反古のうらがき 卷之三 怪談
○怪談
[やぶちゃん注:本篇も長いので読み易さを考え、改行を多用し、注は本部内或いは各段落末に添えた。また、核心部分は本書では特異点の真正の怪談(但し、桃野が少年の日に「何がし」(相応な年長者と思われる)が話して呉れたもの)であることから、その部分を「――――*――――」の記号で挟んで区別し、また、その中のシークエンスをも「*」を用いて恣意的に区分けした。]
段成式(だんせいしき)が酉陽雜爼(ゆうようざつそ)に、「朱盤(しゆばん)」といへる怪物をのせたるが、極めておそろしき物がたり也。
[やぶちゃん注:「段成式が酉陽雜爼」段成式(八〇三年?~八六三年)は晩唐の学者・文学者。現在の山東省の臨淄(りんし)の人。名家の出で、父段文昌は宰相。父の功績によって秘書省校書郎となり、その後、吉州刺史・太常少卿などを歴任し、晩年は襄陽(湖北省)に住んだ。博聞強記で、家伝の膨大な蔵書や宮中の秘書から得た知識をもとに、古今の異聞怪奇を記した随筆「酉陽雜俎」(本集二十巻・続集十巻。八六〇年頃成立)を著した。但し、私の知る限り、「朱盤」では同書には載らない。但し、「朱盤」は、本邦ではかなり著名な妖怪で、私の電子化注でも「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」(延宝五(一六七七)年刊・作者不詳)や、酷似した内容の「老媼茶話巻之三 舌長姥」(「老媼茶話(ろうおうさわ)」は寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したもので、作者は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている)、或いはそれを紹介した『柴田宵曲 妖異博物館「再度の怪」』辺りの本文及び私の注を読まれたい。なお、宵曲は中国の似たようなケースとして「捜神記」の「巻十六」に載る「琵琶鬼」を挙げているが、そこには「朱盤」という名は出ない。またそこで宵曲は本妖怪の本邦での後裔を小泉八雲の「怪談」で知られた「狢」のノッペラボウに認めてもいるので、未読の方は、是非お読みあれかし。]
正德(しやうとく)ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊(ばんばう)」となし、又、何某が「化生物語」といへる書に、武州淺草の堂に化物出ることとなせり。
皆、朱盤をもととして書(かき)たるもの也。
[やぶちゃん注:『正德ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊」となし』「正德」は一七一一年から一七一六年。これが何という怪奇小説を指しているかは、よく判らない。題名は明らかに「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に極近いが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で作者不詳(「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)であるから、違う。或いは、桃野は正徳二(一七一二)年刊の北条団水著の怪談「一夜船」の、後の改題本「怪談諸国物語」とこの「諸國百物語」を混同しているのかも知れないとも思ったが、団水は談林派の俳諧師であって僧ではない(俳諧師は概ね僧形をしてはいたが)。
「化生物語」不詳。私は一般人よりは江戸怪談集に接してきた人間と自負するであるが、「化生物語」(「けしやう(けしょう)ものがたり」と読んでおく)という怪談集は知らぬ。江戸時代の怪談集には改題本や改竄本・他者による再編集本が多数生まれているから、それらの一つかと思われるが、特定出来なかった。ただ、「武州淺草の堂に化物出ること」という標題に近いらしいものに従うなら、私が電子化注を終えている、延宝五(一六七七)年に京の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)が編著した「宿直草(とのいぐさ)」に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」や「宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事」が載りはする。しかし「宿直草」には「化生物語」の異名や異本(改竄本・再編集本)はないように思われる。]
