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2018/09/13

反古のうらがき 卷之三 三つのおそれにあふ

 

   ○三つのおそれにあふ

[やぶちゃん注:この一条、長いので、本文中に注を繰り込んだ。本文と識別が容易に出来るように注は太字とした。]

 伊豆國熱海の溫泉は、江戶より路程(みちのり)も近ければ、行(ゆき)て浴する人も多かり。深き疾(やまひ)・重き疾の癒(いゆ)るといふにはあらねども、亦、しるしなきにあらず。まづは夏のあつさをしのぐにはよき海邊なれば、富める町家のあるじなど、來りて、遊ぶもの多し。且、此地の湯本におきてありて、遊女を買ふことをゆるさず。其故は、病を療するとて來りたる人が、かへりて瘡毒(さうどく)[やぶちゃん注:梅毒。]など受(うけ)てかへりたらんには、益なくて害あり、あまつさへ熱海の湯はしるしなく、病(やまひ)、彌(いや)增(ます)などきこへんには、大(おほい)なる所の妨(さまたげ)なればなりとぞ。故に此地に湯女(ゆな)なし。偶(たまたま)諸國より來れる倡家[やぶちゃん注:女郎。娼婦。]の女あれども、皆、瘡毒の療治なれば、問はでもしらるゝ瘡毒の女なり。これが、おりおりは、ひそやかに客をとることあれども、極(きはめ)て祕密のことにて、湯本にきこへたらんには、速(すみやか)におひ去らるゝことのよし。されば、金錢を費さんに手立なき處にて、富豪のあるじ・其外、江戶にて多く金銀を費す人をば、人々、すゝめて此處に遊ばしめ、費(つひへ)を省(はぶ)く術(すべ)をなすとぞ。飮食も自由なれども、價貴(たか)き品々なく、魚類は其處にて獵するなれば、甚(はなはだ)、價、賤(やす)し。これも此地に遊ぶ人、金壹分[やぶちゃん注:一両の四分の一。江戸後期は現在の七千五百円から一万二千五百円に相当。]出して鯛網(たひあみ)[やぶちゃん注:タイを捕るのに用いる巻き網。金額から見て「沖縛り網」で、複数の船を出して円形に囲い込んで漁(すなど)るそれであろう。]を引(ひく)に、獲物多く、家々の遊客におくるに、猶餘りて打捨(うちすつ)ることもあるよし。諸遊藝の宗匠どもは、多く此地に來り、遊客の相手となり、其日を送るもあり。各(おのおの)好み好みのあそびに日をおくるといへども、遂に金錢多く費す術はなきを、此地の名譽となすことなり。湯の沸出(わきだ)す時は一日三度、朝・晝・暮と、時をたがへず、其熱きこと、筍(たかんな)などの類(たぐひ)を投入置(なげいれおく)に、程なくして、よく熱すとぞ。湯本はいふ、「此地に來り玉ふ人々、身分の上下を論ぜず、各(おのおの)同輩のこゝろにて、諸遊客と交り玉ふ程面白き事なし。もし、其意ならば、武家は刀劒を湯本に預け、富家は從者(ずさ)を同遊となし、衣服・身の廻り、人に異なる樣(やう)なく、此地の風俗に隨ひ、單(ひと)への衣一つに細き帶一筋、新らしき好み好みの褌(ふんどし)、其外は新らしき手拭・もみ紙の煙草入(たばこいれ)・きせるなど、大體、島中(しまなか)[やぶちゃん注:海辺の一帯。領分の「シマ」の意かも知れぬ。]一樣の出立(いでたち)にて、『互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。「互い」にと同義。])に身本(みもと)をしらるゝことなきを上々の遊びといふ也』と、人々に告げしらすにより、若き人々などは島中を橫行するに、誰(たれ)に心置(こころおく)ことなく、實(じつ)に心樂しく思ふ遊ぶなり。蓄への金銀も、同じく湯本へ預くる方(はう)、氣遣ひなし。入用程(いりようほど)づゝ受取り、若(も)し、多く費す人あれば、湯本、是を許さず」とぞ。

