反古のうらがき 卷之三 くわを盜みし人の事
○くわを盜みし人の事
[やぶちゃん注:例によって改行を施し、注を中に入れ込んだ。]
しる人のかたりしは、高田といへる所の西に諏訪明神の古社ありて、其あたりを「すわ村」[やぶちゃん注:ママ。]となんいゝける[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「高田」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『今の高田馬場駅附近から早稲田にかけての地』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の「諏訪明神の古社」、現在の新宿諏訪神社をポイントして示した。高田馬場駅周辺(馬場がこの辺りにあった)は切絵図を見ても畑地である。
「すわ村」「諏訪村」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、この表記は正しくなく、『諏訪谷村』であるとある。【2018年9月24日追記】経になって、いつも情報や誤認を指摘して下さるT氏よりメールが来たり、この 朝倉氏の「諏訪村」補註には違和感を感ずるとされ、「新編武藏風土記稿」の「卷之十一」の「豊島郡之三」にある以下(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)を見るに、『幕府の行政的には諏訪村』であって、『「土俗私ニ諏訪谷村ト唱フルハ谷々多キ故ナリト云」と記載されてい』るので、ここは『「市中では『諏訪谷村』と呼ぶ」とするのが』註として『親切では?』とあった。私も昨日、ここが引っ掛かって旧の正式地名が諏訪谷村であるとする記載を探してみたものの、見当たらず、旧行政名でも「諏訪」であったから、違和感を持っていた。T氏の調査でもやもやが晴れた。T氏に感謝申し上げるものである。]
秋のころになれば、おぎ・はぎ、いろいろの草花ある中に、きりぎりす、くつわ蟲などすだきて、鳴く音(ね)おもしろし。
ある日、
「くさびら、ひらわん。」
とて、此あたりに行けるに、茄子の花、豆の花のある畑の内を、ひたばしりに走る人あり。
[やぶちゃん注:「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)。]
北より南に走る、十たん斗りおくれて、所のものども、聲々に、
「盜人々々。」
とよばはるにぞ、あなたこなたの畑を作るものども、かけ集り、
「あますまじ。」
とおふ程に、其人は、又、西より東へ走る。行先(ゆくさき)ごとに、人ありて、のがるべきよふも見えずなりければ、二(ふ)たつべ斗りの畑のほりきりを、あなたへ飛越(とびこえ)んとして、
「どう。」
と、おちけり。
[やぶちゃん注:「十たん」「十反」。距離の単位で一反は六間(約十一メートル)であるから、百十メートルほど。
「二たつべ」国立国会図書館版では『二タつべ』とある。「つべ」は不詳。「ほりきり」は「堀切」であるからそれを仮に「二坪(ふたつぼ)」の訛りとするなら、一坪は一辺が六尺(一間)の正方形が単位であるから、幅三メートル六十四センチメートル弱か。]
こし骨をや打けん、しばしおきもやらずある内に、人々、走りよりて、からめてけり。
やがて、きる物は、はぎとりて、六尺斗りの竹に、左右の手を引のばして、繩もて結(ゆ)ひ付(つけ)、きる物は、帶もてからげて、首にかけ、打倒しては、おき上らせ、仰のけに引倒しては、おき上らせ、しばしありて、
「所のおきて、すみたり。」
とて、おのおの、おのが畑にぞ退(しりぞ)きける。
[やぶちゃん注:後に出るように「所のおきて」(掟)、村の私刑(リンチ)である。]
けしからぬ事なれば、殘り留(とどま)りし人に問ふに、
「これは、此所(ここ)にて畑作る人のくわ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「鍬(くは)」。]を盜みてさらんとせしが、主(あるじ)に見付られたれば、以後の見せしめに、かくするが、所の法なり。凡(およそ)畑の物を盜むものは、茄子・瓜の差別なく、皆、此法に行ふ。」
とぞ語りける。
[やぶちゃん注:「けしからぬ事」桃野は理由が判らなかったから(彼は恐らくは鍬の窃盗に失敗しており、何も持っていないのである)、村人が寄って集(たか)って、一人の無辜の者に不当に暴行を加えているようにしか見えなかったのである。]
扨、盜人が樣(さま)を見るに、乞食・非人などの樣にもあらず、いたく打(うち)たゝかれたれば、今は起きも上(あが)らで、臥居(ふしゐ)たり。
「さても、此後(このあと)はいかにするぞ。」
ととへば、
「最早、ことすみたれども、此所を離るゝまでは、人のときゆるすことをゆるさず、所を離れて、恥をさらすよふ[やぶちゃん注:ママ。]にするが法なり。」
といふにぞ、此所にて、繩ときゆるべんも、いかゞなれば、
「そは、さることなりけるか。」
とて、其儘に其所を去りければ、其後、いづち行(ゆき)て助かりしか、しらざりけり。
一年餘りありて、さる方(かた)に行(ゆく)とて、刀のつばを作る家の前へを過(よぎ)りしが、珍らしきわざなれば、立(たち)よりて見けるに、いろいろの形ちしたるあら鐡(がね)に、好みの繪もよふ[やぶちゃん注:ママ。「繪模樣(ゑもやう)」。]を彫る樣(さま)、おもしろかりけり。
ふと、其人を見るに、見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]あるよふ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]にて、それとも、思ひ出(いで)ず打過(うちす)ぎける。
それが心にかゝりて、家にかへりても幾度か、思ひかへし、思ひかへしするに、とかくに覺(おも)ひ出でで、やみけり。
或日、家にありて、下部(しもべ)におゝせて[やぶちゃん注:ママ。]、山の芋をほらせしに、思ふよふにも、ほり得で、ほりなやみけり。
『これは、くわのよからぬによるならん。』
と思ふに、
『野山の人が用ひてつかふすき[やぶちゃん注:「鋤」。]・くわは、白銀の如く光りかゞやきて、いとほりよげに見ゆるなり。先にみし「つば師」が、いろいろの形(かた)ちに作りたるあら鐡(がね)の鐡(かね)の地のまゝに、錐(きり)にて打(うち)ひらめたるが、よく似たり。』
と思ふにぞ、さても、日頃、思ひかへし、思ひかへしして、思ひ出(いで)ざりし「つば師」の面(おもて)を思ひ出(い)で、
『正しく、諏訪村にて取らへられしくわ盜人は、其人なり。さるにても、何故に盜みはなしつる。』
と思ふに、
『かの細鍬(ほそくは)の鐡(てつ)の、鍔(つば)につくりよげに見ゆるより、盜みとりて鍔につくらんと思ひしなるべし。』
と、思ひあたりてける、となん、語りける。
[やぶちゃん注:「錐」小さな鍔の細かな細工なので「きり」なのであろう。平たく削るための彫刻刀のような形状をした「壺錐」のようなものか(サイト「初心者のためのDIY工具〜大工道具、電動道具、園芸道具の紹介」のこちらを参照されたい)。]