柳田國男 うつぼ舟の話 七 / うつぼ舟の話~了
七
もう澤山と言はれるといやだから、最後に此話の成長した例を三つばかり附け加へて、饒舌の區切りとしようと思ふ。舞の本では大職冠の一曲に、鎌足勅命を奉じて海底の明珠を求めんとする時、龍王これをすかし返さんがために、乙姫のこいさい女という美人を、うつぼ舟に作りこめて、浪の上に推し揚げるという趣向がある。
流れ木一本浮んであり
かこかん取之を見て……
沈香にては無し
恠しや割つて見よとて
此木を割つて見るに
何と言葉に述べ難き
美人一人おはします
とあつて、見た所は流材の如く、割つて見なければ中に美人の居ることが知れなかつた。卽ちこの位でないと海底の龍宮から往來することはむつかしいと考へたのである。
[やぶちゃん注:「舞の本」「大職冠」柳田國男が引用したものとは異なるものの、塩出貴美子の労作『奈良絵本「大織冠」について―個人蔵本の翻刻と釈文―』(PDF)でストーリーを読むことが出来る。
「かこかん取」「水主(かこ)」で「かんとり」は「楫取(かぢとり)」で、船の船主や楫取りらは、の意ではないかと思われる。
「沈香」は「ぢんかう(じんこう)」。香木。]
之とは反對に肥後の八代地方で、牡丹長者の物語として今も歌はれて居るものは、潜航艇も及ばざる念入りの細工であつた。牡丹長者には三人の子息あり、二人はそれぞれ立派な里から嫁を取つたが、末弟の嫁御は卽ち貴人の出であつた。主要なる文句を拔書きして見ると、
弟嫁殿(おとよめどの)の最初を聞けば
元は源氏の公卿衆の娘
少しばかりの身の誤りで
うつろ舟から島流された。
紫檀黑檀唐木(からき)を寄せて
京の町中の大工を寄せて
さても出來たやうつろの舟が
びどろさまにはちやんなど掛けて
夜と晝との界がわかる。
金と銀との千よーつ(マヽ)かいて
中に立派な姫君入れて
なんじ(マヽ)灘より押流されて
こゝの沖には五日はゆられ
そこの沖には七日は搖られ
流れついたが淡路の島よ
島の太夫の御目にかゝる。
うつろ舟とは話にやきけど
ほんに見たこと今度が始めよ
拾ひ上げてくづして見れば
中に立派な姫君さまに
頭に天冠ゆらゆら下げて
その日その日の食事をきけば
蘇鐵團子やこくど(マヽ)の菓子よ
菓子の中でも上菓子ばかり
一つあがれば七日の食事
二つ上がれば十四日の食事
それが立派な食事でござる。
國はいづこか名はなにがしか。
國は申さは耻かしけれど
元は源氏の公卿の娘
少しばかりの身の誤りで
うつろ舟から島流された。
あらば太夫もこれ聽くよりも
國に還るか緣付きするか
うつろ舟から流されたから
二度た我家に還りはならの
御世話ながらも緣付き賴む。
あらば太夫も御喜びで
牡丹長老の弟嫁に
是も常陸の濱の人と共に、食事の點ばかりを氣にして居るが、蘇鐵團子は如何にも殺風景で、天冠をゆらめかす女性とも思はれぬ。ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれるが、近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつたのである。思想統一の感謝すべき影響に由つて、九州の南の端でも夢の樂土は平安の京であつた。遠く唐天竺を求める必要もなかつたのである。
[やぶちゃん注:「牡丹長者」みんみん氏のブログ「夢の浮橋 大分県の唄と踊りの覚書」の「牡丹長者(77段物)」で、柳田の採録とは異なったものであるが、口説の全体像が判る。それによれば、『鶴姫が牡丹長者の三男に嫁ぐまでの波乱万丈の物語り。他県』(『奥州仙台』)『を舞台にした口説ではあるが、大分でも広く親しまれたようだ』とある。それにしてもこれは、強烈だ。「うつろ舟」が「びどろ」(ビードロ=硝子(ガラス))「さまにはちやん」(チャン=瀝青(chian
turpentine の略とされる):タールを蒸留して得る残滓又は油田地帯などに天然に流出して固化する黒色乃至濃褐色の粘質又は固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いるピッチのこと)「など掛けて」「夜と晝との界がわかる」(上部がガラス張りだから)「金と銀との千よーつ(マヽ)かいて」(金色と銀色の金属製の蝶番(ちょうつがい)か。上部カバーが開閉システムと採れる)「中に立派な姫君入れて」ときた日にゃ、「どうだ! これが「兎園小説」の素材だ!」と鼻先に突き出されて言われれば、「ご説御尤も!」と平服せざるを得ない気はする。
