反古のうらがき 卷之一 疱瘡
○疱瘡
伊勢平八といへる人は伊勢貞丈が別家なり。騎射をよくし、長歌をさへよく謠ふ。闊達なる人なりけり。
若年の頃より、酒を好み、肉食をすること佗(ほか)にこへて、「しやも」といへる雞(にはとり)を食ふに、一羽を兄弟二人にて盡すといへり。其弟松軒子は予が友なり。
一日(あるひ)、訪(おとな)ひまいらせしに、折しも、
「『しやも』一羽得たり。」
とて、予にも、もてなし玉ひけり。
其人、面(おも)て白く、片目なり。おもき「もがさ」の目に入(いり)たるといふ。されども「こゝぞ」といふ、あともなし。たゞ一面に鮫膚(さめはだ)なる人の如し。若かりし頃はさしも美しかりつらんと思ふは、今といへども、しりつべきほどなれば、絶(たえ)て見苦しき樣(さま)はなし。
其人、十八歳のとし、春の初めより、おもき疱瘡(もがさ)をやみて、面(おもて)より手足迄、唯一面にはれ上り、一時につぶれては、かはき、又、其(その)あいだより、膿汁(うみしる)出で、其上々々とかたまりて、こゝぞ膚といふ處は少しもなく、
「かちかち。」
と昔する程にかたくなりて、日數(ひかず)、經(へ)にけり。
初の程は、飮食も通らず、心もおぼろげにありて、さ迄(まで)くるしとも覺へずありしが、廿日斗りありて、心はさだかになりたり。
扨、いかにせんと思ふに、手も足も動かさずありける儘にかたまりて、面(おも)ては假面(めん[やぶちゃん注:底本の二字へのルビ。])をかぶりし如く、いづくよりか息の通ふなり。
二便(にべん)はいかにしけるかと思ふに、人の、布(ぬの)もて取る樣(やう)なり。
飮食はいかにと思ふに、耳のあたりより、なまあたゝかなるもの、頰のあたりをめぐりて口にいたる、これ、粥、成るべし。扨、舌もて、口のあたりを嘗(な)めこゝろみるに、なめらかふ[やぶちゃん注:ママ。]して、又、堅き物あり。其あたりに粥の付たると覺しきを、すゝりてありたる也。よくよく思ふに、痂(かさぶた)の間より息のかよへる處ありて、それより粥をつぎ込(こむ)也。自(おのづ)から是をしりたる後は、一口も食ふにたへざれども、又、おひおひに飢を覺ゆるにぞ、是非なく、これを食ふ也。手を出(いだ)して、かきおとさんとするに、左右に人ありてかたくおさへて、これを許さず、怒りにたへずといへども、又、如何ともすべきよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]なく、幾日となく、かくてありけり。
五十日斗り經ぬれども、かわる[やぶちゃん注:ママ。]ことなく、唯、足のあたり、少々づゝ痂(かさ)ぶたの落(おつ)るよふに覺ゆれども、いまだ自からさぐり見ることを許さず。手もやゝ指のはたらくことあれども、いまだ試(こゝろみる)こと、なし。
折節、春も末になりて、暖かなる日は、惣身、かゆく覺へて堪がたし。且、あつくるしきこと、いわん[やぶちゃん注:ママ。]方なし。一日(あるひ)、つよく南風の吹(ふき)たれば、おどり上る斗りにかゆく覺へて、身をもがくを、人々は、
「苦痛やある。」
とて、苦(にが)き藥など、つぎ込(こむ)に、怒りて、吹出(ふきいだ)すといへども、呼吸につれて入(いる)る時は飮(のま)ざること能はず。
かくありてより、渴(かはき)を覺へ、飢(うゑ)を苦しむこと、廿日斗り、手足も力(ちから)付(つき)て覺ゆれども、いよいよ、人多く守りてふせぐものから、
『かくてはせん方なし。面(おも)ての痂(かさぶた)かき落したらんには、さこそ快よからめ。いかに疵付(きずつき)たればとて、男子漢【おとこ[やぶちゃん注:ママ。]のみにて。】の何をか妨げん。』
と、獨り、自から思ふといへども、母君の、いたく愛(いつく)しみて守り玉ふを、いかにともすること能はず。
其頃より、耳の塞がり、少々づゝ明(あ)きたるにや、少し人の語る聲聞へて、
「よく寐(ね)玉ふ也(や)、ちと、やすみ候へ。」
などいふ聲の聞ゆるにぞ、忽ち、一つの謀(はか)りごとをぞ思ひ出ける。
『吾、かく心地もよく、手足も力付て何の苦しむ處もなきに、かくして飢に苦しみ、浮きを忍ぶは益なきことぞ。是をしらせんとするによりて、人々の「かきむしるぞ」と心得て守るなるべし。いでいで、寐たるふりして、人を懈(おこ)たらしめん。』
と思ひ付(つき)、一日(あるひ)、朝より少しも身を動かさず、二時(ふたとき)斗りありければ、案の如く、人々、おこたりて、側(かたはら)を去りたる樣子なり。
『此時こそ。』
と思ひて、かの耳のあたりなる飮食を入(いる)る穴に指さし入(いれ)て、
「めりめり。」
とかき落しければ、面(おもて)の大さなる痂(かさぶた)、落けり。
折しも、櫻は、みな、散り果(はて)て、八重山吹のさかりなるに、少し木梢(こづゑ)々々は靑葉も生ひ出で、南風のそよそよと吹けるが、おもてに涼しく當りたる。
