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2018/09/18

柳田國男 うつぼ舟の王女 (全)  附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの上記「昔話と文學」の当該の「うつぼ舟の王女」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。太字「うけび」(誓約(うけひ(うけい))で、元来は、ある条件を設定してその成否によって願いが叶うかどうか(吉凶・運命)を占うことを指す。本文では呪言(じゅげん:まじないのことば)の意)は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある』(中略)。『書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無い』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 禁欲的に注を施した。【2018年9月18日 藪野直史】]

 

  うつぼ舟の王女

      ――ベルヴォントとヷステラ――

 

 昔々、ベルヴォントといふ貧乏で懶け者[やぶちゃん注:「なまけもの」。]で、見つともない顏をした靑年があった。母にいひ付けられて薪を刈りに行く路で、野原に三人の子供が石を枕にして、暑い日に照らされて睡つて居るのを見た。可哀さうに思つて樹の枝を伐って來て、きれいな小屋根を掛けて日蔭を作つて遣つたら、子供たちはやがて目を覺まして大そう其親切を悦び、「お前の願ひ事は何でも叶ふやうに」と言つてくれた。三人は魔女の兒であつた。それから森に入つて、木を伐つていると草臥れて[やぶちゃん注:「くたびれて」。]しまつたので、あゝあゝこの薪の束が馬になつて、私を乘せて行つてくれるといゝがなと、いふ口の下から薪の束があるき出した。さうしてベルヴォントを乘せてとことこと、町の方へ還つて來た。

 王樣の娘のヷステラが、御城の高い窓から顏を出して、薪に乘つて來るこの若者を見て笑つた。まだ生れて一度も笑つたことの無いヷステラが高笑いをした。するとベルヴォントは腹を立てて、「お姫樣孕め[やぶちゃん注:「はらめ」。]、わしの子を生め」と謂つたところが、是も忽ちその通りになつた。父王は驚いてどうしようかと思つて居るうちに、月滿ちて黃金の林檎のような美しい二人の男の兒が生れた。

 そこで家來たちと相談して、その兒が七つになつた年に、國中の男を集めて父親を見つけさせようとした。第一日には大名小名を集めて宴會を開いたが何のことも無い。二日目には町の重だち[やぶちゃん注:「おもだち」。「重立」。これは本来は近世・近代の本邦の農村部に於ける村落内の上層身分階層の通称である。多くは特定の土地所有資格者で構成され、村落の運営機構を支配していた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]金持ちを招いて見たが、二人の子供は知らぬ顏をして居る。終りの三日目には殘りの貧乏人たちが喚ばれて、其中に醜い姿をしたベルヴォントもまじつて居た。さうすると二人の子は直ぐに近よつて、しつかりとその手を取つて離さなかつたので、彼の兒であることが顯はれてしまつた。王樣はいきまいて母の姫と兒と彼と四人を、うつぼ舟に押し入れて海へ流してしまへといひ付けた。

 腰元たちがそれを悲しんで、乾葡萄と無花果とを澤山にうつぼ舟へ入れてくれた。さうして風に吹かれて海の上へ出て行つた。姫のヷステラは淚を流して、お前は何故に斯んなひどい目に私を遭はせたかと問ふと、葡萄と無花果とを下さるなら話しましようと言つた。それを貰つて食べてしまつてから、ぼつぼつと薪の馬の日の話をした。お姫樣は溜息をついて、それにしてもこの樣なうつぼ舟の中で、四人が命を棄ててしまつてどうならう。もしも願ひ事が何でもかなふならば、早く是が大きな屋形船に變つて、もと來た海邊の方へ還るやうに願ひなさいと言つた。さうするとペルヴォントは、もつと其無花果と葡萄を下さるならばと答へた。

 若者の願ひ事は直ぐに叶つた。愈〻船は陸に着いたから、爰に廣大な御殿が建つて、家來も諸道具も何でも揃ふように、願つて下さいと姫が勸めると、それも卽座に其通りになつた。折角御殿が出來ても、あなたが其顏ではしようが無い。早くりりしい美靑年に變るやうに、願つて下さいと賴んでその願ひ事もかなひ、悦んで四人仲よくその御殿に住んで居た。

 そこへ父の王樣が狩に出て、路に迷うて偶然に訪ねて來る。二人の子はこれを見て、お祖父樣お祖父樣と大きな聲で言つたので、忽ち今までの一部始終が明らかになつた。それから善盡し美盡した[やぶちゃん注:「善(ぜん)を盡(つ)くし美(び)を盡くした」と訓読しておく。欠けるものがなく、完璧であること。美しさと立派さをきわめているさま。「尽善尽美(じんぜんじんび)」。]お取持を受けて、王樣は大いに喜び、聟の一家を王城に呼び迎へて、めでたく其國を相續させることになつたといふ話。