しかし、である。柳田はこの採取時期と採取された唄の学術的な推定時期を明確に述べていない。「ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれる」とある「時代」を、「兎園小説」の「虛舟の蠻女」が「兎園会」で公開された文政八(一八二五)年十月二十三日よりも前、ひいてはそこで漂着があったとしている享和三(一八〇三)年二月二十二日よりも遙かに前であると無批判に読み替えることは出来ない。否、寧ろ、同時代的でさえある。その証拠に、柳田は続けて「近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつた」と述べているが、この「近代」とは何時を指しているのか? 本篇が書かれた大正一五(一九二六)年に私が居たとして、私は享和・文化・文政期を「近代」とは呼ばないだろう。「牡丹長者」という古い伝承譚だから、そこに出る定型詩的歌謡だから、えらく古いものだと思ってはいけない。私は、この歌詞は決して古いものではないと感じたのである。
そこで調べて見た。TO7002氏のブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」の「UFO&美人宇宙人IN江戸時代 3」で「虛舟の蠻女」を考証する中で、本柳田の論文を紹介し(但し、このブログ主はこの牡丹長者の話が馬琴の元ネタである可能性を支持している)『「牡丹長者」=「ばんば踊り」は、「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられていますが』、『一説には江戸時代後期(「兎園小説」が書かれた頃)に盛んになったと言われています』。『当時の延岡への流通は海運(千石船)によって成されており、「牡丹長者」は千石船によって、上方経由で江戸まで伝わった様です』。『古今東西の伝承・民話を収集し、それをモチーフにして南総里見八犬伝などの名作を創作した馬琴ですから、「うつろ舟の伝承」やその類話の「牡丹長者」を「うつろ舟の蛮女」の下敷きにしても不思議ではないと思います』とあった(この情報には大いに感謝する。因みに、このブログ主の考証は一部に私の考証と妙に一致を見る部分がある(氏の記事は二〇〇九年で、私のページ(二〇〇五年公開)へのリンク等はない)。別にそれはそれで本譚と同じように偶然の一致でいいのだが、少なくとも第一回目で使用しておられる「兎園小説」の画像は、トリミングから見て、私の公開版で私がスキャンしたそれを用いていることは確実である(比較されれば一目瞭然)。私の公開版画像を誰かがどこかに転載したものをTO7002氏がそのまま使用したものかも知れぬが、一言言っておく)。則ち、TO7002氏の調査によれば、本「牡丹長者」の唄が、本「虛舟の蠻女」よりも後に成立した可能性も否定出来ないことが判るのである。柳田國男が鬼の首捕ったように、最後の最後で厭らしく「どうよ!」と突き出したそれが、実は逆に「虛舟の蠻女」の挿絵と話を元に改作されたものでなかったとは断言出来ないということなのである。
言っておくが、私の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」での考証を読んで戴ければ判る通り、私はそこに書かれた「虛舟の蠻女」という「空飛ぶ円盤」みたような未確認物体の漂着と、その中のジョージ・アダムスキイが会見したとのたもうた、美人火星人の如き外国人女性の存在を無批判に肯定する立場には実は立っているものではない。ただ、あらゆる可能性を残しておいて考察することが、本話を真に民俗学的・文化史的・精神分析学的な有意味にして有意義な読解の多角的面白さを保持し得ると考えているのである。ところが、柳田國男は本話を紹介した初っ端(ぱな)から、「疑ひも無く作り事であ」り、「蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」ものだとして退けておいて、この最後の最後になって、厭ったらしく、やおら、「牡丹長者」の、製作時期も不確かな妖しげな唄を掲げては、「どうよ?!」とほくそ笑んでいるのである。この順序が私には到底、正統な民俗学的に誠実な考察法・論証法だとは思われないのである。こう言い換えてもよい。則ち、正直、柳田國男が有り難く奉天して真面目に論考対象としている「古事記」の神話から天皇を現人神とするような伝説・伝承の総て、「一寸法師」「桃太郎」「花咲爺さん」といった昔話の総て、ついこの間まで市井の人々の多くが信じていた「一つ目小僧」のような物の怪・幽霊・妖怪といった総てこそが、「疑ひも無く作り事であ」り、「いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「今では最も明白に」その「話の駄法螺なることを證明する」ものではないか。柳田は明らかに、怪しい非論理的な形で〈近代〉〈現代〉という線引きを無意識に措定してしまい、民俗学の研究の対象の核心や真理は、その線引き以前にのみあると考えているようである。彼が「昔話」と「噂話」を区別した時点で、近現代の「噂話」を考現学的心理学的な側面からの民俗学的研究の対象物としては明らかに下らぬもの、対象足らざるものと考えているとしか思えないのである。彼は「虛舟の蠻女」の最後で、評した馬琴のことを「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」終っていると、如何にもイヤ~な唾を吐いているが、本篇自体が、最後にトッテオキの(と柳田は考えているらしい)隠し玉を出して「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」鼻で笑って文を終わらせているのは、馬琴ではなく、そう言った柳田國男自身である、と私は思うのである。
