反古のうらがき 卷之一 燐火
○燐火
左門町の同心何某、いまだ公けに仕へざる時、近き在にありけり。
日永き頃は近き寺に行(ゆき)て、僧と圍棊(ゐご)して樂みける。夏の日の暑氣にも、松・檜(かや[やぶちゃん注:底本のルビ。])などしげみたる軒のもとに、二人さし向ひてくらすに、などかくるしと思ふことのあらん。身に差(さし)かゝる事もなき人は、圍棊程樂しきは、なかるべし。
或日、晝の程は暑氣甚しく、夕方より少し雲立(たち)て雨を催す樣なれば、日の落(おつ)るを見て家に歸りけり。
其路は十町餘りの野原にて、此所を過(すぐ)る頃は、一天、墨の如く陰りて、物のあいろも分たず、路のべの荻・萩・すゝき、いろいろの草の葉に涼風(すゞかぜ)の、
「さ。」
と、おとして、そよぐ樣、
『人の間近く來りたるか。』
とあやしまれて、すさまじく聞へなどするに、只獨り、心細くも步みけるが、あら恠しや、行手の路のまなかに、紅き絲の細さなる火の、長さ三尺計(ばかり)なるが、
「ひらひら。」
と燃上(もえあが)りたり。
おどろきながらも、よくよく見るに、又、此方(こなた)にも、彼方(かなた)にも、燃上りて、忽ちに消失(きえうせ)ぬ。
「これぞ、世にいふなる鬼火よ。」
と、身の毛、いよ立(たつ)て立(たつ)たるに、一風、烈しく落(おと)し來(きたつ)て、其風と共に、吾(われ)立(たて)る足元より、燃上る。
其(その)火影(ほかげ)にて、よくよく見れば、萩の露、
「はらはら。」
と落(おち)たる所より、燃上るなりけり。
「扨は、露の滴(したた)る所より、燃出(もえいづ)るよ。」
と、あなたこなたの萩・荻の枝、ふり動(うごか)して見てければ、果して、其下より、一つ、二つ、出(いで)けり。
其後(のち)は、又、さも、なし。
かゝる事、煙草、二、三ふく、のむが内にして、最早、見る事、なし。
但し、炎天の陽氣、地下に伏(ふく)し、夕方の陰氣に覆われて發散を得ず、その中に宇宙の氣は、皆、陰氣となりて、涼しくなり行(ゆく)のとき、地下の陽氣、一時に發散すれば、火と見ゆるなり。自然(おのづ)としめりて散(さん)すれば、見ることなく、水・露などそゝげば、一時に發して、火と見ゆるなりけり。
世にいふ、石灰に水をそそげば、火を出すといふもの、かの西洋のヱレキテルといへる物の理(ことわり)も同じ事なりけり。
此事、しりやすき理なれども、初(はじめ)て見ん人は、「いとあやし」と思ふべし、とて語りはべり。
[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。
「左門町」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『新宿区左門町。御先手組である諏訪左門がこの地を開いた。組与力十一騎、同心五〇人がいた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「いまだ公けに仕へざる時」の話であるが、それに続けて「近き在にありけり」というのだから、実はこの左門町から程遠くない在所、田舎にいたというのであろう。現在の新宿の東方辺りか。
「身に差(さし)かゝる事」身に差し迫った火急の出来事や、生活のために有意に自由が束縛されるような事態。
「十町」約一キロ九十一メートル。
「物のあいろ」「物の文色(あいろ)」「あやいろ」(綾色)の音変化。模様や物の様子であるが、まさに「もののあいろもわかたぬほどに暮れかかって」のように、多くの場合、後に打消しの語を伴って用いる。
「三尺」約九十一センチメートル。
「いよ立(たつ)て立(たつ)たるに」いよいよ、立って立って立ちまくっていたが。
「煙草、二、三ふく、のむが内」言わずもがなであるが、単に時間を譬えるのに用いただけで、主人公が悠々と煙草をふかしていたわけでは、無論、ない。
「但し、炎天の陽氣、地下に伏(ふく)し、夕方の陰氣に覆われて發散を得ず、その中に宇宙の氣は、皆、陰氣となりて、涼しくなり行(ゆく)のとき、地下の陽氣、一時に發散すれば、火と見ゆるなり。自然(おのづ)としめりて散(さん)すれば、見ることなく、水・露などそゝげば、一時に發して、火と見ゆるなりけり」ここで言っている陰陽のシステムや、ここでの陰火現象(話者は『しりやすき理なれども、初(はじめ)て見ん人は、「いとあやし」と思ふべし』と言っているが)を科学的に説明することは私には出来ない。何らかの、発光生物(昆虫の幼虫或いは菌類や細菌等)が関与した現象か。しかし、そもそもが「しりやすき理」を持ったものである(だから稀ではあるが発生するというのであろう)というなら、例えば、現代の誰彼が見ていて、それが今なら周知されていて、科学的に解明されている現象であろうに、私はここに記された奇体な発光現象は見たことも聴いたこともない。いやさ、この何某の訳知り顔の半可通の話こそが怪異だと言えると思う。
「石灰に水をそそげば、火を出す」生石灰(せいせっかい)=酸化カルシウム(CaO)は水と反応すると際に発熱して高温になる。その周りにあるものがそれで発火するのであって、石灰が燃えるわけではない。
「かの西洋のヱレキテルといへる物の理(ことわり)も同じ事」本邦の博物学者の草分けと言ってよい平賀源内(享保一三(一七二八)年頃~安永八(一七七九)年)は、安永五(一七七六)年に、かつて長崎で入手した「エレキテル」(摩擦式起電機)の修理に成功し、それをもとに模造品を製作、一時は評判となって、これを「硝子を以つて天火を呼び、病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験して喧伝した(但し、期待した後援者は得られなかったという。詳しい彼の事蹟は最近の私の「譚海 卷之二 平賀源内ヱレキテルを造る事」の注を参照されたい。なお、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、源内がエレキテルで一儲けを狙った七十二年も後であって、最早、「アーバン・レジェンド」の直近の噂話とは言えない昔の話のであったことが私には面白い。確かに「ヱレキテルといへる物」は実在した「物」であったし、それはちょっと西洋の知識をかじれば、論理的に腑に落ちる、しかし寧ろ、「エレキテル」の「電気療法」の噓の部分が「噂話」の性質を失わせてしまい、毛唐の操る電気という魔法によって「昔話」として蘇生し、別に巷間には生きていたとも言えるのかも知れない)。しかしね、これを、そう(現実世界の原理や論理で解明でき、十全に納得し得ること)だ、とは私は思いませんがねぇ? 何某さん!]