柳田國男 炭燒小五郞が事 九
九
宮古群島の金屬の由來に關しては、現に二通りの古傳を存してゐる。其一つは首邑[やぶちゃん注:「しゆいふ(しゅゆう)」。その地方の中心の村。]平良(ぴさら)[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『ひらら』とルビ。サイト「癒しの島 宮古島」のこちらによると、『沖縄では「平良」と書けば普通は「たいら」と読みます。平良市は町だった時は「たいらちょう」でしたが、市制施行するときに他の市町村の「平良」(たとえば那覇市首里平良町、東村字平良、具志川市平良川など)と区別するために、「平良」の宮古方言である「ピサラ」を日本語に直訳したのです。つまり、「ピサ」(平たい)=「ひら(平)」、「ラ(土地)」=「ら(良)」です。この市名』「ひらら」『は、市制施行と同時に定められ』、『今日に至ってますが、今でも平良のことを「たいら」という人が多いのです』とあることから、底本通りとした。但し、底本は実は拡大してみても「ぴ」か「び」かは実は判然としない。]の船立御嶽[やぶちゃん注:現行現地音「ふなた(或いは「ふなだ」)てぃうたき」。「御嶽」は沖縄で神を祀る聖所のこと。]に屬するもので、昔久米島の某按司[やぶちゃん注:「あじ」又は「あんじ」。ちくま文庫版は『あんじ』とする。琉球諸島に嘗て存在した称号及び位階の一つ。王族の内で王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家に当たり、日本の宮家に相当する。他に按司は王妃・未婚王女・王子妃等の称号としても用いられた。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた(ここはウィキの「按司」に拠った)。]の娘、兄嫁の讒[やぶちゃん注:「ざん」。]によつて父に疎まれ、海上に追放されて兄と共にこの地に漂着したが、かねこ世の主[やぶちゃん注:太字「かねこ」は底本では傍点「ヽ」。「かねこよのぬし」で王の固有名+尊称と採る。]に嫁して九人の男子を産み、後に其子どもに扶けられて老いたる父を故鄕の島に訪れた。父は先非を悔いて親子の愛を盡し、還るに臨みて鐵と其技藝の傳書を以て、引出物として娘に取らせた。其兄は之に由つて初めて鍛冶の工み[やぶちゃん注:「たくみ」。]を仕出し、ヘラカマ[やぶちゃん注:農具の「へら」(現地音では「ひーら」「ふぃーら」等)と「鎌」(現地では「いらな」「いらら」等と呼ばれているらしい)。「へら」は甘藷の苗の植え付け・草取り・収穫等に使用し(Kawakatu氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「イララ・ヒーラ・プフィザス 沖縄諸島のミニチュア農具遺物」に拠る)、ブログ『万鐘ももと庵「沖縄・アジアの食と音楽」』の「沖縄の農作業に欠かせないヘラ」で現在使用されている「へら」及び古いそれが画像で見られる。底本の後の方に出るその画像を段落末に示した。そこでは「ウズミビラ」と出る。]等を作つて島人の耕作を助けた故に、永く其恩澤を仰いで、兄妹の遺骨を此御嶽に納めたと謂ふのである。今は主として船路の安泰を禱るやうになつたが、男神をカネドノ、女神をシラコニヤスツカサと唱へて、其功績を記念して居る。第二には伊良部(いらぶ)の島の長山御嶽此はもう祭は絶えたらしいが、やはり神の名はカネドノであつた。鐵を持渡り侯[やぶちゃん注:「さふらふ」。]故にカネドノと唱え申候とある。大和からの漂流人で、久しく此地に住んで農具を打調えて村人に與へた。仍て作物の神として其大和人を祭るのだと傳へて居る。鐵渡來前の島の農業は、牛馬の骨などをもつて土地を掘り、功程[やぶちゃん注:「こうてい」。仕事の量。作業の程度。]はかどらず不作の年が多かつた。それが新たなる農具の助によつて、五穀豐かに生産し、渡世安樂になつたとあるのは、多分は現實の歷史であらう。荒れたる草の菴の炭燒太良[やぶちゃん注:「すみやきだる」。