「蘇鐵團子」(そてつだんご)は本邦の南西諸島では中世から近代まで食用(救荒食)とした。但し、裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas
revoluta は神経毒で発癌性をも持つアゾキシメタン(Azoxymethane)を含む配糖体サイカシン(Cycasin)を、種子を含めた全草に有し、サイカシンは摂取後、体内で有毒なホルムアルデヒド(formaldehyde:水溶液がホルマリン(formalin))に変化し、急性中毒症状を惹き起こす。しかし一方で、ソテツは澱粉質を多く含むため、幹の皮を剥いで石臼で潰した上で、長い時間、水に晒して発酵させ、後に乾燥するなどの煩瑣な処理を経て、サイカシンを除去して食用とした。凶作期の飢餓の中、処理が不全で、サイカシンによる急性中毒で死亡することもままあり、それを飢餓地獄に対し、「蘇鉄地獄」とさえ呼んだ怖ろしい食物であった。
「こくど」不詳。「菓子」からの連想では私は「黑奴」の肌のような「菓子」でチョコレートを想起したが、違うだろう。いや、そうだったら、この歌詞は明らかに「虛舟の蠻女」より後だ。
「二度た我家に還りはならの」「二度(にど)たぁ我が家に還ることはならんのよ」の意の方言か近世口語か。]
たゞ悠久の年代の間に、肝要な一點だけが村の人々には理解し得られぬやうになつた。鹿兒島灣の西北隅、大隅牛根鄕の麓部落では、岡の中腹に居世(こせ)神社がある。舊記に依れば大昔の十二月二十九日の夜、此地に住む一農夫、潮水を汲まんとして海の渚に到るに、空艇一艘漂流して船中に嬰兒の啼聲がする。火を照らしてこれを見れば七歳ばかりの童子であつたとあるから、嬰兒の啼聲は如何かと思ふ。是れ欽明天皇第一の皇子であるが、ある時雪中に庭に下り、跣足にて土を踏み玉ふにより、御擧動輕々しくもはや大御位を嗣ぎたまふべからずとあつて、空船に乘せて海に流しまつると謂ふ。空船は恐らくは亦空穗舟のことであらう。此皇子は農夫之を奉仕して養育したが、十三歳にして御隱れなされたので社の神に祀ると傳へ、別に御潜居の地が社の東三町の邊にあつた。皇子流寓の古傳は何れの地方でも、大抵は神社の由來である。薩隅では天智天皇或年巡遊なされ、玉依姫といふ美人を御妃に召されて、男女數所の若宮を御留めなされたことになつて居る。いかにも正史と一致せぬ故に、多分は彦火々出見尊[やぶちゃん注:「ひこほほでみのみこと」。]の御事を誤り傳へたものと、土地の學者たちは解して居たらしいが、是はやはり神話を歷史化したいといふ人情からであつた。居世神社の皇子の「少しばかりの身の誤り」は、殊に史實として考へることがむつかしい。たゞ至尊土を踏みたまはずと信ずる者が田舍にはあつたことゝ、社の神は斯うして遠くから、祭られに來たまふものと思ふ風が、或時代には盛んであつたことゝは、この舊記一つでも推測し得られ、十二月の廿九日の潮汲みが、元は年々の正月神の御迎への用意であつたのを、いつしか此樣に固定したことも、幽かながらわかつて來るのである。
[やぶちゃん注:以上は『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9)』の本文と私の注を参照されたい。]
神代の舊史に於ては、諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。伊弉諾(いさなき)と伊奘冊(いさなみ)。]二尊の最初の御子を葦船に入れて流し去ると書いている。「書紀」には天磐樟船[やぶちゃん注:「あめのいはくすふね」。]と出ているが、それが如何なる形狀のものであるかは、もう西村眞次君より他に知る者が無くなつた。況や何の趣旨を以て、正史に此一條を存せねばならなかつたかは、考へて見やうも無いのである。たゞ後世に及んで、かの有名なる難波堀江を始めとして、不用の客神を海に送り出す風は有り、それが神自らの意圖に基づいて、或は逆流して本の主に復り、或は遠く流れて新たなる地に寄りたまふにしても、共に第二の地位が定まつて後に、始めて説き立てらるゝ習はしであるのに、獨り上代の水蛭子(ひるこ[やぶちゃん注:三字でかく読んでいると採る。ちくま文庫版全集もそうなっている。])の君ばかり、單なる放流の箇條のみを以て顯はされて居るのは、恐らくは完全な記錄でなかつたらう。例に取るのも唐突であるが、かつて賴政が紫宸殿の廂で退治した、啼く聲鵼(ぬえ)に似たりけりの怪物すら、尾足身首が切れ切れになつて、内海處々の岸に漂著し、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]犬神・蛇神の元祖になつたやうに傳へられる。しかも京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)[やぶちゃん注:漢字表記の違いはママ。]もあるのに、神戶に近い芦屋浦の鵺塚でも、鵺漂著して之を埋めたことを主張するのみか、更に其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた。ぬえなど空穗舟は無用の話と考へられぬでは無いが、現に謠曲の「鵺」でも、ぬえの精靈自身が出現して、