 余が族家、内海某[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の注に『桃野の祖母の実家』とある。]、「病(やむ)ことあり」とて公(おほやけ)に告(つげ)て、此地を遊ぶこと、數旬なりけり。老(おい)て後、其事を語るに、「實(じつ)に、魂(たましひ)そゞろに脱出(ぬけいづ)る斗(ばかり)に覺ゆる」とて、しばしば、余にも語れり。其島の東北七里斗りに小島あり[やぶちゃん注:不詳。熱海の東北二十七キロメートル半の駿河湾内にはこんな島はない。南東なら初島や大島があるが、前者では距離が近過ぎ(直線で約十キロメートル)、後者では遠過ぎる(約四十キロメートル強)。また後者なら名前を長く流人に島として知られていた(但し、明和三(一七六六)年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島・利島とともに寛政八(一七九六)年には正式に流刑地から除外されている)から名を出すはずである。但し、以下の海難未遂は外洋っぽく、また、大島西岸にある波浮港村は寛政一二(一八〇〇)年に立村しており、当村の鎮守波布比咩命(はぶひめのみこと)神社の例祭は七月二十七日ではあった。だが、やはり大島では遠過ぎ、以下に見るような大きさの舟ではとても無理だと思われるから、やはり初島とすべきか。]。七月何の日、土地の神社の祭禮ありて、此日は家々、酒樽の蓋、打拔き、來る程の人々飯を盛る碗もて、おのがまにまに[やぶちゃん注:思うがままに。]、くみて飮むことを例となせり。故に、男女(なんによ)打交(うちまじ)り、醉(ゑひ)たるまゝに打戲(うちたはむ)れ、舞歌(まひうた)ひすること、二日にして止むとぞ。内海某、從者(ずさ)二人、其外同道の客貮人と船二艘を買ひて、「此祭りを見ん」とて出ける。折節、海上、浪靜かに、幾尋(いくひろ)となき海底に、大小の鮫の魚、行かふ棲(さ)ま、見なれぬことのみにて、いと面白かりけり。人の語るにたがわず、其地の祭り舞歌ふ樣(さ)ま、珍づらしく、日のかたぶくもしらで遊びけるが、日も七つさがり[やぶちゃん注:午後五時半前後。]の頃、船をかへして三里斗來(きた)ると覺へしが、舟子ども、西の空を「き」と見て、「あれはいかに」といふとひとしく、碗(わん)程の雲、二つ、飛出(とびいで)たり。見るが間に傘(かさ)程となり、又、見る間に十たん斗(ばかり)のひらめる雲となり、俄に一天におほひ來(きた)る。「こは、早手なり、かなわじ」といふまゝに、二つの舟を橫樣におしならべ、帆柱二本を舟の上に橫たへて、二所を堅く繋ぎ合せ、かぢを引上げ、櫓を取上る程もあらせず、大風大浪、海をくつがへし、天を拍(う)つ樣(さ)ま、四方、やみの如く咫尺(しせき)を分たず、舟に入(いる)浪は山を崩しかくるが如く、舟のたゞよふ樣(さ)まは木の葉の空に舞ふが如し。人々、膽魂(きもたま)消失(きえう)せて、手に當る物、取持(とりもち)て水をかへ出(いだ)すに、舟中に有(あり)とあらゆる品々、皆、水と共に海中にかへ出(いだ)せり。されども浪は、彌(いよいよ)舟に入(いり)てかへ果(はつ)べくも見へねども、「命のあらん限り」と力を出して、かへ出す。『此あたりぞ、先に見て來にける大鮫などの多くありし處なるべし。鳴呼、不幸にして此禍(わざはひ)にあひ、かれらが腹に葬らるゝ事よ』とおもへば、かなしくも、又、せんすべなく、互に聲よびかわし[やぶちゃん注:ママ。]、力をつくるに、はや、よはり果て、黃水(おうずい)を吐くもあり、潮の中に倒れ伏すもあれども、是をかへり見るにいとまなければ、力のかぎりを命の限りとあきらめて、はたらきける。かくして、舟はいづこをさして洋(ただよ)ふやらん、岸もしらず、果もなき方へ洋ふに任せて、吹かれゆく。舟子共は、人々にまさりてはたらきける故に、はや力盡(ちからつき)て、只、聲斗りふり立(たて)て、「人々、浪にな取られ玉ひそ、風にな取られ玉ひそ」と叫べども、果(はて)には、舟中人ありとも見へず、皆、舟底の潮の中に打伏(うちふし)て、息出(いきいづ)る樣にも見えざりける。一時斗りも經ぬる頃、風、少し靜まり、浪も平らかになりゆくにぞ、人々漸く息出る心地して、舟底より這ひ出て見れば、四方の闇も漸く晴行(はれゆ)き、西の空と覺しき方(かた)、夕日の殘りたるが、「ひらひら」と紅く見ゆる夕暮の空の景色とはなりぬ。「扨も命(いのち)めで度(たく)、舟もくつがへらで、先(まづ)此迄にはしのぎ果(はて)ける、うれしや」とて、互に大聲出(いだ)して泣けり。しかし、舟中に一物なく、各(おのおの)いたく飢(うゑ)たるに、「こゝはいづこなるべき、先(さき)の舟路よりは幾里斗り洋ひたる」と舟子に問ふに、東北の諸島は、皆、見覺(みおぼえ)あり。未だ、霧、晴渡(はれわた)らねば、しかとも分たねども、西の空の日の入る光りのあたりぞ、先に渡りたる小島なるべし、十五、六里には過ぎざるべし、いで、櫓をおせ、かぢおろせ」とて、先の帆柱、とき分ち、舟二つ、おし並べてこぐ程に、矢を射る如くおし切(きり)て、夜の五つ半といふ頃に熱海の嶋に乘り入ける。是も、今少し早く、乘付(のりつく)べかりしが、「早手(はやて)[やぶちゃん注:疾風(はやて)。]のあとは、又も、『かへし風』[やぶちゃん注:吹き返しの風。それまでとは大きく異なる方向から吹いてくる風のこと。主に台風が過ぎ去った後に吹く逆方向からの強い風を指す。]といふことあることもあれば」とて、嶋影見ゆる方をさして乘(のり)たれば、直(ただちに)に[やぶちゃん注:風に逆らって無理に真っ直ぐには。]おし切らで、西をさし、南をさし、島が根近き方へ方へと行たれば、里數、四、五里の𢌞り道とはなりし也とぞ。これを、「一つのおそれに逢ひたる」とかぞへたり。

