反古のうらがき 卷之一 劒術
○劒術
米倉丹後守藩(やしき)に何の彌平太といへる者あり。予がしれる福田藤治兵衞(とうじべゑ)が弟なり。折々來(きた)ることありて、予も、これにて、相見(あひみ)たり。金澤の陣屋にありて、折々、江戶にも來れり。諸藩のならひにて、陣屋を守るは、罪ある人を謫(たく)せらるゝなり。
「彌平太が謫せられし罪は如何に。」
ととふに、同じ藩中に何某といふ劍術の師ありて、齡(よはひ)六十にも近く、主君もその教子(をしへご)也。藩中過半は其教へを受(うけ)て、主君の聞(きこ)へもよき人なりけり。
或日、同じ藩中に若き人々よりあふことありて、後に酒打飮(うちの)みて戲れけるが、何某も來れり。多くは教へ子のことなれば、上(かみ)くらに居(を)らしめ、尊敬、他(ほか)に越(こえ)たり。
彌平太は酒を使(つか)ふ病(やまひ)【さけのうへわるし】ありければ、一座、みな、厭(いと)ひて、とりはやす者も、少し。
よりて、酒の病(やまひ)、いよいよ起りて、座にある人を罵り、果(はて)には、
「劍術、吾に敵する者有(ある)べからず。何某は師範といへども、其術、吾にしかず。」
などいふこと、傍若無人なりければ、初(はじめ)の程こそ、其(その)いふに任せけれども、後には詞(ことば)、捨(すて)がたくて、終(つひ)に、
「何某と立合(たちあ)ふべし。」
といふことになりにたり。
彌平太は大の男の、年三十斗(ばかり)なるに、手足も肥大(こえふと)りて、つらかまち、にくさげなり。物いふ樣(さま)・こわね、怒り聲にて、罵るよふ[やぶちゃん注:ママ。]に聞ゆるが、常のさがなり。それが酒は被(かふむ)りたり、誰(た)れ憎まざる者もなし。
何某は龍鍾(しぼけ)たる老人の、筋骨こそ太けれ、肉落(にくおち)て、殊に背も少しくゞまりたるに、聲も低く、つゝしみ勝(がち)なる人なれば、これが勝(かつ)べしとは見へねども、世の常のならひにて、ほこる者はさまでのこともなくて、物にこゝろへたる人は、つゝしみ勝なる者なれば、かへりて賴もしく、
『何某こそ必(かならず)勝(かつ)べし。彌平太がほこり顏なる鼻、はぢきて、笑ひ辱しめたらんには、さこそ心よかりなん。』
と思ふ物から、人々、せちに勝負を望みけり。
何某は、
「おとなげなし。若氣(わかげ)なる人の、無益の爭ひし給ふことよ。某(それがし)、若かりつる時こそ人並なれ、今、老(おい)て物の用に立(たち)がたし。許し玉へ。」
といふ樣(さま)、いよいよ賴もしくてたふとく見ゆるに引替へて、彌平太が勝にのりて、
「さもありなん、何某を今二十斗(ばかり)若くして吾を相會(さうくわい)【たちあは】することの、今、はた、よしなきを恨み侍るなり。」
など、兎角に、にくさげなることのみいゝちらすに、人々、たまり敢へず、一つるへのしなへ、持出(もちい)で、
「せちに、せちに。」
とすゝめけるに、何某も、今は辭するに言葉もなく、
「人々の望みに任すなり。相かまへて年寄の勝負に心ありて人と爭ひ侍るなど、思ひ玉ふな。」
とて、座を立(たち)たる樣(さま)、又なく、尊(たつと)かりけり。
彌太は悔ゆる色もやと見るに、さはなくて、居ながらにして、大口あき、からからと笑ふ樣(やう)、
「古(いにしへ)より今にいたる迄、かゝるさまなる人の不覺を取らざるためしなし。見よや、見よや。」
とて、人々、立(たち)かゝり、しなへ打違(うちちが)へ、あたり取かたづけて、
「いで、いで、一勝負、見物せん。」
と、かたづをのんで、ひかへたり。
各(おのおの)身づくろひするまゝに寄合せて、しなひ取(とる)とひとしく、
「や。」
と聲かけて打合ふたり。
互に、しばらく、あらひてありけるが、彌平太、いらつて、打(うち)かゝるに、何某は其勢(いきほひ)にたまりあへず、思ひの外に打(うち)なやされて、
「あなや。」
と見るまに打伏(うちふせ)られ、あまつさへ、氣を取失(とりうしな)ひ、
「うん。」
といゝて[やぶちゃん注:ママ。]倒れふし、面(おもて)をや打(うた)れけん、鼻血、出(いで)て伏(ふし)にけり。
人々の、思ひの外なることなれば、
「いかに、いかに。」
と立(たち)さわぎ、各(おのおの)引分(ひきわけ)て座に付(つけ)しが、にがしが敷(しく)ぞみへける。
何某が子、此時、家に在(あり)けるが、これをきゝて、