賴政は名を揚げて名を揚げて
我は名を流す空穗舟に
押入れられて淀川の
よどみつ流れつ行く末の
うど野も同じ芦の屋の……
云々と、いつて居る位だから古いものである。
[やぶちゃん注:『「書紀」には天磐樟船と出ている』楠で造った堅牢な船とされるが、「古事記」では蛭子を載せて流したのは木製の舟ではなくて葦舟である。
「西村眞次」(明治一二(一八七九)年~昭和一八(一九四三)年)は歴史学者・考古学者・文化人類学者・民俗学者。ウィキの「西村眞次」によれば、『戦前日本において「文化人類学」の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる』とある。大正七(一九一八)年に『母校の早稲田大学に講師として招聘され、日本史や人類学の講義を受け持』ち、大正一一(一九二二)年、『教授に昇進』、昭和三(一九二八)年には史学科教務主任』となっている(柳田國男の本篇初出は大正十五年)。昭和七年には「日本の古代筏船」「皮船」「人類学汎論」によって、『早稲田大学より文学博士号を受け』ているように、他のネット記載を見ても、彼の研究対象は多岐に亙ったが、中でも古代船舶に就いての研究が知られているという。
「難波堀江」(なにわ(の)ほりえ:現代仮名遣)は仁徳天皇が難波(現在の大阪市)に築いたとされる水路(又は運河)。ウィキの「難波堀江」より引く。「日本書紀」仁徳紀十一年の『記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた。」という内容の記述があり、堀江の成立を物語るものとされている』。『古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は』四世紀末から五世紀初頭頃に『奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に都を移した。本拠となる難波高津宮(なにわの』『たかつのみや)は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時は』「草香江(くさかえ)」又は「河内湖(かわちこ)」と『呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっていた。上町台地の北から大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げて、洪水や高潮の原因となっていた』。『新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていた。そこで、ヤマト王権は河内平野の開発を企図し、草香江の水を排水するための水路を掘削することとした。水路は上町台地の北部を横断して難波の海(大阪湾)へ通じ、「堀江」と呼ばれるようになった』。『この堀江は伝説上の存在ではなく、実際に築造されたものと考えられている。築造の時期は』五『世紀前期と見られる。ただし、築造したのが本当に仁徳天皇だったのかについては、肯定派と懐疑派で見解が分かれている。堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されている。なお、大阪市西区に残る地名の堀江とは位置が異なる』。「日本書紀」に『よると、仁徳天皇は、堀江の開削と同時期に、淀川の流路を安定させるため』、『茨田堤(まむたのつつみ)を築造させている。茨田堤の痕跡が河内北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。堀江の開削と茨田堤の築造は、日本最初の大規模な土木事業だったのである』とある。