横浜のトシ氏のブログ「琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~」のこちらに拠った。]が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋(かまにや)[やぶちゃん注:「嘉播親」「嘉播の親」とも書くようであり、「かはにや」「かばにゃ」とも読むようである。有力者の尊称と思われる。]となつたのを、ユリと稱する穀靈の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴[やぶちゃん注:「たたら」。]の魅力が、殊に偉大であつたことを認めねばならぬが、しかも鐵無き此島に鐵を持込んだ人々は、謙遜にも自分の功勞は之を説立てず、炭燒奇瑞の古物語を、そつと殘して置いて又次の或島へ、いつの間にか渡つて往つてしまつたのである。
[ウズミビラ、木製の農具
マミクと云ふ硬い木で作る]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションを前に[ ]で示した(以下、同じ)。「マミク」はムクロジ目ムクロジ科カエデ属クスノハカエデ(楠葉槭)Acer
oblongum var. itoanum。琉球(奄美以南)・台湾に分布し、方言名で「ブクブクギー」(葉を水中で揉むと泡が立つことに由来)とも呼ぶ。絶滅危惧Ⅱ類(VU)。]
宮古の炭燒長者は、島最初の歷史上の人物、仲宗根豐見親(なかそねとよみをや)[やぶちゃん注:生没年不詳。宮古島の首長。「豊見親」は首長の尊称。空広(そらびー)ともよばれ、後世、「玄雅(げんが)」の字(あざな)が贈られた。十五世紀中頃に生まれ、十六世紀中頃に没したと伝わるが、経歴は殆んど不明。十五世紀末期頃に宮古島の覇者となり、やがて首里の王権に臣従して地位を安堵されたという。八重山に「アカハチ・ホンガワラの乱」(一五〇〇年)が起こると、国王軍に加勢して勲功を挙げ、宮古の初代の頭(かしら)に任ぜられた。その子孫は後世、忠導(ちゅうどう)氏と呼ばれ、代々頭職に就任して宮古島きっての勢家となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]が六代の祖と傳へられる。之を事實としても西曆十四世紀の人である。沖繩本島に於てもちやうど其の少し前に、鐵器輸入のあつたことが、半ば物語化して語り傳へられて居る。察度王[やぶちゃん注:「さつとわう(さっとおう)」は琉球王(察度王統初代)。一三二一年生まれで一三九五年没。在位は一三五〇年~一三九五年。奥間大親(うふや)の子。母は羽衣伝説の天女とされる。浦添按司(うらそえあじ)となり、後、英祖王統に代わって中山(ちゅうざん)王となった。明の太祖洪武帝の要請により、明と外交関係を結び、進貢貿易を始め、東南アジア・朝鮮との貿易にも尽力した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]が未だ其志を得ずして、浦添城西の村に詫しく住んで居た時、勝連(かつれん)按司(あんじ)の姫、夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]英風[やぶちゃん注:「えいふう」優れた教化とその風姿。]に傾倒して、往いて[やぶちゃん注:「ゆいて」。「ゆきて」の音便形。]之にかしずくこと、政子の賴朝に於けるが如くであつた。王の假屋形は庭にも垣根にも、無數の黃金白銀が恰も瓦石の如く、雨ざらしになつて轉がつて居た。それを新奧方が注意しても、笑うて顧みなかつたと傳へられる。其後鐵を滿載した日本の船が、牧港(まきみなと)[やぶちゃん注:沖縄県浦添市北部の地名。「まちなと」とも読む。