其心地よきこと、いわんかたなし[やぶちゃん注:ママ。]。
吾を忘れて、
「あな、こゝろよや。」
と叫びけるに、人々、おどろきて、かけ來り見るに、おもては赤はだなるに、多く、血さへ出で、いづくを目鼻とも見分け難きが、大口(おほぐち)明(あけ)て、
「からから。」
と笑ふ樣(さま)、おそろしくぞ見へける。
母君は殊に驚き玉ひ、淚と共に、
「心地は如何にぞ。」
と問(とひ)玉ふに、
「いや、心地はさせることもなし。先(まづ)よき酒、二、三合、冷やかなる儘に、たび玉へ。いたく渴(かつ)して候へば。」
といへば、
「酒は醫師の禁物なり。素湯(さゆ)など、もて。」
といひて召しければ、やがて來にけり。
つゞけ樣に、六、七盃、飮(のみ)けるは、快よくぞありける。
それよりは飮食も思ふ樣にたふべ、日々に心地も健(すこ)やかにぞ成(なり)ける。
唯、一眼はいつか星(ほし)入(いり)て、絶へて[やぶちゃん注:ママ。]見ることなくぞありける。
面の痂(かさぶた)をさへかき落したれば、手足もおひおひかき落し、さゝ湯をさへあびたれば、常の人の心地となり、不日(ふじつ)に全快とはなりけり。
かゝる疱瘡も又とあるべきならず。
又、かゝる苦しきことにあひける人も、又とはあるまじ、とかたり玉ひける也。
高千石、番町おひ坂上、此人兄弟とも、今は、なし。
[やぶちゃん注:リアリズムを出すために改行を多用した。私は「反古のうらがき」の中の真の怪奇談の頂点に、この実話を置きたい気がしている。これはまさに凄絶な実体験談、疱瘡の瘡蓋(かさぶた)が全身に広がり、顔面部では全体に重層して蠔山(ごうざん:斧足(二枚貝)類の牡蠣(カキ)が海中で多数集合して高い山の様な塊りを形成したものを俗にこう呼ぶ)の如くなったその予後経過の元患者自身が冷静に語る稀有の恐るべき記録なのである。
「疱瘡」は「はうそう(ほうそう)」で天然痘のこと。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注を参照されたい。
「伊勢平八」底本の朝倉治彦氏の注に『伊勢角之助真助(『寛政重修諸家譜』巻五〇二』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、最後の一文から、それよりも前に亡くなっているものと思われる。この兄平八が主人公である。
「伊勢貞丈」(いせさだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)は江戸中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実の研究家。ウィキの「伊勢貞丈」によれば、『江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男』。『有職読み』(中世の歌学で歌人の名を音で読むことに始まった尊敬の訓読法)『でテイジョウと呼ばれることもある』。『伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり』、『礼法に精通し、江戸幕府』三『代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された』。享保一一(一七二六)年に実兄が十三歳で『夭折して伊勢氏は一旦』、『断絶したが、弟である貞丈が』十『歳で再興』、三百『石を賜り』、『寄合に加えられた。この時』には十二『歳と年齢を詐称している』。延享二(一七四五)年には二十八歳で『御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく』、『武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった』。天明四(一七八四)年三月に『致仕し』、『麻布に隠居したが』二ヶ月後に享年六十七で亡くなった。『有職故実に関する著書を数多く残し』ている。私も数冊を所持する。
「しやも」軍鶏(しゃも)。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 雞(にはとり)(ニワトリ)」の注の「暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】」を見られたい。
「其弟松軒子」底本の朝倉治彦氏の注に『伊勢政吉貞友。環翠堂の同門か』とある。環翠堂とは既出既注の桃野の祖父多賀谷向陵(明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)が住まいの四谷佐門町で経営した塾のこと。
「たゞ一面に鮫膚(さめはだ)なる人の如し」これは後を読めば分かる通り、全身に膿疱を生じ、全身総てが鮫肌のような人という意味である。