「口惜しきことかな、吾、若年なれども、父が恥辱をすゝがずんば、生ける甲斐なし。是非、一勝負。」
とてかけ來(きた)る。
「すわ。事こそ起るらん。」
とて、人々、今更、悔(くひ)侍りけれども、甲斐なし。
此事、早く主君の耳に入(いり)、
「他流の勝負は各(おのおの)其師の禁制にて、公(おほやけ)にも、おきて、有る事を背き、終に大事に及ばんとするこそ曲事(くせごと)なれ。」
とて、各(おのおの)其(その)咎めありて、
「彌平太は、しばし遺恨の殘る人もあらん。」
と、扨こそ、金澤の陣屋へ遣しける也。
昔もかゝるためし多けれども、ほこる者は常に言甲斐(いふかひ)なく、つゝしみ深きが、かへりて心得あるとこそ、人々心得侍りつるに、今はさはなくて、させる覺(おぼえ)もなくて、只、つゝしめる方(はう)、人々の見付(みつけ)よしなど、巧(たくみ)に【みせかけよくする】望みを養ふ人ありて、無法の人に見さげらるゝを厭はず、大言、いゝちらし[やぶちゃん注:ママ。]、憎まるゝ者、かへりて思ふよりは覺あることもあること、世の人心(じんしん)のかわり行(ゆく)[やぶちゃん注:ママ。]ならひなれば、かたくなに古へを守りて一槪に論じがたし。
[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。
「米倉丹後守」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『武蔵金沢藩主、一万二千石。金沢(神奈川県)に陣屋があった』とある。陣屋なら、本領地であろうから、「謫」なのかなあと思いがちであるが、ウィキの「六浦藩」(武蔵金沢藩に同じ)によれば、『久良岐郡の一部(現在の神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現在の神奈川県平塚市・秦野市)などが含まれる。現在の横浜市内にあった唯一の藩である』。『金沢文庫で知られる久良岐郡金沢(かねさわ、かなざわ)近傍の六浦に陣屋を置いた』。『ただし、金沢文庫周辺の各村は当藩の所領ではなく、また』、『久良岐郡内よりも大住郡などの飛地の方が村数・石高ともに大きかった』とある。金沢六浦は景勝地ではあったが、所詮、田舎の漁村であり、そこに住む連中も領民であるわけでなし、そこでの陣屋の警固は、これ、誰もがやりたくない閑職であったものと考えられる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、ここに登場するのは、第七代藩主米倉昌寿(まさなが 寛政五(一七九三)年~文久三(一八六三)年)である。ウィキの「米倉昌寿」によれば、彼は丹波国福知山藩第八代藩主朽木昌綱(くつきまさつな)の三男であったが、文化九(一八一二)年に武蔵金沢藩第六代藩主『米倉昌俊が死去したため、その養子として家督を継いだ』。『一橋門番や馬場先門番、和田倉門番、田安門番、竹橋門番などを歴任し』、天保七(一八三六)年十一月に『大坂京橋口定番とな』ったが、天保九(一八三八)年)に『不手際を起こして処罰されている』。しかし、安政四(一八五七)年には『奏者番に就任』している。万延元(一八六〇)年に六男昌言(まさこと)に『家督を譲って隠居した』とある。
「福田藤治兵衞」不詳。
「これにて、相見(あひみ)たり」福田藤治兵衛の家で逢ったことがある。
「諸藩のならひにて、陣屋を守るは、罪ある人を謫(たく)せらるゝなり」ふ~ん、って感じがする。
「上(かみ)くら」「上坐(かみくら)」。上座。
「酒を使(つか)ふ病(やまひ)【さけのうへわるし】」酒癖が甚だ悪いのである。
「とりはやす者」相手をする者。
「つらかまち」「輔」「面框」で「つらがまち」。元来は顔で最も目立つところの「上下の顎の骨・頰骨」の意であったが、そこから「顔つき・面構え」の意となった。
「にくさげなり」「憎さ氣なり」。
「こわね」「聲音」。ものを言う際の声の調子。
「罵るよふ」「罵(ののし)る樣(やう)」。
「龍鍾(しぼけ)たる」「龍鍾」(音「リョウショウ」)は「落魄(おちぶ)れてやつれたさま」他に「失意のさま」「涙のほろほろと垂れるさま」「行き悩むさま」の意があるが、この場合、龍」も「鍾」も意味には関与せず、発音の響きを借りた擬態語であろうと考えられているようだ。「しぼける」という動詞は聴かないが、「しょぼくれた」の意であろう。