ウィキの「牧港」によれば、『源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった事が地名の由来とされて』おり、牧港の「テラブのガマ」(以下の地図で確認出来る)と『呼ばれる洞窟にも同様の伝説が残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、現在は「牧港」という港は存在しない。]に入つて繫つた[やぶちゃん注:「かかつた」。停泊した。]時に、察度は乃ち右の金銀をもつて、殘らず其鐵を買取り、農具を製作して島人に頒ち與へ、一朝にして人心を收攬したと謂ふのは、興味ある傳説では無いか。琉球の史家が此記事に由つて、然らば我島にも昔は金銀を産したかと、有りさうにも無いことを想像して居るのは、寧ろ孤島の生活の淋しさを同情せしめる。島の文化史の時代區劃としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋(たういも)よりも重大であつた。所謂金宮(こがねみや)の夢がたりを傭ひ來るに非ざれば、説明することも六かしい程の、何かの方便を盡して、兎に角に農具は改良せられた。單に鐵を載せた大和船の漂着だけでは、文明の進化は見ることを得なかつた筈である。然らば此島現在の金屬工藝には、何人が先づ參與したのか。言ひ換へれば久米島按司が、宮古の娘に與へた卷物は、最初如何なる船に由つて、南の島へは運ばれたのであるか。それはもう終古[やぶちゃん注:「しゆうこ」。永遠。]の謎である。今はたゞ僅かに殘つて居る釜細工(かまざいく)の舞の曲と、其行裝(いでたち)と歌の文句に由つて、彼等が旅人であり、物珍しい國から來たことを、窺ひ知るの他は無いやうになつた。江戸で女の兒が手毬の唄に、
遠から御出でたおいも屋さん
おいもは一升いくらです
三十五文でござります
もちつとまからかちやからかぽん
と謂ふのがあるが、之に附けても思ひ出される。斯う云ふ輕い道化は鑄物師(いもじ)たちの身上(しんしやう)であつて、後に口拍子に眞似られたのではあるまいか。眞の芋賣りならば遠くからは來ない。所謂「取替(とりか)へべえにしよ」の飴屋なども、潰れた雁首や剃刀の折れを、集めて持つて行くだけは古金買ひと聯絡があつた。併しもう忘れられようとして居る。此等に比べると沖繩の舞は[やぶちゃん注:底本は「舞舞」。衍字と見て除去した。ちくま文庫版は以上が『これらに比べると釜細工という沖縄の舞は』となっている。]、まだ明瞭なる由緖を保ち、道具箱などは内地の鑄懸屋の通りであつた。或は流れ流れて金賣吉次の、是も淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶれ)ること。零落。]の一つの姿であることを、推測しても差支へがないのかも知らぬ。
水に乏しい南の島々では、黃金を鳥に擲つ話は既に聞くことが出來ぬ。しかも大なる[やぶちゃん注:「おほいなる」]淸水に接近して、所謂カンジャーの石小屋を見ることは多い。カンジャーは固より鍛冶から出た語であらうが、沖繩では鍋釜其他一切の鑄物を扱ふ者を總括して斯う呼んで居る。自分は南山古城[やぶちゃん注:南山城(なんざんぐすく)跡。沖縄県糸満市大里にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に近い屋古[やぶちゃん注:「やこ」。「大里」の異古名。「糸満市大里自治会」公式サイト内のこちらに、元来は『大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来』、『人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称したという記述がある』とある。以下の嘉手志川という地名からもここ(前の南山城跡の東北直近)である。沖縄県国頭郡大宜味村に屋古の地名があるが、そこではないので注意されたい。]の嘉手志川(かてしがは)、或は石垣島の白保(しらほ)などで、幾度か好事の情を以て其小屋を覗いて見たが、曾て工人の働いて居る者に出逢はなかつた。恐らくは村から村へ、今も僅かな人數が移りあるいて、淡い親しみを續けて居るのであらう。