 

        

 

 バシレの五日物語(ペンタメロネ)の一の卷に、始めてこの昔話が採錄せられてから、もう彼是三百年になつて居る。斯んな輕妙な又色彩に富んだ物語が、一つの昔話のもとの形であつた筈は無いのだが、西洋の説話硏究者の中には、此本が餘り古いために、丸のまゝで其起原を説かなければならぬ樣に、思つて困つて居る人もあるらしい。實際また後に發見せられた國々の昔話は、どれもこれも形が是とよく似て居て、たゞ比較の數を重ねて行くうちに、最初力を入れて語つて居た點が、案外な部分に在つたといふことに氣づくだけである。つまり十七世紀よりもずつと以前、又恐らくは歐羅巴以外の地に、既に話術といふものゝ發達はあつたので、それが又頗る今日のものと、異なる法則に指導せられて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「バシレの五日物語(ペンタメロネ)」Pentamerone(イタリア語:ペンタメローネ/ペンタメロン:五日物語)は、十七世紀初めにナポリ王国の軍人で詩人でもあったジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile 一五七五年?~一六三二年)が「ジャン・アレッシオ・アッパトゥーティス(Gian Alessio Abbattutis)」というペン・ネームで執筆したナポリ方言で書かれた民話集(刊行は彼の死後の一六三四年~一六三六年)。書名は中世イタリアのフィレンツェの詩人で小説家のジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio 一三一三年~一三七五年)の代表作「デカメロン」(Decameron:ギリシャ語の「十日」を意味する“deka hemerai”(ラテン文字転写) に由来。一三四九年から一三五一年に執筆)に倣ったもの。同書の「一日目」の第三話で、イタリア語サイトを見ると、主人公の綴りは Peruonto(音写は「ペルオント」か)、王女のそれは Vastolla(「ヴァストーラ」か)。英文ウィキの「Peruontoはある。]

 グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」では、如何にしてとんまの靑年が、願ひ事の何でもかなふ力を持つに至つたかを述べてない。其代りに父の王樣が訪ねて來た時に、姫が知らぬ顏をしてもう一度男に「願ひ事」をさせる。寶物の玉の杯がいつの間にか老いたる王のかくし[やぶちゃん注:ポケット。]に入つて居て、王樣は盜賊のぬれ衣を干しかねて[やぶちゃん注:晴らし(雪(すす)ぎ)兼ねて。]當惑する一條が附いて居る。それ御覽んなさい。だから無暗に人に惡名を着せてはいけませんと言つて、始めて親子の名のりをすることになつて居る。ジェデオン・ユエの民間説話論の中には、多分最初は斯んな形であつたらうといふ想像の一話を復原して載せて居るが、是も結末にはこの小さな仕返しを説いて居り、發端は若者が漁に出て物いふ魚の命を宥し[やぶちゃん注:「ゆるし」。]、御禮に願ひ通りの力を貰つたことにして居る。それから不思議の父なし兒に、父を見付けさせる方法としては、何か小さな物を其子の手に持たせて、それを無心に手渡しする相手が、誠の父だといふやうに話す例が最も多いさうで、是が恐らく上代の慣習であつたらうとユニは言つて居る。グリムの説話集でも、子供がシトロンの實を手に持つて城の門に立ち、入つて來る國中のあらゆる若者の中で、最も見にくい顏をした貧乏なハンスに、それを渡したことになつて居るのである。

[やぶちゃん注:『グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」ともに言語学者で文学者であった、ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Carl Grim  一七八五年~一八六三年)と弟ヴィルヘルム(Wilhelm 一七八六年~一八五九年)のグリム兄弟の「グリム童話」(Grimms Märchen:正式名Kinder- und Hausmärchen(子供達と家庭の童話))は一八一二年に初版第一巻が、一八一五年に第二巻が刊行されているが、著者の生前から数度改訂されつつ、版を重ねており、このHans Dumm(「馬鹿のハンス」)は第二版でDer Ranzen, das Hütlein und das Hörnlein(「背嚢と帽子と角笛」)に削除・差替された一話である(ウィキの「グリム童話の一覧」他に拠る)。ウィキの「ハンスのばか」も参照されたい。また、この話について柳田國男は翌年の昭和七(一九三二)年一月の『方言と國文學』に発表した「物言ふ魚」でも言及している。『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 物言ふ魚 七を参照されたい。