「老人の、筋骨こそ太けれ、肉落(にくおち)て」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。
「かへりて」却って。
「と思ふ物から」「物から」は形式名詞「もの」+格助詞「から」で、正規表現では「逆接の確定条件」であるが、近世の擬古文に於いて、誤って「順接の確定条件」(~なものだから)として使用された、その用法。
「某(それがし)、若かりつる時こそ人並なれ、今、老(おい)て物の用に立(たち)がたし」ここも「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。
といふ樣(さま)、いよいよ賴もしくてたふとく見ゆるに引替へて、彌平太が勝にのりて、
「よしなき」「何某」だけの時間を巻き戻して、若き日の彼と一試合する「方法がない」のは。
「一つるへのしなへ」これは「一(ひと)つるびのしなひ」で、「つるび」は「つるむ」で「連(つる)む」=「連れ立つ・二つの対象が一つになる」の意で「しなひ」は「竹刀(しない)」、則ち、「二本一組になった」試合用の「竹刀」の意ではなかろうか。
、持出(もちい)で、
「せちに、せちに。」「どうか、必ず、きっと勝負をなさって下され!」。
「相かまへて年寄の勝負に心ありて人と爭ひ侍るなど、思ひ玉ふな。」「どうか、くれぐれも、この年寄りが勝負に心が動いて、人と無益なる争いを致いたなどと、ゆめ、思いなさるるな。」。
「人々、立(たち)かゝり、しなへ打違(うちちが)へ、あたり取かたづけて」前後は試合見物をせんとする、場の若者たちのカット・バックであろうが、中間の「しなへ打違(うちちが)へ」が不審。取り敢えず、ここだけは見物人の動きではなく、彌平太と何某が互いの竹刀を合わせたシーンと採る。映像的にはそれは効果的ではあるが、しかし、直後の「各(おのおの)身づくろひするまゝに寄合せて、しなひ取(とる)とひとしく」というシーンとの矛盾が生じるようにも思われる。大方の御叱正を俟つ。
「人々、今更、悔(くひ)侍りけれども、甲斐なし」とあるからには、「何某が子」もこの酒乱弥平太の餌食となって打ち伏されてしまったものであろう。
此事、早く主君の耳に入(いり)、
「他流の勝負は各(おのおの)其師の禁制にて、公(おほやけ)にも、おきて、有る事」「おきて」は「掟」。秀人氏のブログ「時の旅人」の「江戸時代の道場事情」によれば(空欄が随所にあるが、そこには読点を挿入させて貰った)、『江戸時代の後期までは各流派の多くは他流試合を禁じていて、直心影流剣術でさえ、やむをえず立ち合うときは、「怪我をしても文句は言わない」旨の誓約書を相手に書かせた上、防具を使わず木刀で立ち合っていたそうです』。『しかし、寛政の改革を行った松平定信の武芸奨励策以降、徐々に他流試合が行われるようになり、男谷信友』(おたにのぶとも:直(じき)心影流(正式には鹿島神傳(かじましんでん)直心影流)男谷派を名乗った)『や伊庭秀業』(いばひでなり:心形(しんぎょう/しんけい)刀流八代目)『により積極的に広まったといわれています。但し、試合ルールや竹刀の長さの規定などが整備されていなかったので、大石神影流の大石進のように』五尺三寸(百五十九センチメートル)『もある竹刀を使用し、道場やぶりと称して各道場に挑み、名をあげようとする者も多くいました』とあるから、この「公(おほやけ)にも、おきて、有る事」という謂いは、やや不審ではある。しかし、酒の席での(しかも片方が酒癖の悪さで知られた者)、周囲の焚きつけられた末の形となったもので、剣術比べの試合とは見做されなかったということでは腑に落ちる。しかし、弥平太や何某及びその息子の処分は仕方がないとしても、騒いで焚きつけた周囲の若衆らも積極的な立派な障害助勢罪に相当するのであるから、相応の処分がなくてはだめである。「屹度叱り」なんぞで済ませたとしたら、ちょっと弥平太の処分とのバランスが悪い気がする。
「只、つゝしめる方、人々の見付(みつけ)よしなど」ただ、慎みを持った感じでいる方が、世間の人々の見た目に好ましく思われるから、などと。]