

タイワンコジュケイ(テッケイ(竹鶏))Bambusicola thoracicus sonorivoxグーグル画像検索「Bambusicola thoracicus sonorivox

サンケイ(山鶏)Lophura swinhoii(但し、現行では本種は台湾固有種である。これ(ブログ「ウズラ大学(うずら 鶉 ウズラ)」の同種のページ)

の孰れかということになろう。でないとすれば、それは恐らく、現在、認識されている「シャコ」類では、ないと思う。最後に。私はあの「チョットコイ、チョットコイ」という鳴き声が好きで好きでたまらない。

「鶉〔(うづら)〕」ウズラ類はキジ目キジ科ウズラ属 Coturnix であり、我々の知っている狭義のそれはウズラ Coturnix japonica である。

「臆(むね)」「胸」に同じい。

「半夏〔(はんげ)〕」ここでは、コルク層を除いた塊茎を生薬で「半夏」と呼ぶ、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata ととっておく。ウィキの「カラスビシャク」によれば、『鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他にホモゲンチジン酸を含む。またサポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。またかつては、つわりの生薬としても用られていた』。但し、『乾燥させず生の状態では』有毒劇物である『シュウ酸カルシウムを含んでおり』、『食用は不可能』とある。他に、真正和名が「半夏生」の双子葉植物綱コショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensis があるが、これは毒にも薬にもならないから、これではない。

「烏頭〔(うづ)〕」強毒を有する双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の古い総称異名。

「早晚」朝晩。

「對し〔て〕」二匹(雌雄)が相い対して。

「鉤輈格磔(キユイチウコキツ)」現代中国語では「gōu zhōu gé zhé」で「ゴォゥ・ヂォゥ・グゥー・ヂゥー」。中文サイトによれば、唐の李群玉の詩「九子坡聞鷓鴣」の「正穿詰曲崎嶇路 更聽鉤輈硌磔聲」を出典とするらしい。単にオノマトペイアで漢字を当てたものらしいが、敢えてそれぞれの意味を示すと、「鉤」は「釣り針・鉤手(かぎて)」、「輈」は「車の長柄」、「格」は動詞だと「打つ・殴る・阻む・背(そむ)く」、「磔」は「はりつけ」である。

「行不得哥〔(シンブウデエグウ)〕」一般には最後を繰り返し、「行不得哥哥」。上と同様に「xíng bù dé yě gē gē」で「シィン・プゥー・ドゥー・イエ・グゥー・グゥー」と読み、これは「行かないで、兄さん!」という意味になる中国人はこの鷓鴣の鳴き声に、このような人語を聴き、如何にもの哀しいものを感じるという。ということは、この鷓鴣の鳴き声に限っては、中国人は日本人と同じように左脳で聴いているのかも知れない! なお、荒俣氏は前掲書でこれに『アブテカ』というルビを振っておられる。

「翥(と)ぶ」「飛ぶ」に同じい。飛び上がるの意。

「徂(ゆ)かざる」「行かざる」に同じい。

「潔」潔癖の意か。だから「黐-竿(ゑさしざほ)」黐(とりもち)を附けた餌差し竿で鳥体に触れると、その粘着(ねばつ)きを嫌って剝そうとし、却って搦め捕られてしまうというのか。

「媒(をとり)」囮(おとり)の雌か。

「味、雞・雉に勝れり」「雞・雉」はニワトリ(ヤケイ)やキジ。荒俣氏は前掲書で『ただしこの鳥の自然死したものを食べることは忌まれたという。それは、天地の神が毎月』一『羽ずつこの鳥を死なせて至尊神に捧げるのだと信じられたためだった。実際、自然死したシャコを食べ、食あたりをおこすことも多かったようだ』と記しておられる。

「しやこといふ鳥の上尾の紅(くれなゐ)に散りし紅葉の殘るなりけり」個人サイト「孤島国JAPAN」の「鳥崇拝時代のノスタルジー[10]-越の雉-」には、この和歌の後に(改行を総て繋げた。句点はママ)、『鳥のうは毛の紅とは。鷓胡と云鳥は。さむがりをするなり。仍[やぶちゃん注:「よつて」。]秋の末になれば。もみぢのちるを。せなかにおひかねて。霜雪の寒をふせぐなり。深山にあり。鳴聲すごく淋しといえり。此鳥に山がら似たりといふ説あり』とある。後に「蔵玉和歌集」とあるので、同歌集に書かれているものらしい(但し、国立国会図書館デジタルコレクションと早稲田大学図書館古典総合データベースの同書の画像を縦覧したが、私の探し方が悪いのか、見当たらなかった)。しかし、ここでスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius に似ているということになる、これは「シャコ」類ではないということが逆に明らかになると言える。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(54) 忠義の宗敎(Ⅱ)

 

 命令に依つて自らを殺す事――忠義なさむらひの夢にも疑はなかつた一つの義務――も同じく十分に一般から認められてゐた尙ほ一つの義務、則ち君主のために自分の小兒や妻や家を犧牲にすると云ふ事に比べれば、遙かに容易な事と考へられたらしい。然るに日本の有名な悲劇には、大名の家臣や一族のものが爲したかかる犧牲に關する事件――【註】主君の子供を救ふために自分の子供を殺した男や女――に關したものが多い。且つ多くは封建の歷史に根據を有つたこれ等の、劇的作物には、事實が誇張されてゐることだらうと考へるべき理由は一つもない。勿論、これ等の事件は劇の場面に適するやうに、仕組みをかへ、擴大されては居る。併し昔の社會を示した、大體の光景は、過去の現實より寧ろ陰慘でないのである。人々は今尙ほ此の種の悲劇を好む、そしてそれ等の戲曲文學に就いての外國の批評家は、流血の所だけを指摘し、それを血腥い場面む好む國民の性質として――この人種が本來もつて居る殘忍性の證據として――これを解釋するのを常とする。併し私の考へる所では、この昔の悲劇を好むと云ふ事は、寧ろ外國の批評家が何時も努めて無視せんとする所のもの――この人民の深い宗敎的性向――の證據なのである。これ等の芝居は尙ほ喜ばれてゐる――それはその芝居の恐ろしさの爲めでなく、その道德的敎訓の爲めである――犧牲と勇氣との義務、則ち忠義の宗敎の表現の爲めである。それ等の芝居は則ち最高の理想に對する封建社會の犧牲殉難の精神を表はして居るのである。一一

註 その適例として東京の長谷川に依つて出版された見事な繪入の戲曲『寺小屋』の飜譯を見よ。

[やぶちゃん注:「東京の長谷川」これは小泉八雲も深く関わった「ちりめん本」の発行者である長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年:出版社名は「長谷川弘文社」)のこと。彼は明治三一(一八九八)年から、小泉八雲の五冊の怪奇的な日本昔噺( Japanese Fairy Tale )を「ちりめん本」のシリーズとして刊行している(“ The boy who drew cats ”(「猫を描いた少年」:一八九八年刊)・“ The goblin spider  ”(「化け蜘蛛」:一八九九年刊)・“ The old woman who lost her dumpling ”(「団子をなくしたお婆さん」:一九〇二年)・“ Chin Chin Kobakama”(「ちんちん小袴」:一九〇三年刊)・“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」:大正一一(一九二二)年刊(これは小泉八雲没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日))後))。

「戲曲『寺小屋』」は「菅原傳授手習鑑」の「寺子屋の段」のことを指している。御存じない方はウィキの「菅原伝授手習鑑」を見られたい。これは、日本大学大学院総合社会情報研究科の大塚奈奈絵氏の論文「木版挿絵本のインパクト―1900 年パリ万博に出品された「寺子屋」―」PDF)によれば、これは一九〇〇年(明治三十三年)のパリ万国博覧会出品用のフランス語版の一点である“ L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte ”で、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を省略した。]

 L'école de village: Terakoya: drame historique en un acte  は、表紙等を除くと 23 丁程(46 ページ)の袋綴じ(四つ目綴じ)の和装本で明治 33 年(19001月に出版された。3 ページの序文に続いて、劇場の幕が開く様子と美しい花々に彩られた「寺子屋」の題字をはさんで、カール・フローレンツが竹田出雲の『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の段をフランス語に翻訳した 31 ページの本文があり、その後にはページ付けを変えた 9 ページの歌舞伎の紹介がある。佐藤マサ子によれば、フローレンツは、明治 32 年(18995 月に歌舞伎「寺子屋」の翻訳を東京の会合で朗読し、好評を得たとされているので、フローレンツは「寺子屋」をまずドイツ語に翻訳し、その後、フランス語に翻訳したものと推察される。

フランス語版「寺子屋」は、表紙は板紙で金の題字、銀色の流水模様に「寺子屋」の主人公の松王を象徴する松を配した図柄で、書袋には、幕間の芝居小屋の客席を描いた美しい絵が使われている豪華本であった。

   《引用終了》

なお、英文サイトであるが、これは“ Scenes du Theatre Japonais, L'Ecole de Village.(Terakoya) Drame Historique en un Acte, Traduction du Dr. Karl
Florenz,Professeur a L'Universite Imperiale de Tokyo 
で、詳細に解説されており、その原画像をも見ることが出来、同じサイトの“ Takejiro Hasegawa/Kobunsha Publications"Chirimen-bon" (Crepe Paper Books)And Plain Paper Books には「ちりめん本」の驚くべき子細な書誌データも完備している。孰れも必見である。]

 この封建社會を通じて、忠義に關するこの同じ精神は、いろいろな形で表白されて居た。さむらひがその領主に對する如く、弟子はその親方に對して、番頭はその店の主人に對してと云ふ風にである。到る處に信任があつた。何故なら到る處に、主人と召使の間の相互の義務といふ同じ感情があつたからである。いづれの商賣も何れの職業も忠義の敎を有つてゐた――則ち、一方では、必要の場合絕對的の服從と犧牲とを要求し、他の一方では、親切と扶助とを要求した。而して死者の支配がすべてのものの上にあつたのである。 

 

 親或は君主を殺害したものに復讐をするといふ社會上の責任は、この親又は君主のために死ぬといふ義務と同樣に、その起原の古いものであつた。確定した社會がまだ出來なかつた時代に於てさへ、この義務の存して居たことは認められる。日本最古の年代記には、復讐の義務の例が澤山にある。儒教はより以上にこの義務を確認した――則ち人にその君主、親、若しくは兄弟を殺した者と』『同じ天の下に』生きて居る事を禁じ、且つ近親若しくはその他の關係の等級を定め、その等級の內にあるものに取つては、復讐の義務が避くべからざる事とされて居たのであつた。儒敎は早くから日本の支配階級の道德となり、最近に至る迄さうであつた事は記憶して置くべき處である。儒敎の全組織は祖先禮拜の上に立てられ、殆ど孝道の敎への擴大完成に他ならぬものであつた事は、私のすでに他の條下で述べた處である。それ故この敎へは日本の道德の實際と完全に一致したものである。日本に武權が發達した[やぶちゃん注:ママ。]につれて、復讐に關する支那の法典は遍く認められるやうになり、後世に至つては法律上からも慣習上からも支持されるやうになつた。家康自身もそれを支持した――仇討をしようとする者は、先づ屆書を書いて地方の刑事法廷にそれを差し出して置くといふ事だけを條件として。この事に關する個條の原文は興味あるものである――

主父之怨冦は爲ㇾ報酬之共不ㇾ可ㇾ戴ㇾ天聖賢も許ㇾ之有此讎者は記決斷所帳面年月可ㇾ令ㇾ遂其志然共重敵討は堅可ㇾ禁止之但帳外之族は狼藉同然刑宥可依其品

註 若しくは僞善的狼族 hypocritical wolves といふ――詳しく言へば、正當な復讐といふ口實を以て自分の罪惡を免れんと欲する野獸の如き殺害人の意。(この飜譯はラウダア氏の手になるもの)

[やぶちゃん注:ここは原文では無論、英文に訳されてある。

   *

 “In respect to avenging injury done to master or father, it is acknowledged by the Wise and Virtuous [Conucius] that you and the injurer cannot live together under the canopy of heaven. A person harbouring such vengeance shall give notice in writing to the criminal court ; and although no check or hindrance may be offered to the carrying out of his design within the period allowed for that purpose, it is forbidden that the chastisement of an enemy be attended with riot. Fellows who neglect to give notice of their intended revenge are like wolves of pretext:1 their punishment or pardon should depend upon the circumstances of the case.”

   *

 1 Or “hypocritical wolves,”— that is to say, brutal murderers seeking to excuse their crime on the pretext of justifiable vengeance.  (The translation by Lowder. )

   *

Conucius」(コンフューシャス)はかの「孔子」のこと(「孔夫子」のラテン語名由来)。「Lowder」(訳文の「ラウダア氏」)は不詳。識者の御教授を乞う。

 ところが、私の探し方が悪いのか、家康の発行した文書とする以上の原文を確認することが出来ない(識者の御教授を乞うものである)。されば、自然流で書き下すが、それに際しては、恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏の訳(平井氏はここを現代語で本文に繰り込んでおられ、その後に訳者注で以上の原文を示しておられる(漢字は正字化した)。但し、そこでは「冦」は「寇」となっており、後半の返り点にも異同があり、氏の現代語訳、則ち、原文(ラウダーの訳)には一部、私は首をひねらざるを得ない箇所がある)を参考にさせて戴いた。また、最後の個所は「可ㇾ依其品事」とㇾ点を補って読んだ。大方の御叱正を俟つ。

   *

主・父の怨冦(をんこう)は、之れに酬・報爲(た)るもの、共に天を戴くべからざるは、聖賢も之れを許せり。此の讎(あだ)有る者は、決斷、所帳面を記し、年月を究(きは)め、其の志(こころざし)を遂げしむべし。然れども、重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし。但し、帳外の族(うから)は、狼藉同然なれば、刑宥(けいいう)は其の品に依るべき事。

   *

・「怨冦」は怨みを持つことと、仇を討たんとすること、の意であろう。

・「酬・報爲(た)るもの」とは平井氏の訳では『復讐されるものもするものも』とあり、腑に落ちる。

・「決斷」は副詞的に「(意志決定を)はっきりと」の意で採った。

・「所帳面」は所定、則ち、主君或いは町奉行所(他国に渡る場合に必要)へ提出する、決められた仇討認可申請の規定文書。

・「年月を究(きは)め」「究め」は「きめ」かも知れぬ。平井氏の訳では『その目的のために許可された期限』とある。

・「重敵討(かさねかたきうち)は之れを堅く禁止すべし」平井氏のこの前後の訳は、『ただ敵を懲らしめるために暴動擾乱をもってすることは堅く禁ずる』である。どうもこれは小泉八雲が「重敵討」の意味を誤認しているように思われてならない。「重敵討」というのは、敵討を果たした者に対し、討たれた側の関係者がさらに復讐をすることである。

・「帳外の族」主君の仇討赦免状や町奉行所の許諾を得て敵討帳に記載された者以外の無許可の仇討の実行者。

・「刑宥(けいいう)」通常の殺人罪扱いで処罰するか、情状酌量するか、ということであろう。

・「其の品に依るべき事」ケース・バイ・ケースで柔軟に対応すること、という意味であろう。以上の注の参考にしたウィキの「仇討によれば、『仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり、江戸幕府によって法制化されるに至って』、『その形式が完成された。その範囲は、父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。また、家臣が主君のために行うなど、血縁関係のない者について行われることは少なかった』。『江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた』。『武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた(但し、以下の私が下線を引いた部分には「要出典」要請がかけられている)。『敵討の許可が行われたのは基本的に武士階級のみであったが、それ以外の身分でも敵討を行う者はまま見られ、上記のような手続きを踏まなかった武士階級の敵討同様、孝子の所業として大目に見られ、場合によっては賞賛されることが多かった。又武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習も広く見られた』。『なお、敵討は決闘であるため、敵とされる側にも』、『これを迎え撃つ正当防衛が認められており、敵側が仇討ち側を殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる』『近親者を殺されてその復讐をする例は、南イタリアを始めとして、世界各地で見られるが、江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく』、『武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある』とある。]

2018/09/03

和漢三才圖會第四十二 原禽類 白鷴(ハツカン) (ハッカン)

 Hakkan

 

はつかん 白【音寒】閑客

白鷴

ベツヒヱン

[やぶちゃん注:「」は東洋文庫版を一部参考にした(東洋文庫版は「鳥」を付けない)が、原典は二字ではなく、一字にしか見えず、しかも「鳥」の上に「幹」の字のような字(旁(つくり)の(かさ)の下が「未」のように見える字)がくっ付いたものである。]

本綱白鷴出江南雉之屬也似山雞而色白有黑文如漣

漪尾長三四尺體備冠距紅頰赤嘴丹爪其性耿介

其卵可以雞伏【肉甘平】又有黑鷴

△按白鷴近年自中華來其羽毛甚美畜于樊中爲珍


はつかん 白鳥〔(はつかん)〕【音、「寒」。】

     閑客

白鷴【「」も同じ。】

ベツヒヱン

「本綱」、白鷴、江南に出づ。雉の屬なり。山雞〔(やまどり)〕に似て、色、白く、黑き文、有り、漣-漪(さゞなみ)のごとし。尾、長さ、三、四尺。體に冠(さか)・距(けづめ)を備へ、紅き頰、赤き嘴、丹〔(あか)〕き爪あり。其の性、耿介〔(こうかい)〕なり。

其の卵、雞〔(にはとり)〕を以つて伏〔(ふさ)〕すべし【肉は甘、平。】。又、黑鷴〔(こくけい)〕、有り。

△按ずるに、白鷴、近年、中華より來たる。其の羽毛、甚だ美なり。樊〔(かご)〕の中に畜〔(か)〕ひて、珍と爲す。

 