「ジェデオン・ユエの民間説話論」フランスの文献学者で民俗学者でもあったジェデオン・バスケン・ユエ(Gédéon Busken Huet 一八六〇年~一九二一年)の作品らしいが、原題を探し得なかった。石川登志夫訳・関敬吾監修「民間説話論」として同朋舎出版から一九八一年に翻訳が出ているのが、最も新訳のもののようではある。

「シトロン」Citron(英語)。ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica。インド原産の蜜柑の一種でアジアで古くから栽培され、今日ではコルシカ島を始め、地中海地方で主産する。近縁種であるレモン(ミカン属レモン Citrus limon)に似ているが、葉や果実がより大きく,香りもより強く、酸味が強いため、生食は出来ず、果皮を砂糖漬にする。]

 ユエなどの考へて居る昔話の「最初の形」なるものが、果してどの程度の最初であるかを私は知らぬが、日本に生れて自國の口碑に興味を有つ者ならば、此昔話の複合であり、又ある技藝の産物であることを認めるに苦しまないであらう。少なくとも曾てこの樣な形を以て、人に信ぜられたことがあつたかの如く、説かうとする樣な無理な學問を、日本人だけは受賣りする必要が無いのである。

 

        

 

 大體この一篇の古い昔話には、八つほどの奇拔な話の種が含まれて居る。その一つは微力な見すぼらしい貧しい靑年でも、ある靈の力の助けが有るならば出世をする事、もしくは英雄が始めはそんな姿で隱れて居たことである。是は桃太郞でも安倍晴明でも、日本にも異國にも弘く行渡つた昔話の型であつて、第二の非凡なる「如意の力」と共に、寧ろ餘りに普通であることを、不思議と言はなければならぬ位である。

 第三には處女の受胎、それがたゞ一言のうけびによつて、忽ち效果を現じた例だけは日本には無いが、其代りには東方の諸國には丹塗りの矢もしくは金色の矢といふ珍らしい形があつて神と人間との神祕なる婚姻を語つて居る。第四にはうつぼ舟に入れて海に洗すといふこと、是はわが邦にも色々の傳へがある。大隅の正八幡では七歳の王女、父知らぬ兒と共に此中に入れられて、唐から流れ著いたのを神に祭つたといふ記錄もあり、それは又朝鮮の古代王國の創始者の奇瑞でもあつた。

[やぶちゃん注:最終の一文の伝承は私の「柳田國男 うつぼ舟の話 四」や、『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(4)』を参照されたい。]

 第五には小童の英明靈智であるが、爰では之に伴なうて第六の父發見の方法が問題になる。宮古島の神代史を飾つている戀角戀玉[やぶちゃん注:「こひつの」・「こひたま」。]の物語に於ては、この二人の女の子のみは、人の怖るゝ大蛇を自分の父と知つて、背に攀ぢ頸を撫でゝ喜び戲れたと言つて居る。播磨風土記の道主姫[やぶちゃん注:「みちぬしひめ」。]の父なくして生める兒は、盟び酒[やぶちゃん注:「うけびざけ」。]の盃を手に持つて、これを天目一箇命[やぶちゃん注:「あめのまひとつのみこと」。]に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる。山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神[やぶちゃん注:「わけいかづちのおほかみ」。]の御事蹟は、恐らく神話として久しく信ぜられたものと思ふが、前の例よりも今一段と具體的である。外祖父の建角身命[やぶちゃん注:「たけつぬみのみこと」。]は八しほり[やぶちゃん注:「やしほり」。]の酒を釀して[やぶちゃん注:「かもして」。]神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとあるのは、卽ち御父がこの地上の神で無かつたことを語るものであつた。

