反古のうらがき 卷之四 狂人の勇
○狂人の勇
武内富藏[やぶちゃん注:ママ。後では「竹内」と表記。正しくは「竹内」。後注参照。]といへる狂人あり。人の害をもせざれば、其まゝにおきける。其子は淸太郞【この淸太郎、のちに下野守になり、函館奉行より御勘定奉行となれり。】とて御勘定組頭なり。富藏は山本庄右衞門が弟にて竹内家を繼(つぎ)たれども、其頃より狂氣して、終にいゆることなく、剃髮して朋友故人を訪(おとな)ひあるくを樂(たのしみ)として、日をくらすにてぞ有けり。小野澤勘介が弟子にて、柔術を取りたりとてほこることありしが、其餘は無能の人なりけり。其家近きあたりに御たん笥(す)町(まち)といふ所ありて、こゝに福田某(なに)がし【今は福田作太郎といふ。其子か孫か。】といふ、いとこあり。其家は町家の裏にて、其入口十間斗(ばかり)の小路なり。一日(あるひ)、酒狂人ありて、犬を逐(おふ)とて刀を引拔(ひきぬき)、此小路に入(いり)たり。あたりの町人、「狼籍もの」とて取卷(とりまき)たれども、さすがに一こしにおそれて、近よる者なく、「表に出(いで)たらんには打倒(うちたふ)さん、地主(ぢぬし)の門に入(いり)たらば、からめとらん」など、ひしめけども、せんかたなし。狂人は此さまを見て、彌々(いよいよ)くるひ𢌞(まは)り、小路を、あちこち、かけ𢌞りけり。かゝる所江竹内狂人、いとこがり行(ゆく)とて、人立(ひとだち)の中、おし分て入(いる)にぞ、人々、「あなや」といふ内に、小路の半分(なかば)斗り入けりと見れば、白刄を振(ふる)ふ人あるにぞ、行違(ゆきちが)ひ樣(ざま)に其手をとらへて白刄をば奪ひ取(とり)てけり。これを見るとひとしく、表に立(たち)つどひたる町人共、手々(てんで)に持(も)てきにける鳶口(とびぐち)手棒(てぼう)の類(たぐひ)、打(うち)ふり打ふり、口々に「あの人にあやまちなさせそ。醉狂人を打倒せ」とて、ひしひしと押寄(おしよせ)て、目鼻の分ちもなく打(うつ)程に、小路の眞中に打倒してけり。竹内狂人は「からから」と笑ひてかへりみもせず、いとこが家に入ければ、町人どもは、其勇氣におそれ、かんじていふようは[やぶちゃん注:ママ。]、「今地主がり入玉ふ御人は、武家の隱居とは見侍れども、手に物も持たで白刄を振ふ人を手取(てどり)にして、色もかへでゆうゆうと去り玉ひしは、いかなる武勇の人にかあらん」。一人がいふ、「これは地主旦那が御いとことか、きゝたり。おりおり、こゝにきますことあり。今、かく、すがたをかへ玉ひてさへ如ㇾ此(かくのごとく)なれば、さかりにいませし時は、さこそ、つよく、たけく、おはしけん」などたたへて、醉狂人をば繩にて引くゝり、處の番屋に連行(つれゆき)て、よくよく問ひたゞしければ、尾州侯の御家人何某が家の子なりければ、引渡して事濟(ことすみ)けり。後に、とらへしも狂人のよし聞知(ききし)りて、「扨は。狂人が狂人をとらへたるなり。さこそあらめ、餘りにおそれげもなきしわざと思ひけるが」とて笑ひしとなん。
[やぶちゃん注:「武内富藏」「其子は淸太郞」この子の方は幕末の幕臣竹内保徳(たけのうちやすのり 文化四(一八〇七)年(東京都新宿区の養国寺にある墓碑に拠る)~慶応三(一八六七)年)で、この人物、なかなか凄い経歴の持ち主である。ウィキの「竹内保徳」によれば、官位は下野守。通称、清太郎。父は二百俵の旗本竹内富蔵とある。『勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て』、嘉永五(一八五二)年に『勘定吟味役・海防掛に就任』(以上から本篇執筆がこの就任前であることが判り、本書の執筆推定である嘉永元年から嘉永三年頃とも合致する)、翌年の『黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任』した。