[やぶちゃん注:キジ目キジ科 Lophura 属ハッカン Lophura nycthemera。中国南部(本文の「江南」に一致)及びインドシナ半島・ミャンマーにかけて棲息し、ウィキの「ハッカン」によれば、♂で全長九十~百三十センチメートル、体重九百グラムから一・五キログラム、♀で全長五十~七十センチメートル、体重七百から一キログラムになる。♂は『白と黒の染め分けになった独特の羽毛を持ち(種小名nycthemeraはこの染め分けのコントラストに因む命名で『夜のような黒』と言った意味が込められている)、顔の裸出と脚の赤が目立つ』が、♀『は多くのキジ類と同じく』、『褐色で地味』である。標高二千七百メートル『前後の山地の森や竹薮に暮らして』おり、『地上性』で、『餌は草の実や芽、昆虫など。繁殖期にはオスは金属的な鳴き声を発する』。平凡社の「世界大百科事典」で補足すると(コンマを読点に代えた)、♂は『頭部には黒色の冠羽があり、顔は裸出して赤い。のどから下腹にかけては』、『青みを帯びた光沢ある黒色で、背面は白く、黒く細い横線があり、尾羽は白く、脚は赤い』。『ハッカンは飼鳥として著名で、江戸時代の飼鳥の本には、クジャク、キンケイとともに飼い方が記されている』とある。確かに♂の白黒赤のコントラストが非常に美しいグーグル画像検索「Lophura nycthemeraをリンクさせておく。

「白」「」は既に注した通り、原典では、「鳥」の上に「幹」の字のような字(旁(つくり)の(かさ)の下が「未」のように見える字)がくっ付いたものである。中文サイトを調べると、「」を雉子の別名とする意外に、この単漢字で「ハッカン」を意味するという古辞書もある。いろいろ調べているうちに、国立国会図書館デジタルコレクションの、常陸笠間藩第四代藩主牧野貞幹天明七(一七八七)文政一一一八二八)年)の描いた「鳥類写生図の中に白鷴の雄と雌の絵を見出したので、以下に掲げる(孰れも上下左右をトリミングした)。 

 

Hakkanosu

Hakkanmesu

 

この雄の図の右上にキャプションがあり、そこには、

 

白鷴【和名 カノコ鳥 或云 シラキジ】

 釈名 白※ 閑客

    一名 越禽【呉名】

    鷴鳥【典籍便覧】

    玄素【紺珠】

 

とあり、「※」の部分に、まさにこの「和漢三才図会」の原典の字が使われているのを確認出来た

「耿介〔(こうかい)〕」前の「鶡雞(かつけい)(ミミキジ)」にも出た。「堅く志や節を守ること」の意。ここでは習性を語っていないのであるが、こちらの個人ページのハッカンの解説によれば、『ハッカン、と聞くと耳慣れない名前だが、要はキジの仲間である。濃い紺色と白のコントラストが美しい、至極見事な姿のキジだ。英語圏では「銀色のキジ」と言う呼び名で親しまれている』(ハッカンの英名は
Silver Pheasant で「フェゼント」は雉の意)。『飼い鳥の事を詳しく編纂した昔の図鑑に曰く、「ハッカンは非常に猛々しい鳥で、禽舎内で人に向かってくる事など珍しくなく、発情期には猛り狂って同居するメスを殺してしまう事がある」とある。だがこれは、前世代的な狭い禽舎内で飼われた末の病的な反応らしい。以前、都内某所の子供動物園に出かけた時、卵を抱きかかえ身じろぎもしないメスのハッカンと、それを守るようにケージの目の前に仁王立ちするオスのハッカンを見た。客がメスを見ようと身を乗り出すと、その動きに合わせてオスは客の前に立ちはだかり、大きな尾羽を広げてメスを覆い隠そうとする。明らかに彼は自分の連れ合いを客の視線から守っていた。元来、キジ類のオスは子育てにあまり関与しない、と言われてはいる。しかし、こんな意見もある。「キジ類のオスが豪奢な姿をしているのは、繁殖期に多くのメスを惹きつけるのみならず、メスが子育てする時節、目立つ姿で捕食者の視線を自分に向けて子供とメスを守ろうとする習性があるからだ」』と。『真偽の程は定かではないが、しかし前述のハッカンのエピソードはまさしくその説に当てはまる。動物の行動とは図鑑の説明だけで推し量れるものでない事を、ハッカンは身を以って私に教えてくれたような気がする』(とても素晴らしい解説と観察記録なので、解説部を総て引かせて貰った)とあり、この毅然とした態度はやはり、「堅く志や節を守ること」の方だろうと感じたものである。

「伏〔(ふさ)〕すべし」意味を採り易いように使役で訓じた。「抱卵させるとよい」であるが、何故かは「本草綱目」にも記していない。♀が抱卵をやめることがままあるものか。

「黑鷴」中文の百度百科「黑を見ると、ハッカン属ミヤマハッカン(深山白鷴)Lophura leucomelanos のことであることが判る。ヒマラヤ山脈やタイに分布する。アメリカ合衆国のハワイ州には一九六二年に導入され、帰化していると、ウィキの「ミヤマハッカン」にあった。ハッカンとの違いは、名にし負うており、グーグル画像検索「Lophura leucomelanosを見れば、一目瞭然。

「樊」既出既注。「籠」に同じい。]

大和本草卷之十三 魚之上 鯇(ミゴイ/ニゴイ)

 

鯇 又名順和名抄アメト訓ス不是ヨク鯉ニ似タリ

 ※ノ字ヲ和名抄ニミコイトヨム鯉ノ類也トイヘハ本草ニ

[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(つくり)「癶」(上)+「虫」(下)。]

 靑白二色アリト云地ニヨリテ味ヨカラス近江ノ湖ニ多

 シ時珍云音混郭璞作陳藏噐曰生江湖

 中似鯉郭璞云子似鱒而大時珍曰其形長身

 圓肉厚而鬆状今案本草所云ミコイト合ス一統志曰

 白魚狀如鯉而色白或曰ミコイハ白魚ナリ是武王

 ノ舟中ニ入ルモノ也

○やぶちゃんの書き下し文

鯇(ミゴイ/ニゴイ[やぶちゃん注:前者は右ルビ、後者は左ルビ。]) 又、「〔(コン)〕」と名づく。順〔が〕「和名抄」、「アメ」と訓ず〔は〕是(ぜ)ならず。よく鯉に似たり。「※」[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(つくり)「癶」(上)+「虫」(下)。]の字を、「和名抄」に「ミゴイ」とよむ。『鯉の類なり』といへば、「本草」に『靑・白。二色あり』と云ふ。地によりて、味、よからず。近江の湖〔うみ〕に多し。時珍、云はく、『音、混。郭璞、「」と作〔(な)〕す。陳藏噐曰はく、「江湖の中に生じ、鯉に似る」、郭璞云はく、「、子、鱒に似て大なり」、時珍曰はく、「其の形、長く、身、圓〔(まる)〕く、肉、厚くして鬆(もろ)し」。』〔と〕。今、案ずるに、「本草」の云ふ所、「ミゴイ」と合す。「一統志」曰はく、『白魚、狀〔(かたち)〕、鯉のごとくして、色、白』〔と〕。或いは曰はく、「ミゴイ」は白魚〔(はくぎよ)〕なり。是れ、武王の舟中に入るものなり〔と〕。

[やぶちゃん注:これは「本草綱目」に載る別種を一種として強引に纏めようとしており、問題のある記載となってしまっている。ともかくも、標題のルビの「ミゴイ」(身鯉・鮊)及び「ニゴイ」(似鯉)は、日本産固有種で、急流でない河川や湖沼などに棲息する、

条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus

のことである。ウィキの「ニゴイ」によれば(太字やぶちゃん。以下同じ)、体長は最大六十センチメートルに達する大型淡水魚で、『成魚の体色は緑褐色』を呈し、一対の鬚を持つなど、和名通り、コイ(コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio)に『似るが、口吻が長く突出し』、『口は下向きにつく』。『体型は細長い流線型を示し、より流水に適する形態を示す』。『背鰭はコイのような前後に長い不等脚台形ではなく、小さく』、三角形を成し、『尾びれは二又が深い』。『日本では本州、四国、九州北部に分布する。このうち』、『中部地方以北の本州と九州北部のものがニゴイで、本州西部と四国のものは近縁種コウライニゴイ』Hemibarbus labeo『であるとされて』おり、こちらの『コウライニゴイは朝鮮半島から中国、台湾まで分布』している。『川の中流から下流、大小の湖沼と、淡水域の極めて広範囲に生息する。水の汚れにも比較的強いが、低酸素への耐性は高くない。汽水域にも生息できるが』、『海水耐性は無く、塩分濃』〇・二%『以下の水域に多く、塩分濃度』一・五%『以上の水域では捕獲され』たことがないとする。『小石や砂底がある水域を好むが、それ以外でも生息している。また、低層を泳いでいることが多いが、止水を好むコイ』やフナ(コイ亜科フナ属 Carassius)『よりも流水への適応性が高い。産卵期は水温の高い地域ほど早く』、四~七月に直径三ミリメートル『ほどの粘着性の卵を産む。稚魚は体側に黒い斑点が』十『個前後並んでいるが、成長すると』、斑点は『消える。繁殖期のオス個体には、「追星」と呼ばれる白色の瘤状小突起物が出現する』。一九八〇『年代後半に筑後川で行われた調査によれば、生後』一『年から』三『年程度を感潮域』(河川等の潮汐現象の及ぶ、河口から当該上流部までを指す。生物の生産性は高いが、汚染され易い)『で過ごし、以降は』二十キロメートル『以上上流の産卵域のある浅瀬周辺に移動する』。『雑食性であるが』、『餌は季節毎に変化し、生息水域で利用しやすいものを餌としている』。体長四センチメートル『程度までの稚魚期はプランクトン、成長すると小魚、水生生物、藻類、小型二枚貝などを食べる』。『また、成長するにつれて顕著な魚食性を示し』、『大型個体はルアーでも釣れるようになる』。『なお、発達した咽頭骨と咽頭歯を備えており、摂食した餌はそこで噛み砕かれて消化管に送られる』。『ニゴイを目当てに漁獲することは少ないが、栃木県などではサイタタキ漁』(恐らくは「サイ叩き」で「サイ」はニゴイの地方名)『と呼ばれる専門の漁が行われる。コイやフナ、ウグイ、ウナギなどの大型淡水魚と一緒に漁獲(混獲)されることがある』。『その一方、商品価値が低く』、『大型に育ち』、『膨大な数に繁殖する雑魚であり』、ウナギの稚魚であるシラス鰻や『モクズガニなども捕食することから、地域の漁協によっては駆除目的の漁獲も実施され』ている。『小骨が多いが、白身の上品な肉質で』、『食味は良好な魚であり』、『唐揚げなどで食べられる他、ヒラメの代用魚とされたこともある。旬は春とされている』。『味は良いが』、『骨が多く』、『食べにくい雑魚として扱われ、蒲鉾や天ぷらの材料として使われてきた。「ミノ」(青森県)・「セータ」(関東地方)・「アラメ」(長野県)・「マジカ」(滋賀県・京都府)・「キツネゴイ」(大阪府)・「ヒバチゴイ」(奈良県)・「イダゴイ」(岡山県)など、別名が多い。『ニゴイ属(Hemibarbus)の魚は中国を中心とした東アジア地域に分布し』、八『種類ほどが知られ』、『日本ではニゴイ、コウライニゴイの他にズナガニゴイ』Hemibarbus longirostris『が近畿地方と中国地方に分布している。全長は』二十センチメートル『ほどで、体の背中側は黄褐色の地に小さな褐色の斑点がたくさんある。他の』二『種類に比べると』、『小型で外見も異なる』とある。

 以上の太字部を御覧になれば判る通り、本邦にしかいない点で、標題ルビの「ミゴイ」「ニゴイ」は、その代表種をニゴイ Hemibarbus barbus であると言ってよいものの、それ以外に

コウライニゴイ Hemibarbus labeo

及び

ズナガニゴイ Hemibarbus longirostris

をも含めねば不十分であることが判る。

 しかも困ったことに、「本草綱目」が言う「鯇」には、後の二種が含まれている可能性が、その分布域から言って排除出来ないこともお判りであろう。

 ところが、それだけでは、実は、混乱は収まらないのであり、

「鯇」というのは現代中国では専ら、「中国四大家魚」「大和本草卷之十三 魚之上 鰧魚 (ビワマス)」の最終注を参照)の一種として有名な、コイ科亜科クセノキプリス亜科 Oxygastrinaeソウギョ属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指す語

であることが、益軒の叙述の分析の混迷を倍加させてしまうのである。

 何故、「混迷」というかと言えば、「本草綱目」の「鯇」の叙述は当然、このソウギョであると読むのが自然であり、しかもソウギョは本邦には、本来は、いない魚だからである(現在は本邦に棲息し、水草を有意に食害して生態系を破壊する要注意外来生物に指定されているウィキの「ソウギョによれば、日本には明治一一(一八七八)年以降に、他の「四大家魚」とともに、日本人の有益な蛋白源として、日本列島内に導入され、『各地の川や湖沼に放流された。利根川水系への移植は、食糧難の解決のため』、昭和一八(一九四三)年と昭和二十年の二回で、合せて二万三千尾、全国へは三百七十万尾もが放流されてしまった。『また、戦後の農業形態の変化に伴って、湖沼に繁茂する水草が農業肥料などとして利用されなくなり、その繁茂を嫌った世論もあって』、『各地で』、『湖沼の水草を制限する意図』から、『利根川水系産のソウギョが各地に放流された。しかし』、『巨大に成長したソウギョは旺盛な食欲で各地の湖沼の水草を食いつくし、水草帯を生息地とする在来魚や水生昆虫の生息を脅かすなど』、『生態系に深刻な悪影響を与えることが認識されるようになった。かつて水草の繁茂する湖だった長野県の野尻湖は、ソウギョの放流後』、『水草が激減し、現在では網で囲った保護区域を除き』、『ほとんど見ることができない』。無論、水草の減少要因は『ソウギョだけでないとしても、ソウギョの放流と水草の減少が同期していることから鑑みれば、食害が原因である可能性は高い。また、水草を消化吸収した後に出す膨大な糞が湖沼底に堆積し、却って水質汚濁の原因ともなることが理解されるに至ったため、自然環境に好ましくない負荷をかける外来種と認識されるようになった』。『長野県木崎湖では、キザキフラスコモ(学名: Nitella minispora Imahori)が食害の結果、絶滅したことが報告されている』『利根川、江戸川以外では繁殖できなくとも、ソウギョ自体の寿命や放流の継続により、これらの影響は長く続くと考えられている』とある)。

 ソウギョは、体長が実に二メートルにも達する超『大型魚だが、日本で見られるのは殆どが体長』一・二メートル『程度の個体である。体は一様に緑灰色で、腹面は黄白色をしており、特に目立つ模様はない。コイに似ているが、コイの背びれは前後に細長いのに対し、ソウギョの背びれは小さくて丸っこい』。体長三センチメートル『程度までの間は、雑食性で』、『植物性プランクトンのランソウ類、ケイソウ類、緑藻類、ベンソウ類等のほか動物性プランクトン』『のワムシやミジンコを餌として』おり、体長三~十三センチメートル『程度までの間は、植物性プランクトン以外に浮遊する動物性ものやユスリカをエサとしている』。体長は十三センチメートル『程度を越えた個体は草食性で、水中で成長する藻や』、『水面で成長するウキクサやヒシなどの他、マコモやヨシなどの抽水植物や水面上に垂れ下がった雑草なども食べる。口に歯はないが、喉に丈夫な咽頭歯をもち、これで植物を刈り取って摂食する。緑色をした』一センチメートル『くらいの丸い糞が新鮮な状態で確認できたら』、『ソウギョが近くにいる可能性が高い』とある。

 以上から判然とするように、益軒が「本草綱目」の記載は本邦のニゴイとよく一致する、などと如何にもしたり顔で能天気なことを言っているのであるが、そもそもが

二種は、観察能力の低い魚に詳しくない素人が見ると「コイ」に似ている

のであり、当然、

中型個体なんぞを言葉だけで中途半端に説明されたならば、「ニゴイ」と「ソウギョ」は同じ魚だ、と誤認するに違いない

のである。

〔(コン)〕」中文ウィキの「草魚」(=ソウギョ)に、晋の郭璞の「爾雅注」に「鯇、今、魚、似鱒而大」とある。

『順〔が〕「和名抄」、「アメ」と訓ず〔は〕是(ぜ)ならず』『「」の字を、「和名抄」に「ミゴイ」とよむ。『鯉の類なり』といへば』(「」=「魚」+(つくり)「癶」(上)+「虫」(下))まず、私はこの文末の「いへば」は、ややジョイントの悪いものとして響く。「いふ」で終止しておいた方がよい。恐らくは『「アメ」と訓ず〔は〕是(ぜ)ならず』と先にやらかした結果、表現に捩じれが生じたのだと思う(こうしたこなれない日本語の言い回しも、本条を判り難くしている)。源順の「和名類聚鈔」の記載というのは、まず、「」は「鯉」「鮒」の次にあり(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照)、

   *

(ミ) 文字集略【音漢語抄】鯉

[やぶちゃん注:「」=「馬」+(つくり)「癶」(上)+「虫」。]

   *

である。この「ミ」というルビはまさに「ミゴイ」(=ニゴイ)の「ミ」であろう。「鮒」を挟んで「」とあり、「鯉の類ひなり」とあるのだから。因みに、「」は「羔」(音「コウ」・子羊の意)の異体字である。

