譚海 卷之三 加茂祭
加茂祭
○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。
[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。
「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。
「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。
「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia
kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia
kazinoki)とカジノキ(Broussonetia
papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。
「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。
「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens。
「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。
「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。
「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。
「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。
「感賞」感心して褒め讃えること。
「御蔭山」下鴨神社の神体山。この二百七十一メートルのピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]