 湯治も日數經(へ)にたれば、家に歸るも、又、樂(たのし)みになるよふ[やぶちゃん注:ママ。]におぼへて、そぞろに歸り心出で、いまだ公に告たる日限(にちげん)にもいたらねども、「一と先(まづ)、熱海を立(たち)て金澤の八景見ん」とて、山路ごへ[やぶちゃん注:ママ。]に相模の國に入けり。夏の山の景色、得もいはれず、木影に立休(たちやす)らへば、涼風(すずかぜ)、客衣(かくい)を吹き、石によりて坐すれば、白雲、杖のもとよりおこるなど、早立(はやだち)の朝の空、いと晴(はれ)わたり、ひるの暑さにことかわりて、露深く、夕の日の入る山影、いろいろの雲の峯、形をかへて見ゆるなど、面白かりけり。道の案内する人を雇ひたれば、神社佛閤も殘りなく拜み奉り、山道にかゝり、向ひの山を見てあれば、一つの鹿の遊び居たるに、目なれぬ故に、各(おのおの)「あれを見よ、あれを見よ」と見るまに、此方(こなた)の谷合(たにあひ)に錢砲の音響くとひとしく、鹿は「ころころ」とまろびて、谷に落(おち)けり。「扨も、情けなき事よ」と見るまに、さしこの布もて一身すきまなく包みたる人、鐡砲をかたげ、山刀(やまがたな)、腰に橫たへたるが、小篠(こしの)の中、推分(おしわけ)て出(いで)けり。これ、このわたりの獵師にて、是が打留(うちとめ)たるとぞしられける。かくて行(ゆく)こと一里斗にして、道案内の者、彼方(かなた)の山を深く見入(みい)れ居(をり)たりしが、驚きたる樣に、人々を差(さし)まねき、「ひそかに、ひそかに」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、逸(い)ち足(あ)し[やぶちゃん注:速足。]を出(いだ)して、行くての路へ走り行(ゆく)にぞ、人々共、心は得ねども、それが招くに隨ひ走り行(ゆけ)ば、いづこを當(あ)てともなく、ひた走りに走る。『後れては惡(あ)しかりなん』と思ふにぞ、そゞろにこはけ立(だち)て[やぶちゃん注:「怖氣立ちて」であろう。]、互に言(こと)ばもなく、つかれたる足を引(ひき)つゝ、『力の繼(つづ)くだけは』と走りける。廿町[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]斗にして、先に立(たち)たる人、立止りて、待受(まちうく)るにぞ、人々、「何事なれば、かくはするぞ」と問(とふ)に、「人々は知り玉はじ、かく日暮近くなりては山路は行かよふ間敷(まじ)かりしを。此頃はさせることもなしと聞(きく)にぞ、人々を伴ひしが、先の處は狼の出入する所にして、年の内には、いくたりとなく、狼にとらるゝ者あり。先に彼(か)の山を見入(みいり)たるに、木葉(このは)がくれに狼の此方(こなた)に向ひ坐(ざ)せるを見付たり。其間、五、七町[やぶちゃん注:約五百四十六~七百六十四メートル。]隔(へだつ)るといへども、かれが見付たらんには、一足に飛來(とびきた)る。彼が一疋來らんには、いづこより來るともしらず、いくつともなく出來(いできた)り、ゆく手の路をふさぎ、又、後(しりへ)より送る[やぶちゃん注:尾行してくる。]。其時、幾人ありとも、敵すること能はず。又、運つよく害に逢(あは)ざる人もあれども、先づは稀なり。そが中に此方より狼の影を見付て、彼が心付かでやみたるといふことは、尤(もつとも)稀なることなり」と語りけり。人々、是を聞(きき)て、身の毛、立(たつ)斗りにおそれけれども、先に、走る頃、此事をしらば、殊に身もすくみて走りなやむべかりしを、其時はしらで走りけるぞ、めで度(たき)事とぞ祝(しゆく)しける。これなん、第二條のおそれにあひたるとかぞふる也。