されば、怪談の妄言も、才智、人に勝ぐれたる人にあらねば、世の人の「おそろし」とおもふ程には作りがたし。
予が少年の頃、何がしが話したる怪は、大(おほい)に人意の表(ほか[やぶちゃん注:底本のルビ。])に出で、おそろしく覺ゆる所あり。
――――*――――
いつの頃にかありけん、國一つ領し玉へる太守ありけり。其奧に宮づかへする少女の二八[やぶちゃん注:「にはち」。十六歳。]斗(ばかり)なるが、二人迄ありける。いづれも、容儀、世に勝れてうつくしく、太守の御いつくしみも深かりけり。一人は「金彌(きんや)」とよび、一人は「銀彌(ぎんや)」とよびけり。二人が仲も甚(はなはだ)睦まじく、座するも伏するも、皆、相(あひ)ともになしける。
一年斗りありて、金彌は病めることありて、父母が家に下りけるが、程遠き方なれば、消息もなくて過(すぎ)ける。
* *
二た月ばかり在りて、「はや快くなりぬ」とて、再び宮づかへに出けり。
銀彌がよろこび、言斗(いふばか)りもなくて、前にかわらで[やぶちゃん注:ママ。]睦みける。
每(つね)に語らひけるは、
「かゝる宮づかへの道は、人に惡(にく)まれ、そねまるゝこともおほければ、心にくるしきことのみたへせぬは、常のならひなるに、吾(わが)二人はよき友を得て實の姉妹のごとくなり。たらわぬことあれば、互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。])に心を付(つけ)て賴母(たのも)しく宮づかへするに、誰より指さす人もなく、假令(たとひ)人ありとも二人一體の如く睦むものから、おのづとたよりよく、心も安く侍るこそ、實(まこと)にうれしきことにぞ。」
など語り合ひて、つかへ[やぶちゃん注:「仕へ」。]のことも語り合せてはからへば、退(しりぞ)きて休むときも打(うち)つれて、片時も離るゝことなくて暮らしける。
夜の間といへども、一つの衾(ふすま)の内に臥すこともあり、かわやに行(ゆく)とても打連(うちつれ)て行(ゆき)けり。
*
とかくすること、又、半年斗り有りてけるが、秋の末つかたに成(なり)ける。
此日もともに君のみまへをしぞきて[やぶちゃん注:ママ。「しりぞきて(退きて)」の脱字と採る。]、同じ伏し戶に入けるが、夜深(よふけ)て、常の如く呼連(よびつ)れて、燈火(ともしび)てらして、かわやに行ける。
金彌は、まづ先に入(いり)てけり。
いかにかしけん、程經(ふ)れども、出でこず。
あまりに待ちこふじたれば[やぶちゃん注:ママ。「待ち困(こう)じたれば」。待ち兼ねたので。]、何の心もなく、戶のすきよりうかゞひたれば、こはいかに、金浦がおもては常ながら、其色、朱の如く、目を見張り、齒をかみ合せて、左右の手に火の丸(まろ)がせを、二つ迄持(もち)て、手玉にとるよふにして居(ゐ)にけり。火の玉の光り、かわやの内にみちて、朱の如きおもてに、明らかに照り合(あひ)たる樣、いかなる「物のけ」なるやらん、二目ともみるべき樣(やう)ぞなかりける。
[やぶちゃん注:「丸(まろ)がせ」「まろ」は推定読み。「丸める」の意の動詞「丸かす・円かす」の名詞形で「丸くしたもの」の意。]
銀彌は心おち付たるさがなりければ、日頃、かく迄に睦みたる金禰が、假令(たとひ)怪物なりとも、あから樣に人に告げて、此迄(これまで)の睦みを無にせんこと、得たへず思ふものから、
『たゞしらず顏にて濟(すま)さんにしくことあらじ。』
と、おそろしさをたへ忍びて、再びそともに立(たち)て待けり。
しばしありて金彌は、何のかはりたる氣色(けしき)もなく、かわやより出(いで)けり。
にこやかにものいひて、
「いつになく待せつること、面(おも)なく侍る[やぶちゃん注:恥ずかしく存ずる。]。」
など、なぐさめて、かわりて燈火を持(もち)てそともに立(たち)けり。
