甲子夜話卷之五 15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事
5-15 林又三郞に、本多中書、人品を問ふ事
慶長中、林又三郞【道春の始名】浪人にて、始て神祖の二條御所に出たるとき、本多中書【忠勝】邂逅す。中書が曰。其もとの器量、天神と【天神とは菅相公を云】いかん。又三郞笑て不ㇾ答。中書御前に出て曰には、又三郞の器量天神とはいかんと問候に答不ㇾ申。其器量いかんと申上たれば、神祖も笑て答へ給はざりしと云。
■やぶちゃんの呟き
「林又三郞」「道春」朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。又三郎は通称、羅山も出家後の道春(どうしゅん)も号で、諱は信勝(のぶかつ)。ウィキの「林羅山」によれば、『京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる』。『幼少の頃から秀才として謳われ』、文禄四(一五九五)年、『京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること』を拒否し、慶長二(一五九七)年に『家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた』。『家に帰ってからは』、『もっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した』。『独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき』、慶長九(一六〇四)年に儒学者藤原惺窩(せいか:公家冷泉為純の三男であったが、家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原及び籐(とう)を公称した)『と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると』、『四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で五行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので』、翌慶長十年、『羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった』。『家康は、惺窩の勧めもあり、こののち』、『羅山を手元に置いていくこととした』。『羅山は才を認められ』、二十三『歳の若さで』、『家康のブレーンの一人となったのであ』ったとある(太字やぶちゃん)。この後は「朝日日本歴史人物事典」から引く。慶長一二(一六〇七)年、家康の『命により』、『剃髪して道春と改称。この自ら排する僧形を余儀なくされたことは』、『思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年』、『批判を受けることになる。もっとも家康は』、彼に「大坂の陣」の口実とするため、『名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど』、『博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって』、『羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く』、『専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。また、この頃、『清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され』、『家康はそれを退けたという逸話があるが』、『秀賢らとの親炙などから』、『史実としては疑問視されている。この間』、『盛んに駿府と京都を往復しながら』、『以心崇伝らと古記録謄写』・出版・集書など、『京の学問の復興に努めた。元和』二(一六一六)年の『家康没後は』、『駿河御譲本の分割に尽力』、同四年からは、『活動の中心を江戸に置き』、『和漢の古典を講じながら』、教訓的仮名草子である「三徳抄」「巵言抄(しげんしょう)」などを書いて』、『諸大名家の教育に腐心』した。その他にも、『中国怪談集』「怪談全書」や「徒然草」の注釈書「野槌」の『執筆など』、『多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること』が多くなり、『朝鮮・オランダ・シャムとの通信に当たりながら』、『政治顧問の地位に』就いた。寛永七(一六三〇)年には『上野忍岡の賜地に学校設立を開始し』、同九年に「先聖殿」を完成させた。同十二年には、『各法制を整備しつつ』、「武家諸法度」(寛永令)を制定、その後も「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」に着手したが、『その知識の源泉であった膨大な蔵書も』、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)から一月二十日(三月四日)に発生)で邸宅もろとも焼失させてしまい、その数日後の一月二十三日に没した。
「本多中書」「忠勝」徳川家康の功臣にして上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩十万石初代藩主であった本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、五十数回の戦いに出て、一度も傷を受けなかったという歴戦の勇者として知られる。彼の官位は従五位下・中務大輔で、「中書」は中務省の唐名。
「慶長中」「始て神祖の二條御所に出たるとき」先に引用で示した通り、ウィキの「林羅山」によれば慶長一〇(一六〇五)年である。
「曰」「いふ」。
「其もと」「そこもと」。貴殿。当時の忠勝は数え五十八であるのに対し、林又三郎(羅山)は未だ二十三歳である。
「天神」「菅相公」「といかん」「菅原道真公の才智と比べたら、どの程度のものだと自分では思うか?」。
「笑て不ㇾ答」「笑ひて、答へず」。
「問候に答不ㇾ申」「問ひ候ふに、答へ申さず」。
「其器量いかん」「あの若造の器量はどれほどど思われまするか?」。