[やぶちゃん注:「戀角戀玉」サイト「沖縄情報IMA」の宮古島にある、首里王府公認の島内最高の霊場とされる「漲水御嶽(はりみずうた)」の解説によれば、未だ、『この世界に人が現れる以前、恋角{(古意角)こいつの}・恋玉{(姑依玉)こいたま}の二神が漲水に天降り、一切のものを生みだして昇天しました』。『この跡地に建てられた御 嶽が漲水御嶽です』。『それから数百年後、平良のすみや里の夫婦の娘が聟を取る以前に妊娠してしまいます。驚いた父母が娘に問うと、毎夜』、『清らかな若者がきて』、『夢心地になっているだけだと語ります。不審に思った父母は、とても長い糸をつけた針を若者の髪に刺すよう に指示し、翌朝糸をたどって行くと、漲水御嶽の洞窟に、首に針を刺した大蛇に出会います。その夜、若者は娘の夢に現われ、「我はこの島を創った神恋角の変化なり、この島の守護神を仕立てるために汝に思いをかけた』。三『人の娘が生れ』、三『歳になったら』、『連れてくるように。」と告げます』。『やがて娘』三『人が生れ』、三『歳になって連れていくと』、三『人はそれぞれ大蛇の 首、腰、尾に抱きつき』、『睦まじい様をみせ、大蛇は光を放って天に昇り』、三『人の娘達は御嶽内に姿を消して』、『宮古の守護神になりました』。『また、島始神託という古文書では、天界の古意角という男神が、天帝に島づくりを願い出ると、天帝が天の岩戸の先端を 折り海に投げいれると出来た島が宮古であるという話も伝わっています』とある(末尾に、以上の『一部は宮古毎日新聞さんの記事を参考にさせていただきました』という添書きがある)。

「播磨風土記の道主姫の父なくして生める兒は、盟び酒の盃を手に持つて、これを天目一箇命に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる」「播磨國風土記」の託賀(かみ)の里の条。岩波文庫の武田祐吉編「風土記」を参考にして引く。

   *

託賀の里【大海山(おほみやま)、荒田の村。】土は中の上なり。右は、川上(かはかみ)に居(を)るに由りて名と爲す。大海と號(なづ)くる所以(ゆゑ)は、昔、明石の郡(こほり)大海の里人、到-來(きた)りて、この山底(やまもと)に居りき。故(かれ)、大海山といふ。松を生ず。荒田(あらた)と號くる所以は、此處に在(い)ます神、名は道主日女(みちぬしひめ)の命(みこと)、父無くして、兒(こ)生みき。この爲に、盟酒(うけひざけ)を釀(かも)さむとして、田(た)七町(なゝまち)を作るに、七日七夜(なぬかなゝよ)の閒(ほど)に、稻、成-熟(みの)り竟(を)へき。すなはち、酒を釀し、諸(もろもろ)の神たちを集(つど)へ、その子をして酒を捧げて、養(みあ)へせしめき。ここに、その子、天(あめ)の目一(めひとつ)の命(みこと)に向きて奉る。すなはち、その父なることを知りき。後、その田、荒れき。故(かれ)、荒田の村と號く。

   *

この「荒田の村」は現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。先行する柳田の論考である『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(9)』も参照されたい。

「山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神の御事蹟」「外祖父の建角身命は八しほりの酒を釀して神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとある」「風土記」の逸文の「山城の國」の最初にある「賀茂の社」。同前で示す。

   *

   賀茂社

山城の國の風土記に曰はく、賀茂の社、賀茂と稱(まほ)すは、日向(ひむか)の曾(そ)の峯[やぶちゃん注:=日向(ひゅうが)の高千穂の峰。]に天降(あも)りましし神、賀茂(かも)の建角身の(たけづのみ)命(みこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)[やぶちゃん注:=神武天皇。]の御前(みさき)に立ちまして、大倭(やまと)の葛木山(かつらきやま)の峯に宿りまし、そこより、ややややに遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至り給ひ、山代河[やぶちゃん注:=木津川。]のまにま、下りまして、葛野河(かどのがは)[やぶちゃん注:=桂川。]と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見(み)はるかして、言(の)りたまひしく、「狹(さ)く小(ほそ)かれども、石川の淸川(すみかは)なり。」と宣(の)り給ひき。仍(よ)りて名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰(い)ひき。その川より上りまして、久我(くが)の國の北の山基(やまもと)に定(しづま)りましき。その時より、名づけて賀茂といへり。賀茂の建角身の命、丹波(たには)の國の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)を娶(よば)ひて生みませる子、名を玉依日子(たまよりひこ)といひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)といひき。玉依日賣、石川の瀨見の小川に川遊びせし時、丹塗(にぬり)の矢、川上より流れ下りき。すなはち取りて、床(とこ)の邊(へ)に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)建角身の命、八尋屋(やひろや)を造り、八つの戸-扉(とびら)を竪(かた)め、八腹(やはら)の酒を釀(か)みて、神集(かむつど)へ集へて、七日七夜(なぬかなゝよ)樂-遊(うたげ)し給ひて、然して子と語らひて言(の)り給ひしく、「汝(な)の父と思はむ人に、この酒を飮ましめよ」と宣り給へば、すなはち、酒坏(さかづき)を擧(さゝ)げて、天(あめ)に向ひて祭を爲し、屋(やね)の甍(いらか)を分け穿(うが)ちて、天に昇(のぼ)りき。すなはち、外祖父(をほぢ)の名に因りて、賀茂(かも)の別雷(わきいかづき)の命(みこと)と號(まを)す。いはゆる丹塗の矢は、乙訓(おとくに)の郡(こほり)の社(やしろ)に坐(ま)せる火雷(ほ)の雷(いかづち)の命(かみ)なり。賀茂の建角身の命と、丹波の伊可古夜日賣と、玉依日賣と、三柱(みはしら)の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社に坐(ま)せり。