 さらに「鯇」はというと、まさに前の「」の後の「鰣(ハソ)」(コイ目コイ科クセノキプリス亜科ハス属ハス Opsariichthys uncirostris であろう)「鱸」の次に出(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では前のリンク先の次のページ)

   *

鯇(アメ) 爾雅集注云鯇【胡本反上声之重字亦作和名阿米】似タルㇾ鱒者也楊氏漢語抄云水鮏【一云江鮏今案本文未ㇾ詳】

   *

とある。益軒の否定している「アメ」という呼び名は「アメノウヲ」に違いない。所謂、以前にも注で出した、。琵琶湖固有種(但し、現在は各地に人為移入されている)の条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus の異名である(産卵期の特に大雨の日に群れを成して河川を遡上することに由来する「雨の魚」は異名としてかなり知られている)。確かに、ここでの益軒の否定は、

「鯇」を「ニゴイ」と訓ずるならば、ニゴイアメノウオという意味で正しい

ことにはなる。しかし、

現在でもなお、ビワマスは漢字表記で「鯇」と書くし、「江鮭」とも書く

のであってみれば、また、ここに出る「鮏」という漢字は本邦では「鮭」(サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta)の別字として知られ(ご覧の通り、アメノウオ(ビワマス)はサケ亜科 Salmoninae なのだ。但し、漢語としては「魚の腥(なまぐさ)さ」を示す他は「魚の名」とするものの、どのような魚か不明である)、益軒が偉そうに否定するのは実はお門違いなのであって、順の「和名類聚鈔」のそれは、

「鯇」を「アメオノヲ」と訓じたのであるから、アメノウヲ=ビワマスという意味で正しい

のである。

『「本草」に『靑・白。二色あり』と云ふ』「本草綱目」の「鯇魚」の記載は以下である。

   *

鯇魚【音「患」。「拾遺」。】

釋名鰀魚【音「緩」。】。草魚。時珍曰、鯇、又、音混。郭璞作。其性舒緩。故曰「鯇」、曰「鰀」。俗名「草魚」。因其食草也。江閩畜魚者以草飼之也。

集解藏器曰、鯇、生江湖中、似鯉。時珍曰、郭璞云、子、似鱒而大是矣。其形長身圓、肉厚而鬆狀類靑魚。有青鯇白鯇二色。白者味勝、商人多之。

氣味甘、溫。無毒。時珍曰、李廷飛云、能發諸瘡。

主治暖胃和中【時珍。】。膽臘月收取陰乾。氣味、苦、寒。無毒。主治、喉痺飛尸、水和攪服【藏器。】。一切骨鯁、竹木刺在喉中、以酒化二枚、溫呷取吐【時珍。】。

   *

はっきりと「草魚」の文字が見える。因みに、メンドクサいことに「鰀」の字は本邦では「アメノウオ」=「ビワマス」に与えられているのである。

鱒」漢語のこれもマスを指す。但し、以前に述べたが、「マス」という種はいない。「マス」とは、本邦の場合は、条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚、或いは、本邦で一般に「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚(但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになる)を纏めた総称である。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く主にイワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus)・ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)・アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)などが「マス」類と呼ばれる

「一統志」「大明一統志」。明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

『「ミゴイ」は白魚なり』漢和辞典でも、「白魚」を鯉に似た魚とし、白花魚、ニゴイ(大陸産)に当ててある。

「武王の舟中に入る」「史記」「周本紀」に、周の武王が殷の紂(ちゅう)王を討伐する兵を挙げ、黄河を渡った際、武王の乗る船に、白色の魚が飛び込んで来た。白は殷の色(周は赤)であったことから、これを捕って神に供え祀り、これこそ殷が周の手中に落ちる吉兆と解釈したという故事を指す(但し、原文は『武王渡河、中流、白魚躍入王舟中、武王俯取以祭。既渡、有火自上復于下、至于王屋、流爲烏、其色赤、其聲魄云。是時、諸侯不期而會盟津者八百諸侯。諸侯皆曰、「紂可伐矣。」。武王曰、「女未知天命、未可也。」乃還師歸』となっており、他にも、黄河を渡り切った時には火の塊りが川を溯ってきて、また、下って行き、武王の陣の上まで来ると、一羽の真っ赤な鴉となって「魄(ハク)!」と鳴いた(魄には安定の意がある)というのも瑞兆で、ばらばらにたまたまやってきた諸侯らも期せずして口を揃えて「紂、討つべし!」と鬨を挙げたのだが、何故か。武王はこの時、「未だ殷の天命は尽きていない」と言って帰国している。これには幾つかの解釈があるようであるが、私は吉兆があまりにも続けて出現したことが、却って危ぶまれ、それに誇って慎重さを失って逆に敗れることを恐れたという説を採る)。]

芥川龍之介の――私(わたくし)小説――論三篇 / 『「わたくし」小説に就いて』・「藤澤淸造君に答ふ」・『「私」小説論小見──藤澤淸造君に──』

 

芥川龍之介 「わたくし」小説に就いて

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年七月一日発行の『不同調』(第一年第一号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバー ARZ0759.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で示した。]

 

 「わたくし」小説に就いて

 

 わたしは久米正雄君の「わたくし」小説論に若干の興味を持つてゐる。今その議論を分析して見れば──

 (一)「わたくし」小説は小説になつてゐなければならぬ。

 (二)「わたくし」小説は「わたくし」を主人公にしなければならぬ。(この「わたくし」は必しも一人稱の意味でないことは勿論である。)

 (一)は單なる人生記錄は小説ではないことを力説するものである。が、この立ち場は何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。實際又小説と非小説との境を如何なる一線に求めるかは好箇の論爭點と言はなければならぬ。わたしの所見に從へば、散文藝術に關する諸問題はいづれも多少この立ち場に關係を持つてゐるやうである。

 (二)は「わたくし」を主人公にする藝術的必要を力説するものである。これも亦恐らくは何びとにも異議のない立ち場ではないであらう。しかし今日の短歌や俳諧は大抵「わたくし」短歌であり、同時に又「わたくし」俳諧である。若しこの事實を何等かの藝術的必要によつたとすれば、何ゆゑにひとり小説だけは「わたくし」小説に終始しないか、その點も十分に考へなければならぬ。

 この短い文章の目的は必しも「わたくし」小説論に贊否の説を表することではない。唯「わたくし」小説論の如何に特色のある議論かと言ふことに匆匆たる一瞥を加へることである。わたしの所見に從へば、久米君の「わたくし」小説論は更に論爭の的になつても好い。又論爭の的になることは確かに我等文藝の士の批評的精神を深める上にも少からぬ利益を與へるであらう。卽ち上記の二點を擧げ、久米君を始め大方の君子の高論を聽かんとする所以である。

 

 

 

芥川龍之介 藤澤淸造君に答ふ

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年九月一日発行の『不同調』(第一年第三号)に発表された。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0768.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「・」は太字で、傍点「ヽ」は太字下線で示した。]

 

 藤澤淸造君に答ふ

 

 僕は「不同調」第一號に「わたくし小説に就いて」と言ふものを書いた。「わたくし小説に就いて」は久米正雄君の「わたくし小説論」の特色を指摘せんと試みた文章である。然るに藤澤淸造君は「不同調」第二號に「何ゆゑに汝は汝自身わたくし小説論を試みないか? 汝の「わたくし小説に就いて」はわづか一二個所へ少しばかり解剖のメスをいれただけである」と書いた。(ヽ印を施したのは藤津君の文章である。)藤澤君の所謂解剖のメスは果して久米正雄君の議論の特色に觸れたかどうか、その是非を檢するのは文藝批評上の問題である。しかし所謂解剖のメスを入れるだけに止めて置いたものかどうか、その曲直を檢することは文藝批評上の問題ではない。では何の問題かと言へば、勿論實踐倫理上の問題である。從つて僕は藤澤君に答へるにも、多言を費す必要を見ない。僕は唯「わたくし小説に就いて」の中に僕の所期を果たした以上、毫も更にわたくし小説是非の論をもしなければならぬ義務のないことを告げるだけである。若し又不幸にも藤澤君にしてかかる義務のないことを認めないならば、紙上たると口頭たるとを問はず、更に何囘でも論戰しよう。但しその時は醉つてゐてはいけない。 (八月五日)

 

 

 

芥川龍之介 「私」小説論小見 ──藤澤淸造君に──

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年十一月一日発行の『新潮』に発表され、後、単行本「梅・馬・鶯」(同年十二月新潮社刊)に収録された。底本は基本、後者を親本(底本の底本)としている。

 底本は一九七八年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第七巻を用いたが、秘密結社「じめじめ団」のインターネット図書館「梅雨空文庫」内の「TEXT文書(UTF-8)」のベタ・テクスト、ファイル・ナンバーARZ0810.txt を加工用に利用させて貰った。ここに記して謝意を表する。

 底本の傍点「ヽ」は前二篇に合わせて太字下線で示した。]

 

 「私」小説論小見

     ──藤澤淸造君に──

 

 文藝上の作品はいろいろの種類に分たれてゐます。詩と散文と、叙事詩と抒情詩と、「本格」小説と「私」小説と、──その他まだ數へ立てれば、いくらでもあるのに違ひありません。しかしそれ等は必しも本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札に近いものばかりであります。たとへば詩と言ふものを考へて見ても、若し或形式に從つたものだけに詩と言ふ名前を與へようとすれば、あらゆる自由詩や散文詩は除外しなければなりません。若し又自由詩や散文詩にも詩と言ふ名前を與へるとすれば、それ等の作品に共通した特色は廣い意味の「詩的な」こと、──畢竟文藝的なことになるだけであります。韻文藝術と散文藝術との差別もやはりこの詩と散文との差別の複雜になつただけでありませう。成程散文藝術は、――たとへば小説は一見した所、何か詩とは異つてゐます。が、その差別はどこにありませう? 小説は屢々詩に比べると、もつと僕等の實生活に卽した感銘を與へると言はれてゐます。又かう言ふ感銘は小説以外にあるとしても、唯韻文を用ひた小説、──叙事詩にあるばかりだと言はれてゐます。しかし叙事詩と抒情詩との差別も、──客觀的文藝と主觀的文藝との差別もやはり本質的には存在しません。例を西洋に求めないにしても、「アララギ」派の短歌の連作は抒情詩であると共に叙事詩であります。既に叙事詩と抒情詩との差別も消え失せてしまふものとすれば、あらゆる詩は忽ち春のやうにあらゆる散文の埒の中へも流れこんで來るでありませう。

 これだけのことを述べた後、僕はまづ久米正雄君によつて主張され、近頃又宇野浩二君によつて多少の聲援を與へられた「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を考へて見たいと思ひます。が、この議論を考へて見るには「私」小説とは何であるかを明らかにしなければなりません。本家本元の久米君によれば、「私」小説とは西洋人のイツヒ・ロマンと言ふものではない、二人稱でも三人稱でも作家自身の實生活を描いた、しかも單なる自叙傳に了らぬ小説であると言ふことであります。けれども、自叙傳或は告白と自叙傳的或は告白的小説との差別も、やはり本質的には存在しません。これもやはり久米君によれば、たとへばルツソオの懺悔錄は單なる自叙傳に過ぎないものであり、ストリントベルグの「痴人の懺悔」は自叙傳的小説であると言ふことであります。しかし兩者を讀み比べて見れば、僕等は偶々「懺悔錄」の中に「痴人の懺悔」のプロト・タイプを感じることはあるにもしろ、決して本質的に異つたものを感じることはありません。成程兩者は描寫の上とか或は又叙述の上とかには、いろいろ異つてゐるでありませう。(その最も外面的に異つてゐる點を擧げて見れば、ルツソオの「懺悔錄」はストリントベルグの「痴人の懺悔」のやうに會話を別行に印刷してゐません!)しかしそれは自叙傳と自叙傳的小説との差別ではない、時代や地理をも勘定に入れたルツソオとストリントベルグとの差別であります。すると「私」小説の「私」小説たる所以は自叙傳ではないことに存在するのではない、唯その「作家自身の實生活を描いた」こと──卽ち逆に自叙傳であることに存在すると言はなければなりますまい。しかし又自叙傳であることは抒情詩よりも複雜した主觀的文藝であると言ふことであります。僕は前に抒情詩と叙事詩との差別は──主觀的文藝と客觀的文藝との差別は本質的には存在しない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。既に叙事詩は抒情詩と本質的に異つてゐないとすれば、「私」小説も同じやうに本質的には「本格」小説と少しも異つてゐない筈であります。從つて「私」小説の「私」小説たる所以は本質的には全然存在しない、若しどこかに存在するとすれば、それは「私」小説中の或事件は作家の實生活中の或事件と同一視することの出來ると言ふ或實際的事實の中に存在すると言はなければなりません。卽ち「私」小説は久米君の定義の如何に關らず、かう言ふものになる訣であります。──「私」小説は譃ではないと言ふ保證のついた小説である。

 もう一度念の爲に繰り返せば、「私」小説の「私」小説たる所以は「譃ではない」と言ふことであります。これは何も僕一人の誇張による言葉ではありません。現に「どんなに巧妙でも、『私』小説以外の小説は信用する訣に行かない」とは久米君自身も一度ならず力説してゐる所であります。しかし「譃でではない」と言ふことは實際上の問題は兎に角、藝術上の問題には何の權威をも持つてゐません。これは文藝以外の藝術、──たとへば繪畫を考へて見れば、誰も高野の赤不動の前にかう言ふ火を背負つた怪物は實際ゐるかどうかなどと考へて見ないのでも明らかであります。けれどもこれだけの理由により、「譃ではない」と言ふことを一笑に附してしまふのは餘りに簡單でありませう。實際又「譃ではない」と言ふことは何か特に文藝の上には意味ありげに見えるのに違ひありません。ではなぜ意味ありげに見えるかと言へば、それは文藝は他の藝術よりも道德や功利の考へなどと深い關係のあるやうに考へられてゐるからでありませう。が、文藝もかう言ふものと全然緣のないことはやはり他の藝術と異りません。成程僕等は實際的には、――何をいつ誰に公にするか等の問題には道德や功利の考へをも顧慮することになるでありませう。しかしそこを通り越した文藝それ自身としての文藝は何の拘束も持つてゐない、風のやうに自由を極めたものであります。若し又自由を極めてゐないとすれば、僕等は文藝の内在的價値などを云々することは出來ますまい。從つて文藝はおのづから上は「文藝化せられたる人生觀」より下は社會主義の宣傳機關に至る奴隷的地位に立つ訣であります。既に文藝を風のやうに自由を極めたものとすれば、「譃ではない」と言ふことも勿論一片の落葉のやうに吹き飛ばされてしまはなければなりません。いや、「譃ではない」と言ふことばかりではない。「私」小説の問題に多少緣のある謬見を擧げれば、「作家はいつも作品の中では正直にならなければならぬ」と言ふことも、やはり吹き飛ばされてしまふ筈であります。元來「正直になる」或は「他人を欺かぬ」と言ふことは道德上の法律ではあるにしても、文藝上の法律ではありません。のみならず作家と言ふものは既に彼自身の心の中にちやんと存在してゐるものの外は何も表現出來ぬ訣であります。たとへば或「私」小説の作家はその小説の主人公に彼自身の持つてゐない孝行の美德を與へたとして見ませう。成程その小説の主人公は彼と異つてゐる以上、道德的に彼を譃つきと言ふのは當つてゐるかも知れません。が、かう言ふ主人公を具へた或「私」小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在してゐたのでありますから、彼は譃つきどころではない、唯内部にあつたものを外部へ出して見せただけであります。若し又譃をついたとすれば、それは彼が何かの爲に彼の天才を賣淫し、彼の内部的「私」小説を十分に外部化することを(或は表現することを)怠つた場合だけでありませう。

 「私」小説と言ふものは上に述べた通りの小説であります。かう言ふ「私」小説を散文藝術の本道であると言ふのは勿論謬見でありませう。しかしこの議論の誤つてゐるのは必しもそれだけではありません。一體散文藝術の本道とは何のことでありませう? 僕は前に散文藝術と韻文藝術との差別は本質的に存在する差別ではない、唯量的な標準に從つた貼り札であると言ひました。すると散文藝術の本道と言ふことも「最も文藝的な散文藝術」などと解釋することは出來ません。若しかう解釋することは出來ないとすれば、それは唯「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことに落ちて來なければなりますまい。けれども「最も散文藝術的な散文藝術」と言ふことは畢竟散文藝術と言ふことだけであります。たとへば散文藝術の代りに紙卷煙草を置いて見ても、紙卷は煙草と言ふ本質の上では少しも葉卷と異りません。從つて紙卷の本道と言ふことを「最も煙草的な紙卷」とするのはおのづから滑稽になるでありませう。そこで「最も紙卷的な紙卷」とする外はないとなると、[やぶちゃん注:底本の「後記」によれば、単行本「梅・馬・鶯」ではここは「外はないとすると、」であり、底本はここのみ初出に従っている。]──僕は常識の名前により、諸君に問ひたいと思ひます、──「最も紙卷的な紙卷」とは當り前の紙卷以外に何を指してゐるのでありませう? 散文藝術の本道と言ふのはこの「最も紙卷的な紙卷」と言ふのと同じことであります。かう言ふ例の示す通り、「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論は單に散文藝術の本道を「私」小説に置いた所に破綻を生じたのではありません。散文藝術の本道と言ふ空中樓閣を築いた所に抑々の破綻を生じてゐるのであります。では散文藝術の本道などと言ふものは全然存在しないかと言へば、それは或意味では必しも存在しないとは言はれません。あらゆる藝術の本道は唯傑作の中にだけ橫はつてゐます。散文藝術の本道も若しどこかにあるとすれば、恐らくはこの傑作と言ふ山上にあるのかも知れません。