「若かりし頃はさしも美しかりつらんと思ふは、今といへども、しりつべきほどなれば、絶(たえ)て見苦しき樣(さま)はなし」彼は大変な美男子であったのであり、現在もその面影があるのである。
「二便」大便と小便。
「なめらかふして、又、堅き物あり」「滑らかうして」は「滑らかな感じであって」同時に硬いというのであるから、これは歯列のことであろうか。
「よくよく思ふに、痂(かさぶた)の間より息のかよへる處ありて、それより粥をつぎ込(こむ)也。自(おのづ)から是をしりたる後は、一口も食ふにたへざれども、又、おひおひに飢を覺ゆるにぞ、是非なく、これを食ふ也」粥であっても、それが固まってそこを塞いでしまえば、万一、そこが唯一の「息のかよへる」経路であったとすれば、窒息してしまうことが平八には認識されたからである。しかし、それを介護者に伝達する方法がないので、平八はそこから注ぎ入れた粥を食わないことで、それを介護者に伝えようしたものであろう。
「手を出(いだ)して、かきおとさんとする」言わずもがな、重層する瘡蓋(かさぶた)を、である。前文から推すならば、闇雲でやけっぱちな行動なのではなく(痒みはこの次の段で出るから、掻痒感に耐えられなかったからでもないと思われる)、寧ろ、平八は、そうしたら或いは呼吸出来る経路が別にも出来るかも知れない、また、粥を投ずるに相応しい、呼吸用とは別な、口腔内へ比較的安全に食物を投ずることの出来るルートを形成することも可能と冷静に考えたのだと私は読む。
「吾、かく心地もよく、手足も力付て何の苦しむ處もなきに、かくして飢に苦しみ、浮きを忍ぶは益なきことぞ。是をしらせんとするによりて、人々の「かきむしるぞ」と心得て守るなるべし。いでいで、寐たるふりして、人を懈(おこ)たらしめん」平八は言葉を発して自分の思いを介護者達に伝えることが出来ないのである。さればこの思惟は、
――私が実は、かくも見た目とは異なり、疱瘡の病いは快方に向かって、寧ろ、心地(まさに心理的精神的なそれ)はよいくらいで、手足を動かし得る力もついて参り、病いのために感ずる苦しみはもう全くなくなっているのにも拘わらず、このように見当違いの方法で粥を食わそうとしている結果として、飢えに苦しみ、人々に思うところの意思を疎通することが全く出来ない憂えを、かくも耐え続けねばならないということは、全く以って百害あって一利の益もないことである。
――しかし、そのことを介護者らに伝えようとすると、彼らは、「それ! また、痒いので体を無闇矢鱈に掻き毟るぞ! 瘡蓋がひどく剥げ落ちて大変なことになる!」と、私の真意を見抜くことが出来ず、見当違いな方向で、私を抑制するのであろう(現状況下では、その誤認と行動は、それはそれで、理解は出来る)。
――よし! そうだ! 寝たふりをして、彼ら介護者を残らず、油断させることにしよう!
というのであろう。
「二時(ふたとき)」四時間。
「あな、こゝろよや」ここで初めて、病床の平八は肉声を発する。しかも「折しも」、桜は、「みな、散り果」て「て、八重山吹」(やえやまぶき)の盛り」であって、「少し」ばかりだが、「木梢」(こづえ)木梢には既に青葉「も」芽吹き「出で」ていて、「南風」(はえのかぜ)が「そよそよと吹」いていたのが、顔に「涼しく」あたり、その「心地よきこと」、これ言わん「かたな」く、思わず「吾を忘れて」叫んだ、というシークエンスは実に美事なネオ・リアリスモの映像と言える。
「たふべ」「食ふべ」。
「星(ほし)」現行では狭義の疾患としては「フリクテン(phlyctena)」或いは、俗に「星目(ほしめ)」と呼ぶもので、目の結膜や角膜に粟粒程の大きさの、灰白色の星のような結節斑点が現れる疾患。アレルギー反応が原因と考えられている。症状は充血・まぶしさ・流涙などであるが、角膜に発生したものは一般に症状が重く、白濁を残し、視力障害を齎すことが多い。所謂、腺病質の小児や思春期の女性に多い(ここは平凡社「マイペディア」に拠った)。
「さゝ湯」「酒湯・笹湯」と書き、江戸時代、疱瘡 が治った後に子供に浴びさせた、酒を混ぜた湯。笹の葉を湯に浸して振りかけたともされる。「さかゆ」とも呼ぶ。
「不日」日数をあまり経ないこと。すぐであること。副詞的にも用いる。
「番町おひ坂上」切絵図その他を見たが、「おひ坂上」は不詳。因みに、「尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図」を見ると、番町三年坂を登って左に曲がった最初の路地の左の角地に『伊勢平八郎』の名を見出せる。但し、「三年坂」を「おひ坂」と読んだとする記述は見当たらず、この切絵図の伊勢平八郎と本話の伊勢平八が同一人物であるかどうかも不明ではある。]
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