「京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)もある」平安神宮の向いの、現在の岡崎公園の中央附近に嘗て存在した。ウィキの「鵺」によれば、『京都の清水寺に鵺を葬ったという伝承との関連性は不明』だが、『発掘調査の結果、古墳時代の墳墓であることが判明している』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「神戶に近い芦屋浦の鵺塚」現在の兵庫県芦屋市浜芦屋町にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「鵺」によれば、「平家物語」で『川に流された鵺を葬ったとされる塚』とある。サイト「日本伝承大鑑」の「芦屋鵺塚」によれば、『一説によると、鵺の死骸は悪疫を招くということで丸木船に乗せて川に流してしまったらしい。そしてその死骸はどうやら大阪の都島に漂着したようである(ここにも【鵺塚】が存在する)。しかしここでも悪疫をもたらしたということで、更にまた舟に乗せられた死骸は流されることになった。最終的に漂着したのが、この芦屋の浜であったという訳である』。『芦屋の浜に打ち上げられた鵺の死骸であるが、やはりここでも祟りを起こし、悪疫をまき散らしたらしい。この付近の人々は祟りを恐れて、鵺の死骸を丁寧に葬った。それが【鵺塚】なのである。芦屋の浜から他所へ鵺が流れ着いたという話を聞かないから、多分鵺はここで本当に埋められた可能性が高い』とある。また、玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMA」では当地に赴かれ、平成一七(二〇〇五)年三月のクレジットを持つ、芦屋市教育委員会の解説版を電子化されておられるので引用させて貰う(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)。
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およそ八百年ものむかし、源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがしていた怪鳥をみごとに射落とした。
それはぬえ(鵺)といって、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという奇妙な化鳥であった。その死がいをウツボ舟(丸木舟)にのせて、桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着した。浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。
ぬえ塚伝説は、『摂陽群談』『摂津名所図会』などに記されているが、古墓にまつわる伝説の一つと思われる。
現在の碑は、後世につくられたものである。
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「其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた」前注で示した玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMA」で、説明板に載る「摂陽群談」と「摂津名所図会」に載る「鵺塚」の条々が電子化されてあり、その両方の文中に、この「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」らしきものが出る。そこで私も国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像で当該項を探し、発見出来たので、如何に示す。まずは「攝陽群談」の巻第九「塚の部」に載るそれである。
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鵺塚 兎原郡蘆屋・住吉兩河の間にあり。俗傳云、近衞院御宇仁平三年[やぶちゃん注:一一五三年。「平家物語」では、『仁平の頃ほひ』で限定されていない。]、源三位賴政公の矢に射落されし化鳥、𦩞(ウツロブネ)[やぶちゃん注:「𦩞」の(つくり)は正確には「兪」。「攝津名所圖會」のそれも同じ。]〕に入て、西海に流す。此浦に流寄て、留る事暫あり。浦人取之、是に埋み、鵺塚と成し、側に就て祀祭の所傳たり。亦東生郡滓上江(カスガエ)村に、鵺塚あり。蘆屋浦に鵺を取て埋之、其柯[やぶちゃん注:音「カ」であるが、意味不詳。この字は「草木の枝や茎」或いは「斧の柄」であるから、或いは鵺の翼の茎か?]を捨て海に流す。潮逆上て滓上江に寄り[やぶちゃん注:「よれり」か。]。拾之以て鵺〔舟+兪〕塚と成す歟と云の一説あり。蘆屋浦には、北岡に叢祠在て、鵺之社と號祭る[やぶちゃん注:「號(がうし)、祭る」と読んでいよう。]。東西遙に隔て、同じ號あり。其證、所緣、不詳。
*
次に「攝津名所圖會」の巻七のそれも、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら同書の当該項の画像で起こす。
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鵺塚 葦屋川住吉川の間(あひだ)にあり。今さだかならず。むかし源三位賴政、蟇目(ひきめ)にて射落したる化鳥(けてう)、𦩞(うつぼぶね)[やぶちゃん注:前の太字注参照。]に乘て西海(さいかい)へ流す。此浦に流れよりて止(とゞま)るを、浦人こゝに埋(うづ)むといふ。又東成郡(ひがしなりごほり)滓上江村(かすかえむら)の東田圃(ひがしでんぽ)の中にも、鵺冢(ぬえづか)と稱するあり。何れも分明(ぶんみやう)ならず。按ずるに又鵺の事も一勘(かん)あり。別記に書す。