   *]

 第七には世にも稀なる幸運の主が、妻に教へられ勸められるまでは、少しも自分のもつ力の大いなる價値に心づかず、これを利用しようともしなかつた點、これは日本では炭燒長者の話として傳はつて居る。これが八幡神の聖母受胎の信仰と關係あるらしいことは、『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある。第八の特徵はペンタメロネにはまだ見えておらぬが、僅かな人間の智慮を以て、勝手に此世の出來事を批評してはならぬといふ教訓、これが又我々の國に於ては、實に珍らしい形を以て展開して行かうとして居るの である。今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁[やぶちゃん注:「へ」。]の話が是から出て居る。最近に壹岐島から採集せられた一つに、昔ある殿の奧方が屁をひつた咎によつて、うつぼ舟に入れて海に流される。それが或島に流れ著いて玉のやうな男の子が生れる。其童子が大きくなつて茄子の苗を賣りに來る。これは屁をひらぬ女の作つた茄子だといふと、殿樣が大いに笑つて、屁をひらぬ女などが世の中にあるものかといふ。それなら何故にあなたは私の母を、うつぼ舟に入れて海に御流しなされたかと遣り返して、めでたく父と子の再會をするといふ話。是が他の地方に於てはうつぼ舟を伴なはぬ代りに、屁をせぬ女が栽ゑると黃金の實が結ぶ木とか、又は黃金の瓜とかいふ事になつて居り、又沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る。人が長老の語ることを皆信じ得た時代には、斯んな笑ひの教訓なども入用は無かつたらうが、後に疑ふ人が少しづゝ現はれて、話し方は追々巧妙に、また複雜になつて來たのである。それに又國限りの孤立した發達があつて、比較は何よりも意味の多いことになつた。西洋の説話硏究者たちが、素材のなほ豐かなる日本の口碑蒐集に、深い注意を拂つて居るのは道理あることである。

   (昭和六年七月 朝日グラフ)

[やぶちゃん注:最終行の注記は底本では本文最終行の下一字上げインデント。「朝日グラフ」はママ。冒頭注で示した通り、ちくま文庫版全集第八巻では『アサヒグラフ』。

「『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある」『海南小記』は大正一四(一九二五)年大岡山書店刊の評論集。当該の、同論集の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)は次回にここで電子化を予定しているので、注は附さない。

「今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁の話が是から出て居る」後で柳田が述べているように、これは「金(きん)の瓜(うり)」「金の茄子(なす)」或いは「黄金の成る木」等とも称され昔話の一類型。「ブリタニカ国際大百科事典」では、『放屁したために奥方の座を追われた母の過去を知った男の子が、』十三になって『殿様の屋敷に黄金の瓜の種を売りに行き』、『「屁をひらぬ者がまかねばならぬ」と言い』、『「世の中に屁をひらぬ人間があるか」と殿様に言わせ』、『結局』、『母は奥方の座に戻り』、『自分は跡取りになる』というストーリーで、沖縄・奄美・鬼界ヶ島・壱岐・佐渡などの、『主として』島嶼部に『分布している。瓜のほか』、茄子や『金のなる木などになっている話もあり』、『類話に「銭垂れ馬」その他がある』とあり、平凡社「世界大百科事典」では、放屁『した罪で殿様が妃をうつぼ舟で流す。妃は懐妊していたので』、『流離中に男の子を生む。子どもが成長してその真相を知り』、『放屁しない人が植えると金のウリが実るウリ種を売りに出かける。城に行くと』、『殿様が放屁しない人間はないと言う。子どもは妃の放逐を問い責める。殿様は』『自分の子どもであることを悟り』、『母子を城に招き』、『子どもを跡継ぎにする。少年の英知と機転そして知謀の小気味良さを主題にした物語である』とある。所謂、貴種流離譚の一変形でもある。

「沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る」サイト「日本し」久高島採集民話のうり」を参照されたい。]

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