彼等が炭の由來と黃金發見の信仰に付て、現に如何なる記憶を有するかは、自分の之を知らんとすること、恰も渴する者の泉を想ふ如くである。琉球國舊記等の書に依れば、炭には木炭と輕炭の二種があつて、輕炭を俗に鍛冶炭とも曰ふ。大工𢌞(だいくざこ)村[やぶちゃん注:サイト「村影弥太郎の集落紀行」の「大工廻」では「だくじゃく」と読んでいる。『現在は大字の全域が米軍の軍用地』であるとある。]に炭燒勢頭地(せとぢ)と謂ふ田地あつて、勢頭親部(をやぶ)始めて之を製すと云ふ傳へあり。後世鄰邑の宇久田(うくだ)[やぶちゃん注:同じくサイト「村影弥太郎の集落紀行」の「宇久田」によれば、現在の『嘉手納飛行場の滑走路付近』とある。]と共に、每年二種各二百俵の炭を王廷に貢した。其年代は不幸にして既に明白で無いが、三山併合よりも古いことでは無さそうだ。
[やぶちゃん注:「三山併合」一四二九年に第一尚氏王統の尚巴志王(しょうはしおう)が三山統一を行い、現在、これを以って「琉球王国」は成立したと見做されている。]
[屋古嘉手志井[やぶちゃん注:ママ。]の下段
瓦葺の小屋はカンジヤヤー]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。キャプションの「井」は「川」の誤植であろう。]
但し鍛冶以外の炭の用途も、勿論無かつたとは言はれぬ。島の神道[やぶちゃん注:広義の神信仰。琉球は独立国であり、そのニライカナイ信仰も独自で魅力的なものである。日本の大和朝廷と結びついた国家の「神道」という政治的単語に成り下がった語で表現するのには私は強い不満がある。]に於ては火の神は卽ち家の神で、所謂御三物(おみつもの)の地位は、内地の近世の竈神[やぶちゃん注:「かまどがみ」。]卽ち三寶荒神よりも、遙かに高く且つ重かつた。今は僅かに神壇の中央に、三塊の石の痕を留むるのみであるが[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『今はわずかに、火床の中央に、三塊の石の痕(あと)を留むるのみであるが』となっている。]、以前は祖先の火を此中に活けて[やぶちゃん注:「いけて」。]、根所(ねどっころ)の神聖を保存したものと思はれる。火鉢の御せぢ(筋)は恐らくは之を意味し、火靈の相續は亦炭に由つて、爲し遂げられたかと想像する。此想像にして誤無くんば、冶鑄技術の輸入は、則ち火神信仰の第二次の興隆であつて、民に鋼鐵の器を頒ち賜ふが故に、其威德は愈旺盛となり、終に王家をして之に據つて、能く民族統一の偉業を完成せしめたのである。之に反して内地の軻遇都智神(かぐつちのかみ)は、恩澤未だ洽(あまね)からず、又雄族[やぶちゃん注:有力氏族。]の之を支持するもの無く、天朝の傳承は寧ろ宣傳に不利なりし爲に、次第に其聲望を降して、終には炊屋(かしきや)[やぶちゃん注:厨。台所。]の一隅に殘壘を保つに至つたが、是が果して東國九州の偏卑に住む民の信仰であり、殊には筑紫の竈門山(かまどやま)の神などの、教へ導きたまふ所のものと、一致して居つたか否かは問題である。而も此くの如き地方的の大變化が、薪を一旦炭にしてから、再び之を利用する技術の有無に原因して居るとしたら、渺たる一個の小五郞の物語も、其の暗示する所は亦頗る重大である。
各三つの石、前に置くは香爐]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]
