反古のうらがき 卷之一 狐の玉
○狐の玉
文化の季年に、「狐の玉」といふものはやりて、人々、寶の如くもてはやしける。其さま、一握りの毛のかたまりにて、核(さね)おぼしきもの、小豆(あづき)より小なるもの有りて、白き毛、又は、赤き毛、すきなく生ひ出(いで)たり。「如何樣(いかさま)にも『狐の玉』ともいふべきもの」とて、稻荷の社などに備置(そなへおき)けり。其後(そののち)、御目付羽太左京家來何某、「傳通院(でんづゐん)たく藏主稻荷(ぞうす[やぶちゃん注:底本のルビ。]いなり)の前にて拾ひたり」とて、「全く稻荷の賜物(たまもの)なり」など、いひはやし、龕(づし)を作りて其内におさめ、所々に持(もち)あるきて、拜禮を乞ふものより、御初穗を取りけり。一日(あるひ)、尾州公御長屋下何某より、「持來(もちきた)りて拜ませ吳れよ」と言越(いひこ)しければ、持(も)て行けり。拜禮一通り終りて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、「『狐の玉』拜禮の事いひ入るゝ事、其一事のみならず。吾々、困窮にして飢渴に及べり。君は『狐の玉』を得玉ひて、所々御大家より奉納の金錢多く得玉ひしよし聞及(ききおよ)びたれば、其内、少々、恩借(おんしやく)に預り度(た)く、扨は申入(まうしいれ)たるなり。此事、聞濟(ききすみ)玉へ」とて、せちに乞(こひ)けり。何某、あきれ果て、如何にもして逃れ去らんとするに、次の間には破れたる障子を立(たて)て、其内に荒くれたる大男ども、幾たりともなく有りて、さゝやく樣(さま)、否(いな)といわば[やぶちゃん注:ママ。]、如何なる事をかなさんも斗(はか)りがたき有樣なり。よりて、辭すること能はず。「今は持合(もちあはせ)なし。家に歸りて後、望みの數ほど用立(ようだつ)べし」といひて立(たち)ければ、「明日、取(とり)に人を遣すべし」と約して歸しけり。果して、明(あく)る朝、人、來りければ、何某が子ども、大に怒り、使の者、召取置(めしとりおき)、「公(おゝやけ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])にも訴(うたえ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])ん」など、いひのゝしりしが、此使(つかひ)に來りしは日雇(ひよう[やぶちゃん注:底本のルビ。])の者なり。又、約せしことなれば、取(とり)に來るも是非なきことにて、敢てかたりの筋にもあらず。但し、金子さへ渡さゞる前は、如何樣にも仕方あり、とて返事して、「約せしかども、金子、出來不ㇾ申(まうさず)」といひやりて歸しけり。是は其頃はやりける「テメ博奕(ばくち)」といふことをする人の内にて、慾深く、やま氣(け)ある人を引入(ひきいれ)、劫(おびや)かして金子を借(かり)る法にてぞ有ける。數日(すじつ)の後、其人共(ども)外、十人斗(ばか)り、召取(めしと)られ、御吟味事(ごと)にぞなりけり。
狐の玉を拾ひしといふ人も、愚かにして慾深く、婦人女子を欺き、少しづゝの利德せしより、かゝる危うきめに合(あひ)て、幸(さいはひ)に免れたり。惡徒は積惡にて召取られたり。人々、「玉の奇特(きどく)、おそろし」などいひけれども、其後、人にきゝしは、右の玉は、皆、兎の尾のさき、五、六分斗り、皮斗りにして、日に乾し堅むれば、内の方江卷(まき)こみて、干(ほし)かたまる。其(その)大きさ、赤小豆程になりて、毛はよく外をつゝむ。獵師などの家にて作おきしを、初めの程は「珍らし」とて、「狐の玉」などいひはやしたる也。後は緣日などに出して賣る。價(あた)ひ十二文位になりけり。これも今は餘り見ず。廿騎町秋山太平太、是も其頃、「護國寺山にて赤・白二つ、一つになりてありしを、ひろひたり」とて、余も見に行(ゆき)けり。神棚に上げて有(あり)けり。かゝれば、「稻荷の社(やしろ)、或は大寺の狐出(いづ)る所などへ捨置(すておき)て、人にひろわせ[やぶちゃん注:ママ。]、評判となして、何か、『やま』をする心の者ありし」と、後に思ひあへりける。