銀彌もおそろしといふ樣は色にも出(いだ)さで、あとに入(いり)て用たしつれども、こゝろにもあらで[やぶちゃん注:内心は気が進まぬままに。]、打連れて、又、元の臥戶に入けり。つらく思ふに、
『かゝるあやしき人と此迄(これまで)深く睦みたれば、今更に立別(たちわか)れて別々に伏さんといふも言葉なし。さりとて、かくおそろしき人と、此迄の如く一つ衾(ふすま)に伏さんこと、いかでかこらへ果(はつ)べき。いかなる因果の報ひ來(きたり)て、口にも出し難く、人にも斗(はか)り難き心ぐるしきこととは成行(なりゆく)ことぞ。』
と、淚のしのびしのびに流るゝを、おしかくしおしかくしする程に、其夜はいねもやらねど、心よくいねたる樣(さま)するぞ、又なく心ぐるしかりける。
[やぶちゃん注:「いかでかこらへ果(はつ)べき」どうして恐ろしさを我慢し通すことが出来ようか、いや出来ない。
「いかなる因果の報ひ來(きたり)て」一体、如何なる因果の報いが私を襲いたるものか、と。やや表現に足らぬところがあるが、それが逆に銀弥の恐怖感を効果的に示している。]
折々に目を開きて見るに、金彌は常よりも心よげに眠りて、少しも常にかわりたる樣(さま)もなし。
*
夜も明けければ、又、打つれて宮づかへに出けり。
銀彌は心の中(うち)にちゞの思ひあれば、
『うき立(たつ)こともなきをさとられじ。』
と、立居(たちゐ)も常より心よげにふるまひて、又、夜に入て、ともにかわやに行たれども、こたびはうかゞひもやらず、伏戶に入てはいねもやらず、かくすること、日數へにければ、つかれはてゝ、顏の色・飮食とても、常ならずなりにけり。
[やぶちゃん注:「うき立つこともなき」「浮き立つ」は、「気持ちが落ち着かずそわそわする」の意があるが、それではあとの否定の「なき」が合わない。されば、ここは「うきうきする・気が晴れる」の意であろう。]
金彌はおどろきたる樣にて、
「いかにせまし。」
と、いろいろに心をつくし、藥をあたへ、神彿をいのるなど、いとまめやかなり。
銀彌は、いよいよおそろしく、
『少しなりとも傍(そば)を離れたらんには、心も少しおち居(ゐ)ん。』
と思へども、殊に心を盡して付添ひ居(を)れば、これも叶わず、おひおひ、おもひの病(やまひ)とはなりぬ。
[やぶちゃん注:「おもひの病」気鬱の病い。]
金禰、其樣を見て、近くより、
「病の困(くる)しみ玉ふ樣(さま)は、物おもひによるとこそ見侍る。君は此程何(いか)なることか見玉へる事はなきや。」
ととふにぞ、
『扨は。』
とは思ひぬれども、色にも出(いだ)さず、
「それは何事にや、心に覺へなし。」
とこたへければ、
「さあらんには。」
とて、やみけり。
[やぶちゃん注:「扨は」「さては、私が彼女の変容を垣間見たことを薄々感ずいたものか?」の意。
「さあらんには」「それなら、いいのだけれど」。]
銀彌が心に思ふは、
『先きの夜のことは、もしや、吾が目の迷ひにて、おそろしきことを見つることもや、と思ひ迷ひたれども、今、かの人がとふ樣(さま)を見るに、覺(おぼえ)あることとおもわれて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ物の怪に疑ひなければ、少しもはやく、病(やまひ)を言立(いひた)て、父母がり、歸るにしかず。』
と一定してけり。
されども、
『此事、心に誓ひて、他人にはもらさじ。』
と思ひければ、病の趣き、ふみに認(したた)め、父母が許にいゝやりけり。
*
かくする程に、金彌は、いよいよ、夜の目もいねで、みとりなどするに、又、再び、先の如く、とひけり。
[やぶちゃん注:「夜の目もいねで」夜も寝ずに。]
されども、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。]に答へければ、それなりにやみけり。
其後は日の内に幾度となくとふ樣(さま)、顏ざし、少し其時斗(ばかり)は、かわるよふ[やぶちゃん注:「かわる」「よふ」の孰れもママ。]にて、もはや、こらへはつべくもあらず覺へけり。
病は、いよいよ重くなるに、とふことはいよいよしげくなるにぞ、はては生ける心もなくて、「物の怪」に取らわれ[やぶちゃん注:ママ。]たるにひとしく覺ゆるにぞ、