 僕は久米君によつて主張された「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふ議論を略々批評し了りました。僕の立ち場は久米君の立ち場と生憎兩立出來ぬものであります。しかし僕は久米君の議論に少しも敬意のない訣ではありません。たとへば久米君は「私」小説から截然と自叙傳を分ちました。この差別それ自身に僕の賛成出來ないことは既に述べた通りであります。しかしこの差別を立てたことは或意味では最も文壇の時弊に當つてゐると言はなければなりません。僕も亦多少の暇さへ得れば、この差別から出發した小論文を書きたいと思つてゐます。なほ又僕は徹頭徹尾宇野君の議論を閑却しました。それは宇野君は久米君のやうに「散文藝術の本道は『私』小説である」と言ふことを斷々乎と言つてゐない爲であります。尤も宇野君の議論の中にも「僕等日本人の文藝的素質は『本格』小説よりも『私』小説に適してゐる」と言ふことだけは力説されてゐるのに違ひありません。しかしそれは宇野君の常談と見なければなりますまい。なぜ又常談と見るかと言へば、僕は僕等日本人の生んだ「本格」小説的作品の中に源氏物語は暫く問はず、近松の戲曲、西鶴の小説、芭蕉の連句等を數へることを、──いや、それよりも宇野君自身の二三の小説を數へることを大慶に思つてゐるからであります。

 最後につけ加へておきたいことには僕の異議を唱へるのは決して「私」小説ではない、「私」小説論であると言ふことであります。若し僕を目するのに「本格」小説だけに禮拜する小乘甞糞の徒とするならば、それは僕の冤ばかりではない、同時に又日本の文壇に多い「私」小説の諸名篇に泥を塗ることにもなるでありませう。

 

昨夜の二つの夢

最近はあまり夢を見なくなった(忘れているのではなく、実際に見なくなった可能性が高い)が、夕べは二つの表面上、関連性のない奇妙な夢を見た――

最初の夢――

……私は古代の都(平城京か)の、死者の名を管理する官吏であるらしい。
何人もの死んだ者たちの名が筆で紙に記してあり、それを見ている私を、夢を見ている私はその背後の斜め左肩上から見下ろしている。
そこには当時にありがちな「太子」「忌部」「麻呂」といった文字が見えるのであるが、それに向かっている私が、それらの字の上に、墨を含ませていない筆をすうっと下ろすと、それらの字が一瞬にして消え、そこは空白になってしまうのであった。
と、見る間に、そうした虫食いになった無数の名前は、紙から綺麗な列になって抜け出し、白黒斑の蛇のようにして室内を飛び交ったかと思うと、再び、紙の上に戻って来る。
すると、そこには漢字が組み換えられた死者の新しい名が出現している。
私はそれを見て、頷いているのである…………

第二の夢――

私は博多に移住している。
「博多どんたく」の夜なのだろう、私も羽織を裏返しにした「肩裏(すらせ)」に軽衫(かるさん)を着、例の「博多にわか」の奇体な面をつけている。
〔注:実際の私は徹底した祭り嫌いで、「博多どんたく」も、ニュース映像でちらと見ただけであり、そもそもが、博多も、私(わたくし)の旅行と修学旅行引率の新幹線乗り換えで小一時間を過ごしたことがあるばかりである。さらに言うと、「博多にわか」のあの面は、何故か、私には江戸川乱歩的猟奇感を惹起させ、生理的嫌悪の、強い対象物なのである。〕

その恰好で、私はかの梅崎春生(彼は普通の開襟シャツ姿である)と飲み屋に入って酒を飲んでいるのである。
〔注:言わずもがな、梅崎は福岡生まれである。〕

私は尿意を催し、鞄を置いたまま、席を離れる。店にはトイレがないので、それを探すために路地を徘徊した。

祭りの囃子が遠く近くに聴こえ、若い女性たちの着飾った「どんたく」の一団とすれ違った。

その時、その一団を押しのけるように、一人の背の高い若い男(私と同じ格好で「博多にわか」の面をつけている)が乱暴に抜けて行く。

その右手に、キラりと光ったのは拳銃であった。

私は
「あっ! 拳銃を持ってる!」

と叫んだ。女性たちの悲鳴が揚がる。
男は、露地を、私のいた居酒屋の方へと、いっさんに走り抜けて行って見えなくなった。
 
私は反対側の通りに抜けると、一区画分、大回りをし、さっきの店へ戻ろうとした。鞄には財布が入っているからであった。
 
廻り込んだところには一階がスーパーになったビルが建っていた。
 
そこの駐車場に先の若い男が現われ、スーパーの中に銃を乱射し始めた。
  
人々が逃げ惑う中を私は逆行し、先の居酒屋に入ると、そこはもう、皆、逃げてしまって「もぬけのカラ」となっていた。
〔注:因みに、無論、梅崎春生もおらず、彼の出演は最初のシーンだけで淋しかったな、というのは覚醒してからの私の思いではあった。〕
 
私は幸いに残っていた鞄をひったくると、何故かまた、銃声の続く方の露地を抜けて、いっさんに逃げた。

流れ弾が ピュン! ピュン! と空を切るのが、ごく近くに聴こえた。
 
大分、走って、人気のない路地の街灯の下で、鞄の中を確かめた。

財布はあったが、取り出したその財布は、二発の銃弾が美事に貫通していた。
 
紙幣はもとより、一緒に入れていた病院の磁器診察カードも打ち抜かれていた。
 
「あぁ、また、カードを作り直すの、面倒っちいな。」
 
と私は呑気に呟いた。
 
――見ると、その財布は左右に穴が二つ空いて――
 
「博多にわか」の面に、そっくりなのであった…………

2018/09/02

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 斷 章

  

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない(『(断片)』とあるのみ)。但し、葛巻氏はこのパートの後に「中学時代」(㈠と㈡有り)と「小学時代」が逆編年体で続く形で構成されているから、氏は各パート内も逆編年順に並べている可能性が高い。但し、「寒夜」の冒頭注で私が疑義を呈した通り、彼の執筆時期推定には甚だ疑問がある。取り敢えず、葛巻の指定に無批判に従って創作時期を「第一高等学校時代」とするならば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間とはなる。しかし、くどいが、「寒夜」の冒頭注での執筆時期の私の推のように、これもそれより前に溯る可能性も否定出来ないことは含みおかれて読まれるのがよいかと存ずる。序でに難癖をつけておくと、この「斷章」という題も本当に原稿に書かれているのかどうか、私には疑問が残るのである。作家を目指すも目指さない決まっていなかった龍之介が、作家になってからもそうは使わなかった「斷章」などというタイトルを創作文に附したとは、ちょっと考えに難いからである。

 なお、空欄はママで、〔 〕の文字は葛巻氏が補正追加した字である。

 「餌壺」(ゑつぼ)は鳥の餌を入れる容器のことである。

 因みに私はこの断片に異様に心惹かれる――

 私はこれをモノクロームのショート・フィルムで撮ってみたくてたまらない――タルコフスキイ!……

 ……チケリ!……チケリ!……という鎚音が聴こえ……老人の後ろ姿が見えてくる……

 ……この少年は……

 芥川龍之介であると同時に……

 私自身……だ…………

 

     斷 章

 

 白い土藏の下で十ばかり〔の〕女の子とまゝごとをしてゐた。

 褪紅色の帶をしめて 白地の單物をきて、藍色の大きなリボンをかけた 色の白い子であつた。長い睫の下から、うるんだ眼でじつと人の顏を見る癖のある子であつた。

 その子は自分を蓆の上にすはらせて、小さな蒔繪の御椀に、ぺんぺん草をきざんだのをいれて、

「どうか召上つて下さいまし、おいしくは御座いませんけども」と云つた。自分の前には、水のはひつた硝子の德利がある。砂をもつた黄の餌壺がある。さうして千代紙の三寸ばかりの屛風が二つ立ててある。女の子は

「それがおいやなら、これを上つて頂戴」

 と云つて、大きな晝顏の花を、掌へのせて自分の胸の前へ出した。花びらはいもりの腹のやうな色であつた。自分は、おやと思つた。

「こんなものをどこから、とつて來たんです」

「御くらのうしろで石屋さんが石をきつてゐるの、そこに澤山さいてゐるわ」

 しばらくして自分は、土藏のうしろへ行つた。成程、あかい晝顏の花が一面にさいて、その中に禿頭の老人が後向になつてちけり、ちけりと、石をきつてゐる。花崗石のやうな石は鎚のびゞく度にかけて落ちる。老人は後をむいたなり石を動かしてゐる。石は鎚のひゞく度にかけておちる。

 自分は女の子にやらうと思つて晝顏の花を七つつんだ。さうして又もとの土藏の前へかへつて來た。女の子はどこかへ行つたと見えて、蓆も、千代紙の屛風ものこつてゐなかつた。自分は、丁寧に七つの晝顏の花を、蓆のしいてあつた土の上へならべて女の子のかへつて來るのをまつてゐた。……

 白壁には日の光が一面にあたつてゐる。

 

反古のうらがき 卷之一 木食

 

   ○木食

 明石藩何某、名は失念、阿岐の眠山といへる畫人と交り深かゝりけるが、武を好みて、常に長刀を挾めり。眠山は畫を以て名をなせり。

「吾も一事をもて名を舉(あげ)ん」

とて、武事をいよいよ勤(つとめ)けり。

 三十斗りの頃、瘡毒(さうどく)を受(うけ)て、身節(みのふし)いたみ、武事を講ずることも自由ならず。

「口惜き事かな。何とぞ名醫を求め、き療治を加へて、元のからだとなるべし。」

とて、醫に尋ねしに、

「子が瘡、容易の毒ならず。所謂『骨がらみ』なれば、多くは、療用、效、あるまじ。やむなくば、一つの法あり。これも容易のことにあらず。」

といへり。

 其法を問ふに、

「他なし。一切、人間の飮食を絶(ぜつ)し、火食をせずありなば、瘡毒はさる能はずといへども、又、毒の惱(なや)みはなかるべし。是より外、術(じゆつ)なし。かくして一年もあらば、筋骨、昔にかへり、武事にもさせる妨(さまたげ)なかるべし。」

といひけり。

 何某、

「いとやすき程の事よ。」

とて、其日より、木食(もくじき)となり、常に好める酒などは手にも取らず、蕎麥(そば)の粉(こ)を水にねりて食し、時の菓(くだもの)は何にても、貯へらるゝ程は貯へ置(おき)て食しけり。

 醫師の言(げん)、空しからず、果して瘡毒、大(おほい)に減じて、常の如くなりけり。

 出家などの木食といふは、少づつの物、たふべて、事すむなれども、これは武人の木食なれば、左(さ)に準ずること、能はず。大きなる柿一度に十二、三づゝ、栗五合斗りづゝなり。其外、冬の寒きころも、蜜柑・柚子など、いくつともなく食しけり。後には松の葉を食し覺へてたべけるが、

「江の松は食ふにあたらず。」

とて、鹽燒などがたく松を見れば、必(かならず)一握(ひとにぎり)づゝ食ひて、其中に苦(にが)み少なきを撰(えら)みて、買置(かひおき)て食ひけり。

 後に、「醫のゆるし」とて、少しづゝ麥飯(むぎめし)を食し、少しづゝは魚肉も用ひ、酒も少々は用ひ、一日の内、一度は、平人の食をなし、

「多く力を用ひて武事をなせば害なし。」

といひしが、再び瘡毒起り、前の狀によく似たる樣に見えければ、また大におそれて、これより再び、麥飯も食せず、一味(いちみ)に木食のみにしてありければ、又、瘡毒も漸く減じて、快よく覺(おぼえ)ける。

 かかること、十年斗りなりしが、一年(あるとし)、傷寒(しやうかん)の病(やまひ)はやりける頃、其病(やまひ)にかゝり、醫師に下劑を求めて飮(のみ)けるに、木食の化せざる物を、多く下痢して、死しけり。

 予叔(よがをぢ)醉雪は、よく知れる人なりしよし。

 所謂、「仙家、下劑を忌む」といふも、これ等と同じ理(ことわり)にや。

[やぶちゃん注:「阿岐の眠山といへる畫人」不詳。

「長刀」「挾めり」とくるのだから、これは「なぎなた」と読んでおく。

「瘡毒」梅毒。

「身節(みのふし)」推定訓。

「骨がらみ」この場合は、単に所見上でのリンパ節腫脹が太く起きかったり、皮膚の潰瘍の根が深いことなどを言っているものか。実際の骨に腫瘤が出来ている(良性の第三期梅毒に見られる症状)可能性、もっと深刻に骨髄が冒されている可能性もあるかも知れない。梅毒には潜伏期(但し、第二期の後で、数年から数十年に及ぶこともある)があるが、まさにこの何某が一時期、優位な期間に亙って軽快しているのは、木食療法の効(かい)あってのことではなく、実はたまたまその潜伏期に当っていたに過ぎなかったと考えると、非常に腑に落ちるのである。

「他なし」他(ほか)でもない、特殊な治療ではなく、貴殿もよく知っている通常の人の食べる飲食物を基本的に断つこと、また、火を用いて処理した対象物を食さない、所謂、「木食(もくじき)」をすることである。

「たふべて」「食(たふ)べて」。

「松の葉を食し覺へて」松の葉を食べることを学んで。松の葉は古代中国から、仙人の食物・長寿の秘薬として知られた。

「鹽燒などがたく松」江戸の辺縁の、製塩業を生業(なりわい)とする百姓が、塩水を煮込むのに用いるその田舎の地の松の葉。私のする所では、横浜の金沢八景にある平潟湾沿岸では鎌倉時代から明治時代にかけて製塩が行われていた。

「醫のゆるし」医者の許諾。

「多く力を用ひて武事をなせば害なし」食べた分だけ、そのエネルギを十二分に消耗するだけの武道鍛錬を行えば、平常食の害はない。

「一味(いちみ)に」一筋に。食物なので「味」としたもの。

「傷寒の病」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指す、とされる。

「醉雪」魂東天に歸るの私の注を参照。

「仙家、下劑を忌む」私は知らぬが、そもそも薬物を以ってして消化器内部を苛烈に刺激して排泄させる薬物は、仙人なんぞになる積りはなくとも、身体にいい感じは全くないもんね。]

反古のうらがき 卷之一 赤岩明神

 

    ○赤岩明神

 

 信濃の山奧に赤岩明神といへるありと言傳(いひつた)へて、所のものもしらざること也。

 何某、此國に公(おほやけ)の御用にて趣きたる時、此事を聞(きき)て土人に尋(たづね)たるに、しる者なく、

「唯、山奧とのみ聞つる。」

よし、いへり。

 何某、數日の糧(かて)を包みて、山に入(いり)尋づぬるに、樵夫(きこり)も其所をしらず。

 三日路(みつかみち)にして、道、絕へたり。

 剩(あまつ)さへ、山蛛(やまぐも)の絲亂れて、行(ゆき)なやめるに、山蛭(やまびる)といふもの、人の氣(けはひ)を聞(かぐ[やぶちゃん注:底本のルビ。])と均しく、木の枝より落來(おちきた)りて、人に付く。水蛭(みづびる)の如くにして、大なり。蛛の絲は尋常より太く、小鳥をとるの設(まふけ)なり。篠竹を持て打拂(うちはら)ふに、やゝ手ごたへあり。多く引(ひき)たる所は、幾打(いくうち)か打(うち)て初(はじめ)て通(かよ)ふことを得る、となり。

 引きぐしたる人、三、四人なれども、雲霧深く、咫尺(しせき)を分つこと能はず。各(おのおの)、聲、呼(よび)かわして[やぶちゃん注:ママ。]、其(その)在る所をしるなり。おりおりは大鳥獸の往來する音して、其形は見へず。餘りに霧深ければ、落葉、かき集めて火をもやし、或は晝といへども、松火(たいまつ)ふり照して行(ゆか)ば、霧も霽(はる)ることあり。溪の水音ありて、其所を求(もとむ)るに、しりがたし。少しの水はもたらしたれども、數日(すじつ)の後は、水にて、事かきたり。

 四日といふには樵夫にも逢ふことなく、唯、大木の下をくゞるのみ。路とも溪とも分たず行(ゆき)けるが、元より、夜晝といふ分ちもなく、よき宿りになすべき大木の下にて、いつにても、足もつかれたる時、かはるがはる眠るなり。

 五日といふには、みな、倦果(うみは)て、

「こゝ迄にして歸りなん。」

といひて立(たち)けるに、折ふし、夜の明がたにて、四方の雲霧、晴わたりしに、西北のかたと覺しき處をみれば、深き谷を隔てゝ、其向ひに一つの山あり。其色、火の如くみへける。

「これぞ、聞及(ききおよ)ぶ『赤岩明神』。」

とて、皆、一同に禮拜して立(たつ)間に、又、霧、立込(たちこめ)て、見へずなりぬ。

 行(ゆき)て見んとするに、深き溪にて、渡るべきたよりなし。其あたり、少し平らなる所ありて、宮にてもありしかと思ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]なる處あれども、礎(いしづゑ)などのしるしも、なし。

「扨、此處は何づくにかあらん。」

といふに、初(はじめ)案内せし從者の内に、少し心覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ある物ありて、

「此(ここ)より、今、二、三日も行(ゆか)ば、越後の方出(いづ)べし。」

といへり。

 こゝより、立歸りけるに、亦、日數(ひかず)經て、元の路に出けり。

「所の者さへしらぬ『赤岩』、みし。」

とて、誇りて語りけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されてある。]

 此(この)赤岩、朱砂(しゆさ)のかたまりたるならんといへれど、左にあらず、尾州の淺尾大嶽がかたりたる。

「富士の登山三千遍に及ぶといふ人の富士眞景の内に、朱塗(しゆぬり)の富士あり。これを如何にと問ふに、朝日の移りて如ㇾ此(かくのごとき)こと、たまたまあり。大嶽も、四、五年の内に一度、見たり。」