嘉永七(一八五四)年六月に箱館奉行に、文久元(一八六一)年には勘定奉行兼外国奉行に就任、同年十二月には遣欧使節(文久遣欧使節)として三十余名を伴って、横浜から出港、イギリスへ向かった。『攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功』、文久二(一八六二)年五月、『イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始め』、プロシア・ロシア・フランス・『ポルトガルとの間』で『同じ協定を結んだ』。文久三(一八六三)年、『フランス船で帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため』、『登用されず、翌年』、『勘定奉行を辞任』した。元治元(一八六四)年五月には『大坂町奉行に推薦されたが』、『着任せず』に『退隠し』、八月、『閑職の西ノ丸留守居とな』った。慶応元(一八六五)年十二月には『横浜製鉄御用引受取扱となっ』ている。さて、ここで大変な事実が判明した。本「反古のうらがき」の作者鈴木桃野は嘉永五(一八五二)年の没である。私は今まで無批判に割注は桃野のものと考えてきた(桃野のものと読める内容も確かにあった)のであるが、以上の記載に誤りがないとするなら、竹内清太郎保徳が箱館奉行になったのは嘉永七(一八五四)年、勘定奉行に就いたのは、その後の文久元(一八六一)年であるから、桃野にはこんな割注を書くことは不可能なのである。実は他の割注も幾つかは後代の別人が後書きしたものである可能性がここに出てきた。
「御たん笥(す)町」「御簞笥町(おたんすまち)」。ウィキの「箪笥町」によれば、『江戸幕府において武具を掌った箪笥奉行』(箪笥は家具のそれではなく、武器の意。幕府の武器を掌る役職には具足奉行・弓矢鑓奉行・鉄砲簞笥奉行があり、それらを総称して簞笥奉行と称していたらしい)『に由来する町名。江戸時代は御箪笥町と呼ばれた』。但し、江戸には当時、複数存在し、下谷箪笥町(現在の東京都台東区根岸三丁目の一部)・麻布箪笥町(港区六本木の一部)・四谷箪笥町(新宿区四谷三栄町の一部)・牛込箪笥町(新宿区箪笥町)があった。この記載のそれがそこであるかどうかは不明だが、上記ウィキでは最後の牛込箪笥町についての記載のみが載り、他のネット記載をみてもそこが一番知られており、現存する「御箪笥町」(正しくは現行も「御簞笥町」)らしいので、一応、それを引いておく。但し、今までの本「反古のうらがき」の多くのロケーションはここに近い位置である。『新宿区の北東部に位置する。西部・北西部は、横寺町に接する。北部は、岩戸町に接する。南東部は、北町・細工町にそれぞれ接する。南西部は、北山伏町に接する(地名はいずれも新宿区)』。『江戸時代、箪笥町の辺りには、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があった。幕府の武器を総称して、「箪笥」と呼んだことから』、正徳三(一七一三)年、『町奉行支配となった際、町が起立し、牛込御箪笥町となった。明治維新後、「御」が取れ牛込箪笥町となり、その後、冠称の「牛込」がとれ、現在の箪笥町という名前に至った』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「入口十間斗(ばかり)の小路」「十間」十八メートル十八センチで、道の幅員としか思われないが、これでは「小路」ではなく大路並みであるので不審。これは小路の長さではあるまいか。
「手棒」手に持った棒。
「今地主がり入玉ふ」これによって竹内富蔵の従兄弟「福田某(なに)がし」が、この御簞笥町の、この小路に面して屋敷を持つ「地主」であることが判る。]