甲子夜話卷之五 13 水戸黃門卿、髑髏盃の事
5-13 水戸黃門卿、髑髏盃の事
水戸の常福寺の什寶に、髑髏盃を藏む。これは西山(せいざん)義公の故物と云。一升を容べし。公在世に此盃を常用せられしと。酒量知るべし。醉後は必ず唱歌し給ふ。其詞
歌蓮の葉にやどれる露は、釋迦の淚か有難や。
辭其とき蛙とんで出(イデ)、それは己(オレ)が小便じや
と、ざれ謠うたひ給ひしとなり。西山に老退せられし後の事なるにや。常福寺及彼公家の臣等所ㇾ云なりと聞く。又盃の故を尋るに、公少年時の卑僕あり。隨從年久し。然るに罪有て、勘氣せられ追放す。其後公の出行每には、必ず隱れながら隨て離れず。公も亦これを知れども見ざるふりに過られたり。然に或時、いかゞしてか公の目前に出たり。公心中これを憐といへども、逐去こと能はず、卽手打にせられ、死骸は久昌寺【公の母君の寺なり】に埋めよと命ぜられ、年月を待て其枯體を掘出させ、頭骨に金箔を施し、盃と爲られし也。是蓋彼僕の赤心潛行して至死不變の追懷を遂げしめ給ふなるべし。此物を今見るに、髑髏の表は公の手ずれにて琥珀の色をなし、殊に美なりと。常福寺の寓僧語れりと云。
■やぶちゃんの呟き
「常福寺」現在の茨城県那珂(なか)市瓜連(うりづら)にある浄土宗草地山蓮華院常福寺。ここ(国土地理院地図)。「かるだ もん」氏のブログ「年年是好年 日日是好日」の「大人の♪いばらき おとぎ話2。 水戸のご老公にまつわる、お・と・なの話~その1」で本話を採り挙げておられ(梗概の現代語訳が載る)、実際に常福寺を訪問されておられる(写真有り)。但し、ブログ主よろしく、私も常福寺の公式サイトの「寺宝」を見たが(リンク先記載のそれはアドレス変更で繋がらない)この「髑髏の盃」の記載は見当たらない。ものがものだけに、ブログ主も述べておられるように、『本当にあったとしても公開はされていないのかもしれ』ない。ところが、驚くべき記載がリンク先にはあるのである。『しかし「茨城の酒と旅」という本』(ブログの記載によれば、昭和四七(一九七二)年刊)『によると、著者は常福寺で実物は見せてもらえなかったものの、写真を見せてもらった』と載り、同書には、『日露戦争の時や太平洋戦争の時に出征の無事を祈って、地元の人がこの杯で飲んだ人たちがいる』『という逸話も書かれてい』るとあり、その『(写真で見た)髑髏杯は、頭蓋骨の上あごより上の部分(つまり下あごはない)で、額あたりから上の部分と下の部分の』二『つに分かれており、いずれも内側は赤く漆で塗られていて、液体が漏れないようになっている』らしい。そのため、『酒を注ぐと、まるで血をなみなみとたたえているように見える』のだろうと記されているとある。また、この書では『杯になった髑髏のいわれについては』本「甲子夜話」の内容とは異なる話を三つ載せてある、ともある。読んでみたい。なお、正直、この「甲子夜話」の話の「卑僕」の少年の水戸黄門の関係には、明らかに若衆道の匂いが強烈に香っている。
「西山義公」「西山」は徳川光圀の別号、「義公」は諡号。
「容べし」「いるべし」。注ぎ入れることが出来る。
「じや」ママ。
「西山」旧久慈郡新宿村西山に建設された彼の隠居所西山荘。現在の茨城県常陸太田市新宿町にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「彼公家の」「かのこうけの」。
「臣等」「しんら」。
「所ㇾ云」「いふところ」。
「尋るに」「たづぬるに」。
「然るに」「しかるに」。
「出行每には」「しゆつかうごとには」。「每には」は「つねには」と訓じているかも知れぬ。
「隨て」「したがひて」。
「過られたり」「すぎられけり」。
「然に」「しかるに」。
「憐といへども」「あはあれむといへども」。
「逐去こと」「おひやること。。
「卽手打にせられ」「すなはち、てうちにせられ」。
「久昌寺」現在の茨城県常陸太田市新宿町にある日蓮宗靖定山久昌寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の西山荘ある同地区内の東直近である。
「公の母君」久昌院(慶長九(一六〇四)年~寛文元(一六六二)年)は常陸水戸藩初代藩主徳川頼房の側室。名は久。
「爲られし也」「せられしなり」。
「是蓋」「これ、けだし」。
「寓僧」住僧。「寓」(ぐう)は「仮の住まい」の意であるが、僧にとってはこの世はまさにそうだからこの謂いは腑に落ちる。