 それより相州金澤に遊びて、名所古跡打𢌞り、しばし足を休(とゞ)めたれども、公に告し日數の限りにはあらざりけれども、年の若き人々なれば、山路或は幽邃の地にこふじ果(はて)たれば[やぶちゃん注:「こふじ」は、ママ。「困(こう)じ果てたれば」で、すっかり疲れ、或いは静か過ぎて飽きてしまったので。]、少しも早く歸り來(きたり)て、『家路近きあたりにて、心ゆるく遊ばん』と思ふにぞ、金澤には一夜もとゞまらで、神奈川の驛に宿りぬ。其夜、大風雨にて、海原の景色も見るによしなけれども、所の賑ひに取まぎれて一夜をあかしぬ。朝は早く立出(たちい)で、雨後の涼しさを追ひて、六合(ろくがふ)の渡し[やぶちゃん注:東海道は東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町の間の現在の六郷橋附近で多摩川を渡った。旧「六郷大橋」は慶長五(一六〇〇)年に徳川家康がを架けたが、貞享元(一六八四)年に五回目の架け直しをされたそれが、貞享五(一六八八)年に洪水で流された後は再建されず、「六郷の渡し」が設けられた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に來るに、夜べの嵐に水增して舟を出さず。心にもあらで、日の午後過(すぐ)る迄、此處に居(をり)しに、追々に聞へけるは、「昨夜の大風雨に大浪打入(うちいり)て、金澤の驛は、皆、引入(ひきいれ)られ、湖水[やぶちゃん注:この「湖」は「海(うみ)」の意。そうでなくても「金沢八景」は中国湖南省の洞庭湖付近の名勝名数「瀟湘(しょうしょう)八景」に見立てたものであるから、何ら、違和感はない。]に臨みたるあたりは、家人ともに影もなし」など聞(きく)にぞ、「さては、さることありけり。吾々、今一夜前に彼(かの)地に付(つき)たれば、思ひ設ざるの禍に逢ふべかりしを。そゞろに家路近くなして心おちゐん[やぶちゃん注:『何とはなしに「家路へなるべくより近くへ近くへ」と向け、これといってわけもないのに、そのようにして心を落ちつけよう』の意か。]と思ふものから、ひたいそぎに神奈川驛迄追ひ付しは、我にして我ならず、神佛の助け玉へるなりけり」とて、人々、又も、命のめで度(たき)を祝しける。程もあらで、川も明(あ)きければ、其日に家に付(つき)て、人々、旅中無事を賀し、且は「危きことども語り合(あひ)て、後の談(はなし)の種とせん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。是なん、第三條のおそれとかぞふべし。「其中に後の二條は、おそれたれども、其場にては心付かで過(すぎ)ければ、膽(きも)のつぶるゝ程にはあらざりけれども、最初一條はつぶさに其苦況を經(へ)にたれば、深く心に染入(しみいり)て、語るさへおそろしく覺ゆる」とて、此三つのくだりを畫(ぐわ)に寫(うつ)し、文に作り、家に傳へて、「『子孫無益の遊歷(あそびあるき[やぶちゃん注:底本のルビ。])して他鄕に至ることを禁ずべし』と成(なさ)しめたり」と語りき。繪は丹丘(たんきう)[やぶちゃん注:加藤好夫サイト浮世絵文献資料館に浮世絵師「丹丘」の事蹟が載るが、彼がこの人物かどうかは不詳であるものの、天明三(一七八三)年刊の四方赤良撰・丹丘画「狂歌三十六人撰」、享和元(一八〇一)年の大田南畝の山内穆亭宛書簡に名が載り、これは本「反古のうらがき」の成立(嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃)や桃野の生没年と同時代的であり、先行条によっても桃野は四方赤良(=大田南畝)と接触があった可能性が高いことから、彼であってもなんらおかしくはないと言える。]といふ人、かきたり。文は小野蓑水[やぶちゃん注:不詳。「蓑水」の読みは「さすい・さいすい」か。]、作れり。

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