[やぶちゃん注:「文化の季年」「季年」は末年の意で採っておく。文化は一八〇四年から一八一八年まで。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、三十年ほど前のこととなる。
「狐の玉」「狐の宝珠(ほうじゅ)の玉」などと称して、妖狐伝承にはよく出る。そこでは概ね、狐が化けるのに必要不可欠なアイテムとして登場するようだ。
「如何樣(いかやう)にも『狐の玉』ともいふべきもの」「まさしく、いかにも『狐の玉』とも称すべき霊験あらたかなものである」。
「御目付羽太左京」文政五(一八二二)年の史料の中に目付羽太左京正栄(「まさはる・まさえ」か)の名を見出せる。
「傳通院(でんづゐん)たく藏主稻荷(ぞうす[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「ざうす」が正しい。]いなり)」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『無量山伝通院(文京区表町)に祀られている狐。駒込吉祥寺の所化に化けて法門の勉学に来ていたのを、昼寝中に尾を出して正体がばれた』とある。詳しくは私の「諸國里人談卷之五 伯藏主(はくさうず)」(そこに傳通院の伝承で「澤蔵司(たくぞうす)」伝承があることも記しておいた)の本文及び私の考証注を参照されたい。
「龕(づし)」厨子。
「初穗」神に供える金品。
「尾州公」当時の尾張藩主は第十代徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年)。第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。尾張藩は流石に上屋敷(現在の新宿区市谷の防衛省庁舎。以下同じ)・中屋敷(千代田区紀尾井町の上智大学)・和田戸山下屋敷(新宿区戸山の都立戸山公園)の他、蔵屋敷を中央区築地の築地市場に持っていたが、思うに、本「反古のうらがき」のここまでのロケーションは圧倒的に「廿騎町」(現在のここ(グーグル・マップ・データ))が多く、ここでも終りの添え話に出、しかも廿騎町の南直近が尾張藩上屋敷であることから、ここの「御長屋下」というのも、この附近なのではなかろうかと私は思った。
「聞濟(ききすみ)玉へ」聞き入れて下され。承諾してくれたまえ。
「又、約せしことなれば、取(とり)に來るも是非なきことにて、敢てかたりの筋にもあらず。但し、金子さへ渡さゞる前は、如何樣にも仕方あり、とて返事して」「返事して」はない方がすっきりと躓かずに読める。以上の評言は使いの者に言ったのではなく、何某と子どもの内輪のやり取りと考えるのが妥当で、私は「約せしかども、金子、出來不ㇾ申(まうさず)」の後の「いひやりて」の衍文と採り、ここを無視したい。
「テメ博奕(ばくち)」詐欺(イカサマ)賭博のこと。
「やま氣」山師のような気質の意で、万一の幸運を頼んで、思い切って事をして一発当てようとする心。「やまき」と読んでもよい。
『人々、「玉の奇特(きどく)、おそろし」などいひけれども』こういうところこそが大衆の救い難い呆れた盲信的部分である。
「五、六分」一・五~一・八センチメートル。
「十二文」文化文政期は蕎麦一杯が十六文であった。
「秋山太平太」不詳だが、「廿騎町」に住んでいる以上、まず御先手組である。切絵図では同町内に「秋山彥兵ヱ」の名を見出せる。
「護國寺山」現在の東京都文京区大塚にある真言宗神齢山悉地院大聖護国寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「稻荷の社(やしろ)、或は大寺の狐出(いづ)る所などへ捨置(すておき)て、人にひろわせ、評判となして、何か、『やま』をする心の者ありし」これは今の常識で考えると、とんでもなく迂遠にして、時間のかかる手法としか思えないのだが、ある意味、こうしたものに信心を持ってコロリと騙されてしまう素朴な庶民が有意に多かったこと、犯罪者もスロー・ワークだったことなどを物語る例として興味深い。]