といへり。蓋し、此山、朝日に向ひたるを、溪の向ふより見れば、かく紅く見ゆる所にて、「赤岩」の名も得しことか。されば、常に此處に來る人有りても、朝日の時にあらざれば、其色、紅(こう[やぶちゃん注:底本のルビ。])ならず、又、雲霧、深ければ、見ることなし。

 何某、

「幸(さいはひ)の時に來りて、數日跋渉(ばつせう[やぶちゃん注:ママ。])の勞をつぐのひ[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

とて、語りけるなり。

[やぶちゃん注:怪奇談ではないが、アプローチはおどろおどろしく夢幻的なれば、臨場感を出すために、改行を施した。

「赤岩明神」長野県茅野市にある八ヶ岳連峰の硫黄岳の西に位置する「赤岩の頭(あかいわのあたま)」(標高二千六百五十六メートル)があるが、後の「此(ここ)より、今、二、三日も行(ゆか)ば、越後の方江出(いづ)べし」が合わない(ここは、私には横浜翠嵐の山岳部で引率した二度の八ヶ岳縦走(三度だが、最初のそれは悪天候で行者小屋からの赤岳登攀(地蔵尾根)途中で断念した)の最後に下ったとても懐かしい山である。(国土地理院図)である。「赤岩の頭」は森林限界を越えており、南斜面は禿げて岩が露出している。東の硫黄岳には巨大な爆裂火口が切り立ったクレーターのようにあり、まさに異界感が強い場所で、この話柄には一瞬、相応しいと私は感じたのだが)新潟に連なるとすれば、北アルプスで、槍ヶ岳の東方に聳える二千七百六十八・九メートルの赤岩岳が候補とはなる((国土地理院地図))。ここも最初の柏陽のワンダー・フォーゲル部の夏山で二度、横を通過した(表銀座縦走路の脇。あそこから北の端の燕岳(つばくろだけ)なんぞはまさに火星の様相だ)。もし、この「赤岩岳」がここが「赤岩明神」だとすれば、何某一行は、松本から徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入り、徳沢の谷筋を詰めたと考えると、日程・各シークエンス・ロケーション位置(最後に見上げたのが「西北」なら、徳沢の奥の槍沢が分岐する河原附近がぴったりである。(グーグル・マップ・データ))と極めてよく一致するように思われるのである。ああ、もう孰れも二度と行くことはないだろう。

「山蛭」環形動物門ヒル綱ヒル亜綱顎ヒル目ヤマビル科Haemadipsa  Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica。日本本土では唯一の陸生吸血ヒル。私は吸着されたことはないが、丹沢では引率した生徒がよく襲われた。

「水蛭」本邦の、成体でヒトから吸血する水棲性のヒルは、ヒルド科 Hirudidae ヒルド属チスイビル Hirudo nipponica である。

「蛛の絲は尋常より太く、小鳥をとるの設(まふけ)なり。篠竹を持て打拂(うちはら)ふに、やゝ手ごたへあり。多く引(ひき)たる所は、幾打(いくうち)か打(うち)て初(はじめ)て通(かよ)ふことを得る、となり」あり得ないけれども、異界へ通じる道にはすこぶるつきで、いいアイテムである。

「引きぐしたる人」「引き具(供)したる人」。同行者。但し、何某の同格式の者ではないようだ。現地で調達した山案内人や畚背負いの合力である。

「咫尺」極めて近い距離。「咫尺を弁ぜず」等と使って、「視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかない」の意となる。

「かはるがはる眠るなり」ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus・ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax・野犬(のいぬ)等の襲撃を考えれば、交代仮眠は必須である。

「淺尾大嶽」既出既注であるが、再掲しておく。画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の門人に、同姓同名(号)の名古屋藩藩士で、名は「英林」とするデータが、サイト「浮世絵文献資料館」のこちらにあった。

「富士の登山三千遍に及ぶといふ人」不詳。こんなギネス級の登山者なら名が残っていそうなもんだが?

「朱塗の富士」ウィキの「富士によれば、明和八(一七七一)に文人画家鈴木芙蓉が「赤富士に昇竜龍図」を描いているが、紀州藩勘定奉行支配小普請方の医師で南画家としても知られた野呂介石が文政四(一八二一)年に描いた「紅玉芙蓉峰図」絹本淡彩一幅も赤富士を描き、赤富士を主体に描いたのはこれが最初のものと推定されているようである。中でも、浮世絵師葛飾北斎の「富嶽三十六景」(天保元(一八三〇)年~天保五年刊)の一図「凱風快晴」の赤富士が最も知られる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「跋渉(ばつせう)」歴史的仮名遣は「ばつせふ」が正しい。山野を越え、川を渉り、各地を歩き回ること。

「つぐのひたり」埋め合わせとなった。]

反古のうらがき 卷之一 狐の玉

 

   ○狐の玉

 

 文化の季年に、「狐の玉」といふものはやりて、人々、寶の如くもてはやしける。其さま、一握りの毛のかたまりにて、核(さね)おぼしきもの、小豆(あづき)より小なるもの有りて、白き毛、又は、赤き毛、すきなく生ひ出(いで)たり。「如何樣(いかさま)にも『狐の玉』ともいふべきもの」とて、稻荷の社などに備置(そなへおき)けり。其後(そののち)、御目付羽太左京家來何某、「傳通院(でんづゐん)たく藏主稻荷(ぞうす[やぶちゃん注:底本のルビ。]いなり)の前にて拾ひたり」とて、「全く稻荷の賜物(たまもの)なり」など、いひはやし、龕(づし)を作りて其内におさめ、所々に持(もち)あるきて、拜禮を乞ふものより、御初穗を取りけり。一日(あるひ)、尾州公御長屋下何某より、「持來(もちきた)りて拜ませ吳れよ」と言越(いひこ)しければ、持(も)て行けり。拜禮一通り終りて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、「『狐の玉』拜禮の事いひ入るゝ事、其一事のみならず。吾々、困窮にして飢渴に及べり。君は『狐の玉』を得玉ひて、所々御大家より奉納の金錢多く得玉ひしよし聞及(ききおよ)びたれば、其内、少々、恩借(おんしやく)に預り度(た)く、扨は申入(まうしいれ)たるなり。此事、聞濟(ききすみ)玉へ」とて、せちに乞(こひ)けり。何某、あきれ果て、如何にもして逃れ去らんとするに、次の間には破れたる障子を立(たて)て、其内に荒くれたる大男ども、幾たりともなく有りて、さゝやく樣(さま)、否(いな)といわば[やぶちゃん注:ママ。]、如何なる事をかなさんも斗(はか)りがたき有樣なり。よりて、辭すること能はず。「今は持合(もちあはせ)なし。家に歸りて後、望みの數ほど用立(ようだつ)べし」といひて立(たち)ければ、「明日、取(とり)に人を遣すべし」と約して歸しけり。果して、明(あく)る朝、人、來りければ、何某が子ども、大に怒り、使の者、召取置(めしとりおき)、「公(おゝやけ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])にも訴(うたえ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])ん」など、いひのゝしりしが、此使(つかひ)に來りしは日雇(ひよう[やぶちゃん注:底本のルビ。])の者なり。又、約せしことなれば、取(とり)に來るも是非なきことにて、敢てかたりの筋にもあらず。但し、金子さへ渡さゞる前は、如何樣にも仕方あり、とて返事して、「約せしかども、金子、出來不ㇾ申(まうさず)」といひやりて歸しけり。是は其頃はやりける「テメ博奕(ばくち)」といふことをする人の内にて、慾深く、やま氣(け)ある人を引入(ひきいれ)、劫(おびや)かして金子を借(かり)る法にてぞ有ける。數日(すじつ)の後、其人共(ども)外、十人斗(ばか)り、召取(めしと)られ、御吟味事(ごと)にぞなりけり。

 狐の玉を拾ひしといふ人も、愚かにして慾深く、婦人女子を欺き、少しづゝの利德せしより、かゝる危うきめに合(あひ)て、幸(さいはひ)に免れたり。惡徒は積惡にて召取られたり。人々、「玉の奇特(きどく)、おそろし」などいひけれども、其後、人にきゝしは、右の玉は、皆、兎の尾のさき、五、六分斗り、皮斗りにして、日に乾し堅むれば、内の方卷(まき)こみて、干(ほし)かたまる。其(その)大きさ、赤小豆程になりて、毛はよく外をつゝむ。獵師などの家にて作おきしを、初めの程は「珍らし」とて、「狐の玉」などいひはやしたる也。後は緣日などに出して賣る。價(あた)ひ十二文位になりけり。これも今は餘り見ず。廿騎町秋山太平太、是も其頃、「護國寺山にて赤・白二つ、一つになりてありしを、ひろひたり」とて、余も見に行(ゆき)けり。神棚に上げて有(あり)けり。かゝれば、「稻荷の社(やしろ)、或は大寺の狐出(いづ)る所などへ捨置(すておき)て、人にひろわせ[やぶちゃん注:ママ。]、評判となして、何か、『やま』をする心の者ありし」と、後に思ひあへりける。

[やぶちゃん注:「文化の季年」「季年」は末年の意で採っておく。文化は一八〇四年から一八一八年まで。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、三十年ほど前のこととなる。

「狐の玉」「狐の宝珠(ほうじゅ)の玉」などと称して、妖狐伝承にはよく出る。そこでは概ね、狐が化けるのに必要不可欠なアイテムとして登場するようだ。

「如何樣(いかやう)にも『狐の玉』ともいふべきもの」「まさしく、いかにも『狐の玉』とも称すべき霊験あらたかなものである」。

「御目付羽太左京」文政五(一八二二)年の史料の中に目付羽太左京正栄(「まさはる・まさえ」か)の名を見出せる。

「傳通院(でんづゐん)たく藏主稻荷(ぞうす[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「ざうす」が正しい。]いなり)」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『無量山伝通院(文京区表町)に祀られている狐。駒込吉祥寺の所化に化けて法門の勉学に来ていたのを、昼寝中に尾を出して正体がばれた』とある。詳しくは私の諸國里人談卷之五 伯藏主さうず)」(そこに傳通院の伝承で「澤蔵司(たくぞうす)」伝承があることも記しておいた)の本文及び私の考証注を参照されたい。

「龕(づし)」厨子。

「初穗」神に供える金品。

「尾州公」当時の尾張藩主は第十代徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年)。第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。尾張藩は流石に上屋敷(現在の新宿区市谷の防衛省庁舎。以下同じ)・中屋敷(千代田区紀尾井町の上智大学)・和田戸山下屋敷(新宿区戸山の都立戸山公園)の他、蔵屋敷を中央区築地の築地市場に持っていたが、思うに、本「反古のうらがき」のここまでのロケーションは圧倒的に「廿騎町」(現在のここ(グーグル・マップ・データ))が多く、ここでも終りの添え話に出、しかも廿騎町の南直近が尾張藩上屋敷であることから、ここの「御長屋下」というのも、この附近なのではなかろうかと私は思った。

「聞濟(ききすみ)玉へ」聞き入れて下され。承諾してくれたまえ。

「又、約せしことなれば、取(とり)に來るも是非なきことにて、敢てかたりの筋にもあらず。但し、金子さへ渡さゞる前は、如何樣にも仕方あり、とて返事して」「返事して」はない方がすっきりと躓かずに読める。以上の評言は使いの者に言ったのではなく、何某と子どもの内輪のやり取りと考えるのが妥当で、私は「約せしかども、金子、出來不ㇾ申(まうさず)」の後の「いひやりて」の衍文と採り、ここを無視したい

「テメ博奕(ばくち)」詐欺(イカサマ)賭博のこと。

「やま氣」山師のような気質の意で、万一の幸運を頼んで、思い切って事をして一発当てようとする心。「やまき」と読んでもよい。

『人々、「玉の奇特(きどく)、おそろし」などいひけれども』こういうところこそが大衆の救い難い呆れた盲信的部分である。

「五、六分」一・五~一・八センチメートル。

「十二文」文化文政期は蕎麦一杯が十六文であった。

「秋山太平太」不詳だが、「廿騎町」に住んでいる以上、まず御先手組である。切絵図では同町内に「秋山彥兵ヱ」の名を見出せる。

「護國寺山」現在の東京都文京区大塚にある真言宗神齢山悉地院大聖護国寺。(グーグル・マップ・データ)。

「稻荷の社(やしろ)、或は大寺の狐出(いづ)る所などへ捨置(すておき)て、人にひろわせ、評判となして、何か、『やま』をする心の者ありし」これは今の常識で考えると、とんでもなく迂遠にして、時間のかかる手法としか思えないのだが、ある意味、こうしたものに信心を持ってコロリと騙されてしまう素朴な庶民が有意に多かったこと、犯罪者もスロー・ワークだったことなどを物語る例として興味深い。]

反古のうらがき 卷之一 鼠

 

   ○鼠

 さりし年、余が弟中西、未だ家にありし時、座敷に鼠出(いづ)るを憂ひて、すき間すき間をよく塞ぎて、出れば、必(かならず)、打殺(うちころ)しけり。或時、佛壇のあたりにさわぐ[やぶちゃん注:ママ。]おとしければ、例の如く、四方のさし、見𢌞りて、こゝより入たると思ふ處をよく立切(たてき)り、扨、燈火明(あか[やぶちゃん注:底本のルビ。])くなして其室に入(いり)、隈なく求(もとむ)るに、影もなし。鼠の、影かくすは常のことなれども、外に隱るべき一物もなく、佛壇は、皆、取片付(とりかたづけ)て、物なく、其前に小机一つに小花甁(こばないけ[やぶちゃん注:「いけ」は底本のルビ。])一つありて、しきみ一本挿(はさ)める外、又、物もなし。又、物音ありて後、出べき方は、皆、塞り、『小隱(こがくれ)するも、事にこそよるべけれ。此内にて何所へか隱るべき』とて、再三、花甁(はないけ)のあたり、打驚(うちおどろ)かし、取(とり)のけなどするに、絶(たえ)て形のなかりければ、『今は是非なし』とて立(たち)けるが、ふと花甁(はないけ)の内を見るに、線香の火程(ほど)の光り、二つ、見へけり。『扨は。此内に居て、水際の花の根に潛(ひそま[やぶちゃん注:底本のルビ。])りけるよ。さらば、手頃の物をもて蓋(ふた)したらんに、さこそ捉(とら)へ易からん』と思へども、あたりに物なし。『何をがな』と纔(わづか)に側(かたはら)に眼を移しける間に、早、甁中(いけなか)の光りは、消失(きえうせ)ぬ。『その隙に逃れけるよ』と、燭火、照らして就(つき)て見るに、こゝにはあらで、障子の上にありて、あちこちする樣(さま)、最早、大事の隱れ家はしられて、あわつるとこそ見えける。これよりは、常の如く追𢌞(おひまは)して打殺(うちころ)しぬ。

 彼(かの)甁中(いけなか)にありて、此方(こなた)の眼斗(ばかり)を見詰めて、如何(いか)よふ[やぶちゃん注:ママ。]に近よるとも、眼光(めのひかり[やぶちゃん注:底本のルビ。])、此處に至らざる間は、見付(みつく)る氣遣ひなしと思ふが鼠其外、狐などの性(しやう)なりけり。一度、眼光(めのひかり)、こゝに及びぬると見れば、其(その)眼光(めのひかり)の轉ずる隙(すき)を窺ひて他に逃るゝ、又、其所に隱るべき物さへあれば、あなたこなたと轉じ逃れて、終に見出す事なく止みぬることも多し。狐の人を化(ばか)すもこれと同じ。こなたの眼光(めのひかり)、遲き故なりとしるべし。人にも眼早(めのはや[やぶちゃん注:前からの推定訓。])き性の人あれば、諸藝に勝(すぐ)るる物なり。

 余、狐の木隱(こがくれ)するを見たり。初冬の頃、早稻田の蘘荷畠(めようがばたけ[やぶちゃん注:ママ。])のあたり、行通(ゆきかよ)ひしに、平(たひ)らにうなひたる畠の中に、二間斗(ばかり)の木立(こだち)有(あり)て、其上に鴉一羽、栖(すみ)けり。下に、狐一つありて、ねらふ樣(やう)、木を楯(たて)に取(とり)て、あなた、こなた、隱るゝに、鴉の後と立隱(たちかく)れ、いかに近よるとも、見付(みつく)る事、なし。鴉は段々と木を下る。いよいよ近くなれば、いよいよ木の根に隱るゝ。間(あひだ)三尺斗(ばかり)になりて、其身をかわす樣(さま)、いよいよ早かりけるが、折節、風の「さ」と落して、あたりの木の葉、ばらばらと飛(とび)たるに驚(おどろき)て、鴉は飛さりぬ。これは運のよくありける也。しからずば、今少しにて狐に食はるべかりける。狐も眼早(めのはや)く身輕(みのかる[やぶちゃん注:前からの推定訓。])く、纔(わづか)の物に身を隱すの性なり。

[やぶちゃん注:「余が弟中西」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の弟、八之助。文化七』(一八二四)『年生』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、八之助は十代の終りか、二十代前半か。

「しきみ」「樒」。アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)』の私の注を参照されたい。

「何をがな」何か恰好の物があればなぁ。「がな」は終助詞で「もがな」(係助詞「も」+詠嘆の終助詞「が」+感動の終助詞「な」の略で願望を表わす。

「あわつる」「澆つ・遽つ」等と漢字表記する。自動詞タ行下二段活用「落ち着きを失う・騒ぎ惑う・慌てまくる」の意。

「こなたの眼光(めのひかり)、遲き故なりとしるべし。人にも眼早(めのはや)き性の人あれば、諸藝に勝(すぐ)るる物なり」鼠や狐等の対象の眼光を見つけても、眼を完全に離してしまっては、幾ら、動体視力の鋭い人間でもその対象を見逃すしてしまうはずである以上(視界の一部に逃走する対象が入れば別)、これは十全な説明とは必ずしも言えない。