遠野物語の中には、深山無人の地に入つて、黃金の樋(ひ)を見たと云ふ話があるが、其が火と關係あるか否はまだ確實で無い。併し少なくとも火神の本原が太陽であつたことだけは、日と火の聲の同じい點からでも之を推測し得るかと思ふ。日本には火山は多いが、我民族の火の始は、之に發したのでは無かつたらしい。天の大神の御子が別電(わけいかづち)であつて、後再び空に還りたまふと云ふ山城の賀茂、又は播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、此國のプロメトイスが霹靂神(はたゝがみ)であつたことを示して居る。宇佐の舊傳が同じく玉依姫を説き、頻に又若宮の相續を重ずるは、本來天火の保存が信仰の中心を爲して居た結果では無かつたか。岩窟に火の御子を養育すれば、第一の御惠は必ず炭と爲つて現はれる。炭はまどろむ火であるが故に、之を奉じて各地に神裔を分つ風が先づ起り、金屬陶冶の術は則ち此に導かれたものでは無からうか。南太平洋の或民族、例へばタヒチの島人などの火渡りは、燃ゆる薪の中に石を燒いて、之を大きな竪坑に充たし、神系の貴族たちは列を作つて、其上を步むのであつた。日本に於いても大穴牟遲神(おほあなむち)の、手間(てま)の山の故事のように、赤くなる迄石を燒く習[やぶちゃん注:「ならひ」。]があつたとすれば、或種の重く堅い石が、猛火の中に滴り落ること、其石が凝つて再び色々の形を成すことは、所謂奧津彦(おきつひこ)奧津媛(おきつひめ)、卽ち炭火の管理に任じた者には、殊に遭遇しやすき實驗であつて、之を神威の不可思議と仰ぐは勿論、更に進んで其便益の大なることを諒解した場合には、必ずや新たに無限の歌を賦して、火の神の恩德をたゝえんとしたことであらう。之を要するに炭燒小五郞の物語の起原が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であつたとすれば、爰に始めて小倉の峰の菱形池(ひしがたのいけ)の畔に、鍛冶の翁が神と顯れた理由もわかり、西に鄰した筑前竃門(かまど)山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ傳へられた事情が、稍明らかになつて來るのである。所謂父無くして生れたまふ別雷の神の古傳は、至つて僅少の變化を以て、最も弘く國内に分布して居る。神話は本來各地方の信仰に根ざしたもので、其の互に相容れざる所あるは寧ろ自然であるにも拘らず、日を最高の女神とする神代の記錄の、此れほど大なる統一の力を以てするも、尚覆ひ盡すことを得なかつた一群の古い傳承が、特に火の精の相續に關して、今尚著しい一致を示して居ることは、果して何事を意味するのであらうか。播磨の古風土記の一例に於て、父の御神を天日一箇命(あまのまひとつのみこと)と傳へて、乃ち鍛冶の祖神の名と同じであつたことは、恐らくは此神話を大切に保存して居た階級が、昔の金屋であつたと認むべき一つの根據であらう。火の靈異に通じたる彼等は、日を以て火の根原とする思想と、いかづち[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]と稱する若い勇ましい神が、最初の火を天より携へて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたと云ふ信仰を、持傳へ且つ流布せしむるに適して居たに相違ない。宇佐は決して此種の神話の獨占者では無かつたけれども、彼宮の神の火は何か隱れたる事情あつて、特に宏大なる恩澤を金屬工藝の徒に施した爲に、彼等をして永く其傳説を愛護せしむるに至つたので、炭燒長者が豐後で生れ、後に全國の旅をして多くの田舍に假の遺跡を留めて置いてくれなかつたなら、獨り八幡神社の今日の盛況の、板木の理由が説明し難くなるのみで無く、我々の高祖の火の哲學は、永遠に不明に歸してしまつたかも知れない。然るに文字の記錄を唯一の史料として、上古の文明を究めんとする學者が、誤り欺き獨斷するに非ざれば、則ち絶望しなければならなかつた問題の眼目を、斯く安々と語つて聽かせ得る者が、隱れて草莽の間に住んで居た。さうして滿山の黃金が天下の至寶なることに心付かず、之を空しき礫に擲ちつゝ、孤獨貧窮の生を營んで居た。新しい學問の玉依姫は、今や訪ひ來たつて彼が柴の戶を叩いて居るのである。
[やぶちゃん注:このエンディングは柳田國男にしては文学的で悪くない。]
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