譚海 卷之三 宇佐奉幣使
宇佐奉幣使
○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、
かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを
[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]