「蘘荷畠(めようがばたけ)」正しい歴史的仮名遣は「めうがばたけ」。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga。「茗荷」が一般的であるが、こうも書く。ウィキの「」によれば、「早稲田みょうが」と称したものが、『江戸時代に早稲田村、中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、山吹町)で生産された。赤みが美しく』、『大振りで』、『晩生(おくて)のみょうがである』とある。(グーグル・マップ・データ)で(早稲田大学の東直近)、本シークエンスのロケーションの限定候補となる。

「平らにうなひたる畠」不詳。初め「うな」は「畝」の訛りかと思ったが、「平らに」との相性が悪い。或いは「熟ふ・老熟ふ」で、荒れ地を丁寧に時間を掛けて、平たく耕し、均(なら)した畑の意か。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「三尺」約九十一センチメートル。]

反古のうらがき 卷之一 燐火

 

   ○燐火

 

 左門町の同心何某、いまだ公けに仕へざる時、近き在にありけり。

 日永き頃は近き寺に行(ゆき)て、僧と圍棊(ゐご)して樂みける。夏の日の暑氣にも、松・檜(かや[やぶちゃん注:底本のルビ。])などしげみたる軒のもとに、二人さし向ひてくらすに、などかくるしと思ふことのあらん。身に差(さし)かゝる事もなき人は、圍棊程樂しきは、なかるべし。

 或日、晝の程は暑氣甚しく、夕方より少し雲立(たち)て雨を催す樣なれば、日の落(おつ)るを見て家に歸りけり。

 其路は十町餘りの野原にて、此所を過(すぐ)る頃は、一天、墨の如く陰りて、物のあいろも分たず、路のべの荻・萩・すゝき、いろいろの草の葉に涼風(すゞかぜ)の、

「さ。」

と、おとして、そよぐ樣、

『人の間近く來りたるか。』

とあやしまれて、すさまじく聞へなどするに、只獨り、心細くも步みけるが、あら恠しや、行手の路のまなかに、紅き絲の細さなる火の、長さ三尺計(ばかり)なるが、

「ひらひら。」

と燃上(もえあが)りたり。

 おどろきながらも、よくよく見るに、又、此方(こなた)にも、彼方(かなた)にも、燃上りて、忽ちに消失(きえうせ)ぬ。

「これぞ、世にいふなる鬼火よ。」

と、身の毛、いよ立(たつ)て立(たつ)たるに、一風、烈しく落(おと)し來(きたつ)て、其風と共に、吾(われ)立(たて)る足元より、燃上る。

 其(その)火影(ほかげ)にて、よくよく見れば、萩の露、

「はらはら。」

と落(おち)たる所より、燃上るなりけり。

「扨は、露の滴(したた)る所より、燃出(もえいづ)るよ。」

と、あなたこなたの萩・荻の枝、ふり動(うごか)して見てければ、果して、其下より、一つ、二つ、出(いで)けり。

 其後(のち)は、又、さも、なし。

 かゝる事、煙草、二、三ふく、のむが内にして、最早、見る事、なし。

 但し、炎天の陽氣、地下に伏(ふく)し、夕方の陰氣に覆われて發散を得ず、その中に宇宙の氣は、皆、陰氣となりて、涼しくなり行(ゆく)のとき、地下の陽氣、一時に發散すれば、火と見ゆるなり。自然(おのづ)としめりて散(さん)すれば、見ることなく、水・露などそゝげば、一時に發して、火と見ゆるなりけり。

 世にいふ、石灰に水をそそげば、火を出すといふもの、かの西洋のヱレキテルといへる物の理(ことわり)も同じ事なりけり。

 此事、しりやすき理なれども、初(はじめ)て見ん人は、「いとあやし」と思ふべし、とて語りはべり。

 

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。

「左門町」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『新宿区左門町。御先手組である諏訪左門がこの地を開いた。組与力十一騎、同心五〇人がいた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「いまだ公けに仕へざる時」の話であるが、それに続けて「近き在にありけり」というのだから、実はこの左門町から程遠くない在所、田舎にいたというのであろう。現在の新宿の東方辺りか。

「身に差(さし)かゝる事」身に差し迫った火急の出来事や、生活のために有意に自由が束縛されるような事態。

「十町」約一キロ九十一メートル。

「物のあいろ」「物の文色(あいろ)」「あやいろ」(綾色)の音変化。模様や物の様子であるが、まさに「もののあいろもわかたぬほどに暮れかかって」のように、多くの場合、後に打消しの語を伴って用いる。

「三尺」約九十一センチメートル。

「いよ立(たつ)て立(たつ)たるに」いよいよ、立って立って立ちまくっていたが。

「煙草、二、三ふく、のむが内」言わずもがなであるが、単に時間を譬えるのに用いただけで、主人公が悠々と煙草をふかしていたわけでは、無論、ない。

「但し、炎天の陽氣、地下に伏(ふく)し、夕方の陰氣に覆われて發散を得ず、その中に宇宙の氣は、皆、陰氣となりて、涼しくなり行(ゆく)のとき、地下の陽氣、一時に發散すれば、火と見ゆるなり。自然(おのづ)としめりて散(さん)すれば、見ることなく、水・露などそゝげば、一時に發して、火と見ゆるなりけり」ここで言っている陰陽のシステムや、ここでの陰火現象(話者は『しりやすき理なれども、初(はじめ)て見ん人は、「いとあやし」と思ふべし』と言っているが)を科学的に説明することは私には出来ない。何らかの、発光生物(昆虫の幼虫或いは菌類や細菌等)が関与した現象か。しかし、そもそもが「しりやすき理」を持ったものである(だから稀ではあるが発生するというのであろう)というなら、例えば、現代の誰彼が見ていて、それが今なら周知されていて、科学的に解明されている現象であろうに、私はここに記された奇体な発光現象は見たことも聴いたこともない。いやさ、この何某の訳知り顔の半可通の話こそが怪異だと言えると思う。

「石灰に水をそそげば、火を出す」生石灰(せいせっかい)=酸化カルシウム(CaO)は水と反応すると際に発熱して高温になる。その周りにあるものがそれで発火するのであって、石灰が燃えるわけではない。

「かの西洋のヱレキテルといへる物の理(ことわり)も同じ事」本邦の博物学者の草分けと言ってよい平賀源内(享保一三(一七二八)年頃~安永八(一七七九)年)は、安永五(一七七六)年に、かつて長崎で入手した「エレキテル」(摩擦式起電機)の修理に成功し、それをもとに模造品を製作、一時は評判となって、これを「硝子を以つて天火を呼び、病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験して喧伝した(但し、期待した後援者は得られなかったという。詳しい彼の事蹟は最近の私の譚海 卷之二 平賀源内ヱレキテルを造る事の注を参照されたい。なお、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、源内がエレキテルで一儲けを狙った七十二年も後であって、最早、「アーバン・レジェンド」の直近の噂話とは言えない昔の話のであったことが私には面白い。確かに「ヱレキテルといへる物」は実在した「物」であったし、それはちょっと西洋の知識をかじれば、論理的に腑に落ちる、しかし寧ろ、「エレキテル」の「電気療法」の噓の部分が「噂話」の性質を失わせてしまい、毛唐の操る電気という魔法によって「昔話」として蘇生し、別に巷間には生きていたとも言えるのかも知れない)。しかしね、これを、そう(現実世界の原理や論理で解明でき、十全に納得し得ること)だ、とは私は思いませんがねぇ? 何某さん!]

2018/09/01

反古のうらがき 卷之一 劒術

 

    ○劒術

 米倉丹後守藩(やしき)に何の彌平太といへる者あり。予がしれる福田藤治兵衞(とうじべゑ)が弟なり。折々來(きた)ることありて、予も、これにて、相見(あひみ)たり。金澤の陣屋にありて、折々、江にも來れり。諸藩のならひにて、陣屋を守るは、罪ある人を謫(たく)せらるゝなり。

「彌平太が謫せられし罪は如何に。」

ととふに、同じ藩中に何某といふ劍術の師ありて、齡(よはひ)六十にも近く、主君もその教子(をしへご)也。藩中過半は其教へを受(うけ)て、主君の聞(きこ)へもよき人なりけり。

 或日、同じ藩中に若き人々よりあふことありて、後に酒打飮(うちの)みて戲れけるが、何某も來れり。多くは教へ子のことなれば、上(かみ)くらに居(を)らしめ、尊敬、他(ほか)に越(こえ)たり。

 彌平太は酒を使(つか)ふ病(やまひ)【さけのうへわるし】ありければ、一座、みな、厭(いと)ひて、とりはやす者も、少し。

 よりて、酒の病(やまひ)、いよいよ起りて、座にある人を罵り、果(はて)には、

「劍術、吾に敵する者有(ある)べからず。何某は師範といへども、其術、吾にしかず。」

などいふこと、傍若無人なりければ、初(はじめ)の程こそ、其(その)いふに任せけれども、後には詞(ことば)、捨(すて)がたくて、終(つひ)に、

「何某と立合(たちあ)ふべし。」

といふことになりにたり。

 彌平太は大の男の、年三十斗(ばかり)なるに、手足も肥大(こえふと)りて、つらかまち、にくさげなり。物いふ樣(さま)・こわね、怒り聲にて、罵るよふ[やぶちゃん注:ママ。]に聞ゆるが、常のさがなり。それが酒は被(かふむ)りたり、誰(た)れ憎まざる者もなし。

 何某は龍鍾(しぼけ)たる老人の、筋骨こそ太けれ、肉落(にくおち)て、殊に背も少しくゞまりたるに、聲も低く、つゝしみ勝(がち)なる人なれば、これが勝(かつ)べしとは見へねども、世の常のならひにて、ほこる者はさまでのこともなくて、物にこゝろへたる人は、つゝしみ勝なる者なれば、かへりて賴もしく、

『何某こそ必(かならず)勝(かつ)べし。彌平太がほこり顏なる鼻、はぢきて、笑ひ辱しめたらんには、さこそ心よかりなん。』

と思ふ物から、人々、せちに勝負を望みけり。

 何某は、

「おとなげなし。若氣(わかげ)なる人の、無益の爭ひし給ふことよ。某(それがし)、若かりつる時こそ人並なれ、今、老(おい)て物の用に立(たち)がたし。許し玉へ。」

といふ樣(さま)、いよいよ賴もしくてたふとく見ゆるに引替へて、彌平太が勝にのりて、

「さもありなん、何某を今二十斗(ばかり)若くして吾を相會(さうくわい)【たちあは】することの、今、はた、よしなきを恨み侍るなり。」

など、兎角に、にくさげなることのみいゝちらすに、人々、たまり敢へず、一つるへのしなへ、持出(もちい)で、

「せちに、せちに。」

とすゝめけるに、何某も、今は辭するに言葉もなく、

「人々の望みに任すなり。相かまへて年寄の勝負に心ありて人と爭ひ侍るなど、思ひ玉ふな。」

とて、座を立(たち)たる樣(さま)、又なく、尊(たつと)かりけり。

 彌太は悔ゆる色もやと見るに、さはなくて、居ながらにして、大口あき、からからと笑ふ樣(やう)、

「古(いにしへ)より今にいたる迄、かゝるさまなる人の不覺を取らざるためしなし。見よや、見よや。」

とて、人々、立(たち)かゝり、しなへ打違(うちちが)へ、あたり取かたづけて、

「いで、いで、一勝負、見物せん。」

と、かたづをのんで、ひかへたり。

 各(おのおの)身づくろひするまゝに寄合せて、しなひ取(とる)とひとしく、

「や。」

と聲かけて打合ふたり。

 互に、しばらく、あらひてありけるが、彌平太、いらつて、打(うち)かゝるに、何某は其勢(いきほひ)にたまりあへず、思ひの外に打(うち)なやされて、

「あなや。」

と見るまに打伏(うちふせ)られ、あまつさへ、氣を取失(とりうしな)ひ、

「うん。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]倒れふし、面(おもて)をや打(うた)れけん、鼻血、出(いで)て伏(ふし)にけり。

 人々の、思ひの外なることなれば、

「いかに、いかに。」

と立(たち)さわぎ、各(おのおの)引分(ひきわけ)て座に付(つけ)しが、にがしが敷(しく)ぞみへける。

 何某が子、此時、家に在(あり)けるが、これをきゝて、

「口惜しきことかな、吾、若年なれども、父が恥辱をすゝがずんば、生ける甲斐なし。是非、一勝負。」

とてかけ來(きた)る。

「すわ。事こそ起るらん。」

とて、人々、今更、悔(くひ)侍りけれども、甲斐なし。

 此事、早く主君の耳に入(いり)、

「他流の勝負は各(おのおの)其師の禁制にて、公(おほやけ)にも、おきて、有る事を背き、終に大事に及ばんとするこそ曲事(くせごと)なれ。」

とて、各(おのおの)其(その)めありて、

「彌平太は、しばし遺恨の殘る人もあらん。」

と、扨こそ、金澤の陣屋へ遣しける也。

 昔もかゝるためし多けれども、ほこる者は常に言甲斐(いふかひ)なく、つゝしみ深きが、かへりて心得あるとこそ、人々心得侍りつるに、今はさはなくて、させる覺(おぼえ)もなくて、只、つゝしめる方(はう)、人々の見付(みつけ)よしなど、巧(たくみ)に【みせかけよくする】望みを養ふ人ありて、無法の人に見さげらるゝを厭はず、大言、いゝちらし[やぶちゃん注:ママ。]、憎まるゝ者、かへりて思ふよりは覺あることもあること、世の人心(じんしん)のかわり行(ゆく)[やぶちゃん注:ママ。]ならひなれば、かたくなに古へを守りて一槪に論じがたし。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。

「米倉丹後守」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『武蔵金沢藩主、一万二千石。金沢(神奈川県)に陣屋があった』とある。陣屋なら、本領地であろうから、「謫」なのかなあと思いがちであるが、ウィキの「六浦藩(武蔵金沢藩に同じ)によれば、『久良岐郡の一部(現在の神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現在の神奈川県平塚市・秦野市)などが含まれる。現在の横浜市内にあった唯一の藩である』。『金沢文庫で知られる久良岐郡金沢(かねさわ、かなざわ)近傍の六浦に陣屋を置いた』。『ただし、金沢文庫周辺の各村は当藩の所領ではなく、また』、『久良岐郡内よりも大住郡などの飛地の方が村数・石高ともに大きかった』とある。金沢六浦は景勝地ではあったが、所詮、田舎の漁村であり、そこに住む連中も領民であるわけでなし、そこでの陣屋の警固は、これ、誰もがやりたくない閑職であったものと考えられる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、ここに登場するのは、第七代藩主米倉昌寿(まさなが 寛政五(一七九三)年~文久三(一八六三)年)である。ウィキの「米倉昌寿」によれば、彼は丹波国福知山藩第八代藩主朽木昌綱(くつきまさつな)の三男であったが、文化九(一八一二)年に武蔵金沢藩第六代藩主『米倉昌俊が死去したため、その養子として家督を継いだ』。『一橋門番や馬場先門番、和田倉門番、田安門番、竹橋門番などを歴任し』、天保七(一八三六)年十一月に『大坂京橋口定番とな』ったが、天保九(一八三八)年)に『不手際を起こして処罰されている』。しかし、安政四(一八五七)年には『奏者番に就任』している。万延元(一八六〇)年に六男昌言(まさこと)に『家督を譲って隠居した』とある。

「福田藤治兵衞」不詳。

「これにて、相見(あひみ)たり」福田藤治兵衛の家で逢ったことがある。

諸藩のならひにて、陣屋を守るは、罪ある人を謫(たく)せらるゝなり」ふ~ん、って感じがする。

「上(かみ)くら」「上坐(かみくら)」。上座。

「酒を使(つか)ふ病(やまひ)【さけのうへわるし】」酒癖が甚だ悪いのである。

「とりはやす者」相手をする者。

「つらかまち」「輔」「面框」で「つらがまち」。元来は顔で最も目立つところの「上下の顎の骨・頰骨」の意であったが、そこから「顔つき・面構え」の意となった。

「にくさげなり」「憎さ氣なり」。

「こわね」「聲音」。ものを言う際の声の調子。

「罵るよふ」「罵(ののし)る樣(やう)」。

「龍鍾(しぼけ)たる」「龍鍾」(音「リョウショウ」)は「落魄(おちぶ)れてやつれたさま」他に「失意のさま」「涙のほろほろと垂れるさま」「行き悩むさま」の意があるが、この場合、龍」も「鍾」も意味には関与せず、発音の響きを借りた擬態語であろうと考えられているようだ。「しぼける」という動詞は聴かないが、「しょぼくれた」の意であろう。

「老人の、筋骨こそ太けれ、肉落(にくおち)て」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。

「かへりて」却って。

「と思ふ物から」「物から」は形式名詞「もの」+格助詞「から」で、正規表現では「逆接の確定条件」であるが、近世の擬古文に於いて、誤って「順接の確定条件」(~なものだから)として使用された、その用法。

「某(それがし)、若かりつる時こそ人並なれ、今、老(おい)て物の用に立(たち)がたし」ここも「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。

