反古のうらがき 卷之一 木食
○木食
明石藩何某、名は失念、阿岐の眠山といへる畫人と交り深かゝりけるが、武を好みて、常に長刀を挾めり。眠山は畫を以て名をなせり。
「吾も一事をもて名を舉(あげ)ん」
とて、武事をいよいよ勤(つとめ)けり。
三十斗りの頃、瘡毒(さうどく)を受(うけ)て、身節(みのふし)いたみ、武事を講ずることも自由ならず。
「口惜き事かな。何とぞ名醫を求め、强き療治を加へて、元のからだとなるべし。」
とて、醫に尋ねしに、
「子が瘡、容易の毒ならず。所謂『骨がらみ』なれば、多くは、療用、效、あるまじ。やむなくば、一つの法あり。これも容易のことにあらず。」
といへり。
其法を問ふに、
「他なし。一切、人間の飮食を絶(ぜつ)し、火食をせずありなば、瘡毒はさる能はずといへども、又、毒の惱(なや)みはなかるべし。是より外、術(じゆつ)なし。かくして一年もあらば、筋骨、昔にかへり、武事にもさせる妨(さまたげ)なかるべし。」
といひけり。
何某、
「いとやすき程の事よ。」
とて、其日より、木食(もくじき)となり、常に好める酒などは手にも取らず、蕎麥(そば)の粉(こ)を水にねりて食し、時の菓(くだもの)は何にても、貯へらるゝ程は貯へ置(おき)て食しけり。
醫師の言(げん)、空しからず、果して瘡毒、大(おほい)に減じて、常の如くなりけり。
出家などの木食といふは、少づつの物、たふべて、事すむなれども、これは武人の木食なれば、左(さ)に準ずること、能はず。大きなる柿一度に十二、三づゝ、栗五合斗りづゝなり。其外、冬の寒きころも、蜜柑・柚子など、いくつともなく食しけり。後には松の葉を食し覺へてたべけるが、
「江戶の松は食ふにあたらず。」
とて、鹽燒などがたく松を見れば、必(かならず)一握(ひとにぎり)づゝ食ひて、其中に苦(にが)み少なきを撰(えら)みて、買置(かひおき)て食ひけり。
後に、「醫のゆるし」とて、少しづゝ麥飯(むぎめし)を食し、少しづゝは魚肉も用ひ、酒も少々は用ひ、一日の内、一度は、平人の食をなし、
「多く力を用ひて武事をなせば害なし。」
といひしが、再び瘡毒起り、前の狀によく似たる樣に見えければ、また大におそれて、これより再び、麥飯も食せず、一味(いちみ)に木食のみにしてありければ、又、瘡毒も漸く減じて、快よく覺(おぼえ)ける。
かかること、十年斗りなりしが、一年(あるとし)、傷寒(しやうかん)の病(やまひ)はやりける頃、其病(やまひ)にかゝり、醫師に下劑を求めて飮(のみ)けるに、木食の化せざる物を、多く下痢して、死しけり。
予叔(よがをぢ)醉雪は、よく知れる人なりしよし。
所謂、「仙家、下劑を忌む」といふも、これ等と同じ理(ことわり)にや。
[やぶちゃん注:「阿岐の眠山といへる畫人」不詳。
「長刀」「挾めり」とくるのだから、これは「なぎなた」と読んでおく。
「瘡毒」梅毒。
「身節(みのふし)」推定訓。
「骨がらみ」この場合は、単に所見上でのリンパ節腫脹が太く起きかったり、皮膚の潰瘍の根が深いことなどを言っているものか。実際の骨に腫瘤が出来ている(良性の第三期梅毒に見られる症状)可能性、もっと深刻に骨髄が冒されている可能性もあるかも知れない。梅毒には潜伏期(但し、第二期の後で、数年から数十年に及ぶこともある)があるが、まさにこの何某が一時期、優位な期間に亙って軽快しているのは、木食療法の効(かい)あってのことではなく、実はたまたまその潜伏期に当っていたに過ぎなかったと考えると、非常に腑に落ちるのである。
「他なし」他(ほか)でもない、特殊な治療ではなく、貴殿もよく知っている通常の人の食べる飲食物を基本的に断つこと、また、火を用いて処理した対象物を食さない、所謂、「木食(もくじき)」をすることである。
「たふべて」「食(たふ)べて」。
「松の葉を食し覺へて」松の葉を食べることを学んで。松の葉は古代中国から、仙人の食物・長寿の秘薬として知られた。
「鹽燒などがたく松」江戸の辺縁の、製塩業を生業(なりわい)とする百姓が、塩水を煮込むのに用いるその田舎の地の松の葉。私のする所では、横浜の金沢八景にある平潟湾沿岸では鎌倉時代から明治時代にかけて製塩が行われていた。
「醫のゆるし」医者の許諾。
「多く力を用ひて武事をなせば害なし」食べた分だけ、そのエネルギを十二分に消耗するだけの武道鍛錬を行えば、平常食の害はない。
「一味(いちみ)に」一筋に。食物なので「味」としたもの。
「傷寒の病」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指す、とされる。
「醉雪」「魂東天に歸る」の私の注を参照。
「仙家、下劑を忌む」私は知らぬが、そもそも薬物を以ってして消化器内部を苛烈に刺激して排泄させる薬物は、仙人なんぞになる積りはなくとも、身体にいい感じは全くないもんね。]