*
この二篇について、玉山氏氏は『『摂津名所図会』の記述は、『平家物語』、謡曲「鵺」、『摂陽群談』の内容が融合しているようだ。伝説が独り歩きしている。芦屋市教委の説明板は、その到達点といえよう』とされ、『芦屋の鵺塚の場所は、芦屋川と住吉川の間にあるという。本日紹介している碑は、芦屋川の東側にあり、住吉川との間ではない。しかも、鵺塚の場所は定かでないという。碑のある場所は、松林が美しくて絵になるが、本当の鵺塚ではないようだ』と述べておられるが、どうも、鵺の漂着と塚は実際に複数あったもののようでもある。ともかくも、「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」の一つの候補、或いは、同旧村域内の別な鵺塚は、現在の大阪市都島区都島本通三丁目にある「鵺塚」であると考えてよい。ここである(グーグル・マップ・データ)。サイト「日本伝承大鑑」の「鵺塚」も読まれたい。
『謠曲の「鵺」』世阿弥作の複式夢幻能。旅僧の前に鵺の亡霊が現れ、源頼政の矢に射殺された際の有様を語る。
「うど野」「鵜殿」で淀川筋の寄港地で蘆の名所として知られた地。現在の高槻市内。]
但し單に文藝上の興味だけからであつたら、事如何に奇異なりとも是だけ弘く、且つ數千年の久しきに亘つて記憶せられるわけは無い。素朴な昔の人が深く心を動かされた如く、我々の間に於ても時には作り話にせよ、新たな實例を擧げて刺戟を復習せしめる他に、尚此信仰を保存するに足るだけの、宗教行事が持續されて居たのである。例へば公邊の記錄には認められて居らぬけれども、宇佐では近い頃まで神を流す儀式が行はれて居た。伴信友翁の八幡考に松下見林の筆記を引いて、宇佐の御正體[やぶちゃん注:「みしやうたい(みしょうたい)」。]といふ薦[やぶちゃん注:「こも」。]の御驗(みしるし)は、每年菱形池[やぶちゃん注:「ひしがたいけ」。]から苅取つて編み造つた薦筵に、木の枕を包んだものを三殿每に安置し、古い去年の分を取出して次々の社に下し、最末の小山田神社にある舊物は、空穗舟にのせて海に流すと、必ず伊豫國の海上なる御机石という石の上に漂著して、そこにて朽ちたまふ也と述べて居る。我々の今の智識では、まだ諒解の出來ぬほどの神祕である。しかし每年の儀式として神を流すだけは、尾張の津島神社にも其例があつて、之を御葭神事(みよしのしんじ)と名づけて居た。定まつた水邊に行つて葦を苅り束ね、祈禱の後これを川に流すと、遠く近くの海岸の村々に漂著し、其村では必ず新たなる祠として之を祀つた故に、此地方には天王の社が次第に多いのだといふことである。是は勿論分靈であつて、本社の移轉では無いのだが、さうして次々に漂著せしめるといふことに、此神の教義は存したのかも知れぬ。津島は京都で八阪神社と謂ふ所の祇園樣を祀つて居る。諸國の田舍でも舊曆六月十四日に、祇園に供へると稱して胡瓜を川に流し、それから以後は胡瓜を食はず、中に蛇が居るからなどと説明するのが普通である。思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう。神が最初に蛇の形を現じたまふことは、隨分古くからの日本の習はしであつた。大和の三諸山(みもろやま)の天つ神も、蛇の姿を以て大御門に參られた。而うして之を世に傳へたと稱する家も、又其氏の名は小子部(ちひさこべ)であつた。
(大正十五年三月、 中央公論)
[やぶちゃん注:最後の一行は底本では最終行下インデント。月はママ。ちくま文庫版全集では冒頭注で記した通り、『四月』である。
「伴信友翁の八幡考」江戸後期の国学者伴信友(ばん
のぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)の八幡信仰の考証書。当該箇所はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの「伴信友全集」内の画像(右下)。
「松下見林」(けんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)は江戸前期の医師・儒者。京都で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、「異称日本伝」などを著わした。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。