といふ樣(さま)、いよいよ賴もしくてたふとく見ゆるに引替へて、彌平太が勝にのりて、

「よしなき」「何某」だけの時間を巻き戻して、若き日の彼と一試合する「方法がない」のは。

「一つるへのしなへ」これは「一(ひと)つるびのしなひ」で、「つるび」は「つるむ」で「連(つる)む」=「連れ立つ・二つの対象が一つになる」の意で「しなひ」は「竹刀(しない)」、則ち、「二本一組になった」試合用の「竹刀」の意ではなかろうか。

、持出(もちい)で、

「せちに、せちに。」「どうか、必ず、きっと勝負をなさって下され!」。

「相かまへて年寄の勝負に心ありて人と爭ひ侍るなど、思ひ玉ふな。」「どうか、くれぐれも、この年寄りが勝負に心が動いて、人と無益なる争いを致いたなどと、ゆめ、思いなさるるな。」。

「人々、立(たち)かゝり、しなへ打違(うちちが)へ、あたり取かたづけて」前後は試合見物をせんとする、場の若者たちのカット・バックであろうが、中間の「しなへ打違(うちちが)へ」が不審。取り敢えず、ここだけは見物人の動きではなく、彌平太と何某が互いの竹刀を合わせたシーンと採る。映像的にはそれは効果的ではあるが、しかし、直後の「各(おのおの)身づくろひするまゝに寄合せて、しなひ取(とる)とひとしく」というシーンとの矛盾が生じるようにも思われる。大方の御叱正を俟つ。

「人々、今更、悔(くひ)侍りけれども、甲斐なし」とあるからには、「何某が子」もこの酒乱弥平太の餌食となって打ち伏されてしまったものであろう。

 此事、早く主君の耳に入(いり)、

「他流の勝負は各(おのおの)其師の禁制にて、公(おほやけ)にも、おきて、有る事」「おきて」は「掟」。秀人ブログ時の旅人の「江戸時代の道場事情によれば(空欄が随所にあるが、そこには読点を挿入させて貰った)、『江戸時代の後期までは各流派の多くは他流試合を禁じていて、直心影流剣術でさえ、やむをえず立ち合うときは、「怪我をしても文句は言わない」旨の誓約書を相手に書かせた上、防具を使わず木刀で立ち合っていたそうです』。『しかし、寛政の改革を行った松平定信の武芸奨励策以降、徐々に他流試合が行われるようになり、男谷信友』(おたにのぶとも:直(じき)心影流(正式には鹿島神傳(かじましんでん)直心影流)男谷派を名乗った)『や伊庭秀業』(いばひでなり:心形(しんぎょう/しんけい)刀流八代目)『により積極的に広まったといわれています。但し、試合ルールや竹刀の長さの規定などが整備されていなかったので、大石神影流の大石進のように』五尺三寸(百五十九センチメートル)『もある竹刀を使用し、道場やぶりと称して各道場に挑み、名をあげようとする者も多くいました』とあるから、この「公(おほやけ)にも、おきて、有る事」という謂いは、やや不審ではある。しかし、酒の席での(しかも片方が酒癖の悪さで知られた者)、周囲の焚きつけられた末の形となったもので、剣術比べの試合とは見做されなかったということでは腑に落ちる。しかし、弥平太や何某及びその息子の処分は仕方がないとしても、騒いで焚きつけた周囲の若衆らも積極的な立派な障害助勢罪に相当するのであるから、相応の処分がなくてはだめである。「屹度叱り」なんぞで済ませたとしたら、ちょっと弥平太の処分とのバランスが悪い気がする。

「只、つゝしめる方、人々の見付(みつけ)よしなど」ただ、慎みを持った感じでいる方が、世間の人々の見た目に好ましく思われるから、などと。]

甲子夜話卷之五 17 松平周防守持鎗の事

 

5-17 松平周防守持鎗の事

松平防州【康任。石州濱田城主】に會したる次手に、予其家の持鎗靑貝柄の方は、世に神祖御手の形など云ふ。然るや否やと問ふ。答に否。其刃は如ㇾ此にて、嘗て賜りしものなり。國本に祕藏す。柄は二間半なり。當時持するものは其寫しにて、柄二間なりと云。

 

Matudairasuounoyari

 

■やぶちゃんの呟き

標題及び本文の「持鎗」は「もてるやり」或いは「もつやり」と訓じておく。

「松平防州【康任。石州濱田城主】」老中で石見浜田藩(現在の島根県浜田市)第三代藩主松平康任(やすとう 安永八(一七七九)年或いは翌年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「松平康任によれば、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中と幕府の重職を歴任した。『分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため、康定の婿養子となり』、『家督を相続』した。『文化・文政期の幕府の実力者水野忠成』(彼の義父忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なるもので、忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は、かの「田沼時代」を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる)『の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任する』。『忠成同様、賄賂には大変鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から』六千『両もの賄賂を受け取り、その結果、実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちに康任失脚の布石となってしまう』。『忠成死後、老中首座となったが、このころから』、閣内では『康任派と水野忠邦派の抗争が激化』し、天保五(一八三四)年に発生した仙石騒動』(出石(いずし)藩で発生したお家騒動)『において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた』。『また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられ』ているとある。さても、この松平家を辿ってみると(養子縁組が多いので、直血族ではない)、松井松平家初代松平康重(永禄一一(一五六八)年~寛永一七(一六四〇)年)なる人物に辿り着く。ウィキの「松平康重によれば、『駿河国三枚橋城主松平康親の長男』で、天正一一(一五八三)年三月の『元服の際に家康』(二十五歳年上)『から「康」の偏諱を授かり康次、のちに康重と改めた』。『家康が東海地方にいた頃』に当たる、天正一一(一五八三)年から同十八年にかけては、父『康親の跡を継いで』。『駿河国沼津城の守備役を務め、後北条氏に約』八『年間も対峙した「小田原征伐」後の天正十八年八月に『家康が関東に移されると、武蔵騎西』(きさい:現在の埼玉県加須市根古屋)に二『万石を与えられた』。文禄四(一五九五)年には『豊臣姓を与えられ』、後、常陸笠間三万石・丹波国篠山藩五万石と加増移封、元和五(一六一九)年には『大坂平野南方の要衝』であった『和泉岸和田に移封となっ』ている。『康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある』。『生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま』、『康親に嫁いだとされる』。『後に子孫も家康の「康」を通字として用いている』(太字やぶちゃん)と驚くべきことが書かれてあり、この家なら「家康の手形を擬えた」家康から賜った(これ或いは手ずから賜ったの転訛のようにも私には思われるのだが)「鎗」があると世間で囁かれても、これ、おかしくなわいな!

「靑貝柄」螺鈿細工。

「世に神祖御手の形など云ふ」世間では、鑓の先の部分が神君家康公の御手の形を模したものである、と噂申して御座る。

「二間半」四メートル四・五センチメートル。

「當時持するものは其寫しにて」現在、江戸上(或いは下)屋敷に所持するものはそれのレプリカで。

「二間」三メートル六十四センチメートル弱。

甲子夜話卷之五 16 評定所食膳の事

 

5-16 評定所食膳の事

評定所にて奉行に出る食膳、平椀も味噌汁をいるゝと云。珍しき爲方なり。蓋古の遺るか。

[やぶちゃん注:「平椀」(ひらわん)は懐石食器の「四つ椀」の一つで、浅めの大振りな塗椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施されたもの。普通、これには煮物などが盛られる。形状は、参照茶道サイトの画像を見られたいが、そこに江戸中期の旗本で伊勢流有職故実研究家でもあった伊勢貞丈(享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の故実書「四季草」から、「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼる』ゝ『ゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり」と引かれてある。これが静山の言う古式の名残のヒントになるかも知れぬ。

「爲方」「しかた」。

「蓋古の遺るか」「けだし、いにしへの」習慣の「のこれる」もの「か」。]

甲子夜話卷之五 15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

 

5-15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事

慶長中、林又三郞【道春の始名】浪人にて、始て神祖の二條御所に出たるとき、本多中書【忠勝】邂逅す。中書が曰。其もとの器量、天神と【天神とは菅相公を云】いかん。又三郞笑て不ㇾ答。中書御前に出て曰には、又三郞の器量天神とはいかんと問候に答不ㇾ申。其器量いかんと申上たれば、神祖も笑て答へ給はざりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「林又三郞」「道春」朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。又三郎は通称、羅山も出家後の道春(どうしゅん)も号で、諱は信勝(のぶかつ)。ウィキの「林羅山」によれば、『京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる』。『幼少の頃から秀才として謳われ』、文禄四(一五九五)年、『京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること』を拒否し、慶長二(一五九七)年に『家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた』。『家に帰ってからは』、『もっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した』。『独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき』、慶長九(一六〇四)年に儒学者藤原惺窩(せいか:公家冷泉為純の三男であったが、家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原及び籐(とう)を公称した)『と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると』、『四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で五行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので』、翌慶長十年、『羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった』。『家康は、惺窩の勧めもあり、こののち』、『羅山を手元に置いていくこととした』。『羅山は才を認められ』、二十三『歳の若さで』、『家康のブレーンの一人となったのであ』ったとある(太字やぶちゃん)。この後は「朝日日本歴史人物事典」から引く。慶長一二(一六〇七)年、家康の『命により』、『剃髪して道春と改称。この自ら排する僧形を余儀なくされたことは』、『思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年』、『批判を受けることになる。もっとも家康は』、彼に「大坂の陣」の口実とするため、『名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど』、『博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって』、『羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く』、『専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。また、この頃、『清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され』、『家康はそれを退けたという逸話があるが』、『秀賢らとの親炙などから』、『史実としては疑問視されている。この間』、『盛んに駿府と京都を往復しながら』、『以心崇伝らと古記録謄写』・出版・集書など、『京の学問の復興に努めた。元和』二(一六一六)年の『家康没後は』、『駿河御譲本の分割に尽力』、同四年からは、『活動の中心を江戸に置き』、『和漢の古典を講じながら』、教訓的仮名草子である「三徳抄」「巵言抄(しげんしょう)」などを書いて』、『諸大名家の教育に腐心』した。その他にも、『中国怪談集』「怪談全書」や「徒然草」の注釈書「野槌」の『執筆など』、『多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること』が多くなり、『朝鮮・オランダ・シャムとの通信に当たりながら』、『政治顧問の地位に』就いた。寛永七(一六三〇)年には『上野忍岡の賜地に学校設立を開始し』、同九年に「先聖殿」を完成させた。同十二年には、『各法制を整備しつつ』、「武家諸法度」(寛永令)を制定、その後も「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」に着手したが、『その知識の源泉であった膨大な蔵書も』、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)から一月二十日(三月四日)に発生)で邸宅もろとも焼失させてしまい、その数日後の一月二十三日に没した。

「本多中書」「忠勝」徳川家康の功臣にして上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩十万石初代藩主であった本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、五十数回の戦いに出て、一度も傷を受けなかったという歴戦の勇者として知られる。彼の官位は従五位下・中務大輔で、「中書」は中務省の唐名。

「慶長中」「始て神祖の二條御所に出たるとき」先に引用で示した通り、ウィキの「林羅山」によれば慶長一〇(一六〇五)年である。

「曰」「いふ」。

「其もと」「そこもと」。貴殿。当時の忠勝は数え五十八であるのに対し、林又三郎(羅山)は未だ二十三歳である。

「天神」「菅相公」「といかん」「菅原道真公の才智と比べたら、どの程度のものだと自分では思うか?」。

「笑て不ㇾ答」「笑ひて、答へず」。

「問候に答不ㇾ申」「問ひ候ふに、答へ申さず」。

「其器量いかん」「あの若造の器量はどれほどど思われまするか?」。

甲子夜話卷之五 14 小笠原嶋の事

 

5-14 小笠原嶋の事

修驗某に聞く。八丈島の南方百里許に無人島あり。一名を小笠原島と云。小大八十餘島あり。其中二島は大さ四國ほども有べしとなり。島に山多くして平地希なり。椰子、梅林、蘇木の類、その佗良材を産す。鳥は音呼(インコ)を始め、異禽多となり。此島を小笠原と云ことは、今尾張侯の家臣城代を勤る小笠原三九郞と云の先祖、民部大輔賴□【一字不詳】と云るが、神祖より賜りし地なりと云。三九郞所藏の記錄あり。其中に祖先の島に建たる碑文を載す。曰、大日本國、天照皇太神宮地、征夷大將軍源家康公幕下、小笠原民部大輔賴□領分。

此碑、二箇處に竪と云。思ふに大島二つの中にあるならん。此三九郞は彼修驗の檀家なる由。定て實事ならん。尚折を以て問糺すべし。

■やぶちゃんの呟き

「八丈島の南方百里許」「百里」は約三百九十三キロメートル。地図実測で八丈島から小笠原父島までは、七百キロメートルを越え、小笠原諸島最北の聟島でも六百キロメートルを越えるから、この数値は余りに過小である。小笠原諸島の現在(東京都特別区小笠原村)の主要な島は父島・母島・聟島・硫黄島・西之島・沖ノ鳥島・南鳥島で、東京都の南南東約一千キロメートルの太平洋上にあり、大小三十余島から成る総面積は約百四平方キロメートルである。

「其中二島は大さ四國ほども有べし」過大に過ぎて異界伝説レベル。小笠原で一番大きな硫黄島で二十三・七三、二番に大きな父島で二十三・四十五平方キロメートルしかない。因みに四国の総面積は一万八千二百九十七・七八平方キロメートルである。

「蘇木」「そぼく」。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連ジャケツイバラ属スオウウ(蘇芳・蘇方・蘇枋)Caesalpinia sappan 或いはジャケツイバラ亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis の別称(両者は分類学上では近縁種ではない)。

「その佗」「そのた」。「佗」=「他」。

「多となり」「おほしとなり」。

「小笠原三九郞」名古屋大学附属図書館二〇一六年度秋季特別展「旗本高木家の幕末」PDF)のデータに、尾張藩家臣に小笠原三九郞長盈(「ながみつ」か)なる人物がおり、高木貞臧(さだよし)の娘増が嫁入りしたのが、寛政四(一七九二)年とあった。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるから、この人物と見てよいか。

「と云の」「といふ」者「の」。

「民部大輔賴【一字不詳】」ウィキの「小笠原諸島」には、箇条書き形式の「歴史」の年譜があるので参照されたいが、それによれば、『北硫黄島には先史時代(』一『世紀頃)のものとみられる石野遺跡があ』り、『父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが』、『詳細な時代は不明』とする。天正二〇(一五九三)年、『信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で』三『つの無人島を発見する。しかしその根拠と』される「巽(たつみ)無人島記」の『記述には、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど』、『亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため』、『信憑性は低い』とある(太字やぶちゃん。以下、同じ)。静山の記す「民部大輔賴」というのは、この小笠原貞頼(?~寛永二(一六二五)年)なる人物である。ウィキの「小笠原貞頼」によれば、『安土桃山時代の武士。通称は、彦七郎・又七郎、民部少輔。徳川家の家臣で、小笠原諸島の発見者と伝えられる』。『信濃国守護の小笠原長時の孫(曾孫説もあり)、小笠原長隆の次男、松本城(深志城)城主・小笠原貞慶の甥にあたるとされる』。『後世(江戸時代中)に製作された小笠原氏の系図』「小笠原家譜」では、『当時の小笠原氏当主は』、天正七(一五七九)年に『父の長時から家督を相続した三男の貞慶で、父に先立って戦死した長隆の弟である、とされている』。「寛政重修諸家譜」に『よれば、同じく庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠(信興)が』元亀二(一五七一)年三月、『武田信玄に攻められた時』、『小笠原長隆・貞慶兄弟が同族と見られる「民部貞頼」とともにその救援に向かったという記録が残っている。また同時期の他史料にも「小笠原民部大輔」という人物が徳川氏に仕えていたという記録がある。ここから』、『「民部貞頼」=「小笠原民部大輔」=小笠原貞頼と考えて実在説を唱える人もいる』。『近年では』、天正一〇(一五八二)年七月に「天正壬午の乱」で『甲州入りした徳川家康が市川に逗留中、大聖寺(身延町)へ「小笠原貞頼」を代参させ』、『戦勝祈願したという記述が発見されている』とある。『その他、幕府の船手頭であった小笠原信元(幡豆小笠原氏)と同一視する見解もあるが、確証はない』とする。「小笠原民部記」によれば、永禄七(一五六四)年、『同族の幡豆』(はず)『小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した』。文禄二(一五九三)年の「文禄・慶長の役」の帰陣に際して、『「貞頼は小田原の陣以来』、『数度の戦功にもかかわらず』、『いまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば』、『見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は』三『つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている』。『また、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある』。その後、享保一二(一七二七)年になって、『貞頼の子孫を自称する浪人』小笠原貞任なる人物が現われ、「巽無人島記」の『記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た』。『「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また』、『これらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである』。『貞任の訴えにより幕府は一度渡航を許可したものの』(翌享保十三年に南町奉行大岡忠相が貞任に対して無人島渡航の許可を下し、それを受けて先遣隊が無人島へ派遣されたが、鳥羽を出航した後、行方不明となってしまっている)、『奉行所が再度調査した結果、貞任は』享保二〇(一七三五)年に、『探検の事実どころか、先祖である貞頼の実在も否定された。このため、貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けた』とある。時系列でも戻って、ウィキの「小笠原諸島」年譜に返ると、一六三九年七月二十一日(寛永十六年八月十七日)には、マティス・クワスト(Matthijs Quast)が『指揮するオランダ東インド会社所属のエンゲル号(Engel)とフラフト号(Graft)が』二』つの無人島を発見する。それぞれエンゲル島、フラフト島と命名され、エンゲル島は母島、フラフト島は父島と比定される。なおこの艦隊の副官は、後にタスマニア島とニュージーランドへ最初に到達したヨーロッパ人となる、アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)であった』とあり、寛文十年二月二十日(一六七〇年四月九日)、『紀州を出港した阿波国の蜜柑船が母島に漂着する。その後、長右衛門ら』七『人は八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告され』ており、二〇一六年『現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている』とあり、五年後の延宝三(一六七五)年にはこれらの『漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣』、『調査船富国寿丸は』三十六『日間にわたって』、『島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ』、『幕府上層部に披露され』、『これ以降、小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた』。一七〇二(元禄十五)年、スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号(Nuestra-Senora del Rosario)が西之島を発見し、ロザリオ島(Isla de Rosario)と命名する。以下、先の小笠原貞任の話となる。その後、天明五(一七八五)年刊の林子平の「三国通覧図説」に「小笠原島」という名称が現われ(但し、林子平は小笠原諸島を訪れてはいない)、十九世紀に入ると、『欧米の捕鯨船が寄港するようにな』った。一八二三(文政六)年九月、『イギリスブリストルの捕鯨船トランジット号(Transit)が母島に来航し、母島をフィッシャー島(Fisher island)、沖港をポートコフィン(Port Coffin)と命名する。トランジット号は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である』。一八二六(文政九)年、『イギリスの捕鯨船ウィリアム号(William)が父島の湾内で難破する。乗組員のほとんどは別の捕鯨船で父島を去るが、船員』二『名が父島に残留し、初めての定住者とな』ったという。一八二七(文政十)年六月、『イギリス軍艦ブロッサム号』『(HMS Blossom)が父島に来航』し、『艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行った』(『しかし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかった』とある)。一八二八(文政十一)年五月、『フョードル・ペトロヴィッチ・リュトケ(Фёдор Петрович Литке)が指揮するロシアの探検調査船セニャービン号(Сенявин)が父島に来航』、先の初定住者となった『ウィリアム号の船員』二『名もこの時』、『父島を後にした』。一八三〇年六月二十六日(文政十三年五月十日)、『ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人』五『人と太平洋諸島出身者』二十五『人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する』(以下、一八三五年(天保六年)に始まる、イギリスによる占領企図の経緯が記されてあるが省略する)。天保一一(一八四〇)年には、『陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら』六『名は』二『か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還』した。以下まだ記載は続くが、天保一二(一八四一)年に静山は亡くなっているので、詳細はここまでとする。後のエポック・メーキングな部分だけを引くと、文久元(一八六二)年、『幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ』、『アメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣』『し、測量を行』わせ、『また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ』て『同意を得』、文久二年五月を以って『駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告』、同年八月には、八丈島からの三十八『名の入植が開始され』たが、翌文久三年五月には、『生麦事件によって日英関係が悪化したことを受け、日本人移民』は『父島から撤収し』ている。明治維新後は、明治八(一八七五)年十一月に『明治政府が小笠原回収委員を明治丸で父島へ派遣』し、翌年三月、『小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)。内務省の管轄となる。日本人』三十七『名が父島に定住。内務省出張所』が設置された。