『今は命も限り。』
とこそ、覺(おぼえ)ける。
*
父母、病(やまひ)の趣、聞(きく)とひとしく、醫師を送り、祝驗者(すげんざ[やぶちゃん注:「すげん」は底本のルビ。修験者。])を乞ひ、いろいろとする程に、先づ、家にては護摩を焚ひて[やぶちゃん注:ママ。]神に祈るに、祝驗(すげん)が、いふ。
「これは物の怪の付たるに疑ひなし、甚(はなはだ)危し。此日の夕暮時迄を免れたらば、又、する法もあるべけれども、それ迄の所、心元なし。早々、呼取(よびと)りて吾が傍(かた)に置(おき)玉へ。」
[やぶちゃん注:「此日」「今日」の意で採る。指定した時日を伏せた表現ともとれるが、それでは怪談としての切迫感が激しく減衰する。]
といふにぞ、父母、大(おほい)におどろき、先(まづ)、銀彌がおばなる方に、人、走らせて呼向(よびむか)へ、右の趣を説き示しければ、おばも大におどろき、
「これより行べし。」
とて、駕籠、つらせて、走り出けり。
おばが夫は武士なりければ、これも賴みてやりけり。
みち程も遠からねば、其日の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時頃。]斗りに行付(ゆきつき)て、直(ただち)に此よしを太守に告(つげ)て、駕籠に打乘(うちの)せければ、金彌、傍(かたはら)よりまめやかに手傳ひて、
「風に當り玉ひそ、駕籠にゆられ玉ひそ。」
など心付(こころづけ)て、又、別れのかなしさをかたりあひて泣(なく)など、實(まこと)に姉妹の如く、殘る方(かた)もあらざりけり。
[やぶちゃん注:「殘る方(かた)もあらざりけり」名残を惜しむという程度を越えて、激しく別れの悲しみにあるの意か。或いは、彼女はあたかも心は太守の屋敷に残らず、銀弥とともに一緒に行かんとせんばかりであったことを指すか。]
扨、太守が門を出るとひとしく、祝驗(すげん)の言葉、「今日の夕暮を大切とする」こと迄を語り聞(きき)けけるに、銀彌もおどろきて、
「さては。さありけり。心に誓ひて、他人にはもらさじと思ひけれども、かく神の告(つげ)ありて、祝驗が言葉、明らかなれば、つゝむによしなし、先の姉妹と誓ひて睦みたる金彌こそ「物の怪」なり、其譯はしかじかなり。」
と告げれば、
「さあらんには、われわれ夫婦、附添(つきそひ)て家に歸るに、何の子細かあらん。おち居てよ[やぶちゃん注:安心して落ち着きなされ。]。」
といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、道を早めて行(ゆく)程に、早、申の刻下り[やぶちゃん注:午後五時半前後。]になりにけり。
其頃は空も曇りて、時よりは早く薄ぐらくなりて、折節、人ざとの家居もまばら成(なる)所にぞ來にけり。
「最早、家にも近ければ。」
とて、少し心おち付(つき)たりしが、俄に駕籠の内に、玉消(たまき)ゆる斗(ばかり)の聲なしければ、
「こはいかに。」
と駕籠のたれ、引上げて見るに、銀彌は仰(あを)のけに反(そり)かへりたり。
其おもてを見れば、面(おもて)の皮、一重(ひとへ)むきとりて、目鼻も分たずなりて、息絶へて在(あり)けり。
夫婦のものは、おどろきて、
「こは、口惜し。」
と悔めども、甲斐なく、其儘、家に持行(もちゆき)て、父母にも、祝驗(すげん)にも、途中の話、且、「物の怪」の業(しわざ)なるを語りて、直(ただち)に太守に、其よしを訟(うつた)へければ、
「ふしぎのことなり。」
とて、金彌を尋ね玉ふに、行衞なし。
其(それ)、又、母が許(もと)に問ひ玉ふに、
「先に病にて家に下(さが)りてより、二月斗りにして死(しし)て、其後(そののち)、再び、宮づかへせしこと、絶(たえ)てなし。」
と答へければ、
「いよいよ、ふしぎの妖怪ぞ。」
と、人々、おそれあへり。
* *
金彌が病も妖怪の取殺(とりころ)せしにや、又は、金彌が靈氣、妖怪をなせしにや、其事は、しりがたし、となん。
――――*――――
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