反古のうらがき 卷之一 鼠
○鼠
さりし年、余が弟中西、未だ家にありし時、座敷に鼠出(いづ)るを憂ひて、すき間すき間をよく塞ぎて、出れば、必(かならず)、打殺(うちころ)しけり。或時、佛壇のあたりにさわぐ[やぶちゃん注:ママ。]おとしければ、例の如く、四方の戶さし、見𢌞りて、こゝより入たると思ふ處をよく立切(たてき)り、扨、燈火明(あか[やぶちゃん注:底本のルビ。])くなして其室に入(いり)、隈なく求(もとむ)るに、影もなし。鼠の、影かくすは常のことなれども、外に隱るべき一物もなく、佛壇は、皆、取片付(とりかたづけ)て、物なく、其前に小机一つに小花甁(こばないけ[やぶちゃん注:「いけ」は底本のルビ。])一つありて、しきみ一本挿(はさ)める外、又、物もなし。又、物音ありて後、出べき方は、皆、塞り、『小隱(こがくれ)するも、事にこそよるべけれ。此内にて何所へか隱るべき』とて、再三、花甁(はないけ)のあたり、打驚(うちおどろ)かし、取(とり)のけなどするに、絶(たえ)て形のなかりければ、『今は是非なし』とて立(たち)けるが、ふと花甁(はないけ)の内を見るに、線香の火程(ほど)の光り、二つ、見へけり。『扨は。此内に居て、水際の花の根に潛(ひそま[やぶちゃん注:底本のルビ。])りけるよ。さらば、手頃の物をもて蓋(ふた)したらんに、さこそ捉(とら)へ易からん』と思へども、あたりに物なし。『何をがな』と纔(わづか)に側(かたはら)に眼を移しける間に、早、甁中(いけなか)の光りは、消失(きえうせ)ぬ。『その隙に逃れけるよ』と、燭火、照らして就(つき)て見るに、こゝにはあらで、障子の上にありて、あちこちする樣(さま)、最早、大事の隱れ家はしられて、あわつるとこそ見えける。これよりは、常の如く追𢌞(おひまは)して打殺(うちころ)しぬ。
彼(かの)甁中(いけなか)にありて、此方(こなた)の眼斗(ばかり)を見詰めて、如何(いか)よふ[やぶちゃん注:ママ。]に近よるとも、眼光(めのひかり[やぶちゃん注:底本のルビ。])、此處に至らざる間は、見付(みつく)る氣遣ひなしと思ふが鼠其外、狐などの性(しやう)なりけり。一度、眼光(めのひかり)、こゝに及びぬると見れば、其(その)眼光(めのひかり)の轉ずる隙(すき)を窺ひて他に逃るゝ、又、其所に隱るべき物さへあれば、あなたこなたと轉じ逃れて、終に見出す事なく止みぬることも多し。狐の人を化(ばか)すもこれと同じ。こなたの眼光(めのひかり)、遲き故なりとしるべし。人にも眼早(めのはや[やぶちゃん注:前からの推定訓。])き性の人あれば、諸藝に勝(すぐ)るる物なり。
余、狐の木隱(こがくれ)するを見たり。初冬の頃、早稻田の蘘荷畠(めようがばたけ[やぶちゃん注:ママ。])のあたり、行通(ゆきかよ)ひしに、平(たひ)らにうなひたる畠の中に、二間斗(ばかり)の木立(こだち)有(あり)て、其上に鴉一羽、栖(すみ)けり。下に、狐一つありて、ねらふ樣(やう)、木を楯(たて)に取(とり)て、あなた、こなた、隱るゝに、鴉の後ろ後ろと立隱(たちかく)れ、いかに近よるとも、見付(みつく)る事、なし。鴉は段々と木を下る。いよいよ近くなれば、いよいよ木の根に隱るゝ。間(あひだ)三尺斗(ばかり)になりて、其身をかわす樣(さま)、いよいよ早かりけるが、折節、風の「さ」と落して、あたりの木の葉、ばらばらと飛(とび)たるに驚(おどろき)て、鴉は飛さりぬ。これは運のよくありける也。しからずば、今少しにて狐に食はるべかりける。狐も眼早(めのはや)く身輕(みのかる[やぶちゃん注:前からの推定訓。])く、纔(わづか)の物に身を隱すの性なり。
[やぶちゃん注:「余が弟中西」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の弟、八之助。文化七』(一八二四)『年生』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、八之助は十代の終りか、二十代前半か。
「しきみ」「樒」。アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)』の私の注を参照されたい。
「何をがな」何か恰好の物があればなぁ。「がな」は終助詞で「もがな」(係助詞「も」+詠嘆の終助詞「が」+感動の終助詞「な」の略で願望を表わす。
「あわつる」「澆つ・遽つ」等と漢字表記する。自動詞タ行下二段活用「落ち着きを失う・騒ぎ惑う・慌てまくる」の意。
「こなたの眼光(めのひかり)、遲き故なりとしるべし。人にも眼早(めのはや)き性の人あれば、諸藝に勝(すぐ)るる物なり」鼠や狐等の対象の眼光を見つけても、眼を完全に離してしまっては、幾ら、動体視力の鋭い人間でもその対象を見逃すしてしまうはずである以上(視界の一部に逃走する対象が入れば別)、これは十全な説明とは必ずしも言えない。
「蘘荷畠(めようがばたけ)」正しい歴史的仮名遣は「めうがばたけ」。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga。「茗荷」が一般的であるが、こうも書く。ウィキの「」によれば、「早稲田みょうが」と称したものが、『江戸時代に早稲田村、中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、山吹町)で生産された。赤みが美しく』、『大振りで』、『晩生(おくて)のみょうがである』とある。この辺り(グーグル・マップ・データ)で(早稲田大学の東直近)、本シークエンスのロケーションの限定候補となる。
「平らにうなひたる畠」不詳。初め「うな」は「畝」の訛りかと思ったが、「平らに」との相性が悪い。或いは「熟ふ・老熟ふ」で、荒れ地を丁寧に時間を掛けて、平たく耕し、均(なら)した畑の意か。
「二間」三メートル六十四センチメートル弱。
「三尺」約九十一センチメートル。]