「竪と」「たつと」。建っていると。しかし、こんな碑があったともあるともネット上には記載がない。残念ながら、都市伝説の類いであろう。

「大島二つ」硫黄島と父島か。

「定て」「さだめて」

「問糺す」「とひただす」。

甲子夜話卷之五 13 水戸黃門卿、髑髏盃の事

 

5-13 水戸黃門卿、髑髏盃の事

水戸の常福寺の什寶に、髑髏盃を藏む。これは西山(せいざん)義公の故物と云。一升を容べし。公在世に此盃を常用せられしと。酒量知るべし。醉後は必ず唱歌し給ふ。其詞

 蓮の葉にやどれる露は、釋迦の淚か有難や。

 其とき蛙とんで出(イデ)、それは己(オレ)が小便じや

と、ざれ謠うたひ給ひしとなり。西山に老退せられし後の事なるにや。常福寺及彼公家の臣等所ㇾ云なりと聞く。又盃の故を尋るに、公少年時の卑僕あり。隨從年久し。然るに罪有て、勘氣せられ追放す。其後公の出行每には、必ず隱れながら隨て離れず。公も亦これを知れども見ざるふりに過られたり。然に或時、いかゞしてか公の目前に出たり。公心中これを憐といへども、逐去こと能はず、卽手打にせられ、死骸は久昌寺【公の母君の寺なり】に埋めよと命ぜられ、年月を待て其枯體を掘出させ、頭骨に金箔を施し、盃と爲られし也。是蓋彼僕の赤心潛行して至死不變の追懷を遂げしめ給ふなるべし。此物を今見るに、髑髏の表は公の手ずれにて琥珀の色をなし、殊に美なりと。常福寺の寓僧語れりと云。

■やぶちゃんの呟き

「常福寺」現在の茨城県那珂(なか)市瓜連(うりづら)にある浄土宗草地山蓮華院常福寺。ここ(国土地理院地図)。かるだ もん」氏のブログ「年年是好年 日日是好日」の「大人の♪いばらき おとぎ話2。 水戸のご老公にまつわる、お・と・なの話~その1で本話を採り挙げておられ(梗概の現代語訳が載る)、実際に常福寺を訪問されておられる(写真有り)。但し、ブログ主よろしく、私も常福寺の公式サイトの「寺宝」を見たが(リンク先記載のそれはアドレス変更で繋がらない)この「髑髏の盃」の記載は見当たらない。ものがものだけに、ブログ主も述べておられるように、『本当にあったとしても公開はされていないのかもしれ』ない。ところが、驚くべき記載がリンク先にはあるのである。『しかし「茨城の酒と旅」という本』(ブログの記載によれば、昭和四七(一九七二)年刊)『によると、著者は常福寺で実物は見せてもらえなかったものの、写真を見せてもらった』と載り、同書には、『日露戦争の時や太平洋戦争の時に出征の無事を祈って、地元の人がこの杯で飲んだ人たちがいる』『という逸話も書かれてい』るとあり、その『(写真で見た)髑髏杯は、頭蓋骨の上あごより上の部分(つまり下あごはない)で、額あたりから上の部分と下の部分の』二『つに分かれており、いずれも内側は赤く漆で塗られていて、液体が漏れないようになっている』らしい。そのため、『酒を注ぐと、まるで血をなみなみとたたえているように見える』のだろうと記されているとある。また、この書では『杯になった髑髏のいわれについては』本「甲子夜話」の内容とは異なる話を三つ載せてある、ともある。読んでみたい。なお、正直、この「甲子夜話」の話の「卑僕」の少年の水戸黄門の関係には、明らかに若衆道の匂いが強烈に香っている。

「西山義公」「西山」は徳川光圀の別号、「義公」は諡号。

「容べし」「いるべし」。注ぎ入れることが出来る。

「じや」ママ。

「西山」旧久慈郡新宿村西山に建設された彼の隠居所西山荘。現在の茨城県常陸太田市新宿町にあった。(グーグル・マップ・データ)。

「彼公家の」「かのこうけの」。

「臣等」「しんら」。

「所ㇾ云」「いふところ」。

「尋るに」「たづぬるに」。

「然るに」「しかるに」。

「出行每には」「しゆつかうごとには」。「每には」は「つねには」と訓じているかも知れぬ。

「隨て」「したがひて」。

「過られたり」「すぎられけり」。

「然に」「しかるに」。

「憐といへども」「あはあれむといへども」。

「逐去こと」「おひやること。。

「卽手打にせられ」「すなはち、てうちにせられ」。

「久昌寺」現在の茨城県常陸太田市新宿町にある日蓮宗靖定山久昌寺。(グーグル・マップ・データ)。先の西山荘ある同地区内の東直近である。

「公の母君」久昌院(慶長九(一六〇四)年~寛文元(一六六二)年)は常陸水戸藩初代藩主徳川頼房の側室。名は久。

「爲られし也」「せられしなり」。

「是蓋」「これ、けだし」。

「寓僧」住僧。「寓」(ぐう)は「仮の住まい」の意であるが、僧にとってはこの世はまさにそうだからこの謂いは腑に落ちる。

譚海 卷之三 禁中失火等の事

 

禁中失火等の事

○禁中失火有(ある)歟(か)、又は霹靂(へきれき)宮内へ落(おつ)る事などあるときは、其日の御番(ごばん)の神社へ勅使をたてられ、其社を御封(ごふう)じ有(ある)也。靑竹にて神社の戸をとぢ、神主の者縛(ばく)につく事也。扨(さて)日限(にちげん)有(あり)て閉門をゆるさるゝとき、又勅使來りて神主の縛をとき、勅使と同前に神前に行向(ゆきむか)て神社の門ひらくに、内陣の際(きは)の空地(あきち)悉く春草(しゆんさう)を生じて有(あり)。わずかに一七日(ひとなぬか)斗(ばか)りの間をへし事なれども、草の高き事一二寸に及べる事とぞ。勅使此草を三莖(みくき)切取(きりとり)て箱におさめ、持參して歸らるゝ也、神國の不測奇特成(きどくなる)事なりといへり。

[やぶちゃん注:「御番(ごばん)の神社」京都御所には、こうした輪番制の守護担当神社があったとは知らなかった。然し、後半の草のひこばえ云々というのは、私は読んでいて、不審。毎度、そういうことがあるという書き方にしか読めないが、それでは、宮中の火災や落雷は初春にしか起こらんのかい?! それとも真夏や秋や真冬に火災や落雷があっても、そうした「春草」が生えるとんでもない奇瑞があるちゅうんかい?! 後者としか思えないのだが、だったら一年を通じてその季節を違えた奇瑞が出来することをこそ、緻密に細かく綴るべきであろう。どうもこの話、杜撰で眉唾臭い。或いは、そんなことが初春の季節の回禄や落雷が遠い昔にあって、そんなことがあって(それはちっとも奇妙なことではない)より、閉門繩縛された神主の家族に勅使がこっそり言い伝えの奇瑞を囁き、家族の者が、こっそり境内に入っては空き地に草(春でないときは、春の草らしいものを取り寄せて)を植え込んでいたのではないか? それなら、この話、私は頗る腑に落ちるのである。

譚海 卷之三 節分内侍所の大豆 御修法の護摩

 

節分内侍所の大豆

○節分の夜衆庶(しゆうしよ)内侍所に參入し、錢十二文を入れ追儺(つひな)の大豆(だいづ)を拜授しかへる事也、平日も所知の人に託し乞へば神符をえらるゝ也。

[やぶちゃん注:「節分」ここは旧暦の立春の前日(大寒の最後の日)。太陽暦では二月三日か四日。

「衆庶」一般庶民。

「追儺の大豆」「追儺」は本来は旧暦十二月三十日に大晦日に宮中で行われた「儺(な:鬼)やらい」の儀式で、現在の節分のルーツとされるものであるが、ここでは既に庶民の「節分」の行事が現在と同じ時期に行われるようになっていて、やはり今と同じ用途(鬼やらいの豆撒き用の豆)のそれを指している。]

 

 

御修法の護摩

○御修法(みずほふ)の護摩は、元日より七日まで御室(みむろ)にて行(おこなは)るゝ也。八日より禁中にて行るゝ事又一七日(ひとなぬか)ばかり也。その供物廿四時宿次(しゆくつぎ)にて關東へ每年通さるる事也。

[やぶちゃん注:「御修法」「みしゆほふ(みしゅほう)」或いは「みしほ」とも読む。「みずほふ(みずほう)」で読んだのは私の好みから。宮中限定で行われた密教の法会。真言宗に於ける「後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)」の略称。一月八日から七日間に亙って、国家平安と繁栄を祈って宮中の紫宸殿に於いて、金剛界・胎蔵界を隔年で修した。

「御室」ここは天皇の住居たる御所を敬って言った語。

「廿四時宿次」昼夜兼行の各宿場取り次ぎの最優先送達便のことと思われる。]

 

譚海 卷之三 禁裡附初て上着

 

禁裡附初て上着

○禁裏附(きんりづき)の衆關東より上着(じやうちやく)のときは、諸搢紳(しんしん)より祝詞を申越(まうしこさ)るゝ事也。使者にて來るもあり、自身來臨も有(あり)、家々に應じ答禮の例(ためし)有(あり)て、甚(はなはだ)わずらはしき事也。門内まで駕籠にて入るゝ有(あり)、門外にて下乘せらるゝ有、式臺迄人來るもあり、式臺の筵道(えんだう)に中立(なかだち)して迎ひ出(いづ)るを待ちて、祝詞を演説してかへるも有、履(くつ)を倒(さかしま)にして低頭して送り奉るもあり。關東より始(はじめ)て來(きたり)ては混漾(こんやう)として辨(べん)じがたければ、案内をよく覺えたる者をたのみ置(おき)て、差圖の如く應對する事也。内侍所(ないしどころ)の使者殊に驚く事也。神供(しんく)の洗米(せんまい)を菊桐金紋の文庫に入(いれ)、六位の使者烏帽子素袍(すはう)にて齋(いつき)し來(きた)る。内侍の方申越さるゝの趣、此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段(だん)演説し、金紋の文庫を指出(さしいだ)す事ゆゑ、取次のものあらかじめ意(い)得(え)ざれば、偏(ひとへ)に華音(くわおん)を聞(きく)ごとくにて當惑する事也、おくまは御供米の略語也。

[やぶちゃん注:「禁裏附」「禁裏付」とも書く。江戸幕府に於ける職名の一つで、天皇の住む禁裏御所の警衛及び公家の監察などを担当した。ウィキの「禁裏によれば、寛永二〇(一六四三)年九月に『明正天皇の譲位と後光明天皇の即位に伴って設置』された。『老中支配で芙蓉之間詰』、『千石高の御役目で、役料は千五百俵。定員は二名。但し、『配下として、各々』、『与力』十『騎と同心』四十名が配された。『勤務は当番制で、毎日』、『御所に参内し、御所にある御用部屋に詰めた。参内した後は、武家伝奏との折衝や、京都所司代や京都町奉行と武家伝奏との間の取り次ぎなどを行った。御用部屋にある用帳に天皇の「機嫌の様子」など禁裏における諸事を記録し、常と異なることがあれば』、『京都所司代に報告した。老中支配ではあるが、京都にいる間は京都所司代の配下として』、『万事において指示を受けた』。『他にも、口向(くちむき、くちむけ)』(天皇等の『日常生活を支える諸役人』の呼称)『や禁裏賄頭(きんりまかないがしら)』(『禁裏御所の会計・調度・食料などを管掌する』役人であるが、これは『幕府から派遣された』)『の統括、禁裏における金銭の流れの監督、禁裏の警衛、朝廷内部で発生した事件の捜査、内裏普請の奉行など、禁裏の全般』と『公家衆の行跡も監督し』た。『火事が発生すれば』、『発生場所が御所からどれだけ離れていても』、『与力とともに禁門の警備を行った』。御所等の門の『出入りを取り締まり、禁裏付』が発行した「通り切手」(通行証)『を持たない者の通行を禁じた』。『官位は昇殿を許されない地下官人クラスの従五位下だが、日常的には朝廷内で幕府を代表しているため』、権威・威勢は『相当なものがあった。正二位とか従一位の官位をもつ武家伝奏に連絡、相談がある場合は』、『「伝奏を呼べ」と御用部屋へ呼びつけた。また御所の外にあっても』、五摂家・宮家と『行き交う場合は』、『駕籠から飛び下』って、『お辞儀を』したが、大納言・中納言・参議や、『それ以外の堂上公家などに対しては、駕籠から下りず』、『そのまま』通行してしまったという。安永二(一七七三)年には、『口向役人による諸経費の不正流用・架空発注事件が発覚、大量の処分者を出』したことから、『それを受けて』、『口向を監督する機構の改革が行われ』、翌年、京都御入用(ごいりよう)取調役・御所勘使買物使兼御買物方(ごしょかんずかいけんおかいものかた)を新設して、『これらを禁裏付の支配下とした』とある(最後の二つの職名はややおかしい感じがしたので、調べて、一部を補足した)。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す(ここまで既注。向後は繰り返さぬし、読みも振らぬ。悪しからず)。

「筵道」「えだう(えどう)」とも読んだ。天皇や貴人が徒歩で進む道筋や、神事に祭神が遷御する際の道に敷く筵(むしろ)。筵の上に白い絹を敷く場合もある。

「混漾として辨じがたければ」「混漾」は私は見かけたことがない熟語であるが、「漾」も「混じる」の意があるから、各公家衆や役方連中の訪問や挨拶の式方が全く以ってまちまち、ごちゃごちゃしてどう対応(応対・返礼)してよいか判らぬので、の意であろう。

「内侍所」三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を安置した所。賢所(かしこどころ)とも呼ぶ。

「洗米」ここは神仏に供えるために洗って禊した米。「饌米」とも書く。

「素袍」「素襖」とも書く(但し、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」)。男性の伝統的衣服の一種。室町時代に発生した単(ひとえ)仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。

「齋(いつき)し」潔斎して。

「此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段」判り易く訓読表記したものを示す。

「此(こ)の度(たび)、上着(じやうちやく)、愛度(めでた)く存じ候ふ。仍(よつ)て相ひ祝ひ候ふて、「おくま」を進(しん)じ入(い)り致す」

であろう。

――今回、関東より、無事の御上洛、目出度く存知申し上げまする。依ってお祝いを申し上げまして、「御供米(おくま)」を御進上申しまする――

であろう。「おくま」=「御供米」とは「くましね」(奠稲・糈米)の略語で、神仏に供えるために洗い清めた米のこと。「かしよね」。

「取次のものあらかじめ意得ざれば」取り次ぎに出る配下の同心などが、禁裏附勤務の経験が殆んど全くなく、それが何を意味する式礼かを事前に知らないと。

「偏に」ただもう。

「華音」「くわいん(かいん)」と読んでもよい。中国語。]

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