「菱形池」現在の大分県宇佐市にある宇佐神宮上宮の真裏の小椋山の北麓にある神池。戸原氏の個人サイト内の「宇佐神宮/菱形池・御霊水・鍛冶翁伝承」によれば、池名は『池の形が菱形をしているのではなく、辛嶋宇豆高嶋に天降った大御神(八幡神)が御許山を経て遷座した』比志方荒城磯邊(ひしかたあらきいそべ)という地名『に因む名という』。「比志方=菱形」とは「神が顕現した聖地」を『意味』する、とある。
「小山田神社」大分県宇佐市小向野にあるそれであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。宇佐神宮の旧社地域である。
「御机石」不詳。
「尾張の津島神社」愛知県津島市神明町にある津島神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「津島神社」によれば、『建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約』三『千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という』(神仏習合神である素戔嗚(スサノオ)=牛頭天王(ごずてんのう)を信仰するもの。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神とも同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに素戔嗚の本地ともされた。京都東山の祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神ともされ、現在の京都八坂神社に当たる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社・天王社で祀られた)。『社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇』四五年(機械的単純換算で紀元前二四五年)、一旦、対馬(旧称・津島)に『鎮まった後』、欽明天皇元(五四〇)年)六月一日、『現在地近くに移り鎮まったと伝える』。弘仁九(八一〇)年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間』(九九〇年~九九四年)には『一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載されておらず、国史にも現れない。年代が明確な史料では』、承安五(一一七五)年の『名古屋七寺蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる』。『東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より』千二百九十三『石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。津島市の市名はこの津島神社の門前町が発祥である』。『中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた』とある。
「思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう」この考察は非常に共感出来る。
「大和の三諸山(みもろやま)」三輪山の異名。
「小子部(ちひさこべ)」は、本来は少年を組織して宮門護衛・宮中雑務或いは雷神制圧を任務としたと思われる職掌集団(品部(しなべ))としての名「小子部」が元であろう。しかもこれは先に出た、雄略帝配下の武人(武族集団)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」との関係性が疑われているものである。]
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(附記)
『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある。『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである。
[やぶちゃん注:柳田國男先生、判りました。ここでこれだけ先生を批判しましたから、せめても次の電子化はその『昔話と文學』(昭和一三(一九三八)年創元社刊)の「うつぼ舟の王女」(『アサヒグラフ』昭和六(一九三一)年七月初出。判る通り、本「うつぼ舟の話」より後の発表で、この「附記」が「妹の力」(昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊)の際に附されたものであることが判る。「うつぼ舟の王女」は掲載誌で判る通り、三章から成るごく短いものである)、次に『海南小記』(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)と致しましょう。御約束致します。
なお、「虛舟の蠻女」の比較的新しい知見は「怪奇動画ファイル」のこちらがお勧めである。]